紫煙を薫らす   作:柴猫侍

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十六話

 

「なに? 蒼純殿が副隊長を引退だと?」

「……ああ」

 

 意外な事実に驚きの声を上げる紫音。

 ここは柊家の一室。休日が重なった二人は、近況報告がてらに小さな盃へ梅酒を注いで呑んでいた。

 そこで語られたのは、白哉の父であり紫音の叔父である蒼純の引退だ。

 

「疾病の発作がひどいらしい。これを機に護廷隊を引退して隠居すると口にしている」

「隠居となると、家督は継がぬのか?」

「……爺様が当主から身を引いたときには、私に、と……」

 

 どこか複雑そうな面持ちを浮かべる白哉に、紫音も困ったように眉を顰める。

 父親の体調が優れないのは勿論、いずれ任されるであろう当主としての責任の重さを身に染みて感じているのだろうか。

 そして近い内に白哉は副隊長に任命される筈。となれば、隊長の補佐としての責任も負わなければならない分、色々気負ってしまうのも無理はない。一応、隊長に与えられている“副隊長任命権”に対を為すように“着任拒否権”が隊士には認められている。

 

 だが、この頑固で真面目な友は断ることがないだろう。

 

「まあ、色々と思うところもあるだろう。しかし、案ずるよりも産むが易し。為るように為ればよいだろうに」

「……そういうものか?」

「若くして当主となった私が言うのだ」

「……そう言えばそうであったな」

 

 思い返せば、確かに紫音は二十年以上も前に当主となった男。

 まだまだ少年の時期であった彼が当主となった際の重責は推し量ることができないだろう。

 上には上が居る。そんなことを思った白哉は、一先ず目の前の友よりは大丈夫だと安堵の息を漏らす。

 

 やや酒気の混じった吐息を漏らす白哉の向かい側では、まだまだ飲み足りないといった様子の紫音が梅酒を盃に注ぎ続ける。自分の分を終えれば、次は白哉に―――と手を動かしたものの、『もういい』と言わんばかりに掌を突きだされた。

 まだ飲み足りない紫音としてはもう少し呑ませたいところだが、酒の強くないものに執拗に勧めるのは粋ではない。何時ぞやの飲み会で京楽が口にしていたことを思い出しながら、注ごうと傾けた徳利を垂直に持ち直す。

 

「……して、卍解の修練はどうだ? 順調か?」

「……屈服までもう少しだ。数年以内には会得してみせよう」

「それは楽しみだ。だが、使いこなすにも十年は必要らしい。くっくっく、乾く暇がなくてよいではないか」

「兄も卍解を会得して、共に修練するのはどうだ?」

 

 酔いが回って、普段よりは饒舌な白哉が一つ提案してきた。

 

「馬鹿を言うな。千本桜の卍解などという末恐ろしいのと相対すのは遠慮しておこう」

「……そうか」

「冗談だ。一度剣を交えて、具合を確認してみよう」

「あい分かった」

 

 凄まじく分かり辛いが、今の白哉の声色には嬉々が含まれていた。

 と言っても、卍解の会得自体並大抵の難度ではない。才ある者でも十年はかかる卍解の会得。主に、『具象化』と『屈服』の内の前者が難しいと謳われているが―――。

 

(普段から幻覚で横に居る故、パッとせぬな)

 

 始解とは違い、斬魄刀を精神世界ではなく此方側に呼び寄せるのが『具象化』。しかし、今言ったように幻覚で普段から寄り添われている紫音からすれば、さほど変わりはないのではないかという安易な考えが浮かんでくる。

 だが、それほど容易いものではないという分別はついているつもりだ。

 白哉でも始解の会得から二十年以上経ってまだなのだから、自分となれば五十年―――否、百年以上かかるのではないだろうか。そもそも習得できないという可能性もある。

 

(だが始解はできたのだから案外できるやもしれぬ)

 

 しかし、結構楽観的なのもこの男。

 

 死神の寿命は長い。長い目で見れば『いつかは』という希望的観測を抱くのは、当然と言えば当然かもしれない。更に言ってしまえば、卍解を会得すること自体が尸魂界の歴史に残るほど大変名誉なことである為、分家の当主として将来は安泰になる筈。宗家も鼻が高いことだろうから、周囲からの評判もよろしくなり、良い女性とも―――などと、桃色一色な考えが脳裏を過る。酒を飲んでいるのだ。今はしょうがないことにしておこう。

 

「……兄も京楽隊長に毒されたな」

「なんだと?」

「……いや、なんでもない」

 

 どこか呆れた様子の友の呟き。

 妄想に耽っていたが故にはっきりとは聞こえなかったが、大したことでもなさそうなので、紫音は深くは訊くまいと考えるのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 翌日、紫音は上官や部下達と共に、出撃要請のあった南流魂街へと出向いていた。巨大虚が一体に、他四体程。ここ最近では一番手応えのあったような戦いであったが、特にこれといって死者が出るということは起こらなかった。

 寧ろ、虚が暴れた地区の建物への被害が大きい。平屋が幾つも潰れている様は、元々そこに住んでいた者達からすれば目を覆いたくなるような光景だろう。

 

(だがまあ、鬼籍に入るようなことにならなかった者が居なかっただけマシとしよう)

 

 『鬼籍に入る』―――つまり死ぬということだが、あれだけの虚が暴れて死者がでなかったことは奇跡といえよう。だが、怪我人が全くでなかった訳ではない。

 虚の駆逐が終了し、今は救護・治療専門の四番隊待ちだ。元々戦闘を行う部隊ではないが故、こうして他の隊に比べると現場への到着も遅れる。その為、彼らが来る前に虚を駆逐するというのが護廷隊の中ではセオリーとなっていたりなっていなかったり。

 

 だが、専門ではない護廷隊も霊術院では応急処置のみならず、得意な者は回道を習得している。虚によって刻まれた傷の処置法は心得ているのだ。

 よって現在は、元鬼道衆であり回道を得意とする紫音を中心に、怪我人の治療にあたっている。

 今も、左腕に大きな裂傷が刻み込まれている男性を治療しているところだ。

 淡い緑色の光が腕を包み込み、次第に傷が塞がっていく。失った血まで戻る事はないものの、これで失血死することは免れるだろう。

 

「ふぅ……一先ずは終わりましたが、痛みは?」

「あぁ、ありがとうございます。大分楽になりました」

「左様ですか。では、私は他の怪我人の下へ行きます故。もし以後具合が悪くなったのであれば、後に到着する救護部隊に申し付けるようお願い致します」

 

 軽く一礼し、颯爽と男性の前から立ち去る。

 辺りを見渡し、他に怪我人が居ないかを確認し始めた紫音であったが―――。

 

「あ、あのう……っ」

「む? どうかし―――」

 

 背後から女性の声が聞こえ、怪我人が居るのかと考えて振り返った紫音は、思わず言葉を失った。

 

(……綺麗だ)

 

 肩にかかるセミロングの黒髪は、漆で塗られたかのように艶を放っている。そして此方を見つめる双眸は、紫水晶のような色と光沢を有しており、見れば見るほどその宝石のような瞳に吸い込まれそうになった。

 淡い桃色の唇は薄いものの、瑞々しさを失ってはいない。吐息で濡れたであろう唇は、薄く開いたままだ。

 決して肉付きはよくないが、彼女の姿は彼の“大和撫子”を思わせるような清楚な美しさを感じさせる。

 

 普段なら、これほどの美女を前にすれば微笑みの一つでも浮かべたであろう紫音であっても、思わずそれを忘れて茫然と立ち尽くしてしまうほど。己では気付かなかったが、頬はかなり紅潮していた。

 

「申し訳ございません、死神様。向こうの方に傷ついた御方が居られます。是非、お力を……!」

「あ……あぁ。あい分かった。案内してくれ」

 

 思い返せば、随分と初心な反応だったと思う。

 美人を前にして上手く出てこない子供のような反応だ。恰好がついていない態度を次第に自覚していく紫音は、『此方です』と息を切らしながら駆けていく女性の後を追う。

 その間、漂ってくる女性の甘い上品な香りに、終始鼓動を高鳴らせる。

 京楽に遊郭まで連れて行ってもらった時でもこうはならなかった。なのに、一体どうして―――。

 

(調子が狂う……)

「死神様、この御方です」

「ふむ。この御老体か」

「おぉ……緋真さん、わざわざ済まないねぇ」

「いいえ。いつもお世話になっています。このくらいのことは……」

(成程、『ひさな』という名前なのか)

 

 緋真と呼ばれた女性の下に連れられてやってきたのは、一見どこも怪我をしていないように窺える老婆だ。女性の名前を胸に刻み込みながら、老婆がどこを怪我しているのかをしっかり確認していく。

 

「……御老体。一体何処を怪我なされて?」

 

 しかし、掌を少し擦りむいた以外は、大して怪我をしていない。

 訝しげに首を傾げる紫音が老婆に目を遣れば、プルプルと震えている老婆が口を開く。

 

「化け物に追われて、吃驚して腰をやっちゃってねぇ……真面に歩けないんだよぉ」

「……成程。それは大事です故、すぐに治療致します」

「ありがとうねぇ。座ってるだけでも辛くて……」

 

 すぐに命に関わりそうではないが、日常生活には関わってきそうだ。

 パッと後ろを見て、後は大したことのない怪我ばかりであることを察した紫音は、老婆を背負って近くの平屋まで背負っていく。

 そして畳の上に老婆をうつ伏せに寝かし、回道の光を腰に当てる。

 

 ぎっくり腰であれば数分程度で治るだろう。それまでの間は、老婆の容態を心配して付いてきた緋真の個人情報を訊くことで潰そうとする紫音は、早速声を掛けた。

 

「ひさな殿……でしたな?」

「え? あ……はい。名を覚えて頂けるとは思っておりませんでした」

「いえ、良い名の響きであった故。よろしければ、どう書くのかも教えて頂ければと」

「私の名のですか? 緋色の『緋』に『真』で『緋真』と書きます」

「成程、美しい名だ。其方によく似合っている」

「とんでもございません。ですが、有難う御座います。あのう、よろしければ死神様の名も」

「柊紫音と申す。是非、覚えて頂ければと」

 

 若干食い気味に名乗った紫音は、達成感を胸の内に覚えながら緋真の顔を凝視する。

 すると、目のやり場に困った緋真が手で髪を梳く真似をしながら、視線を畳の方へ向けた。特に親しくない者に凝視されれば誰でもそうなるだろうが、紫音はそのことに気付かず、目の前の女性を脳裏に焼き付ける為に凝視を続ける。

 

「その……ええと……紫音様の名は、どういう風に書かれるのですか?」

「紫色の『紫』に、音色の『音』だ。其方と同じく、色が名前に入っているな」

「ああ、確かにそうでらっしゃいますね。紫と言えば、高貴な身分の御方が纏われる衣の色……それと『音』で『紫音』とは、とても綺麗なお名前だと私は思います」

 

 フッと唇で半月を描く緋真。少しだけ下がる目尻。胸の前で合わせる掌。

 それらの挙動だけで、紫音の心を射止めるに足りた。

 

 柄にもなく挙動不審になりつつ、照れ隠しに回道を行っていない方の手で頬をポリポリと掻き続ける。

 

「そ、そうか……その……名を褒められて嬉しく思う」

「私も同じです。誰かに祝福されつつ与えられた名を、褒められて嬉しくない筈がありません」

「……ああ、そうだな」

 

 突然、神妙な面持ちになった紫音に緋真が眉を顰める。

 

「……紫音様?」

「いや、親を二人共亡くした私にしてみれば、己が名乗っている名も形見のようなものだと気付いてな」

「っ……! 申し訳ございません! 私の浅はかな言葉で紫音様を傷付けてしまい……っ!」

「気にしないで面を上げてくれ。別に私は傷心などには陥ってはおらぬ。寧ろ礼を言う。大切なことを教えられた気がするのだ」

 

 先程まで頬を搔いていた手で、両手を畳につけて頭垂れる緋真の手を取る。徐々に表を上げる緋真と視線が合ったものの、先程のように頬を紅潮させることはない。

 絹のように滑らかで白い肌の手を取りながら、紫音はジッと目の前の女性を見つめる。

 

 今にも崩れそうな儚い表情。

 それは、宙を漂う紫煙のようだ。だが、それを繋ぎ止めるように手を握る紫音はこう告げる。

 

「有難う、緋真」

「……そんな、恐縮でございます」

 

 少しだけ、ほんの少しだけだが喜色を頬に浮かべる緋真は、照れを隠すように再び畳を見つめる。

 

(ああ、ずっと眺めていたい。彼女を―――)

『四番隊、ただいま到着致しました!』

「む?」

 

 この甘い空間を延々と堪能していたいと願っていた紫音であったが、四番隊の到着によってそれは叶わぬ願いとなった。

 彼等が来たのであれば、自分達はすでに用済み。早々と報告の為に瀞霊廷へ帰るよう通達される筈だ。

 

「くっ……!」

「? どうかなされましたか?」

「い、いや……」

「そうでしょうか? ……紫音様、本当に有難う御座いました」

「大したことはしていない。任務を全うしたまでだ」

 

 老婆の背中から手を引きながら答える紫音は、後ろ髪を引かれているかのような表情で平屋を後にしようと立ち上がる。老婆はすっかりと良くなったようで、頭垂れる緋真の横で『ありがたやありがたや……』と合掌して、紫音を見届ける体制に入っていた。

 これで否応なしに出て行かなければ不自然な雰囲気になったが、少し逡巡した紫音が、宝石のような緋真の瞳を見つめる。

 

「その……緋真。また今度、話をしに来てもよいだろうか?」

「えっ……私とでしょうか? ええ、勿論でございます」

 

 華のような笑み。

 それだけで、紫音の心は釘づけになった。

 

 そして気付く。

 

―――そうか、これが初恋か

 

 

 

 ***

 

 

 

 あのような女性が妻であったら、どれだけ毎日が楽しいだろうか。

 あの華のような笑みを向けられ、琴のように安らかな声で語られ、絹のような肌と触れ合えば、どれだけ日々が満ち足りるだろうか。

 

「―――っ!」

 

 次の瞬間、乾いた音が響く。

 その音に気が付いた隊士の一人が、最後尾を歩む紫音に振り返り、不思議そうな顔で真っ赤に晴れた右頬を見つめる。

 

「あ、あの……柊九席? どうかなされたんですか?」

「蚊が止まっただけだ。気にするな」

「は……はぁ?」

 

 夏でもないのに蚊が居るのだろうか? そのような疑問を覚えつつも、隊士は瀞霊廷への帰路につく部隊に遅れぬよう足を進めていく。

 一方、止まらぬ妄想を己の頬を叩くと言う古典的な方法で止めた紫音は、我を取り戻して自身の浅はかな恋心を自分自身で咎める。

 

(落ち着くのだ、柊紫音。其方は朽木家分家の当主だろうに。幾ら品のよくて美しい女性であっても、流魂街の出の者……手を出せば我が家のみならず、朽木家の名を穢すことにも繋がりかねぬ)

 

 流魂街の者の血を、貴族の家に入れてはならない。それは単純に掟に反するからだ。

 

(妾も駄目だ。そもそも、手を出すこと自体が低俗と罵られるだろう……)

 

 貴族というものは陰湿なものだ。己の家の利益の為には、虎の威を借り、他人の揚げ足を取る。

 例え一時の娯楽という名目でも、流魂街の者に手を出せば、罵詈雑言を向けられるのは想像に難くない。

 

(だが……忘れられぬ)

 

 あの頬笑みが、鮮明に脳裏を過っていく。

 一目惚れとは恐ろしいものだ。しかもそれが初恋ともなれば、暴走は留まることを知らない。

 

(少し話すだけだ。そうだ、手は出さぬ……それならば良いだろう)

 

 確りと一線は設けつつも、会いに行くことを決心した紫音。

 自分は緋真と“友人”になりたいだけ。それ以上の想いはない。

 

 そう心に決める紫音であったが、この想いが数十年先に彼を苦しめることとなろうとは思いもしなかった。

 あのようなことでもなければ、()に本気で喧嘩を売ろうなどとも―――。

 




・活動報告で『宣伝のようなもの』を投稿いたしましたので、是非読んで頂ければと思います。この作品の本編にあたる作品についてのことです。気軽に読んで頂ければ幸いです。
 

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