「其方は辛子煎餅が好きなのか」
「ああ。そう言う其方はどうなのだ?」
「嫌いじゃあない。ただ、何枚もバクバクと食べられる物でもない」
縁側に座りながら、唐辛子の粉末が塗りたくられて赤く染まっている煎餅を齧る白哉と紫音。白哉は辛い物を好む。一方紫音は、辛い物はそれほど嫌いでもないが、余りにも辛すぎるのは食べられないという至って普通の味覚の持ち主だ。
用意された煎餅の内、二枚程を食べた所で唇と舌がピリピリと痛み始める。思わず眉間に皺を寄せる紫音は、指に付いた煎餅のタレを舐めてから、湯呑を手に取って水出し煎茶を口に含む。辛い物を食べた後に熱々のお茶で追い打ちをかけるような真似はさせまいと、白哉が用意してくれたものだ。
朽木邸の縁側で談話する二人。
初めての邂逅を果たしてから早半年経ったが、歳が近いこともあって、親しくなるのにそう時間は掛からなかった。
歳が近い、同じ男であることから、普段は口にしないようなことも白哉は口にして、彼と談笑し合う。赤裸々な話をすることもあれば、意見の対立で少々いざこざもあったり―――。
だが、比較的仲睦まじい友人になれたことは確かだ。
「―――紫音。私は護廷隊に入るとすれば、六番隊に入りたいと思っている」
「其方らしいな。祖父の後を継ぐつもりか?」
「それもあるが、私は六番隊の掲げる隊花を気に入っている」
「成程。隊色を以てして、入る隊を選ぶと」
将来入隊する隊はどれかを語り合う。
白哉の望む隊は六番隊で、掲げる隊花は『椿。花言葉は『高潔な理性』。掟を重んじなければならない四大貴族の跡取りに似合う花言葉だ。
「其方はどの隊に入るのだ?」
「私か? 私は……まだ決めていないな」
「そうか。まあ、すぐに決めなければならぬ事でもない。じっくりと考えればよいだろうな」
まだ霊術院にも入っていないのに、些か早計ではないか?
そう訴えるかのような紫音の仕草に、白哉はあっけらかんとした態度で返事をする。それから湯呑に入っている茶をグビグビと喉を鳴らして飲み干した後は、近くに立てかけていた木刀を二本手に取って、片方を紫音に手渡した。
「よし、続きをするぞ!」
「はぁ……私は剣の類いは苦手なのだがな」
「案ずるな。私が手取り足取り教えてやろう」
溜め息を吐いて木刀を握る紫音に対し、白哉は得意げな笑みを浮かべながら木刀を構える。普段から木刀を振るって鍛錬している白哉に対し、紫音はその華奢な体つきを見れば分かる通り、力を使う類いのことは得意ではない。
今迄競う相手が居なく、漸く腹を割って話せるような友人が出来て、共に鍛錬できると意気込むのは構わないが、もう少し自重してほしいというのが紫音の本心だ。
木刀を構えて睨みあう二人―――であったが、ふと何かに気が付いた紫音が目を見開く。
何事かと訝しげな表情を浮かべる白哉。次の瞬間、首元に柔らかな弾力が当てられる。水風船のように弾力のある物体を首に当てられた白哉は、すぐさまその正体に気付いて額に青筋を立てた。
「また来たか、化け猫めッ!」
「ふはははっ! 白哉坊、お主が他人に剣術を教授するなど百年早いわ!」
背後に勢いよく木刀を振るう白哉であったが、柔らかい物体―――もとい、豊満な胸の持ち主である夜一は、軽快な身のこなしで白哉の一閃を回避する。
またか、と息を吐く紫音は、木刀を握る手の力を緩めた。
紫音が朽木邸を訪れて白哉と共に居る時、夜一がからかいに来ることは一度や二度の話ではなかったのだ。ほぼ毎回のペースでやって来る彼女は、本当に仕事をしているのかと気になってしまう。護廷十三隊二番隊隊長と隠密機動総司令官、二足の草鞋を履いている彼女に、こう何回もちょっかいを出しに来る暇はない筈だが、
「遅い遅い! 太刀筋が止まって見えるぞ!」
「おのれェ!!」
あの身のこなし、流石は“瞬神”を名乗るだけはあるか。
下手な死神よりも優れている白哉の剣術を以てしても、夜一の体を掠めることはできない。
夜一は暫し避け続け、白哉が汗をダラダラと流して息を切らしたのを見計らい、バク転で朽木邸に生えている木によじ登り、ぶら下がりながら茫然と眺めていた紫音と顔を合わせる。
拳一つ分程までに顔を近寄せる夜一であったが、紫音は一切動揺した様子を見せずに『お久し振りです』と微笑を浮かべた。
中々肝が据わっている。将来が楽しみだと笑う夜一は、『そうじゃ』と指を立てる。
「紫音坊。お主、剣が苦手と言ったな?」
「はい。なにせ、力が無いものですから」
「うむう、隠密機動にでも誘おうと思ったが、そういう類いも苦手そうじゃな」
「歩法は兎も角、白打も苦手かもしれませんね」
「ならば四番隊……お、そうじゃ! 鬼道衆はどうじゃ? あそこは剣術が上手くない……と言うより、そもそも斬魄刀を持っておらぬ者が多いからのう。お主にピッタリではないか?」
「私を……置いて……話を……進めるな、夜一ッ!」
紫音にお勧めの隊や組織を進める夜一に、息が少しだけ整ってきた白哉はここぞとばかりに声を荒げる。
しかし、夜一の提案に紫音は案外乗り気であるようだ。『そうですか……』と顎に手を当てて考え込む。
隠密機動同様、護廷十三隊から独立している組織の一つである“鬼道衆”。文字通り、“鬼道”を得意とする者達が集う組織だ。現世において強力な虚が出現した際、周囲に被害が及ばぬように空間凍結の術式を執り行うのも、専ら鬼道衆の仕事。
護廷十三隊とは切っても切れぬ間柄であるが、霊術院生の間では護廷隊入隊希望者の方が多く、若干人手が足りないのが現実だ。
「どうじゃ? 折角なら、今からでも鬼道を極められるよう、打ってつけの人物を紹介するが……」
「それは嬉しい限り。是非、夜一殿の厚意に甘えたく存じます」
「おお、そうか! ならば、儂から今度其奴に伝えておく!」
嬉しそうに笑みを浮かべる夜一は、『白哉坊と違って素直じゃのう』と一言いらぬ言葉を吐いてから、ピョンと地面に飛び降りる。
すると徐に紫音の体をベタベタと触り始めた。
「しかし、流石にこれは貧弱じゃのう。もっと筋肉をつけい!」
「そう仰られても……」
「飯をたらふく食って鍛錬せい! さすれば、すぐにでも儂のようになれるぞ! そのままじゃ女子のようじゃぞ、紫音坊!」
どちらかと言えばグラマラス体形である夜一に『自分のようになれる』と言われてもピンとこない紫音は、愛想笑いを浮かべて『そうですか』と答える。
すると、高らかに笑っている夜一の背後に瞬歩で肉迫した白哉が、隙ありと言わんばかりに木刀を縦に振るう。しかしあえなく躱され、夜一は何時の間にやら屋敷の屋根の上へ腰を下ろしていた。
「ふはははっ、残念じゃったな!」
「ふんッ! 紫音を誑かす化け猫を追い払うにはそれで充分だ! 紫音……私が居る限り、其方が一つの技術だけに甘んじる様な真似は許さぬぞ!」
ガッと肩を掴まれた紫音は、思わず瞠目して白哉の真摯な眼差しを向けてくる顔を見つめる。
「……何故だ?」
「張り合いがないッ!」
「……時折、身勝手と言われぬか?」
「競う相手に張り合いを求めるのは間違っているか?」
「……地力が違うであろう相手に張り合いを求めるのは間違っていると思うが」
「むうっ……力を付けた方が其方の将来の為だ! 違うか!?」
何故白哉はこうも必死になっているのだろう。
その理由がいまいちはっきりとしない紫音は、呆れたような顔で『そうかそうか』と適当に返事をする。
(天才と凡人を比べないで欲しいな、まったく)
本人が自覚しているかどうかは知らないが、白哉は所謂“天才”に分類される人物だろう。元より持ち合わせている霊力然り、剣術の腕然り。
そんな天才に張り合いを求められる凡人の気持ちを考えたことはあるのだろうか。嫌味の一つでも言いたい気分になる。
(『仲良く』などと、わざわざ私に頼むことでもないでしょうに)
こちらの気苦労を銀嶺に知ってもらいたいものだ、と考える紫音はフンと鼻を鳴らす。
そんな紫音の心情はいざ知らず、白哉は未だに夜一とガミガミと言い合っている。
白哉は非常に良い友だ。
だが、親友と呼ぶにはまだ足りない。尸魂界に住む魂魄全般に言えることだが、生きる年月が現世に住まう人間よりも長い為、相対的に必要とする年月が増えているのかもしれない。
(いいや、違う。白哉……其方は私にとって疎ましい)
紫音だけが感じている微妙な距離感。
それは、知っている者と知らない者の間に存在する、埋め難い溝でもあり―――。
(……嫉妬か)
父という存在を知らない者と知る者の溝であった。
***
「ミィ~」
「ん?」
朽木邸を後にした紫音は、途中の茶屋を通りすぎた所でとあるものを見つけた。
二匹の子猫。全身真っ白な体毛の子猫が一匹と、全身真っ黒な体毛の子猫が一匹だ。何かを強請る様に、紫音が穿いている袴の裾に縋りついてくる。
「ほう。愛いヤツ等だ」
腰を下ろして子猫の首元を擽るように撫でる。
気持ちよさそうに目をウットリとさせる子猫たちに、思わず紫音の顔も緩む。
「貴族のお坊ちゃん」
「む? 私のことか?」
「ええ。その猫たちは最近ここの辺りをうろちょろしてる奴等でしてね。良い匂いがする死神やら貴族の人達に餌をねだってるんですよ」
すぐ近くの茶屋から顔を出した店主が、紫音が撫でている子猫たちのことについて語る。
成程。御香を焚く余裕のある死神や貴族であれば、自分らの腹を満たせるような餌を買い与えてくれるだろうと考えているのか。中々強かな子猫たちだと、紫音も感心した面持ちで子猫たちを撫で続ける。
「だが済まぬ。生憎持ち合わせがないのでな」
「お坊ちゃん。ウチじゃ、猫にも食わせてあげられる食いモンを売ってるんですが、どうですか?」
「……ほう。成程成程。この子猫たちは招き猫ということか」
「ええ」
よく出来た商売だ。
特に女性の者であれば、思わず近くに茶屋で何かを買って子猫たちに餌を与えたくなる筈だ。
人を悩殺するような仕草や潤んだ瞳。これに心打たれぬ者は少なくないだろう。
「……私も愛いモノには弱いな。その食い物とやらを頼む」
「へへっ、分かりました。少々お待ちを」
裾に縋りつく二匹の子猫をスッと持ち上げながら、そのまま茶屋の椅子に座る。徐に子猫を膝の上に置けば、今度は襟元に手を掛けてくる子猫。
ふわふわの毛並を撫でつつ、茶屋の店主が持ってくる食べ物を受け取り、懐にしまっていたがま口財布から何環か手渡す。
そして、子猫たちが待ちかねていた餌を食べさせる時がやって来た。
茹でられたささみを細かく千切り、掌に乗せて子猫たちに食べさせる。二匹同時にささみを求めて掌に顔を寄せてくるが、掌に伝わる舌の感触に顔を綻ばせた。
「ほれ、まだ欲しいか? ん?」
千切ったささみを手に取って、子猫たちの前にチラつかせる。
すると子猫たちはささみを求めてピョンピョンと膝の上で跳ねつづけた。それが滑稽で、尚且つ愛くるしくて、与えてはチラつかせ、与えてはチラつかせを何度も繰り返す。
傍から見れば、一枚の絵になりそうなほどに様となっている光景。
近くを通る者達は、子猫と戯れる麗しい容姿の少年(見た者のほとんどは紫音を女だと勘違いしているが)の光景を微笑ましく眺めていた。
しかし、例外とは付き物で―――。
「……先程から何度も振り向いてどうなされた?」
「っ……!」
背後から感じる視線に気が付いた紫音は、子猫に視線を落としたまま問いかけてみる。
『気が付いていたのか』とでも言うように息を飲む音が聞こえてくるが、途端にモッチャモッチャと団子を噛み締める音が聞こえてきた。
「成程。普段からこの子猫と戯れていたが、私が戯れているばかりに邪魔者が退けるまで其処で時間を潰して……と言ったところか。遠慮せずとも良いのに」
「……ふんっ、貴様の所為でいらぬ団子を何本食したことか」
足音が近づいてくる。声色から察するに、どうやら女性のようだ。
振り返れば、おかっぱ頭の華奢な少女のような外見の女性が居た。厳格そうな口調と、女物の羽織の下からチラリと覗く死覇装―――否、刑軍装束から只者ではないことは理解できる。刑軍は、隠密機動の第一分隊。隠密機動の中でもエリートしか入れない部隊だ。
不満そうに眉を顰めて団子を頬張っているが、中々可愛らしい顔立ちの女性だ。
結構な時間、団子を食べて紫音の帰りを待っていたらしい為、紫音はやんわりとした笑みを浮かべて『済まぬ』と一言告げた。
すると女性は、フンと鼻を鳴らした後に紫音の横へと座り込む。
「黒い猫の方を貸せ」
「黒猫が好きなのか?」
「どうでもよいだろう」
「まだささみが余っている。良ければ分けるが……」
紫音の申し出に、女性はハッと顔を上げる。そうしている間にも、普段から可愛がられているらしい黒猫の方は、女性の膝の上でゴロゴロと寝転ぶ。
愛らしい子猫におやつをあげたい。時間を潰すために必要以上に食べた団子の所為で、財布に残っている残金が少ない。
ここは目の前に座っている物の厚意に甘えたいが、何かに悩んでいるのか『ぐぬぬ……』と歯を食い縛って悩んでいる。
「……いらぬなら、残りの分はこの白猫の方に―――」
「待て、黒猫が可哀相だろう! そのささみを寄越せ!」
バッと手を差し出す女性に、『最初から素直になれば』と呟きながら、紫音は残ったささみの半分を手渡す。
すると、先程とは打って変わった蕩けた表情の女性が、黒猫に対して餌を与え始める。足繁くこの店に通い、子猫たちと戯れているのだろう。かなり手慣れた様子だ。
暫し、子猫のにゃあにゃあという鳴き声で鼓膜を癒していると、ささみを与え終わった女性が『ふぅ』と満足そうに息を吐く。
「猫が好きなのか?」
「あぁ。この奔放さが堪らぬ」
子猫を両手で抱き上げる女性は、幾分か気分が良くなっているのか、赤の他人である紫音に嬉々とした表情で応答する。
そうしている間に、ポフッと柔らかい肉球による猫パンチを額に受ける女性。
その光景に思わず紫音は噴き出した。
「くくっ、その黒猫は夜一殿のように悪戯っ子のようだ」
「むっ? 夜一様を知っているのか?」
「知っているも何も、何度か話したことがある。当主という立場に縛られぬ奔放さは、一種の憧憬すら抱く」
「ふんっ、小娘にしては良く分かっているではないか」
「……私は男だ」
「……なに?」
男と告げる紫音の方へ顔を向け、サッと全身を見渡す。
「それで男か。恥を知れ」
「これは厳しい言葉だな」
「軟弱な男は夜一様を語る資格などない」
随分と厳しい言葉を口にする女性であるが、その両手が握っているのは子猫の前足だ。まるで万歳をしているかのように子猫の前足を掲げる女性は、恐らく軽口程度で今のことの口にしたのだろう。そうでなければ、生来の毒舌家かと疑いたくなる口のキツさだ。
どうやら夜一を慕っているらしい刑軍の女性の言葉に、『ふむ……』と顎に手を当てて思慮を巡らす紫音。
「そうか。矢張り男は体を鍛えた方がいいのか」
「無論だ。私は口だけの無能な穀潰しが嫌いなのだ」
「成程。ならば、其方の言う無能な穀潰しにならぬよう、体を鍛えるとするか」
「ふんっ、口だけでなければよいのだがな」
「そうならぬよう、早々に家に帰ってとりかかることにしよう。ほれ」
お腹が一杯になって膝の上でウトウトとしていた子猫を抱き上げて女性に手渡す紫音。手渡される子猫を嬉しそうに受け取る女性であったが、『白も捨て難いが、矢張り黒が……』とブツブツ呟き始める。
既に紫音のことなど眼中に入らなくなった女性の姿を見て、踵を返して颯爽と茶屋から去って行く。
「……そう言えばあの小僧、朽木の倅に顔が似ていたな」
子猫を二匹同時に撫でる女性―――砕蜂は、去って行った少年を、主君がよくちょっかいを掛けに行く家の跡取りの面影と重ねるのであった。
***
「父上。今日もまた、白哉の下に赴きました」
夜の帳が下りて静寂が当たりを包み込んだ時刻、仏壇の前で正座する紫音は、一本の刀に語りかけていた。
代々の柊家の当主の遺影が並ぶ仏壇―――ではなく、私室にひっそりと奉られている刀だ。抜身で飾られている刀の刀身は、日々の手入れが行き届いている証拠に、近くで点っている蝋燭の火の光を美しく反射している。
「父上は、私と白哉が手を取り合うことを良しとなされませんでしょうか? 銀嶺の血を引く孫の存在を良しとなされませんでしょうか?」
返答はない。
だが、それも当たり前かもしれないと紫音は息を吐く。
「ですが……私も銀嶺殿の孫。朽木の血を引く者です。血の因果は断てません。何より私は、父上を愛した母上の血を引いていることを、誇りに思っております」
心臓の辺りに手を当て、妖しく艶やかな笑みを浮かべる。
「私は私なりの誇りを抱いて道を進みましょう」
告げるのは、父親と決別する為の言葉であった。