人里を出れば、人喰い妖怪が出ると言われる森が広大に広がっている。そしてその森を抜けると、氷の妖精が住み着いていると言われる湖がある。その湖をさらに奥へ進むと吸血鬼の住む館――『紅魔館』がある。
深夜のとある時間。この紅魔館で大規模な爆発が発生した。
城壁が大きな音を立てて崩れ、中から一つの影が月明かりの空に飛び出した。その影の主は泣きべそをかきながら、崩れ落ちた紅魔館に向かって叫んだ。
「お姉さまのバカああぁッ! 二度と紅魔館に戻ってやるもんですかッ! ふんッだ!」
少女は踵を返して、紅魔館を後にした。後ろから何やら叫び声が聞こえてくるが、少女は気にせずにそのまま飛び去った。
◆
ブタオが幻想郷へ来てから二週間が経過していた。
当初こそ、現代との生活の違いに戸惑っていたブタオではあったが、慧音の援助もあって幻想郷の生活に慣れ始めていた。
ブタオは幻想郷の地理や歴史。妖怪に関する事を慧音から教わりながら生活していた。
傍から見れば何とも羨ましい生活である。しかしブタオは、この生活に小さな不満を抱えていた。
生活そのものに対する不満ではない。美人の女教師に幻想郷の地理やルールを教えてもらいながら、同棲をしているこの現状は、男どもが嫉妬する様なうらやまけしからん状況に違いない。それなのにこの生活を不満などと言ったら、男どもに囲まれて足蹴にされてしまうだろう。そしてその事に文句を言う事もきっと出来やしない。
では何が不満かと言うと――
「け、慧音殿」
「うん? どうしたブタオ。夕飯の事か? もう少しだけ待っていてくれ。もうすぐ出来上がるから」
「い、いやそうではないのでござる……」
時間は夕飯時の夜。慧音は台所で夕飯の準備に取り掛かっていた。ブタオはその様子を見ている。
「今日はな、新鮮な川魚が手に入ったんだ。照り焼きにしようかと思うんだがどうだろう?」
「お、美味しそうでござるな。――けど、慧音殿。吾輩、慧音殿に話が……」
「話? 何かな?」
「その……吾輩そろそろ、この家を出ようかと……」
ダンッ!
「ぶひッ!?」
ブタオが言葉を紡ぐ瞬間、調理中の慧音の所から、包丁を叩きつけた音が響き、思わずブタオは言葉を止めてしまった。
慧音は笑みを浮かべながら言う。
「おっとすまない。驚かしてしまったな。魚を捌くのは結構難しいものだな。――で、何の話かな?」
「い、いや。何でも無いでござる。手を止めさせてすまんでござる」
「そうか。――もう少しで出来るからな。楽しみにしててくれ」
「は、はいでござる……」
鼻歌を歌いながら、ご機嫌に調理を続ける慧音。ブタオはそんな慧音を見ながら、結局大切な話が出来なかった事を悔やんでいた。
ブタオの持つ小さな不満。
それは、この幻想郷に来てからこの二週間、人里から一切出ていないと言うこと。
何かと言えば、危険だから外に出るのは駄目だと言って、中々許可が貰えない。
尤も、ブタオには外に出るのに慧音の許可が必要なわけでもないのだが、出て行こうとしたら思いもよらない剣幕で怒鳴られた経緯があり、それ以来少し慧音に対して及び腰になってしまっている。
繰り返すようではあるが、生活そのものには不満は無い。むしろ傍から見れば幸せに見えるのかもしれない。
だが幸福には対価が必要であり、ブタオもまたその事を理解している。働いているわけでもなく、ただ喰って寝ているだけ。慧音におんぶ抱っこの今のこの生活は、ブタオにとって後ろめたいものであり、それが二週間も続くとなるといよいよもって苦痛に感じてきた。せっかく幻想郷へ来て、生まれ変わったかのような気持ちになったのに、これでは何も変わっていない。
「ブタオ~。ご飯出来たぞ。さぁ、一緒に食べよう」
「ありがとうでござる。凄く美味しそうでござるな」
上機嫌な慧音を見て、ブタオは思う。どうして、彼女はこんなにも優しいのだろうか、と。
慧音が元々お人好しの善人である事は、初めにあった時から理解はしていた。しかし――
(慧音殿は、吾輩を重荷と思わぬのでござろうか?)
何もしない、ただ食い扶持が増えるだけのお荷物をどうしてこんなにも手厚く長く居させてくれるのだろうか。
慧音の優しさを嬉しく思う反面、その優しさに対して何の恩も返せない事に対して、ブタオは歯噛みする想いだった。
◆
その夜、慧音はブタオの枕元に立っていた。ブタオは慧音の気配に気付かない。いびきをかいて気持ちよさそうに眠っている。
「ブタオ。今日も一緒に寝ような」
慧音は寝ているブタオに優しく微笑みかけ、彼の布団の中に入り込んだ。
ここ数日の慧音の秘め事。ブタオも知らない慧音の秘密。
慧音はここ数日間の間、ブタオの寝室に入り込んでは布団の中に潜りこんで同衾していた。ブタオはこの事を知らない。いつブタオが起きてばれてしまうのだろうかと内心ドキドキしながら、彼女はブタオの太い体に腕を絡ませて抱きしめた。ブタオの太い腕が胸に密着する。時折下腹部に掌が触れた時などは電流が流れるような感覚を覚える。
何て破廉恥な。
そんな背徳的な感情を持ちつつも、その感情に愉悦を感じている。
ブタオがこの事を知ったらどんな顔をするだろうか? きっとすごくうろたえるに違いない。そしてそんな未来を想像すれば背筋が震えるほどの快感がある。
今日も慧音はブタオの歴史を覗く。芳しいブタオの歴史の芳香に思わず垂涎してしまう。
(ブタオ。ああブタオ。お前はもう! こんな味を知ってしまったら私はもう戻れないじゃないか。ああブタオッ! 離さない、絶対に! ブタオ愛している、大好きだぞブタオ!)
ブタオへの想いを感じながら、慧音は今日もブタオの歴史を喰らう。
食べて食べて食べて食べて――
食べ続ける。
そして喰い続けながら、慧音はブタオの数ある歴史の一つを見て思うのだった。
その歴史は、つい最近のものであった。八雲紫との会合――彼女との出会いの過去の歴史。その歴史を見て慧音は思う。
(……くそ。どうして八雲紫なのだ。私はこんなにもお前の事を想っているのにッ)
紫との出会いの歴史は、ブタオの歴史の中で最も光り輝いていた。
慧音はその歴史を喰った。これでブタオの記憶の中からは八雲紫の記憶が無くなる
はずだった。
無くならないのだ。歴史が。
食べても食べても食べても食べても――決して無くならない。今もなお輝いて、ブタオの中で強く存在している。
ブタオの両親との歴史を片っ端から喰ったら、ブタオの記憶からは両親の存在など最初から無かった事になった。歴史を喰えば、その過去も無かった事になり記憶から消去されるはずなのに、八雲紫との記憶だけは無くならない。
所詮は能力の一つ。歴史を喰う能力と謳っているものの、無かった事になるだけで厳密に完全に無くなるわけでもない。しかし両親の記憶は簡単に消えたと言うのに、紫の記憶だけは残っている。それはブタオの紫に対する想いがそれだけ強いと言う事に他ならない。
ブタオの懸想に、慧音は言いようのない嫉妬の念を感じずには居られなかった。
(くそっ八雲紫め。私のブタオの心を奪うとはッ。しかし――)
しかし皮肉な事か。憎しみすら感じるブタオの八雲紫との歴史は、数ある歴史の中で一番美味しいのだ。
慧音は、歴史を食べ続ける。いずれブタオの中から八雲紫との会合の歴史が消え去り、ブタオが妖怪に喰われる目的を忘れてくれる事を信じて。
満腹になり恍惚とした表情を浮かべながら慧音はブタオの頬に口づけをして小さく呟いた。
「ブタオ。お前を絶対に妖怪の餌になんかさせやしない。ずっと私のそばに……。お前が居ないと私はきっと駄目になる……。ブタオ、愛している」
慧音は余韻に浸りながら、ブタオの体を抱きしめて目を閉じた。
◆
ここ最近、朝に強くなったとブタオは感じていた。起きた時の倦怠感がまるでなく、むしろ爽やかな気分すら感じられるようになった。
着替えを済ませ居間へと向かうと、テーブルの上には朝食の準備が既に整われており、その横に手紙が置かれていた。内容としては、
『仕事で早く出る。朝食を用意したから食べてくれ。昼ごろに天気が崩れそうだから、外に出るときは傘を持って外出する事。夜には帰る』
という置き手紙であった。
「慧音殿は仕事でござるか……」
用意された朝食をモソモソと食べ、食後の茶を入れてほっと一息ついた。優雅な一時とも言えるが、ブタオは退屈な事この上なかった。何をするわけでもなく、慧音の帰りを待つだけの日々。昔は一人でいる事に安心感を感じていたと言うのに、今は人との関わり合いが欲しいと思っている。
「さすがにずっと家の中に居るのは不健康でござる。少し散歩するでござる」
何か目的があるわけでもないが、ブタオは人里へ行こうと傘を持って家を出た。慧音が予想した通り、確かに崩れそうな天気模様である。
当初こそもの珍しかった情景ではあるが、二週間も経過するとさすがに慣れてくるわけで、ブタオはどこへ向かおうと思いながら人里を散策していた。
そして散策中に、ブタオは一件の甘見処を見つけた。
「そう言えば、ここの店は少し気になっていたのでござる。慧音殿からお小遣いをもらっている事だし……。入ってみるでござる」
もしも持ち帰りが可能だったら慧音にお土産を買っていこうと思いながらブタオは席に着いた。
従業員の女性が注文を聞いてくる。ブタオは注文した団子が来るまでの間、茶をすすりながらのんびりとしていた。そしてのんびりとしていると、向かえの席の客の話し声が聞こえてきた。
「ねぇ奥さん。最近の慧音先生の事知ってます?」
(むむ? 慧音殿の事でござるか?)
迎えの席に座っているのは、いかにも他人の噂や情事が好きそうな奥様方であった。 会話の話題に慧音の名前が出てきた事もあり、ブタオの関心は奥様方の席に向かった。奥様方はブタオの視線に気付かずに会話を続けていた。
「ええ。存じてますわよ。何でも『男』が出来たという噂が……」
「既に同棲しているらしいわよ」
「あらやだ。先生ったら大胆!」
おほほ。と上品に笑う奥様方を外にブタオは件の『男』と言うのは自分ではないかと思った。同棲している男は自分だけだし、状況的に自分以外にあり得ない。
(なんと……。吾輩、慧音殿のカレシとして噂されているでござる。勘違いとはいえ、何ともこそばゆいものでござるな)
単にお金がなくて保護されているだけなのだが、己が慧音の様な美人の彼氏として噂されているのは悪い気はしない。
慧音と己の事をどういう風に思っているのか気になったブタオは、ますます奥様方の会話に耳を傾けるのであった。しかし後にブタオは耳を傾けるべきじゃなかったと後悔する事になる。
「でも最近の慧音先生、あまり良い噂を聞かないわね。やはりその『男』が原因かしら」
「奥様もやはりそう思います?」
「そりゃ……ねぇ?」
(何やら不穏な会話でござる。慧音殿の悪い噂? 吾輩の事でござるか?)
「うちの子の話なんですが、寺子屋での慧音先生……最近ずっと自習が多くなったみたいで。自習中はずっと上の空。そんな事が連日続いているとか。まともに授業してくれないと言っていたわ」
「私の旦那も慧音先生の事言っていたわ。――私の旦那は稗田家の使用人として働いているのですが、慧音先生……稗田家から相当なおかんむりを貰ったそうですわ」
「あらまぁ。慧音先生が怒られるなんて。で、一体何をしてしまったの?」
「なんでも歴史の編纂が期日に間に合わなかったからとか」
「珍しいわね。あの真面目な慧音先生が……。疲れているのかしら? 今までそんな事無かったのでしょう?」
「ええ。それで皆がこう噂するんですの。慧音先生の様子がおかしくなっているのは、その『男』のせいだって。色恋にうつつを抜かすのは結構ですが、公私を分けて欲しいものですわね」
「その件の『男』に関しても、あまり良い噂は聞かないわね。働きもせず、慧音先生の家にずっと居座って……」
「『引きこもり』と言うものですわね。ああ嫌だ嫌だ」
(――ッ!)
「慧音先生の好意に甘えているだけなんて、恥ずかしいとは思わないのかしらねぇ」
奥様方の話に集中していたためか、気付かないうちに注文の団子が置かれていた。ブタオは団子を口にかきこみ、お茶で無理やり喉に流した。味わうなんて余裕はどこにもない。すぐに食べて会計を済まし、そそくさと逃げ出す様に店を出た。
(し、知らなかったでござる! 吾輩の事で慧音殿に大きな迷惑をかけていたとは……ッ!)
自分の事を馬鹿にされたからではない。引きこもりと言う単語にトラウマが想起したわけでもない。むしろショックだったのは、自分のせいで慧音に迷惑をかけていたと言う事実。
確かに思い返してみれば、慧音は朝から晩まで仕事に行っているし、夜は家事で自分の世話をしてくれている。休日らしい休日も無く疲れないはずがない。
(慧音殿……。吾輩はさっさとあの家を出れば良かったのでござる! 慧音殿の厚意に甘えてズルズルと居続けてッ! 吾輩なんて……ッ すまんでござる慧音殿ッ!)
目に涙を浮かべながら当ても無く歩を勧めるブタオ。いつの間にかその足は人里の出口へと。気が付いたら目の前には人喰い妖怪が跋扈しているという森が広がっていた。 慧音に入ってはいけないと何度も忠告された森。ブツブツ自己嫌悪している内に入り込んでしまっていた。
(ここは慧音殿が決して入るなと言っていた森……。どうしようでござる。今更、慧音殿の家に戻りづらいでござるし、いっその事……)
「やはり、一丁前に死に方を選ぼうとした吾輩は欲張りなのでござろうか?」
元々は、妖怪の食糧として幻想郷にやってきて、自分を必要に思ってくれる者に命を差し出したいと思っていたはずだった。なのに恩人である慧音の厚意に甘え、現代に居た時と全く同じ生活をしている。命を差し出す相手を選びたいと思うのはやはり欲張りで、自分にそんな資格や価値なんてないのではないか――と、この時のブタオはとてもネガティブになっていた。いっその事、森の中に入って、適当な妖怪に喰われて居なくなった方が、慧音の負担も軽くなるのではないかとすら思っていた。
そんなネガティブな感情に支配されていると、急に天気が崩れ雨が降り出した。
「そう言えば、昼過ぎに天気が崩れると言っていたでござるな」
持っていた傘をさし、徐々に強くなる雨足に対し、ブタオは今のこの雨が自分の心情を露わしているみたいだと詩的な事を思っていた。
「これからどうしようでござる……」
ふとそんな事を呟いた時だった。
「きゃあああぁぁぁッッ アツ…アッツウイゥゥ!!!」
すぐ近くで女の子の悲鳴が聞こえてきた。
「な、なんでござるかッ!?」
思わず体をビクっと強張らせ、悲鳴のあった方を向くと、木の下で赤色の服を着た金髪の少女が泣きながら叫んでいる。
「うわああぁぁんッ! だ、誰かた、助け……溶けるッ! あっづいッ!」
まるで雨から身を守ろうとするその様子に、ブタオは首をかしげながら少女に近付いた。
「だ、大丈夫でござるか?」
「ふえ?」
ブタオは無意識的に傘を少女へ差し出した。雨が体にかからなくなり、少女は恐る恐るとブタオと対面する。
少女――フランドール・スカーレットの出会いであった。