POSSIBLE DREAM   作:鈴河鳴

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第六章 快青の朝

 カザモツのとある料理店。

 窓から見る湖は広く、口に運ぶ濃厚チーズと厚切りベーコンのピザは絶品だ。ロゼワインがここにあれば最高かもしれない。

 オレンジジュースをストローで吸う少女を見つめながら、テルミは数日前のことを思い出す。腕時計を見た。ディスプレイに映し出された数字を眺め、目を止めたのは時間ではなく日付だ。彼女が来たのは六月二日で、あれから一ヶ月ほど過ぎて七月の初旬。

 確か明日は七夕祭りだったか。あの確率事象の中、一度たりともこの時まで辿り着いたことがない。今は動きを停止したタカマガハラの事象干渉のせいでもあるし、自身達があの段階でそこまで行くことを望んでいなかったからだ。

 ピザの最後の一切れを噛み千切り、咀嚼しながら、そう思考を巡らせるにつれて、テルミの口の動きはゆっくりと止まっていく。じゃあ、何故今回の事象において、ニュー・サーティーンが窯に落ちたあと、誰も動かなかったのか。そう、テルミ達でさえも。タカマガハラだって、何故気付かなかったのか。

『どういう訳か、観測はできても――僕らはあの『蒼』の気配を色濃く纏う彼女に干渉することはできない。多分、それは『彼女』……アマテラスも同じじゃないかな。だからこそ観測が傾いた節はあっただろうね』

 タカマガハラシステムが消える前のくだらない会話の中。システムの一つ、中世的な声のそれが軽い口ぶりで語った台詞も気になった。それは、自身達にとってはひどく都合のいい内容だったけれど、この少女に干渉ができないなんて。

 何故だ。ごくり、と口に含んだそれを飲み込んでテルミはユリシアを見た。

 不思議そうにこちらを見る彼女は、何も理解していないといった様子で気が抜けそうになる。

 別に、特に問題はない。しかし何故タカマガハラですらこの事態の異常性に気付かなかったのだろう。一月から、六月。およそ五ヶ月以上もの時を自身らは無駄にしていた。そして手に入れたのは彼女だ。それだけの価値が彼女にあるのか。いくら蒼だとはいえ何も理解していないそれは本当に。これも『蒼』の意思だというのか。

 今まで何故疑問も違和感も抱かずにいられたのだろうか。そう考えて思い当たるといえば――。

 否、今は考えるのを止めようとテルミは思う。

「さて、食い終ったし……行くか」

 店を駆け回る店員に声をかけた後案内されたレジで会計を済ませた。カラコロというドアベルの音を聞きながらテルミ達は店を出る。向かうのはカザモツの統制機構支部だ。

 本当ならヤビコの方がセキュリティも徹底しているし良いのだが、あそこには今、衛士最高司令官――つまり衛士に対して帝の次に衛士に指令を下す権限のある人物がいる。それも、階層都市を治める『十二宗家』の筆頭、ムツキ家の現当主だ。

 自身が厄介ごとを作るのは良いが、自身から面倒なことに巻き込まれに行くのは勘弁だ。それに――彼女も喜んでいるようだからと彼らが話し合いカザモツに決めたのはつい昨日、イカルガにやって来たばかりの時のことだった。

 ユリシアはテルミの温度のない手にそっと触れて、視線を投げてやればへにゃりと笑みに表情を崩す。何が面白いのか、テルミにはさっぱり分からなかったけれど。

「てるみさん、いかるがって、おもってたよりいいところ、ですね!」

 ユリシアが聞いていた話では、イカルガは戦いの爪痕が未だ深く残っており復興途中の場所も多く、また統制機構に対してよく思っていない人間も多い……とのことだったが、ここカザモツを見る限りではそんな様子は一切見えなくて。

 ご飯は美味しく、観光名所があり、街行く人々の笑顔は絶えない。そんな場所だったから。

「まぁ、ここら辺は復興作業が結構進んでるからなぁ」

 ユリシアの言葉にそう返し、テルミは街を改めて見る。そこに戦争の面影は感じ取れず、よくここまで来たものだと感心した。カザモツはあまり被害が少なかったらしいから、復活が早いのも当然だとは知っていたけれど。

 ヴェールのように柔らかな太陽の光を浴びながら、湖の周りに建てられた港町を歩く。その足取りは少しゆるやかで、時々屋台の前で足を止めたりなんかして。やらなければいけないことはまだ沢山あるが、今更焦る必要はないのだから。

 テルミはユリシアの手を握り返し、歩みを進めた。階層都市の中心部までやって来て、昇降機を使い最上層まで登れば統制機構支部はすぐそこだ。帽子を目深に被り直せば逆立った髪はするりと下を向く。目をすっと細め、ハザマになりきった後、統制機構の目の前へ。門番に身分証を見せ中に入り、廊下を歩き階段を上りまた廊下を渡ってやっと諜報部の執務室。

 鍵の術式をいつも通り解除し、扉を開ければやっと一休みができる――。

「遅かったではないか、なぁ? テルミよ」

「あ……」

 部屋に響くのは甘やかにして幽玄とした声。帝だった。

 何故いるのだとテルミは、勝手に入り込みソファで手を振るその少女に問う。転移のできる彼女に通常の鍵など無いに等しい。故に、入ることができたとしても可笑しくはない。だからこれは彼女が居る動機を尋ねていた。

「あまりにも貴様が帰らない故に、心配して来てみたまで。何か不味いことでもあったか?」

 心配。あまりにも似合わない言葉をいけしゃあしゃあと吐く帝に溜息を吐きハザマが出る。彼女の目的はテルミ達などではなく、それに付き従い今見知った顔に微笑んでいる幼い少女なのだろうから。

「いえいえ。ただ、貴女様はこの世界を治める身。あまりこうして一衛士ごときのところまで出向く――なんていうのは、些か問題ではありませんか? 帝」

 窘めるような言葉に、しかし帝は一切、表情を不快に崩すことがない。寧ろ余裕から口端で笑みを作り上げるほどであった。

「余が誰に会いに行こうと余の自由。それも、余がこの世界を治めているのなら尚更……なぁ?」

 彼女が口にする台詞は、そう言われてしまってはどうにもできなくなってしまうようなものだった。分かっていた、彼女がこんな台詞を吐くことは。

「しかし、確かに貴様の言葉も一理はあろう。部屋の主も帰ってきたこと、余も立ち去るとする」

 そう言って彼女はソファから立ち上がると、今しがた彼らが入って来た扉の方へ歩み寄る。ノブを捻り、扉を引いて開けると、最後に一言残して彼女は部屋を出た。

「また、な。その時には茶の一杯でも交わそうぞ。なぁ、ユリシア」

 そう言って少女に向けて手を振って、彼女は部屋を出る。ぱたり、と戸が閉まる寸前に彼女は消えた。やはり転移魔法だ。人通りが少ないここだから良いものの、人が居たらどうするのだとハザマは頭を抱えた。部屋の中から転移すれば良かったはずなのに、それも彼女の気まぐれからだろう。彼女にはもう少し自身の立場を理解してもらいたい。

 そんなハザマの悩みなど露知らずユリシアといえば、次に来た時はお茶を用意しないとですね、だなんて言ってハザマを見るのだ。それに適当に首肯してやって、ハザマはソファにひどく脱力した様子で腰を下ろした。

 深く深く吐かれる溜息、それに首を傾けどうかしたのかと問う無知な少女に首をゆるりと横に振って、彼はなんでもないと告げる。

「ユリシア。お茶を淹れてください」

「はい、わかりました、です」

 こういうどうにもできないモヤモヤが胸の中を渦巻いたときは、気を紛らわせるには彼女の淹れたお茶を飲むのが一番だ。

 頷いてキッチンに駆けて行く少女の背中を見てまた一つ溜息を吐く。今日は特に仕事もないため、彼は暇を持て余していた。仕事の一つでもあれば、もう少し簡単に気分を転換させられたのだろうけれど。

 数分ほど経って彼女がトレイを持ち戻ってくる。白いそれに乗せられたカップを机に置き、ティーポットを傾ければトポトポと朱色の液体が流れ出し、僅かに弧を描いてカップに注がれていく。揺れる水面。スティックシュガーの紙をぴりっと破って、砂糖を半分ほど入れる。

 くるくる、くるくる。ティースプーンを前後に振りかき混ぜ砂糖が紅茶によく溶けたら、ソーサーにスプーンを置いて紅茶を一口。

 フルーティな香りと、自然と舌に乗る甘み、僅かな渋み。バランスよく存在するそれらを楽しみながら少しの間舌の上で転がした後、嚥下に喉を上下させる。

 ハザマの満足げなその様子を見てユリシアは微笑んだ後、ふと口を開いた。

「そういえば、つばきさん、あれからどうなった、でしょう」

 ユリシアが最後に出会った時の彼女が苦しげな姿だったのはまだ記憶に新しく、しかしそれ以降は会えていない。あの少女とは一、二回しかまだまともに話せていないけれど、最後に見たのがあれなだけに少し心配だった。だから、あの様子についても何か知っている風だった『彼ら』なら分かるだろうかと思って彼女は問うた。

「あぁ……そういえば、会わせていませんでしたね」

 その問いに彼は思い出したというように頷いて、カップをソーサーにそっと戻すと彼女の方に視線を向けた。元気にやっていますよだなんて語った後に、それでと前置いて首を微かに傾けて、にこやかに微笑み彼は問う。

「会いたいですか?」

「……え」

 いくら彼女が精神汚染(マインドイーター)に侵されていて自身が敵と見なした者を『帝のため』と騙り裁こうとしているイカれた状態であったとしても。帝もお気に入りのこの少女に対してまで冷たく当たることはないだろう。それなら、会わせても問題はないはずだ。

 それに、今の内に彼女に一度会っておいた方が、ユリシアも少しはショックが少ないだろうという思考から出された言葉。

 対する彼女の表情は、意外だと言うかのように目を丸くしたものだ。漏らされる声は間抜けで、だけれどすぐにハッとして言葉の意味を理解すると彼女は、

「いいん……ですか?」

 期待を込めたような瞳で少女はハザマを見つめ問いで返す。聞かせる言葉は「勿論」だ。首肯してやれば、みるみるうちに彼女の表情は明るくなっていく。瞳をキラキラと輝かせ、綻ばせた頬は喜びで薔薇色に染め上げられた。

「そうですねぇ。明日か明後日辺り、少しお話の時間を設けてもらえるよう話してみますね」

 祀り上げられ少佐となってはいるが、それで天狗になるような性格ではないからきっと応じるだろう。思いながら、語る言葉に彼女は頷いた。

 しかし、一つ解決すれば次に鎌首を擡げるのはまたしても疑問だ。

「えと、たてつづけで、わるいんですが……のえるさんと、まことさんの、ほうは」

 前者はツバキと同じようにあの日以来会っていないし、姿の変わった彼女がやけにハザマ達に怯えていたことや、前に世界の敵だと説明されたラグナ達と共に居たのも不思議だった。

 後者の方はもっと前。任務に出た日から一度も会っていない。カザモツへ来ているのはハザマの部下らしい彼女は知っていると思うけれど。

「あぁ……彼女達は」

 伝えるべきか、珍しく悩んでいた。別に事実を伝えるだけだし彼女がどう思おうと関係ないはずなのに、悩んでいた。けれど、自分らしくないとその悩みの念を抑えつけて、あくまでいつも通りの彼を貼りつけたまま語る。

「別の組織の所へ逃げちゃって、晴れて反逆者となりましたよ。――まったく、いけませんねぇ。衛士が反逆者になるだなんて」

 聞いた途端、彼女は目を丸くする。反逆者とは何なのか、別の組織とは何なのか。分からないことは沢山。けれど、分からないなりに直感が告げるのは、

「……まことさんたちには、もう、あえないという、ことでしょうか」

「えぇ、そうですね。理解が早くて助かります」

 別の組織というのは分からないが、そこに行ってしまったというなら、きっと。そう思って問うてみれば、それは正しかったらしい。疑問を抱いてそこから正解を引き当てることは嬉しいことだったはずなのに、目の前の男に肯定されても嬉しさを感じない。

「そう……ですか」

 なんと言えばいいんだろう。寂しい、と言えばいいのだろうか。それとも、一緒になってそういうのはよくないですねなんて返せばいいのだろうか。分からないから、そうですかと返す他に何もできずただただ苦笑して彼女はソファに腰をかけた。

 あのニッと笑った表情や困ったような微笑みを思い浮かべた。あれはもう見られないのだ。彼女らがどうしてそちらに行ってしまったのかも分からない。分からないことが多すぎて、ハザマを見ればどうかしたかと微笑んだまま首を傾けられて首を横に振る。

「そんなに落ち込まないでください。確かに寂しいかもしれませんけれど、もうアレは私達の敵なんですから。割り切らないとやっていけませんよ」

 どうして、ハザマがこんなに平然としていられるかは理解できないし、反逆者というのが敵という意味だというのもここで知ったわけで衝撃は少しあったけれど、割り切らなければいけないというのはその通りなのだろう。

 そうですよね。そう言えばハザマは首肯して紅茶にまた口を付けるだけだ。

 マコト達に会えないことはない。居場所くらいおおよその予想がついている。けれど会わせたところで面倒事が増えるだけだ。ならば会わせる必要はないし、そこまで出向く面倒も負わなくていい。紅茶を啜りながら少女を一瞥して、ハザマは考えた。

 そうしてその日は何もなく終わり、次の日の休憩所でのことだ。

「ユリシアが? ……確かにあの日から会っていませんでしたが」

 『偶然』居合わせた男の言葉に、ツバキは少しばかり不思議そうに首を傾けた。

 この男――鮮やかな緑髪と何を考えているのか分からない柔和な笑みを湛えたその人物のことはよく思っていない。また何か企んでいるのでは、そう考えてしまう。誰がどうなろうと、自身は帝のために働くだけのはずなのに。

 そう身構えていたツバキだったが、ハザマの口から紡がれた言葉はそんなツバキの考えとはまったく別の、至ってシンプルな内容だ。

 ――そういえば、ユリシアが会いたがっていましたよ。なんて。

「ですので、もしお時間がよろしければ、明日か明後日辺りにどうです? ツバキ=ヤヨイ少佐」

 少佐と呼ばれた彼女は、少しだけ怖がっていた。あのとき――ハザマに貶められ苦しんだとき。何もかも見えなくなった瞬間。彼女も居たから、少しだけ気まずさを感じていたのだ。

 それでも、会いたくないわけがなかった。話した回数はまだ少ないけれど、一応は友と呼べるような存在だと思っているから。友だと思っていた人達は皆、別のところに行ってしまったのだ。唯一残った彼女と話したいと思わない方がおかしいだろう。

「ええ、それなら明日の昼休憩の時間に伺っても?」

「分かりました。楽しみに待っていますよ」

 にこやかに微笑んでそう言うと、ハザマは立ち上がる。それを目で追いかければ振り向いて軽く会釈し彼は休憩所の外へ去っていく。ツバキはそんな彼の背中を見送るように見つめていたが、彼がすぐ近くの角を曲がった頃合いで。

 やはり彼は得意ではない。俯き、彼女は溜息を吐いた。

「――というわけで、ツバキ少佐が明日来ることになりました」

 角を曲がり、階段を上り、廊下を渡って昇降機を使って上に。それからまた廊下を歩いた先。統制機構の入り口から随分と離れたところにひっそりと存在する諜報部大尉執務室にて彼はにこやかに少女へ笑いかけた。さて、彼女は喜んでくれるだろうか。

 思いつつ告げれば彼女は案の定、本当ですかと瞳を煌めかせた。首肯する彼に問うのは何時頃なのだ、だなんて。隠すことでもないだろうと教えてやると彼女はにっこりと両目を細めた。

「じゃあ、おひるごはん、つくらないと、ですね!」

 もしかしたら食べてくるかもしれないじゃないですかだなんて言ってやろうとしたけれど、そのあまりに楽しそうな表情を崩すのに躊躇いをおぼえて、言い出せずに終わる。

 

 

 

 そして翌日の昼だった。約束通り彼女はいつもの第零師団から遠く離れた諜報部のもとへやって来ていた。違う支部になっても、諜報部の胡散臭さは変わらない。やはりここは好きになれない、そう思いながらも、三度扉をノックする。こうやって彼のもとを訪れるのはこれで二回目になるか。一回目は例の任務のときだ。チクリと胸の奥が針に刺されたように痛む。

「どうぞ」

「失礼します」

 迎え入れる言葉を合図に一言断って扉を開け視線を巡らせれば、いつも通り執務机の前に腰かける緑髪の大尉。向けられる細められた視線。見たところ、自身と話したがっていたあの少女は見当たらないが――。それを受けて、一歩部屋に踏み入り扉を閉める。

「あぁ。来てくれましたか。約束通りですね」

 にこやかに、微かに頭を一度下げてからそう述べるハザマにツバキは短い言葉と共に頷いて、そのあと室内をまた軽く見回す。

「あぁ、ユリシアでしたらキッチンですよ。そろそろ戻ってくるかと」

 そう言いながら立ち上がり、片手を机に置いたままゆっくりと執務机の横を通って彼はツバキの前に立つと指を差す。その方向を見れば、カウンター越しに覗けるキッチンには確かに彼女が居た。揺れる金髪はまるで尻尾、せかせかと動き回る少女は何やら皿に料理を盛り付けている様子で、やがてそれも終わったのかキッチンからこちらに戻ってくる。

 そこでツバキの姿を見とめて、あっと口を開き目も真ん丸に見開いた。料理の乗ったトレイをすぐさまテーブルに置いて、ててて、とツバキの元へ駆け寄り彼女は、

「こんにちは、です。きてくれたですね、ツバキさん……!」

 へにゃっと可愛らしく笑って伝えられる挨拶はひどく自然で、身構えていた自分が馬鹿に思えてくる。もうツバキにはあまり見えていなかったけれど、微笑む少女の弾む語調につられて頬が緩んだ。ええ、こんにちは。そう返せば頷く彼女。ここ数日ツバキは笑った記憶がなくて、氷のように冷えていた心が温まる気すらした。

「つばきさん、こっち、です」

 そんなツバキの心情など露ほども知らず、彼女はツバキの手を引く。そこに、前の時ほどの気弱さは感じられなく、突然のことに少し驚きながらも成長したなぁと考えるツバキが座らされるのはソファの真ん中だ。そして目の前には、湯気を立ち上らせるパスタが出される。

「えっと、これは……?」

 ハザマに手招きをしてツバキに向かい合うようにもう一つのソファへ座らせたところで、ユリシアはツバキを振り返りふふ、と笑いを零した。

「つばきさんがくる、ってきいて……せっかくだから、いっしょにごはん、たべたいとおもって」

 少しだけ恥ずかしそうに赤らめた頬を軽く引っ掻いて語る少女にツバキは驚く。自身のために誰かが何かをしてくれるなんて、いつぶりだろうか。

「さめないうちに、たべてください、です」

 いつの間にかトレイを片付け戻ってきた少女がハザマの隣に座って、そう言い手の平を差し出すことで皿を指す。赤茶色をベースとしたミートソースの乗るパスタに視線を落とし、暫し見つめ――頷く。

「ええ、いただくわ」

 今は昼食を摂るためなどに設けられた休憩時間だ。それを使い飯も食べずに来たはいいが、時計の針も上を差し丁度お腹も少し空いてきた頃合いだったから、食べる分には問題ない。でも、見られている故か少しばかり緊張はある。見たところなかなか美味しそうだし、味もきっと問題はないのだろう。食べないんですかと聞いてくるハザマ大尉に顔を向ければユリシアの隣で既に料理に口をつけ始めていて。

 そっとフォークを手に取って、ソースと麺の上に突き立て混ぜる。混ぜ切れば、赤茶に染まったパスタを少し引っかけてくるくると回し、絡めとり口に運び、咀嚼する。

 麺はもっちりと弾力があり、トマトを素材としたミートソースは程よい酸味とまろやかさがあって、細かく刻まれ炒められた玉ねぎのシャキシャキした食感とたっぷり入ったひき肉が絶妙にマッチしている。

 ツバキは主に和食を好んで食べていたが、たまにはこういうのも悪くない。しっかり噛んで味わった後、喉に滑らせる。それからまた同じようにパスタを絡めとって、もう一口。ふと、これを作った少女の方へ目を向ければ彼女は、フォークだけでは上手く巻けないのかスプーンを添えて苦戦しながら一口を作り出している。

 子供みたいだ。否、子供なのだけれど。その作法にクス、と小さく吹きだせば彼女の視線が投げられる。きょとり、首を傾ける少女の口端には赤いソースが。それが余計に可笑しくて。

「っふ……ふふ、ユリシア、ついてるわよ」

 肩先を小さく震わせながら、すっと目を細めてトントンと自身の口端をツバキが叩く。それに一瞬目を丸くしてから、気付いたように慌てて口端をごしごしと手で拭うユリシアだったが、手に付いたそれをどうしようかとあちらこちらに視線を動かす。

 ハンカチを出してやれば素直に受け取り手を吹く少女に、ふと――聞こうと思っていたことをツバキは思い出した。

「それで、ユリシア。何故、私に」

 会いたがっていたのだろう。最後の時はあんな、随分と酷い醜態を見せていたはずなのに。それで何故。

 ユリシアが手を止めて、ツバキの朱(あか)く染まってしまった瞳を蒼の眼で見つめ返す。それから視線を少し落とすと迷うように目を泳がせた後、ふっと笑った。

「いえ。ただ、あのとき……とてもくるしそう、だったまま、わかれたので」

 だから、元気そうで安心したとユリシアは顔を上げ語る。なんだかそう言われるとツバキも少女が元気そうで嬉しくなった。特に、目の前で二人の会話を聞くこの男と一緒に居るから心配はあったのだ。それ以上に、帝とのことがあったり、今は敵となってしまった大切な人達を帝のために消すことばかりを考えて、あまり彼女について考えることはできなかったといえばそうなのだけれど。

「それにしても、このミートソース。美味しいわね」

 笑っていたはずなのに嫌なことを思い出しそうになって、話題を変えるようにツバキがそう言葉を紡ぐ。その途端、ユリシアがぱっと目を輝かせた。

「ほんとう、ですか……!?」

 きっと市販の良いものを使ったのだろう、と思っていたツバキにとってそれは意外な反応だった。無意識に目をぱちくりとさせるツバキに、ユリシアは少しだけ頬の辺りを薔薇色に染めて、

「がんばって、それも、つくったので……」

 へにゃっと微笑んで紡ぐ言葉にちょっとだけ驚いて、ツバキは少しだけ食べたパスタを見下ろし感心した。そして、嬉しそうに礼を述べる少女にふっと微笑む。

「ええ、そう。とても美味しいわ。ユリシアは料理が得意なのね」

「とくい……ってほどでは、ないですが、たいせつなひとたちに、おいしいごはんを、たべてもらいたくて」

 たどたどしい言葉で、健気に少女は語る。それから手が止まっていたことに気付いたように、半ば恥ずかしさを隠すようにして、

「あ、はやく、たべないとですね」

 なんて言ってまた残ったパスタに手を付ける。だからツバキも軽く頷いて少しだけ冷めてしまったパスタをまた口へ運んだ。

「それじゃ、またね。お昼も美味しかったわ」

「はい! わたしも、とっても、たのしかったです……!」

 にこやかにユリシアへ手を振った後きゅっと表情を引き締めツバキは、元は自身よりも階級が下である男にも丁寧に挨拶の句を述べて部屋を去る。

 あれから食事を済ませた後、軽く会話をしていたのだけれど、その会話が僅かなしこりのようなものになってユリシアの胸に残っていた。

『あの、つばきさんは……のえるさんと、まことさんのことって』

 言ってもいいことなのか分からなかったけれど、あんなに仲が良かった二人のことを彼女はどう思っているのだろうと、確かめるように一度ハザマの方を見てから彼女が途切れながらに紡ぐ言葉。それを耳にした途端、すっとツバキの瞳が暗い色を帯びたのは気のせいではないだろう。

『ええ、知っているわ。二人が……私達を裏切ったことくらい』

 フォークで最後の一口を絡めとりながら、伏し目がちにツバキが語る言葉は内容の割にざっくばらんに紡がれて、冷ややかにして重苦しい空気がユリシアの肺に流れ込むような錯覚をおぼえさせた。裏切っただなんて、それくらいの言葉は分かるようになっていた。

 苦笑を引き攣らせ貼りつけたまま、ユリシアは何も言えなくなっていた。そんな少女のことなど知らず、巻いたパスタをそのままに皿の上にフォークを置いて、彼女は尚も言葉を続ける。

『最初は、私もとても悲しんだわ。ノエルはまだしも、マコトまでだなんて……』

 胸に手を当て、悠々と一度首を横に振り言う瞳は、言葉の通りとても悲しげで、寂しそうな色を宿していた。元々は深い青色だったそれは燃えるような色に染まっていたけれど。

『でも、帝様が助けてくれた。私に光を与えてくださった。流石、この世界を統べるに相応しい人物だわ』

 そして深い悲しみの表情から打って変わり、どこかうっとりとした表情になる。先ほどとはまた別の暗い光を映し、胸に当てた方と垂らしていた方の両手を組むと彼女はそう述べるのだ。

 帝――あの、幽玄な声と見た目には釣り合わないようなただならぬ気配の持ち主だ。その人物が、彼女を助け光を与えたのだと彼女は語った。

 純白だった兵装を真っ黒な闇に染めた彼女の光とは、一体どれほどのものなのだろう。ユリシアの隣で聞いていたハザマが、おかしさに失笑しそうになるのを抑えていた。

 やがて最後の一口も胃に収めて、彼女は顔の前で手を合わせる。ごちそうさま、と聞いたこともない言葉と共に小さく会釈し、先ほどまでのどこか異常な雰囲気など無かったかのように微笑んだ。首を傾けるユリシアの前、彼女は立ち上がり――。楽しかったわ、それじゃあまたね。と先ほどに戻るのだ。

 少しだけ怖かった。あの優しく気高かった彼女が何かに侵されているようで。怖い、気がした。

 けれど、きっとそれも気のせいだろうということにして、彼女はハザマを見た。

「しょっき、かたづけてきます、ですね」

 困ったような笑みを作ってそう断って、お願いしますという短い返事を隣に座る彼から受けつつ綺麗に空になった三枚の皿を重ねて持った。

 落とさないようにしっかりと握って、キッチンに向かおうとする背中に、ふと声が届く。

「ユリシア」

「はい、なんでしょう?」

 首だけをくるりと振り向かせて彼女はもう一度彼に視線をやると、彼は目を細めたまま、問う。少しは楽しめましたか、と。

「はい、もちろん、です。てるみさん」

 声はひどく穏やかにして優しく、柔和な笑みを携えた彼は傍から見れば『ハザマ』であった。けれど、彼女がテルミと呼んだ瞬間に目つきの悪い金の瞳を見開いて、ぽかんとした様子で少女を見つめた。黙り込む。

「はざまさんのふりして、どうかしたんですか」

 彼女がにこやかに微笑んで沈黙するテルミに問う。事実、彼はハザマのフリをしただけのテルミだった。特に理由もなくそうしただけだったけれど、普段のテルミなど一切出していないはずだったのに。まさか、気配を見抜いたというのだろうか。

 テルミとハザマは同じ肉体でありながら、知っている人でもパっと見気付けないほどに人相(にんそう)や雰囲気がガラリと変わる。けれど、もう一人の真似をし偽ることだって充分可能なほどに彼らは同一の存在でもあったから、その驚きは大きい。

「……なんとなくだよ」

「そう、ですか。それならいい、ですが」

 素っ気なく返し、テルミは長い脚を下品にもテーブルに投げ出して組んだ。そうして目を伏せる彼にふふと笑ってユリシアは今度こそキッチンへ向かった。

 

 

 

 ハザマは、気付けば白い空間に居た。

 (またこの夢、ですか)

 そこには鏡が一つだけあって自身が映り込む以外は真っ白で何もなく誰もいない空間。壁は見えずどこまでも続く空間の中で彼は、毎回鏡を覗き込むのだ。

 黒のスーツはいつも通り上質なもの、同じ黒のハットから溢れる緑髪は鮮やかにして艶やかで、ツバをつまんで少しばかり帽子の角度を直すと、彼はふと鏡越しに自身の背後を見る。するとそこには黒くひょろ長い――影が立ち、自身の肩に手を置いているのだ。

 その顔は丸く輪郭はぼんやりとしていて、瞳は左だけで緑色。口は三日月のような弧を描き、胸に見えるのは緑に発光する固まりで、そこから同色の光が全身にはしっていた。振り向けばそこに影はなく、あるといえば丁度鏡で見たそれと同じ位置に男が立っている。

 背丈も顔つきも変わらない。ただその表情は、同じ顔のはずなのにまるで別人のように凶悪なこと、自身のジャケットの代わりにベストの上からは黄色いロングコートが羽織られていることくらいが唯一の違いといえるだろう。

 ハザマはその男を知っていた。

「テルミさん」

 そこには、二人しか居なかった。空虚なこの空間において、彼の空っぽの内側を埋めるものはテルミだけであった。

 何においてもテルミが一番であり、テルミが動けば自身も動いた気になるしテルミが食べれば自身も食べた気になる。テルミの願望のためであれば自身はいくらでも身を捧げる。

 そうして今回も、二人きりでただ夢が覚めるまでそこにいるつもりであった。しかし―。

 いつもと違う何か。二人以外の気配がした気がして、ふと視線を動かす。そこには、誰も居ない。気のせいかと思ってまたテルミの方に目を戻すと、テルミはこちらを見ていた。

 否――自身を透過して遠くを見ていて、それを追いかけるようにもう一度向こうを見れば。目を瞠(みは)った。そこには、少女がいた。名前も、よく知っている。何せ、もう一人の自分が名付けたのだから。

「――――ユリ、シア」

 不思議そうに真っ白な辺りを見回していた彼女は、かけられた声が届くと肩を跳ねさせる。ゆっくりと、ハザマ達に顔が向けられる。彼らを見とめた瞬間、へにゃっといつも通りの柔らかな笑みに表情を崩して、たったと駆け寄る。

「はざまさん、てるみさん……っ」

 甘やかで可愛らしい声を空間に木霊させて、彼女は二人の前までやって来る。

 二人だけの空間に『彼女』が現れた瞬間だった。

 そこで、彼の夢は覚める。

「……なんだったん、でしょうか」

 白い光が窓から溢れる朝だった。

「んん、ふぁあ……」

 欠伸の声につられて隣を見れば、そこには同じく先ほどまで眠っていた少女が居た。一体何故、久々に見たあの夢に少女が現れたのだろう。ゆるく首を横に振り、考えても分からないことだとして彼は微笑みを今日も貼りつけた。

「おはようございます、ユリシア。よく眠れましたか?」

「ぁ、はざまさん、おはようございます、です。おかげさまで、よくねむれました、です」

 首肯し、小首を傾けて笑った。

 

 

 

 第六階層都市『ヤビコ』のレールステーションにてツバキらはある人物を待っていた。ツバキら、というがツバキともう二人――ハザマとユリシアの位置は離れており、一見単独行動をとっているようにも見えるのだが。

 やがてツバキに向けて手を掲げる人物が見えてくる。黒髪の大男だった。手首には包帯を巻き、ニッと快活に笑う彼は彼女に歩み寄る。

「よっ、ツバキ! 久しぶりだな」

 声をかけられ、ツバキがその方向に身体を向ける。その人物が誰であるか理解し、冷たい表情の少女は静かに挨拶を返す。

「ムツキ大佐。お久しぶりです。大佐自らのお出迎え、大変恐縮でございます」

 慣れ慣れしくツバキに話しかけるこの男――ムツキ大佐と呼ばれた彼、カグラ=ムツキは、手を顔の前で横に振り気にするなと言って、ツバキの昇進を祝う。しかし、彼女の暗い表情を見て細めていた双眸を開くと、不思議そうに首を傾けた。けれどすぐにまたふっと微笑んで、

「それにしてもツバキ、見ない間に随分と大人っぽくなったもんだ。こりゃジンジンには勿体ねぇな」

 ジン。その名を彼が口にした途端、ぴくりとツバキが眉を動かす。もやり、と反逆者であるはずの金髪の男を思い浮かべる度、悲しみのような、でも釈然としない気持ちがツバキの胸を苛むのだ。大人っぽくなった、とツバキを指して言う男を冷たく見上げる。

「……ムツキ大佐、お言葉ですが、冗談ならやめてください」

 しかし、それを制すように己の口許に人差し指を当てて、カグラはそっとツバキの横に顔を近付け、囁く。

「ツバキ。大事な話がある。後で俺のところに……」

「これはこれはカグラ=ムツキ大佐。お初にお目にかかります」

 突如、言いかけたカグラの言葉を遮るようにして声が二人のところへ近づく。足音は二人分。

 自然と二人の視線が声のする方向に向くと『彼』は生まれて何度目かの挨拶を口にした。

「私、諜報部のハザマと申します。以後、お見知りおきを」

 帽子を取って胸に当て、舞台役者を気取るように左足を半歩下げ深々とお辞儀をしてみせる。釣られて不安げな表情をしていた隣の少女も、慌てた様子で頭を下げた。

 持ち上げられる頭、その柔和な笑みに向けてカグラはひどく冷たい表情で呟く。

「……おめぇがハザマか」

「あら、私のことをご存じで? いやはや、光栄の至りですね」

 その声を聞きつけて、彼は歓喜の言葉を、しかし別段表情を動かすこともなく述べる。光栄という面ではないだろうと漏らしてから、カグラの視線はその隣の――小さな人物に向けられる。

「んで? そっちの見慣れないお嬢ちゃんは」

 まさか諜報部大尉はロリィタコンプレックスの類の嗜好がおありなのか。皮肉げに漏らす。それに薄く目を見開いて、ハザマはいえいえ、とんでもないと頭を振る。

「コレ……いえ、この子は」

 諜報部で保護させていただいているんです。語るハザマに、興味なさげに相槌を打って、カグラは少女の前にしゃがみ込んだ。巨体が近づいて、肩を跳ねさせハザマの後ろに隠れる少女に苦笑して、カグラは大きな手をゆっくりと差し出した。

「俺はカグラだ。よろしくな。嬢ちゃんの名は?」

 人の良い笑みを浮かべて、握手を求めるように何度か手を動かしてやれば彼女はゆっくりと隠した顔を覗かせて、恐る恐る、震える唇を動かした。

「ゆ、ゆりしあ……です。よ、よろしく、おねがいします、です」

「んじゃ、ユリシアちゃんな」

 どこか危うさを感じさせる口調で、こくこくと小さく何度も頷き名乗る。名を聞いて頷くカグラに怯え震える表情は、自身に対してのそれのはずなのに守りたいと自然に思わせる魅力があり、ハザマの服を掴む手は小さい。すらりと伸びて露出された手足は白く美しく、発展途上にしてはなかなかの上玉だ。しかし彼女は手は差し出そうとしない。それにカグラが何か言おうとしたところでお互いの挨拶も済んだようだし、とハザマがすっと二人を隔てるように横に割って入る。

「この子のことはもういいじゃないですか。それにほら、この子、慣れない人は苦手なんですよ」

 見下ろすハザマに仕方なくゆらりと立ち上がり、カグラは些か不満げにハザマを見た。

「過保護かよ。んで、諜報部が何の用だ」

 わざわざ連れて歩く割には随分と守るように振る舞う、噂とは程遠い様子を見せるこの男。やはりそういう趣味でもあるのかと、しかしあそこで見計らったようにやって来たり他の部分ではどうにもいけ好かないし信用もできない胡散臭さがあった。警戒を隠すことなく問うカグラに困ったように眉尻を下げてハザマは持っていた封筒を差し出した。

「なんだよこれ」

 怪訝そうに受け取ったそれとハザマを交互に見て、首を傾けるカグラにハザマは語る。帝の信書だと。確認してくださいとの彼の言葉に促されるまま封筒を開け取り出したのは一枚の書類だ。ハザマの言葉に偽りがないと言うかのように帝の印も捺されているのを確認して、内容に目を通すとカグラはどこかげんなりとした様子で口を開く。

「成程。お前達の邪魔をするなってことか」

「そうなんですか? いやぁ、帝の書ですからね。私ごときが知る由もありませんし……」

 眉を少しだけ持ち上げてどこか大袈裟な口ぶりでハザマが問えば、白々しいと小さく吐いて捨てるカグラ。その表情には僅かに嫌悪が滲み切っていた。女の前であるというのにそれも忘れて。

「いいさ、好きにしな。おめぇさんらの行動に俺は関与しねぇよ。兵もどうぞご勝手に」

 ひらひらと書類を持った手を掲げ振って、目を伏せながらカグラは面倒臭いとばかりにそう語る。それに満足げに礼を述べたハザマは、ふと指を立てる。

「それと」

「んだよ、まだ何かあんのか」

 腕を組んで問う彼に、ハザマはすぅっと目を薄く開く。蛇を思わせる鋭い金の眼がカグラを射抜くが、カグラは動じずに言葉を待った。

 やがて目をまたいつも通り細めて、ハザマはにこやかに微笑む。

「私たちは今『帝』の勅命(ちょくめい)により行動しています。この意味、お分かりですか?」

 それはひどく、カグラの神経を逆撫でするように、やわやわと撫でるように穏やかな声でありながら同時に聞く者を不安にさせるように冷たい声であった。眉根を寄せながら、それでも声を荒げることなくカグラは淡々と、しかし僅かな怒りを隠すことなく叩き付けるように答える。

 帝の勅命は如何なる事柄より優先される。それは無論、全ての階級を超えて。

 舐めているのか、と答えを欲しない問いに、ハザマは大袈裟にまた否定の言葉を添えて、確認しただけだと。そこに謝罪の言葉が並べられることはなく、礼を重んじるツバキの叱責の声が入った。

「ハザマ大尉。上官に失礼です。控えなさい」

 それには素直に応じて、申し訳ないと謝りの言葉を並べ彼は一歩下がる。それを横目に見届けると、ツバキは再度カグラに視線を戻し、見据えた。

「……では、私達はすぐに任務を開始いたします」

 また改めて。失礼します。そう言葉を紡ぎ、彼女は最後に一つ頭を下げた。

「あいあい、了解だ。頑張れよ」

 またひらりと手を掲げる彼、それを背にツバキが歩きだし、立ち去る。ある程度離れたところで――残っていたハザマも動き出そうとする。しかし不意にぴたりと足を止めた。

 早く行けよ、そう言おうとするカグラの元へ戻って、今しがた思い出したように振る舞って彼は話の口を切る。

「あぁ、そうそうムツキ大佐、せっかくなんで後でお邪魔させて頂いても宜しいでしょうか」

「宜しくねぇよ、来んな。あ、ユリシアちゃんが来るってんなら話は別だけどな。どうだ、美味い店案内するぜ」

 しかしハザマの提案はバッサリとすぐに切り捨てられ、代わりにとカグラが見たのはユリシアだ。視線を向けられるや否やこっそりひょっこり覗かせていた顔の半分をまたハザマの背で隠して彼女は様子を窺う。ふるふる、と小刻みに振られる頭は拒否を示していた。

「おろろ、フラれちった」

「……『こちら』が保護しているんですからそう易々と一人で行かせられませんよ。それに……」

 慣れない人物、それも自身の懐いた人物へ敵意を見せている人へそう簡単に心を開くなんておかしいじゃないですかとハザマは困ったように笑みを浮かべて語る。カグラが途端不満げな表情で、しかしユリシアが見ているのを知ればニカッと笑いかけた。

「ま、別に行けなくてもいいんですけれど……そうですね。それなら、お部屋の『猫』によろしくお願いしますね」

 自身と少女とで対応の違いに差があることに、分かってはいたが呆れたようにハザマは溜息を吐いて、カグラを見据えると告げる。口を動かす時、彼の眼はまた薄く開かれ、三日月のような弧を描き、にんまりとどこか笑んでいたのは気のせいではないだろう。カグラが一瞬また眉を顰めそうになって、堪える。それでも出てしまった微表情をハザマはしっかり見て、心の内で笑っていたけれど。

「そういうわけで、それじゃあ私たちもこの辺りで……では、また改めて。カグラ=ムツキ大佐」

 ふふ、と笑いを零して礼をし、ハザマが歩き出せばぴょこぴょこと髪を揺らしてユリシアも、ワンテンポ遅れ追いかけだす。その背にできればもう会いたくねぇなと小さく吐いたあと、

「……猫って。バレバレかよ。チッ、いけすかねぇ」

 舌を打って漏らした言葉は人々の喧騒に掻き消され誰の耳にも届くことはなかった。

 

 

 

 打ち当てられる刃の数々、金属音、土を蹴る音、衝撃を押し殺すため力強く踏まれる地面、ざりと引きずる音、また鳴り響く金属音。

「やるようになったな、黒き者よ……!」

「うるっせ、余裕かましてんじゃねぇよ!」

 互いが互いを認め合い、毒を吐きながら、戦うべくして会った二人は鎬を削る。一人は死神と呼ばれ世界の敵と言われる男。一人は白い面と鎧に身を包んだ、かつて世界を救った英雄の一人。

 元は赤髪の少女の精神拘束――その原因を破壊するため死神が少女と戦闘したあと、壊される直前にもう一人が庇った後。彼が死神を通すはずもなく、こうなったわけで。

 けれど――それを遮るように、声が響く。

「ハイハイハイ、クッソやかましい犬のじゃれ合いはそこまでですよ~!」

 二人が驚きに声をあげ、視線を両者から声のした方向へ向ける。居たのは、帽子に手を添えニタニタと笑みを浮かべるハザマであった。隣には、いつの間にか居るのが当たり前になっていた少女の姿はない。

「いんやぁ、なんなんですかねぇ? 負け犬の傷の舐め合いとでも言うんでしょうか……気色の悪い馴れ合いに、私思わず……吐き気を催すところでしたよぉ」

 なんなんですかねぇ。あんな何の役にも立たないゴミクズに対して負け犬がああでもないこうでもない、雁首揃え相談している様は非情に滑稽だと。笑んだ男は語る。

 噛みつこうとする二人に、しかし語る彼は動じない。何故なら、彼らが自身に勝てるわけがないという自信があったからだ。最後に高く笑って、彼は二人の顔をまじまじと見ると――。

「ファントム。邪魔ものは退場してもらってください」

 言った途端、現れるのは紫色のツバの広い帽子を被った人物だ。否、人かも分からないほど細身の存在は服と帽子の隙間から覗いても顔は見えず真っ黒な靄だけが見えていて。なんとなく女性だろうと感じさせる以外はただただ禍々しい空気を纏う影のようなそれに二人が目を奪われたとき、空気が震えだす。

 二人の足元に、暗い赤紫色の魔法陣が展開される。複雑に記号や文字の組み合わさったそれの意味を理解することも難しく、しかし空気の感じ方と先のハザマの言葉から察せるのは、

「これは……転移魔法か!?」

 二人が理解し、正解したときにはもう遅く。二人は別々の場所に飛ばされる。

 視界が暗転し、宙を浮いたような違和感が体を襲う。それが終わった時――目を瞑っていることに気付いて、ラグナがそっと瞼を持ち上げると。そこは、窯のすぐ前であった。

「何のつもりだ……! テルミィッ!!」

 叫ぶ、死神。ラグナ=ザ=ブラッドエッジは、姿の見えない相手を探すように何度も辺りを見回して、出てこいと声を張り上げた。

「はいはい騒がないでくださいよぉ。聞こえてますから」

 辺りに響き渡る声は四方八方、バラバラなところから聞こえ、さらには遠く離れたかと思いきやまるで背筋をなぞるように近くに感じたりして全く居場所を掴むことができない。それでも探そうとするラグナに、またも声がかかる。

「いえね、ラグナくんが丁度い~いところに居合わせてくれたものですから。こちらの準備にちょーっと協力していただこうかと思いまして」

 軽い口ぶりで馴れ馴れしくハザマが話す内容に、ふざけるなとラグナの怒声が叩き付けられる。しかしそれに多少の笑いは含めどもいつもほど愉快げに笑ってみせることはなく、至って冷静に。

「落ち着いて落ち着いて。今日の相手は私じゃないんですから」

「どういうことだ、テメェ……!」

 彼が相手ではないなら何なのだ、とラグナはまたしても声をあげた。その問いに答えるようにして、ハザマは小さく笑いを零したあと――。

「さぁ、感動の再開といきましょうか~~!」

 声にラグナが身構えたと同時に、目の前にすっと降り立つのは――少女であった。

 長い三つ編みを揺らし、札のついた長いケープを羽織った少女は地に足をつけると、伏せた瞼を持ち上げる。赤黒い瞳が覗く。眠りから覚めたばかりのように数度ゆっくり瞬きした後に、彼女はラグナをじ、と見つめる。その少女に、思わずラグナは目を瞠(みは)る。それは、彼がよく知る人物であったからだ。窯に、落ちたはずの。確かめるように名前を呼べば、返るのは自身の名。

「んん~、いいですねぇ。巡り合う運命の二人。ですが、感動の余韻に浸っている余裕はないんですよね。時間も差し迫っていることですし……保険、とはいえね」

「受理。ムラクモ、起動」

 保険。その言葉に眉根を寄せるラグナの前で、彼女は言葉を呟くと、光に包まれる。真っ白な光で一度見えなくなった彼女。思わず腕で目を覆い、やがてその光を感じなくなって腕を下ろせば。そこに居た彼女は、単眼のバイザーと硬い装甲に身を包んだ姿。数か月前まで何度も見た姿となっていた。

 肌を覆う水色のラバースーツはそのままに脚を纏うのは白く重そうな塊。しかしそれを感じさせぬ程度に彼女はきちんと立ち、それどころか浮いているのは何らかの加工がされているのだろう。腕には刃、爪は鋭く。背には翼のように八本の剣が浮いていた。

「さて、それじゃ調整を始めましょうか。なに、簡単ですよ。取り敢えずこの『冥王の剣』と」

 殺し合ってもらうだけですから。

 冥王の剣。その言葉の意味こそ理解できなくても、肌で感じる不穏さは言わずもがなだ。

 故に彼は彼女を指して言われた言葉への疑問を叫ぶが、しかし誰も彼の問いに答えることはなく――。彼女は、ニィと口端を持ち上げて笑む。

「……対象・認識。クク、アハハハハ! ラグナ……殺し合おう!!」

 ただ嬉しそうに高く笑い声をあげて、バイザーで殆ど隠れた顔のうち唯一表情を窺える場所、口に歓喜と恍惚の表情を色濃く浮かべ両の頬を染めた少女は瞬間、消えた。否、ラグナの背後へ移動したのだ。

 空気の流れでそれを知り、振り下ろされる複数の剣を己の得物で受け止め、後退する。先ほど彼女――ニュー・サーティーンが居た場所にだ。

 次々と展開される術式陣から赤い光の剣が生み出され、ラグナに向かって射出される。それら全てを大剣を振り弾いて、回してはまた受け止め。その間に遊ぶように飛んでくる少女に蹴りを放とうとするがそれも躱され、隙に差し込むようにしてまた剣が。

 久々の慣れてしまった攻防の中で思うのは、窯に落ちたはずの彼女が何故居るのか、だ。

 ラムダに組み込まれていたときのように、魂を引き上げることができたのなら肉体も同様に引き上げ、魂を定着させることも可能ではあるのだろうけれど。

「キャハハ、ラグナ、考えごとぉ? ダメだよ、ニューだけを見なきゃ……死んじゃうよ?」

 彼女が両腕を掲げ、頭上で交差させ――振り下ろす。

 途端、巨大な赤の術式陣が展開され、数十にも及ぶ剣が絶え間なくラグナに向けて射出される。言葉の通り彼を殺すために。それら全てを防ぐ度、嫌な金属音が高く木霊した。

「うるっせぇ……!」

 相変わらず、彼女は強い。それどころか前よりも攻撃の速度が増しているような気すらして、ラグナは顔を顰めた。攫われた妹と同じ顔をした少女の攻撃を躱し、時に反撃し。

「まだだよラグナ、全然足りないよ~! もっと、もっとだよ……っ」

 言う彼女に、仕方なく彼は己の右腕を、解放しようと。溢れるものに従って幾度も唱えた言葉をなぞる――しかし。それを遮るように、空間が突如揺れ、空気が歪むのだ。この感触は、否、まさか。嫌なものが背筋を這うのを感じて、ラグナは声を溢れさせた。

「何だよ、これ……この感覚はまさか、事象干渉か……!?」

「ピンポーン、大正解~!」

 できればそうであって欲しくないという憶測の言葉に答える声はいつの間にか目の前に現れていた。もう一人の彼であるときのスーツに身を包み、しかし窮屈そうなネクタイは解き首に引っかけて。帽子は頭になく逆立った鮮やかな緑の髪は惜しげもなく晒したその男は、凶悪な表情と人をおちょくり見下す声からして、まさしくユウキ=テルミであった。

 誰が、そんなことを。言いたげなラグナにテルミはひどく愉快げに指を立て、語る。

「帝の干渉力は今、タカマガハラを掌握したことによりノエル=ヴァーミリオンよりも上だ。だから、こういうこともできちまうんだよ」

 目を僅かに細め、口角を持ち上げ語られる内容。にわかに信じがたいし理解も難しい内容だが、要するにラグナの妹にして帝――サヤが、そうしているのだろうと理解する。

 ざわつくものを胸に感じて、ラグナが駆けた。

「テルミィ……!」

「うおっとぉ、危ねぇっ! 何だよ、まだ元気残ってんじゃねぇかよ子犬ちゃん」

 怒りと憎しみのままに、愉快げな表情を浮かべたテルミに大剣を振りかざす。しかしそれは金属音と共に弾かれる。揺れる三つ編み。ユリシアの鎌だった。

「だいじょうぶですか、てるみさん」

「あぁ、ありがとさん」

 青白く光り、無数の粒子になって鎌が消えると、テルミはユリシアの蜂蜜色の頭髪を撫でた。そしてラグナからニューに視線を移すと、一言。

「オイ、十三! ラグナちゃんが遊んでほしいって言ってんぞ、相手してやれ!」

「フフ、ダメだよラグナ……もっと、こっちを見て? まだまだ殺し合うんだから、ラグナ!!」

 テルミの命令に応じるように、ニューが甘ったるい声でラグナに言って、一瞬で近付き攻撃を再開する。振り下ろされるのは翼のようなあの剣たちだ。

「ぐっ……!」

 大剣で咄嗟に受け止めるがその攻撃は重い。踏鞴(たたら)を踏んで下がる彼に微笑むニューと、二人を眺めニマつくテルミを交互に見て――ユリシアは、首を傾けていた。

 何故、戦いを見て彼は笑っているのだろう。何故、彼女は世界の敵らしいあの男と戦って幸せそうなのだろう。何故、自分はここに居て、何もできずにいるのだろう。もっと、できることはあるはずなのに。

 何故か浮かぶそんな疑問を、ハッとしたように首を振ることで振り払い、テルミを見上げることしかまだできなかった。

 そして時間はまた巻き戻る。集約し可能性の潰えたはずの事象は同じ時間、違う形を刻みだす。

 それを受け入れる誰かが居たからだ。同時に、受け入れたくなくともそうされてしまった存在も居るけれど。

「――あれ」

 気が付いたとき、そこはよく見る執務室だった。見下ろせば革のソファに腰を預けていて、首を傾ける。先ほどまで彼女は、沢山の棺が無造作に放られた場所に居たはずなのだけれど。目を丸くしたまま、顔を上げる。

「どうかしましたか?」

 執務椅子に腰かけ書類を眺めていたハザマが、その白い紙の横から顔を覗かせて問うのが見えた。何故彼は普通にしているんだろうか、と逆にそれが疑問に思える。

「あの、さっきまで」

 そこまでしか聞いていないのに、それだけで彼はユリシアの言わんとしていることが分かったらしい。ああ、と一つ相槌を打って頷くと、

「成程、覚えているんですね。コレを機に、また勉強しましょうか」

 書類をデスクにそっと置いて、引き出しを開ける。封筒を取り出してそれらを全て収め引き出しに戻すと――彼は立ち上がり、少女に歩み寄った。

 

 

 

 事象干渉。

 『意思』を持つ者がある『事象』――物事を『観測(み)』ることで、その事象に干渉することのできる力だ。それを行使できる人物はごく僅かであり、そもそも『事象干渉』の存在自体を知る者自体少ない。干渉には精神を削られる。物事を好きなように作り変えることができる神のような力なのだから当たり前だ。

「じしょう、かんしょう」

 イマイチ、ピンと来ない様子で彼女はその言葉をなぞった。

 そんな力を持つ人が居るという恐ろしさも、それを身内が行ったらしいことも彼女にはあまり理解できていなかった。

「かんそく……ができるなら、それが、できる、ということでしょうか」

「強い意思があれば、そうですね。その後どうなるかはその個体によって違いますけれど」

 観測。事象を、物事を、個人を、世界を。その形を認識し、果てはそこに定着させることができる。それを自分の意思で『こうである』と認識をすることにより干渉するのが事象干渉なのだから、観測ができるということは事象干渉ができるも同然だ。

 何故ソレを話したかといえば、彼女が覚えているのは干渉される前の、本来世界がなぞるべきであった形だからだ。彼女には今後、そういうことがあるというのもしっかり勉強してもらい、あるいは彼女自身にそれを行ってもらう可能性もあるのだから。

「わたしが、まえに……あの、みっつのかげを、見たのも、かんそく……なんですか?」

 観測しろと、あのとき彼はそう言ったから。つまりそういうことなのか、と問う少女に思い出すように顔を俯けてから首肯するハザマ。

「それで、あの三つの影――世界を管理していた人工知能システム『タカマガハラシステム』を貴女が観測し、その場に定着させたことによってテルミさんはあそこに行けたんですよ」

 にこやかに微笑んで、人差し指で天を指す。思い出す、ハザマが『壊れた』光景。それがフラッシュバックするのを振り切って、指を追うように上を見る。

 遠く遠く、そこはタカマガハラのあった場所だ。しかし感じる気配に稼働している様子はない。

 ――テルミらがファントム(亡霊)と呼んだ三角帽子の影が作ったウイルスにより休止したのを帝が管理しているためだ。まだ使わない今、再び稼働させる理由も同様にない。

「まぁ、あとは……今度、話しましょうか」

 理解しているのかしていないのかは分からないが、これ以上に説明のしようがない。話すこともなくなって、ハザマが言えば少女は頷く。それを見て満足げにまた一度、微笑みを浮かべるとハザマはくるりと後ろを向いて、止めていた書類の作業を再開するためにデスクへと向かった。

 事象干渉。懐かしい響きだとどこかで思うところがあって、ユリシアはただ不思議そうに思い出そうとするのだけれど思い出せなくて――。

 それを嘲笑う誰かが居る気がして、なんだかとても苦しくなった。




凄く間が空きましたが許してください

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