POSSIBLE DREAM   作:鈴河鳴

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第一章 蒼快な朝

 日差しに瞼を優しく叩かれる感覚で少女は目を覚ます。彼女が一番に目にしたのは、見知らぬ天井だった。むくりと身体を起こすと、するりと滑り落ちる毛布。覗く服は白一色のシンプルなワンピースである。

 口許に手を持っていけば自然と目が細まり欠伸が出て、ふあぁと声を漏らす。

 寝ていたのは一人で眠るには少しばかり大きなベッド。そこからそっと降りて、裸足で彼女はぺたぺたと部屋を歩く。

 窓から差し込む光に、蜂蜜色の髪が煌めく。朝だった。

 誰かの影を探すかのように彼女は部屋を見回す。否、実際探していた。自身をここに連れてきてくれたあの人はどこだろう。

 部屋の真ん中で立ち止まり首をひねっていると、後ろでがたがたと物音がしてどきりと心臓が跳ねた気がした。恐る恐る振り返る。

「ああ、起きたんですね。えーと……ユリシア」

 そこに居たのは、彼女が探していた人物によく似た人物だった。

 整った顔立ちに髪はあざやかな緑色で、細めた双眸から覗く瞳は爬虫類を思わせる鋭い光を持っていた。

 テルミと名乗った人物に対し、この人は確かハザマといったはず。なんでも、二人は同じ体に共存しているのだというが――。だから似ていても不思議ではない。同じ肉体なんだから。

 風呂上がりなのか羽織ったシャツは肌に貼りついていて、首にかけた白いタオルからは湯気が上る。

 慣れない名前を呼びながら起きたのかと問う彼に、彼女は一瞬きょとりと首を傾げた後、慌てて首を縦に振った。

「はい、おきましたです」

 ユリシア。それが彼女の名前であり、名付けたのは目の前の人物と肉体を同じとする人物だ。

 彼女が他の人物に対してひどく怯えると同時に、目の前のハザマ・テルミにはやけに懐いたことからこの執務室で一緒に暮らすこととなったのだ。

 その事実を改めて彼女は幼い頭で自覚すると共に、記憶のない自身の新たな生活がどきどきとワクワクでいっぱいなことを喜んだ。

 そう、彼女には記憶がなかった。

 今までどこで何をしていて、何故あの場に居たのか。気が付けば目の前には彼――そう、テルミという人物が居た。

「そうですか、特に変わったところはありませんか?」

 昨日は移動の疲れからか泥のように眠ってしまった彼女を、気遣うような言葉。

 何かがあっては困るのはハザマ、テルミの方だからなのだがそれを知る由もない彼女は素直に異常がないことを告げる。

 へにゃっと笑みを浮かべる少女に彼は淡々と「そうですか」とだけ返す。

 柔和な笑みを張り付けてはいるが、必要以上の干渉は避けたいような素っ気ない態度だった。

 彼には人を可愛がるような感情など無い。好みなどがあったりしても、それ以上の人らしさがない故にだ。

 それはさておき、ふと彼は顎に手を添え首をひねる。

「にしても……その服だけでは些か不自由ですねぇ」

 彼女が持っている服は白のワンピース。たった一枚、それだけである。出会ってすぐまともに準備することもないまま連れて来たのだから当然といえば当然である。

 しかし綺麗好きな彼にとって、少し汚れたそのワンピース一枚だなんて耐え切れない事態だ。

 故に彼は、

「――服、作ってもらいましょうか」

 デザインはそうだ、統制機構の制服に少しばかり寄せた青と白の。

 首を傾げる少女の目の前で、彼は一人頷いた。

 

 

 

 ノック音が三つ連続して鳴らされる。木製の扉を叩く心地良い音だ。

 噛み合った金具が動く音がして、やがて執務室の扉は開かれる。

「マコト=ナナヤです。任務完了の報告をしに……まいり……」

「あぁ、ナナヤ少尉でしたか」

 丁度それは、ユリシアが手持無沙汰を紛らわす何かがないか、ハザマに聞こうとしていた時だった。びくりと肩が跳ねて硬直する少女と不思議そうに扉を見遣る彼のもとへ現れたのは、大きな尻尾と丸い耳が特徴的な少女だった。

 シマリスの血が混じった所謂リス系亜人種の――ハザマの部下であるのだが、それをユリシアは知らない。

 ただ、ゆっくりぎこちなく振り返った先で見た知らない不思議な人影に目を見開き固まることしかできなかった。

 歳はユリシアよりも六つは上だろう。テーマカラーである浸食する漆黒――黒の制服に豊満な胸を含む体を包んだ彼女――マコトと名乗った人物を見て、納得したようにハザマは頷いた。

 しかし、彼女は言葉を言いかけて止めてしまうほどには困惑していた。

「さ、報告をどうぞ」

 扉が元の位置に戻ろうと動き出しバタリと閉まる。マコトは扉の前に突っ立ったまま動けなかった。それを横目に、自身の執務机を挟んだ目の前を指して彼は報告を促すの、だが。

 そう上手く事が運ぶわけがなかった。

「は、はい……じゃ、なくてぇっ! えっと、ハザマ大尉? この子……誰です? 一応部外者に聞かせる内容じゃあないと思うんですけど……」

 ユリシアの方をチラリと見たあと、マコトは苦笑いを浮かべてそう問うた。

 それもそうだろう、マコトが最後に来たのは三日前、その時彼女は統制機構内に居なかったし見慣れない人物に警戒を抱いても不思議ではない。

 じわり、とマコトは背に嫌な汗をかいていた。

 それを受けてハザマはマコトからユリシアへ視線を戻す。それから、

「あぁ。コレ……じゃなかった。この子はそうですね、昨日から一緒に過ごす事になりまして」

「は?」

 平然と、目を細めたままにそう言ってのけたのだ。間抜けた声をあげるマコト。どんぐりを思わせるくりくりの茶色い目が驚きに見開かれた。

 それに対し、聞こえなかったのかと前置いてハザマはもう一度告げる。

「昨日――正確には、昨日の夕方頃から一緒に過ごすことになりました」

 声にならない声をマコトはあげた。そこには、こんな子がだとかハザマ大尉みたいな人がだとか、とにかく信じられないといった思いが込められていて。

「や、やっだなぁ、冗談はやめてくださいよ大尉……え、マジです?」

 必死に笑顔を作り笑い飛ばそうとしたマコトであったが、動じずしっかりとマコトを見つめるハザマが嘘を言っていないと理解した瞬間、露骨に顔が引き攣った。

 ええ、と頷くハザマ。

 その間もユリシアは固まったままどうすることもできずにいたのだが、ポンとハザマがユリシアの肩に手を置いて立ち上がると、小さく声を漏らしてハザマを見上げる。

 それからゆっくりと、氷が溶けてきたかのようにゆるやかに、マコトの方を見て――ぺこりと会釈を一つ。

 マコトは顔を手の平で覆い、やれやれと溜息を吐いた。かと思えば、手を外すとズンズンとユリシアとハザマのもとへ歩み寄る。

「こんな、子供を、ハザマ大尉が。どういう理由があるかは知りませんが――あまり危険なことはしないでくださいね、大尉」

 そう言って、睨み付けるようにハザマを見上げた。その目つきが怖くて、ユリシアが小さく声を漏らしてしまう。それに気付きマコトはゆっくりとその顔をユリシアの方へ向けると。

 何をされるのか分からない恐怖にユリシアは表情を歪めた。

 だが、マコトはそれに柔く苦笑したあと、

「あはは、怖がらせちゃったかな、ごめんね。アタシはこの人……ハザマ大尉の部下ってやつだから、よろしくね」

 そっと長躯の腰を屈めて目線の高さを合わせると、ニッと快活な笑みを浮かべてそう言った。

 差し出した手は、握手を求めていた。

 ハザマとの扱いの差に、ユリシアは困惑する。ちらり、と答えを求めるようにハザマの方を見上げると、笑顔で頷かれたから。

「よ、よろしくおねがいします、です。ななや……さん?」

 こくこくと二度小さく頷いて、そっと手を差し出す。小さな白い手を、マコトの手が握りしめた。嬉しそうに笑うマコトは、

「アタシの事はマコトでいいよ。で、えっと……名前は?」

 そう言って、首をこてんと可愛らしく傾げてみせた。元気な少女だと、今更ながらにユリシアは思う。ナナヤと言ったのはハザマの真似だったけれど、違う呼び方を提示されれば従おう。

 ユリシアは、またハザマの顔を盗み見る。怖くない存在なのだとハザマが言ってくれているような気がしたから、ユリシアはその表情をあどけないへにゃっとした笑みに変えて。

「じゃあ、まことさん。わたしは……ゆりしあ。ユリシア=オービニエといいます、です」

「へへ、じゃあユリシアちゃんだね!」

 二人を見下ろして、ハザマとテルミはこっそりと道具の遊び相手が増えたと嗤うのだった。

 それを知らぬ二人は新しくできた友との交友を深めようとソファの方へと移動し、腰かけた。

 拙いユリシアの喋りに不快感を示す事なく話してくれるマコトが、とても嬉しかった。

「にしても、ユリシアちゃんかぁ……いい名前だね。あとこんなに可愛いんだし、お父さんとお母さん、美人ないい人だったんだろうなぁ」

 しかし、マコトのそんな何気ない一言に、ユリシアの表情が途端に少し、曇る。

 それはほんの少しだったけれど、諜報部に所属していない人にも十分に分かるくらい。だから少尉とはいえ諜報部のマコトには、それが言ってはいけない内容だったと気付くには十分すぎるくらいの材料だった。

 親友の一人が、義理の親が居るとはいえ本当の親がいないのだ。それと同じものを感じて、

「あ、ごめ、悪いこと言っちゃったかな」

 苦笑して、手を目の前に出しごめんのポーズで咄嗟にそう言った。

 マコトの動作を見て、ユリシアはゆるゆると首を横に振る。

「いえ、ただ、わたしには。おとーさんも、おかーさんも、いないので。なづけてくれたのだって、てる……ハザマさんですから」

 へらっと無理に笑みを作って、ユリシアは言う。テルミ、と言いかけて直したのは、事前にハザマがレリウス以外の他の人間の前では『ハザマ』で呼べと言い聞かせていたからだ。

 そっか、とも何ともマコトは言えなかった。けれど、それよりも引っかかる箇所があった。

「ハザマ大尉が、名付けた……?」

 そこだった。こんな子供が居るだけでもおかしいというのに、まさか名付けただなんて。

 ぎぎ、と首を曲げてマコトは頬杖をついていたハザマを見る。

 と、ハザマは一瞬不思議そうに首を傾げるが納得したように頷いた後、

「ええ、私(わたくし)が名付けましたが、何か?」

「マ、マジですか……」

 首肯するハザマに、マコトは頬をまたひくりと引き攣らせた。彼が、こんな普通の名前を付けるとは想像できない。それ以前に、名付けるだなんて。

「あれ、ってことは……」

 最近来たばかりなのに、名前を付けられるということは。その前の名前は何だったのだろう、そんな疑問が頭を過る。

「まさか、名前がなかった――ってことはない、よね」

 いやしかし、親がいないということはそれもあり得るだろうが。

「そのまさかですよ」

 やっぱりか、とマコトは眉根を寄せた。

 二人の会話についていけなくて、ユリシアは二人を交互に見る。

「あ、えと、その」

 何を言えるわけでもなく、戸惑いながらそう漏らすユリシアに二人分の視線が集まる。

 それから、はぁとマコトの溜息が聞こえ――。

「ま、どんな事情があってもいっか」

 ぼそ、とマコトが一言漏らすことでその会話が終わる。

 そこを見計らったかのようにハザマが書類を押し付けてくるのだから、マコトは上司を睨みつけながらも部屋を後にすることしかできなかった。

 

 

 

「なんで俺様が……」

「仕方ないだろう、ハザマ。あの少女――ユリシアは、貴様に一番懐いているのだからな」

 テルミは苛立っていた。

 というのも、何故かユリシアと一緒に過ごすことになったからなのだが。

 彼女は今、ハザマの執務室に置いてきているのだが、そこで彼女の扱いをどうするか相談した結果である。

「いや、それは分かるけどよ……」

「精神面の調整・ケアは必要なことだろう。特にあの年頃は不安定だが彼女の魂の価値は何よりも高い。扱いを間違え、後々困るよりは……」

 レリウスの言いたいことはわかる。

 それに彼女は特殊だ。一緒に、その時まで過ごすというのがアレの意思だというのなら、『今は』従っておく方が後々扱いやすくなるだろう。

 しかし、いくら事情があろうと、負の感情により存在を強くしている彼にとって慕われながら過ごすというのはとても、新しすぎることで。

「――チッ、仕方ねぇ」

 しかし、それでも行動しないことには始まらない。

 アマテラスを引きずり下ろして破壊した後の世界――それを『夢』見てただ少女のもとへ戻るのだった。

 所詮は道具なのだと、自分に言い聞かせて。

 

 

 

 ユリシアが来てから二日目の昼であった。マコトは特に仕事がなく暇を持て余していた今日、普段であれば親友の他二人と集まって駄弁るところであるのだが、今日は違った。

 一昨日来たばかりだという少女、ユリシアのもと――もとい、自身の上司であるハザマの執務室へ遊びにやって来たのだ。

 ここは遊び場ではないと零すハザマの言葉を無視し、昨日押し付けられた書類を恨みたっぷりに執務机へ叩きつけたあと、こちらに背を向ける形で座り本を読んでいる彼女の隣、革のソファへ腰かける。

「こんにちは、ユリシアちゃんっ」

「――」

 声をかけた。しかし反応はない。

 彼女越しに覗いて見えた内容はお菓子作り。そんな本を読んでいたから、やっぱ女の子だしそういうのが気になるのか――なんて話題を振ろうと思っていたのだけれど。

 まさか、昨日みたいに硬直しているのか。

 そう思い、そぅっと後ろからその顔を覗き込む。彼女は遠くを見ていた。

 本なんか持っているだけの飾りに過ぎなくて、蒼い眼に溶かしたように映り込むのはとても綺麗な青空であった。

 こちらに一切気付かない姿は、とても儚く見えて。

「ゆ、ユリシアちゃん……?」

 再度、声をかける。

 すると、彼女の遠くを見ていた目の焦点がやがて心配げに覗き込むマコトに合わさった。

「あっ……ぼーっとしていました。ごめんなさいです」

 途端、彼女は慌て謝るのだが、それよりも彼女が戻ってきたことに安心してマコトは首をゆるく横に振る。それからニッと笑って、短い言葉で許した。

 それにユリシアは安心したようにつられて笑い――首を横に傾ける。

「それで、えと、なんでしょう」

「あぁ、うん、その本みたいな、お菓子作りとかって興味あるの?」

 問う彼女にマコトは問いで返す。

 記憶がないらしい彼女が何に興味を示すのか気になって、何となく聞いてみたのだ。

「はい。知らないこと、たくさんあるので。おかしだけじゃなくて、いろんなことに、きょうみがありますです!」

 対するユリシアはこくこくと元気よく頷いて、へらっと笑いそう返す。

 そして、それがどうかしたのかと彼女はまた問う。

「や、女の子らしいなぁって思ってさ」

 もし場所があったら、させてあげたい。そうマコトは思った。

 お菓子はマコトも好きだし、彼女の料理の腕がどれくらいなのかは気になるところだ。

 確か執務室には小さなキッチンスペースもあったはずなのだが――。マコトがハザマの方に視線を投げると、彼はすぐにそれに気付いたようで不思議そうに二人を見たあと、会話を思い出して「あぁ」と頷き、

「したいんですか? 別に構いませんよ」

 と、キッチンのある方向を指差して言った。マコトとユリシアは顔を見合わせる。そして、

「いいんですか……!?」

 同時に、嬉しそうな声でそう問いかけた。

 

 

 

 レモングラスを煮詰めた牛乳を、小麦粉と混ぜ合わせる。砂糖と常温にしたバターをクリーム状になるまで混ぜ合わせ、さらにそれを加えてかき混ぜた後、ラップに包んで生地を棒状にしたら、冷蔵庫で数十分寝かせ――その間はお喋りだとか、使った道具の後片付け。カチャカチャとぶつかる道具の音や流れ出る流水音が耳を刺激する。

 時間になったら冷蔵庫から生地を取り出し、包丁で丁度良い厚さに切っていく。トレイに並べたらハーブをぱらぱらと撒いてオーブンへ。

 焼き上がるちょっと前にお茶の準備を始めて、焼きあがったら皿にカラカラ盛り付けて完成。

 それが今回のレシピだ。作ったのは卵を使わないハーブクッキー。

 焼きたての香ばしい匂いと混ざるのはティーカップから立ち上る紅茶の香りだ。

 それだけで涎が口の中に充満する。

「できたーっ!」

 特に汗をかいているわけでもない額を手の甲で拭い、マコトはそう歓喜の声をあげた。

 ユリシアもつられて嬉しそうに笑い、それを横目にハザマはいつも通りの笑顔を張り付けていて。微笑ましい光景であった。

 しかしハザマ、そしてテルミの胸中はそんな景色とは裏腹に――。

 それでも、皿をユリシアが差し出せば一つ摘みあげ、口に放る。

「あぁ、ありがとうございます。――ふむ、美味しいですね」

「えへへ、それなら、うれしいです……!」

 その言葉だけで、ユリシアは飛び上がりそうなほどのどうしようもない幸福感に包まれる感覚をおぼえた。その感覚についた「しあわせ」という名前すら、彼女は知らないのだろうけれど。

 そうしているうちに、マコトがあっと声をあげる。その表情は慌てた面持ちで、二人がどうしたのかと彼女の方を向くと、彼女曰く出張の用事がまたできているらしくて。

 納得した二人に見送られてマコトが退室する、と。

「オイ、ユリシア」

 ハザマ……ではなく、テルミが少女の名前を呼ぶ。

 それに彼女は反応する。

「あ、こんどはテルミさんなんですね」

「あのネズミだとか、仕事相手に対して俺様が出ると色々厄介なんだよ。んで……」

 軽く説明をしてやった後、テルミは言葉に詰まる。

 呼んだはいいが、何も考えていなかったのだ。らしくない、とテルミは思う。

 少女は首を傾け、不思議そうにその言葉の続きを待っているのだが。

「……これから飯を作れ」

 菓子が初めてにしては随分と美味かっただとか、最近そういえば食生活がだとか、そんな思いから何となく言った一言ではあったが、それが彼らの日常の始まりだったのだろう。

 彼女は無知で、無垢であった。故に、最初に出会ったその人物がどんな人であろうと「たいせつなひと」として感謝し、慕い、従おうと思ったのだ。

 それに何となく、彼の場合は生まれる前から知っていたような気がして――。彼の事を思うだけで、胸がとても温かくなった。

 彼と会う前のことを思い出そうとする。

 気が付けば声をかけられていたから、その前の事を思い出そうと目を閉じても浮かぶのは靄のかかった暗い空間と、じんわり感じる蒼い光だけだ。

 どうしても思い出せなくて、くらりくらりと頭痛がして。目を開ければ目前の世界はいつだって温かに包み込んでくれるのだ。

 気持ちのいい日差しを受けながらテルミの傍で歩く度に足裏の感触が新たな情報を教えてくれて、とても新鮮な気持ちで今日という日を生きられる。

 何が起きるか分からない確率事象の真っ只中、各々が胸に腹に色んな思いを抱え生きるこの世界で彼女だけが生き生きとしていた。

 ――一方。夜が明けることのない古城で、少女は金の睫毛の生え揃った瞼を震わせた。

 ゆっくりと開かれた先に覗く瞳は、血のように紅い。

「おはようございます、レイチェル様」

 傍らに控えた老紳士――この家に仕える執事が、その腰を恭しく折って言った。

 それを受けて彼女、レイチェルは二度瞬きをしてから視線を彼のもとへと送る。

 ふっと微笑んだ青白い表情は幼い子供のそれだというのに、とても美しい。まるで一輪の薔薇を思わせた。

「ええ、おはよう。ヴァルケンハイン」

 レイチェルが自身の寝るベッドに手を置き、力を入れて起き上がろうとすると、ヴァルケンハインと呼ばれた老執事は一度何か言いたげな顔をした後、失礼しますと断ってその背中に手を添え起き上がるのを手伝う。

 少女を気遣うように見つめるその視線には、慈愛と敬愛の念がたっぷりと注ぎ込まれていて。

「どうか、なさいましたか」

 しかし、その白い眉がふと下がる。

 それも、レイチェルがその麗しい表情を何とも言えない複雑な表情へ顰めていたからだ。

 左右の高い位置でくくった金髪の束が、窓から吹き込む風に揺れた。

「……何か、嫌な予感がするわ」

 それが何なのか分からないけれど、この世界が大きく変わってしまうような出来事が、そう遠くないうちに起きてしまう気がして。胸騒ぎがした。

 そんなレイチェルを見つめるヴァルケンハインもまた主人の言葉に一抹の不安を抱いていた。

 

 

 情報統制機構本部は、とある噂で持ち切りになっていた。

 人の寄り付かない諜報部に子供が現れた。あの胡散臭い諜報部大尉が子供を連れている。そんな声があちこちからヒソヒソと流れているのだった。

「だからあまり連れて歩きたくはなかったんですがねぇ……まぁ、仕方ないですか」

 スラックスの腰ポケットに親指を入れながら、彼――ハザマは歩みを進めていた。向かうのはレリウスの待つ部屋である。斜め後ろをちょこちょこと着いてくるのはやはりユリシアだった。

 早くこの場から立ち去りたいという気持ちからか、こころなしかハザマの歩幅はいつもより大きくなっており、それに合わせて歩く彼女はもはや小走りとなっていた。

「――あぁ、やっと着きましたか」

 そうしているうちに目指していた扉の前に辿り着く。人の寄り付かない一角、重厚な扉を三度ノックして力を込め押せば開かれる扉。その向こうに居たレリウスは相も変わらず机に向いていたが、ハザマの入室に気付くと首だけをそちらに向けた。

「ハザマか。――準備ができたのか?」

 レリウスが問う。

 準備、というのはここを発つための準備である。彼らはここ、統制機構本部を離れる予定であった。

「ええ、それはばっちり。ユリシアの方も元々荷物はありませんし」

「そうか……。それにしても、カグツチとは……また随分と懐かしい」

 頷きながら、ちらりとユリシアの方を見遣るハザマを一瞥して、レリウスは窓を見遣る。

 空はどんよりとした灰色の雲が覆い尽くしており、そこに空気中の魔素が入ることで余計に景色を暗い色に塗り固めていた。

 第十三階層都市・『カグツチ』は建設途中のため未完成都市とも呼ばれており、下層には内戦から逃げてきた人々などが住む浪人街がある場所だ。その浪人達が建設を手伝うことで、まだ未完成ながらに一気に発展した都市である。

 未だ開発の途中だということをユリシアはあらかじめ聞いてはいたが、一体どんなところなのだろうと期待に胸を膨らませていた。

「――出るぞ」

「ええ」

 レリウスの一言に短くハザマが相槌を打って、踵を返す。ばさりとジャケットを翻しながら彼らは部屋を出た。

 また出口に向けて歩く間、見慣れぬ少女に加えレリウスまで一緒となれば余計にひそひそ声は大きさを増すのだが、それを無視しながら三人は外に出る。

 乗り場まで移動して、そこから出ている統制機構の魔操船に乗ればカグツチまで数時間。窓から望む景色は慣れぬ者からすれば結構な絶景で、窓に手を付いて身を乗り出さんとする少女の眼は空で輝く太陽に負けず煌めいていた。

 精神体であるテルミを受け入れたことによって少しだけ人の感情をテルミ越しに知ることのできたハザマは、それが純粋な子供の反応であることを理解したけれど、やはり自身には何が興味をそそるのかは理解できないまま。

「はざまさん、はざまさん、みてください、とってもたかいです……!」

 席に腰をしっかりと下ろしたハザマの方を振り返り、手招きをする少女に仕方なくハザマは立ち上がる。けれど、

「ええ。でも私、こういう景色は何度も見ているのでさほど面白味がないんですよね」

 隣に立って言った一言は本音、それもひどく冷たいものだった。

 ハザマを見上げるユリシアの笑顔が固まった。窓に手をついて、外を眺めつつハザマは少女のその表情を一瞥した。

 本当のことを言っただけで心が痛むなんてことはなかったし、相手がどんな風に思ったかすらハザマにとってはどうでもいいことだった。

 もっと同調するような台詞を吐いても良かったが、その必要性すらハザマは感じない。

 こういう時、テルミなら何を言ったのだろうと自身の胸を意味もなく見下ろしたがこういう時に限ってテルミは愉快そうに傍観しているのだから性質(たち)が悪い。

 体があれば、頭の後ろで腕を組んで椅子に腰かけている事だろう。まぁ生憎と器はハザマしかいないので本人にしかそれは見えないのだが。

「あ……そ、そうですよね。ごめんなさい、です」

「いえ、謝る必要はありませんよ。ただ事実を述べただけですので」

 眉尻を下げて謝る少女に淡々と話す。

 計画のための道具としてしか、彼女を見ていなかったから、余計に優しくするなんて思考も浮かばなかった。

 レリウスはただその会話に関与するでもなく、興味深そうにその様子を観察していた。

 そこから気まずい雰囲気になるかといえばそうでもなく、やはり子供なのかすぐに切り替え景色を見て喜ぶユリシア。

 視界に映る山々はたまに階段状に都市が形成されているものがある。それらは山を削るのではなくプレートを差し込む形で形成されていて、階層都市と称すること。複数の階層に分かれるためその名がついたというのは暇つぶしのため与えられた本に書いてあったことだ。

 上の方は貴族などが、下の方には没落貴族や平民、亜人などがいること。山の中なのに寒くないのは統制機構が術式で気候を調整しているから。

 そんな内容を思い出しながら見ると、勉強になるとユリシアは思う。

「――着きましたか」

 ハザマが漏らすのに合わせて彼女が入口を振り向く。乗り降り場だった。

 降りますよ、そう言ってハザマがレリウスの後ろをついて歩き、一番後ろを彼女が追いかける形となる。

 翠色の制服に身を包んだ彼ら、魔操船回りを担当する衛士達からの視線もやはり異様なものを見る目だった。

 それを無いもののように進んでいく背中を追いかけていて――ふと視界の端に捉えたのはたっぷりとしたドレスだった。

 何故、それが気になったのかは分からない。だけれど、進みながらそれを目で追っていた。白い肌の少女。長い金髪のツインテール。ウサギのようなリボン。

 ゆっくりと、彼女がこちらを振り返る。

 目が合った瞬間、遠くだったというのに、彼女が目を見開くのが分かった。そして、次には彼女はとても――とても悲しそうな顔をしていた。

「……あ」

 二人の方を咄嗟に見遣ると結構前を行っていて、慌てて追いかける。

 彼女が居たであろうところを振り返る。そこに彼女はもう居なかった。

 追いついた時、何をしていたんですかとハザマに咎められたが、それは言ってはいけないことのような気がして曖昧に返した。

「――ちょっと、きになるひとがいて」

 そもそも、人だったのかすら分からないけれど。それに興味深そうに声を漏らすレリウスと、何か思い出したのかと聞くハザマ。

 それにはゆるりと首を横に振って、若干早足で歩幅の大きな二人の斜め後ろを歩く。

「見えてきましたよ。あそこが――」

 やがて、先ほどいたところと似た構造の、建物の入り口が見えてくる。これが第十三階層都市・カグツチの統制機構支部なのだろう。

 きょろきょろと辺りを見回しながら不安そうに、先ほどよりも足を速めて二人にぴったり着いて歩く。門番の視線もやはり痛くて、今にも足が止まってしまいそうだったけれど。

 入ってしまってからは案外楽であった。本部よりも人は少なくいため、やはり視線は飛ぶけれども本部ほどの緊張は齎(もたら)されなかった。

 ここでユリシアはハザマの背中だけを見ていれば怖くもないことに気付く。

 ハザマの肩は他の衛士に比べ平均的に細く、見上げるほどの長躯はひょろりとしていた。だけれど、何よりも広く感じられた。

 側面が青、真ん中が白の新品のワンピースを揺らす。

 これは最近、テルミが彼女のために頼んでくれたものだ。他の衛士達の中に居てもあのワンピースよりは目立たないよう、とわざわざデザインを考えてくれたのだから、大事にしなければと思う。――背中が出ていたり丈が少し短い気がしたけれど、衛士の制服だって似たようなものだと考えて首を横に振る。

「――さて」

「わわっ」

 暫く無心でそうしていれば、目の前で立ち止まるハザマ。唐突過ぎてぶつかりそうになるが、慌ててブレーキをかけ事なきを得る。

 ユリシアがハザマの斜め後ろから見たのは、扉だった。

 木製の扉は、本部で見たハザマの『執務室』のものにそっくりだ。

 いつの間にかレリウスは居ない。見回しても見当たらない。どうやら途中で別れたようだ。

 ハザマが扉に触れる。途端、呼応するように色んな図形や文字の描かれた丸い陣が現れ、水面のように揺れた。緑の光だった。

 中身が複雑極まりない記された円――ロックの術式陣は、触れた人物が部屋の持ち主であることを認識して浮かび上がった。難しいパズルのように組み合わさった図形たちはかちゃりかちゃりと動き出すと、やがてすぅっと扉に飲み込まれるように消えていく。

 ドアノブを捻って扉を押せば、自然に扉が開かれた。

「着きましたよ。暫くはここで寝泊まりすることになります」

 そう言って指された部屋の内装は、本部の執務室に似ているものの少しだけ面積が狭いと感じた。入れ、と言われればそれに従い、頷いて彼女は入室する。

 それを見てハザマも入室し扉を後ろ手に閉めた。ぱたりという虚しい音が廊下と部屋を隔てる。

 ユリシアは、部屋を見回した。整えられているが、生活感が感じられない部屋であった。薄く埃をかぶったテーブルや椅子が何とも言えない寂しさを醸し出す。

 扉を開け閉めした瞬間に舞ったのだろう一部の埃たちは、窓から差し込む光を反射し煌めく。

「っくしゅん……!」

 魅入っていたのも束の間。それらは鼻をくすぐり、思わずくしゃみが出た。

 それはハザマも同じのようで、同時にくしゃみをした二人は顔を見合わせた。へらり、とユリシアが笑う。

「――掃除、しませんとね。とてもじゃありませんが、こんなところじゃ眠れませんし」

 こう見えて私、綺麗好きなんですよ。とハザマは訥々と告白する。

 薄々それは感じていた。何故なら、いつでもシャツやジャケットだとかはパリッとしているし、埃ひとつも許さない姿をしていたから。

 本部で手持無沙汰を嫌がった彼女に与えた仕事も掃除や見られても平気な書類の整理だった。

 頷いて、道具を探すユリシアにハザマがこっちだと誘導する。久しぶりに来たというが、しっかり覚えていたのは流石といったところだろう。

 

 あれから掃除も一段落ついて、二人は紅茶を飲んでいたところだった。

 ちょうど棚に保存されていた茶葉を使って、ユリシアが淹れたものだ。視線を落とすと、紅い水面には部屋の天井と、伏し目がちな彼女が映る。

 気がかりなことがあったのだ。

「オイ、何かあったのか」

 テルミが口許で傾けていたカップを戻し、問う。時折こうやってテルミが出てきたりハザマに切り替わったりは日常茶飯事なのでそれについてはさして驚くことはない。

 気がかりだったのは、先ほど見かけた少女のことだった。

「その、ふしぎなひと……がいて」

「不思議な人?」

 ユリシアの言葉を復唱して、テルミが再度問い返す。

 それに促されるまま、ユリシアは先ほど見た人物の特徴を――そして、その表情を拙い言葉で語った。それを聞いているテルミの表情が、だんだん怒りのような、驚きのような、だけど少しだけ愉快げなものに変わっていったのをはっきりと彼女は見ていた。

「――それは、多分俺様の知ってる奴だが……できる限り関わんじゃねえ」

 唇を開き、テルミはそう言う。

 知り合いなのに、何故とユリシアは言いかけて口を噤んだ。きっと、嫌な人なのだろう。テルミが言うならそうなのだろうとすぐに納得してしまったからだ。

 それにテルミは満足げに笑うから、ユリシアも微笑んだ。

「わかりました、です。できるかぎり、かかわらないようにしますです」

 そう言った彼女を見ながら、胸中でテルミはここまでもう嗅ぎつけたのかと呟いた。

 何も知らない少女はただ、にこにこと幸せそうに。

 テルミは取っ手をつまみ、カップを持ち上げる。傾けて最後の一滴まで飲み干して溜息を吐いた。

 その時、一方でアルカード城に戻っていたレイチェルも皮肉にも同じようにお茶を飲んでいて。複雑な表情を浮かべる主にヴァルケンハインは何を言うでもなく、ただ寂しそうに見守っていた。

「あの子……この世界に降りてきて、何をするつもりなのかしら」

 ぽつりとレイチェルは漏らす。

 あの子、そう言ったのは先ほど見かけた、別の事象には存在していなかった存在だ。

 感覚だけを頼りにその存在に近づいてみて、蒼の気配がして、どうしてか――とても、悲しくなったのだ。

 これが蒼の意思だというのなら、今までやって来たことは全て。

 ティーカップの中に映り込むツインテールの少女は、どこまでも寂しく悲しそうな顔を。

 

 

 ユリシアとテルミは外に出かけていた。

 いつまでも部屋に篭りきりというのも何だからと、書類を何とか終わらせてテルミがユリシアを連れ出したのだ。

 テルミが見慣れた景色に退屈そうに欠伸を噛み殺す反面、その隣にいつの間にかすっぽりと収まっているユリシアは見知らぬ景色に目を輝かせていた。

 視線がこちらへ向かなければどうということはないらしいが、ポケットに手を突っ込み腰を折ったガラの悪いスタイルで歩くテルミと、弾むように歩く純粋な少女が並ぶ図は不釣合いもいいところである。

 その二人が一緒に食事をとったり、掃除をしたり生活をしているのだから世の中は不思議だ。

 二人は買い出しをしていた。

 ずっと外食をしても問題ないだけの財力をハザマは持っているが、それでもできるなら節約をしたいというのがテルミの本音でもある。かつて神として在ったテルミは、人間としての暮らしを、庶民としてのソレの楽しみを知りすぎたところがある。

 食材の詰まった紙袋を抱えるユリシアをチラリと見遣った。

 何が楽しいのか辺りを見回しては太陽にも負けないほど目を煌めかせるのだからテルミは溜息を吐くしかなかった。

 そんな二人の後ろを歩く人物がいた。逆立った銀髪を揺らす男だ。

 その人物は、テルミの存在に気付くとハッとしたように目を見開く。その双眸は左右で色が違った。左がエメラルドの緑なのに対して、右は――血のように、赤い。

 男は駆けた。思いの限り、憎しみのままに。

「テルミィ!!」

 大剣を振りかざす賞金首に気付いた人々は逃げ惑い、悲鳴が連なる。

 一歩遅れてテルミがそれに振り返った。その顔はにんまりと笑みを浮かべており――ユリシアはその顔を見て綺麗だと思った。

 テルミのすぐ目の前まで駆けてきた男は跳躍し、大剣をテルミに向けて振り下ろす。

「うおらっ」

「おっと危ねぇ!」

 懐から瞬時に抜いたナイフで大剣を抑える。金属音が鳴り、次には跳躍で後退。そうやってテルミが攻撃を躱(かわ)す。

 慌ててユリシアもそれに続く形でテルミを追いかける。

「下がってろユリシア」

 しかしテルミが着いてきた少女を見とめるとそう言うのでユリシアはこそこそと物陰に隠れて様子を見ることしかできなかった。幸いにも、死神の視界にはテルミしか映っていなかったから、彼女が目を付けられることはなかった。

 それを見届けるとテルミは彼――ラグナ=ザ=ブラッドエッジに向き直る。

 歯を剥いてラグナはテルミを睨み付ける。そして咆哮し、再度駆けた。

「芸がねぇなあ子犬ちゃんよぉ! テメェじゃ俺様にゃ勝てねぇんだよ!」

 嗤うテルミに愚かにもラグナは剣をまた振りかざした。

 街に出てラグナに襲われるというのは、テルミはこの繰り返す事象の中度々あったため見切ることもできた。だから、躱す準備をした――というのに。

「てるみさんを、きずつけないでください……っ」

 少女が憎き相手の名前を呼んでそう止めたのを死神は聞き逃さなかった。

 驚きからか、振るう腕の動きが鈍くなる。テルミがその隙に躱し、そのままラグナは地面に大剣を叩きつけた。

 物陰に隠れたばかりの彼女はすぐに姿を現し、テルミの元へ駆ける。

「――オイ、下がれって言っただろうが」

 そんなテルミの言葉を無視してテルミとラグナの前に腕を広げ立ち、ユリシアはラグナを睨み付ける。

 涙を浮かばせる少女が、攫われる前の妹に重なって――。

「またテメェは人を……! 今度は洗脳でもしたのか、あぁ!?」

 少しだけ残ったラグナの理性が、自身らの家族を壊しただけでなく他すらも――そう結論付け、彼は怒鳴る。

 その言葉の意味をユリシアは理解できなかった。何故彼がこんなにも、大切な人に敵意を向けるのかすらも。

 ラグナの怒鳴り声を心地よい音楽か何かのようにしてテルミは前に出て、

「洗脳なんかしてねえよ! コイツは、自ら、すすんで、着いて来たんだよ」

 そう言って、わしりとユリシアの頭を掴む。小さな頭は彼の手にすっぽりと収まって、それを見たラグナは名状しがたい嫌悪感を抱くが、それ以上にテルミの言葉が気になった。

 気付けば周りに人はラグナ達を除くと居なくなっていた。

「自らだと? ハッ、ふざけんな! 誰がテメェみてぇな奴に着いて行くか!」

 そんな嘘に引っかかるわけがないだろうとラグナは吐き捨てる。

 しかし、テルミは嘘を言っていない。

「いんや、マジも大マジ。な? 着いてくって言ったのはユリシアだよなぁ?」

 そう言って冗談半分、確かめるようにユリシアにそう話しかけると彼女はラグナを睨みつけたまま当然のようにコクリと一度首を上下に振るのだ。

 それでも信じられないラグナであったが、そこで誰かが通報したのだろう。統制機構衛士がやってくるのを遠目に見つける。

「チッ……テルミ、今日のところはこの辺にしておく。あと、そこのテメェ……ユリシアとか言ったか。そんな奴についても良いことなんかねーぞ!」

 別に殲滅できないことはない。統制機構支部のいくつかを単身で壊滅させることのできた彼には。それでも、実際敵が増えるのは厄介だ。

 今はテルミを見て衝動的に攻撃してしまっただけ。今はまだ、やらねばいけないことがあるはずだから。

 ラグナは一見すれば悪役の捨て台詞にも聞こえてしまう台詞を吐いて去る。

 意外に脚の速い彼が見えなくなった途端、地面に吸い込まれるようにユリシアはへたり込む。それを見ても、心配の言葉の一つもテルミはかけてやる気にならなかった。

 ただ、下がっていろと言ったのに逆らった少女の思いがこの数えきれないループを生きてきて尚理解できず、苛立ちすら覚えていた。

 そこにやって来たのは通報を受けた統制機構衛士である。誰も諜報部のハザマと肉体を同じとするテルミのことには気付かず、ユリシアのこともまたただの子供としか思わない彼らは、通報を受けたことや協力を願う旨などを堅苦しい言葉で一通り語る。

「あぁ、死神ならあっちへ行った」

 そう言ってテルミがラグナの去った方を指差せば、ご協力感謝いたしますと敬礼をして青い制服に身を包む彼らは一度敬礼をして走って行った。

「あの……」

 やがて、ラグナを追った衛士すら見えなくなった時、やっと彼女は立ち上がる。

 そして、言いにくそうに、でも何かを言いたそうな顔でテルミを見上げた。何だとテルミが訊く。

「えと、あのひとは、だれだった、ですか? てるみさんに、とてもおこっているかんじでした」

 その問いを聞くと一瞬きょとりと目を丸くして、そういえば彼女は知らないのかと顎に手を添えテルミはふむと漏らす。

 そして、面倒くさそうに手をひらりひらりと振って、

「あー……まぁ、この世界の敵……って奴かね。ま、関わらねえに越した事はねーよ」

 適当に言った言葉であるが強ち間違いでもあるまい、そう考えテルミは、自身の言葉を復唱する彼女に行くぞと短く告げてさっさと歩き出そうとして、少女はただそれを慌てたように追いかけるのだ。

 今まで誰も居ることのなかった自身の隣にすっぽりと収まる少女にテルミはまだ違和感を拭えなかった。

「今日のお夕飯は、えーっと……」

 腕を組んで顎に手を添え、隣を歩く少女を見遣る。

 何故こんなことになってしまったのだろう。

 何故、彼女は自身にこんなに尽くすのだろう。

 緑の髪の男はただただ新たな世界に期待をしながら、このユリシアと名付けた少女が不可解でならなかった。

 

 

 

   2

「……あ」

 現在、マコトは仕事の真っ最中であった。

 仕事と言っても書類を届けたりといった簡単な仕事で、あとは帰還し上司へ報告するだけなのだが。そんな矢先のことだった。

 マコトは彼女を見つけた。

 とある公園のブランコに腰を下ろし、キィキィと寂しい音を立てる金髪の後ろ姿だ。

 それを見つけた途端、マコトは一瞬首を傾げ――頷くと、駆け寄る。

「のーえるんっ」

「うわひゃぁ!?」

 がばりと制服のポンチョを音を立てて翻し、後ろから抱き付く。

 間抜けな悲鳴をあげる――ノエルと呼ばれた金髪の少女は、その背に触れる何とも言えない柔らかな触感と先の声に目を見開いたままモゾモゾと身動ぎ、振り返る。

「ま、マコト!?」

「ふっふっふ、こんな所で何してるの、のえるん」

 名を呼ばれればご名答とばかりにマコトは笑い、その耳を震わせると問うた。

 きっと、何かあったに違いない。そんな友人の気遣いであったり、また、本来であれば上司を追っているはずではという純粋な疑問でもあった。

 それを聞いて一瞬緑の目を丸くしたあと、ノエルと呼ばれた金髪の少女は表情を苦笑に崩して、

「あはは……まぁ、ちょっと。自己嫌悪って、いうのかな」

 追いかけた上司に冷たく突き放され、さらには行先も今は分からない。そこから襲う無能感がどうにもできなくて、ただ一人でいたのだ。思い返して、俯く。

 語らずとも、何となくで察したのだろう。マコトは短く、

「そっか、のえるんも大変だね」

 と頬をぽりぽりと掻いて苦笑し、次にはニッと笑う事しかできなかった。

 一瞬、水を打ったような静寂が流れかける。それを遮るように、ノエルが顔を上げた。

「あ、そうそう! マコト、諜報部に小さな女の子が来たって本当? なんでも、今はこっち(カグツチ)に来てるらしいって噂が流れてるけど……」

「え、あー……」

 そんなノエルの問いに一瞬だけ瞠目(どうもく)してから、マコトは視線を左上に泳がせた。首を傾げるノエルだが、マコトが口を開くのを待った。

「うん、アタシも何回か会って話したことがあるよ。話すのは苦手なんだけど、すっごぉーく可愛くてさ」

 ――でも、カグツチに来てるってのは知らなかったかな。仮にも諜報部所属なのに、アタシとしたことが。

 驚いたのはそこだ。そう付け足して彼女は胸中で思う。

 自身が仕事でカグツチに来たばかりだというのに、まさかその少女も来ていたなんて。つまり、自身の上司も一緒なのだろう。一言言ってくれればよかったのに。

 苦笑して後頭部を掻きながら、マコトは胸の中であの胡散臭い上司の顔を浮かべそう思った。

「そうなんだ! いいなぁ、私も会ってみたいかも……」

 どんな子なんだろう、マコトの言葉を聞きながらノエルはまだ見ぬ少女に思いを馳せた。

 そして、会ったことのあるという目の前の友人に羨ましさを覚えながら、話すのが苦手というその少女に親近感も覚えつつ――。

「あ、んじゃ今度紹介してあげるよ。ノエルだけじゃなくてツバキも誘ってさ!」

「本当? 楽しみにしてるね!」

 そんなマコトの提案にぱぁっと顔を輝かせるのは、紹介してもらえるからだけでなく自身の親友と呼べる少女の名が出たことも関係している。

 彼女らが普通の女の子として過ごせる平穏な時間だった。

 見守るタカマガハラの興味を引かぬほど、平和で幸せな束の間の時間。

 ――その数日後のことだった。

「ユリシアちゃん……!」

 元気の良い声と共に開かれるのは統制機構カグツチ支部にある諜報部大尉執務室の扉。要はハザマに与えられた部屋である。

 口を開けた扉の先に居るのはリス系亜人種の少女、マコトだ。

 どんぐりのようなくりくりとした目を輝かせ、頬を薔薇色に染め上げた彼女は部屋の主であり自身の上司であるハザマを無視してユリシアの元へ近付くと、にっこりと笑う。

「ユリシアちゃん、今って時間空いてる?」

 時間は丁度お昼。書類の束を抱えたユリシアは、そんなマコトの問いに首をこてんと傾ける。最初のように怯えたり緊張したりがなくなったのは進歩だ。

「えと、このしょるいのせいりが、おわったら……たぶん」

 そう答えてハザマをチラリと見遣る。執務机で仕事の文書に向かい合うハザマが視線に気付くと、顔を上げて首を傾ける。

 が、すぐにマコトの用件に関することだと納得して、

「あぁ……まぁ、あまり人目に触れない範囲でしたら、好きにして構いませんよ」

 にっこり。軽い笑みを浮かべてハザマは答える。

 それを受けてユリシアはマコトに頷くと、

「よっし、んじゃパパッと片付けちゃおうか」

 マコトはそう言ってユリシアの腕の中に目を落とす――が。その量を見て、ハザマを勢いよく振り返る。

「ちょ、この量は可笑しくないですかハザマ大尉! どんだけ溜め込んでたんですか、ユリシアちゃんにばっか押し付けないで自分でも片付けてくださいよ!」

 目を見開いて怒鳴るマコト。それもそうだろう、余裕で十センチほどの厚さがある。

 今は亡き日本の辞書でも、八センチが厚さの限界だ。

「いえ、私はこちらの書類をやっておりますし……それに、全てを押し付けたわけではないですよ」

 どこか薄ら寒い笑みを浮かべたままハザマは言う。

 溜め込んでいたわけではない。ここの所書類が多いのだ、と。

「はぁ……もう、ユリシアちゃん。こんなの放って行っちゃおうよ」

 呆れてものも言えないといった口ぶりで、マコトは未だ一所懸命に書類を棚やファイルに仕舞うユリシアへ声をかけた。

 しかしユリシアは首を振って、

「いえ、これは、わたしがやりたいと、いったことなので」

 その言葉にマコトは再度大きな瞳をさらに大きく見開いた。

 この前の時もハザマに心酔している様子が少しだけ窺えたが、こんなことまですすんでやるだなんて。

「――そ、そっか。んじゃ、手伝うよ」

 苦笑を浮かべ、マコトは頬を一度人差し指で掻く、と。手を差し出す。

「あ、ありがとうございます、です」

 お言葉に甘えて。そう付け足してユリシアは書類の三分の一ほどを渡す。早速それを片付けようとしてマコトは重大なことに気付く。

「えっと……これ、どこにやれば」

「あ。それはこっちで、つぎのはえっと、あっちです」

 そう、自身の仕事をやっていればいいだけのマコトは資料室以外で書類の片付けなどしたことがない。マコトの困ったような顔と言動ですぐに察したユリシアはすぐさま場所を教えるのだが、これでは余計に効率が下がってしまっている。

「あー……えっと」

「んと、まことさんは、すわってまっててください、です」

 結局ユリシアにまでそう言われる始末で、何ができるわけでもないマコトはすごすごと下がってソファに腰かける。途中見えたハザマの笑みに見下されているような気がしてむっと頬を膨らませたけれど。

「――おわりました、ですっ!」

 ふぅ、と息を吐いて、さして汗をかいたわけでもない額を達成感で拭う。

「お、早いね。じゃ、早速行こっか」

 丸い耳をひくつかせてマコトが立ち上がり、手を差し伸べる。

 作業を再開してから約八分といったところだった。

「それなんですが、えと、どこに行くんでしょう」

 マコトの手をとろうとして引っ込め、自身より背の高い彼女を見上げながらユリシアが問う。

 行くにしても、どこか分からず着いて行くだけというのは少しばかり不安が伴うのだ。

「あぁ、それね。んと、紹介したい人が居るんだ」

 大丈夫かな。

 人と話すのが苦手なユリシアを気遣ってそう付け足すマコトの言葉に、暫し疑問符を浮かべるとユリシアは――。

「そういうこと、でしたか。えと、だいじょうぶだと、おもいますです」

 こくりこくり、頷いて答える。

「よかったぁ~っ、んじゃ、今度こそ行こっ」

 安心したように胸に手を当て言葉を吐き出し、マコトは再度手を差し出した。

 それを受けて一度ハザマの方を見遣った後、頷かれたのを確認してからマコトの手を取る。

 

「ってわけで……諜報部の所で保護させてもらってるユリシアちゃんでーっす」

 そういう経緯を経て、場所は変わり統制機構のすぐそばにある空中庭園。 

 元気なマコトの声と共に彼女が後ろを向いて手を招く。それに合わせて柱の物陰から現れるのは今しがた紹介された少女、ユリシアであった。

 不安げに揺れる蒼の瞳が、退いたマコトの前に座る二人の人物を見る。

 マコトとユリシアの前に居るのは、マコトと年の変わらないだろう赤髪と金髪の二人組だった。

 向けられる視線に思わず逃げ出したい気持ちでいっぱいになりながらも、ここに来てから初めての『友人』のような存在が紹介したいと言ったのだ。

 だから彼女はその気持ちを必死に抑えた。

 漏れる、意味をなさない音。見比べる二人は各々に青や翠の瞳を丸くし感想を述べた。

「この子が噂の……?」

「本当に小さいのね。にしても、諜報部で、だなんてなかなか聞かない話ね」

 首を傾けてじっくりとユリシアを見つめる彼女らの視線に、ユリシアは少しだけ脚が震えそうになった。けれどしっかりと二本の脚で立って、マコトに背中を軽く叩かれるまま口を開く。

「ゆ、ユリシア=オービニエといいます、です」

 目をぎゅっと瞑って名乗ったあと、頭を深く下げた。ゆるりとした動きで顔を上げ――彼女らを見つめる。その視線は依然、丸くなっていたけれどすぐに揃って二人は笑みを咲かせた。

 吸う息の音、よろしくとかけられる声。

 安心して、ユリシアが強張っていた表情を少しだけ緩めた。

「で、こっちがノエル、こっちがツバキ」

 金髪の方をノエル、あとに紹介された赤髪に青い眼をした少女がツバキだとマコトが紹介を入れる。二人をまた見比べて、へらりとユリシアは笑った。

「えと、のえるさん、つばきさん、よろしくおねがいします、ですっ」

 そしてユリシアもマコトの隣に腰を下ろす形になり、彼女らの談笑が始まった。

 庭園に響く楽しそうな談笑の声。細まった双眸。赤く染まる頬。

 少女らの姿をテルミ、そしてハザマはひそかに窓から見下ろしていた。

「……なんで『あなた』がここに」

 途中、ポツリとノエルが呟いたそんな言葉をノエル本人も、誰も気付かなかったし、平和な時だけが過ぎていった。


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