POSSIBLE DREAM   作:鈴河鳴

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第五章 幕朱の暁

「あぁ、そうそう。少しばかり寄り道してもよろしいですか?」

 ハザマがふと立ち止まり、彼女にそう問えばユリシアは頷く。オリエントタウンを歩いている途中だった。雨は通り雨だったのか晴れ渡っていた。ハザマは彼女が頷いたのを確認すると、急にくるりと向きを変えてある方向へ歩み出す。ぱたぱた、と追いかけるユリシアを尻目にある程度進むと、見えてくるのは一つの看板だ。

「あぁ、あったあった」

 楽しげにそう零しながらハザマはその看板のある場所、小さな診療所の近くまで行く。

 そこで丁度やってくるのは艶やかな黒髪を一つに束ねた女性だった。豊満な胸をさらけ出したその女性は、多分この診療所の人間だろう。ハザマを見るや否や、

「あの、患者さんですか? どこかお具合でも……」

 そう心配げに問うのだが、ハザマはいえいえ、ただ貴女を待っていたのだと頭を横に振った。遅れてやって来るユリシアと、何か約束でもとハザマに近づく女性。ふと彼女が立ち止まる。その目はどこか遠く、ユリシアが小首を傾けた。

 暫しして、ハッとしたように女性が目を見開く。それもそうだろう。彼女は今、真っ暗な闇の中に放り込まれる感覚と、眩しい光を見つける感覚を味わったのだから。

「今、のは……」

「おや、どうかしましたか。何か夢でも見ていたような顔をしていますが」

 にこやかにハザマが問いかける。途端、警戒したように彼女が口を開いた。

「――貴方達、何者!?」

 問い。彼に、否、彼らに近付いた途端、あんな、蒼い光が。一体何者なのか、問わずにはいられなかった。だが、そんな狼狽した彼女とは対照的にハザマは酷く冷静な様子で返す。

「あぁ、名乗るのが遅れましたね。私、統制機構諜報部のハザマと申します」

 統制機構。ここ、オリエントタウン周辺では『図書館』と忌み嫌われるその名を聞いた途端、ぴくりと彼女の眉が動く。統制機構が、一体何の用だ。そんな目で彼を見れば、

「そんなに警戒しないでください。ただ『第七機関のライチ=フェイ=リン』のお話が聞きたくてやって来ただけなんですから」

 にこやかに彼はそう述べる。名前を知られているどころか、素性までバレてしまっている、と彼女――ライチは驚きに目を丸くした。引き攣る表情。嫌な汗が伝う。

 彼女はオリエントタウンで診療所を営んでいる。しかしそれは表の顔。本来は第七機関の、あのココノエ達と共に働く人物だ。そして、情報収集のために診療所を開業し経営していたのだけれど。

 そんなライチを他所に、彼は至極楽しそうに口を開いた。

「それで、『境界』からの『個体生物による魔素流動理論』に関しまして……」

 ユリシアには、理解のできない言葉たちが並ぶ。ここでその言葉を理解できるのは、彼くらいだ。そしてもう一人。

「どうしてその事を……! あれは公表すらしていないというのに!!」

 思わず叫ぶ、ライチだけだ。その理論は、ライチのものだから理解できて当然といえば当然なのだが。彼女はキッとハザマを睨み付ける。雰囲気が変わったのを肌で感じ、彼女が構えた――が、それをハザマが制することでユリシアは腕を下ろした。

「さぁ、どうしてでしょうね。諜報部だから、じゃないですか?」

 首をこて、と傾けライチを見下ろすハザマ。不安そうに見上げる彼女に、大丈夫です。そう口の動きだけで伝えた。

「話しなさい、どこからその情報を得たの」

「言うと思いますか?」

 目をすっと開いて彼は金の眼差しで彼女を射竦める。怯えの色を見せる彼女に、人差し指を立てた。それなら、別の情報を与えることで手を打ちませんか、お互い戦闘は避けたいでしょう、と。

 答えないなら戦闘だって、そんな彼女の思考を完全に読み取っての提案だった。

 出鼻を挫かれたライチは、こほんと一つ咳払いをして、何の情報だ、と問う。

「例えばそうですね。賞金首の――アラクネの話だとか」

 その名が出た瞬間、彼女は再度目を見開いた。アラクネ。かつては人であったその魔素流動体である賞金首は。愛しくて、尊敬していた人で。

「……いいわ。それで手を打ちましょう」

 彼の情報を得るために、こっちに来たというのもあるから。彼女は暫しの間を開けた後、渋々とそう漏らした。

「そうですか、それはありがたい。では、えーと」

 そうして彼は話しだす。リストナンバー、名前、大まかな居場所と活動の仕方、理由。そして最近の活動は激減していること。存在理由、元は人間だったことからその時の所属。そして――『魔素流動理論』の第一被験者であることを。

 彼女は叫ぶ。やめて、と。首を傾け、気に召さなかったかとハザマは問う

「何故、何故そこまで知っているの……?」

 すっと目を見開いて、彼は語った。統制機構を甘く見るな、と。ユリシアはその間、一切口出しをしない。まるでその台詞に知らないこと、疑問に思うことがないかのように。そんなことあるはずがないのに。しかし、知らないことを問うなと言われたわけでもないけれど――。

「境界からの力も制御できないチャチな組織と一緒にしないでいただきたい」

 そう、ハザマが語った途端。彼女が反応した。では、もしかしたら『彼』のことを。

 けれどその言葉を遮るようにハザマは手をひらひらと振って、

「貴女も随分お疲れのようですし。ここで話せば人に見られてしまう。それは困るでしょう?」

 そう言って、また来ます、と残すと。舞台役者でも気取るかのように彼は被った黒い帽子を持って、片手を胸に。深々とお辞儀をすると踵を返した。ユリシアに行きますよ、と告げてやれば彼女は元気よく返事をして、一度恐る恐る振り返って頭を下げた後に彼を追いかけた。最後まで、彼は先ほどアラクネと出会ったことは語らなかった。

「ごきげんよう、『ライチ=フェイ=リン』」

 耳に残る彼の声、一度目を伏せた後――彼女は訥々と零した。

「まさか、統制機構にまで『彼』の正体を知られているなんて」

 事情が変わった。急がなくては。

 彼女はそう胸の内で漏らすと、診療所の中に戻っていった。ココノエ博士に離さなくては――。

 

 

 

 あれから数日経ったある日のことだ。ライチは一人で公園のベンチに座っていた。その黒髪の中に居た小さなパンダ、ラオチュウが彼女を心配げに見つめていて、それを優しく撫でて彼女は謝った。あなたのせいではないのよ、と。でも、彼女はどうすればいいのか悩んでいた。

 最近は唐突に色んなことがありすぎた。彼と出会った後、ラグナ=ザ=ブラッドエッジと彼女は出会ったし、そこでも蒼を感じてしまった。蒼に、惹かれそうになった。

 それから、ココノエと話をするためにテイガーに会った。けれど、ココノエがテイガーに命令することにより戦闘。そこで彼女は境界から力を取り入れすぎてしまい、師であるココノエに指摘を受け、逃げてしまった。

 朝露が霧となって辺りに漂うこの公園は、近くにあったはずなのにもうあまり使われていないのかボロボロで、不気味さすらあった。

 そして、その不気味さは更に拍車がかかる。後ろで、声がした。あの時も聞いた声。

「随分、苦しそうですね」

 ハザマだった。咄嗟に振り返り、彼女は彼を睨み付ける。それに手をゆるゆると横に振って、怖い目をしないでくださいよと困ったように彼は言う。その隣に居る少女も、怯えた様子だった。

「今日はお話に来ただけなんですよ」

 その言葉に、彼女は些か強い語調で吐き捨てる。話す事など無い、と。けれど彼はそれに構わず話を続けた。

「取り敢えず、話を聞いておくだけでも損はないかと」

 そう前置いて、彼はそうっと、ひそひそ話をするかのように。彼女にだけ甘く語り駆けるような声で、語る。私ならば、私達ならば――貴女の浸食を食い止めることができる、と。

 それに彼女は瞠目した。けれど、また強く睨んで嘘だと言う。彼女は、ラオチュウを通して境界から力を取り入れていたのだけれど、結果それによって境界――数多の情報と力が眠るそこに浸食されかけていた。

 けれど、それを止めるのは彼女の師、天才であるココノエですら無理だったのだ。

 だから、そんなの、できるはずがない。彼女はそう切り捨てた。博士の事も知っているのだろう、と問いを付け足して。

「第七機関筆頭科学者『ココノエ』。えぇ、勿論よぉく知っていますよ、よくね」

 それならば解るはずだ、彼女はふいとそっぽを向いて悲しげに漏らすが、

「ええ、彼女は確かに天才です。しかし、些か頭が固いようです。旧世代の科学に固執するあまり『真実』が見えていない」

 魔素は利用するのではなく、支配するものなのです。そして、統制機構はそれを支配する方法を知っている――。『術式』という人類が得た新たな叡智を使って。

 彼の言葉はあまりに甘美だ。故に、彼女は信じられないと言いたげな表情で、首を横に振った。あれはそんなに便利なものではない。私はそれを理解している。

 そんな彼女の言葉を遮って、深く深く、呆れたように溜息をハザマは吐いた。一度チラリとユリシアを見つめた後、彼は諭すように告げる。

「ライチ=フェイ=リン。術式が発明されてから、何年経っていると思ってます? 技術は日々、進歩するものなのですよ」

 でも、と彼女は言う。しかし、統制機構――現在での世界最大の組織を甘く見るなと言われてしまえばそれまでだ。信じられない、けれど、それほどの説得力がその言葉にはあったのだ。彼は付け足すように、

「ではとりあえず、お近づきの印に『彼』、アラクネさんの居場所をお教えいたしましょうか。ついさっき入った新鮮な情報ですよ」

 そんなに早く見つけられるはずがない、という彼女に彼はにっこりと笑って、「統制機構を甘く見るな」ともう一度。そして情報を得た後、彼女は去っていった。その後、彼女は『彼』と出会い――統制機構へ赴くこととなる。

 

 

 

「さいきん、いろんなひとと、おしゃべりします、ですね」

 去って行く背中を見て、ぽつりとユリシアが漏らす。

 あまりハザマは人と交流をしない。それも、諜報部というだけで衛士には胡散臭がられるし、マコトも今は任務の真っ最中だったから、なかなか人と話す機会はないはずだ。

 なのに、彼は進んで他人の所に出向くようになっていて。それが良いことなのか悪いことなのかユリシアには判別がつかなかったけれど。

 それになんだか、最近はテルミが出ることが少ない。ご飯の間だとかは確かに居るし、時々二人が会話しているっぽいのも見たりはするのだけれど。活動する時は基本的にハザマだけだ。確か前に、人と会話する時はテルミだと厄介なのだ――と言っていたし、それと関係しているのだろうとは思うけれど。

「そうですねぇ。最近は色々やらなければならないことが増えました」

 今日はあとツバキの所へ行かねばならないと彼は言う。ツバキ=ヤヨイ。統制機構の第零師団・審判の羽根に所属する少女のところだ。彼女は今任務の真っ最中でどこにいるかなんて分からないはずなのに、彼は度重なる事象の記憶でそれを知っていた。

 腕時計を見遣る。そろそろ行かなければいけない頃合いだろう。彼は踵を返すと、ユリシアの手を引いて公園を出た。

 都市を山の中心部に向かって歩きだし、統制機構管理のエレベーターで統制機構のある最上層へ。エレベーターを降りて悠々と歩みを進めれば、統制機構近くの空中庭園に辿り着く。そこに彼女は居た。第零師団のテーマカラーである白のローブを纏ってこそいたが、その顔には、外に出るとき着用するべき白の仮面がない。それどころか、フードを脱いだ頭部には指定の帽子もなく、代わりに目のようなものが付いた帽子が乗せられていた。ローブの下も、統制機構の制服なんかじゃないだろう。きっと、一度カグツチを離れて『あれ』を取りに行って――。それだけ分かればハザマは満足げに頷いた。

 俯き、佇む彼女にハザマは歩み寄る。勿論、庭園の入り口にユリシアを待機させて、だ。こんな所まで手を出しに来る人物はなかなか居ないと考えて。

「おやおや、これはこれは。ツバキ=ヤヨイ中尉ではありませんか。奇遇ですねぇ」

 さも偶然通りかかったかのように装って、彼は彼女の背後から声をかける。その声に気付いたように、ツバキは力なく顔を上げた。

 その表情は前に会った時のようなひどさはなかったし、寧ろ安心すら見えたけれど、ハザマを見た途端にそれは薄れてしまった。

「あ……ハザマ大尉。何故ここに」

「まぁ、ちょっと野暮用がありまして。それで? 任務の進み具合はどうですか?」

「えぇ、そう……ですね」

 彼女は一瞬言葉に詰まる。震える唇、泳ぐ視線。首を傾けるハザマに、やがて彼女は口を開いた。

「……それが、情報が少なく二名とも未だ発見できておりません。申し訳ありません」

 嘘だ。至極真面目な性格をした彼女が嘘を吐けば、諜報部として勤めている彼はすぐに分かる。どちらかとは既に会っているだろうことも、そして説得だけして殺していないだろうことも彼は分かっていた。だから敢えて何も知らない素振りで、

「あらら、そうなんですか。で、それは本当ですか?」

 問う。案の定、面白いぐらいに彼女の顔色は青ざめる。それでもそれを必死に隠しながら、本当だと白を切った。引き続き両名を捜索する、だなんて。その反応をすることは分かりきっていたが、彼はそれならいいと頷いて彼は微笑む。

「あはは、分かりました。早く見つけられるといいですね。さっさと見つけて最終的にきちっと二人をぶち殺してくだされば、それでいいんです」

 柔和な笑みを浮かべて彼は物騒な言葉を紡いだ。ツバキの表情が思わず引き攣り、心臓がキリキリと痛む。そうだ、彼女は本来言葉にするのもおぞましいことを決行しようとしている。

 でも、信頼するあの二人なら説得すれば分かってくれる――そう思って、ジン=キサラギを説得し統制機構へ戻るよう約束した。けれど、それを隠したのは任務が『暗殺』だからだ。彼女には、それが正しいことのはずなのに――そんな迷いが生まれていた。

「大丈夫ですよ。貴女はなぁんにも、間違っていませんから」

 目を見開く。まるで心を読んだかのような彼の発言に、体が凍り付いた。鉛のように重い空気がじわじわ、じわじわと体内に侵入していくようで、息が苦しい。

 彼女は彼を恐れていた。嫌な予感がしてならない。思考が警鐘を打っていた。

「大丈夫ですか? 顔色が優れないようですが」

 ハザマの心配げな言葉にハッとして彼女は何でもない、と首を振る。それならいい、彼は告げてふと――思い出した、というように手をぽんと叩いた。

「あぁ、そうそう! 中尉に話したいことがあったんですよ」

 どうですか、聞きます? 首をこてりと傾けるハザマに、訝しげに思いながらも彼女は何だと問うた。その反応に満足げに頷いて、彼は話し始める。

「――ええ。それは、ちょっとした悲劇です」

 

 

 

 ユリシアと合流し、彼は空中庭園を出る。花々に別れを告げて、彼が向かう先は統制機構の入り口だ。一足先に、彼女は向かっているはずで。――案の定、近づくにつれてある音が聞こえてきた。

 キン、と金属音が鳴り響く。話し声。

「これを躱すなんて流石ね、ノエル!」

「突然どうしたの、ツバキ……!」

 ツバキが振り下ろした短剣を、彼女が咄嗟にベルヴェルクの銃身で防いでいた。身を後ろへ引き、また飛びかかるツバキを避けて、その繰り返し。舞台のような華麗な動きだったが、これは真面目な戦闘だった。

 荒い息、降り始める雨。そして、ツバキが何かを叫び――ノエルがそれに応える。ノエルが膝をついて覚悟を決めたかのように項垂れた。しかし、いつまで経ってもツバキは剣を振り下ろさない。そして、泣きだした。そんなツバキに気付いて抱きしめる。

 なんと美しい友情劇か、なんて心の中で思ってもいないそんな言葉を漏らしながらハマは歩み寄る。あえてユリシアを連れたまま。

「――あらら、駄目じゃないですか、中尉。ちゃんと殺してしまわなくちゃ」

「え……?」

「ハザマ大尉!」

 間抜けた声を漏らしたのは、ユリシアだ。声にならない声を上げるツバキと対照的に、その表情には戸惑いというのは一切なくて、ただただ疑問だけがそこにあった。

 ノエルがひどく怯えた目でハザマを見つめる。一体、ツバキに何を。そう言いかけた彼女に歩み寄り、彼は首の後ろを打って気絶させた。目を見開くユリシアとツバキ。ユリシアが何か言うよりも先にツバキが慌てた様子で口を開いた。

「ハザマ大尉! 聞いてください、お願いします。それにお言葉ですがユリシアの前でなんて……」

「いいんですよ、ユリシアが居ることも、貴女が殺せなかったことも」

 ノエルも説得すれば分かってくれるし、それに極秘の勅命ではなかったのか、だとか、あまりにおぞましくて子供に聞かせる内容じゃないだとか、そういう理由からの言葉だったのに。彼は全て分かっていると、彼女の前半の言葉を無視しこれでいいんだと言って、にこやかに微笑むとユリシアを見た。

「コレ……いえ、『この子』は特別ですから」

 その言葉に、ツバキは不安げに瞳を揺らす。何において特別なのか彼女は理解できなかったから。それよりも、何か不穏なものを感じて。

「あの、はざまさん、なんでのえるさんを」

 だから。ノエルをどうするつもりだと、ツバキが問うよりも先にユリシアは問う。ああ、彼女は何も知らないから。ふむ、と彼はノエルを抱きかかえたまま顎に手を添える。

「――後で分かりますよ」

 そう言って、彼はツバキを見た。ニィと笑う。

「あ、まだ居たんです? 居場所を取られたゴミ中尉はさっさと消えてください」

 ユリシアは、解せなかった。何故目の前の、まだ話した回数は少ないけれど友と呼べる人物がゴミと呼ばれているのか。何故ノエルは突然襲われたのか。殺す、なんて言われなきゃいけないのか。このあとどうされるのか。何も分からなかったから、どうすることもできなかった。

 ハザマの言葉に、ツバキが目を見開き襲い掛かる。分からないなりに、大切な人を守りたいからと咄嗟にユリシアが構えるが、しかし彼女の剣は空を切る。

「おっと、頑張りますねぇ。でも」

 途端、ツバキの視界は闇に覆われた。

 十六夜。使用者に力を与える代わりに光を奪う術式兵装。その力に彼女は飲まれたのだ。無我夢中で剣を振る彼女。他から見れば突然彼女が可笑しくなったように見えるだろう様は滑稽で、滑稽で、ハザマはその笑いをなるべく堪えることで必死だった。

 首を傾けるユリシアをチラリと見た後、そっと囁く。

「少しすれば、彼女は戻りますから、大丈夫ですよ」

 その言葉が本当なのか、彼女には判断が付かない。目の前の人間が全てで、彼女はそれが真実だと信じて頷く。心配げに腕の中のノエルを見つめて。

「みじめだなぁ、ツバキ=ヤヨイ。そうなったのは、一体誰のせいだ?」

 ハザマが一歩歩み寄り、そっと耳元で囁く。彼女の中で何かがぷつり、と消えた。

 ノエルのせいだ。ノエルが居場所を奪って、ノエルが、ノエルが。

 泣き叫んだ。彼女には、何が正しいのかもう分からなくなっていた。何を信じ、何のために戦えばいいのか。苦しむ彼女を見て、ハザマはユリシアの背を押した。

「さ、行きましょうか。彼女が落ち着くまで、そっとしておいてあげましょう」

 がくり、と膝をつくツバキを尻目に彼がそう言えば、彼女は少しばかり躊躇った様子を見せながらも頷く。これが、正しい事なのだと信じて。

 ふと、背後に『誰か』が現れた気がしたが、ユリシアが出会うのはまだ先だ。

 

 

 

 そして彼らが着いたのは、統制機構の屋上だ。びゅうびゅうと強く風が吹き付け、気張らなければ落ちてしまいそうなほどである。屋上は、都市全体を見渡せるほど高い。

 そこには、黒く巨大なモノリスが佇んでいた。蒼い光が血管のようにはしり、脈動し、上には巨大な翼で出来た『繭』のようなものが一つ。ノエルを寝かせ、彼――ハザマ(テルミ)はモノリスの目の前に立ち、それを見上げた。ユリシアは彼の隣に。

「これ……なん、ですか」

 問うユリシアを横目に、ふふと笑いを零して彼は語る。これは、ノエルを本来の姿に戻すための重要なものなのだ、と。

「ほんらいの、すがた?」

「ええ、そうです。彼女は――実は人間じゃありません。本来の、人形としての姿に戻してあげるのですよ。それが彼女のためですから」

 彼女のため。そう言われれば、そうなのだろうか、とユリシアは思ってそれ以上何も口出しをすることはなかった。やがてノエルは起き上がる。辺りを虚ろな目で見て、やがてハザマの姿を見つけ表情が強張る。ハザマ大尉、そう呼んで、彼女は床に手をついて立ち上がる。

「なんで、私……ここに」

「やっと起きてくれましたか」

 不審がる彼女に振り向いて、微笑むハザマが言う。

「ハザマ大尉、ツバキに何をしたんですか!! 何をするつもりで……!」

 叫ぶ、彼女。その声は震え、怯えが色濃く浮かんでいたけれど。きっと睨み付ける彼女に彼は嫌ですねぇと言って手を掲げる。まだ分かっていないのか。語り、ユリシアをちらりと見た後――彼は告げた。

「なぁ、『眼』を継承したんだろ? なら、分かるはずだ」

 ひどく冷たい眼でノエルを見て、テルミはそう語った。分からない、分からないはずなのに。そんなの知らないはずなのに。

「違う! 私は、私は……ッ」

「もう観えてんだろ、オイ」

「違う、違う……ッ」

 ぶんぶんと首を横に振って、彼女は否定した。けれどもそれを見るテルミは高く嗤った。何が目的なの、と彼女は叫ぶ。

「憎い、ツバキにあんな命令を下したり、他の人達を……憎い、憎い憎い……」

 思い出す情報達が、彼女の言葉を変える。拒絶はやがて憎しみとなり、テルミをひどく憎んだ。しかしそれを嬉しそうに受け止めて、テルミは彼女に声をかけた。

「おら、もっと、俺を憎め、世界を憎め……!」

「憎い、憎い、テルミ……貴方を許さない! ベルヴェルクッ!」

 叫び。それに呼応するように、彼女の手には白銀の双銃が現れた。おっかない、からかうように言ってテルミはユリシアを呼ぶ。

「ちょっとばかり相手してやってくれや」

 躊躇い。揺れる瞳。ぽん、と頭を撫でやれば、彼女は頷いた。テルミを抹消すると叫ぶ彼女が魔銃の弾を放つ。空気が裂ける。しかしそれはテルミには当たらない。

 何故なら、ユリシアの召喚した鎌がそれを弾いたからだ。ノエルには、もうユリシアのことが見えていなかった。ただ、憎しみを向ける相手、テルミを消すことだけを考えるので精一杯だったから。邪魔されるなら友であろうと。

 ユリシアに向け乱射される銃、それらを彼女はかろうじて躱し、ノエルへ駆けた。目を見開く彼女の銃に鎌をひっかけ、狙いを定められないようにする。そのまま柄を持ち直し、横に殴れば彼女の身は傾いた。

 駆け寄ろうとするが、止める。両者の荒い息は風にかき消えた。

「ユリシア、もういい」

 頷き、ユリシアは身を引く。ツカツカと歩み寄るテルミをノエルは睨んだ。再度問う。何が目的なのだ、と。彼はヒヒッと笑って、

「いいぜ、そんなに問うなら教えてやるよ。とくと『観測』しろや!」

 彼がそう言った瞬間、彼女の目は遠くを見るものになる。やがて震え、苦しそうな表情を浮かべ、拒絶を口にする。彼女は、百年分の争いを見ていた。

 素体と人間が対立し、互いに憎み合い、殺し合う。醜く悲しい戦争。彼女には、当時の素体に向けられていた憎しみが目一杯ぶつけられていた。

 そして、甲高い叫びと共に彼女は戻ってきた。

「嫌、嫌、嫌ぁぁぁああああっ!!」

 彼女の精神はズタボロに引き裂かれていた。荒い息、目に浮かぶ透明な雫、震え、蒼い顔。その表情を見て、テルミは至極軽い口ぶりでおかえり、と。

 言葉にならない声、震える唇。その様を見てやっと、目を丸くして。

「あれれぇ、大変だこりゃ。まあ、あんなモンを百年分も見たらそうなるわな」

 彼女が絶望するのが、テルミの目的の中では必要だった。故に見せたが、余程のダメージだったのだろう。くつくつとテルミは笑った。

 どうして、と彼女は問う。

「それを聞いちゃう? そりゃそうだろ、お前らが滅ぼしたんだから」

 どうして、と再度問う。

「『お前ら』が『人間』から受けた仕打ちを思い出せ」

 ――どうして、彼女は問うた。

「答えは簡単だ。何故なら『お前ら』は憎まれるための存在なんだから」

「……ぁ」

 ぷつり、と彼女の中で何かが切れる音がした。そこに追い打ちをかけるように、テルミは語りかける。

「見ただろ、あれが世界の真実だ。聞いただろ、ゴミどもが泣き叫ぶのを。感じただろ」

 全ての魂の殺意が、テメェに向かったのを。

 そして『世界』の理を彼は語る。一度死んだはずの世界を無理矢理捻じ曲げて、歪な時間を何度も何度も繰り返している。そう、語った。

 どうして。彼女は問う。

 ユリシアは、黙ってそれを聞いていた。彼女に何が起こったのかも、何も分からないまま。ただただ、あそこに居たときのように見守ることしかできなかった。

「かつて人類は最初の門を見つけた。門の向こうに何があるか――それを知りたがった人類は『次元境界接触用素体』を作り探らせようとした。門の向こうはただの機械や人間じゃ行けねぇからだ」

 だから、人間に最も近く調整が効き、かつ人間よりも丈夫な素体を人間達は生み出した。そして、失敗が続く中、一体だけが最深部に辿り着き『蒼』と接触した。

 そうして、有り得ないことが起きた。『感情』が生まれたのだ。ただの観測用肉人形に魂が生まれた。それはそれは、科学者達は喜んだ。

 しかし、その素体は『眼』の力を宿していた。『眼』の力は想像以上の力を秘めていた。当たり前だ。事象を好きに『観測(み)』られるのだから。

 だから科学者達は『眼』の力を恐れ、その眼を潰して境界に封印した。深く深く、暗くて何もない闇の底へ。だが、それで終わるはずがない。知ってしまったのだ。『神』のような力を。

 そうして、彼は『蒼』を独占するため争う人間達と、そのために生み出された素体のことを語る。やめて、叫ぶ彼女を無視して。

「じゃあ、よく聞きやがれよ。その『道具』である人形共がテメェの『本当の兄弟姉妹』なんだよ、ノエル=ヴァーミリオン。っと、これも本当の名前じゃねぇよな」

 それは、ヴァーミリオン家に引き取られてからつけられた名前だ。それならば、お前は何なんだ。テルミが問う。やめて。彼女はまた叫んだ。

 瞬間、ベルヴェルクの銃身からは黒い光が溢れ出す。

 それを見た途端、テルミはとても嬉しそうに笑った。ひどく、嬉しそうに。

 ユリシアはその光が何なのか知る由もなく。ノエルの苦しんだ表情も、きっとあとには消えていると信じて。

「ヒャハ、やっぱテメェ拒絶してたか! そうだよなぁ、そうだよなぁ、うんうん。分かるぞ。でもな、しぃっかり認識しろよ……」

「やめて、やめて、やめて」

「テメェはな……」

「やめて、お願い、やめて!」

 拒絶するノエルを見下ろして、テルミは告げる。

 作られた道具。人形。人形。人間ではない。何を人間のようなふりをしているんだ。彼女が目を見開く。人形。人間のはずなのに、ずっと、人間だと思っていたのに。泣き叫ぶ少女、ベルヴェルクから溢れる光は量を増していた。

「あ、あぁ、あぁぁあ……っ」

 その光に包まれながら、つぅ――と、ノエルの赤い頬を透明な涙が伝う。嘲笑うテルミ。『ノエル(にんぎょう)』は最後『繭』に吸い込まれた。

 

 

 

「これが、ほんとうに、のえるさんのため……ですか?」

 ぽつり、とユリシアがこぼす。

「真実を知らないままなんて可哀想だろ」

 可哀想。思ってもいないことを口にするテルミではあったが、真実が歪められるのが、この狂った世界が大嫌いだったから。小さく頷くユリシアの頭を撫で、

「心配しなくても、もう少しすれば悲しいのも終わるから」

 そう甘い言葉を吐いてやれば、彼女はへにゃりと力なく笑うのだ。そうして、暫し経った後だ。テルミが腕時計をちらと確認して、

「そろそろ来る頃合いかね」

 そうして、屋上の入り口を見れば――。

「見つけたぞテルミィ……!! ノエルはどこだ!」

 にんまりとテルミの口角が持ち上がる。死神、ラグナ=ザ=ブラッドエッジのお出ましだった。結んでいたネクタイを解き首に引っかけたまま、テルミはラグナを見た。

「どこだって? ヒヒッ、わかってるから来たんだろここに!」

「うるせぇ! さっさとノエルを返しやがれ!」

 ノエル=ヴァーミリオンとラグナの間にどんな関係があるのかは分からないが、大切な人、テルミに敵意を持っていることは明らかだから。ユリシアはまた武器を構えようとする、のだけれど。

「コイツは俺様がやる」

 そう言って一歩前に出て、テルミは懐からバタフライナイフを抜いた。くるくる、と手の内で回し刃を露出させる。そんなテルミを見つめ肩を上下に揺らし、歯を剥くラグナはまるで獣だった。

「いいねいいねぇ、その憎みっぷり。ほら、あそこ。あそこで眠ってんだろ?」

 テルミが指差すまま、その方向を見てラグナは目を見開いた。神々しくも禍々しい繭が、左右で色の違う瞳に映り込む。思わず、一歩足を下げた。

「な……」

「言われなくてもノエルちゃんは出してやるから、きゃんきゃん騒ぐんじゃねぇよ」

 テルミが煽るように言って、腕を広げる。叫ぶ。覚醒しろ、と。クサナギの剣を呼んだ。途端開かれる、繭。そこから降臨するのは少女――ノエル。否、ノエルの肉体を持つ少女だ。ノエルの精神は、どこにもない、

「おら、愛しのノエル……否、次元境界接触用第十二素体ちゃんだよ」

 そう言って、地に足を着けた少女を引き寄せる。

「テメェ……ノエルに何をした!」

「何って、精錬だよ。元の姿を思い出させただけだ。――おいクサナギ、テメェは窯に行ってアマテラスを引きずり下ろしてこい」

「了解」

 命令を受け、ノエル(クサナギ)はすぐに移動を開始した。待て、というラグナの声を無視して。だからラグナは雄叫びをあげ、大剣を振りかざし、駆け、テルミに振り下ろす。

 それをひらりと横に躱して、そのままラグナの腰へ回し蹴り。よろめくラグナ、ユリシアに剣が当たりそうになるも彼女が避けることで危機一髪。

 体勢を立て直し、また剣を振り下ろすが、それも敢え無く避けられてしまう。

「おら、他人の心配してる暇があるんならもっと芸を見せろや子犬ちゃん!」

 笑みを浮かべたまま、そう怒鳴るテルミにうるさいと吐き捨てるラグナ。ユリシアは手出しができないから一歩引いて、ただただ繭を不安げに見上げたり、テルミらを見守ることしかできなかった。

「テルミ……」

「んだよラグナちゃん、ご自慢のブレイブルーでも起動してみろ!」

 勝負は圧倒的にラグナが劣っていた。体格ではラグナが勝っていたが、それ以上に踏んだ場数が違う。テルミは何年もの時を生き、さらには何度も繰り返していたのだから。ラグナが単純だったというのもあるけれど。

 テルミの煽りに反応するように、ラグナが右腕を構える。手の甲についた丸いオブジェクトがぱかりと開き、赤い玉が露出した。そこから黒い光が溢れる。

 ラグナが口を開く。しかし――それと同時に、テルミもまた口を開いた。

「第六六六拘束機関解放!」

「んなっ……」

 叫ぶ呪文は、全く同じもので。それと同時にテルミの周りを緑に光る複雑な文字の円が取り囲んだ。思わず、たじろぐラグナ。

「良いことを教えてやるよ、ラグナちゃん。テメェのその腕――黒き獣、蒼の魔道書(ブレイブルー)を作ったのは、この俺様だ」

 親指で自身を指差し、口角を目一杯持ち上げてテルミは語る。目を見開くラグナを見てテルミは吹きだした。テメェが俺に逆立ちしても勝てない理由はそれだ、と嗤って腹を抱える。今まで何も知らずにそれを使って戦ってきて、ここで憎き相手と対峙してやっと知る彼のなんと滑稽なことか。これが笑わずにいられるだろうか。

 テルミが笑い出したのを聞いて、視線をテルミに戻すユリシア。彼の語る言葉は難しい言葉が多い、けれど、ブレイブルー。どこかで聞いたことがある言葉のような気がして――彼女は首を傾けた。

「次元干渉虚数方陣展開……『碧の魔道書(ブレイブルー)』起動!」

 テルミがそう叫ぶと、途端取り囲む円の光が強くなる。ラグナが咄嗟に自身も蒼の魔道書を起動しようとする。が、反応がない。まさか。

「自分の作ったモンに倒されないようにするのくらい当たり前ぇだろうが」

 不気味に笑う憎い顔がそう紡ぐ。体が思うように動かない。ラグナはそれでも剣を振るのだが――やはり当たるわけもなく。

「だから、俺様には勝てねぇって言ってんだろ! 遊んでやってんだからもうちょいお利口になれや」

 怒鳴るテルミに、ラグナはハッ、と吐き捨てる。眉をひそめる彼に、ラグナは口を開いた。――遊んで欲しいのはお前だろう、だから遊んでやるよ、テルミ。

「ウロボロス!!」

 瞬間、テルミがそう叫ぶ。射出されるのは蛇頭のついた鎖達だ。それはラグナに襲い掛かり、腕を噛み千切り、脚を切りつけ、横腹を掠める。悲痛な声を漏らすラグナに構わず、テルミは頬を引き攣らせながらカツカツと歩み寄った。そして、思い切りけりつける。その細い身体からは想像もつかない力で、ラグナは吹っ飛ぶ。

「オイ……テメェ、今なんつった? あぁ? 子犬ちゃんの分際でなんつった? 遊んでやるだと? もっぺん言ってみろ、殺すぞクソガキ」

 その表情には、怒りが込められていた。ウロボロスでラグナを締め上げ、切りつけを繰り返す。何度も何度も何度も。やがて解放されたラグナが膝をつく。

 そこにめがけて、テルミがウロボロスを射出した瞬間――だった。

「――あ」

「んな……っ!?」

 声を漏らしたのは誰だったか。二人の間に飛び出るのは、少女だった。単眼のバイザーを付け、白い装甲を装着した。背後には八本の剣を浮かべる少女。三つ編みにした長い金髪が美しい彼女。ラムダだ。

 ウロボロスに貫かれた少女からは血が吹き出て、彼女はラグナに倒れ込む。

 そんな彼女の出現に、皆が一斉に目を見開いた。

「てめぇ、人形の分際で俺様の邪魔を……っ」

 そう怒鳴るテルミを無視して、ラグナは少女を抱き寄せた。

「ラグ……ナ……」

「ニューか!? ニューなのか!?」

 すんでのところで転移したラムダの中の、ニューサーティーンの魂の記憶が蘇り彼を守った。それがテルミを苛立たせ、ココノエを驚かせ、そして――ラグナを苦しませた。ラグナに抱きしめられながら彼女、ラムダ(ニュー)は幸せそうにふわりと笑う。

「馬鹿野郎、俺なんかを守ってこんなとこで……」

 死ぬんじゃねぇよ、と零すラグナに、ぐったりとしたラムダの腕が伸ばされる。ラグナのまなじりに浮かんだ透明な雫を指先で拭い、

「泣かないで、ラグナ。大丈夫……ニューはずっと、ラグナと一緒だよ」

 そう告げて、彼女はだんだんと薄くなっていき――消えた。遅れて、ココノエが通信を入れてくる。

「おい、ラムダはどうした、ラグナ=ザ=ブラッドエッジ!」

 彼女の怒号が響く、が。すぐに彼女の声は疑問のそれと変わる。反応が可笑しい、と。

「まさか貴様、ラムダのイデア機関を吸収したのか……!?」

「っとぉ、俺を置いてお涙頂戴は終わりましたかーぁ?」

 ラグナが何か言おうとする前に、テルミがそう声をかける。イデア機関とはなんだ。その疑問の答えは、突然頭に流れ込む声が告げた。ラムダの声だった。

 それが分かった瞬間、彼は胸に手を当てて、自身に吸収されたのだろう彼女に礼を述べる。そしてテルミをキッと睨み付けた。

「テルミ……テメェは絶対許さねぇ!」

「許さねぇからなんだ! テメェに何ができるっつーんだよ!」

 そうだ、彼の攻撃は重いが当たらない。それに、ブレイブルーが無効化された今彼には何もできないはずだ。だというのに、彼はやけに自信満々に右腕をまた構え、その言葉を口にする。無駄だ、叫ぶテルミの前で――彼は、いつもと違う一言を更に叫んだ。

「イデア機関、接続……ッ」

「何だと……!?」

 テルミがそこで動揺を見せる。だからユリシアもまた、不安げにテルミを見た。ラグナの腕が光り、剣を握る手に力が入る。駆け出した。先ほどの比ではないほど早く、そして重い攻撃だった。

 避けきれず、当たる。もしかしたら何か考えがあって当たったのかもしれないけれど、傍目から見れば確かに、彼は避けきれなかったように見えた。

 ラグナの攻撃は続く。先ほどのお返しだとばかりに、何度も何度も。テルミから悲鳴が上がる度、ユリシアは駆け出したい気持ちでいっぱいになった。けれど、テルミが命令しない限り彼女は動けない。

 ズタボロの雑巾のようになって、テルミは地に伏せる。それでもラグナをせせら笑い、

「痛ぇなぁ、ヒヒ……ッ、ヒャハ、ッククク、これだよ、これこれ! 俺が求めてたのはこれなんだよぉ! まだ足りねぇ、もっとだ、もっと楽しませろぉ!」

 高く笑い叫ぶ。既に彼は殆ど動けない状態だというのに、だ。息を整えながら、ラグナはそんなテルミを暫し見つめる。けれど、何も次の行動を起こさなかった。それを不審に思った彼、テルミが眉をひそめ彼を煽るように口を開いた。

「あ? どうした、さっさと殺してみろよ、オラ」

 しかしそれはゆるりと首を振り踵を返したラグナに拒否される。ひらりと手を掲げ彼は一言、ライフリンクのせいでテメェを殺すのは少し厄介だ、と。

 ライフリンク。それは二人が魂を繋げることで、片方が死んでも片方が生きていれば観測上は『生きている』ということになる。ライフリンクを繋げた人間を殺すには、両者を同時に殺さねばならない。

 それがあるせいで、テルミは殺しても殺しても、生を保っていられるのだ。彼がライフリンクを繋げた先――ノエルと共に殺さなければ。

 そんな事できるはずもなく、彼は去っていく。その背中に、テルミは毒を吐いた。

「チキン野郎が」

 ラグナが見えなくなって、テルミはゆっくりゆっくりと起き上がる。無理をしているのが明らかで、ユリシアはそこでやっと動き出す。名前を呼びながら駆け寄り、無茶をしないでと言うのに、彼はそれでも立ち上がる。だからそれを尊重して肩を貸してやるユリシアにふんと鼻で笑って、血を吐いた。

「っぺ。さて……と」

「蒼の男はどうした……?」

 ぐるり、と辺りを見回すテルミ。そして現れるのは仮面で顔を覆った技術大佐の男だ。赤紫のマントを風に遊ばせ、歩み寄るレリウスはテルミの様を見て呆れたように溜息を吐いた。

「その体はあまり戦闘に向いていないと言っただろう、無茶をするな」

「いいだろ少しくらい。んなことより新しい器の方はどうなんだよ」

「あぁ……そちらは問題ない。それより蒼の男はどうしたんだ」

 レリウスが再度問う。何故ボロボロなのかは察しがつく。蒼の男――ラグナだ。なら、何故ハザマは死んでいないのか。そういう意図を込めた問いだ。

「とどめ刺さずに女の尻追っかけて窯だろうよ。んで、ユリシア」

「は、はいっ」

 呼ばれれば、何だろうとすぐさま返事をする少女に、重傷のテルミが語りかける。それは、先日の問いに繋がることだ。

「――俺を殺せ。この、クソ忌々しい世界を管理する奴らを消すために」

 何を言うのだろう、とユリシアの瞳が揺れるが、彼女はやがて決意を固め首肯する。先日の問いはこれだ、と理解したからだ。レリウスが首を傾けるが、すぐに納得したように頷いた。

 器の死が今回の目的には必要不可欠だ。しかしレリウスでは力加減が難しいことをよく知っているし、自らの死では意味がない。故に、テルミは彼女に頼むのだ。

 すっと、現れるのは大きなツバのついた三角帽子を被る生物だ。生物なのかもわからないし、顔も見えない。ただただ、禍々しい雰囲気を匂わせるものだった。

「あぁ、そろそろ頃合いか、ファントム」

 テルミが『それ』を見て溜息を吐くと、ユリシアを見る。

「その前に、だ。――認識しろ。ユリシア」

「へ……?」

 今度は突然、認識をしろ。そう彼は言うが、ユリシアには意味が分からない。否、分からないふりをしているだけかもしれない。その膜を、ぺりぺりと剥がすようにテルミは優しく語りかけた。

「ただそう思うだけじゃダメだ。強く思え、感じろ、そして認識しろ。この世界を今管理している忌々しい連中を」

「ぁ……」

 するりと耳に入り込むテルミの言葉を、ユリシアは聞いて、必死にそれを実践しようとして――ある一定の所まで来て、観えた、気がした。三つの影が、こちらをじっと見つめているのだ。それどころか、管理する過程であれが見てきたのだろう情報が垣間見えた。あれが……そう漏らした途端、ぱっと観えなくなってしまったけれど。

 けれど、感覚は掴めた。意識すれば、観える。

「んじゃ、さっさと始めるか」

 頷き、彼女が鎌を構える。テルミは腕を広げた。彼女の足が、竦む。大切な人を、命令だとはいえ、大事なことだとはいえ。殺さなければならないのは、怖い。

 でも、それでも目を一度伏せ――テルミに撫でられた感触を思い出しながら彼女は、鎌を握り直して。

「さぁ、俺を殺せ。あちらに逝(おく)れ」

 ニィと笑うテルミの言葉に頷き、彼女は駆け――そして、テルミの器(ハザマ)の体を破壊した。舞う鮮血。鉄臭い臭い。その肉塊は、地に落ちた。テルミは確かに死んでいない。今頃、あのシステムの所にいるだろう。しかし、ハザマもまた彼女にとっては大切な人だった。

 涙をぽろぽろと流すユリシアを、レリウスは不思議そうに見ていた。

「何を悲しむ必要がある。テルミ自体は死んでいないし、ハザマもまだ代わりがいる」

 彼には、何が悲しいのか分からない。何故なら全てを『モノ』として捉えているからだ。だが、ぽんと頭を撫で――。

「そのうちアレは戻ってくるから、泣くな」

 そう言って、連れた機械人形を振り返る。

「しばしコレをあやしておいてくれ、私は器の方を見てくる」

 機械人形――イグニスは、何も言わずにただそれに従うのだ。ぎぎ、と腕を動かし、ユリシアへ歩み寄り――その腕を、頭に乗せる。重いし冷たいけれど、それ以上に何故だか温かさを感じるのは彼女のコアである人間の意識が残っているからだろうか。

 やがて、タカマガハラの反応は消える。ほんの四十八万分の数ナノ秒、ラグナがクサナギを倒した瞬間と、その直後――大切な人を蒼の人物が破壊した瞬間。タカマガハラの意識がラグナとユリシアだけに傾いた瞬間入り込んだテルミのばらまいたウイルスにより、タカマガハラはショートし機能を停止した。

 戻ってきたテルミは、あらかじめ窯で『蒼』に触れさせておいた別の器に憑依した。その新しいハザマは、テルミが入ることで見なかった分の記憶も得たから問題ないと言うが、ユリシアはあのことが思った以上のダメージだったのか、暫し生返事だけになっていた。

 

 

 

 ――パチ、パチ、パチ。

 

 窯を中心としたその空間に軽い拍手が鳴り響いた。

「はいはーい、皆さんどうもお疲れ様でしたー」

 その声に、その場に居たラグナもノエルもジンも、瞬時にして緊張感で身体を強張らせながら顔を上げた。一斉に見上げた先、窯を塞ぐ瓦礫のステージの上に……ハザマとユリシアの姿があった。

 しかしそのハザマの姿には、先ほどの屋上での戦闘の余韻は塵ほども残っていなかった。まるで夕暮れ時のあの一戦が、あの時感じた悲しみと憎しみが幻覚との遊戯だったのかと錯覚(さっかく)させるほどに、その細身の黒いスーツには傷や埃、荒んだ汚れなど一切なく、与えた傷が痛む様子もなくて、さらには顔に飛び散った一滴の血ですらもそこにはこびりついていなかった。

 愕然(がくぜん)とするラグナの横で、ノエルが怯えたように腕を抱いて身を竦ませ、金髪の男、ラグナの弟であるジンが溶けない氷の剣『ユキアネサ』を構える。

 そして、その三人を庇うような位置に突然、レイチェルと白い鎧の男ハクメンが転移してきた。

「ウサギ! と、お面野郎……!?」

 ラグナにしてみればまさかの組み合わせの二人だ。驚きに声をあげるラグナを背に、レイチェルが一度ユリシアを悲しげに見つめたあと――テルミを強く睨み上げた。鋭い声で、問う。

「貴方……今までどこに居たの?」

 奇妙な問いであった。少なくとも、ラグナにとっては。

 レイチェルならお供のギィから聞いて、テルミが支部の屋上に居たことも知っているはずだ。これはつまり、テルミの動向を探る問いだった。

 穏やかながらにしてひどく嫌味な笑みを浮かべて、黒いスーツの諜報部員ハザマはにんまりと口角を持ち上げた。

「いんやぁ、本当に皆さんの活躍には頭が下がりますよぉ。皆さんのご協力あって、おかげ様でつい先ほど、無事にタカマガハラを無力化させてきちゃいました」

「……タカマガハラを、無力化ですって?」

 珍しく、レイチェルが動揺を露わに語気を強めた。

 そんな馬鹿なこと。そう思っているのだ。何故なら、ユウキ=テルミは境界に封じられていた身だ。それを発見し引き上げたタカマガハラに、世界を管理する駒として利用されることを条件に観測されることで存在を定着させていた。そのタカマガハラが封じられれば、テルミは――。

 彼らがテルミを思い通りに扱えると信じていた理由は、その『観測』だ。テルミはあまりに不安定な存在で『観測』、認識なしに存在を正常には保てない。

 テルミを動かす際、タカマガハラはテルミ存在自体を報酬、あるいは人質として利用していたのだけれど。

 ユウキ=テルミであると同時に諜報部のハザマである緑髪の蛇のような男は腹を抱えて肩を揺らし大袈裟に笑った。

「クッ、ククク……いやぁ、それはちょっと、語弊がありますよねぇ。私は何も『タカマガハラ』に観測されていないといけないわけではありませんよ。タカマガハラ並、それかそれ以上の存在に観測されていればいい。……お分かりいただけましたか?」

 茶化しからかうようなハザマの物言いに、レイチェルはさらに眉根を寄せた。

 ハザマの言葉は真実だった。何も、タカマガハラだけが彼を観測できるわけではない。しかし、大抵は自身の身でせいいっぱいで、他者を観測するということはとてつもない負荷がかかる。それに、ユウキ=テルミは境界に封印されていた。それほど特殊な男を観測し、存在を定着できるほどの者など、レイチェルは殆ど心当たりがない。

 不安げにハザマを見上げている彼女は話の様子を理解していない様子だからまず有り得ない。無意識下というのは考えない。

 だから、あるとすれば――。

 自然に思考を探り、彼女は答えを導き出す。その答えに、信じられないとその目が見開かれた。驚きと怒り、そして恐れのために。

「まさか……まさか、彼女が貴方の観測を……!?」

 考えたくなかった可能性。そのレイチェルの動揺した表情と今にも震えだしそうな声に、ハザマは嬉しそうに、凶悪な様相でにんまりと笑む。

「大、正、解~。パチパチ、はい拍手~」

 その声音は取り繕っていようと先ほどの穏やかではあった声の雰囲気は僅かにも滲まず、明白な悪意に濁りきっていた。

 その表情に、声に、ラグナの敵意が滲む。そちらに目を向けたユリシアが、小さく声をあげそうになって堪えた。何故、大切な人はこんなにも敵意を向けられなきゃならないんだろう。何故この人は、こんな状況だというのに先ほどから楽しそうなんだろうか。

 一本残った腕で大剣を構えようとするラグナ。しかし、それよりも事情を知る方が先だと残った理性が告げ、詳しそうなレイチェルに彼は問う。

「おい、レイチェル。彼女ってのは誰なんだ?」

 だがレイチェルは、ラグナの問いなど聞こえていないかのように首を大きく横に振って、漏らす。

「でも、それでも。タカマガハラは貴方がおかしなことをしたらいつでも事象干渉で割り込めるように注視していたはずよ。それなのに……」

「おっ、いいねいいねぇ、その反応。テメェのそういう焦った顔って超気持ちいい~。いつもいつもお高くとまりやがって、気に入らねぇ」

 嘲笑混じりに嫌悪の毒を吐き捨てる彼をレイチェルは激しく睨み上げた。この男の挑発めいた言葉はいい加減に聞き飽きてきたが、その奥に続くご自慢の犯行手口については是非とも聞いておきたいところだ。

 テルミは窮屈そうに己の黒いネクタイを緩めてから、瓦礫の端ギリギリまで歩み寄って、にやにやとレイチェルをはじめとしたそこに居るメンバーを眺めた。そうして、話しながら親指と人差し指で小さな隙間を作ってみせる。

「タカマガハラはな……ちょーっとだけよそ見をしたんだよ」

 蒼の魔道書の所持者と、蒼の継承者が戦う。そのスペシャルマッチングのクライマックスに続き自身より上位の存在『蒼』が大切だという人を殺す。

 それだけで、タカマガハラの意識を釣るには充分だった。一秒、否一瞬、ほんの数ナノ秒。この事象の、この場所だけをタカマガハラは見ていた。だからその隙にシステムに入り込んだ。

 レイチェルはごくりと唾を飲み込んだ。事象干渉を今まで繰り返してきたタカマガハラに従順に従っていたのはこのためだったのだと理解したからだ。

 あらゆる事象を観測し、そこで最も確実に、最も長い間タカマガハラが余所見をするタイミングを窺っていた。それがどれほど途方もない作業なのか、その執念じみた発想にレイチェルは肌が粟立つのを感じていた。

 対してハザマに戻った彼の機嫌は良く、瓦礫の縁を強く踏み鳴らして叫ぶ。

「そして、想定外の特殊な存在は生まれましたが、努力の甲斐あって! 全ての事象はここ(・・)、今あるこの事象に集約されたのです!!」

 世界があらゆる可能性の中から選択を繰り返し、先へ進めるシナリオとして選び出されたのがここ。その選択は無理矢理だったかもしれないが、ここを選んだのはきっと『彼女』の無意識の意識も関わっていたかもしれない。

 ふと、空気が動く。それは、夜がもう一つ闇を纏うような静けさと不穏さを含んだ気配だった。

 その不穏さをいち早く感じ取り、レイチェルが警戒に唇を引き締めた。ハクメンはそれを受けて背中に担いだ大太刀、斬魔『鳴神(おおかみ)』をいつでも抜けるように構え、またジンとラグナも同様に身構えた。

 またもう一度空気が動き、やがて彼らはその理由を知ることになる。人だ。

 ハザマの後ろの空間は暗くてよくは見えなかったが、あちこちに灯った白い非常灯の明かりに照らされたところまで出てくると、仄かに浮かび上がってくる人影。少女だ。

 しかし、その少女には決定的な特徴があった。

 長い髪は高い位置で一つに結わえ、服装は東洋の着物を幾重(いくえ)にも重ねたようなものを纏っていた。丸い紅玉のような瞳は大きい。本来なら可愛らしいという印象を与えるのだろうが、しかしその瞳が全てを見下すような冷たさを持っていたから、それに塗り潰される。ただならぬ雰囲気を持つ少女だった。

 そして何より、ラグナとジンの喉が擦り切れそうなほど声にならない声を上げる特徴がそこにはあった。

 纏う雰囲気は全くもって違うというのに、その顔立ちは、造形は、ノエル=ヴァーミリオンのそれと同一だ。

 ノエルに似ているということはつまり、彼らの妹『サヤ』に似ているということになる。しかし彼女は、『似ている』のではない。

 直感で彼らは理解する。彼女は正しくサヤ本人であった。ざわつく感覚が、ラグナにそう教えた。ハザマと共に瓦礫の上で佇むあの少女は、まぎれもなくサヤであると。

 その来訪者に、ハザマが大袈裟な身振りで身を引き恭しく腰を折った。まるで従順な部下といった風体で。ユリシアが振り向き、首を傾ける。

「おっとぉ、これはこれは帝。こんな薄汚い場所にまでご足労いただいて、申し訳ありません」

「よい。これから始まる狂宴の観客たちだ。余も一度見ておこうと思ったまで」

 ふ、と微かに微笑んで彼女は告げた。まさにその光景は臣下と帝といった光景、会話だ。人並み外れた尊厳をまるで衣のように纏う彼女を見て、ジンがまなじりを吊り上げる。

「帝だと? あの少女が何故統制機構の……ッ」

 ジンは帝の顔を知らなかった。ジンの動揺ぶりを見て、ノエルもまた統制機構の衛士に属していながらその頂点に立つ帝の顔を知らなかったことに気付く。少女だという噂すら聞いたことはなかった。

 ジンにつられるようにして帝を見上げたノエルへ、つぅと帝が視線を遣りそして小さく呟いた。

「塵め。まだ存在していたか」

 この世界を歪めた原因が、同一体でありながら全く別の存在であるその少女が煩わしく、彼女はそう零した。その声はとても低く小さくてノエルまでは届かなかった。何と言われたのかは分からなかったが、異常なほどの冷ややかなその視線は空気を伝ってノエルの肌を気味悪く撫ぜた。

 嫌な感じがする。その視線から逃げるように彼女は胸を抱き俯いた。カタカタ、と震える。そのときには既に帝の興味にノエルの姿は一切なく、全体を見下ろし、並ぶ面々に朗々と歌い上げるような口ぶりで語った。

「地に這いつくばる蟲どもよ。タカマガハラは既に余の掌中(しょうちゅう)。全ての起きるべき事象は確立され、確率事象(コンティニュアムシフト)は終わりを告げた。永遠が終焉を迎え、世界が本来あるべき姿へ還る時が来た。故に、余は今から『滅日』を始める」

「……『滅日』?」

 眉をひそめ、ラグナが聞き慣れないその単語をなぞるように復唱する。その不穏さは言うまでもない。その不穏ささえ香のように絡め纏って、彼女は口端を持ち上げて笑んだ。

「よく見ておくがよい。新たな世界の幕開けを……」

 そう言った後に、彼女は視線をユリシアへ投げかける。つま先から頭までなぞるように見つめた後、彼女は先ほどの不穏さは微塵も感じられぬほど目を細め優しく笑いかけ、

「其方(そち)のことはよう聞いておる。これからは其方にも動いてもらうでな、期待しておるぞ」

 語り、ユリシアが何か言おうとすればにこやかに微笑んでそれを制した。

 そして、改めて皆を見下ろすと彼女は踵を返しまた奥に去って行った。それに続くように、ハザマがユリシアの背に手を伸ばしながら消えていく。ちらりと一瞬、視線だけで振り返ったハザマの目は不穏な笑みに歪んでいて。そうして、三人の影はカグツチの地下からなくなった。

 彼らを運んだのは、転移魔法だった。ハザマと共に揺らぐ影が見えていた。おそらくその影が転移魔法を使ったのだろう。その影を見た途端、レイチェルとハクメンが動揺の色を一瞬だけ見せていた。『彼女』は――。

 けれども最早、使い手の潰えた魔法の使い手にいちいち驚いている余裕はラグナにはなかった。

 頭が鈍く痛み思考が纏まらない。先に見たあの帝の顔が頭に貼りついて離れなくなっていた。

 何度確かめるように己に、アレがサヤなのかと聞いても、そうであるとしか返ってこない。

 サヤを最後に見たのは何年も前だ。だから彼女が記憶の中のサヤと背格好が違ったりするのは当たり前で、実際記憶の姿とは違ったというのに、アレがサヤだと確信をもって言えるのが不気味でならなかった。

 

 突然に現れた帝の存在に圧倒され、また、あまりにも自然すぎて彼らはとても気付けなかった。

 ……この日に至るまでの何もかもが、帝が口にしていた通り、新たな舞台の幕開けの準備であったということに。

 

 

 

「あの、ところで……どなた、でしょう、か」

 転移先に来て、暫し歩んだ後に彼女は、帝と呼ばれた少女へ問う。そこにたどり着くまで、今まで知らぬ人に話しかけられたときのような怯えは一切なかった。落ちつきすらあった。まるで最初から知っていたかのように。でも、ハッとしたように彼女は怯えを見せて。

「あぁ、其方は会うのが初めてじゃったなぁ。余は帝じゃ。名はあるにはあるが、今は帝と呼べ」

 帝。そう名乗る彼女に、ユリシアは首を傾ける。名でないなら、帝とは何なのだろうか。ハザマ達がいやに下に回っていたということは、よほどの人物なのだろうけれど。

「そういえば、ユリシアにはまだ教えていませんでしたねぇ」

「ほう。このような大事な娘にきちんと教育を行き届かせてないと? ハザマ」

「いえいえ、そういうつもりでは。ただ、私にも仕事というものがありまして……」

 ハザマの呟きを拾って帝が少しばかり低い声で問えば、慌ててハザマは顔の前で手を横に振り、必死に言い訳した。その様子にクス、と笑って帝は冗談だ、と言う。

 二人の仲の良さげな発言に、ユリシアが思わず微笑みを見せると、彼らは顔を見合わせた。

「まぁ簡単な話ですよ。今の統制機構、つまりこの世界を管理されるお方、それこそが帝です」

 ハザマが人差し指を立てながら解説する内容。あまりに軽々しく話すものだから簡単に受け流しそうになったけれど、彼女はそれを理解した途端「え」と漏らして立ち止まる。

「せかいを、かんり……している、ですか」

「ええ。そうですよ」

 彼が首肯すれば、彼女はとんでもない人と話していることに気付く。確かに言われてみれば、自身より年上ながら少女である相手は、それ相応の風格というものを持ち合わせている。先の、皆に向けて語っていた時なんかはまさに。

「まぁ、そんなに固くならんで良い。余は其方が気に入っておるでなぁ」

 思わず身を縮こめる彼女は、そうあやすように言われても返事をしはするものの、なかなか気を緩めることができなくなっていて。先の非礼をどう詫びようか、と幼いなりに考える彼女に、クスクスと帝は笑った。

 彼女はまさか、自身の存在の特殊さにも気付いていないのだろう。否、どこかで気付いていながら知らないフリを突き通しているのか。帝には、彼女を見た瞬間に理解した。

 彼女は正しく蒼そのものだと。それも、ノエル=ヴァーミリオンが一度継承したそれとは比べ物にならない、莫大な大きさの蒼を秘めている。彼女のそれは蒼に触れた素体が得た力だが、ユリシアと名付けられたこの少女は、大本のそれの片割れとも呼ぶべきな。

 その少女がこちら側についている、というのは最早世界への裏切りだろう。それだけで何と心強いことだろうか。愛しげにユリシアを見つめる帝とそれを眺めるハザマの腹の内は可笑しさと喜びに沸いていた。

 優しさを見せる彼女らに、少しだけ慣れてきたように彼女は眉尻を垂れながらも笑みを見せた。

 カグツチに背を向け、彼女らが向かうは次なる舞台。

 それは、複数の階層都市が集まってできた場所。数年続いた内戦により壊滅し、今なお復興作業の続くそこは――連合階層都市・イカルガ。

 ラグナ達もまた、導かれるようにしてそこへ向かっていた。


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