「ねぇおじ様。私、おじ様の血を飲みたい」
「ぶひ?」
フランはブタオと対面し、お互いに視線を合わせた。
フランのルビーを連想させる深紅の瞳にブタオは意識が吸い込まれそうなほどに見入ってしまっていた。小さな体からは想像の出来ない妖しい色気。目の前に居る少女のそれとは思えないほどの存在感がそこにはあった。吸血鬼の眼には魅了の魔術が込められていると言うのは、どんな創作物でも鉄板の設定ではあるが、今ほどそれが事実であると思い知らされる。
「ふふふフラン殿……?」
ブタオは震える声でフランの名を呼ぶ。恐怖からではない。自分が目の前の年端もいかぬ少女に魅了されているという自覚から来る震えであった。
年端も行かぬ少女に魅了される。そのあまりにも背徳的な懸想に、ブタオは小さな反抗の意を示した。それは『YESロリータNOタッチ』を信条とする紳士の信仰心から来る賜物か、ブタオの手は力なくフランの眼前に置かれていた。まるでこれ以上、あの目を見てはいけないと拒絶するかのように。
しかしそんな小さな反抗心は、今のフランには全く通用はしなかった。
「ねぇ良いでしょ? ちょっとだけ、ちょっとだけで良いの」
フランはブタオの手を軽く払いのけ、もたれかかっている木に手を突き出し壁ドンした。
もう逃げられない。二人の顔は吐息を肌で感じるほどに近付いていた。震えるブタオに耳元で囁く。
「大丈夫だよ。血を飲まれたって死んだりしないから。吸血鬼にもなったりもしない。ただ気持ち良いだけだよ。凄く気持ち良いからさ……。ほんとだよ」
「ふ、フラン殿ッ! そう言うわけでは……」
「ごめんね、でももう無理。自分を止められない……。おじ様の血を飲みたい」
フランはブタオの首元に腕を絡め、抱きしめるかのようにブタオを固定した。少女とは思えない様な怪力にブタオは身動きが取れない。
フランの口はブタオの首元へと。ブタオの強烈な男の体臭にフランは頭がクラクラするかのような感覚を覚えた。クラクラする頭の中で、フランは思った。
(そう言えば、男の人から直に血を吸うのって初めて……。いつも咲夜が加工したものだったし……)
初めての男。緊張と興奮でフランの口も僅かに震えていた。そしてその震える牙をもって、フランはブタオの首筋に噛みついた。
「ぶひッ!?」
首筋に感じる痛み。しかし不快な痛みでは決してなく――むしろ快感をもたらす不思議な痛みであった。
(ぶひいいぃぃッ! す、吸われている……吾輩、吸われているでござるううぅッ!)
血は人の命そのもの。その血が吸われている。過去にブタオには献血の経験があるが、これは献血の時とは違う。血を吸われると言うよりは、気力や生気と言った『気』が吸われていく様な感覚。手足の力が抜け始め、体が弛緩する。余計な力が抜け、今ブタオを支配しているのは快楽と言う感覚のみ。
(き、気持ちよすぎるでござる……。も、もうだめぽ……でござる)
ブタオは快楽の赴くままに、その意識を手放した。
しかし快楽を貪っていたのは、ブタオだけではなかった。当人のフランドールもまたブタオの血に悦を感じていたのだ。
ブタオの血を啜り喉を通した時、彼女の体には電流が流れたかのような衝撃があった。
(な、何これッ! やだ、うそ! お、美味しい……。美味しすぎるよぉッ!)
ブタオの血が口内に入った時。または喉を通った時。まるで細胞の一つ一つに沁み渡る様な言い様のない快感がフランの全身を刺激した。全身にブタオの血が――命が流れる。まるでブタオと快楽を共有しているかのよう。
フランは姉同様に自分も小食だと思っていたが、これは止まらない。
(お、おじ様の血、とても熱い。それに凄くトロトロしてて濃厚で。それでいてのどごしも良くて……口の中がしあわせぇ。こんなの止まんないよぉッ! )
既に意識のないブタオの首元を貪るように飲み続ける。いつの間にか雨は上がっていた。
一体、どれだけの時間が経過した事だろうか。雨は上がり夜空には満点の星と月が辺りを優しく照らしていた。
フランはブタオに寄り添い、食後の悦に浸っていた。意識のないブタオにフランは言った。
「ねぇ、おじ様。起きてる?」
返答はない。だがフランは続ける。
「私ね、おじ様に一目惚れしちゃった。ずっと……ずっとずっとおじ様と一緒に居たい」
顔を紅潮させ、意識のないブタオを抱きしめて軽いキスをした。ただそれだけで心が温かくなる。
「もう私はおじ様から離れられない……。だからね、一緒に紅魔館に来てくれるよね。うんうん、来て。そして私とずっと一緒に……」
フランはブタオを背負い、月夜の空へと消えていった。
◆
フランがブタオと月夜の空に消えた同時刻。人里にて――。
人里内に他の家宅とは違う一際大きな屋敷がある。幻想郷の妖怪、怪異を取りまとめた『幻想郷縁起』なる書物の編纂を任された名家。稗田家である。
この稗田家で、大広間に二人の人間が対面していた。一人は稗田家当主、稗田阿求。そしてもう一人――上白沢慧音である。
お互いの前にはお茶と菓子が置かれているが、決して談笑と言う雰囲気ではない。阿求は茶をすすり、小さなため息をつきながら言う。
「慧音先生。最近、先生の事であまり良い噂を聞きません。寺子屋の事しかり、編纂の期日しかり……。本当にどうされたのですか? 多くの者が心配しています」
「わざわざそんな事を聞くために私を呼んだのか、阿求」
慧音は尻目に不快感を隠さずに言う。
「寺子屋についてのカリキュラムは問題ないと自負している。むしろ今までが進みすぎていた。自習が多いのは、生徒たちの自主性に任せ、個人能力を高める為の処置だ。編纂については……これは申し訳ないとしか言えないな。しかし今まで私は原稿を落とした事がなかった、たった一回、期日に間に合わなかっただけで様子がおかしいと思われるのは少し癪だぞ。私にも私の事情と言うものがあるのだ」
慧音の尻目に尻込みせず、阿求は尋ねる。
「慧音先生。貴女はこの里の中心人物。貴女あっての人里です。この人里が、紅魔館や妖怪の山、地底などの他勢力と並び、一つの勢力として成しているのは偏に貴方が居るからです。貴女が居るからこの人里は安全でいられる」
「はぁ……。阿求、先にも言ったが私にも私の事情が……」
「存じております。貴女には人里を守る義務はない。貴女の自主的な奉仕に私たちが甘えているだけです。本来ならば人間だけで自警団を組織し、私たちのみで脅威に対処するべきです。しかし私たち人間は脆弱な存在。誰だって脅威には晒されたくはありません。それなのに、貴方はいつも先頭を切って脅威に立ち向かい、私たちを導いてくれる。そんな貴女を人里の者は皆尊敬し、また愛しています」
「それは結構な事だ」
「先生。私たちはみんな貴女の事が好きなんです。だからこそ分かる。今の貴女は間違いなくおかしい。本当にどうしてしまったのですか?」
「……何度も同じ事を言わせるな、阿求。私は何も変わってなどいない。今回はたまたまだ」
二人の会話はどこまで行っても平行線であった。埒が明かない為か、阿求は一呼吸おいて、自分が思っている核心を口にした。
「慧音先生。先生は最近、一人の外来人の男を保護したとか」
ピクリと慧音は眉をひそめる。慧音の静かな迫力に阿求は一筋の汗が額から流れ、喉をごくりと鳴らした。しかし阿求は言葉を続ける。
「しかも同棲していると言う話を耳にします。それは事実なのですか?」
「ああ。事実だ。私とその男は一緒に暮らしている」
「なぜ、外来人用の宿舎を紹介しなかったのですか? 確かに貴女は幻想入りした外来人の保護を行っていますが、何も一緒に暮らす事は……」
「互いの利益が一致しただけの話だ。それとも何か? 私がその外来人と一緒に居ると不都合でもあるのか?」
「違います。ただの男女の間柄で、しかも出会ったばかりでいきなり同棲というのは……」
「それこそ余計なお世話だ。私は子供じゃないんだ。私生活まで関与されるいわれはない」
慧音は席を立ち、阿求に言った。
「用件はもう終わりか? ならば早く帰りたいんだ。ブタオが腹を空かせているかもしれん。ブタオが私を待っているんだ」
「慧音先生……」
阿求を後にしようと振り向きざまに、阿求は声を荒げて叫んだ。
「慧音先生ッ! 先生はその男に何かされたのですか!?」
「なに……?」
聞き捨てならない阿求の台詞に、慧音は足を止めて振り向いた。その表情は普段の優しい慧音のモノでは決してなく、修羅を連想させる憤怒の表情であった。
今まで見た事も無い慧音の表情に、阿求はたじろいだ。しかし阿求は満身の勇気を振り絞って真実を追求する。
「今の先生は、私たちの事を全く見ていない。まるで眼中に無いかのようにッ。先生の視線の先にはいつも他の誰かが居るッ! そのブタオと呼ばれている男なのですか!?」
「……その通りだ。今の私はブタオの事しか考えられない。他の事などまるで手に付かないのだよ。しかしそれでブタオが私に何かしたと言うのは聞き捨てならんな。それではまるでブタオが悪者だ」
「その人の事を悪く言うつもりはありません。慧音先生が、そのブタオと言う男に恋心を抱いているのでしたら、それはむしろ素晴らしい事です。友人として祝福の言葉を贈りたいものです」
「それはどうも」
「しかし貴女のその恋慕の情は度が過ぎている。はっきり言って異常としか言いようがない。私たちと貴女との間には強い絆で結ばれていたはず。その絆は、例え貴女に好きな人が出来たのだとしても決して壊れる事のないものだと信じていました。例え特別な人が出来たのだとしても……貴女は変わらず私たちと接してくれると信じていました。なのに……なのに、貴女は私たちをちっとも見ていない」
「……」
「そのブタオと言う男が来た時から、貴女は変わってしまった。それは恋から来る心情変化じゃない。もっと別の――」
阿求の言葉はそれ以以上は続かなかった。阿求の小さな顔――その口が、慧音の手で強く締め付けられていたのだから。
稗田家は幻想郷でも屈指の名家である。その当主である阿求に向かっての余りにも無礼な行いに、阿求は茫然と言葉を失っていた。
しかし阿求を黙らせていたのは、何も手で口を締め付けたからではない。
目の前にいる見た事も無い慧音の表情に言葉が続かないのだ。
慧音の表情は平静としたものだった。怒っても笑ってもいないひどく静かな顔。しかしその内に激しい憤怒を内抱している事がはっきりと分かる恐ろしい顔であった。
「なあ、阿求――」
抑揚のない声で慧音は阿求の耳元で囁く。
「もうお前は黙れ」
「――ッ!?」
その言葉を聞いた瞬間、阿求の顔からは滝の様な汗が流れ出た。ガタガタと体を震わせ、目に涙を浮かべて目の前の恐怖と対峙する。
慧音は無造作に阿求を放り、きびつを返して吐き捨てるかのように言った。
「私とブタオの仲を詮索するな。お前もまだ『稗田阿求』のままでいたいだろう?」
そう言って、慧音は稗田家を後にした。慧音を止めることなく、暫く阿求は茫然としているしかなかった。
◆
稗田家を後にした慧音は憤慨しながら思う。
(まったく失礼な奴だ。私が誰を好きになろうと勝手じゃないか。それなのに好きな人の事を考えていただけで異常と言われるとは……)
いかんせん、人里の人間を甘やかせ過ぎたか――。尊敬されるのは素直に嬉しいが、それで私生活までああだこうだと言われるのは非常に不愉快なものがある。
いっその事、今ある仕事を全て投げ捨てて、ブタオと二人で逃避行するというのも良いかもしれない。その場合は、妹紅と同じく迷いの竹林で一軒家を建てて住み、畑でも耕しながら生活しようかと本気で考えていた。ブタオと一緒ならそこがどれほど過酷な環境であっても、きっと天国に違いない。
(しかし随分と遅くなってしまったな。ブタオの奴、腹を空かせて居ないだろうか……)
家に着いたら、ブタオからの『おかえり』の挨拶を聞く事が、慧音の仕事帰りの疲れを癒やしてくれる。
(今日は何を作ろうかなぁ。ブタオは何でも美味しいって言ってくれるが、出来れば好きなメシを喰わせてやりたいな)
そんなウキウキ気分で家に到着した時であった。家に明りが付いていない事に気付く。
「あれ? ブタオの奴、どうしたのだ? もう寝てしまったのだろうか?」
何か言い様のない胸騒ぎ感じながら慧音は、ブタオの寝室を開ける。しかしそこはもぬけの殻であった。
慧音の心臓がドクンと跳ね上がる。言い様のない不安感が慧音を襲っていた。
「ぶ、ブタオ? どこに居るんだ? 居るんなら返事をしてくれ。私を驚かせようなんて趣味が悪いぞ? ブタオ……?」
震える声でブタオを探す慧音。しかし居間にも寝室にも食糧保管庫にもブタオはいない。
この家からブタオの気配を感じない。ブタオの匂いを感じない。
その事実が、慧音の不安を恐怖へと変え――。
慧音は叫んだ。
「あ、ああ、あああぁッ! ぶ、ブタオッ! どこだぁッ! ブタオおぉぉッ! 私のブタオが居なくなったぁッッッ! うわあああああああああああああああああああああぁぁッッ!!!」
ブタオさんは紅魔館へ。
人里編はこれにて終了。次は紅魔館編です。
ブタオさんの血……なんか、油多そう。次郎系の野菜増しニンニク油多めのイメージです。がっつりいきたい時は、凄く美味そう。
次回もがんばります。ここまで読んでくださって、誠にありがとうでした。