紅魔館の廊下では、食欲をそそる様な良い匂いが流れていた。その香りはメイド長である咲夜が引いて歩いているワゴンの上から発せられている。その香りに釣られ、すれ違うメイド妖精たちは皆振り返り、そして何と美味しそうな事かと想いを馳せていた。
コンコンと咲夜はブタオの部屋をノックした。
「失礼いたします。ブタオ様」
咲夜の丁寧な物言いとフリルのついた可愛らしいメイド服にブタオの視線は釘付けにされていた。
(め、メイド!? メイドでござるッ! しかもミニスカフリルのッ!)
ブタオの視線に気付いたのか、咲夜は首をどうした事かと首をかしげながら尋ねた。
「あの……どうかなさいましたか?」
「ぶひッ!? あ、いやその……。め、メイドさんでござるなぁと思って……」
「? ――はい。私はメイドですが……」
二人の会話には微妙な価値観の食い違いがあるのだが、ブタオはここが現代ではなく異世界に近い場所である事を思い出し、それならメイド位いるかもしれないと結論に至った。
それにしてもこれはどうだ、とブタオは思う。
昨今、ブタオの居た現代ではメイドさんブームは下火になりつつあるが、ブタオは今でも『メイドこそ萌えの集大成』と考えている。
咲夜の美しく凛々しい容姿と、フリルをふんだんに使用した可愛らしいメイド服の組み合わせは、凛々しさと可愛らしさと言う相反する要素を見事に両立させているではないか。
「完璧でござる……」
ブタオは思わず呟いた。
「はい? 何かおっしゃいましたか?」
「はッ!? な、何でもないでござる!」
「は、はぁ……。――申し遅れました。私は、この紅魔館でメイド長を務めております十六夜咲夜と申します」
優雅に挨拶をする咲夜にブタオはこれまた心を奪われてしまった。
そんなブタオの心情を知らず、咲夜は事務的な会話をそつなく続けた。
「食事を御持ちしました。お口に合うかどうか分かりませんが、どうかお召し上がりになってください」
銀製の食器から漂う良い匂い。その芳しい香りにブタオの胃は、早く食べたいと訴えるかのようにググゥッと大きな音を出していた。
瞬間、恥ずかしさが込み上げてきたが、咲夜は美鈴と違って特に反応はせず、優しい笑みを持って返してくれた。
「ふふ。さぁ、温かいうちにどうぞ」
「い、戴きますでござる」
一口、咲夜手製のリゾットを口にした瞬間、何とも言えぬ美味が口の中に広がった。
「お、美味しい……。物凄く美味しいでござる!」
「お口に合ったようでなによりですわ」
「こんなにも美味しいリゾットは初めて食べたでござる!」
玉ねぎの自然な甘みとコンソメの風味に濃厚なチーズが米と絡み合い、口の中で絶妙なハーモニーを奏でている。ブタオは現代では引きこもっていた故、あまり外食はしなかったが、これは絶対に向こうの世界でも通用する味だと絶賛した。
それと同時に、ブタオは――
(メイド喫茶で咲夜殿の様なメイドと料理を注文したら、一体どれくらいぶんどられるでござろうか……)
なんて、かなり間の抜けた事を思っていた。すぐ隣で佇んでいる咲夜の心情を解せずに。
◆
バクバクと礼儀も無くブタの様に食事を貪るブタオを見て、咲夜は無表情ながらもブタオに侮蔑の感情を抱いていた。
(なんて醜い……。本当にブタみたい。フラン様は本当にこんな醜い男を好きになってしまわれたのか……)
咲夜は人間である。人間である咲夜の価値観からは、ブタオの容姿と佇まいは嫌悪感を感じずにはいられないものであった。
こんな男に、本当にフランドール・スカーレットは恋をしたのか。
あり得ない。
咲夜の価値観からは、誇り高い吸血鬼が、こんなブタの様な男に恋をするなんて決してあってはならないものであった。
だとしたら、この男が本当に何かしたのか。
パチュリーの仮説を思い浮かべながら、咲夜は疑念を募らせる。そして疑念は不信へと変わり――不信は怒りへと変化していく。
(この男が……ッ。この男が妹様を……。お嬢様のご家族を……ッ)
瞬間、その部屋の全ての動きが止まった。
咲夜以外の全ての時間が止まったのだ。
ブタオもスプーンを口に運ぼうとした状態で止まっている。
「……」
咲夜は、止まったブタオをジッと見降ろしていた。
彼女の手には鋭いナイフが握られており、その刃先をブタオの首筋に当てている。
「今、こいつをこの場で殺せば……」
フランは正気に戻るのではなかろうか。
そんな事を思っていた。
全てを支配する絶対的な強者――吸血鬼。
その吸血鬼が、家畜も同然な人間に恋をする。あってはならない。絶対にあってはならない事だ。
咲夜の忠誠心は、その強さゆえに盲信とも言える絶対的な理想を併せ持つ。
こうあってほしい。こうなって欲しくない。こうならなければならない。
その理想は自身にのみならず、忠誠の対象者であるレミリア達にも及ぶ。
もしも、この男を殺して、フランが元に戻るのならば、咲夜は喜んで罰を受けるだろう。それが例え自分の命に関わることであっても。
ナイフを握る手に力がこもる。ほんの少しこの手を引くだけで、この男は死ぬ。鮮血を噴き出し、どうして自分が死ぬのか分からないまま死んでいく。
しかし――
「――ッ! わ、私は……私は何をしているのッ!」
ナイフはブタオの首筋から離れた。咲夜が引っ込めたのだ。
如何に疑わしい男であれ、如何に許せない者であれ、主であるレミリアが正式に招いたのだ。許せなくとも、どうしてこの男を殺す事が出来る?
咲夜は揺らいでいる。忠誠と理想の狭間で。
何が正しい行いなのか分からない。
この男は本当に危険な男なのかどうかも分からない。
レミリアやフランの気持ちが分からない。
何も分からないのだ。
何も分からない咲夜は――
瞬間、時が動き出した。
ブタオは、まさか時間が止まっている等とは夢にも思わず、バクバクとリゾットを頬張り、そして平らげた。
「如何でしたか?」
「いやぁ。凄く美味しかったでござる。これでもかと言うほど堪能したでござる」
「それは良かったですわ」
何も分からない咲夜は、結局のところメイドとしての職務を全うしようと頭を切り替えたのであった。
なるようにしかならない。全てはレミリアの思い次第である。自分はただそれに従えばよい。
ブタオの平らげた皿を下げようと、咲夜はブタオに近付いた。
その時、咲夜の鼻孔に何か生臭い匂いが刺激した。
「ん?」
クンクンと鼻を利かせると、匂いの発信源はブタオの体からであった。
ブタオ特有の体臭と汗臭さと、何かネットリとした生臭さが加わり、言い様のない異臭を放っていた。
その匂いがブタオから発せられると知った瞬間、咲夜はブタオとバッタリと目があった。
鼻を利かせた咲夜の仕草はブタオにも分かった様で、ブタオはバツが悪そうに尋ねた。
「あ……もしかして、その……吾輩、臭うでござるか?」
「ぅ……」
何とも微妙な沈黙が二人の間で流れていた。
バツが悪そうにしているのはブタオだけではない。むしろ咲夜の方こそバツが悪かった。来賓の前で、あたかも『貴方、臭います』と言わんばかりの仕草を見せてしまったのだから。失礼にも程がある。
露骨に視線をずらすのもこれまた失礼な行為ではあるが、咲夜はそれでもブタオの目を見れなかった。
咲夜はなんとか無表情をキープしているが、その目は泳いでおり――。そんな咲夜に助け船を出そうとしたのか、ブタオは自虐的に笑った。
「ぶひひ。すまんでござる。吾輩、見ての通り、酷く汗かきで体も臭いのでござる。十六夜殿には不快な思いをさせてしまったでござるな」
「も、申し訳ありません……」
ブタオの気遣いに咲夜は感謝を感じると同時に自分を恥じた。明らかに失礼なのは自分だと言うのに。
「十六夜殿。不躾ながら、何か体を拭えるものを戴けぬでござるか? さすがに二日も湯に浸かってない故、ベットリとして気持ち悪いのでござる」
来賓にお願い事をされると安心感を覚えてしまうのはメイドとしての性か。お客様の願いを『余計なお世話』にならない程度に良いものへと昇華させる事に咲夜は悦びを感じる事が出来る生粋のメイドであった。
「手ぬぐいはすぐにお持ち出来ますが……。それでしたら一度、湯あみをなさってはいかがでしょうか?」
「湯あみ? 今からでござるか?」
「はい」
「湯あみでござるか。それはとても嬉しいでござるが……。わざわざそんな手間をかけさせるわけにも……」
温水の出るシャワーや湯沸かし器などの便利な文明の利器はこの幻想郷にはない。
湯を沸かすには、原始的にボイラーに火をくんで温めなければならない。
それは中々に大変な手間である。慧音の家で実際に体験してブタオにはその大変さを理解できていた。
「ご心配には及びませんわ。浴場へとご案内いたします。付いてきてくださいませ」
ブタオの心配をよそに咲夜は心配ないと言わんばかりにブタオを浴場へと案内し始めた。
思えば初めて部屋から出たものだ。紅魔館の内部は客室と同様に『赤色』を強調した作りになっており、西洋の高貴なお城の様な造りにブタオは興奮を隠せずにいた。
そんなキョロキョロと落ち着かない様子のブタオに咲夜はほくそ笑んでいた。所属する紅魔館の凄さに驚いている事が、彼女の誇りを刺激していたからだ。
「ここが紅魔館の大浴場でございます」
「これは……凄いでござる!」
浴場内は、日本の銭湯の様な造りになっているが、あちこちに施されている西洋風の装飾が、銭湯特有の安っぽさを出していない。それでいて煌びやかながらも決していやらしくないのである。
これまた感動しているブタオに、咲夜はこれまた誇りが刺激された様で、ほんの少しだが胸をそびやかした。
「ふふ。この浴場は、ただの浴場とは違いますわ。吸血鬼であらせられるレミリア様も入れるよう特別な魔法が掛けられておりまして。また魔法によって保温と排水が管理されていて、常に清潔さを保っているのです。何時でも好きな時に入れる当家自慢の浴場ですわ」
「なんと、魔法で管理とは……。外の世界では自動で湯を沸かしてくれる技術があるでござるが、排水も含めた機能は存在しないでござる。魔法とは本当に便利なモノなのでござるな」
褒められると嬉しくなるのは人の性。咲夜もその性に外れず、ブタオの関心にフフンッと鼻が高くなっていた。
「洗髪剤と石鹸は備え付けてありますので好きにお使いください。――他、何か必要なものはありますか?」
何か必要なものはないかと尋ねられて、ブタオはふと顎に手をやった。その時にジョリッと音がして――
「それじゃ、カミソリもあったら貸していただけぬでござるか? 随分とヒゲが伸びてしまったようでござる」
「かしこまりました」
これからお偉いさんに会いに行くのに、無精ヒゲはさすがに無いなと、引きこもっていたブタオでも分かる礼儀であった。
「それではごゆるりと。着替えはカゴの中に入れておきますので。上がりましたら、呼び鈴で私をお呼びくださいね」
「分かったでござる」
カミソリと着替えを受け取り、咲夜が脱衣所から出て行くのを確認するとブタオは全裸になった。
「ぶひひ。こんなに広い浴場に吾輩だけ――。あんなに可愛いメイドさんにも世話になって、まるで昔の王侯貴族にでもなった気分でござる」
広い浴場を独り占めするとどうしてこんなに気分が良くなるのか。
全裸で誰に構う事無くゆったりと足を広げる事が出来るゆえの解放感か――。
桶を持って、ブタオは全裸のまま堂々と戸を開けた。
◆
ブタオが入浴している間に、咲夜はレミリアの私室に向かおうとしていた。
「お嬢様に彼が目覚めた事を報告しなきゃ。――でもその前に……」
今はブタオが大浴場を使用している。この紅魔館には男が居らず、女しかいない。もしも誰かが入ったら問題であると思い、誰も入らないように『使用中』の立て札をドアの前に立てかけておいた。
「これでよし」
これで誰も入らないだろうと、咲夜はレミリアの私室に向かうのであった。
しかし――
結果論ではあるが、咲夜はこの場から離れるべきではなかったのだ。
後に彼女は、これでもかと言うほどに、この場から離れた事を後悔する事になる。
レミリアの私室に――
彼女はいなかった。
◆
レミリア・スカーレットの体内時計は不規則である。
吸血鬼である彼女にとって、朝には日の当らない場所で眠り、夜中に活動するのが当たり前なのだろうが、幻想郷の大部分は人間と同じ、昼に活動して夜に眠る生活サイクルを繰り返している。
その為か、いつの間にか彼女も朝型の吸血鬼になってしまっていたのである。
しかし、それでも朝に目を覚ますのは彼女にとって辛いものがあるらしく、レミリアは昼近くまで惰眠を貪っていた。
そして、つい先ほど目を覚ましたわけである。
「う~……。さくやぁ。お茶、入れてぇ~」
寝ぼけた声で従者に声をかけるレミリアであったが、返事がない。本来だったら一秒もしないうちに、熱々の紅茶を持参して目の前に現れるのに。
もう一度、呼ぼうとすると、何やら香ばしい良い香りがレミリアの鼻孔を刺激した。
「クンクン……。この匂い、チーズが焼ける香ばしさに加え、バターとコンソメの風味――。咲夜手製のリゾットだわ」
人間の何百倍もの嗅覚を持つ吸血鬼の鼻は、見事にメニューまで言い当てた。
なんて胃を刺激する香りであろうか。匂いをかいだだけで、早く喰わせろと言わんばかりにグーグーとレミリアの胃は音を出す。
「そっか。もうお昼だし、昼食を作ってるのね」
状況を把握したレミリアは咲夜の邪魔をせず、空腹のまま待とうと、それ以上咲夜を呼ぼうとはしなかった。
咲夜がお昼を作り終わるまで、まだ時間がありそうだ。
その間に、ひとっ風呂浴びるのも悪くないなと、この時レミリアは思った。
浴場へ向かうと、そこには『使用中』の立て札が掛けられていた。
「あら? 誰が入っているのかしら? まぁいいっか」
大方、美鈴かパチュリーでも入っているのだろうと、レミリアは立て札を無視して浴場室に入った。
彼女に不運があるとするならば、咲夜と行き違いになった事だろう。
誰が入っているのかも知らず、レミリアは脱衣所で服を脱ぎ――。
相手を驚かせるつもりだったのだろう。戸を開けたと同時に堂々と大きな声を上げた。
「だぁれが入っているのかなぁッ!?」
と。
「ぶひ?」
しかし、返ってきた声は、なんとも間の抜けた『男』の声で――。
レミリアは直視する。
丸っこく肥えた肉体に、餅の様にだらしなく膨れた四肢。そして股間にぶら下がる一物を。
ブタオも直視する。
どんな水滴も弾いてしまいそうなきめ細かく、透き通る様な白い肌。柔らかそうなサラサラの髪。健康的で引き締まった四肢に背中から生える小さな羽根。
この場に咲夜はいないと言うのに、数瞬の間、二人の間の時間が止まった。
しかし――。
「ぶひいいいいいいいいいいいぃぃぃッッッッ!!!」
「うぎゃああああああああああぁぁぁッテッッ!!!」
その均衡は、二人の絶叫によっていとも容易く崩れ去った。
ラッキースケベは、ラブコメの王道中の王道ッ!