POSSIBLE DREAM   作:鈴河鳴

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第四章 敬藍の夜

 汗を拭くためのタオルを首にひっかけ、ハザマはペットボトルのミネラルウォーターを飲み干す。くしゃり、と他の飲料のものより柔に作られているそれを潰して更衣室の隅にあるごみ箱へ放り投げれば、がこん、と音がして見事にホールインワン。

 はぁ、と溜息を吐いて、ハザマは人のまばらな更衣室でぽつりと呟いた。

「にしても……あれは驚きましたねぇ。ね、テルミさん」

 己の内側に宿る精神体に小さな声で語りかければ彼は首を縦に振る。否、実際にはハザマにそう見えただけで肉体を同じとする彼は振ってはいないのだが。

 あれというのは、最近では日課になったトレーニングでの出来事だ。丁度、テルミも乱暴な教え方なりに彼女がそれで着実に力を身に着けているのを感じて喜びをおぼえていたときだった。

 彼女が、鎌以外のものを現したのだ。きっと、それもできるのではと薄々感じてはいたが、まさか本当にできるなんて。鎌を召喚するだけならただの武器の召喚に過ぎないかもしれないが、他があるならもしかしたら。

 彼女が鎌を薙いで、それを少し後退して背をナイフで受け流す。しかし今度はそのまま押し付けて来るのだから少しムキになって押し返そうとしたとき――。

 ふと、視界の端に捉えらえたのは彼女の背後から迫る刃だ。彼女も攻撃を当てようと夢中になっていたのだろう。そうして現れた刃はテルミへ一直線。後退しようにもいつの間にか後ろは壁。

 危機を感じ目を瞑ったが、何時まで経っても衝撃は来ず、目を開ければすんでのところで止まっていた。そして、震えたかと思えばパン、と弾けて粒子状になり消えた。

 それもそうだろう。彼女はテルミを『守りたい』がためにこうやって練習をしているのだ。当てるはずがない。けれど、それよりも、彼女が別の手を出せるようになっていたことにテルミは驚いていた。

 思い出しても、あの光景はなかなかにスリルがあった。

「……それにしても、夕飯。どうしましょうかねぇ」

 すっかり夢中になって、いつの間にかとっぷりと日が暮れていて。今から戻って作って、でも充分待つことはできるのだが。今からご飯を炊くとなると些か遅い気もする。腕時計を見た。

「……たまには」

 ぽつり、とハザマが呟いた声は着替えに戻ってきた他の衛士の声にかき消された。

 たまには彼女を連れて外食も良いかもしれない、なんて至極くだらない台詞だったけれど。彼は今日出したばかりでまだ真新しいワイシャツの上に、スーツのジャケットを羽織って更衣室を出た。すれば彼女は廊下の、更衣室がある側の壁に凭れて待っていた。首にかけたタオルでぱたぱたと顔を仰ぎながら床を見つめていた彼女は、ハザマに気付くと小さくあっと声をあげて頬を緩ませる。

「えへへ、きがえおわった、ですね」

「ええ、ご覧の通りに」

 どこにも変なところはないのを分かっていながら問うハザマに、頷くユリシア。そこでふと、彼女は首を傾ける。

「あの、いまって、なんじですか」

「午後の七時ですね」

 腕時計をまたチラリと見遣った後、ハザマがそう言えばユリシアは目を丸くした。もう、そんな時間になっていただなんて、と。

「えっと、それじゃ……その」

 ご飯を炊くには少し遅い気がする。別に自分は待っても構わないけれど、相手を待たせるなんて。そう思いながら、それなら事前に予約をしてくればよかったと彼女は悔しげな表情を見せる。

「そうですね、確かに夕飯を作り始めるには遅いですね」

 それを彼は否定もしないし、寧ろ肯定してみせた。けれど、「ですが」と繋げて彼は人差し指を立てにこやかに微笑む。

「ですから、今日は外食にしようと思いまして」

 別に、統制機構内の食堂でも充分ではあったが、機構外の店を漁ってみるのもいいかもしれないと思ったのだ。

 少しばかり腰を曲げて彼女を見下ろしながら彼が言う台詞に彼女は首を先とは反対に捻った。

「がい、しょく……ですか?」

 外食。そんなの聞いたのも初めてだし、どういう意味なのか知らなかったから。

 あぁ、と頷いてハザマは、内心ではそんなことも知らないのかと思いながら口を開く。

 ここ以外、要は住む場所以外で食べる飯だと彼は語る。辞書では『家庭外』と定義されているがきっと、各々事情があって家庭を持たない彼らにとってはこの統制機構が住む場所のようなものだから――。

「なるほど、おそとで……ですか」

 唇の下に軽く握った片手の人差し指を添えて彼女は考えるように僅かばかり俯く。別に拒否する内容でもないと思うが、彼女なりに情報を整理したいのだろう。

 人目に付きやすい廊下ではあったが、今更だから彼は彼女の答えを静かに待った。そうして答えが出るのは案外早く、

「いいですね、がいしょく」

 と、にこやかに微笑み彼女が顔を上げる。ハザマも頷けば、じゃあ行きましょうかとくるり踵を返して歩き出した。風呂は帰ってきてから少し急ぎめに入ればいい。

 ぱたぱた、と追いかけるユリシアを尻目に彼は廊下を歩く。その速度は彼女に合わせるかのようにいつもよりゆっくりだった。ハザマはそれに気付いていて、もっと早く歩こうと試みるがしかし思うように体が動かない。その抵抗感に、じわりと胸に広がる苛立ちのような感情にハザマはやがて気付く。

 苛立つことなんてないはずなのに、胸の内に撒き散らされるその感情は。

「――テルミさん」

 はぁ、と溜息を吐いた。ここの所、彼が出ることが多い気がする。自身は彼の道具として作られたのだからそれは別にいい。寧ろ使ってもらえるのは嬉しいことで、色んなことを共有できるのは幸せであるとも思っている。寧ろ、拒絶なんてされようものならどうにかなってしまいそうなほどに。

 だけれど、こうやって何も言わずにそうされるのは、思考の共有をさせないまま負の感情を内にぶちまけられるのは勘弁だった。呆れたように彼がもう一人の自身の名を呼ぶ。声を出す必要はないのだが、つい出してしまった。

 途端、内側から脳に直接響く情報に思わずくらりと眩暈に襲われる。『あまり距離を開けるな』だなんて。何故、そんなことを言うんだろう。思考をあえて読めるようにしてやっても答えは返ってこない。思考の共有を拒絶された。ただただ釈然としない気持ちだけが胸の中を渦巻いていた。

 はぁ、と深く溜息を吐いて器用にも未だ自身の意思とは関係なしにゆったり動かされる足を見つめる。

「何か、食べたいものってありますか」

 気を紛らわすように彼はユリシアへ、振り返らないまま問う。彼女の唸る声がして、何でもいいと返す。彼女は好き嫌いがない。否、正確にはそれだけ食べたモノの種類が少ないから何とも言えないのだが。

 それなら適当に気になった店に入るのがいいか、と思いながら警備に配置された衛士に一言ご苦労様と挨拶をし、それに続けるように彼女も小さな声で「おつかれさまです」と言って、二人は統制機構を出た。

 色んな種類や形の店を構える中層部の夜は、きらきらとネオンサインの光で眩しいほどに輝いていて、昼とはまた違った景色が見られる。

 カグツチの上層部、特に統制機構周辺は街灯の類が殆ど設けられていない。警備強化のためにも早急に用意せねば上層部に住む貴族らからも苦情が出かねないというのになかなか取り付けにも着手できていない。

 そのため統制機構の窓から見る星空の景色を気に入っている衛士も少なくないらしいし、衛士でないユリシアも例に漏れないわけだがそれは優先するに値しない事項だ。

 そんな至極どうでもいいことを思い出しつつ、何となく適当なラーメン店の戸に手をかけ体を滑り込ませようとすれば抵抗はない。テルミもそこで文句はないらしい。

「きょうは、ここでたべる、ですか」

 ハザマに着いて行くように店に入ったユリシアがきょろりきょろり、と店内を見回しそう零すと彼は「ええ」と頷いて、駆けて来る店員を見る。

 何名ですか、二人です。そんなかけ合いをした後に彼はユリシアを振り返って手招きを一度。店員に案内されるままカウンターへ。

 高めに作られた椅子へよじ登り腰かけ、カウンターの内側を見る。忙(せわ)しなく料理で動く人達が、複数。こんなに沢山の人が、料理をしているのか。

「ほら、テメェもさっさと決めろ」

 つんつん、と小突いてくるのはテルミ。見ればラミネートされた、絵と文字の並ぶ紙だった。

 きょとりと首を傾けると、テルミは深く深く溜息を吐いて、

「メニューだよメニュー。ここに書いてあるものから好きなモン頼むんだよ。ま、お子様ラーメンでいいだろテメェは」

 と気怠げにそう語ってひらひらとメニューを振った後、その中の一点を指差す。そこに出されていた写真は、他の写真のものより小さく、また可愛らしい絵が隣に描かれていた。お子様、というのはよく分からないが、ユリシアのようにあまり食べられない人向けに作られたのだろうかと考える。

「じゃあ、それで」

 下手に分からないまま何かを頼むより彼が言った通りにするのが無難だろうと考えて彼女は彼が指差すところを同じように指差して頷いた。彼を見れば短く相槌を打って、先ほどから忙しく動き回る一人を、手を掲げて呼んだ。

「豚骨と、このお子様ラーメン一つずつ」

「分かりました、ただいまお持ちいたしますので少々お待ちくださいませ」

 そう言って駆けていく店員、暫しして運ばれてくるのは先ほどのメニューに印刷されていた写真そっくりのものだ。

 テルミに渡された器のものは、液体の上にたっぷりと油が浮いているのが特徴的で、彼女の比較的小ぶりの器には茶色い液とたっぷりの野菜。

「これが、らーめん……ですか」

 初めて見るその料理に目を丸くしてじっくりと観察するユリシア。その姿が少し面白かったのか、ぷぷ、と小さく吹きだすテルミだったが、やがて冷めてしまうぞと言って割り箸をぱきん、と二つに割った。

 器用に箸を使って麺を引っかけ、持ち上げる。息を数度吹きかけ――口へ。ずず、と啜る音が響く。麺が躍る。

 それを見つめ、ユリシアも同じように割り箸を持って麺を持ち上げ口に運んだ。

「あちち」

 たまらず麺を噛み切って、はふはふと口の中で麺を冷ますように息をする少女を見てテルミは苦笑を浮かべた。滑稽だし、何ともまぁ子供らしい。

「食べる前に息を吹きかけて冷まさねぇから……」

「うぐ……」

 悔しそうに彼女が唸る。差し出される水の入ったカップを取り、一気に飲み干した。口の中が冷めた頃合いでもう一口。箸を何度も往復させ、黄色い麺を口へ運ぶ少女。

 それにちっち、と指を振りながらテルミは首もゆるゆると振った。

「こう食べるんだよ」

 そう言って、また麺を口元へ運ぶと、ずるると思い切り啜った。

 目を丸くする少女。今まで、麺料理自体食べたことが少なかったが、啜ったことなんてなくて。

「えと、こうする、ですか」

 二口目のを飲み込んだ後、真似して吸うが上手くいかない。ううん、と四苦八苦する少女を微笑ましく見る隣の知らぬ人とテルミ。

 それでも、何度かやっていればやがてできるようになって、頷くテルミが首を傾けた。

「んで、味の方はどうよ」

「……はじめて、たべました、ですが、しょうじきな、かんそう」

 そこで言葉を区切る。見守っていた隣の中年男性がじ、と見てくる視線を感じながら彼女は、俯いた。テルミが何か言おうとする。しかしすぐに顔を上げて、

「とっても、おいしいですっ」

 きらきら。瞳を輝かせ、頬を興奮に赤く染め、彼女は笑いそう告げた。ほ、と安心するテルミが居て、

「んなら良いわ」

 ふっと微笑んでテルミは器に顔を向ける。器の中に置いてあったレンゲでスープを掬い取り、ずずと啜る。飲み下し、息を吐いた。

 その様子も、彼女は真似する。ついで野菜もつまんで、しゃきしゃき感が残るそれも口へ。咀嚼、飲み込み、胃へ収める。

 そうしていればあっという間に食べ終わり、代金を払って店を出た。

 ふふ、と楽しそうに微笑む少女に時折視線を投げながら、歩き出そうとすると視線を感じ、前を見る。

「――なんでこのタイミングで」

 目の前のうどん店から丁度出てきたばかりの、死神が居た。彼もこちらに気付いたようで、滑稽なほどに目を皿のようにしていた。

 どうにもタイミングが良すぎる。そう思いながら、テルミは取り敢えずは無視しようと横を向く。普段なら煽ってからかって適度に自身を危険に晒しつつも打ちのめしてまた次を、というところなのだが。

 彼女がいくらある程度身を守れるようになったり能力をコントロールできるようになっても、だからこそ下手に出られては困るのだ。

 佇んだままの彼に首を傾げる少女は幸運にも彼に気付いていないようで、テルミは何事もなかったかのように歩き出すのだが。

 空を裂いて、駆けてくる気配があった。やはり簡単には逃れられない。彼がそう簡単に逃がしてくれるとは思えなかった。

 生憎、今はスーツだ。いくらテルミになった途端、ハザマを知っている人物でも気付けないほど雰囲気が変わるとはいえ。これを他の衛士にでも見られようものなら――。

 頭を抱えながら、テルミは懐からナイフを抜いて回し刃を露出させると、それを添えて攻撃を受け流す。

「まーた来たのか子犬ちゃん!」

「黙れ、テメェはここで……ッ」

 疲れてはいるが、平静を装って、いつも通り相手を煽るような口ぶりでテルミはラグナに対峙した。睨み付けてくる視線が愛おしい。憎悪を感じる度、強く認識されるほど、彼は強くなるのだから。

 大剣を構え直し、ラグナが振りかぶる。迎撃の準備をしようとしたところで――ふと、金の糸が視界を掠めた。ネオン街、野次が周囲を取り囲み、一つのバトルフィールドと化している。そこで、鳴り響く金属音。テルミのナイフによるものではなかった。

「また、あなた、ですか……っ」

 銀色に輝く大鎌を持った少女と、ラグナの大剣がぶつかった音であった。

 ぐぐ、と押し合う両者。しかしラグナの目は驚きに見開かれていた。

 何故この少女がこんな武器をだとか、どこからだとか、また居ただとか。思うところは色々あったに違いない。だからか、力が緩んでしまっていた。

 その隙に彼女が鎌を押してラグナの剣を振り払い、薙ぐ。ひゅん、と空気を裂くような音がし、次いで慌てて構え直したラグナがそれを受け止める。彼女が受け止められた鎌を引き、更に攻撃をしようと振りかぶったところで――かけられるのは女性の声だ。

「――今はまだ駄目よ、ラグナ」

 それはテルミにとって忌々しい声だ。ふわりと降り立つ少女、ユリシアもラグナも、その人物に視線を奪われる。レイチェルだった。

「どういう意味だよ」

 ラグナが、先のレイチェルの言葉に問いを投げる。しかしそれを彼女は無視して、目を伏せる。

「オイオイ、何の用だよクソ吸血鬼さんよぉ」

 そんなレイチェルに煽るように声をかけつつも、テルミはどこかで安心していた。ラグナを止めに来たのだろう、それなら彼女が戦闘をすることも避けられる。

 胸の内で、愉快な感情が滲みだす。ここでテルミが愉快に思うことなんて一切ないのに。寧ろ不愉快に不愉快を重ねているほどだ。

 胸の内でハザマに問いかければ彼はくすくすと笑って、

『いえね、テルミさんが彼女を心配するなんてらしくないと思ったらつい』

 空気を震わせないその声は笑いが混じった震えているものだった。からかうようにそう告げるハザマに苛立ちを隠さず、一つ舌を打ってテルミは目前を睨んだ。

 そこでは彼女の言葉にラグナが首を傾けていて、それを見てテルミは口を開く。

「さっさとラグナちゃん連れて帰ってくんねぇか? 俺様、チョウゼツ忙しいんだよ」

 別に忙しいなんて言えるほど仕事もない。あとは帰って風呂に入って寝るだけだ。けれど、今彼女を下手にラグナ達に干渉させたくはないし、そこで怪我でもされようものなら後が面倒臭い。否、ラグナが女子供にすすんで手を上げるような人物とは思えないけれど。だが、それでもだ。

 三人の視線が、一斉にテルミへ集まる。吸血鬼は口元をたっぷりとした袖で隠し誰にも聞こえないような小さな声で何かを呟くが、やがて溜息を吐いて、首をゆるりと振り後ろに振り返った。

「貴方の言葉に従うのはこれ以上ないほど屈辱的だけれど、いいわ。私も今このお馬鹿さんを傷つけさせるわけにはいかないもの」

 彼女が語る。馬鹿、と呼ばれてラグナは一瞬抗議しそうになったがそういう空気でないということを察するだけの脳はあったようで、ぐっと堪えて口を噤む。テルミも、それに対してレイチェルには素直なのだな、などとからかおうとしたのを止める。

 レイチェルがラグナの手を取り、引っ張る。そんなに力はないはずだけれど、突然の事にラグナはよろめいた。しかしすぐに体勢を立て直し、素直に彼女に着いた。

「ほら、そろそろ追手がおいでよ。さっさとお逃げなさいな」

 そう言って彼女が指を差した方向には青い制服が。ラグナはテルミを攻撃したい気持ちを必死に抑え、彼がどこにも危害を加える意思がないことを信じて――走っていく。

 一陣の風が吹く。濃い薔薇の香りを纏った風だ。その風は渦を巻いてレイチェルを取り囲み、やがて彼女らの足元に薔薇を模ったような、紅い魔法陣が浮かび上がると、暫しして――彼女は、すっと姿を消した。

 直前、彼女が口を開いてテルミを見、言い残す。

「それにしてもその子、随分と怖い技を身に着けたようね」

 そこには何も残らない。まるで何も居なかったかのように。薔薇の香りすら嘘のように――。ユリシアは、何がなんだか、事情がよく飲み込めていなくて。たた、とテルミに駆け寄った。

「どこにもけが、ないですか。えと、いまのは、なんだった、でしょうか」

「怪我はねぇよ。――あとはまぁ、知らなくてもいい」

 少しばかりまくしたてるような口ぶりで問う彼女をテルミは見下ろし、首を横に振った。知らなくてもいい、彼女はまだ。アレを引きずり下ろした時にさえ役立ってくれればいいだけなのだから。

「けが、ないなら、よかった、です」

 隠す彼に、またか。そう思いながらも少女は笑みを浮かべることしかできなかった。安心したようにほっと息を吐いて、へにゃっと笑った彼女は、それじゃあ帰りましょうか、と言ってテルミの隣に収まった。

「あぁ、そうだな」

 歩き出すテルミ、それに合わせるように彼女もゆっくりと足を前に出す。そんな彼女の背中に手を回し、テルミは口を開いた。

「にしても、よく頑張ったじゃねぇか」

 そう言うのは、彼女が先ほどラグナに立ち向かったことについてだ。

 別にそこまで思っていなかったけれど、よく対応できたとか、勇気を出せたなだとか、そういった意図を込めて背に触れた手を持ち上げ頭に置く。わしゃ、と撫でてやれば彼女は嬉しそうに、しかし若干慌てたように、わわ、と声をあげて頭の手を抑える。

 少しだけ、髪が乱れてしまっていたのだ。だがテルミはそれを悪びれる様子もなくふんと鼻で笑うだけで、そこからだんまりだ。

 さっさっと髪を払って乱れた髪を少しだけ直し、ユリシアはむぅと頬を膨らませる。

「もう、てるみさんは、いじわるです」

「んなことねぇだろ」

 そんな会話を、楽しんでいるところがあることに気付いて、テルミはふと表情を無に変えた。顰められる顔、自身すら辟易した。彼女は道具であるはずなのに。

 いくら彼女が道具であるとして、道具との会話を楽しむことは悪いことではないはずだが、それでも彼は自身が彼女を求めている節があることに気付けば気分を悪くした。

 

 

 

「チッ……なんなんだよ」

 風呂もまだ入っていない状態で、彼は服を着たままベッドに思い切り倒れ込む。ぼふり、と音がしてユリシアが綺麗に敷いたシーツには皺(しわ)が刻まれていく。

 これじゃ汚くて寝られない、とハザマがぼやくが今のテルミにはそんなこと関係なかった。寝返りを打ち、真っ白な天井を見上げる。一人になりたかった。愛なんてくだらないものは確かに生まれていないし、これからも生まれるはずはない。

 けれど、彼女と居て楽しく感じたり、彼女を求めたり。彼女は蒼を、純粋な蒼を持っていて、求めるのは至極当然だけれど少女の形をしているから。

「――なんなんだよ」

 ぽつり、とまたそう零した。これだけの事象を、時を生きてきて一度も精神だけはブレたことがないというのに。彼女と居るとやけに安心して、落ち着いて。それでも最初は『道具』以上の感想がなかったのに、最近はどうだ。どんどん距離が近くなって。

 深く深く溜息を吐いて、彼は目を伏せる。彼女と一緒に居たいと思うことは一度もなかったけれど、彼女はどうしているかと気になってしまうところがあった。

 横に顔を向け、目を少しだけ開ける。すれば、彼女の姿はどこにもない。何故だ。少しだけ慌てて、彼は飛び起きる。

「おい、ユリシア」

 軽く呼び、取り敢えず部屋を見回す。居ない。壁とくっついた本棚の一つにツカツカと歩み寄り、手をかけ一冊の本を引っ張れば本棚が横にずれる。

「ユリシア」

「はい、なんでしょうか」

 きょとり、と首を傾けて彼女から呑気に返事が返ってくる。どれだけ焦ったと思っているのだ、この少女は。内心で毒づき、テルミは目を丸くする少女まで歩み寄る。タオルやバスマットなどの準備をしている彼女を見下ろし、

「今日は一人で入れ」

 だなんて。それは先の、自身のどうにもできない気持ちからの八つ当たりも混じっていたけれど。え、と間抜けな声をあげる少女。揺れる海のような蒼い瞳は戸惑いと悲しみとその他の感情が複雑に入り混じっていて、そこからぱっとテルミは目を逸らす。

 ちろり、と横目に見遣れば震える彼女の唇。

「わかり、ました……です」

 きっと彼女は意味が分からないことだろう。風呂の準備をしていたら、唐突に不機嫌そうなテルミに酷な命令をされたのだから。けれど健気に頷いて彼女は彼の言う通りにしようとするのだ。それが尚更、彼の中で疑問を渦巻かせて。

 短く、ああと頷いてテルミは部屋を出た。隠し扉の本棚がぎぎ、と音を立てて閉まるのをユリシアは見つめ、少し寂しそうに笑みを浮かべていた。

 髪を解き、服を脱いで裸になる。洗濯機に脱いだワンピースを放り込み、タオルを持って浴室へ。温かなシャワーで体を軽く流し、張った湯に肩まで浸かる。ずぶずぶ、と沈んでいく。肩を通り越して、首、顎、口。息を吐けばぶくぶくと泡が立って、やがて苦しくなる。顔を上げ、思い切り息を吸う。

 何故、彼は唐突にあんなことを言ったんだろう。甘え過ぎたんだろうか。それとも、何か悪いことをしてしまっただろうか。

 彼女は悩む。悩んで悩んで、思考の海に沈んでいき――。

「おいおい」

 気付けば、彼女は眠ってしまっていた。扉越しに声がかかるも返事はなく、浴室の扉が開かれテルミが入ってくる。やはり彼女が心配になって来たわけだが、目を閉じ寝息を立てる少女が口許まで浸かっているのを見ると、焦った様子で近寄る。

 袖を捲って腕を浴槽に突っ込み、彼女の肩を揺らせば、彼女は瞼を震わせ、ゆっくりと目を開ける。

「あれ……てるみ、さん?」

「あれ、じゃねぇよ。何寝てんだ」

 眉を吊り上げて、彼はユリシアを鋭く睨み付けた。しかし、きょとりと眠たそうな目を瞬かせる少女のどこにも異常がないのを確認してほっと溜息を吐く。

「……やっぱ俺も入るわ」

 そう言って一度浴室を出て、ネクタイを外した後シャツやベストを脱ぐ。戸を開けっ放しで少し寒いとユリシアは感じていたが、彼を怒らせてしまうのが嫌で彼女はそれすら言えなかった。ぱしゃり、と湯を肩にかける。

 テルミが腕を伸ばし、彼女の髪を洗っていく。ハザマはどうぞごゆっくりとからかうようにだけ言って、器のくせに内に引き籠ってしまったからだ。

 だからテルミが仕方なくやっているわけだが、いつも同じ肉体がやっているくせに少しだけ手つきが乱暴になってしまう。それは彼らしいこと、として彼女は何も言わなかったけれど。そろり、とユリシアが頭に手を伸ばす。

「なんだ、自分でやんのか」

 いつもなら大人しくされているだけの彼女が珍しく行動を起こしたから、彼は問う。頷く少女。本当に弱く、恐る恐るだったけれど、頭に指を立てて頭皮を擦る。少しだけやって、すぐに手を離したのだが。

「や、やっぱ、こわい……です」

 目をぎゅっと瞑って彼女はふるふると首を横に振った。仕方ない、と溜息を吐いてテルミが手の動きを再開すると、ふと彼女が口を開いた。

「あの」

「なんだよ」

 テルミが問い返せば、黙り込んでしまう彼女。声をかけておいて何なんだ、とテルミが舌打ちすれば慌てて彼女は話を切り出す。

「その、おこってます、ですか」

「なんでだよ」

 少女が問い、テルミが少しばかり不機嫌そうに、そして意外だとばかりに問う。確かに苛立ちを隠そうとはしていなかったが、そこまで出ていただろうか。否、出ていたか。流石にアレはない。と先の自身の言動を振り返り、溜息を吐いた。

「なに、ちっと悩んでただけだ。気にすんじゃねぇ」

 そう言って、彼女が何かを言う前に冷たいシャワーを一瞬かけてやれば、ひっと声をあげて跳ねる体。悪い悪い、そう言って温かく設定してからシャワーを髪にそっとかけてやり、泡を少しずつ流していく。

「――きょうは、なんだか、つかれちゃいました、ですね」

「あぁ、そうだな。さっさと上がって寝てぇ」

 ふふ、と笑って言う彼女に、ぼやくテルミ。ぼーっとしながら、リンスを済ませ、背中を洗い洗われ。

「てるみさん、おやすみなさい、です」

 短く相槌を打って、髪を乾かし着替えた後はベッドに寝て、彼女らは目を伏せる。敬愛するテルミの背にそっと触れて、ユリシアは幸せそうに眠った。

 片目だけを薄く開けて、テルミはそんな少女の寝顔を見つめる。沈黙、時計の針の音と規則正しい寝息だけが部屋に響く。溜息。

 『蒼』が願えば、アマテラスくらい簡単に引きずり下ろせるはずなのだが。

 彼女に、いつ伝えるべきか。どうやってこの世界の事を教えてやるか。彼女がいつ自身の正体を理解するのか、そもそも彼女の正体がテルミ自身あまり分かっていなかったけれど、疑問ばかりが渦巻いていた。

 『蒼』はそんなテルミ達をただただ見下ろし、見つめていた。自身の片割れのこれからを楽しみにするかのように。寄り添う誰かも、『蒼』に従うのだ。

 

 

 

「ん、ふわぁ……」

 体を起こして、大きな欠伸を一つ。隣に眠る、敬愛する人物の寝顔を覗き見た。前はずっと背中を向けられていたけれど、ここの所テルミ達は寝返りを打っているのか少女の方を向いていることが多い。彼ら自身は特に意識していないのだけれど。

 思わず笑みを浮かべて、彼女は穏やかな寝息を立てる彼が蹴ってしまっていたシーツをかけ直す。んん、とくぐもった声をあげて寝返りを打ち背を向ける。テルミの逆立った髪を一度だけ撫ぜて、彼女は藍色に染まっている空を見た。

 ユリシアは溜息を吐く。本来の起きる時間まであと一時間近くあるのだけれど、どうしたものだろうと。取り敢えずは体を倒し、テルミの背中に顔を埋めた。テルミ達は良い匂いがする。シャンプーや石鹸の匂いと言われてしまったらそこまでな気がするのだが、それ以上になんだか落ち着くのだ。出会った時から、ずっと。

 それは、彼が『蒼(わたし)』に近い『碧(あお)』の存在だからだろうか――。

「あれ……」

 碧とは、何なのだろう。何故、そんな言葉が出てきたのだろう。彼と初めて会った時に言った『蒼』も何なのだろうか。それが、わたし。

 突然頭の中に浮かんだ言葉のせいで、彼女は混乱した。一体何を考えていたのだろうか、と。分からないことを、昔から知っていたような気がして、しかし思い出せなくて。

「てるみさん、てるみさん」

「……んだよ」

 揺り起こされる感覚で、テルミは目を覚ます。起きるにはまだ早い時間なのに、何だというのだろう。彼女がそんな行動を起こすなんて、珍しくて。

「あの、おこしちゃってごめんなさい」

 ひどく悲しそうな顔で彼女は謝って、そして視線を泳がせる。そして、真剣な表情で彼を見つめて、

「このまえ、いってた……『あお』、ってなんですか。てるみさんは」

 それと、どんな関係があるんですか。

 唐突な彼女の問いに、彼は間抜けた声をあげたけれど。すぐに、同じように真剣な顔つきになって彼は口を開く。何か言おうとして止めて、一度俯き考え込むような素振り。

 それから顔を上げ、

「――全て、だよ」

「すべて」

 ああ、そうだ。頷いてテルミは身体を起こすとユリシアを見下ろす。彼女も慌てて上体を持ち上げ正座した。胡坐をかいてテルミは、

「蒼は全てだ。んで、俺は……それに近い存在の『碧』を持っている、ってところかね」

 でも所詮は近いだけのまがい物だ。と語る。くしゃりとユリシアの頭を撫でた後、テルミはくあぁと欠伸を一つ。

「まだ起きる時間じゃねぇだろ、もうちっと寝とけ」

 そう言ってユリシアの頭を軽く横に押せば、バランスを崩した少女はベッドに倒れる。それを見た後、彼もモゾモゾとシーツを体にかけ直して目を瞑った。詳しく知りたいならまた今度、そう言い聞かせて。

 そうしてまた、朝が来る。何の変哲もない朝。先の彼女の問いが、唯一今までにない反応だ。もしかしたら、彼女が自身の正体に気付き始める兆候なのかもしれない。彼女が『蒼』であれば、大本(おおもと)の、自身達を見下して鎮座するそれはどうなっているのか、それも分かるのだろうか、とテルミは考える。

 ふと、前に聞いた彼女の夢の内容を思い出す。憶測でしかないが、あれは実際に『蒼』に出会ったのでは。そう考えれば、テルミは口角をにんまりと持ち上げた。

 大本の『蒼』はまだあそこにあって、今も自身らを見下している。未だ門は開いてくれないが、しかし彼女が何らかの理由でそれを無視して会いに行けるのでは――。

 もし、その憶測が正しいのであれば。テルミは一人、くつくつと笑っていた。ぐっすり眠る少女の、安らかな寝顔を見つめて。

「もうちょっとだ。もうちょっとしたら」

 笑いが出るほどにいつも通りのテルミとハザマを演じて、最後にはラグナとこの少女にだけタカマガハラの目を向けさせて。そうしてテルミや世界から目を逸らさせた瞬間に事象を集約させ――話はそれからだ。彼女には役に立ってもらう。

 だからそれまでは、この腐りきった平和な時を。

 そうして笑む彼に気付かず、窓から溢れる眩しい陽光で彼女はまた意識を覚醒させた。

「おはようございます、です。てるみさん」

 ふにゃりと微笑みを浮かべて起き上がると愛慕の念を向けるテルミに挨拶をしてからそっとベッドを降りる。いつも通り朝食の準備をするためだ。だが一度テルミを振り返って彼女は口を開く。

「さっきはとつぜん、ごめんなさいです。『あお』について、きになってしまって」

 苦笑し、彼女は語る。それも突然、彼が碧だからなんて言葉が浮かんだから、というのは言わない方が良いような気がしたけれど、隠すのもまた良くない気がしたからそれを付け足して。そうすればテルミは一度目を見開いた後、

「……そうか」

 顎に手を添え、短く返す。彼女が、教えるまでもなく自身の事を知っていた。そんなの、観測か何かしていないと無理なはずであるのに。

 しかし彼女が自身を『観測』しているのであれば観測者だと分かるはずだが彼女にはそんな気配すらない。それなら、彼女がなくした記憶の中にあったのか。ぱっと現れたこの少女が、全ての情報が回帰する『蒼』ならそれを知っていても。

 彼女と過ごすにつれて、憶測に過ぎないまでも今まで何となく察する程度しかできなかった彼女の正体が何となく掴めてきている気がして、テルミはパタパタとキッチンを駆け回る少女の背に微笑んだ。尻尾のような蜂蜜色の髪が揺れる。

「あ、そうそう。昼食を食べたらツバキ=ヤヨイ中尉が来ると思いますので、そしたら少しばかり外で待っていてくださると助かります」

 ふと、ハザマが口を開く。失念していたが、そういえば今日は彼女が来る日だったと。

 他の事象であれば本部に居た時に話したはずの内容を、今日、このカグツチで話すのだ。色々と順番が少しばかり変わってしまったが、この程度は許容範囲だ。

 いつも通りを演じなければいけないが、この程度は小さな『可能性』に過ぎない。

 そうして、丁度昼飯を食べ、片付け終わり――一服した頃合いで。ノックが響き、ハザマの合図とともに扉が開かれる。

「失礼いたします。ツバキ=ヤヨイ中尉、出頭いたしました」

 言いながら、敬礼するツバキの顔は真剣な、仕事のモードそのものだ。チラリ、とユリシアを見てからハザマに視線を戻すと、ああとハザマは頷いて、

「それじゃ、ユリシア。暫く部屋の外で待機していてください」

 にこやかに微笑みそう命じれば、彼女は頷いて、たたとソファから立ち上がり扉へ駆けていく。部屋を出る前にぺこりとお辞儀をして、それから去った。

 それを見届けると、ハザマは一つ溜息を吐いた。これで、やっと本題に入られる。この話は彼女にも、目の前の中尉にも刺激が強い話だ。

 そんな、親友と敬愛する人物を――だなんて。口角が上がりそうになるのを抑えて、ひどく真面目な顔を装い彼は語る。

「すみませんね。改めて、私は諜報部のハザマです。よろしくお願いします」

 名乗ったあと、あまり固くならないでと彼は微笑んだ。それに対し、失礼しました、と漏らす彼女の堅苦しさもいつも通り。それをまぁいいか、と流してハザマは話を切り出す。

「それで、今回中尉を呼んだのは、ですが。ある重要な任務に当たって頂きたいんです」

 首を僅かばかり傾けて、ハザマがそう告げる。彼女が、少しばかり訝しげな目をした。この後に続くのは、諜報部主導のものか――だろう。だから、その台詞が出る前にハザマはふふ、と笑いを零して、

「あー、大丈夫ですよ。中尉の性格は把握してます。ちゃんとこれ、統合本部からの勅命ですから安心してください。『帝(みかど)』のサインもありますが……何なら確認します?」

 つらつらと並べ立てられる言葉に、ツバキの目が見開かれるのが分かった。慌て、彼女は手を顔の前で横に振る。そんなに顔に出ていただろうか、と思っていることだろう。顔に出ていなくとも、彼女の台詞など暗記してしまっただけなのだがそれを彼女は知る由もない。

「……! も、申し訳ありません!」

 目をぎゅっと瞑って、頭を軽く下げる。気にしないでください、とハザマが微笑みをそのままに言えば彼女は安心したように胸を撫でおろした。相手は一応ではあるが上官だ。失礼があってはいけない。そんな彼女の真面目さが見えるようで滑稽だった。

「では改めて。任務内容は口頭で伝えますね」

 極秘任務故に書面に残すのは些か不味く、また、内容も簡単に覚えられる――そう言えば、彼女は短く返事を返す。咳払いを一つし、ハザマが告げる任務の内容。

 それを聞いた途端、彼女はまた驚きに目を見開いていた。漏らされる声。ふらり、と足に力が入らなくなるのを堪え、無理矢理自身を立たせた。

 ツバキ=ヤヨイ中尉。貴官には、ジン=キサラギ少佐と、ノエル=ヴァ―ミリオン少尉の暗殺をお願いします。

 名前と共に浮かべるその顔。一人は幼い頃から兄のように親しく育ち、どこかには恋情も少なからずあった人物。もう一人は、その人物の部下として彼を追う人物。そう、一緒に笑ったり泣き合った親友だった。

 絶句した。その人物達を、大切な人達を、目の前の男は暗殺しろと語ったのだ。それが彼の意思でではなく勅命故に語られた内容であろうと彼女はそれに関係なく。それほどの事を、二人はしたのだろうか。

「あの……二人は、一体何を。暗殺だなんて、そんな」

 上官に対し、礼節を重んじる彼女らしくない喋り口で彼女は問う。声は打ち震え、狼狽ぶりが随所に表れていた。

 それに対し、ハザマは気にする様子を一切見せず、口を開く。聞きたくない、そう思ったが――聞かねばならない。ぎゅっと口を真一文字に結んで彼女は彼の言葉を待った。

「諜報部(われわれ)が掴んだ情報によりますと、少佐は再三にわたって命令違反を犯した上に失踪、さらには巷を賑わす例の賞金首と戦闘し負傷したらしいですね」

「そんな、ジン兄――キサラギ少佐が……!?」

 ジン兄様。そう呼びかけて、ツバキは慌てて言い直した。それくらいには、驚いていた。あの誠実で真面目な彼が、命令違反に失踪、あの強い彼が賞金首と戦闘し負ける。そんなこと、あってはならないはずなのに。

 それだけで、一歩引けそうになったけれど、彼がまだ何か言いたそうだったために堪えた。自身が訊いたのだから、最後まで聞かなければ。

「それ以外にも色々と問題を起こしたようですが――そしてもう一つ。未確認の情報ではありますが、警備を打ち倒して、収容された病院からも脱走したとも入ってきてます」

 まだまだ出てくる情報に、耳を塞ぎたくなる。彼が反逆行為を犯したというのが信じられなくて、信じたくなくて。さらに続けられる言葉。

「ノエル=ヴァ―ミリオン少尉はというと、その情報が入るや否や上司を連れ戻すため追いかけたところまでは、いいんですがねぇ」

 いやに勿体ぶる言い回しに、早く言ってくれ、とツバキは思う。その思いが通じたのか偶然か、彼がまた息を吸い――話した。

「こともあろうか上官のキサラギ少佐を瀕死にした者に肩入れをしたそうですよ。『死神』とも呼ばれるSS級の賞金首。統制機構への反逆者、ラグナ=ザ=ブラッドエッジに」

 親友までもが、反逆者になったかもしれないというその情報に、彼女はとうとう足を一歩後ろへ下げてしまう。つい少し前まで一緒に笑い合っていたはずの彼女が。にわかには信じがたいハザマの言葉に衝撃を受け彼女の瞳が色を失う。

「どうやらどちらも、例の賞金首には特別な思い入れがあるようですが――どうしました、ぼーっとして?」

 そんなハザマの言葉に反応するのにも、ワンテンポ遅れて。ツバキは、首を横に振ることもできないまま。下がっていいですよ、そう言われれば力ない声で返事をして、彼女は踵を返し部屋を去ろうとする。その足取りはふらふらと覚束ない。

 その背に、ハザマの言葉が追い打ちをかける。

「あーそうそう、言い忘れていましたが。キサラギ少佐の『ユキアネサ』とヴァ―ミリオン少尉の『ベルヴェルク』、忘れずに回収してきてくださいね」

 そうして、もう一言。

「二人の亡骸は持ち帰らなくても大丈夫ですよ。反逆者に葬儀なんてないでしょうし」

 悔しかった。もしかしたら、親友も敬愛する人も本当に反逆者になってしまったのかもしれない事実が。彼が簡単に二人を殺せと言えてしまうことが。反逆者、そう罵られたことが。

 でも言い返してしまえばそこでお終いだ。だから少しだけ残った理性で唇を噛み締めたけれど、礼を失するなどお構いなしに彼女は振り返らず、今度こそ部屋を去った。

 その背を見つめるハザマの表情は――ひどく楽しげな笑みだった。

 ぱたりと閉まる扉の向こうに居るツバキの表情を思い浮かべながら彼は心の中で、これは悲劇を通り越して喜劇だと嗤った。

 出てきたツバキのひどく苦しく悲しそうな表情を見て、部屋の外のベンチに座っていたユリシアは首を傾けた。どうしたのか、と問おうとする前に彼女は足早に離れてしまっていたけれど。

 新しく友となったユリシアに挨拶をするほどの余裕も彼女にはなかった。

 そして少し離れたところで、この区画は人通りが少ないことをいいことに彼女は壁に凭れかかる。目の前が暗く、血の気も引いて思考が纏まらない。

「私は……どうすれば、いいの……?」

 また思い浮かべる記憶の中の愛しい二人に縋ろうとしたが、しかしそれすら任務を思い出させて彼女は苦しむだけであった。

 そんなツバキを遠目に見て、部屋に戻ったユリシアがハザマにどうしたのか、聞くことはなかった。はぐらかされてしまう気がしたからだ。それに、何となく――嫌なことを頼まれたのだろうとは察しがついていたから。

 彼女があんな顔をするのだ、きっと、とても嫌なこと。大事な人達に関係するような。だからこそ、怖くて聞き出せなかった部分もあった。

 

 

 

   1

 

 夜が更ける。輝く星々を見上げた後、テルミを振り返る。月が欠け始めてきた頃だった。ユリシアがふっと微笑む。

「おほしさま、きれいですね」

 きっとそういう俗な、遠回しに思いを伝えるそれではないのだろう。けれどドキリ、とテルミ――正確にはハザマの心臓が跳ねる。

 彼女が言った言葉には、人によってはこの想いを知らないのだろう、という意味が含まれているからだ。だけれど彼女がそれを知っているはずもないから思い違いだとしてテルミは短く相槌を打って首肯した。

 グラスの水を一気に飲み干してテーブルに置き、ベッドへと足を運ぶ。腰かけ、ユリシアが見ていた窓越しの星空を見た。この無数の星々も何度目にしたことだろうか。百や千では到底数え足りない。

 溜息を吐いて、少女に視線を移す。微笑みを浮かべたまま首をこてりと傾ける彼女を呼ぶ広げた脚の間をぽんぽんと叩いてそこへ座るように指示すれば彼女は素直に頷いて彼の前、脚の間にすっぽりと収まって座るのだ。

 えへへ、なんて笑う少女の頭をくしゃくしゃと撫でてテルミは思う。いつまでこんなくだらない茶番が続くのか。否、分かっている。ラグナが動けば全てが進む。そして、それは遠くないことも。だから彼女も。だから、テルミは少女に問うた。

「もし俺様が、テメェにハザマを殺せと言ったら殺すか」

 何となくだった。ラグナが自身を殺さない可能性があるのは、別の事象を観測した段階で知っている。それで仮にレリウスに殺させるとして、彼女がどう思うか。それでレリウスに手を出されようものなら。彼女がテルミを慕っているのを理解した上でテルミはそう問うた。彼女は暫し考えるような素振りを見せる。そこに驚きが見えなかったことに、テルミは逆に驚いた。唸る彼女は、やがて口を開く。

「てるみさんと、はざまさんが、それをのぞむなら、わたしは」

 全力をもって。そう彼女は述べた。へらり、と笑う彼女は死というものについてよく理解していないのだろう。でなければ、そんな動揺も見せずにだなんて。少しだけぞっとしたけれど、それを表に出さずにテルミは、それなら良いと言ってユリシアの後頭部に触れ、押す。

「わわわっ」

 その衝撃で前につんのめり、体を傾けたまま数度足踏みをして立ち止まる。振り返り、眉尻を垂れさせ何ですか、と苦笑して問う少女にさぁな、と白を切ったがテルミも何故問うたのかも、そんな行動をしたのかもあまり意識はしていなかった。ただ、何となくだ。彼女と居るようになってから、何故か何となくで行動することが多くなってきている気がした。もっと計画性をもって動かなければならないはずなのに。

 戻ってくる少女の腕を掴む。細い、今にも折れてしまいそうなほどに華奢で白い腕だ。

 不思議そうに首を傾けるユリシアの腕を見つめた後、パッと離す。一体、この体のどこに、あんな鎌を振り回したり、世界の全てが眠る『蒼』の力が宿っているのだろう。

 少女にもう寝ろと言って、テルミはベッドに体を倒した。何なんだろう、そう思いながらユリシアも靴を脱いでベッドへ寝転がった。眠気に身を委ね、すぅすぅと。

 

 

 

「テルミが、どうして」

 彼女を見つけられたのだろうか。逆に、何故自身達は気付かなかったのか。ココノエはそれをずっと悩んでいた。蒼の反応があるなら探知機に出るはずだ。それが、世界のどこであろうと。偶然見落としていた可能性はないとは言えないが、それでも。

 まさか『蒼』がテルミを選んだだとか、そういった最悪の理由でもない限り有り得ないのだから。砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーを、キャンディを舐めながら器用に啜るココノエの後ろから、巨体――テイガーが心配げに声をかける。

「あまり根詰めるなよ、ココノエ」

 彼女は眠らない。自身が開発した意識を覚醒させるキャンディーを常に舐めることで意識を保ち、眠らない彼女。しかしその華奢な身にたまる疲労は結構なものだろう。故に彼はそんな言葉を投げたのだが、ココノエは分かっている、とそう述べるだけだ。そこに彼の意思を尊重するような様子は一切見られず、しかし分かっていたというように溜息を吐いた。

 ココノエが溜息を吐いて、椅子の背もたれに思い切り体重を預ける。

「テイガー、コーヒーのおかわりだ」

「了解した、今煎れてくる」

 カップを差し出すココノエから受け取り、テイガーは給湯室に向かった。もうここに居ない、ロット=カーマインの仕事だったココノエのコーヒーを煎れる仕事は今やテイガーの仕事となっている。不器用な彼の煎れたコーヒーはやはり美味しくなかったが、それでもないよりはマシだった。

「マスター。今日の調整は」

「あぁ、ラムダか。確かにそうだな、よし、準備しろ」

 彼女はかつて酷い実験に使われるだけ使われ廃棄され、大破寸前だった。それにサルベージし(引き上げ)た同じ素体である『ニュー・サーティーン』の魂を組み込んで蘇生させたのが今のラムダだ。ニュー、ラムダ共に記憶は消したはずだがそれでも時折反応が可笑しいために毎日調整しているのだけれど。

 模擬戦闘を行い、データを取り、彼女の中から必要なデータ以外を削除。そして残したデータは最適な形に作り替える。

 そうして、テルミを倒しこの世から消すのが彼女の目的だ。彼は存在してはいけない。なのに、何故『蒼』はテルミについたというのだろう。

 考えても分からないことばかりで、彼女は目を伏せた。ゆるりと首を横に振って、立ち上がりラムダを見る。いつでも準備万端といった様子のラムダを連れて部屋を出る。

 戻ってきたテイガーが、ココノエが居なくなっていることに気付いてまたかと頭を抱えた。仕方なくココノエのデスクにカップを置いてテイガーは一人ぽつんと。

 ココノエが戻ってきたときには冷めているだろうけれど。

 

 

 

 ふわふわの皮を噛み千切れば中から溢れる柔らかな挽き肉と混ざった具材。ジューシーな肉汁が溢れ、ほかほかと湯気を立てるそこにもう一口齧り付く。

「これが、にくまん。と~っても、おいしいです!」

 カグツチ下層部のオリエントタウン――東洋系の店が立ち並ぶ街まで出向き、彼女らは早めの夕飯を食べていた。窓から見える大きな竜頭のギミックが視界を楽しませ、運ばれる料理が舌を幸せに包む。

 ハザマも、億を超える事象の記憶がありながら初めて入ったこの店の料理に舌鼓を打っていた。自然と持ち上がる口角。そういえば先日任務を任せたマコトがそろそろ戻ってくる頃合いだろうが、ハザマはソレをどうでもいいことだとして小籠包を摘み上げた。

 レンゲに乗せ、箸を使ってぷつりと割る。溢れる熱々のスープに浸る小籠包、それに息をそっと二、三度吹きかけてぱくり。

 どこかで忌まわしい猫系の獣人族の声が聞こえた気がしたが、そんなことが気にならないくらい今は食に夢中だった。次に手を付けるのは麻婆豆腐。

 そうして二人が食事と会計を済ませ店を出る。先ほどまでは晴れていたはずなのに、空は曇り雨が降り出していた。まるで誰かが泣いているかのように。

 少し歩いたところで先の猫が逃げ店員が慌てて追いかけて行くのが聞こえた気がしたが、無視した。ユリシアが賑やかな声に何があったのかと振り返りそうになったが見るな、と言えば彼女は頷いて首を前に戻す。

 歩きながら、街を見る。溢れかえる沢山の人々も、いつかは消えてしまうのだろうかとハザマは思う。テルミ達の計画も目的も、ハザマには少し遠い話に思えてしまって。

 ユリシアを見れば丁度彼女もこちらを見上げていて、ばちりと視線が絡まり合ってしまい思わず逸らす。不自然過ぎたか、と後悔した。別に何もやましいことはないはずなのに。元から彼女は道具に過ぎない。

「はざまさん」

「なんですか、ユリシア」

 ユリシアがふと呼びかけてきて、ハザマが問う。そうすれば彼女はそっと手を差し出してきて、首を傾ける彼の手にそっと触れた。何故。唐突のことでハザマは手を引っ込めそうになるが止めた。

「あの、こわいものが、きますです」

 ハザマが拒否を行動に表わさないのをいいことになのか彼女がぎゅ、とハザマの手を握りながらそう言う。一体どうしたのだ、と思いながらも彼は溜息を吐き、歩き出す。そして、納得した。

「あぁ、あれですか」

 それは、異形だった。黒いドロドロとしたそれは悪臭を放ち、何かを探すように徘徊していた。気付いた周りの人々は傘を差すことも忘れて逃げ、確かにこちらへ向かう人間が多いものだ。嫌なものが居る気配を彼女も、ハザマが気付くより前に察していたのだろう。

 顔のような三つの穴が開いただけの白い仮面を付けたその異形は、ふと立ち止まる。じ、とハザマ達の方を見つめていた。やがて虫の脚のような腕を掲げて高笑い。ひどく耳障りな笑い声だ。キケケケ、蒼だ。そんな声が響き全速力で『それ』は向かって来る。

 流動体の体内に収まっていたのだろう無数の脚を地に這わせ、大きな口をぱっくりと仮面の下から広げて駆けてきたそれは、ユリシア達を食らわんとしていた。

「危ないですねぇ、全く」

 咄嗟に伸ばされるのは蛇頭のついた鎖――ハザマの持つ武器である事象兵器(アークエネミー)・ウロボロス。黒いその体にずぶり、と突き刺されば悲鳴を上げ、その黒い異形――アラクネは咄嗟に身を引く。ハザマがウロボロスを引き抜く。そうすればアラクネはふとユリシアを見る。視界に映るや否や、恍惚とした声をあげた。

「あぁ、あぁ、アオ、蒼ォ……! 蒼、見つ――た、純粋な、ホンモノ……蒼!!」

 けれど、またも伸びる鎖がアラクネを貫き、あがる悲痛な声によってアラクネの台詞は遮られた。

「あげませんよ、貴方みたいなものには勿体ないシロモノですから」

 それでも、腕を伸ばすアラクネにしつこいと言って最後アラクネの背後からもウロボロスを突き刺した。ひときわ大きな悲鳴を上げて、ぐったりとアラクネは地に伏せる。這い出てきた蛆虫のようなものを踏みつぶし、ハザマは溜息を吐いてユリシアを見た。

「これで、安心ですね。では行きましょうか。すぐにスーツを着替えたいですし」

 ベタベタに濡れた帽子を脱いでユリシアにかぶせながらにこやかに微笑みかければ、ユリシアは少しだけ怯えた様子でアラクネをちらりと見てひとつ、ぎこちなく頷いた。

 ずり落ちる帽子のつばを持ち上げつつ。一体、何だったのだろう。苦しそうに痙攣するそれを見つめながら、歩き出したハザマを追いかけた。握られた手を離すことは忘れていて。

 歩きだし、彼らは統制機構への道を進んだ。アラクネが起きないうちに、と足早に。本来アレは賞金首であり、面倒事を減らすためにも連行しても良かったが。あれにはあれで使い道があるから今は放置して――。

 そんなハザマ達を他所に、ほろ酔いの集団をかき分けてマコトは走っていた。親友(ノエル)にそっくりな素体達の墓場を見つけてしまったからだ。凄惨な光景。あれはどういう意味だと、走りながらマコトは必死に考えていた。

 分からないけれど、やはりあの上司には関わってはいけないと直感で感じて、マコトはそれを自身の友――ハザマと常に居るあの少女にも伝えなくては、そんな使命感に駆られ無我夢中で走っていた。


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