POSSIBLE DREAM   作:鈴河鳴

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第八章 橙争の夕暮

 カチャカチャとナイフと皿のぶつかる音がして、柔らかく焼かれたひき肉の塊が切られていく。一切れを口に運び、咀嚼し、溢れる汁と噛みつぶされたそれを暫しして飲み込む。添えてあったほうれん草のソテーを箸で摘まんで、テルミが口腔に放ったところで彼女は口を開いた。

「……てるみさん」

「何だよ」

 首を傾げたテルミに、呼びかけた少女はへらっと笑って言うのは、ヤビコの方で面白いことがあるらしいですね、とのことだ。

 ヤビコというのは勿論、連合階層都市イカルガの現総領主『カグラ=ムツキ』が身を置く第六階層都市のことである。

 なんでも、捕まえた賞金首――ラグナ=ザ=ブラッドエッジの懸賞金をかけた規模の大きな格闘大会をやるらしいとか。

 カザモツに来ても彼女らはトレーニングを怠っていなかった。別にする必要はないと言えばなかったのだけれど、彼女がやりたいと言うからそれにテルミは従い、付き合っていて。それよりも早く『蒼』としての自覚をして欲しかったけれど……もし大事な時になっても彼女がそうできなければ、その時は無理にでも思い出させるまでだ。

 それで、トレーニングルームには人も集まるため、その分そういう噂も入ってきやすいらしい。更衣室での出来事なんかは完全にハザマ、テルミのあずかり知らぬところであるし、彼女がどこでその話を聞いたかと考えれば多分そこなのだろう。

「へぇ、それはまた随分と面白そうなイベントで」

 ひき肉の塊、もといハンバーグを頬張りながらテルミが言えば、こくりと彼女は頷いた。

 そういう大会だとしても、人同士が戦うのを見るのは、ユリシアはどちらかと言えば好きではない方だ。けれど、テルミが散々楽しそうな笑顔を見せていた相手、そして世界の敵であるラグナ=ザ=ブラッドエッジが自ら、自身の懸賞金をかけて戦うというのだ。見たいと思うことこそあまりないけれど、興味を持たぬわけがない。

「ま、仕事がなけりゃ行きたかったところなんだがねぇ」

 生憎とテルミ――正確に言えばテルミの器であるハザマには、ここに来てまで自身の目的のそれとは別の、書類作業があった。具体的な内容は主に経費についての報告だとか、諜報部が管理する資料を期限が過ぎても返却しない輩への催促状、あとは情報漏洩の許されない機密事項を、普通の書類と一緒に送ってくる別の支部へ文句を叩き付けるための書類だ。

 あともう一つ、書類ではないが――とある用事があった。保険だ。

 それに、なんだか嫌な予感がするのだ。先日の少女、セリカ。セリカ=A=マーキュリーの件もあるのだから――。

「てるみさん、かおいろ、わるいです」

 気付けばユリシアがテーブル越しに顔を覗き込んでいて、テルミはハッと目を見開く。それほど表情に出しているつもりはなかったのだが、彼女を思い出すだけで齎される気持ちの悪さは案外出てしまうものらしい。

「だいじょうぶ……ですか?」

 心配そうに問う彼女に、テルミは短く相槌を打った。それにしても、そんな大規模な格闘大会を開くという彼らの考えが、テルミにはまだ憶測でしか理解できなかった。世界中の眼が集まるような、そんな――。

 それに、巷ではあの『狂犬』の噂も出ている。それがどう出るかも気になるところだ。

 どちらにせよ、自身らの勝利は決まっているのだけれど。

 

 

 

   1

 

「……暇だ」

 ラグナはただただ暇を持て余していた。

 拘束陣がかけられたうえに、牢自体にも同様に術式がかけられ、さらに今はあるもののせいで力も出せない。こんな状況で何かしようという方が無茶な話であった。

 ラグナの目の前に腰かける少女は、高い位置でくくったポニーテールを揺らして、開いていた本を閉じ立ち上がると、一歩進み出て苦笑いを浮かべる。

「あはは……本でも読もうか? ココノエ博士から面白い本を借りたの」

 彼女――セリカは小脇に抱えた本をまた取り出すと、表紙を顔の横に掲げ首を傾ける。退屈そうなのに、牢から手も出せないラグナのことを気遣ってだ。

 彼女の気遣いを無碍にする理由も、ましてやこの退屈さを紛らわす手段を自ら棒に振る理由も、ラグナにはなかった。座ったままぴくりと眉を動かし顔を上げると、

「へぇ。どんなのがあるんだよ」

 と、少しばかり興味を露わにして、本――おそらく色んな話が収録されているらしいセリカの本を見た。それに嬉しそうに細めた目を開いて、ぱっと笑顔を咲かせる彼女は厚手の表紙をめくって、目次を見る。

「えーと……『赤い生物と一人の男』って話はどうかな。主人公の猫耳が生えた女の子が、自分を拾ってくれた研究員の男の人を振り回して過ごす楽しいお話なんだけどね」

 嬉々として語る彼女にラグナは微妙な顔をする。猫耳の少女に振り回される、なんてどこかで聞いたような話は間に合っているからだ。まるであの、食べることと寝ることしか頭にないお馬鹿な猫娘ではないか。

 ラグナのその考えを察して、彼女はまた眉尻を下げると、目次に視線を落とす。

「んー……じゃあ『少女と商人』なんてどう? 仲間と一緒に青年と元奴隷の女の子が商売をしに行くの」

 それもなんだかピンとこない。申し訳なさと微妙さに複雑そうな顔をするラグナに、あは、とまた笑って彼女はそれならと、本をまた脇にやり顎に手を添える。

「うーん、それじゃあトランプなんてどうかな。あ、そこから手出せなかったね、ごめん。えっと、他には……」

 唸り、何とかしようと考えるセリカに、ふと声がかかる。目を丸くして顔を向ける彼女にラグナは問うた。

「あんたさぁ、いつまでそこにいるつもりなんだ」

 彼女がいつまで経っても自分の傍を離れない理由を問うものであった。特に仲が良いわけでもないのに、親しく話しかけて、自身と共に居る彼女の存在はひどく違和感があった。

「いつまでって、そりゃあラグナがここから出してもらえるまでかな?」

 名を呼ばれた瞬間、ざわりとラグナの胸の中が騒ぐ。それが何故か分からなくて、気安く呼ぶなと軽く怒鳴りながら、身体を動かそうと力を入れる。しかし、ぎゅうと身体を締め付ける感触は消えず――。

 この感覚は、多重拘束陣だ。しかも解除しようにも数秒に一回コードが変わるシロモノだった。力技でぶち壊さなければ、元々術式の類が得意でないラグナには到底外すことなどできない。

「クソ……こんなもん、力さえ出せれば。あんたさぁ、マジでどっか行ってくんない? 頼むわ」

 けれど、力を出そうにも右腕と右目が使い物にならないうえに『蒼の魔道書(ブレイブルー)』が反応しない。彼だって馬鹿ではない。彼女が近付くことで彼の右上半身を封印されていることなどとっくに気付いている。さすがに、どんな原理でそうなっているかはわからないけれど。

 彼の言葉に、彼女は首を横に振って申し訳なさそうに言った。

「ごめんねラグナ。でも駄目なんだ。ココノエさんに、ここにいろって言われてるし……それに」

「それに?」

 口ごもる彼女の言葉を促すように、ラグナが首を傾げる。それに後押しされたように、彼女は再度口を開いた。

「ラグナの傍に、いたいから」

 訊くんじゃなかった、とラグナは思う。だから話を変えるように、ずっと気になっていたことを口にする。

「つーか、なぁ。あんた何者なわけよ。随分と馴れ馴れしいし。俺があんたに会ったり、なんかしてやったことでもあった訳?」

 特に何かした記憶はないし、それどころかこの記憶が正しければ彼女とは最近初めてあったばかりだ。だから、彼女がここまで自身に親しくしてくるのは、違和感があった。まるで彼女だけ、自分の知らない自分を知っているようで――。

「うーん、あはは……そう言われると困っちゃうな。ちょっと寂しいかも」

 ラグナの胡乱げな瞳と、どこか突き放すような尋ねる言葉にまた苦笑を零して、セリカはそう述べた。流石に言いすぎたかと思い、謝りはするが知らないものは知らない。そうラグナが言うのに対して、セリカだってちゃんと説明したかった。

 けれど、どう言えばいいか分からないし、纏まらないし、仮に纏まったとして信じてもらえないような内容だから。

 微妙な空気の流れる二人の間に、ふと声が響く。セリカの背後から、甘やかな、幼さが残りながら気品に満ち溢れる薔薇のような声が。

「あら、セリカ。貴女もいたの」

 驚きに瞠目し声をあげるラグナと、同様に驚きながらもすぐににこやかに笑って応じるセリカ。ココノエさんに、ラグナの見張り番を頼まれて……そう語るセリカに反応したのはラグナだった。ラグナに接するときほどではないが、やけに馴れ馴れしくて引っかかりをおぼえたのだ。ただ、それもどうでもいいことだと流せる程度には、自身がウサギと呼ぶ彼女に話しかける方が先決だった。

「ウサギ、ここから俺を転移してくれ」

「嫌よ」

 即答の拒絶。がくり、と肩を落としそうになるがラグナもそう言われることは察していた。彼女はラグナに対してどうにも厳しい。それに、何故だか今日の彼女はどこか不機嫌そうなオーラを纏っていたから。

「それに、貴方如き『ゴミ虫』の言うことを、何故私が聞いてあげなくてはいけないのかしら?」

「ゴミ虫って……いや、頼むよ。こんな所でゴロゴロしてる暇なんざねぇのは、お前も分かってんだろ?」

 少しの呆れ混じりにラグナが懇願するも彼女は容赦なく切り捨てる。ゴミ虫が鳴いているように聞こえるなんて冷たくあしらい、けれど彼を一度ちらりと見遣って溜息を吐いた。

「私はただ、暇潰しにこの子達とお話に来ただけよ」

「この子達……?」

 ラグナが首を傾ける。彼女がふとセリカの方を見て言う言葉が、不思議だったからだ。だって、ここにはどう見てもレイチェルを除けば二人しか居ない。それに彼女がラグナを『この子』なんて呼ぶ状況ではないから除外されるとして、そうすると彼女が呼んだ対象はセリカたった一人だけだ。複数形の言葉に対して。

 けれど、そんなラグナの疑問は案外早く解決されることになる。

「レイチェル……さん? 何でしょうか……?」

 現れるのは、金の髪を揺らす少女――ノエルだった。頭につけられた小さな青のヘッドギアに軽く触れた後、そっと歩み寄る。

「ノエル? なんでテメェもここに」

 その声に不思議そうに顔をあげるラグナ。レイチェルの言った『この子達』のもう一人はノエルのことなのだろうことは分かっても、理由が分からなかった。

「呼ばれた気がしたんです……。ここに来なさいって」

 答える彼女。胸で軽く手を重ねて、困ったように笑う少女。その言葉にラグナは溜息を吐いて、レイチェルを見遣った。人が捕まっているところで女子会でもする気なのだろうか、あのウサギは、なんていう思いを込めて。

 けれどそれに知らぬふりをして、彼女はセリカとノエルだけを見て口を開いた。

「そうね……貴女達は知っておいた方が良い『お話』よ。そこのゴミ虫が聞き耳を立てているかもしれないけれど、気にしなくていいわ」

 ゆったりと紡ぐ言葉は、ラグナに向けた毒を含みつつもどこか寂しそうな声によるものだった。お話。その単語を繰り返して首を傾げるセリカに、ええと頷いてレイチェルは聞くか、と問うた。

「うん! 聞かせてください!」

「お願いします、レイチェルさん」

 二人がレイチェルの問いに答えると、それを予測していたかのように彼女はまた小さく頷いた。瞼を閉じて、金の睫毛を震わせる。紅い唇をそっと開いて、

「少しだけ長くなるかもしれないけれど……我慢して頂戴」

 そう言って、数秒ほどの沈黙が流れる。やがて、彼女が紅玉のような目を開いて、閉じた口をまた開きかけ――噤む。焦れったい静かな時間、誰も口を出すことは憚られて、皆一様にレイチェルを見つめるだけだった。

 そして、何かを決意したように彼女はもう一度口を開くと、こう言った。

「それはね、一冊の『本』と少女のお話よ」

 

 

 

「……チッ、つまらねぇ話だ」

 彼女が話し終えると、そこには重苦しい空気が流れた。

 仄暗く、誰も救われない悲しいお話。終わりのないお話を聞いて誰も口を出せずにいた。けれど、ラグナはその空気の悪さを掻き消すように、静かに毒を吐いた。

「私の話はこれでおしまい。――それと」

 そんなラグナの言葉を無視して、レイチェルがふとノエルの後ろを見ると、ワンテンポ遅れ皆の視線が一斉にそこへ集まる。この地下への入り口である階段の方だ。

「盗み聞きは感心しないわね、ココノエ」

 彼女が名を口にした途端、陰から現れるのは桃色の髪と二本の尾を揺らめかせる半獣人、ココノエであった。彼女は一歩、二歩と彼女らへ近付くと短く語る。

「お前が勝手に入り込んで、勝手に話したことだ。私には関係ないだろう」

 冷たい言葉ではあったが、そこに言葉以上の責める意図は見当たらない声音で言う彼女に反論することもなく、甘やかなレイチェルの声はそうね、とだけ答えた。

「それじゃあ、私は行くわ。二人とも、私のお話に付き合ってくれてありがとう」

 それだけを言うと、彼女の足元には薔薇色の魔法陣が浮かび上がる。ノエルとセリカ、二人が返す礼の言葉を受けながら、中心に薔薇を描いた複雑な魔法陣ごと彼女の身体は浮く。そして、開く空間。向こうの闇からは薔薇の濃い香りを纏った風が吹く。

 その空間の裂け目に彼女が足を踏み入れると、それは彼女を飲み込み――彼女の身体はすぅっと消えた。

 その一連の流れを見た後に、ポツリとラグナは呟く。

「……決して救おうとしない。ただ『倒す』だけ……か」

 どこかで聞いたような、既視感を覚える話であった。中盤からはまるで違う話だったのだけれど、その話は、何故か自身に重なって。ならば、何故自身は戦っているのだろう。ラグナは無意識に口から漏らしていた。

「ふん。おいノエル、勝手にコイツの所に来るな」

 らしくもなく思考に耽るラグナを見て、鼻を鳴らすのはココノエだ。ノエルの方にすぐに視線を遣ると注意の言葉を口にする彼女に慌てて彼女が謝罪する。

「あ……ごめんなさい、ココノエ博士」

 が、素直に彼女が応じればそれ以上責める気もないらしい、ココノエは丁度いい、なんて言って彼女に歩み寄ると、

「お前を探していたんだ。マコトが帰ってきた。今部屋にいるはずだ。後で呼ぶから、それまで部屋で待機していろ。いいな」

「マコトが……!? 分かりました、ありがとうございますっ」

 下された指令に、親友が見つかったことを知り彼女は一度驚いたように目を丸くした後、頷き礼を述べた。親友とのやっと再会できる。その事実を噛み締めて、彼女は少しばかり機嫌を良くして、地下から出る階段を駆け上がって行った。

 その背を見送り、足音も聞こえなくなったところで彼女がラグナを振り向く。

「それとだ、ラグナ。出ろ。私と一緒に来い」

「あ? いいのかよ、俺を出しても。どうなっても知らねぇぞ」

 近寄りそう命令を下すココノエに、先ほどまで散々退屈だなんだと言っていたラグナは意外にも反抗的な態度を取った。ここから出たいとは思うが、彼女の言うことを聞くのは何だか癪だったからだ。それに顔色一つ変えることなく、寧ろ予測していたというように、彼女は白衣のポケットに手を突っ込んだ。

 そこから取り出される物体は小さな立方体をしており、上面に赤い円形のボタンが一つ付いていた。これが何か分かるかと問う彼女に、四角いモノだとラグナは答える。

「見ての通り、これはスイッチだ」

「何のだよ」

 話を進めるため早々にその正体を明かすココノエと首を傾けるラグナ。ここで取り出すには何かしらの理由があるのだろうが、見当がつかないからだ。

 ふっ。彼女が鼻で小さく笑った。

「……『この』私が、お前の左腕をただ治した『だけ』だと思うのか?」

 左腕を治したというのは、以前ミュー・テュエルブとして精錬されたノエル=ヴァーミリオンをラグナが倒し、ラムダから取り込んだイデア機関で逆精錬……ノエルとしての意識を取り戻させたという一件で、彼の左腕――つまり言うところ、ラグナの『蒼の魔道書(ブレイブルー)』とは反対の腕が吹き飛んだため、ココノエが義手を作ってやったのだ。

 そして、彼女の言葉はそのまま、ただ左腕をくれてやっただけでないということだ。色々と身体の検査もしたし、そして――。

「いいか、よく聞けラグナ。お前の身体にはMD爆弾が仕込んである」

「はぁ!? 爆弾だと!?」

 きらりとココノエの目が光ったような気がした。あまりの不穏な言葉に、思わずラグナは叫んだ。爆弾。爆発物。それが作動すればどうなるか、想像だけで充分ラグナの顔を青ざめさせることはできた。

「MD爆弾は左腕の細胞単位で仕込んであるから、無論、取り出す事など不可能だ。まぁ、威力の方は……体験したときにはお前の身体は原子レベルまで粉々になっているだろうから、関係はなかろう」

 得意げに語る目の前の半獣人が、ラグナには悪魔にしか見えなかった。そうした理由は何となく分かる。自身の言うことを聞かせるための首輪だろう。――首輪にしては、物騒すぎるシロモノであるが。そして、そこまでのことをする彼女がどう見ても正気のヒトだとは思えなかった。

「脅しにしては、出来の悪い話だな……」

 頬の筋肉をひくつかせ、滲む乾いた笑いと共にそう絞り出す声はか細い。言うラグナに彼女は何とでも言え、と言ってから、ふと思い出したように天井を見上げた。

「あ~、あと、そうだ。MD爆弾は『お前の人体のみ』を破壊するからな、周りの被害は気にせず存分に爆死してくれ、じゃあな~」

 ひどく気の抜けた声が紡ぐ言葉はおぞましい。

 待てと叫ぶ言葉は遅く、ぽちり。そんな表現が正しいだろう音を奏でて、彼女の人差し指は左手に収まったスイッチのボタンを押した。途端、少しばかり高めの機械音が一つ鳴る。

 肩に力が入り、目をぎゅっと瞑って、ラグナは死を覚悟した。――やり残したことを思い出す。けれど、一向に覚悟した衝撃は襲って来ない。

 地獄や死後の世界といったものは信じない主義であるが、まさか、もう死んだのだろうか。

 そう思いながら、恐る恐る目を開けると――。

「……って、おろ? 何も起きねえじゃねえか、何だよココノエ、やっぱハッタリか!?」

 そこには、何の変哲もない自身の手があり、身体があり、そして目の前には無表情のココノエと、心配げにココノエを見つめるセリカが居た。

「セリカ。お前にやる。なくすなよ」

「へっ? あ、はい」

 スイッチをセリカに差し出し、彼女が言う。慌てて両手で包み込むように受け取るセリカを見て頷くと、彼女はまたラグナに向き直る。

「ラグナ、爆弾は起動した。もしセリカから一定以上離れればそのMD爆弾は爆発することになる。距離はそうだな……ある程度はいけるはずだが、試してみるか?」

「……マジなのか」

 首を僅かばかり傾けて問う彼女に、目を見開き尚も問うラグナ。それに深く深く、わざとらしいほどの溜息を吐いて――彼女は言った。

「物分かりの悪い奴だ。時間の無駄だな、やはり処分するか。セリカ、行くぞ」

 手を招いて、セリカを呼ぶココノエに待って、そう言うのは呼ばれたセリカ自身だった。ラグナはどうするの、そう問う彼女に不思議そうに、首を先ほどとは反対に曲げてココノエは尋ねた。

「何だ、セリカ。この男が粉々に砕け散る様を見たいのか。それなら置いていっても構わんが」

 そんなココノエの台詞に異を唱えるのは銀髪の男、ラグナだ。曰く、スイッチが近くにあれば大丈夫なのだろうとのことだったが。首を横に振って、ココノエは呆れたようにラグナを見つめて、語る。

「この私がセリカだけに爆弾のスイッチを託すとでも思うのか? お前はまだ全然、私というものを理解していないな」

 ――私の指示に従わなければ、即爆破する。

 低い声で淡々と告げる彼女にぞわりと身の毛がよだつ感覚をおぼえて、ラグナは慌てて叫んだ。先ほどまでの反抗的な態度はどこへやら、

「出るよ! 出りゃあいいんだろが!! はいはい、着いて行きますよ、どこまでも」

 そう言うラグナに満足げにふんと鼻でまた笑い、ココノエが牢の鍵を開ける。

 性格の悪さはあのウサギ以上だ。小さく零す声を聞きつけて、何か言ったかと問う彼女を冷たくあしらって、彼はセリカに行くぞ、とだけ言いさっさと歩いて行ってしまった。

 

 

 

   2

 

「んで、何の用だよ。俺を出すほどの用件があるんだろ」

「話は簡単だ。俺に協力しろ、報酬は弾んでやるぜ」

 問うのはラグナだ。それを受けて立ち上がり、歩み寄るのは黒髪の巨漢、カグラ。

 腕を組んだまま見下ろし、そしてニカッと人の良い笑みを浮かべて答える彼を睨み付け、ラグナは、お前の犬になるなんてふざけるな、と吐き捨て――。

「って言いてぇところだが、その為の『爆弾』なんだろ。やることがいちいちセコいんだよ、テメェらは」

「爆弾? なんだそら」

 そんなラグナの零す言葉に首を傾けるのも、やはりカグラだ。彼は爆弾など仕掛けた覚えも、仕掛けさせた記憶だってない。だから、その言葉を出したラグナに問うわけだが、

「コイツの身体にはMD爆弾が仕掛けてある。細かい説明は省くが、要は首輪だ」

 答えるのは桃色の尻尾を揺らめかせる半獣人、ココノエであった。そして、ここに来てラグナは、このカグラの部屋に来るまでの二時間の間ずっと考えていた一言を口にした。

「首輪にしちゃあ物騒過ぎんだろ」

 苦笑し、同意を示すセリカと、やはり顔を引き攣らせえげつないと漏らすカグラ。それでもその分だけ話は早いとして、すぐにラグナへと顔を向け直した。

「取り敢えずだ、ラグナ。お前暫く『蒼の魔道書』使用禁止な」

 軽く告げられた台詞。あぁわかったなんて流しそうになって、その内容を噛み砕き、咀嚼し、反芻して――、

「はぁ? ふざけんな!」

 蒼の魔道書を使えないということは、ラグナの力の殆どを抑えることに繋がる。そんな状態でどうしろというのだと言いたいラグナの気持ちもカグラは分かっていた。

 それ以前に、今は彼女が居るために蒼の魔道書が反応しなくなっているのだけれど。

 ふざけるな、と言うラグナを手で制し、その気持ちを分かっておきながらカグラは最後まで話を聞けと言って、腕を組み直す。

「俺達は今、ある計画を遂行してるんだが、それにはお前の『蒼の魔道書』が邪魔なんだわ。色々勘違いもしちまうからな」

「勘違い? 何をだよ」

 眉根を寄せ、ラグナは伸びっぱなしで垂れてきた前髪を払いながら問う。勘違いとは一体何のことだろうか、それに答えるカグラは少しばかり困ったように語る。

「ハザマ……否、ユウキ=テルミか。俺たちは奴の動きを追っているわけで。お前が蒼の魔道書でも使おうもんならセンサーが奴の『碧の魔道書』と誤認識しちまうんだよ」

 ただでさえテルミらと行動している彼女――ユリシアだって、何故か蒼の反応がして、紛らわしいというのに。

「ま、そういうわけで。報酬は弾むから死ぬ気で働け」

「報酬なんかいらねぇよ」

 またニッと笑って親指を立てるカグラに素っ気なく突っぱねるラグナ。予測していたのかカグラは特に驚く様子もなく、寧ろその笑みを一層深くして、

「クシナダの楔……って言ってもか」

 クシナダの楔。魔素の活動を断ち切り停止させてしまう、この時代なら民たちの生活すら危うくなってしまうものだ。しかしその起動キーは失われ、所在も明らかではない。そして、ラグナの探しているものであった。

「クシナダの……おま、クシナダの楔を持ってんのか!?」

「持ってる、って言えば嘘になるな。正確に言えばどこにあるかを知っているってところだな」

 カグラが語るや否や、動揺を見せるラグナ。そして、ぐっとカグラに近寄り、詰め寄った。どこだ、どこにある。それがあれば、やっと、彼女を。

 そう焦るな、と制しながらもカグラは自慢げに尚も続ける。

「しかも……だ。楔の『起動キー』もここに居るぜ」

「起動する術は既に失われているはずじゃ……って、ここに、居る?」

 驚いたように言って、それから気になったのは『ある』ではなく『居る』とカグラが言ったことだ。しかも、それはここに居ると。首を傾けるラグナに対し、その後ろを手を差し出すことで示してカグラは、そこに。と。

 振り返った先に居たのは、少女だ。

「どうも~」

 セリカ。セリカ=A=マーキュリー。その存在を認知し、カグラの言ったことと重ね合わせ、目を見開いた。セリカがなのか。半分疑問、半分そうなのだろうという混ざり合った状態で、彼は声をあげる。

「そうだ、この『セリカ=A=マーキュリー』の魂が、クシナダの楔の起動キーだ」

 どういうことだ、とラグナは聞かずにはいられなかった。けれど、それでも、カグラが制すれば仕方なく頷いて、顔を向ける。

「んで、計画って言うけどどんな計画なんだよ」

 楔のことへあまりに気を取られていたが、そうして考えてみると気になったのはそこだ。問うラグナにカグラが何かを言う前にココノエが告げる。貴様が知る必要はない、と。

 しかし――カグラはそれでも答えた。

「帝を倒して、統制機構を乗っ取る!」

「おいカグラ!!」

 思わずココノエが制止の声をかけるも遅く、その言葉にラグナは目を見開いていた。帝を倒す。それはラグナも同じ目的であったから。しかし、彼の立場は何となく会話の中で理解していた。帝に尽くす統制機構の衛士の中でもトップの人間なのだろうと。だから、意外性に驚かずにはいられなかった。

 暫しの沈黙。ラグナがハッとすると同時、どうせ一緒に行動するなら知っておいた方が楽だとカグラが言う。

「……まぁ、そうだが。くれぐれも私の邪魔はするなよ、ラグナ」

「せいぜい爆破されないよう気をつけますよ」

 ひどく苛ついた様子でココノエが渋々と告げる。溜息、そして眉間を指で揉んだ。呆れ半分、もう半分は真面目なトーンでラグナが答えた。

「んまぁ、あとは明日の大会で頑張ってくれりゃいいからな」

「明日の大会?」

 ラグナがまたも眉間に皺を作り、胡乱げな瞳でカグラを見つめて問う。何の大会があるというのだろうか。それには琥珀色の瞳をしたカグラの秘書である青年、ヒビキが答えた。

 

 

 

   3

 

 連合階層都市イカルガでは、とある話題で賑わっていた。

 イカルガ内戦にて活躍したあの『黒騎士カグラ』が、史上最高額の賞金首、ラグナ=ザ=ブラッドエッジを捕縛した報があったのだ。

 そして何よりも――。

「全世界の皆様、長らくお待たせいたしました! いよいよ今日『バトル・オブ・ラグナ=ザ=ブラッドエッジ』が開催されようとしています!!」

 ヤビコの統制機構支部が主催する格闘大会。死神の懸賞金をかけた戦いに、死神自らが参戦する前代未聞の内容。賞金はなんと九千万プラチナダラー。

 司会の張り上げる大声に会場の空気はヒートアップし、次々と歓声があがる。

 そんな中、死神の所在を確認するためだけにツバキは来ていて、カグラに挨拶を終えた彼女は目的を果たしすぐさま帰ろうとしていた。

「なんだ、見て行かねえのか?」

「ええ、このような『馬鹿騒ぎ』は興味がありませんので」

「ん、そうか。そんじゃ終わったら、よろしくな」

 カグラの言葉に頷いて、一礼した後に彼女は紅い髪を翻し去っていく。そこでカグラが振り向くのはラグナの方向で、言う言葉といえば先の彼女と共にあの緑髪のいけ好かない男が居なかったことについてだった。その喋り方は、予想が的中したことへの嬉しさと安堵が混じっている。

「さて……ココノエ、そっちはどんな感じだ?」

 ちらりと出口の方を見て彼女が完全に居なくなったことを確認すると、やがてカグラは虚空に向かって話しかけた。司会に皆が気を取られているうちに。

 ピピ、と機械音が小さく鳴り響き、頭に聞き慣れた声が直接語りかける。通信に応じたココノエのものだ。場の形成は順調だと答え、ココノエはそしてラグナにも茶化すように、しかし声音は大して変わらぬまま『人気者だな』と投げかけた。それを適当にあしらったところでカグラが報告を一つ。

「ツバキは『予想通り』引き上げた。この手の『騒ぎ』を嫌がるってことは、まだツバキの意思が勝ってるってことだ。希望はあるとアイツらに伝えておいてくれ」

 前に見たとき。マコトとツバキが鉢合わせた時の彼女はもう半分ほど意識を食われかけていたように見えたが、それでも彼女の意思がまだ残っているということは『こちら側』に引き戻せる可能性は潰えていないというわけだ。

「あと、ハザマも来なかったぜ。やっぱお守りが効いてんのかね」

「それについてだが……どうにも腑に落ちない点がある。『碧』の反応がこの周辺で一切探知されていないんだ」

 カグラが嬉々として語る言葉に、ココノエは通信越しに首を振ったような気配がした。そして、静かに語る内容はにわかには信じがたいものだ。彼らが、この状況を見逃すはずがないのだ。これだけ世界中の『眼』が集まる状況を。

 けれど、ココノエは何度も調べたしセンサーの故障でもないと告げる。ならば、何か別の理由でもあるのだろうか――。

 そうこうしているうちに、予選の第一試合は始まりを迎えた。

 

 

 

 大会に集まったのは素人ばかりで、欠伸を漏らすカグラとラグナの男性陣、そして対照的にそれでも観戦を楽しむレイチェルとセリカの女性陣。それに近付く一人分の足音があった。

 ふと、カグラのもとに一つの通信が入る。聞き慣れた機械音に応じて、彼が通信に出る。

「カグラ、すぐ近くに『蒼』の反応があった。周りを確認しろ」

 通話を開始するや否や、彼女――ココノエが焦った口ぶりで言う。すぐ近くということはあの彼女がここに来るまで見逃していたということだろう。それに不思議さを覚えながらもカグラは適当な相槌を打って辺りを見回した。それにつられて他の面々も同様に、なんだなんだと見回して。――見つける。途端、彼らの目が驚きに見開かれた。

「……貴女」

 ヴァイオリンを思わせる高く甘やかな声が、静かにそう漏らす。悲しげにすぅっと細められる紅の双眸。それを皮切りにして紡がれるのは低く渋いカグラの声だ。言葉は語るまでもなく、何故居るのだ、と。

 問いかけられた側――今しがたここに来たばかりである少女は集まる視線を浴びて、なんとなく予想こそしていたけれどやはり困った様子で視線を右に左に下に、と泳がせた。

「え……と……その、たいかいが、きになったので……じゃ、だめ、ですか」

 震える唇がやがて告げる内容は相手に答えの良し悪しを委ねるひどく曖昧なもの。皆が黙りこんだのは一瞬で、真っ先に口を開いたのは、意外にもレイチェルであった。

「あの男はどうしたのかしら」

 今にもその足を一歩踏み出して詰め寄りたい衝動をレイチェルは抑えた。代わりに警戒のため声を一オクターブくらい低くして、問う。テルミは居ないのかと。あれだけ彼と行動を共にしていて、あんな凶悪な姿を見てまでも着いて行ったくせに、何故彼と居ないのか。

「そうだ、ユリシアちゃん。ユリシアちゃんはハザマに『保護』されてるはずだろう? なんで一人で来てるんだ」

 問う彼女に続いて、カグラも同じように問うた。何故なら先述の通り、ユリシアはハザマらによって『保護』されているはずだからだ。

 無論、ココノエやレイチェルの話からハザマ達や彼女の正体を知った今じゃ、彼らに彼女が利用される未来があるだろうことは目に見えていたけれど。たとえ帝の勅命が本当だったとしても、その帝すら彼女を利用しかねないのだ。

「……はざまさんは、べつの、だいじなおしごとがあったので。たいかいが、きになるなら、おわるまで、ここでまってろと、いわれて……」

 何度か意味を成さない音を発した後、彼女はそう言う。片方の眉をぴくりと持ち上げるカグラ。形だけでも『勅命』は如何なる事柄よりも優先されるはずだ。が、その保護するという勅命を半ば放棄するほどの仕事、というのに引っ掛かりを覚えたが、それを彼女に聞いても答えられないのだろうから流すことにしたけれど。

「ふーん……ま、なんだ。ゆっくり見て行けよ」

 これ以上彼女に追及しても無駄だとして、自身の隣――ラグナと反対側に手の平を出すことで示してやれば彼女は近寄り、隣に恐る恐る収まった。肩に力が入りっぱなしだったけれど。

「えと、あの、その……ご、ごめんなさい、です」

「謝るこたぁねえよ。それよりほら、出場者、出てくるぜ」

突然出てきたことに対してか、それとも特に意味はないのか謝る彼女に優しく言ってやって、彼女を見下ろす。視線の先に居るその少女は小さく頷いて、最終予選の出場者を見るためコロシアムの中央へと『眼』を向けた。他の観客たちと同じように。

 ――やがて終わる試合、案外あっさりと終わってしまったそれで、どちらが勝つか賭けていたのだろう女性陣からセリカの悲鳴があがる。ちらと見遣って、会場にまた視線を戻す。

 ――と、足音がして、近付く気配。

「この試合、どっちが勝つと思う?」

「……ぁ」

 来たはいいが緊張の抜けない彼女を案じてか。声をかけるのは先までレイチェルの傍で声をあげていたセリカだ。何故かあのとき感じた胸のざわめきはない。

 そして目の前に出されるのは大会のパンフレットだろう、そこにずらりと並ぶ名前に眩暈がしそうになるが堪え、指された一番下の名前を見る。

「私はこのボブって人が勝つと思うの! だって名前が可愛いでしょ?」

 同意を求めるような問いをかける彼女に応えかねて、彼女の目を一度見た後、レイチェルをちらりと見遣る。彼女もまたどこか不安げな目でユリシア達を見つめていた。

「……その、じっさいにみないと、わからない、です」

 セリカの差し出す紙に視線を戻して、答える。視線だけを上げて窺えば、それもそっかと笑う彼女。会ったばかりで何も知らないというのに、彼女の笑顔は心が温まる気がした。

 そして、ふと見るのはセリカの後ろに居る男――ラグナだった。

「そこの……えっと。らぐなさん、でしたか……は、たたかわない、ですか」

 世界の敵。大切な人に教えられた通り呼んだとき嫌そうな顔をされたのを思い出して、彼の呼び方を改める。記憶を頼りにして。

「そりゃあ、参加人数多いし……勝ち残った奴らと戦えばいいんだってよ」

 答えるのは、話題に上げられたラグナだ。ラグナ自身も先ほど聞いたばかりだったけれど、要はそういうことらしい。前に会ったときのような苛ついた雰囲気はなく、そこに安堵しながら彼女は頷いた。

「そう、なんですね。らぐなさんが、ひゃくにんぎりでもするのかと、かんがえてました、です」

「俺も箔がつくしそっちのが良いと思ったんんだけどよ。……にしても来ねぇな、アズラエル」

「……あずら、える?」

 何気なくラグナが零した単語に、ユリシアが反応する。アズラエル。本にも出てくるその人物は、今や昔の歴史の中の人物とされていたはずだけれど。

「おっかしいなぁ、来ると思……あ、やべ」

 ラグナの言葉を受けて、カグラが顎を指で撫でながら言いかけ、ユリシアを見下ろして顔を引き攣らせる。ユリシアといえば、疑問でしかなかった。

 借りた歴史の教科書に出てくるような、狂犬と呼ばれたあの人物を、まるで彼らは呼ぼうとしているみたいなのだから。

「……あずらえる、さん……が、くるんですか」

「や、えと、いや、んなことより、次の奴が出てくんぞ」

 必死に繕う言葉を探して見つからず、結果話を逸らすようにして、くいと親指で会場の中心を指差す。納得しきれずにいたけれど、教えてもらえないことなのだろうとして、彼女は一度俯き、それから会場の方を見る。

 会場のディスプレイには今出てこようとしている人物を映すためか、門をアップで映していた。

 バトルフィールドへの入場口は二つある。『虎の門』と『龍の門』だ。

 門の上にそれぞれの名を刻んだ大きな彫刻が置かれ、何とも言えない物々しさを感じさせていた。そして、司会の声に続けて朱色、虎の門から現れるのは女傭兵だった。名はバレットというらしい。

 白いシャツは歩く度に揺れる胸が窮屈なのか大きく開かれており、その上から羽織ったジャケットも同様に閉じられることはない。腰に巻いたベルトは長く、余りの部分がまるで尻尾のように垂れさがり、揺らめいていた。

 さらに特筆すべきは尋常ではないほどのローライズなホットパンツ。さらけ出される肉付きの良い太もも。そして何よりも、股上が浅すぎる故に尻が見えそうになっているのだ。

 短い白髪の切り口は荒々しかったし、後方のディスプレイに映る彼女の顔には頬から鼻を通って真一文字に傷跡が刻まれていたけれど、褐色の肌は艶があり顔立ちもなかなかの上玉。

 女というだけで観客は沸き立ったが、彼女の姿を見てさらに興奮を覚えたものは一定数あったことだろう。

 一見健康的ながら扇情的な彼女の出で立ちに皆驚いてはいたが、ここが今格闘大会の真っ最中であることを思い出し、皆一様に自然と彼女の武器を探す。

 そしてそれは案外早く見つかった。――腕。すらりと伸びたそこには、金色の厳ついガントレットが装着されているのだ。それが彼女の武器なのだろう。

 皆の視線を一身に浴びながら、重そうな両腕を組む。見上げる先に居たのは――カグラだ。司会こそラグナを睨み付けていると言ったが、当の本人たちには分かる。睨まれたのは、カグラだ。

「続きまして、龍の門よりボブ選……え、えぇ? 何です?」

 睨まれるだけのことをしたおぼえも、ましてや彼女の顔自体すら記憶にないカグラ達の短いやり取りを他所にして、先ほどセリカが賭けた選手が出場する番がやってくる――が。司会が唐突に入った通信に、マイクを切るのも忘れて応じる。ざわめく観客、しかしその声は司会の次の言葉でさらに大きくなる。

「え~と、只今入りました情報によりますと、ボブ選手はとある事情で出場不可能となりましたので……と、特別ルールにより、代理選手が試合をするそう……です……?」

 一言ずつ確かめるようにして言うのは、特別ルールなど本来存在しなかったからだ。眉根を寄せるカグラ達であったが、突如彼らのもとに通信が入る。

「オイ、カグラ!!」

「では、えーと。選手名は……んなっ!?」

 しかし通信を入れた人物、ココノエが何かを伝えようとするよりも先に、司会が選手名を発表しようとして――ひどく、驚いたような声をあげる。それでも、司会の彼は口にした。その名を。

 そして、その名を聞いた瞬間、誰もが驚くのも無理はないと思うと同時に、とてつもない悪寒が背筋をはしるのを感じた。――狂犬が、現れたのだ。

「ア、アズラエル……!?」

「ちぃっ、派手な登場しやがって」

 舌を打ってカグラがそう零し、近くにいた衛士に声をかける。救護班を全員、選手の控室へ連れていけと。途端、放心していたその衛士は慌てた素振りで了解を示し、他の衛士にもその旨を伝え――。

「出るか?」

「や、待て。ココノエ、そっちはどうだ」

 それとは別に、ラグナが問う。対峙するバレットでは勝てるはずもないからだ。けれど『計画』のためには、もう少しかかるらしい。ココノエが座標の固定に手間取っているのだ。

「あれが、あずらえる……さん、ですか」

 そんな少女の声に振り向くと、目を丸くしてただ『狂犬』を見つめるユリシアが居た。逃げる観客であった人達も少数居たというのに、彼女は寧ろ身を乗り出してそれを見ていた。まるで、彼に恐怖も敵意も何も抱かないというように。

「おいおい、ユリシアちゃん。あんまし身を乗り出さないほうがいい。アイツはマジでヤバいってのは常識だろ」

 少女の肩に手を伸ばして、今にも一歩近寄らんとしている彼女を止めようとするカグラ。その表情は珍しくも引き攣り、焦りを見せていた。彼女は見ていて危なっかしいし、それに彼は――。

「……さつりくしゃ……でしたっけ」

 ふと、彼女が口を開く。漏らされる舌ったらずな言葉に、一瞬理解が遅れた。

 ――殺戮者。狂犬。それらは全てあの男――アズラエルにつけられた異名だった。その言葉の不穏さが感じさせるものと同等、否、それ以上に彼は野蛮で、戦いだけを生き甲斐にした、人間の皮を被った怪物であった。

「じゃあ、なぜ、あのひとは。じぶんから、むかっていかない……ですか」

「は?」

 彼女は未だアズラエルの居るコロシアムの中央を見つめながら、訥々と問う。その言葉を確かめるようにカグラも自然とユリシアの視線の先を見た。

 そこではいつの間にか、バトルフィールドに出ていた二人、バレットとアズラエルの戦闘……とも呼べないような一方的な攻防が始まっていた。

 バレットは先の、別の予選試合では見事な試合の組み立てをしていたけれど、それでもアズラエルの凶悪にして狂暴な力の前には成す術もなく、目も当てられない惨状になっていた。

 何故だかやけにあの男を敵視しているように見えたが、それでも骨をやられればまともに立つことすらも難しい。ふらふらと立つ彼女はアズラエルにとっては軽い一発だろう拳の威力にすら負ける。

 が、今すぐにでも飛び出したい気持ちを、後のことを考え抑えて見ていると彼女の言葉の意味に気付く。彼女が一瞬だけ、気を失ったときだ。もう一発入れるなら今がチャンスだろうというのに、狂犬は彼女が起きるのをピクリとも動かず待っていた。

 そして彼女が起き上がり、力もあまり入らないなりにまた構えの体勢をとり、彼に無謀にも向かっていくと――ギリギリまで引いた拳を捻ってまた一発打ち込む。衝撃で、彼女の身体は吹っ飛び地に打ち付けられた。

 傍から見て、彼女は既に戦闘の続行が困難だった。けれども彼女は、それでも自身に鞭を打って身を起こす。

「……もう見てられねぇ」

 そう言ったのは、ラグナであり、それに着いて行くのはセリカだった。あそこで攻撃を受けているのが見知らぬ誰かであっても、こうも理不尽な攻防を見ていれば気分が悪い。苛立ちにラグナは舌を打って、コロシアムの観客席中央まで歩いていく。追いかけるセリカを止めないのは彼女がバレットの傷を癒すことができるからだし、気にする余裕がなかったのもある。

「なっ……おい、待てよお前ら」

 そんなカグラの制止の言葉を振り切って彼らはズカズカと足を進めていく。そのまま、バトルフィールドと観客席の間に立つ柵に手をつき――柵に体重を預け下半身を持ち上げ、飛んだ。そのまま二人の居るフィールド上に着地すると、また無謀にもアズラエルの攻撃を受けて倒れている彼女へと駆け寄る。

「死神か。まだ貴様の番ではないぞ」

 司会や周りから上がる声の中、冷ややかな目で言う狂犬はまだ彼女を食らい足りないとでも言うのだろう。しかしそれを無視して、ラグナはバレットの肩を揺する。閉じた瞼を震わせ、目を開ける彼女は、目の焦点がラグナに合うや否や掠れた声で批難した。

「邪魔を……するな……ラグナ=ザ=ブラッドエッジ……」

「んな状態で何言ってんだよ、馬鹿が。つーか邪魔なのはお前だよ。おら、セリカ、任せた」

 げっそりとした顔でラグナを見つめるバレット。それに冷たくぶっきらぼうに言う彼であったが、その言葉は彼女を庇うように吐かれたものだ。それでも食い下がれないのは、彼女がここに来た目的が絡んでいた。ラグナには分からないことも、彼女自身、わがままであることも理解していたけれど。

 しかし冷静になって自身の現在の身体を顧みてみれば、もう既にボロ雑巾のようになってしまったそれは歩くのもやっとといったところだ。死んでいった仲間達のように、折れた腕を振るって脚を動かしたところで、あの狂犬の前でくたばってしまうのがオチだろう。大人しくセリカと呼ばれた少女の方に身体を預けて、彼女は小さく呻くと目を伏せた。

「勝手な真似をしおって……チッ、とにかく五分もたせろ、いいな」

 通信越しにココノエが言うのを、うるさいとあしらってラグナはアズラエルを見る。そのとき、アズラエルもまたラグナを見つめていた。

「悪いな、待ってもらってよ」

「構わん。アレはもう喰らい飽きたところだ。それにわざわざ死神から出向いてくれたのだから、敬意は払おう」

 ふっと笑うのはアズラエルだ。軽く身動いで胸を張りラグナを見下ろす巨漢を、ラグナは睨み付ける。その後ろでバレットへ治癒魔法をかけだす少女には視線を向けず、ただラグナは少しだけ気にした様子を見せながらも言った。

「そうかい、敬意ついでにぶん殴らせてもらうぞ、狂犬」

「意味が分からんな。まぁいい、重畳だ。貴様を喰らい、次にあの『黒騎士カグラ』まで控えていると思うと……滾るぞ!」

 ラグナの言葉を意味が分からないと言っておきながらも、そして彼は腕を広げ高らかに叫ぶ。

 ――ここは最高の餌場ではないか。

 大剣を構えるラグナと、それを歓喜の表情で見つめ――彼が行動を起こすのを待つ人外じみた人間の戦いが幕を開ける。

 まず向かって行ったのはラグナだった。彼が近付いてくるまで、アズラエルは一歩も動きはしない。が、彼の剣がその分厚い褐色の皮膚に当たらんと迫った刹那、その剣を一歩横に動くことで躱して、そのまま拳を突き出す。

 のけ反るラグナ、しかし彼も戦闘慣れしはしているわけで、腕を添えることで掠らせる程度に留めてはいたのだ。それが彼の狙い通りに当たったと考えると。――一発目からのその威力に嫌な汗が額を伝う。

「どうした? まだ拳一つではないか」

 ラグナの反応が面白くなかったのか、首を回しゴキゴキと音を鳴らしては問うアズラエル。その表情は不服そうで、眉根を寄せていた。

「るっせぇんだよ、この化け物が……!」

 剣を構え直し、やけに重い右半身のせいでバランスがとりづらいながらに、駆ける。いつも両腕を使って持ち上げる大剣に、利き手である右腕は今回添えるだけ。

「うおらぁ!」

 振り上げて、下ろす。白い刀身、厚い刃の腹を強靭な腕で受け止めてラグナのがら空きの腹に拳を突き込む狂犬。途端、ラグナの身体は会場の壁まで吹っ飛び叩き付けられた。たまらず呻いてラグナは一気に息を吐き出す。

 いくら強かろうと彼だって人間のはずだ。ならば剣を振り下ろされれば多少のダメージはあるはずなのにそれを感じさせぬ彼は異様で、見つめるカグラの肩が少しだけ跳ねる。

「……カグラ」

 それに視線を向けたレイチェルが、彼の名を呼ぶ。それに普段なら振り向くはずのカグラは見向きもせず、そのまま一言だけ返した。

「わりぃが行かねぇよ。まだ見ていたい」

「そう……同感よ。行くなと言おうと思っていたのだけれど、それならいいわ」

 カグラの言葉に少しだけ安心して、レイチェルもまた四人の居る会場へ視線を戻す。そんな会話をしている間にも、ラグナ達の戦闘は続いていた。もっとも、戦闘と呼ぶには先のバレットよりはマシだとしても一方的過ぎたけれど。

「ぐぉっ……マジ、かよ……」

 揺れる片目だけの視界に、迫る狂犬の拳。慌てて横に躱して、相手の後ろに回り込み剣を振るう。振り向くだけの反射神経はあったが、彼の身体に打ち付けられる剣。

 しかし、彼はそれをものともせずに、寧ろ足りなくて不満だとばかりに顔を歪めた。

「俺を舐めているのか? まさか、調子が悪い……などとは言うなよ」

 腕の一振りでラグナごと剣を弾き、アズラエルは低くそう言った。わざわざこのような大会という茶番に付き合ってやっているのだからもっと楽しませろと。

 片腕で振るったといえど、剣を打ち付けても効かないというのにひどく驚きながらも一歩下がる白髪は、回らぬ頭を巡らせる。右腕は動かない、死角には入られっぱなしで一体どうやって五分ももたせろというのだろう。

「……闘いの最中に考え事とは余裕だな」

「っ、ヤベ……!」

 そんな思考を遮るように、後ろから近づく気配。振り向いた時には遅くラグナの身体には狂犬の硬い膝が叩き込まれていた。呻いて倒れ込み、蹴られた脇腹を抑え込む。

「がはぁっ……これ、はキッツいな……」

 痛々しいその戦闘に手を出したくともセリカは自身がそれをできないことを知っていたから、目を薄らと開いて身体を起こそうとするバレットを制して治療を続けるしかできなかった。

「どうした、何故『蒼の魔道書』を使わない。俺はそれを楽しみにして来たのだぞ。それとも何だ、まだ足りないとでも言うのか」

 拳を一発入れ込みながら言う彼に、地面に倒れたラグナは舌を打つ。対するアズラエルは声を大きくして尚も問うた。

「何故だ、何故だ!? 早くそれを使えよ死神! まさか『俺には使えない』とでも言うのか、それとも俺の期待外れだったのか?」

 その表情は、声は、純粋に戦闘を楽しむ者としての悲しみと寂しさに溢れていたけれど、気にする余裕はラグナにはない。やがてすぅっと表情を冷たいものに変え、失望したと狂犬は語る。黒騎士に期待するから貴様は死ね――と。

「この……クソが……」

「ラグナ、危ない!」

 セリカが叫ぶ。ラグナに迫る拳が、彼に当たればひとたまりもないことは一目瞭然だったからだ。そしてそれに突き動かされるようにしてラグナは身を横に転がして回避し、跳ね起き、そのまま体勢も整わぬ状態で狂犬に飛びかかって――背に大剣を叩き付けた。

 それはすぐに跳ね返されたのだが、それでも不意打ち故か多少のダメージは通ったらしいところを見ると彼がまだ人間であるのが見てとれる。それでも、人間離れした力だとは思ったけれど。

「ぐ……反撃するか。まだ楽しませてくれる気はあるようで安心したが。しかし今の感覚は……成程。あの女か。アレは貴様の女か?」

 身体を起こし、じろりと視線を動かす。その最中に感じたラグナへの違和感の正体を探るためだ。そして、視界の端に捉えるのは悲しそうな顔をして治療を続ける少女だった。成程、そう言ったアズラエルの問いに、ぴくりとラグナの眉が動く。嫌な予感がした。

「女は関係ねえだろうが、女はよ。おら、楽しませてやるからさっさとかかって来い」

 引き攣った笑みで煽るように手招きをする。しかしアズラエルはその様子に笑みを深く刻んで、納得したというように一度頷き、肩を震わせた。

 そして上げた顔に貼りつけられた表情はひどく凶悪で、死の天使(アズラエル)の名がふさわしい。

「知っているか、死神。……人は絶望したとき、諦める者と力を得る者の二つに分かれる。さて……貴様はどちらになるのだろうな」

 アズラエルがふと語り始める言葉には、理解が遅れる。そして、理解したときには――試してみるか。そう言ったアズラエルの姿は既にそこになく。

「セリカ、逃げろ!!」

「へっ?」

 彼の身体が向かう先はポニーテールの少女のもとだ。間抜けた声をあげて顔を上げる少女の目前まで、アズラエルの隆々とした拳は迫っていた。そして、強い衝撃が突き抜ける。巻き上げられる砂塵は煙幕のようで、バトルフィールドの彼らが居る部分を覆い隠した。

 皆が一瞬固まって、そうして司会が叫ぶ。

「皆さん、非難してください……!!」

 ラグナや他の戦闘ができる人員以外――つまり非戦闘員にもアズラエルが手を出したからだ。一気に周りが襲われる可能性が上がったと判断したために声を張り上げる。やっとそこで、事態の恐ろしさに気付いた観衆達は席を立ち、一斉に走り出す。押さないで、そんな声も知ることかと出口へ向かう人々の中には子供も居たのだろう、甲高い泣き声すら聞こえてくる。

 やがて、ちょっとの時間を経て薄くなる砂埃の中から現れるのはアズラエルだ。その頃には、カグラ達以外の殆どが会場を出ていたため、その姿を見たものは少ないが。

「チッ……殺(や)り損ねたか。攻撃が弾かれたようにも感じたが……」

 打ち込んだ拳を引いて、上半身をゆらりと持ち上げるアズラエル。誰もが目を覆ったけれど、彼の言葉がスピーカー越しに耳に届いたカグラ達は、自然と疑問を抱いてフィールド上を探すと、煙幕のような砂埃が晴れて次に現れるのは――地に横たわる少女達であった。

 目を瞠った。そして、カグラは先ほどまで確かに少女が居た隣を見る。

 そこに居たはずの彼女は当然であるが忽然と消えており、目前のフィールドにてどこから持ってきたのか鎌を片手に持っていた。

「……うぅ」

 ざり、と擦られた地面と、吹っ飛び横たわる身体。傷こそ見当たらないが、攻撃から咄嗟に彼女らを守ったのだろうことは何となく察することができた。もっとも、衝撃は殺し切れなかったのかセリカ達も倒れていたけれど、まともに受けていればもっと悲惨な結果になっていたことを考えると彼女の行為は無駄ではなかったのだろう。しかし、彼女は動かない。

 無茶をしてだとか、どうしてだとか、そんな思いに駆られながらも言葉を出すことができないカグラ達の目の前、いち早く起きあがったセリカが口を覆い彼女を見つめるなか、ディスプレイに映った彼女の、指先が動く。

「……マジかよ」

 鎌がひしゃげていないこと自体不思議だったというのに、まさか、生きているだなんて。

 ゆっくりと身体を起こす少女に驚きながら、カグラはもう助けに行かないといけないことを理解していながら、動けなかった。

「……何だ、貴様は」

 そう零したのは、アズラエルであった。ふらふらと足元のおぼつかない彼女を見とめて言った言葉だった。少女――ユリシアが、顔を上げてアズラエルを見る。

「俺の攻撃を、こんな子供が弾き、しかも生きている……だと? ありえないだろう」

 目を見開き、わなわなと震えだしながらアズラエルは言葉を早口に紡ぐ。ありえないのだ、こんな細くか弱い見た目をした子供が、アズラエルにとっては壊れやすそうな、あんな武器で防いで、無傷でいるのが。確かにあの女を殺す気で行ったのに。しかも寸前まで気配に気付かなかったのだから。

 怒りのような感情に支配され、やがて――笑いが込み上げてくる。揺れていた肩先は、先とは違った感情でまた小刻みに震えだした。

「く、くく……ははは、これは……なんとも。最高の、獲物ではないか」

 この幼さでこれなのだから、成長したらどうなるのだろう。考えるだけで喜びに肌が粟立つ。戦いたい。純粋にそう思って、アズラエルは高く笑った。

 ユリシアが、一歩下がるのを見て、離れた分だけ近づいた。

「なあ、貴様。ここに出てきたということは、この俺に喰らわれてくれるんだろう? なあ」

 ニィと口角を持ち上げて、首を傾げ、尚も近づく。え、と声を漏らすユリシアは、彼の言葉の意味を理解できていないのかどこか困惑した表情で、

「わ、わたしは……たべても、おいしくないですよ」

 ひどく幼い、台詞であった。喰らうという言葉の意味をそのまま受け取ったのだから、馬鹿というか、純粋すぎるというか。吹きだしそうになるアズラエルであったが、やがて立ち止まると。

「否。それほどの力を持っているのだ。美味くないわけがないだろう? さて、喰らってやるから……そう簡単に死んでくれるなよ」

 ユリシアの必死の拒否の言葉だったのだろう台詞を聞き入れないことにして、ただし紡ぐ言葉は彼女に合わせてやって、アズラエルが拳を引く。相手がどう出るのか楽しみにしながら後ろに下げた片足は駆けるためだ。ぐぐ、とバネのように体に力を入れたのを見た瞬間、カグラがハッとして出ようとした。……けれど、異変に気付き立ち上がっただけで終わった。可笑しいのだ。彼が、狂犬が、一向に動かないのだ。アズラエルが目を見開いているのが映る。そして、ギロリと鋭く――少女を睨み付けた。

「……貴様。何故……何故だ!?」

 何故。そう叫ぶ狂犬に、皆が首を傾けた。

「何故、ここに来て……戦意がない。貴様は何故、そんな得物を持っているというのに……闘いの意思が感じ取れない!?」

 これでは、満足に闘えないではないか。苦しみと落胆が混ざったような感情に眉を下げて、狂犬は語った。闘いを楽しみにして来たというのに、せっかく新たな強者を見つけられたかもしれないというのに。なんと悲しいことなのだろうか。

「……そんなに闘いてぇっつーんなら、相手してやるよクソ野郎」

 感情に突き動かされるまま語る狂犬に、後ろから低い声がそう告げる。ラグナであった。狂犬が振り向き、他の面々の視線も一斉にラグナへと集まった。

 興味深そうに、ほうと相槌を打つアズラエル。それを睨み付けるラグナの表情は怒りに満ちていた。セリカに手を出そうとしたことが、いくら別の誰かに守られたとしても許せなかったからだ。口汚く一言だけ狂犬を罵って、ラグナは右腕に力を込めた。そして、溢れるまま、本能が叫ぶままに――口にした。

「第六六六拘束機関解放……次元干渉虚数方陣展開……ッ」

 使えないはずの魔道書を起動する呪文を、言葉を並べた瞬間。呼応するように、ラグナの右手からどす黒い闇色の魔素が吹き出した。アズラエルはそれを見て、やればできるではないか。そう嬉しそうに言って、見ていたカグラは驚きと焦りに声をあげた。

 魔道書を封じているセリカに何かあったのでは。まさか、先の攻撃で――。そんなカグラに対して、冷静にレイチェルは答えた。

「……いいえ、セリカは無事よ。多分あれは『蒼の魔道書(ブレイブルー)』の防衛反応……。想像以上に浸蝕が進んでいるようね」

 冷静に。静かに。けれど、どこか表情はやはり焦った様子であった。垂れた横髪を指で払って、彼をただ見守っていた。

「……イデア機関、接続……ッ」

 おびただしい量の闇色に包まれながら、ラグナは尚も続け、アズラエルもそれが起動されるのを今か今かと待ち続けた。ラグナの顔に罅のように、紅い光が無数にはしる。ラグナを支配しようと伸びた魔道書の光はそこにまで到達したのだ。――ブレイブルー。起動するために呼ばれたそれは応えるように、吹き出す闇は更に量を増す。

「テメェは、殺す……殺す、殺す殺す……ッ」

 殺意に突き動かされ、起動……そう口走ろうとするラグナ。見つめるセリカとレイチェルがたまらず動こうとしたとき。ラグナの動きが止まった。

 

 

 

 ブレイブルー。原書の魔道書。最強にして最凶の魔道書。黒き獣の亡骸。魔素を圧縮した塊。蒼を内包し、欲しがる者は数知れず。

 ラグナの憎む『ユウキ=テルミ』が作り出したものであり、ラグナが手にした『力』。

 かつて、ラグナの師は『それを己の力だと思うな』と教え続けていた力。

 目前には、額縁を通して見ているような、近いはずなのに遠い光景が映し出されていた。見知らぬ場所、そこではアズラエルとラグナ――ここに居るのとは別の自分が対峙していて、そこでのラグナもまた、先の自身と同じようにブレイブルーを起動しようとしていた。

 気付く。これは別の事象の自身が体験したことなのだと。

「また、これを使うのか」

 ぽつり、ラグナはそう零した。

 アズラエルは強い。向こう側に立つラグナも苦戦しており、それでも何とか持ちこたえたのを良いことにアズラエルは自身にかけたリミッターを外そうとしていた。彼は本気ではない。その表情からも、纏う気配からも人外じみた強さが滲み出ていた。

 ならば、自身は『蒼の魔道書(これ)』を使わなければ勝てないだろう。いいじゃないか、使ってしまおう。けれど、後ろで『誰か』が囁くのだ。

「ほんとうに、それでいいんですか」

「なっ……なんでテメェがここに」

 それは、まだ数回しか会ったことのない少女だ。特に深いつながりがあるとも言えない彼女が、何故こんなところに居るのだろうか。

「ほんとうに、つかってしまって……いい、ですか」

 ラグナの問いに答えず、彼女は再度そう問うた。途端、浮かんだ疑問よりもある感情の方がラグナの中で上回る。苛つきだった。

「うるせぇ、これは俺の力だ。テメェに何か言われる筋合いはねぇよ」

「ほんとうに? ちがいませんか。よくかんがえてみてください」

 その感情のまま、乱暴に言うラグナに彼女は尚も止めるようにそう言って、余計に苛立ちが募る。うるさい、黙れ、こうしなければ勝てないのだ、それにこれは自分の力なのだから――。

 でも皆違うという。己すら、否定しているところがあるのだから。じゃあ誰の力なのだろう。何のために持っているのだろう。

「俺の力じゃねえってんなら、誰の力なんだよ、クソッ! 誰だよ、こんな力を俺に渡したのは」

 そう考えた途端、思い出すのは少女の声音だった。

『それを手にするかどうかは、あなたが決めなさい』

 そう言われて、『自身が』手にしたのだ。そうだ。この力を求めたのは自分なのだ。倒すために。敵を、テルミを倒すために……否、そんな御大層なものではない。

 自身があの日全てを持っていかれて、怖くて、逃げたのだ。そして、護りたいから、何も失いたくないから。この力を求めて。この力で何人もの人々を手にかけてきた。ならば、この力は。

 ――奪う力だ。

「……そうおもうなら、がんばってください、です」

 少女が寂しそうに微笑んだ途端、その笑みや頑張るという言葉の意味に疑問を抱くだけの間もなく、暗かったラグナの視界が一気に開けた。眩しさに目を瞑るまでもなく、襲ってくるのは形容しがたい苦痛だった。

「ぐあぁぁあぁっ!!」

 戻ってきた途端の仕打ちに思わず叫ぶ。必死に暴れようとする魔道書に左手を添えて、抑える。気付けば目の前には、蜂蜜色の髪の少女が居て、自身の右手に手を添えていた。しかしそれを気にする余裕もないほど、彼はただ叫びながら魔道書を抑えるしかできなかった。

 やがてゆっくりと、吹きだす闇色は量を減らしていく。――最後には、跡形もなく消えた。右腕は動く。右目も見える。

「はぁっ……はぁ……っ」

 荒い呼吸を必死に整え、最後に気合いを入れる。ニッと笑って、期待するようにこちらを見ていたアズラエルには、ニッと笑って馬鹿にしてやった。

 どういう原理か精神の内側にまでやって来たこの少女へなんとなく礼を言って。手を離せば彼女はハッとして、さも手を触れていたことに今気付いたかのように目を丸くして手を見つめる。そんな彼女に疑問を抱くが気にせず後ろへ追いやった。

「誰が使ってやるかよ、ざけんな、タコ」

 どうにか魔道書を抑えたラグナを見て、レイチェルはどこか複雑な感情を抱えていた。

 人に頼るのは構わない。彼がどうにかして抑えたのも成長だと思える。それは認める。

 だけれど、一見何も分かっていなさそうなイレギュラーの彼女が、あんなに怯える対象だった彼が魔道書を起動しようとした瞬間に近寄り触れたのが、そして彼に何かをしたらしいのが、それでラグナが戻ってきたというのが。

 とても不可解だったし、できれば……彼だけで解決して欲しかったから。

「……カグラ」

「あいよ」

 しかしそれを表に出さぬよう隠して、そしてお供のナゴとギィや隣に立っていたカグラも、彼女が何か思うところのあることに気付きながらも何も言わぬようにして――。

 そろそろ行かないとな、なんて言いながら駆けていくカグラの背中越しに、レイチェルはラグナを見つめていた。

「――っと、ご苦労さん。下がっていいぞ、ラグナ」

 ラグナが全力を出さないで闘うことに怒りを見せるアズラエルと、吹っ切れたラグナの第二ラウンド目が始まろうとしたところで、後ろから現れるのはカグラだ。

「んだよ、邪魔すんな、カグラ」

「邪魔じゃねえよ、そういう予定だったろ。それにお前はよくやったよ、な?」

「……分かったよ」

 それを言われてしまえばラグナは返す言葉も見つからなくて、頷くしかなかった。そんなラグナに満足げにカグラも頷くと、それからユリシアに向き直る。

「ユリシアちゃんも、無茶はしちゃいけねぇよ。さっきの鎌みたいな物騒なモン持ったり、アズラエルの前に立ったり――怪我はしてねぇか?」

 先のアズラエルの攻撃からセリカを庇って吹っ飛んだ彼女を心配する台詞だった。一見、服が砂で汚れている程度で無傷な彼女に、しかし一応確かめるため問う。

 それにやはりぎこちなく頷いて、彼女は視線を斜め下に落とした。

「ユリシアちゃんも下がっててくれ」

「あ、はいっ」

 そこに居られては危ないからとカグラが言えば、慌てて彼女は彼から離れるように、既にバトルフィールドの出口付近にまで行っていたラグナ達の方へと駆けて、出て行く。

 それに一度頷いて、彼が振り向く先に居たのはアズラエルだ。

「話し合いは終いか? 黒騎士」

「あぁ。待っててくれてありがとよ、狂犬」

 ひどく退屈げな面持ちでこちらを見ていた狂犬は、やはり話に割って入っては来なかった。

 それは彼なりの常識や礼儀といったものがあるのか、それとも何か別の理由があるのか。

「……ちと、試してみるか」

 ぽつり、呟く。聞き取れずとも口の動きで何かを言ったことは察した狂犬が眉根を寄せた。一向に向かってこないカグラに狂犬は問う。

「なんだ、来ないのか? 俺を喜ばせてくれるのではなかったのか、黒騎士」

「男を喜ばせる気はねえよ。それにほら、お前って強いじゃん? やっぱ勝てねぇわって思ってさ。でもアイツら殴らせるのは嫌だし……ってわけで。殴られに来てやったんだよ。何もしねえから、おら、どうぞ」

 いざとなったら戦う気ではいた。けれど、先の彼女の時のように、戦意を持たなければもしかしたら彼は戦えないかもしれないという憶測ができた。そうでなければ自身が身を張れば良いだけだ。どうせ、時間までもう少しだろうから多少は耐えきれる自信もある。

「な……黒騎士、貴様ぁぁあ……ッ」

 そして案の定、狂犬はユリシアの時のように固まって、攻撃することもなくこちらを睨み付けていた。煽るように、ほら殴れよと腕を広げてもそのままだ。ビンゴか、そう思い零れそうになる笑みを抑えた。

「俺らの目的は『倒す』ことじゃねえんでな」

 真っ向からやり合うつもりなどさらさら無かった。そんなことをしたら自身だって無傷では済まない。ならば戦わないに越したことはないだろう。

「ココノエ、やれ」

「はいよ」

 話しかければ通信越しに返る声。途端、幾重もの拘束陣が動かない――否『動けない』アズラエルを拘束する。ぎゅうと締め付けるそれに一度呻いて、アズラエルは何だこれは、そう叫んだ。

「罠って分かってて来たんだろ。今更それくらいで驚いてんじゃねえよ」

「黒騎士ぃ……っ」

 憎々しげに低い声でアズラエルがカグラを呼ぶ。それを見つめるカグラの視線はひどく冷ややかなものだった。

「相手の戦意がなけりゃまともに動けねぇなんてな。今のお前じゃそれは解けねぇよ」

 冷たくカグラが言って、手を掲げ振る。二度と顔を出すんじゃねえ、そう言ってだ。

「必ず喰らい殺す!!」

 そんな呪詛を吐いたアズラエルの体は直後、すぅっと消えた。次元の狭間に放り込まれたのだ。あれだけの力を持つ者は、それくらいしなければ、あの台詞が実現しかねない。それだけ危険だとココノエが見積もったためだった。

 そして、格闘大会は終わりを告げる。

 




書きたかっただけです。

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