初恋の女を友に盗られた。いや、元々自分のものでないことを鑑みれば、『盗られた』という表現は適当ではないだろう。
ただ、自分が狙いをつけていた宝石を後から盗られるのは気に喰わない。しかし、そうなるように発破をかけたのは自分であるのだから致し方ないと、留飲を下げた。自分が我慢した十年という月日に対しては、玉響の如き淡泊な最期であったと思う紫音。
一歩下がれば、また別の景色も見えてくる。
その時最高の女を侍らせたとしても、無限に等しい選択肢の内に過ぎない。緋真と生涯を共にするよりも、自分とって幸せな相手を見つけることができるのではなかろうか。楽観的に考える―――否、考えなければやるせなくなるのみ。
初恋は悲恋という形を、自分なりに終止符を打ったつもりだ。
これで後は白哉と緋真が結ばれて夫婦になれば一件落着なのだろうが、もし白哉がフラれたとしたならば笑いものである。散々喧嘩した挙句、結局はどちらも彼の女性の隣に立つことができなければ笑いしかでてこない。
しかしながら、それはもう白哉に任せることしかできない。背中を追い続ける者として、少し小走りして彼の背中を押してやろうではないか。その程度の気概は持っているつもりであるが、今は白哉と緋真の交際を見守る事しかできない為、手持無沙汰と言っても過言ではない状況だ。
『なんと告白すればよいのだろうか』と訊かれたが、『月が綺麗だなとでも言え』と伝えておいた。緋真が文学少女であったならばそれなりの答えはしてくれるだろうが、そうでなければ何の進歩はない筈。
「のんびり経過を見るしかあるまい」
「なんのですか?」
「青春劇を繰り広げる男女の仲をだ」
「……よく解りませんが、面倒事に関わっているということだけは理解しておきます」
「ああ、それでいい。私の春が終わり桜も散ったのだから、今は彼奴らの青春を見るしかあるまいな。伊勢殿、茶をもらうぞ」
「どうぞ、ご勝手に」
机に項垂れていた紫音は、七緒の持っているお盆の上に置いてあった湯呑を手に取って、中に満ちていた透明な緑青色の液体を口に含む。
「甘いな、玉露か?」
「ええ。浮竹隊長からの差し入れで京楽隊長に注いでくれるよう言われていたのですが、別に柊五席でも構わないでしょう」
「ウチの隊長殿は働かぬからな」
「ええ。仕事をさぼって疲れていないでしょうし、働いている隊士たちに配った方が有意義です」
「くっくっく、相変わらず毒のある言い様だな」
「毒があるように育てたのは何処のどなたでしょうね」
「さて、何処のどいつやら?」
十中八九、京楽のサボり癖で純真無垢であった七緒が毒のある言い方をするように育ったのだろう。いや、元々こういう素質があったのかもしれない。一部の人間には喜ばれそうだが、生憎紫音はそちらの気はない。
軽口を叩きながら徐に七緒の頭に手を乗せる。中性的な外見とはいえ、矢張り男。掌はそれなりに大きい。幾度となく刀を振るい、鬼道を放った掌はしなやかさの中にどこか無骨さを感じさせる。
「伊勢殿も大きくなったなあ」
「やめてください」
だが、即座にぺしっと叩かれ振り払われる。
「……京楽隊長殿ではないのだから、もう少し手加減してくれてもよいのではなかろうか?」
「すみません。柊五席が京楽隊長と雰囲気がよく似てらっしゃいますので、反射的に」
「どこら辺がだ?」
「全体的にですかね」
「あそこまで軽薄なつもりはないのだがな……」
遠慮ない物言いに流石の紫音も苦笑いだ。
紛れもないツン。だからこそ時折垣間見えるデレが映えるというものなのだが、ツンとデレの比率の内、ツンが圧倒的に多い。雰囲気が似ているという理由でツンの割合が大きいというのは、少しばかり理不尽なのではないのだろうか?
「まあ、今更だな」
「なんの話ですか?」
「気にしなくともよい。伊勢殿にはいつも通り居てくれた方が助かると思っただけだ」
「成程。私も、柊五席には真面目な部分だけいつも通り居てくれれば幸いです」
「それはいつも通りとは言わぬのではないか?」
「いつも真面目で居て下さいという意味です」
「くっくっく、肝に銘じておく」
唇に指を当ててクツクツと笑う紫音であったが、その様子に七緒は呆けた表情を浮かべる。なにか珍しいものでも目撃したかのような表情だが、特にこれといって珍しい行動をとった訳ではない。
何事かと紫音の笑いも止まるが、今度は七緒がやんわりと笑みを浮かべた。
「ふふっ、久し振りに柊五席が笑ったのを見た気がします」
「なに? 私は普段から笑っているつもりだが……」
「ここ数年、目が笑っていませんでしたよ?」
「……ほう」
「なにかあったんですか?」
「私は伊勢殿によく見られていたということか。それはそれで嬉しいものだな」
「なっ……は、はぐらかさないで下さいっ!」
紫音の言葉に、常日頃凛とした佇まいを崩さない七緒が取り乱した様子で否定し始める。このように取り乱すのは、まだ七緒が席官に入る前まではよく見られた光景であった。だが、席官入りが決定したことで、他の隊士たちに示しがつくようにと絶え間ない努力で、今の『デキる秘書』のような確固たる地位を獲得したのだ。
しかし、このように少し頬を紅潮させながら取り乱す姿も可愛らしい。
出来ればこのままずっと七緒が慌てふためいている姿を見ていたいが、それだと常日頃近くに常備している分厚い書物の角で殴られる為、揶揄うのもここまでにした方が得策。
「なあに。惚れていた女を盗られただけだ」
「は? でしたら、何故そんなに嬉しそうに……」
「私にも色々と事情があるのだ。それに、一つの恋が終わったということは、他の者達に目を向けることができると同義。伊勢殿、私の失恋の慰めに少しばかり戯れまいか?」
「結構です」
「……はぁ」
「な、なんですか? そんなに残念そうな顔をして駄目ですよ?」
あからさかまに眉尻を落とす紫音に、断った七緒も思わずたじろぐ。先程の嬉しそうな笑みとは一変、ここまで気を落とされるとなると流石に気が引けるというもの。
「あぁ、もう分かりました! 後でお酌くらいはしますから」
「かたじけない」
「本当にそう思っているんですかね……」
「美人にお酌された酒ほど旨いものはなかろう」
「はいはい。京楽隊長の受け売りですか?」
「ボクがどうかしたのかいィ?」
突然室内に響く声。反射的に二人が振り向いた方向には、少しばかり頬が紅潮している髭面のダンディな男が、ひょっこりと廊下から顔を覗かせていた。
外から流れてくる風に運ばれる少々の酒臭さ。それだけで七緒の額に青筋を立てるには十分の理由となり得る。わざと響かせるように強く足踏みして京楽に近付いた七緒は、胸元に覗く胸毛に躊躇うことなく胸倉を掴みあげた。
「ちょちょちょ、七緒ちゃん?」
「京楽隊長。お昼であるにも拘わらず飲酒とは、良い御身分でらっしゃいますね……」
「は、ははっ……そりゃボクは隊長だし、一応貴族だから―――」
「隊士に示しがつかないから、勤務中に飲酒しないで下さいとあれほどっ!!」
「ご、ゴメンよ七緒ちゃ~ん!」
凄まじい剣幕で捲し立てる七緒に畏怖を覚えて情けない声を上げる京楽。これが我らが隊の長と思うと、だんだん情けなくもなり、下の者達が頑張らなければと思うようになってくる。
これでも隊長の中では実力者なのだというのだから、日常の態度では力は計り知れないというものだ。尤も、総隊長の元柳斎は威厳も常日頃の行いも実力に比例している為、一概にどうこうは言えないが―――。
七緒の説教を聞き流しながらそのようなことを考えていた紫音。しかしそこへ、叱られて涙目になっている京楽が『そう言えば』と言うかのように袖から一枚の封書を取り出す。
「紫音君っ! キミに渡すよう預かってきたものが……っ!」
「京楽隊長! 聞いているんですかっ!?」
「まあまあ、伊勢殿。一先ずはその封書を預からせてはくれまいか。では、後はご自由に……」
「えぇ~!? それは殺生だよ、紫音く~ん!」
封書だけ預かって、京楽を再び七緒の説教へと戻らせる。七緒は毒があるものの、ここまで怒鳴り散らすことはさほどない。しかし、その分鬱憤が溜まった後の説教は、長ったらしく心に突き刺さる凶器へと変貌するのだ。
傍から見れば哀れみさえ覚える光景へと成り果てるが、京楽は普段の怠惰が原因。つまり自業自得であるが故、見ていてもさほど哀れには見えてこない。寧ろ『もっとやれ』と応援したくなる。
それだけ京楽の日々の怠惰への鬱憤が溜まっているということだ。
兎も角、自分宛てに書かれている封書を手に取り、早速中を確認すべく封を切った。中にはシンプルに白い和紙が一枚。これが美女の恋文であったらなという他愛のない妄想を思い浮かべながら、四つ折りとなっていた和紙を開く。
(……なに?)
見当もつかない内容が如何ほどのものかと思いながら目を走らせれば、予想だにしない内容が書かれているではないか。
暫し神妙な面持ちで文章に目を通す。打って変わって真面目な雰囲気を身に纏った紫音に、近くで説教をかましていた七緒と涙目の京楽が何事かと様子を窺いに来る。
「ええと、柊五席。差支えなければ、何が書かれているのか教えてくれないでしょうか?」
「相分かった」
「どうも」
口で説明するのではなく、見てもらった方が早いと和紙を手渡す。スッと受け取った七緒は、眼鏡の弦を指で押し上げながら達筆な文字で書かれた内容に目を通す。後の文章に目を通していく内に、次第に七緒の表情が険しくなっていく。
「鬼道衆に異動……ですか?」
「の、ようだ」
一難去ってまた一難、とでも言うべき状況か。
初恋に終止符を打ったかと思えば、今度は古巣に戻れという伝令。
「はぁ……一体全体どうしたのやら」
***
「―――という訳で、今度から鬼道衆に戻ることとなったのだ」
「……そうなのか」
柊邸のとある一室。そこで、以前の決闘以来顔を合わしていない白哉と二人で談話していた。緋真との仲の経過報告諸々で、色々とゆっくり話さなければならないことは多い。
しかし、いざ会ってみると話したところでそれほど時間がかかることがなかった。そこで、数十分だけ居座って帰らせるのも面倒な手間をかけさせたと悪い気分になる為、今もこうして会話しているのだが、
「だからといって私を引き戻す必要があるのやら。意外と手続が面倒なのだ。隠密機動のように護廷隊と直接のかかわりが深い訳でもない。鬼道衆も隠密機動や技術開発局のように、どこかの隊と併合されればよいものを……」
「……一理はあるな」
「大体、呼び戻すのであれば追い出すなと言いたいが、それを言い出した大鬼道長が痴呆で引退したとなれば憤りも感じることさえできぬ」
(痴呆で引退と……)
言い換えれば老いなのだろうが、『痴呆』で引退となると余り良い印象は受けない。
元々、野心が垣間見えるような老人ではあったものの、漸く長の座につけたと思ったら、約三十年の後に痴呆で引退。最早呆れしか感じない。
「だが、何故兄が呼び戻される? 人材であれば、鬼道衆で見つければよいだろう」
「それは私も思ったが、どうやら次期大鬼道長が『後進に』と私を呼び戻したいらしい。ほれ、これでも私は前大鬼道長殿に手ほどきで寵愛を受けていただろう。そんな男が今は護廷隊の五席だ。良い銘が付いたのだから、買戻したいというのが向こうの考えだろうに」
「銘……」
あけすけに己の予想を口にする紫音に、白哉も少々呆れた様子を見せる。
確かに、護廷隊の席官というのは良い銘だろう。なにせ、席官というのは一部隊二百名以上居る中の凡そ一割にしか与えられない名誉ある称号なのだから。
更に二桁ではなく一桁であるというところもポイントだ。数が少なければ少ない程、実力があるということ。実力主義の死神の世界ではかなり重要なポイントである。
大して鬼道衆では席官制度などは存在しない。大鬼道長や副鬼道長以外で言えば、仕事での責任者程度しか役職が残らないのだ。護廷隊や隠密機動に比べれば実力主義が緩やかな世界。年功序列とでも言おうか。とりあえず歳がいっている者が上の役職に就くといった、殺伐とした護廷隊とは一変、ほんわかした雰囲気の職場。その分、戦闘力が護廷隊に劣ることは言うまでもないだろう。
無論、救護部隊である四番隊に劣るという訳でもなく、条件が揃えば護廷隊最強と謳われる十一番隊にさえ勝てる人材がわんさか居る。と、言うのも、斬術至上主義がはびこっている護廷隊に対して、刀の扱いが拙い者達が集まるのが鬼道衆。接近戦では不利になること間違いなしだろうが、遠距離攻撃に関しては目を見張るものがある。何も考えず突っ込んでくる相手であれば、中級鬼道で迎撃すれば事済むことだ。
問題は、鬼道衆は歩法も苦手な者達が多い。故に、瞬歩ができて肉迫されればあっという間に不利な展開になるということ。
このように、得意不得意がはっきりしている鬼道衆において、万能型―――器用貧乏とも言えるが、斬拳走鬼バランスよく鍛えられている人材はほぼ皆無なのだ。つまり、自己評価が『少し鬼道が得意な席官』である紫音はこれに当てはまるということ。
大鬼道長が痴呆で引退するという若干不名誉な理由で人材が消えたとなれば、将来性のある優秀な人材を引き入れたいところ。そこで元鬼道衆の紫音に声が掛かったと言う訳だ。
「……まあ、兄がいいと思うのであればそれでよいのだろう」
「だからと言って、突然副鬼道長に抜擢されたところで困るのだがな」
「それだけ評価されていると思えばよかろう」
「そうか? くっくっく」
あからさまに嬉しそうににやける紫音。
その様子に無言となる白哉。
「……褒めて伸びる性格だと言ってもらおうか」
「まだ何も言っていない」
「どうせ、ちやほやされたいとしか思っておらぬと考えていたのだろう。其方には解らぬだろう、この気持ち」
「……解らぬ」
「ならば憐れんだような目で見るな。腹立たしいことこの上ない」
―――副鬼道長
名実共に一つの組織のトップ2に座すこととなった紫音。護廷隊で例えるのであれば副隊長と同格の地位なのだから、紫音にとっては嬉しいことこの上ないだろう。なにせ、白哉と並べるのだから。
ゆくゆくは鬼道衆を率いていく存在に育っていくのだと思うと感慨深いものがある。今度の大鬼道長がなにかしらの理由で引退でもすれば、後は自動的に繰り上げで紫音が長に就く確率が非常に高い。護廷隊と違い、大鬼道長に就く条件に卍解を会得するという項目も無い為、大鬼道長になるハードルは護廷隊長よりは低いのだ。問題は紫音の年齢。一組織を引っ張って行く為には少々若輩な気もするが、それは時間が解決する問題だろう。
そんなことを考えつつ、白哉は携えてきた風呂敷の中から一つの瓶を取り出す。
「……祝いに酒を持ってきた」
「おぉ、意外だな。其方が酒を持ってきてくれるとは」
「……酒には詳しくない故、信恒に勧められた物を持ってきた」
「成程。清家殿か」
朽木家の家臣である清家に勧められた酒を持ってきたという白哉。長年朽木家に仕えている家臣が進める一品というのだから、否応なしに期待の度合いは高まっていく。
『それでは、早速一杯……』と盃を取り出した紫音は、トクトクと漆塗りの盃に酒を注ぐ。注がれた液体がやけに色濃いことが気になるものの、そういう銘柄なのだと勝手に納得し、今度は白哉の分にもと酒を注ぐ。
「よし、それじゃあ盃を交わすか」
「……相分かった」
若干眉を顰める白哉。
そんな彼には構うことなく、ちびりと盃に口を付けた。瞬間、舌にビリッとした感覚が奔る。
「……白哉」
「……なんだ?」
「もしかしなくてもだが、これは薬膳酒か?」
「……恐らく」
「そういうことは先に言え。恐ろしく苦いぞ」
ゲテモノでも頬張ったかのような表情を浮かべる紫音の様子に、白哉は一瞬手に持った盃に口を付けるのを躊躇ったが、意を決して口に含む。
次の瞬間、彼の顔色は急激に悪くなり、真夏日の日中かと疑うほどの汗を噴き出しながら厠に向かって行く。
『良薬口に苦し』とは言うものの、苦過ぎるのも如何なものかと考えた日であった。