「……済まない。聞き取れなかった」
『何の精神世界だ? 自分が聞き逃しただけかもしれないと疑った紫音は、目の前で喜色を浮かべる女に反射的に問いかけた』
「……其方は誰だ?」
『質問に答えない女に、少々眉を顰めて別の質問を投げかけるが、思ったような返答は返ってこない』
「つまり、答えを返すつもりはないと」
『正解』
ビッと指を指してくる女に、呆れた表情で溜め息を吐く紫音。
どうにも面倒な女だ。真央霊術院にもこれだけ面倒な院生は居ない筈だ。それに姿も曖昧であるとなると、怪しいことこの上ない。更に、知らぬ場所に何時の間にやら居るというのだから、普通であれば不安で心臓が握りつぶされそうになるほど混乱してしまうだろう。
「精神世界、と言ったが本当にこれが私の精神世界なのか? もっと悶々としているものだと思っていたが」
『それは貴方の今の心境。その都度その都度で世界が変わるほど、この世界は揺るぎ易くありません』
「だが、折角ならもっと夢のようにあり得ない世界が良かったのだがな」
『御所望なら、お視せしましょう』
「……なんだと?」
パンパンッ、と二度手を叩く女。
次の瞬間、紫音の眼前には在り得ぬような光景が一瞬にして広がった。
先程まで湖と石柱だけの世界だった場所が、瞬く間に溶岩に呑み込まれて一面赤と黒に染め尽くされていく。肌と喉が焼けるような感覚を覚え、余りの熱さにじんわりと汗が身体中から噴き出してくる。
ああ、これはいかん。そう思うや否や、今度は溶岩がどこからかやって来た雪崩に呑み込まれていき、一面を銀世界に染め上げた。
成程。これは確かに夢でなければあり得ぬ光景だ。しかし、如何せん肌を突き刺す感覚が現実味を帯びている。
更に今の数秒の『夢』を見ている間、治まっていた筈の頭痛が再び―――。
「……止めてくれ。矢張り、夢もそうそう良いものではないな」
『当然。夢見心地で長い眠りについた後の起床に頭痛は付き物です』
「夢という言葉で表現するには生ぬるい光景だったがな」
『ならばなんと言います? まやかし? それとも幻?』
「さあな」
適当に返答する紫音は、元に戻った世界の中で、腰を下ろして周りを見渡す。溶岩も雪も無くなった世界だが、額から汗が流れ落ちるのを感じ取り、先程の幻に対して己の体が
『本当にその場に居た』ような感覚を覚えていたのだということを理解した。
暫し、背中にベタベタと着物が張り付く不快感を覚えつつ、ボーっとする。
『……楽しいです?』
「ここは誰の精神世界なのだ?」
『言った筈です。■■の精神世界だと』
「私や其方のではなさそうだな」
『何故?』
「其方の声は、私に囁いていた声とは大分違う」
『……くっくっく、よく聞いているのですね』
妖しく笑う女に、つられて紫音も笑ってしまう。
「其方は私の斬魄刀なのだな」
『ええ。名前を聞くつもりは?』
「まだない」
『何故?』
「刃禅を組んでいる時なら兎も角、こうして病床に伏している時にわざわざやって来るということは、ただ事ではないのだろう?」
『貴方が誑かされるやもしれない、と嫉妬で』
「私に似ているな。いや、当然か」
『ええ。嫉妬深いのに、やけに潔い。その上他人にちょっかいをかけるのが好きな貴方に……』
二人共、可笑しくてクツクツと笑い始める。
そんな二人に呼応して、湖の水面には波紋がいくつも浮かび上がった。綺麗に円を描いて広がっていく波紋に、思わず見とれてしまう紫音。
ああ、こんなにも静止した水場を見ることは初めてかもしれない。今の内に網膜に焼きつけておこうと、水面を凝視する。
すると背後から女がそっと紫音の首に腕を掛けてきた。
『貴方は此処が好きですか?』
「……何とも言えぬな。見て良かった、とは思っているが、どうにも恐ろしく感じてしまうのだ」
『それが正しい反応です。貴方以外がこの光景を見れば、恐ろしいばかりで足を竦ませるでしょう』
「……そうなのか?」
『ええ。見て良かった、と思うのは貴方だからこそ』
「……そうか」
自分の斬魄刀の言葉に、首を傾げつつも日和見に入る紫音。
瞼を閉じて、この精神世界とやらを堪能しようではないかと意気込む。
『どこから降り注いでいるのか分からない日差しは、初めてであるのにも拘わらず、どこか懐かしい気分になり得た。そして、先程まで吹いていなかった筈の風も、新鮮さの中に母の香りを感じた。これは残り香か? そう感じてしまうほど、漠然とした香りに―――』
「人の心中を読むな」
『私と貴方は一心同体。別に構わないでしょう』
「理由になっておらぬ」
流暢な口調で喋り始める女に、鼻を鳴らしながら止める様伝える。しかしそれを耳にした女は、寧ろもっと読んでやろうと意気込んで、紫音の心の中に指をそっと添え始めた。
(……? 何故私は心の中に指を添えられたと……)
『紫音』
「なんだ?」
『私の名を聞くつもりは本当にないの?』
「今この場ではな」
『白哉は名を聞いたというのに?』
「……私と白哉の歩みは違うからな。別にいいだろう」
白哉の話題を振られ、傍から見ても分かるようにシュンとした様子になる紫音。
だが、諦観しているような様子は見られない。自分は、などと自分自身を卑下しているようにも窺えない。
その様子にホッとした女は、主の首に掛けていた腕を上げて、そっと目に手を当てた。
「……なんのつもりだ」
『彼の弱いところを見ようとは思わない?』
「弱いところ?」
『ええ。天才と謳われる朽木家の麒麟児……そんな彼の弱かった時代を』
「……見れるものなら見てみたいな」
他人の弱かった姿を見て悦楽しようというほど、堕ちているつもりはない。
ただ、あの白哉が弱い姿を見せている様が想像できないのだ。朽木家の名に恥じぬよう、常に毅然と振る舞おうとする―――斬拳走鬼、どれにおいても一流の腕を誇る―――父や祖父を敬い、慕う朽木白哉の『弱い様』が。
『ならばお視せしましょう。現を夢にして―――』
しかし、スッと視界が闇に堕ちれば、あるものが見えてきた。
***
黒髪の幼子が仏壇の前に正座して泣きじゃくっている。わざわざ手に取って自身の前に置いたであろう遺影には、嫋やかな女性の姿が映っていた。
儚げな笑みを浮かべる女性。
その遺影を涙に埋もれそうになっている瞳で凝視する幼子は、袖で大粒の雫を拭いながら嗚咽を上げていた。
『母上ェ……ひっぐ……!』
何度も袖で涙を拭うも、溢れ出る悲しみは収まる事を知らない。
どれだけの時間であっただろうか。顔がぐしゃぐしゃになるまで泣きじゃくっていた幼子の後ろに、漸く一人の人物がやって来た。
『白哉』
『っ……父上!』
朽木蒼純。
白哉に良く似た風貌の男性が、足元に駆け寄ってくる幼子をそっと抱きしめる。父親の抱擁を受けた幼子は、未だに涙は収まらぬものの、嗚咽は止まった。
顔を真っ赤に晴れ上げさせた幼子は、優しい笑みを浮かべる蒼純の顔をジッと凝視する。
『父上、なぜ母上は先に逝かれてしまったのですか?』
『それはっ……』
『信恒が教えてくれました。母上は私を産んですぐに亡くなられたと』
自身の従者の名を出しながら、今は亡き母のことを口に出し、収まり始めた涙が再び溢れだす。
『私を産まなければ、母上はもっと長く生きられたのではないですか? 私が生まれなければ……』
『それは違う。白哉の母上は、白哉に会いたくてお前を産んだんだ。白哉は……祝福されて生まれてきたんだよ』
『っ……ひっぐ……』
『余り自分の為ばかりに泣くものじゃない。その涙はとっておきなさい』
『う゛っ……なんのために……?』
『……お前の傍に居てくれる誰かの為に―――』
***
『―――泣いているのですか?』
瞼を押さえる女の手。その隙間から一筋の涙が零れ落ち、湖へと落ちていく。
「……そっくりだ」
『何にでしょうか?』
「蒼純殿が、私の母に。やはり血は繋がっているということか」
しんみりとした雰囲気の中呟く紫音は、女の手を除けて、涙に濡れる瞳を露わにした。
水面を見下ろす彼の瞳には、得も言えぬ寂しさを懐かしむ様子が窺える。
「母上も、私によく自分の為ばかりに涙を流すものじゃないと言ってくれた」
『よく覚えていますね』
「ああ、自分でも驚いている」
驚いているようには見えませんが、とは口に出さない女。
何せ、紫音の斬魄刀なのだ。彼のことは良く分かっている。例え表情に出ていなくとも、心の中ではヒシヒシと思っていることなのだろうと、容易く予想はついた。
「……似た者同士、か。私と白哉は」
生まれる前に父を亡くした紫音。
生まれてすぐに母を失くした白哉。
どちらが悲劇的かなど、比べるつもりはない。ただ、肉親を失ったという点で似ていることを確認したかった。
『ですが、白哉にはまだ父が居ります。祖父も生きております』
「祖父は私も同じだろう。だが……羨ましいなぁ」
父も母も居なくなった自分にとって、まだ父が居る白哉が羨ましくてたまらない。
ツーっと再び涙が零れるが、それを女が手で拭ってくれる。切実な想いを吐露した紫音の目尻から涙は止めどなく溢れるのだ。何度拭えども、ポツリ、ポツリ、と。
何故か、無風であったこの空間に風が吹き荒び始める。
同時に静止していた水面には、無数の波紋が刻まれていく。幾重にも重なる波紋は、広がりながら水平線の彼方へ。
その時であった。湖が毒々しい紫紺色に染まっていったのは。
ぐつぐつと煮えたぎるように泡を浮かべる水面は、先程の幻想的な風景とは一変、地獄絵図であるかのように移り変わっていくではないか。
何事かと目を見開く紫音に対し、背後に佇んでいた女は、ある一点を指差す。
『あれを』
「……なんだ、あれは?」
『この世界の住人です』
女が指差す先では、毒沼のような場所から必死に這い出ようとする人影が見えた。毒で焼けたか、はたまた溶けたか。全身黒づくめの人影は、苦悶の声を上げながら石柱に昇ろうとしてくる。
しかし、全身濡れているが故に、何度も手を滑らせて毒沼へ堕ちていく。
「……住人にしては、随分住み心地が悪そうにしているな」
『それも致し方ないこと。そして彼こそが、今この状況を作る原因となっております』
「原因だと?」
『はい……紫音、単刀直入に訊きます。貴方はあれを助けますか?』
女の問いに、言葉を失う。苦しみもがく人影を助けに行けば、道連れにされることは目に見えていた。
あの沼に落ちたら、どのような苦痛が襲いかかってくるだろうか。それを考えるだけで足が竦む思いだ。
だが、それなのにも拘わらず、紫音は脳裏に『助ける』という選択肢を浮かべてしまった。このまま見過ごしても良かった筈なのに、何故そのような選択を―――。
こうしている間にも、人影はだんだん沼の底へ沈んでいく。早々に決断せねば、後味の悪い展開になることは容易に想像できた。
『見捨てますか?』
「……手を、貸してくれまいか?」
『構いませんよ』
振り向かずして、女に手を貸すよう要求する。
さほど嫌がっていない様子の女にホッと胸をなで下ろした紫音は、急に傾いている石柱を滑るよう下って行き、溺れる寸前の人影に手を伸ばす。
その際、自然ともう片方の腕は、後ろに居るであろう女へと伸ばしていた。会って一時間も経っていない筈の相手に、不用心な信頼だと笑われたような気もする。
「……掴まれ」
昔よりは筋肉もついた。人一人程度、訳ないだろうと気の抜けた想像をしながら、必死の形相をした人影が伸ばす手を取った。
刹那、世界が晴れていく。
「っ……!?」
『有難う』
「これは……」
一瞬にして、毒沼が下の澄んだ水へと変貌していく。足場の石柱は、砕けたかと思えば玉砂利へと細かくなり、先程よりかは幾分か安定した足場へと変わる。
遠くからは川のせせらぎが響いてくるも、周囲に満ちる濃霧によって、遠方を窺うことはできそうにない。
自然と女の方へと振り返った紫音は、今まさに己の手を取ってくれている女の方へ顔を向けた。すると、今迄靄がかかっていた姿の筈の女から、その靄が晴れているではないか。茶色の長髪をそよ風に靡かせる女は、白と紫が基調のファーコートを身に纏いながら、儚げな微笑みを浮かべている。
『貴方のお蔭で、靄が晴れました』
「はぁ。まやかしを立て続けに見せられて、頭が……ん?」
『頭痛はしないでしょう。もう』
「……ああ。不思議とすっきりした気分だ」
『ならば良かったです』
頭が晴れたような気分を覚えた紫音は、目の前の女に対して柔らかな笑みを浮かべる。
だが、次第にトロンと微睡んだ様子へ移り変わって行った。
「……眠いな」
『元より貴方が望んで此処にやって来た訳ではないのです。用が済み次第、貴方は現で目が覚める筈です』
「そう、か……」
『くっくっく……また今度相見える時は、私の声が貴方に届くと良いですね』
「そうだ、な―――」
紫音がガクンと頭を垂れた瞬間、その体は靄へと変貌し、瞬く間にこの世界から消え失せていった。
『……夢くらいは幸福を。それは人の願うこと。しかし
腕を突きのばす女。その掌に周囲を覆い尽くす濃霧が収束されていき、一本の槍が形成される。
それを手にした女は、大切そうに槍を腕の中に抱え、瞼を閉じた。
『瞞、幻、錯覚……全ての嘘の後には空虚しか残らない。そんな中で貴方は何を残していくのでしょうか? 個人的な話、私は……―――』
パチンと指を鳴らす女。
瞬く間に彼女の周りには可憐な花が咲き誇り、空からは燦々とした太陽の光が降り注ぐ。御伽話の一場面に出てきそうな、春風薫る陽気な世界。行楽でもしたくなるような世界で、彼女は槍を抱えたまま仰向けになって寝転ぶ。
夢のような世界で微睡むのは、“幸せ”だ。
***
紫音が起きたのは夕方だった。
夕日が赤く照っている時刻に漸く目を覚ました彼に、屋敷の者達は安堵した様子で息を吐く。寝起きで食欲のない紫音であったが、屋敷の者が『せめて』と作ってくれた梅粥は、するすると喉を通って行った。
腹の底がじんわりと熱くなる感覚。舌の上に広がる酸味
気付けばもうすぐ床に入る時刻だというのに、やけに目が覚めてしまった紫音は、私室の仏壇の前で息を飲んだ。
飾っていた父の形見である刀。
近くの蝋燭に火を灯せば、風でも吹いているかの如く揺らめくのが常であったが、今日に限っては蝋燭を灯しても一向に揺らめかない。
昔は
しかし、今になって怪奇現象が収まるのも気味が悪い。
そう思いながら、眠くなるまで本を読み漁ろうと机の前に座った。
だが、近くに立てかけていた浅打から、子守唄のような囁きが聞こえていると思っている内に、ぐっすりと深い眠りに落ちてしまっていたらしい。
それで気が付いた。
ああ……きっとあの人影は、父の斬魄刀の力の残滓だったのだろう
帰る場を失い、孤児となっていた力に手を差し伸べた。
あの時とった手が、父のものであったことを理解した瞬間、紫音は法悦とした笑みを浮かべるのであった。