POSSIBLE DREAM   作:鈴河鳴

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第十八章 鎮金の夕暮

 世界虚空情報統制機構ヤビコ支部、カグラ=ムツキ大佐執務室。ココノエとカグラは、ラグナとレイチェルを連れて戻って来ていた。扉が開く音を聞いて振り向いた少女は、二人の後ろに続く人物らを見とめると、ぱぁっと目を輝かせた。

「あ、ラグナも来たんだ! レイチェルさんも! 良かった、心配してたんだよ……って」

 駆け寄る少女、セリカ。微笑ましく思う皆だったけれど、不意に彼女の顔が曇る。

「どうしたの、ボロボロじゃない! ちょっと待って、今治すから!」

 ラグナがあまりに傷だらけだったからだ。心配した様子で、慌てて手を伸ばし、そこに淡い光を纏おうとする。けれどその光が光として目に見えるようになるより早く、彼はあからさまに身を引き、叫んだ。やめろと。

 以前の彼であれば受け入れていたはずなのに、拒絶のあまりの強さに驚いて、光は彼女の指先から逃げるように小さな粒子になって消えていく。小さく悲鳴すら漏らす彼女にハッとして、ラグナは眉尻を下げた。バツが悪そうに顔を逸らす。

「悪ぃ……けど、傷なら大したことねぇから心配すんな」

「でも、ラグナ……重傷だよ。傷口だけでも塞がないと」

 ラグナがやんわりと断っても、それでも、と食い下がるセリカ。心配そうに胸に手を置く少女へ、一つ声がかかる。一歩前に出て声をかけたのはココノエだ。

「心配ない。こいつの傷なら私が見てやろう。ついでにその左腕と、イデア機関の調整もする。というわけだ。しばらくこいつを借りていくぞ」

 無表情のまま、有無を言わせぬ態度で彼女が言えば、仕方なくセリカは頷く。

「ほら、行くぞ」

 そう言うココノエが突然ラグナの手を引けば、一瞬バランスを崩しそうになりながらも頷き、着いて行くラグナ。その背をセリカは心配そうに見つめていた。ココノエの治療ならば問題はない。そこについては信頼している。けれど、自身に治療させることを嫌がられている気がして。

 

 

 

 執務室の隣に作られた――否、改造する形で設けられたエレベーターに乗って、彼らは地下へと辿り着く。そこには、何に使うのかもよく分からない機械や、何やら小難しそうな言葉や映像が並ぶディスプレイ、キーボードが複数。食べ散らかしたゴミと、中の黒い液体が完全に冷めてしまった白いカップがあった。

「統制機構の支部に自分の部屋を作ったのか……相変わらず無茶苦茶するな、お前」

「無茶苦茶なのはお前の方だ。……見せてみろ」

 ラグナの台詞に心なしか眉根を寄せながらも、見せろと手を差し出して言うのは腕のことだ。言われるがままラグナが両腕を差し出せば、ココノエはそれを何かのコードに繋ぎ、そしてディスプレイと腕を交互に身ながらキーボードを叩き始める。

「ふむ……左腕そのものは問題なさそうだが。イデア機関の反応が鈍い。相当酷使したようだな」

 イデア機関。それはかつて、一人の素体の少女――ラムダから貰い受け、吸収したものだ。それが術式の増幅や魔素のコントロールなどの役割を果たしているのだが、使い過ぎたせいで反応が鈍い、とココノエは語る。

 そうして。言っておくが、そう前置いて、彼女は目を伏せると。

「ソウルイーターの使用は、確実にお前の寿命を縮めるぞ」

 そんなことは、ラグナも分かっていた。自身の身体のことくらい自分で理解している。あと少し、ほんの少しだけ保ってくれれば十分なのだ。

 他の資格者達の『願望』を喰らい、資格を失わせる。それを成し遂げるまでの間だけで……。

「お前がやろうとしていること、その着眼点は良い。だが、それをやるにはお前の器が足りん」

 ラグナの考えを彼女にしては高く評価して、けれどココノエは首を振る。それから『器』という言葉を復唱し首を傾けるラグナへ頷くと、彼女は事務椅子の背凭(せもた)れに体重をかけながら改めてラグナの両腕を見つめた。

「ソウルイーターは際限なく魔素を喰らうわけではない。器であるお前自身のキャパシティを超えれば、その瞬間に膨らんだ魔素はお前という器を食い破るぞ」

 器を食い破る。それはレイチェルも危惧していたことだ。けれど、己のことを一番分かっているはずのラグナはふっと口許を緩めて言葉を口にする。

「安心しろ。器のデカさには自信があるんでな」

「……殴るぞ、貴様」

 露骨に眉間へ皺を寄せ、冗談とも取れる台詞を吐くラグナを睨み付ける。彼が彼自身のことを理解していることを彼女も理解しているからこそ、それがさらに苛立たせる要因となっていた。

 彼女が苛立ちの表情を見せたことで、ラグナは顔を引き締める。

「別に、冗談で言ってるんじゃねえよ。つか知ってるんだろ、いちいち聞くなよ」

 ラグナはドライブを元から持っていたわけではないため魔素に対するキャパシティが多いことも、だから『ブレイブルー』を使えるのかもしれないことも、何よりそれ以外にも……彼女は知っていた。そこを指摘されれば、彼女は鼻を鳴らして顔を逸らす。

 誤魔化すように近くにあったマグカップを手に取り、中のコーヒーを口にする。冷めた故の苦さに思い切り顔を顰め、カップを戻した。

「……まぁいい。仮にキャパ内に収まったとして、だ。そんな状態でどうやってイザナミの元まで辿り着く? 今の貴様は魔素を強引に押さえ込んでいる状態だ。その『イデア機関』でな」

 しかし先ほども言ったように、イデア機関は使用のし過ぎで反応が鈍い状態だ。このままイデア機関をいつものように酷使すれば、溢れ出した魔素がラグナを喰い始める。

 否……『もう喰われ始めている』はずだ。そんなココノエの台詞に、今度はラグナが眉を顰めた。説教をされに来たわけではないし、それに手を貸してくれるはずじゃなかったのか。ラグナの台詞を受け、彼女は前に置かれたディスプレイへと視線を移し、返す。

「だから今、こうしてお前の身体を診てやっている。利害の一致もなく、私がタダで診てやるとでも思っているのか?」

 確かに、と彼は思う。彼女はそんな性格だった。

 けれど『蒼の魔道書』を使わずにナインやイザナミを倒す手段があると言うのか、問うラグナにココノエはゆっくりと瞬きをすると、呟くような声で答えた。

「手、というには心許ないがな。心当たりならある、ということだ。詳しくは上で話してやるさ」

 いつになく勿体ぶった言い方に、少しだけラグナは嫌な予感しかしなかった。けれど今聞くのもそれはそれで勇気が出ないし、彼女も話すつもりもないだろうからと複雑な表情を浮かべるだけに留まった。

「……それとだ。セリカに対する先ほどの態度はあからさまだ。もう少し気を付けろ」

 変えられた先の話題は、露骨にセリカが治癒魔法を使おうとするのを避けたことについてだった。その口ぶりは、彼が何故そうしたか理解しているようなそれだったから、自然と彼は口を開き、彼女に呼びかけた。

「なぁ、ココノエ」

 返るのは「何だ」という短い返事のみ。それが耳に届くと、彼は少しだけ間を開けて、問う。

「――セリカはまだ、治癒魔法が『使える』のか?」

 返事が来るまでに、今度は僅かに時間を要した。そして彼女は目を伏せ、深い溜息を吐く。

 ラグナの腕に繋げたコード類に触れ、外しながら、ゆっくりと彼女は答えを紡いだ。

「先に言っておく。現状セリカが『存在』出来ていること自体、私でも理解不能だ。それを踏まえて言うなら……」

 重傷レベル、もしくはそれに匹敵する規模の『魔力』を使用すれば最悪その場で、良くても数日以内に、セリカは確実に『消滅』する。

 その台詞に、意外にもラグナは驚いた様子を見せなかった。胸中では多少の驚きがあったかもしれないけれどラグナもそれを察していたらしく『やはり』という気持ちの方が強かった。

 彼女は『刻の幻影(クロノファンタズマ)』だ。本来この時間軸には存在しない者であり、魔素を浄化する力と、クシナダの楔の起動を目的にココノエが魂を複製、この世界に用意した器へ定着させた存在。

 それがこの『エンブリオ』という生まれたばかりの不安定な世界で、そんな不安定で弱い存在がどうやって存在しているかなんて到底理解できるはずもなかった。

「……あいつには、そのことを言ってるのか?」

「言って聞くと思うか? それにあいつも一応『魔術師』だ。自分でも薄々気付いているはずだ」 

 ラグナの問いに、首を振るでもなく伝える言葉。けれどそれだけで答えは十分だった。彼女だって馬鹿じゃないことはラグナも分かっている。だから、ココノエの言葉に短く「そうか」と返すことしかラグナにはできなかった。

 

「おかえりラグナ。ココノエさん、ラグナ、どうだった?」

「心配するな。イデア機関を調整しておいた。これで蒼の魔道書による自己回復も促せるだろう」

 カグラの執務室へと上がって来た二人を見て、セリカが駆け寄る。信頼半分、心配半分で問いかける少女に笑むこともなく淡々とココノエが答えれば、彼女は顔を明るくして頷いた。そこに声をかけるのはレイチェルで、肩にかかった髪を軽く払うと、静かにココノエへ問う。

「それで? イザナミとマスターユニットの件について何かアテがありそうな物言いだったけれど、そろそろ話してもらえるかしら?」

「まぁ待て。今カグラが『もう一人』を呼びに行っている」

 レイチェルの言葉に手の平を突き出すことで待つのを呼びかけると、ラグナが代わりに首を傾ける。もう一人とは誰のことだ、と。それを声で言い切るより早く、遮るようにノック音が響いた。噂をすれば、とココノエが呟く。

「……し、失礼します」

 現れたのは、グリーンの目の端を不安げに下げた少女だった。金のロングヘアを揺らし、身を縮めながら入室する彼女、ノエルの名をラグナとセリカが驚いたように呼ぶ。ノエルが目を見開き、硬直した。そしてレイチェルは何か納得したように腕を組み、頷く。

「なるほど、道理で。どこにも姿が見えないと思ったら、貴女が隠していたのね、ココノエ」

 扉がぱたりと閉まると同時、レイチェルが紡ぐ。そうだ。ラグナも探していたこの少女の居場所は、ココノエの結界によって厳重に隠され、守られていた。例えツバキ=ヤヨイが持つ十六夜の力があろうとノエルの存在は見えなかったはずだし、加えて情報の扱いも徹底していた。ノエルがこの支部に居たことを知るのはカグラとココノエだけだとどこか得意げに語るのはカグラ。

「じゃあイザナミやナインにも、それに他の資格者にもノエルの居所はバレてないってことか」

 相手が相手だから確実ではないはずだけれど、と付け足したうえで首肯するココノエ。けれどそれに、それでも十分時間は稼げたはずだと続けるカグラの紫の瞳が硬直したままのノエルを振り返る。

「し、死神……なんで死神がこの支部に……!?」

 今更な言葉ではあったけれど、驚きばかりが勝っていたためやっと今状況を整理できた。彼女の言葉に、ラグナが訳が分からないとばかりに眉根を寄せる。死神なんて呼び方しなくても、彼女はラグナの名前を知っているはずだし、それに記憶も皆戻っているはずなのに……。

「無駄だ。我々と違い、ノエル=ヴァーミリオンの記憶は未だ歪んだままだ」

 ラグナがどういう事だと問うけれど、それについてはココノエも原因不明だと答えた。彼女にも、何故ノエルだけが記憶を取り戻せていないのか分からなかったけれど、ただ一つ分かっているのは、この場でノエル=ヴァーミリオンのみがマスターユニットの影響を受けていないということだった。

 理解が追い付くことのできない話だけれど、自身の名が出たということだけは分かって、ノエルは縋るような気持ちでカグラの横顔を見上げた。視線に気付き、カグラが優しく笑みを見せる。

「お前は何も心配するな。そのうち分かるさ」

「……話を進めるぞ。エンブリオ内で歪められた我々の記憶は、この世界にマスターユニットが姿を現した瞬間、融合を果たした」

 まるで、複数の事象が一つに統合されたかのように。

 ノエルがぎこちなく頷くのを尻目にココノエが話を続けると、それに合わせてレイチェルが続ける。

「だけどノエルだけは、その影響を受けていない……。だとするなら答えはただひとつね。この世界は、ノエルの願望によって構築されているのよ」

 誰かの願望によって記憶が改竄(かいざん)されたのであれば、マスターユニットが現れた時点で皆と同じように記憶が戻るはずだ。けれどノエルの願望によってこの世界が創られたのであれば、それに一番順応でき、且つ、干渉力が一番高いのもノエルのはずだと。

「マジかよ。だったら今のこいつを連れてっても……」

 顎に手を添え俯くラグナに視線が集まる。彼が何の話をしているのか誰にも分からなかったからだ。視線に気付き、ラグナが顔を上げて緩く首を振る。

「いや、何でもねぇ。話を続けてくれ」

「ふむ、そうだな。では全員揃ったところで、例の話を始めるとしよう。カグラ、頼む」

 ラグナが自然とココノエを見つめ話の続きを促せば彼女は頷き、彼からカグラへと視線を移す。カグラもまた彼女の言葉を受けて首肯し、周りの面々を見ると静かに語り出した。

「先の事象干渉については各々知っての通りだが、俺とココノエは密かにその原因について調査をしていた」

「原因って……マスターユニットだろ?」

 カグラの声に、ラグナがすぐさま問いかける。調査も何も、原因はマスターユニットであることは分かりきっているのに、何を今更……とでも言うように。それにカグラが手の平を目の前に突き出し、話は最後まで聞けと告げると。

「確かに、状況から考えてマスターユニット……いや、その『中に存在する』と考えられる少女が事象干渉を起こした……当然その線で俺達も情報を追っていた」

 が、カグラ曰く。各都市に設置した魔素濃度計測器により測定を行ったところ、なかなか面白い事実が判明したという。

 マスターユニットが出現した直後に起こった事象干渉と、その後二度起きたものとでは決定的に魔素推移に差が出た。それはつまり、

「最初の事象干渉と、その後起きた事象干渉は発生源が異なる……」

 レイチェルが呟く声にカグラが指を鳴らす。その通りだ、と言葉が紡がれ、口角が持ち上がる。レイチェルは考えが当たったことにも、彼の表情にも笑みを浮かべることなく、短く「そう」と返すだけだったが。

「……出現した直後の干渉にマスターユニットが関わっていることは分かりきっている。問題はマスターユニットのものとは異なる、二度の干渉だ」

 二人の会話に咳払いを一つすれば、僅かに肩を揺らして皆がココノエに再び視線を向ける。話が逸れないうちに再び彼女は口を開く。

 マスターユニットの観測下にあるこのエンブリオで、一体誰があれほど大規模な事象干渉を起こせるのか。考えてみれば、その人物については皆『知って』いた。

 大魔導士ナイン。彼女は既に一度、巨大な事象干渉を起こしてみせた。

 ならば、どうやって。マスターユニットという神に観測されている世界だ。例えタカマガハラシステムであっても、蒼を持たないそれはマスターユニットに勝てるほどの力などないはずだ。

 瞳を戸惑いに揺らすレイチェル。やがて数秒の間を置き、息を吸う音が響いた。

「私はかつて、母……十聖ナインの研究資料を見たことがある」

 語るのは、ココノエ。絞り出すような、いつもの彼女らしくない重い声が紡ぐ。部屋に居た誰もがそれに首を傾けながらも、嫌な気配を感じて冷や汗を浮かべた。

「その研究資料には、何が書いてあったんだ?」

 カグラが問いかける。ここで言うということは、今の話に関係があるのだろうとして。普段であればきっぱりと、そしてすぐに答える彼女はやはり少しだけ間を置いた。

「……まだ構想段階の代物ではあったが……そこには、十一番目のアークエネミーを想起させる記述があった」

 そうして語られる内容に、皆が目を見開く。最初に声をあげたのはラグナだった。

 十一番目のアークエネミー。そんなもの、聞いたことがないと。

「当然だ。が見つけたそれは暗黒大戦の直後に……開発されていたのだからな」

 本来、アークエネミーとは黒き獣を倒すために製作されたものだ。そして、暗黒大戦が終わると共に回収された。けれど、その直後に開発されたのであれば、誰も知るはずがない。

 セリカが胸で手を握り、眉尻を下げた。

「そんな……黒き獣を倒した後に、どうしてお姉ちゃんがアークエネミーを……?」

 困惑に声を震わせる少女へ、ココノエは一切声音を変えないで、今度はあっさりと答えた。

「『それ』の力が、マスターユニットにも匹敵する事象干渉だとすれば……そこから導き出される答えは一つだ」

 気付いたのか、とレイチェルが漏らす。

 この世界の仕組み。マスターユニットの観測から逃れるには、神をも凌(しの)ぐ新たな神が必要だ。そして、マスターユニットは強大な力を持っているが、それでもマスターユニットに匹敵するシステム『タカマガハラ』が前例にある。ならば、それに匹敵するシステムを作ることは、容易ではなくとも不可能ではない。

 だから彼女は『それ』を作った。

 けれど『それ』は使われる事なく、ナインは境界へと堕とされた。故のこの『タイミング』だった。

「……ああ。イザナミによって境界から引き揚げられ、百年近い時間を経て、母はようやく起動させたというわけだ」

 十一番目のアークエネミー。『骸葬(がいそう)・レクイエム』を。

 そしてこれこそが、ココノエがラグナに手を貸すと決めた理由であった。それを告白されれば、ラグナはまたも驚きに声を漏らす。

 まさか、彼女は自身にアークエネミーを破壊しろとでも言うのではないか。そんな予感に、ラグナは一歩退けた。いくらブレイブルーであっても、アークエネミーの破壊は相当難しい。

「何も破壊しろと言うわけではない。それが難しいことなど十分に理解している」

 ならば何をさせるつもりなのだとラグナは思う。警戒した様子の彼にココノエが溜息を吐いた。

「お前はレクイエムを『二度と起動できない』ようにしてくれればいい」

 つまりはアークエネミーの『コア』を使い物にならなくすればいいのだ。アークエネミーの『コア』が何でできているかなど、ここに居る全員が知っていた。

 ……魂だ。

「なるほど、『コア』だけをブレイブルーで破壊しろってことか。それならいけそうだな」

 ブレイブルーの力であり、ラグナのドライブである『ソウルイーター』で魂を喰らえば、コアの破壊くらいはできるはずだ。けれど、ふとラグナがあることに気付いて「でも」と問う。

「でもよ。その『レクイエム』とやらはあのナインが持ってるんだろ。それだけでも難易度高ぇんだけど……」

 ナインがそれを使って事象干渉を起こしたのであれば、ナインの手元にあるはずだと考え、ラグナが問う。ナインの強さと賢さについてはラグナは身をもって体験しているし、そこに辿り着くまでで十分に骨の折れる作業になるのではと。

「それについては……断言はできないが、レクイエムはナインの手元には『ない』と考えている」

 しかしラグナの問いに否定で返しココノエは首を振った。ならばその根拠は。更に問いを重ねる彼。首を傾ける彼からふいと視線を逸らし、ココノエはゆっくりと猫のように瞬きをして、

「レクイエムは、ナインの工房にあるからだ」

「ん? それ当たり前なんじゃね? 寧ろナインが居る確率の方が高くねぇか?」

 ナインの工房というのが文字通りの意味を持つのであれば、ナインの所有する場所。ナインの居城ということになる。なのに何故そこに彼女が居ないと言えるのか、ラグナには分からなかった。けれど、その疑問はすぐに解決することとなる。

 ナインの工房は、第七機関の真下にある。そう告白されたからだ。

「正確に言えば、第七機関の施設は『大魔道士・ナイン』の工房の真上に建造した。この私がな」

 親指で自身を指差し、ココノエが告げる。そして緩やかに再び首を振ると俯いた。二本の尾が淑やかに揺らめく。

「いや、建造という言葉も適切ではないな。『封印』だ。十一番目の事象兵器を誰にも使わせないために、私は母の工房を『封印』した」

 もっとも、彼女自身、工房への入り口を見つけただけで中に足を踏み入れることはなかったらしいが。否、入れなかったという。

 語り、彼女は顔を上げると部屋の面々を改めて見る。

「だが、工房の入り口の監視は完璧だ。私の目を盗んでの侵入は不可能な『はず』だ……」

 ココノエにしては珍しく曖昧で弱気な発言をして言う。彼女らしさの欠如に、それを聞いていたレイチェルも思い、そして不安を瞳に宿した。彼女の思うところをココノエも理解したのだろう、少しだけ眉尻を下げる。

「相手はあの『ナイン』だ。しかも何らかの方法でレクイエムを起動させた。断言などおいそれとできるものではない」

 言われてみれば確かにそうだと、皆が納得の色を見せる。ラグナもその一人であり、状況を理解したところで彼はまた問う。第七機関はどこにあるのか、と。言うべきか悩んだのか、それとも別の理由があったのか、ココノエは黙り込んだ。沈黙が部屋に広がる。けれど、結局は言わねばならないことだと頷いて、その静けさをココノエが裂いた。とても、小さな声で。

「…………日本だ」

 日本。かつて、黒き獣が生まれた場所。黒き獣により最初に滅ぼされた場所であり、各国の首脳によって核兵器を投下され、かつての面影を失くしてしまった場所。

「おいおいおいおい、まさか……!」

 何か、思い当たるところがあったのだろう。顔を強張らせ声をあげるラグナに、やがてセリカも気付いたらしい。あっと声を漏らす。

「もしかして、私のお父さんの……工房?」

 セリカ……セリカ=A=マーキュリーの父であるシュウイチロウ=アヤツキの工房。ココノエが僅かに顎を引いて答えた。

 この世界で、初めて黒き獣が出現した場所。そこに第七機関があると。

 セリカがその言葉を聞いて黙り込む。彼女の父がしてしまった事を、黒き獣を生んでしまったということを思い出して。胸に置いた手をぎゅっと握り締め、俯く。そんな少女を見兼ねてか、黙っていたカグラがここにきて再び口を開いた。

「とにかくだ。そのレクイエムとやらを起動不能にすればナインの干渉は止められるんだよな?」

 肩にかかった横髪を鬱陶しげに払って、ココノエが首肯する。それならば、とカグラもまた頷きで返すと、カグラは語った。まだマスターユニットの問題は残っているけれどナインの事象干渉をどうにかしないことには先に進めない。ならば、成功すれば少なくとも一歩前進できると。

「ち、ちょっと待って。でもその、お姉ちゃんの工房って日本にあるんだよね? ここから日本って、ものすごく遠いけど……」

 ヤビコは、昔の分け方で言えばヨーロッパの辺りで、日本とは正反対だ。そこから日本までは巨大な大陸を横断し、更に海を渡って行かなければならない。セリカは一度、日本まで行った事がある。真っ当な手段で行けば移動時間だって馬鹿にならないことは知っていた。

 だから時間のない今、どうやってそこまで辿り着くのかと心配した様子のセリカに、それについては心配には及ばないとココノエが告げる。

「既に手は打ってある。……テイガー、そっちの状況はどうだ」

 そう言って彼女は不意に白衣の胸ポケットから通信機を取り出すと、耳に当て話しかける。通信先は彼女が名前を呼んだ通り、第七機関の赤鬼テイガーだ。

「こちらテイガー。転移装置の設置は既に完了した。座標の固定もあと数時間で終わる見込みだ」

 聞き慣れた低い声が応答し、報告する。それを受けて満足げに彼女は頷いた。

「ご苦労だ。明朝、そちらへ『飛ぶ』ぞ。それまでに準備を終わらせておけ」

 そうして下される指示に、テイガーは短く事務的に『了解』とだけ告げ、そしてココノエが通信を切断する。それから視線を再び皆へ向け、彼女は再び話し出す。

「と、いうわけだ。あとは閉ざされた工房の入り口をこじ開け、ブレイブルーを使い、レクイエムを起動不能にするだけだ」

 そう簡単に言ってはみるが、当然、相手もただで壊させるとは思えない。ならばそれなりの心構えで行く必要がある。カグラが続けるようにしてそう言うと同時。緊張する空気の中、ここに居る誰のものとも違う声が、静かに響いた。

「――貴様らだけでは、不可能だ」

 開く扉。現れるのは、細身の青年。煌めく金の頭髪と、氷の刃のようなグリーンの眼光。部屋に一歩踏み入るのは、ジン=キサラギ、その人であった。

「キサラギ大尉……!?」

「二度と僕を『大尉』と呼ぶな……屑め」

 ノエルがジンの階級を『大尉』と呼んだ瞬間、いつも鋭い目つきが更に不快に細められる。ノエルを睨み付け、彼は静かに罵った。

 ノエルの記憶は未だ歪められたままだ。ジン=キサラギではなくカグラ=ムツキがイカルガの英雄となった記憶を持つ彼女に、ジンがテンジョウを打ち倒したことにより二階級特進した記憶などなかった。

 けれど、彼もまた彼女の事情など知るはずもなく、何より自身の妹に酷似した彼女に普段からとてつもない苛立ちを抱えていた。そこで更に神経を逆撫でされるような台詞を吐かれれば、強くも当たってしまう。

 ジンのあまりの態度に、ノエルは驚きとも悲しみとも取れる表情を浮かべて何も言えなくなってしまった。

「よりにもよってあのハザマと同じ階級だとは……吐き気がする」

「お前、全国の大尉とヒビキに謝れ」

 眉を顰め吐き捨てるジンへ、カグラが呆れたように言う。ハザマと同じ階級であることに吐き気がすると言うが、それだとカグラの秘書であるヒビキや、他の大尉が可哀想ではないかと。けれどそれにジンは何を返すでもなく、ただ鼻を鳴らして子供のようにそっぽを向くのみだ。

 溜息を吐くカグラ、それを他所にしてふとラグナが口を開いた。

「なんで師匠が……しかも、ジンと一緒に」

 その声により、皆の視線が一斉にラグナへ集まり、そしてラグナの言葉を確かめるようにジンの傍へと視線を移す。ココノエが、露骨に顔を強張らせた。

「……何故貴様がここに居る?」

 貴様、と呼ばれたのはジンの傍らに立つ人物だ。体型は小柄というよりも『小さい』と言った方が適切で、被ったフードは三角の耳らしきものがピンと立ち、丈の長い服の裾から覗く脚の白色は体毛によるもので、明らかに人間の形はしていない。猫の獣人、獣兵衛だった。

 彼は、ココノエが自身に気付いた途端に眉を顰めるのを見て、大きな目を細め苦く笑った。

「そう邪険にするな。今は少しでも助っ人が必要だろう?」

「いや、必要ない」

 諭すような獣兵衛の言葉にも頑なに首を振るココノエ。あからさまに獣兵衛を嫌っているのが端から見ても分かるその態度に、しかし慣れたことのように獣兵衛は指摘することもなく。

「相変わらずだな。その頑固さは母親に似たのか。だが話を聞いてからでも遅くないと思うぞ」

 どこか寂しげに、けれどまるで父が娘を見るような愛しげな眼差しで見つめながら言うけれど、それでも彼女は一切聞く耳を持たないという様子で顔を逸らした。

「そんな言い方しないで、ココノエさん。お父さんのお話なんだからちゃんと聞いてあげようよ」

 このままじゃ埒が明かないと思ったのか、ココノエに話しかけるのはセリカだ。ココノエが獣兵衛を嫌う理由は知らないけれど、それでも娘が父を嫌うなんて悲しいし、彼がここに来た理由だって知りたかったから。

 そう、獣兵衛はココノエの父親だった。もっとも、彼女はそれを認めたがらないようだったが。

「セリカ、お前なぁ……」

 いくら自身が目的のために魂を複製しただけの存在だったとしても、彼女の優しくも真剣な声に、ココノエも少しばかり反論を渋ってしまう。

「分かった。こんなことで無駄な時間を食っている暇はない。今はナインの工房に入る方法だ」

 結局、深く溜息を吐き、渋々ではあるがココノエが話を聞く姿勢を見せた。

 鋭く睨み付けるようにして、彼女はやはり声に怒りを滲ませながらもその感情に声が震えないようにしながら獣兵衛を見据え、静かに問いかける。

「何故、私達だけで工房に入るのが不可能だと言い切れる?」

「俺とナインが『封印結界』を構築したからだ。仮にハクメンでも、そう簡単には侵入できない」

 意外そうに、ココノエが目を見開く。まさか、彼女……ナインが、いくら愛する旦那とはいえその研究を知らせ、協力し、結界を構築したなどと信じられなかったからだ。けれどここで嘘を言うとは到底思えず、彼女は話の続きを促す。

「工房への入り口は、俺の『六三四』を使って時空間を『ズラして』ある。『鍵』を使わなければ、絶対に侵入はできない。それだけは断言できるぞ」

 けれどそれも長くはもたず、彼女は舌を打って怒鳴りつけた。

 何が『断言できる』だ、と。鍵についてこの発言で語らなかったのが、彼女には勿体ぶっているように聞こえたのだろう。彼女の剣幕に苦笑して、セリカが宥めるも、二本の尾を膨らませた彼女は呼吸を荒くしたままだ。

「必要なものは三つある。『強大な魔力』と、そして『ナインの血』……」

「マジかよ。んなもん今からじゃ手に入れようがねぇぞ。手詰まりじゃねぇか」

 獣兵衛が三つめを言い切るのを遮って、ラグナが口を挟む。強大な魔力を持つ仲間などいないし、敵であるナインの血など手に入れることだってできるはずもない。

 けれど、ココノエはそれに驚くことも、ましてや危機感を抱くことすらもしない。

「やはりか……」

 呟く女に、獣兵衛が代わりに隻眼を丸く開いた。やはり、という台詞が出たということは、彼女は知っていたのかと。問えば、ココノエはやはり厳しい声音と共に頷く。

「当然だ。それなりの調査はさせてもらった。あの工房を見つけてから封印するまでの間、私がただ手をこまねいて見ていただけとでも思ったか?」

 ある程度の調査はしてそれくらいは知っていたという風に言って、彼女は顎に手を添える。僅かに顎を引いて俯くような姿勢になると、彼女は静かな声で再び口を開く。

「だが、扉の鍵となる要素が判明しても、当時の私には開ける術がなかった」

 彼女の身体には獣人の血が混ざっている。どれだけ遺伝子情報を弄っても『ナイン』の血にはなりえない。語る言葉の一部に、ラグナが反応し首を傾げた。

 当時の、と彼女は語ったけれど、それは今も同じで、ナインの血にはなり得ないのではと。

「……セリカか」

 そう漏らしたのは、カグラだ。アメジストの瞳でセリカを一瞥する彼に、セリカが間抜けた声を漏らす。突然自身の名が挙がったのが意外だったのだろう。自身のことかと確かめるように自身を人差し指で指差し、尋ねるセリカ。

「そうだ。お前の身体を構成する要素は、流れる血も含めて本物のセリカ=A=マーキュリーと何一つ変わらないように作られている」

 つまりナインと姉妹であり、同じ父親と母親の遺伝子を引き継いでいるセリカこそ、血液に含まれる情報が最もナインと酷似する人物であると、ポケットから棒つきのキャンディを取り出し咥えながらココノエは語る。

 とはいえ、血液内の何を元に封印が解除されるのかによって結果は大きく異なるだろうけれど、と付け足して。

「それでだ。鍵に含まれる要素は判ったが、三つめは何だ。大方、先の二つを組み合わせて鍵とする『式』といったところだろうが……」

 そしてココノエは獣兵衛を再び見下ろし、問う。

 残念なことに、それだけは……鍵を作るための式だけは、彼女があらゆるデータを参照しても答えを導き出すことができなかったのだと。

「いい加減、教えてもらうぞ。工房の鍵を構成する最後のひとつは……『式』は何だ?」

 ココノエの問いに、獣兵衛は俯いて黙り込む。それが焦らされているように感じて、チリチリとココノエの苛立ちが燃え上がり始める。けれどそれでも彼女はその感情を抑え、獣兵衛を睨みつけながら答えを待った。

「……錬金術だ」

 錬金術とは、簡単に言えば魂などをより完全な存在に錬成するための術だ。

 一応は『科学技術』となっているし、そこら中で使われる『術式』という技術の基盤にもなっているけれど、その技術自体を扱える者は殆どおらず、失われて久しい過去の遺物と呼べるものだった。

「『強力な魔力』と『ナインの血』。それらを融合させて鍵を作り、ずれた空間を繋ぎ合わせる。それには、魔法ではなく錬金術の知識と技が必要だ」

 語る獣兵衛、カグラが聞き慣れない単語故に、簡単に「できるか」などとココノエに問えば、彼女は首を振る。彼女は確かに魔法は多少なりとも扱えるし、科学の方であれば専門分野だったけれど、錬金術は普通の科学とはまた違う技術だ。

「待て、錬金術だと?」

 眉根を寄せ必死に何か策はないかと考えるココノエであったが、不意にそう口から漏らす。ずり落ちそうになる眼鏡を持ち上げ、彼女は獣兵衛の隣に未だ佇む人物へと視線を移した。そして、ひどく顔を顰めた後、呟く。

「……そのための、ジン=キサラギか」

 訳が分からないといった様子で、カグラとラグナ、そしてセリカは首を傾ける。理解していないのはその三人だけのようだった。一体どういうことか説明しろと問うのはラグナだ。

「ラグナ。それは『彼女』に直接聞いたらどうかしら」

 応えるのはレイチェル。二つに括った髪とたおやかなドレスを緩やかに翻して、ジンキサラギに……正確にはその背後へ視線を向けた。

 レイチェルの口ぶりだと、まるでココノエ以外に聞けと言っているようで、他に誰か居るのかと自然とレイチェルの視線の先を追いかける。けれど、そこには『彼女』と呼ばれるような人影はなく。ラグナが眉根を寄せるのと同時。

「隠れていないで、出て来たらどうかしら。貴女もそのつもりでここに来たのでしょう?」

 ……白金の錬金術師(プラチナ=ザ=トリニティ)。

 レイチェルが呆れに溜息を吐いて、その名を呼んだ瞬間だった。ジンの傍らに、何かが浮かび上がる。それは最初白い靄のようなものだったけれど、だんだんと形をはっきりさせていき、最後には、白いローブを纏った女の形をとった。

 向こう側が透けて見える半透明の女は、すっぽりと被ったフードからプラチナブロンドの柔らかな髪を覗かせていた。

「トリニティさん……!」

 驚きからあがるセリカの声に、トリニティは僅かに俯けていた顔を持ち上げる。フードの下から覗く瞳は聡明さを感じさせながら、どこかに悲しみを湛えたグリーンだ。六英雄が二人も集まった事実に、何よりその二人が自身らに協力すると言い出したことに、カグラは驚きを隠せない。

「レイチェルさんの言う通り……私は皆さんの力になりたくて、獣兵衛さんとジンさんにここまで連れて来ていただきました」

 ナインを……親友を止めるため。語るトリニティへココノエは「やはりか」と漏らすと、尋ねる。ユキアネサに憑いていた彼女に、実体はない。その状態で何ができるというのかと。

「ご心配には及びません。確かに私には実体がありませんが、錬金術に関する知識ならあります」

 寂しげに微笑んで、透けた自身の身体を見下ろし告げる。けれど言い終えてから、彼女はココノエを見つめると、「ですが」と付け足した。

「錬金術は、術式の基盤の一部です。ココノエさんも、気付いていたのではないですか? 鍵を精錬するには錬金術が必要だと」

 ココノエはそれには答えない。顔を逸らす女に、余計な詮索だったかと苦笑してトリニティもまた黙り込むと、ココノエは鼻を鳴らした。

「……ふん。それでだが……その方法で仮に鍵を開けられたとしよう。しかし、それで本当に扉は開くのか?」

 話を本題に戻し、彼女は人差し指を立てる。ココノエの懸念はそこだった。

 工房の主は『あの』大魔道士ナインだ。彼女が獣兵衛を出し抜いている可能性がある。寧ろ、出し抜いていない保証などどこにあるのかと。

「断言しよう。母様は別に封を掛けている。その時はどうするつもりだ」

 行くのが嫌なわけでも、ましてや問題点を並べ立てたいわけでもない。ただ彼女は常に最悪の事態を想定し、でき得る限りの完璧な状態で赴くことを理想としている。何より、自身の母親のことは彼女自身が理解していたからの言葉だった。

 それを獣兵衛も知っていたからだろう、特にその台詞に対して顔を顰めるようなこともなく口を開いた。

「その時は……俺がこの刀を使おう」

 そう言って鞘ごと抜いて見せたのは、刀。ただの刀ではなく、それもまた事象兵器。

 ナインの工房と外の時空間をズラすことにも使われたそれ、アークエネミー『無刀・六三四』は斬れないものを斬ることができる刀だった。

 それならば、同じ力ずくでも多少はマシだろうと首を傾げる獣兵衛だったが、皮肉るようにココノエは一言だけ返す。その刀を創ったのも母様だと。

 皮肉半分、それすらも見越されている可能性を考えているのが半分。

 ココノエの台詞に少しだけ悲しげな顔を浮かべる獣兵衛。話が逸れぬうちにカグラが口を開く。

「話を整理するぞ。とにかくジンジンが一緒に行けば、扉を開けられる可能性があるんだな?」

 ジンジンというのは、言わずもがなジン=キサラギのあだ名である。もっとも、ジン本人は気に入っていないし、そのあだ名で呼ぶことを誰にも許可はしていないのだが。呼ばれる度に舌を打つほどであったけれど、今回ばかりは反応することも止めて、ジンは首肯する。

「それに、戦力は少しでも多い方が良いだろう? 俺とジンならば、今のラグナよりはよほど戦えるはずだぞ」

 彼が頷くのと同時、獣兵衛もまた顎を引き、そう語る。比べられたラグナが顔を顰めた。

「だが、ジン。テメェが協力するなんて、どういう風の吹き回しだ?」

 彼が人と協力することなど滅多にない。彼は何かと一人で背負い込み、一人で解決しようとすることばかりで、その頑固さに度々周りも手を焼いていたほどだ。それが、どういうわけか獣兵衛と一緒にラグナ達へ協力すると言い出したのだから、ラグナは相手が実の弟でありながらも警戒せざるを得なかった。

「……別に、大した理由はない」

 けれど、問われた側のジンは素っ気なく返し顔を逸らす。そのまま、小さく「ただ」と付け足すのが聞こえ、ラグナが首を傾けると、

「ただ……イザナミも、ナインも邪魔なんだよ。言ったろ? 兄さんを殺すのは……この僕だ」

 呆れのような、安心のような。それらがない混ぜになった感情がラグナの胸の内を占める。やはり彼は彼だった。兄である自身を、執拗に殺そうとする弟。それを馬鹿だと思うことも、今更怖いと思うこともないけれど。

「思いがけず大所帯になっちまったが、決まりだな。明朝、このメンバーで出発してもらう」

 持ち上げた腕を組んで、カグラが話を纏めるようにして告げる。出発して『もらう』というのは、カグラはそこに同行しないからだ。

 彼がヤビコを離れれば現帝であるホムラ達と連絡が取れなくなってしまう。そちらはそちらで大変らしく、また、各都市の維持に影響が出るのは更なる面倒事を引き起こすことになる。それだけは避けたい事態だった。

「そういうわけだ。すまないが、後はお前らに託すぞ」

 

 

 

   1

 

 ヤビコ支部で借りた一室にて、彼女はベッドに気怠げに腰を下ろすと、深く溜息を吐き天井を仰いだ。術式陣から齎される白い光に片手を透かしながら、彼女は呟く。

「また変なことになってきちゃったなぁ……。一体どうなってるんだろう」

 イカルガの英雄であるはずのカグラ=ムツキは第七機関のココノエ博士と手を組んでいて、カグツチに居たはずの死神までヤビコの支部に来ていて、しかもカグラ達と死神は元々顔見知りだったうえに、死神とジン=キサラギは兄弟で、大尉だと思っていたそのジンが本当はイカルガの英雄として少佐になっていて。

 声に出すことで整理しようとしてみるけれど逆に頭の中がぐちゃぐちゃになってきた気がする。

 皆の話が確かなのであれば自身も記憶を失くしているはずだが……だったら、自身も死神を知っていたのだろうか。考えれば、思い出す名前。『ラグナ』。それが彼の名前だったはずだ。

 この世界で彼女がラグナと初めて会ったのは、カグツチの下水道。そこで守られて、次に会ったのはやはりカグツチの牢だ。ハザマと名乗る諜報部の男を案内する形で。

「そういえば、ハザマ大尉と一緒にいたあの子……ユリシアちゃん、だったっけ」

 別に気にする必要もないはずだけれど、何故だかあの少女に懐かしさを覚える彼女がいた。

 どうしているのだろう、確かハザマは敵だと伝えられたけれど、あの子は何か危険な目に合っていないだろうか。

 考えていれば、それを遮るようにノック音が鳴って、彼女は思わず肩を跳ねさせる。

「俺だ。……今、ちょっといいか?」

 扉の方に顔を向けると同時、部屋の向こう側から聞こえる声。それはラグナのもので、彼女はますます驚いたように目を見開いた。

「悪ぃが、ちょっとだけ付き合ってくれねぇか。時間はそんなにかからないと思うから、頼むわ」

 無言を肯定だと受け取ったのか、告げられる言葉。何をするつもりなのかよく分からなかったけれど、彼が死神だということを忘れてしまうほどに彼の声に悪意がないことを感じ取って、彼女は恐る恐るではあったけれど返事をして、立ち上がる。

 扉の方へ歩み寄り、扉を開けると、丁度すぐ隣に彼が居て小さく悲鳴をあげるノエル。

「よぉ……こん時間に、悪ぃな。」

「い、いえ。でも、突然どうしたんですか?」

 それでも平静を装って、彼女は謝る彼に首を振る。けれど、眠れなくてお話をしに来たというにはあまりにも真剣な表情をしている彼に少しだけ不安になって彼女は問いかけた。

「説明してる時間もあまりないんだ。悪いが何も聞かずに着いて来てくれ」

 けれどその問いに答えることもなく言うだけ言ってラグナは進みだした。引き留めることもできず、ノエルもまたラグナを追いかけるように足を動かした。

 けれど、向かっている場所がどこなのか、やがてノエルは気付き不安にラグナの頭を見上げる。

「あの……この辺、多分立ち入り禁止区画ですよ。ムツキ大佐にバレたら……」

 これは、この道は。地下……窯のある機密区域への道ではないか。辺りを首を回して見ながら言う彼女に、ラグナは応えない。聞いているのか、と思わず問おうとするノエルに、不意にラグナが首だけを振り返らせた。

「なあ、ノエル。……お前の願望は何だ?」

 何を言うのかと思えば、問い。自身の言葉には答えないくせに、とノエルは少しムッとしながらも「突然何ですか」と問えば、彼は立ち止まる。ぶつかりそうになる一歩手前で立ち止まるノエルに、彼は更に問いかけた。

「ないのかよ、願望」

 ノエルだって、願望がないわけではない。人並みに願望は持っているつもりだった。

 けれど、聞いた話が本当であれば自身の願望によって世界が創られているらしいだとか、それを知ってどうするのだろうだとか、色々考えてしまって、なかなか答えるに至らない。

 それでも聞かれれば自身の願望は何だろうと改めて考えてしまうわけで。彼女は顔を俯けると、

「『普通』の、幸せな暮らし……。皆が笑っていられる世界。それが多分、私の願望だと思います」

 確かにそのはずだけれど、少しだけ曖昧に答えるノエル。が、せっかく答えたというのに、返るのは「そうか」という一言だけで、ノエルは顔を上げた。聞いておいて、それだけなのかと。

 ノエルが問いに口を開く。

「叶うといいな、その願望」

 けれどノエルが言葉にするより早くラグナがどこか憂いを帯びた声で言うものだから、すっかり問う気力を失ってしまって、目を丸くしながら頷くことしかできなかった。

「着いたぞ、ここだ」

 そう言って、扉を押し開けて覗く部屋の中を指すラグナに、ノエルは俯きかけていた顔を持ち上げ、その部屋の中を見て――声を漏らした。

「……え」

 そこは、窯だった。ドーム状の空間の中央は柵で丸く囲われ、白い翼のような扉が重なるようにして閉じた穴が、柵の内側にあった。設備自体は前に来たカグツチのそれとは違うけれど、魔素の濃さも、何かに吸い込まれそうなこの感覚も同じ。正しく、窯だ。

 各階層都市の地下、中心部に必ずあるとされる窯。来た道が正しければ、ここはヤビコの最下層のはずで……。

「悪いな、遅くなった」

「へ……?」

 何故こんなところに連れて来られたのだろうだとか、そんな考えを巡らせながら、進むラグナから離れないよう着いて行くと。不意にラグナが声を発して、彼女は首を傾ける。ここには自身とラグナ以外に人の気配がしないのに、何故かラグナの声は自身に向けられているものではなく感じて、仮に自分に向けられていたとしても「遅くなった」という言葉の意味が理解できなくて。

「ありがとうございます、ラグナさん。その子を連れて来てくれたんですね」

 その声は、とても耳に馴染む……というよりは、ひどく聞き慣れた声だった。他人のものであればいくら親しい人物でもここまではいかない。中高音のその声は、

「この声……まさか、私……?」

 自身の声を聞き間違えるはずもない。自身はあんな言葉を発していないけれど、自身の声以外の何物でもないそれを聞いて、ノエルは不安に辺りを見回した。そして、見つける。何故気付かなかったのか、すぐ目の前の窯の近くに『彼女』は浮かんでいた。

 顔の造形から髪の色、姿形が何一つ変わらない。変わるとしたら、瞳がグリーンではなく深い青をしているのと、胸元までのケープと露出の多い服装に身を包んでいること、そして自身と違いその姿は向こう側が透けて見えることくらいか。

 あまりに酷似したその姿に、一瞬彼女は自身まで透けていないかと自身の身体を一瞬だけ見下ろして確かめてしまうほどだ。

「これでノエルとお前が一つになれば、何か思い出せるのか?」

「はい、そうだと思います」

 ラグナの問いに、ノエルと酷似したその少女――ミューは頷いた。けれど、その会話の意味するところをノエルは理解できず、眉尻を下げながら首を傾けていると。ラグナに手招きをされて、彼女は恐る恐る近寄る。

「……貴女は、誰なの……?」

 近寄ってすぐ、口にしたのはそれだ。自然と声が震えてしまうのをノエルは感じながらも問えば、目の前の少女は少しだけ寂しげにふっと笑うと「やっぱり」と呟いて、それからノエルをしっかりと見つめた。

「……私は貴女です。そう、貴女は私」

 彼女の言葉を聞きながら、ノエルが瞳を揺らす。困惑していた。けれど、少女がゆっくりと言葉を紡ぐ度に、何か自身が溶けてしまうような不思議な感覚を、知らないはずなのに知っているような何かが入ってくるような感覚を、そして得体の知れない恐怖を感じ始めて。

「わ、私は……あ、あぁあ……」

「怖がらないで……私達は元々ひとつの存在。だから――……」

 ミューがゆっくりと近付き、腕を広げる。まるで抱擁するかのように。

 けれど。ノエルは、ひどく顔を歪め、身体を震わせる。まるで、ミューの言葉など聞こえていないかのように。否、聞こえているけれど、それどころではなかった。

「い……いや、嫌ぁぁぁあああっ!!」

 叫ぶ。悲痛な声が反響し、耳を劈く。突然悲鳴をあげる少女に、ノエルを除いた二人が肩先を跳ねさせた。明らかな拒絶の声に、首を大きく振って肩を抱く少女の姿に、ミュー達が逆に戸惑った。一度は受け入れたはずの自身を何故、彼女は拒絶するのだろう。

「な、なんでお前がお前を拒絶するんだよ」

「私にも分かりません……でも今、一瞬だけこの子の中に何かが見えました」

 どうして自身が切り離されたのか、彼女にもその記憶はないし、目の前で震えるノエルだって教えてくれるわけもない。けれど必死にノエルと一緒になろうと観測を続け、ミューはノエルの中に何かを見つける。

 それは、何もない空間と、大きな扉――否『門』であった。何かの紋章が刻まれた巨大な門。一瞬しか見えなかったから、それが何かまでは理解するに至らなかったけれど。でも、彼女がこの門にひどく恐怖を抱いていることだけは理解できた。

 それと同時、小さな声をあげてノエルが倒れ込む。目を丸くして、慌ててラグナがその体を支える。息はあるけれど、あまりのショックだったのか、彼女は気絶してしまっていた。

 暫らくは揺さぶってみるものの、一向に起きる気配の彼女に、ラグナが溜息を吐く。

「……仕方ねぇ。俺はこいつを部屋に運んでくる。記憶を戻すのはまた今度だ」

 ミューを一度見遣って言うラグナに彼女は静かに頷く。それを受けてラグナはノエルをそっと抱えて、歩き出した。その背を見送りながら、ミューは沈黙する。

 

 ――朝。ココノエの声が、カグラの執務室に響く。彼女が紡ぐのはこれから転移を始めるための話で、そこに立つ皆が緊張に表情を引き締めていた。

「全員揃ったな。では、転移を開始するぞ」

「ノエルちゃん、具合でも悪いの? 朝から、ずっと暗い顔してるよ」

 けれど、一人だけ落ち込んだ様子の人物が居た。ノエルだ。

 ラグナに運ばれてからあの後、日付が変わった直後に目が覚めた彼女は、昨日ラグナに着いて行ってからのことを思い出して、なかなか寝付けなかった。

 あの自身とそっくりな少女は何だったのだろう。何故、あんなに恐怖を覚えたのだろう。あの怖さは今でも鮮明に思い出せて、ついつい表情が暗くなってしまう。セリカにそれを心配されればハッとして笑みを作るけれど、それすらもぎこちなく。

 でも昨日のことを相談できるはずもなくて、何でもないと誤魔化した。

 そう言われてしまえばセリカは何も言えなくなってしまった。ココノエはノエルの様子がおかしいことに気付いていたけれど、さして気にすることもなく話を進める。

「向こうに飛んだら、くれぐれも注意しろ。ナインは勿論、イザナミの襲撃も考えられる。その時は……そこが決戦の場だ」

 そんなカグラの台詞に「心配するな」と答えるのは獣兵衛だ。そうなったら自身が相手をすると胸に手を置き言う彼に、ラグナが心配そうな視線を向ける。

 獣兵衛の実力が心配というわけでもない。彼の強さはラグナだって身をもって体験しているし、そこについては心配はない。けれどナインだって同じくらい強いし、そして彼女は獣兵衛の妻だ。万が一、彼が妻を傷つけるのを恐れないとも限らない。

「馬鹿者、心配するな。あいつがこうなったのは俺の責任でもある」

 ラグナの視線に気付いた獣兵衛が言いながら苦笑する。笑っていながら、しかしその瞳には決意の色が浮かんでいた。いらぬ心配だったかとラグナも頷き、そしてココノエを見た。

「テイガー、準備はいいか」

「転移座標に問題はない。いつでもいいぞ」

 ラグナの視線を受けて彼女は頷き、通信機越しにテイガーへ話しかける。返る声に首肯し、そして彼女は転移装置のスイッチを入れた。

「よし、では行くぞ……」

 

 

 

 最初に声をあげたのは、セリカだった。転移先で宙に放り出された彼女は、重力に逆らわず真っ逆さまに床へと叩きつけられ、小さく痛みを訴えた。

 次に現れるのはレイチェル。たっぷりとしたスカートに空気を孕ませゆっくり降下し着地する。

「魔法以外で転移するのは初めてだったけれど、随分と感覚の違うものなのね。それに、揺れが酷いわ。もう少し上品にできないのかしら」

 着地した瞬間、その麗しい表情を顰めて彼女は呟く。その横で、先に転移してきたらしいココノエが答えた。

「贅沢を言うな。認識のズレがこの程度で済んだだけでもありがたく思うんだな」

 全員揃って到着できただけで上出来だ。ふん、と鼻を鳴らして言う彼女、その少し後ろでセリカと同じく着地に失敗していたらしいラグナが身を起こす。

「それにしても、こいつが例の窯か……でけぇな。今まで見てきた中でも群を抜いたでかさだ」

 ナインの工房があるとされるのは、黒き獣が初めて出現した場所だ。それが目の前にある巨大な窯なのだろう。その巨大さと比例して、境界から流れ出る力も強くなる。ナインが自身の工房として選んだのも頷ける。

 けれど、その工房らしきものが見つからないことに気付いてラグナは首を傾げた。

「そうだ。工房はどこにあるんだよ。入り口らしき場所は見当たらねぇが……」

 転移してきたこの空間にある扉は、出入り口らしきものと、制御室への扉くらいだ。他にもいくつか扉があったかもしれないが、どれも工房の入り口というにはあまりにも雰囲気が違いすぎる。ラグナが問えば、ココノエは静かな声で答えた。

「……あの中だ」

 そうしてココノエが指差すのは、巨大な穴――そう、窯だ。その中というのは、つまり。できればそうであってほしくないと考えたけれど、彼女が冗談を言っているようにも、また別のところを指しているようにも見えず、ラグナは理解する。

「なるほど、考えたな。確かに境界内部であれば外からの干渉はまず不可能だ」

 口を開くのはジンだ。彼の言った通り、窯の中……つまり、境界の内部に入ってしまえば干渉は不可能になる。自分にとって最も都合の良い場所に部屋を作る、そんなところはやはり親子だとラグナは思った。

「……それより急ごうぜ。どうもさっきから、右腕が疼きやがる」

「いいだろう。テイガー、中に入るぞ。窯を起動しろ」

 ラグナの右腕となっている蒼の魔道書は、それそのものが窯だ。そこから直接『蒼』に接続し、その力を引き出すというその魔道書は、他の窯に共鳴する。そのせいか、ラグナの腕はさっきから疼いて仕方がない。

 そんな彼の提案にココノエも首肯し、そして視線をここからでも窺える制御室の方へ向けると通信機へ話しかけた。すぐに応答する声、起動される窯。

 翼のような扉がどんどんと開いていき、隙間から漏れ出る橙色の光がラグナ達を照らした。

 それは、素体が生まれる『繭』が開くときとそっくりで、何度見てもラグナには嫌な光景だとしか思えなかった。

 理由は違えど、それはノエルも同じらしく。顔を顰め、肩を抱く少女にセリカが気付いて心配の声をかける。

「……何かを思い出しそうで、怖いけど……大丈夫」

「無理もないわね。窯は貴女にとって最も因縁深い場所だもの」

 そして窯が開き切ると同時、ラグナが深い息を吐いて、他の面々を見た。

「じゃあ、行って来い」

 言うのは、獣兵衛だ。その手で窯を指し告げる彼の言葉に、ラグナが首を傾げた。まるで、獣兵衛は行かないというような物言いではないか、と。

「先に行っていろ。俺は万一に備えて、入り口を見張っておく」

 確かに万が一、入り口である窯が破壊されないということもない。獣兵衛の物言いは最もだったけれど、ラグナは食い下がった。万が一、扉が開かなかったときは獣兵衛がその刀でこじ開ける予定だったし、それ以上に、ここに来て彼が来ないというのは何故か得体の知れない不安があった。けれど獣兵衛は苦笑し、心配するな、と言うのみだ。

「……好きにさせてやれ。どの道、見張りは必要だからな。ただし、後で『必ず』合流しろ」

「いいから行け。ここは俺に任せろ」

 ココノエの台詞にもどこか素っ気なく獣兵衛は応えて、まるで追い払うように手を振った。まるでどこか焦っているようにも見えたけれど、ココノエ達は気付かなかったように頷く。

 そして彼らは何言か打ち合わせに言葉を交わすと、次々と窯へ飛び込んでいった。

最後にラグナが飛び込んで、その姿が完全に見えなくなって、暫し。

 沈黙を守っていた獣兵衛が不意に、後ろへ視線を遣った。

「さて……こっちはこっちで、始めるとするか。決着を付けるぞ――……ナイン」

 そこには腕を組み笑う、愛しい魔女が居た。

 頷き、組んでいた腕をするりと解くと、肩にかかった桃色の髪を払って、それから三角帽子のツバを持ち被り直して。

「ええ、始めましょう……あなた」

 

 

 

   2

 

「なに、これ……血の臭い?」

 事前に知らされた通りに息を止める。目をぎゅっと瞑り、その瞬間、急激な空間膨張が起きる。それから衝撃が落ち着いたと思った瞬間、鼻をつくのは鉄臭さだった。

 ナインの工房自体には、鍵など必要なかったとでもいうようにあっさりと侵入ができた。そして現在は、ここに来た目的――即ち、十一番目のアークエネミー『骸葬・レクイエム』の隠し場所に至る鍵をココノエが見つけ、開いた直後だった。

「んだよ……これ……。おい、ココノエ、まさかこれは……!!」

「そう。これが『骸葬・レクイエム』……十一番目のアークエネミーだ」

 それは、黒と赤だけで彩られた、巨大な何かだった。

 見た目だけなら、『巨人・タケミカヅチ』にも似ているように見えるが、纏う機械のところどころが、あのマスターユニットを彷彿とさせる姿をしていた。

 全身が逆さになっているのは、まるでもうすぐ生まれようとしている胎児のようだ。巨大な頭についた、これまた大きな双眸は伏せられていて、その周囲を棺で作られた円が取り囲む。見上げても先まで見えない大きさ。血肉の臭いが辺りに広がり、その不気味な姿に、彼らは息を飲む。

「この『場』を認識しているのはコイツか……」

 静かに呟くジン。境界の中で、こんな空間を常に保つなど普通であれば不可能だ。ならば、認識しているのはコレなのだろう。彼が言うのを聞きながら、ひどく冷めた目でレクイエムを見上げ、レイチェルは溜息を吐いた。

「全く……ナインが造り出そうとしていたものをよく表しているわね……これは」

 巨大なレクイエムの不気味さを象徴するのは、何も姿だけではない。

 肺に呼吸を送り、そして吐き出すかのように……それは僅かに脈動していた。まるでそう、生きているかのように。否、生きていた。

「ナインさんは……一体、何を造ろうと……」

「神だ」

 ノエルの声が恐怖に震えながら、問いを紡ぐ。短く答えるのはココノエだ。あっさりと答えたけれど、その表情はいつになく険しく、心なしか尾もいつもより速く動いていた。

「レクイエムは、マスターユニットの模倣品だ。即ち母は、自らの手で神を創造しようとした」

 しかもナインが造ったこの『骸葬・レクイエム』はマスターユニットとほぼ同等の機能を有していて、つまりこれは彼女によって創り出された、限りなく神に近い『神の模倣品』ということになる。ココノエは目を伏せそう語った。

「ち、ちょっと待て! それって、とんでもねぇことじゃねぇのか!?」

 落ち着き払った声で言う彼女の台詞に待ったをかけ、ラグナは慌てて彼女の背に問う。世界を好きに観測し、干渉できる力を、『神』を一人の人間が創造するだなんて。それにココノエとレイチェルが揃って首肯した。

「勿論とんでもないことよ。驕(おご)りも甚だしいわ。だけど、それができてしまうのが彼女なのよ」

 それが大魔道士ナインという人間だった。言われても少しだけ信じられないといった様子のラグナから顔を逸らし、レイチェルは再びレクイエムを見上げる。

 それも束の間だった。突如として『何か』が勢いよく床に叩き付けられるような音が響く。それに驚いてノエルとセリカが小さく悲鳴をあげた。埃が舞う。何事だとココノエが振り向いた先、床に蹲っていたのは見慣れた姿――獣兵衛だった。他の面々も同様に振り向き、見下ろし、目を瞠る。横たわる彼は先と違い傷だらけで、痛みに呻いていた。

 その様子にただならぬ事態であることに気付き、誰がこんなことを、と皆が一斉に黙り込む。辺りを見回す。静寂の中に、皆の息の音だけが響く。

 ――コツリ。軽い音が静寂にノイズを差し込み、彼らは一斉に振り向いて一点を見た。

「あら……随分と沢山のお客様がいらしてるみたいね」

 長髪を背中に流した魔女――大魔道士ナインがそこには立っていて、彼らは各々その名を呼んだ。皆からの声を受けながら彼女は涼しい笑みを浮かべる。

「ようこそ、我が工房へ……でも留守中に勝手に上がり込むのは関心しないわね」

 笑みこそ浮かべていたけれど、ココノエと同じ金の瞳は一切そういった感情が窺えない。が、関心しない――そう言ったナインに、ココノエはふんと鼻を鳴らした。

「よく言う。わざわざ扉を開けて誘い込んだのはそちらだろう」

「ふふ……あら、気付いていたのね。流石は私の娘だわ」

 ココノエがそれに気付くのも当然だった。彼女は転移する前に宣言した。ナインは別に封を掛けていると。けれどそれがどうだ。あっさりと、まるで鍵は最初から開いていたかのように開き、自身達はいとも簡単に侵入できたのだから、不自然に思っても仕方がない。

「ぐ……皆、退け……彼女は俺が止める……っ」

 不意に会話を遮って、獣兵衛が口を開いた。呻き、傷付いた身体を起こそうと奮闘しながら言う彼に皆の視線が集中し、そして誰もがそんな獣兵衛を止めた。そんな傷だらけの身体ではまともに動けないと。必死に起き上がろうとする彼を押さえるセリカとノエル。

「は、放してくれ! 俺が、俺が止めねばならんのだ……彼女だけは……!」

 もがき、逃れようとする獣兵衛だったが、身体の節々が痛み、無駄なあがきとなるだけ。それを、傷付けた本人でありながらどこか悲しげな瞳で見つめてナインはそっと言葉をかけた。

「可哀想ね。その傷を抱えたままでは、いかに気持ちを奮わせようと、かつてのようには闘えないでしょうに……あなたって本当に、いつまで経ってもその無謀さは変わらないのね」

 心配するようでありながら、罵り、そして貶めるような台詞を吐く。そんな彼女に居ても立っても居られなくてセリカは問いかけていた。悲しみと、どうしてという疑問。感情の高ぶりに声がついつい大きくなってしまっていた。

「どうして? どうして、お姉ちゃん! 獣兵衛さんとお姉ちゃん、あんなに仲が良かったのに、なんでこんな事……!」

 どうして。獣兵衛を傷つけるようなことを。世界を壊すようなことを。悲痛な声で問う少女に、ナインはほんの一瞬だけ、誰にも気付かれぬように顔を苦しげに顰めて、それから静かに目を伏せ平静を装った。たおやかな腕を胸の下で組み、唇を動かす。

「決まっているでしょう。『相手』が誰だとか、関係ないのよ……」

 彼女の前に立ち塞がる者、彼女の目的の邪魔をする者。それらは全て、彼女にとっての敵だった。例えそれが『愛する者』であろうと。

 聞いたセリカが、悲しさに顔を歪めて信じられないといった様子で声を漏らす。そこで一歩、前に出るのはラグナだった。

「おい、ナイン。丁度いい、テメェに聞きてぇことがあるんだ」

「何、時間稼ぎのつもり? ……そうね、まぁいいわ。あんたの質問にいちいち答えてやりたいとは思わないけど、聞くだけ聞いてあげる」

 記憶を思い出したラグナには一つ、疑問があった。それだけは聞いておかねばならないと思って、ラグナは口を開く。どこか真剣なラグナの眼差しにナインも少しだけ考えて……興味が湧いたのだろう、首肯しラグナの問いを促した。

 ラグナの問いは、ひどく単純だった。

 十一番目の事象兵器なんて仰々しいものまで作って、彼女は何をしたいのかと。

 それを聞いて、ナインは「そんな事」と、まるでそれがくだらない問いだとばかりに流してしまう。けれど「そんな事」などで済まされるはずがなかった。

 だって、彼女は約百年前に、暗黒大戦で世界を救った。それこそ命がけで。だというのに、今度は何故その世界を滅ぼそうとするのか、ラグナには想像もできなかった。

 そんなラグナの疑問に、彼女は溢れる笑いを抑えながら、首を振り、傾げた。

「ふふ……世界を滅ぼす? 馬鹿な事言わないで頂戴。私がいつそんな事を言ったの?」

 ただ、世界を『終わらせる』だけだと語る彼女。ラグナには、滅ぼすも終わらせるも変わらないように思えて、眉根を寄せ首を傾ける。

「私はね……『世界を滅ぼそう』なんて少しも思っていないわ。今だって命懸けで戦っているのよ。本当に……『命懸け』でね」

 組んでいた腕を解いて、胸に手を当てる。目を伏せ、本当に愛しげに、そして悲しげな表情で彼女はそう言った。世界には、彼女にとってかけがえのない大切なものが『沢山』存在していた。

 唯一残った肉親である妹、親友だとか、そしてお互いに愛を誓い合った人。

「だったら、何故……!」

 何も自分の中から零れ落ちないように、そっと、けれど強く胸を抱きしめて彼女は語った。だったら、何故その世界を終わらせるようなことをするのか。問うノエルに向けられたナインの視線は、無機物を見るかのように冷ややかだ。

「『お人形さん』。貴女はよく分かっているんじゃない? いいえ、貴女だからこそ分かるはずよ」

 強く睨み付けて、彼女はそして叩き付けるように叫んだ。

 彼女が守った世界。彼女が守りたかった世界。そして守りたい世界。だけどその『世界(すべて)』が、全てが欺瞞(ぎまん)と虚構(きょこう)に満ちていることを。ノエルなら、知っているはずだと。

「貴女……見たのね」

「ええ、見たわ。観測(み)て知ったわ。愚かしくてくだらない、この世界の真実を」

 彼女達が必死になって、命を懸けて戦って、守ろうとしていたこの世界が、とんでもなく馬鹿馬鹿しい茶番劇だったと。

 レイチェルの静かな声に頷いて、彼女は答える。悲しげに見つめるレイチェルの胸中は、自身と同じ真実を知る者へ向けるそれだった。

「ねえ、お姉ちゃん。何があったの? ちゃんと教えて!」

 今度はセリカが声の震えを抑えながら問いかけた。

 暗黒大戦が終わって、世界が平和になった頃。黒き獣により壊された街はゆっくりと元通りになろうとしていたこと。戦争による爪痕は酷かったけれど、それでも少しずつ笑顔が増えていったこと。そこまでしか、ここに呼ばれた複製体である彼女は知らなかった。

 だからその後、自身の姉に何があって、姉が何を見て、何を知って、何に苦しんでいたのか、彼女には分からない。だから……ちゃんと教えて欲しかった。

 どんなに姉が変わっても、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめるセリカの茶色い目をナインもまた見つめ返し、愛しげに、そして困ったように眉尻を下げた。

「あぁ……その瞳。セリカ、私の可愛いセリカ……。貴女はどんな魂になっても、やっぱりセリカなのね」

 複製された不完全な魂であろうと、何事にも真剣に向き合う様とその優しさは、やはり変わらない。彼女はやっぱりセリカだ。ナインは愛しい妹の姿を見て、何度も頷いた。

「いいわ。貴女がそんなに知りたいのなら、教えてあげる。滑稽で不愉快な。昔話を聞かせてあげるわ」

 そう言って、彼女は語り出す。世界の『神様』になった『ひとりの少女』のお話を。

 今から百年前、黒き獣と戦った『暗黒大戦』。人類の半分ほどが失われる形ではあったが、なんとかその戦争が終結し、世界が復興を始めだす。

 事の発端である『黒き獣』の突然の出現。その原因はレリウス=クローバーと、ナイン達の父であるシュウイチロウ=アヤツキが行った、素体を使った境界接触実験。そして生まれる黒き獣、始まる暗黒大戦。

 あの戦争で、ナイン達は必死に戦った。ナインがあれだけ諦めず必死に戦えたのは、事の始まりにナインが最も憎む人物……彼女の父が関わっていたこともあるかもしれない。そうして、沢山の犠牲を払って、本当に大勢の人間が死んだ。

 あの理不尽な第殺戮が『無意味』に行われただなんて、誰も思いたくなかった。だから自然と考え始めた。あの戦いの『意味』を知るために。

 黒き獣とは何なのか。何故あんな化け物が存在しているのか。何故人間にあれほどの敵意を持っているのか。

 圧倒的な破壊力を持つ『黒き獣』と、その出現に呼応するかのように現れた『六人の戦士』。そして、これ以上ないほど『都合良く』彼女らの『時間』に現れた『ブラッドエッジ』という男。

 彼女らは『彼』の活躍により時間を得て、黒き獣を打ち倒した。

「その時、ふと一つの疑問が沸いたのよ。何故私達はこれほどまでに『戦えた』のかって」

「それはお姉ちゃんが……」

 黒き獣と戦えるほどの力。それは、ナインが開発した術式だった。黒き獣と同じ『魔素』を応用した技術を使って、彼女らは勝った。けれど、それが逆に引っかかったのだ。

 ――偶然にしては、出来すぎている。

「いくらこの私が『天才』だと煽てられても断言できるわ。どう考えても、あの期間で術式を完成させることは『不可能』よ」

 彼女が術式を完成させるまでに至った背景に、あの男――ユウキ=テルミという謎に満ちた人物が関わっていた。彼が何故かそんな知識を持っていたからこそ、術式は完成できた。

 何故彼はそんな知識を持っていたのか、ひどく仕組まれているとは感じるが、この際その疑問は置いておこう。問題は、彼女の実力で術式が完成できたかどうかだ。

 ナインは、ココノエに視線を向ける。

「ココノエ。同じ『科学者』としての意見を聞かせてくれる?」

「母様の……『大魔道士ナイン』の才能は、よく知っているつもりだ。それを踏まえた上で意見を言うならば……」

 彼女もまた、ナインが術式を完成させることは『不可能』だと結論していた。

 何故なら、魔素という物質に対して未知の部分が多すぎるからだ。早くて二年、否、三年あれば理論の『基礎構築』までは到達できたかもしれないが、実戦使用にはほど遠い。ならば、一年という短期間で完成させられたというのは――。

「流石は私の娘ね。私も同じ結論に達したわ」

 けれど、その『術式』という技術が、彼女の疑念を解く鍵になった。彼女は調べて、調べて、調べ尽くして、そして辿り着いた。どこにも載っていないような『遥か昔』に、魔素を利用した戦争があったことを。

「――『素体戦争』。その戦いは、そう呼ばれていたらしいわ」

 

 

 

 それは、その名の通り『人類』と『素体』が戦った戦争。

 始まりは『とある』発見だった。その発見で、人類は『境界』とその奥にあった『マスターユニット』と呼ばれる存在を確認した。

 知っての通り『境界』は無尽蔵の魔素が存在する空間で。『魔素』とは古の時代から世界に存在し、世界のありとあらゆるものを構成する『粒子プログラム』だ。

 そしてマスターユニットは、時空間にすら影響を及ぼす『事象干渉』を発生させるほどの、強大な力を持った――いわば『神』と呼ぶべき存在。

 その後、あらゆる角度と視点からマスターユニットを観測し、彼ら人類は気付く。この『神』は『被創造物』であり『コントロール』ができると。つまり『神』は観測された時点で『モノ』となった。

「ったく、『モノ』なんて傲慢だよなぁ。愚かな『人間』らしい思考だ」

「『かみさま』を『もの』にして、それを、じぶんたちで、こんとろーる、するために……」

「そう、タカマガハラシステムが構築されたってわけだよ」

 ナイン達が話しているのと、偶然にも同時刻。戦争について、そのきっかけについて。彼女は遥か昔に見ていたことをとっくに思い出していたけれど、何となく、改めて尋ねていた。もしかしたら、自分に関わりのある話を、自分が慕う人にきちんと説明されたかったのかもしれない。

 融合し表の人格となったはずのハザマは現在おらず、一人歩きしたテルミとユリシアは、探し物ついでに街の一角にある喫茶店でコーヒーを啜りながら会話を進めていた。

「んで、だ。せっかく完成したタカマガハラシステムだが……それは『不完全』だった」

 不完全。その言葉にやはり疑問を抱くことなく、彼女は頷く。

 システムの複製自体は『完璧』にできていた。だから時の流れを『巻き戻す』程度の干渉はできていた。けれど、世界を構築する『可能性』に干渉することはできなかった。時間を巻き戻したとしても、可能性がなければそこから始まる『事象』は『何も』変わらない。

 切れたゼンマイをぐるぐる巻き戻して、同じ事象を、茶番を繰り返すことしかできない、くだらない『玩具(おもちゃ)』。

 このシステムには事象に干渉するほどの『何か』が決定的に足りない。その『何か』を知るため、境界へ……マスターユニットへの『直接』的な接触を、あらゆる形で試みた。その結果『唯一』マスターユニットが反応したのは『人の形』をした物体だったことが判明した。故に、彼らは『それ』を製造した。

「人型の人造物『次元境界接触用素体』を使い、マスターユニットへの接触実験が行われた」

 実験は良好。そして『第一素体』はマスターユニットへの接触に成功し、結果第一素体は『眼』の力、つまり『観測者』としての力を宿した。『眼』とは、マスターユニットの眼の代わりとなり世界を観測することができる力だ。

 つまり、『眼』の持ち主がそれを事実として『観測(み)』れば、どんな事象であっても世界を構築する神にとって事実となり、即ち世界にとっての事実となる。『眼』の力をコントロールし、事象に干渉すれば、世界を思い通りに書き換えることができる。

 これが、根源である『可能性』を『可能』にする力こそが、システムに足りない部分……。

「それが、わたし……そして、わたしと、のえるさんが、もつ『力』……ですよね」

「ああ。それから、テメェを生んだ力でもある。そう……『蒼』だ」

 マスターユニットに『蒼』与えたのは『蒼』自身。与えたのはほんの一部だが、それだけでも十分な力になる。そしてマスターユニットの力を引き受けたのが第一素体。

 人類は当然、第一素体が持ったその力……好きに世界を操れる力を欲した。素体を使った実験が成功した時には歓喜に狂った。けれど、問題が起きた。

「素体は『眼の力』と共に『魂』を宿し、自我に目覚めていた。つまり『人形』の意思一つで、世界を改変される恐れがあった。故に人類は――」

 素体の『眼』を潰し、自分達の世界に干渉しないよう、境界へ投棄した。

 都合が悪くなったから捨てるだなんて、ひどく自分勝手だとユリシアは思う。

「それで、境界に投棄された第一素体は、その奥底で偶然か必然か、再びマスターユニットと接触した。ま、第一素体『ジ・オリジン』が眼の力を持っているのなら何も不思議はねぇよな」

 けれど、それを知った人類はひどく戦慄した。境界に投棄された第一素体の心情など、想像に容易い。素体達がどんな実験を受けていたかを振り返れば、簡単だった。

 神の力を手に入れたモノが『仲間』である姉妹の実験を観測したら、どう思うのかなど。

「人類対素体の殺し合い。数で見れば人類の方が圧倒的に多かったが……素体は丈夫で、戦闘能力にも優れていた。そのうえ、神の事象干渉が味方をすれば、人類に勝ち目なんてねぇよなぁ」

 が、人類はマスターユニットを手に入れようとしていた。ならば、それに対して事象干渉を受け付けない特殊な兵装を用意していても不思議ではない。眼を潰したのだってコレだった。

「つばきさんが、つけていた、あのふく……ですよね」

「正解だ。『対観測者用兵装・十六夜』。観測者の眼から観測えなくなる兵装だが……同時に使用者の光を少しずつ奪っていく」

 都合の良い話だ。『こうなること』を予測していたかのような立ち回り。一体誰の入れ知恵なのか、ここに居る彼らは分かっていた。テルミがひどく顔を顰める。

「それでも戦いは泥沼だった。十六夜によって、人類は事象干渉を跳ね除けることができたが、限度はある。それで素体を無効化できるわけでもねぇ」

 故に人類は、十六夜の開発技術を元に『ある物』を使い『自己観測』によって存在する大量殺戮兵器を造り出すことになる。コーヒーを啜りながらテルミは語った。

 

 

 

「お姉ちゃん、ちょっと待って。その話、すごく気になるところがある……」

「何かしら、セリカ」

 ナインが語る昔話……素体戦争の話を聞いて、セリカが不意に手を軽く持ち上げながら一歩前に出る。首を傾け何が気になるのか問うナインに、セリカは眉尻を下げたまま口を開いた。

「素体戦争……その戦いを『始めた』のは『誰』なの?」

 良い質問だとナインは評価する。笑みすら浮かべ、ナインは静かに答えた。

 戦いを始めたのは、素体を恐れた人類側。『人間』が一方的に素体達の虐殺を始め、素体達はそれに抵抗しただけ、と。

 どうしてそんなことを、セリカが思わず声をあげていた。

「素体が『願望(ねがい)』を持ったからよ」

 第一接触体や、その他の素体達が人類に、人間に求めたモノはたった一つの願い。自身らを、作り物の身体に宿った魂を『個』として『人』として認めて欲しい。それだけだった。

「でも、人間には『それだけ』では済まないのよ。自分達の作った物が、自身達より優れた能力を持ち、自己主張を始めた」

 人間が狂うには十分すぎる理由だった。

 だから人間達は、数多の人間を触媒にして、素体群を殲滅するために『大量殺戮兵器』を造りあげた。それが……。

「――黒き獣」

 今の技術では完成するかは運任せだが、造ることは簡単だった。たった一人の素体と、蒼の魔道書から精錬される制御不能のそれは、敵も味方も関係なくその圧倒的な破壊力で、人も素体も全てを食い尽くした。残されたものは何もない。

 そして世界は一度、終わりを告げた。

「馬鹿な……それではまるで共倒れだ。まるで意味がない」

「その通りよ。だけど、人類は勝てばそれで良かった。そうすれば、始まる前から『やり直せる』のだから」

 勝って、蒼を手に入れればタカマガハラシステムを完成させ、全て再構築できる。システムの基礎理念は『人の世界』の存続なのだ。

「……都合の良い考えよね。戦争も、その『罪』すら無かったことにするなんて」

 鼻で笑って、そしてナインは続ける。

 システムが蒼を手に入れる寸前だった。ここで誤算が発生した。本当に、有り得ない誤算。第一接触体『ジ・オリジン』が世界の再構築を始めるという、誤算だった。

 人との争いをやり直すわけではない。それは少なからずタカマガハラが阻止していた。けれど、その人工知能を搭載したシステムすら予測しなかった事が起きた。

 第一接触体は、自らの存在(ありか)を切望した。『神』はその存在を否定し、虐殺し、滅ぼそうとした者達……『人の世界』を望んだのだ。

「これにはタカマガハラシステムも対抗できず、逆に『利用』されたわ。形は違えど、望んだモノが同じだったから」

 そして、世界再構築の『器』であるエンブリオも、その精錬に必要となる膨大な魔素も『予定通り』十分すぎるほどに満ち溢れていた。だからこれほどの大規模な事象干渉を起こすことができた。黒き獣を、エンブリオの触媒にする形で。

「つまり今ある世界……正確には『今まで存在した世界』は、既に一度滅びた世界の情報を元に、第一接触体『ジ・オリジン』が、マスターユニットアマテラスを使って再構築した世界」

 つまりこの『世界』こそが、神の観る夢……『セントラルフィクション』だった。

 それが、彼女の見た世界の真実。そしてこの世界は、神様になった少女の醒めない『夢』は何度だって同じ歴史を繰り返す仕組みになっている。

 何故同じ『時』を繰り返すのか。第一素体が自らの存在をどこに求めているのかは知らないけれど、再構築された世界は『人』に優しくなかった。

 神は自分の望まない結末が訪れる度、世界が再び黒き獣の闇に飲まれるたび、世界をリセットしてやり直しを強要した。その度に、人類はあの戦争を迎え、長く辛く苦しくむごい『暗黒大戦』を繰り返し解決することを求められた。

「まったく……天罰のつもり? それとも復讐かしら。人間達が創りだした『黒き獣』を人間の手で『後始末』させるなんて」

 何度も何度も何度も何度も、術式を開発し、何度も事象兵器なんてものを造り出し、死んだ人は何度も死んで、裏切られた人は何度も裏切られ、奪われた人は何度だって奪われた。恐怖した人も嘆いた人も絶望した人も実際にその身に傷を負って苦しんだ人も何もかも『絶対』に救うことのできない世界。

 ナインはただ、守りたかった。

 世界なんかでも、人類なんかでもない。自身の大切な妹だとか、友達だとか、愛する人だとか。そういう人達を守りたかっただけだった。そのために、必死に戦ったのに。

「でも、それが何よ!? 蓋を開けてみればマスターユニットだか何だか知らないけれど、ご大層な装置に乗り込んで呑気に寝てるお嬢さんの夢やら希望のために、馬鹿みたいに同じことを繰り返して……!!」

 繰り返しが終わったと思ったら『蒼』などというマスターユニットに力を与えたものが地に降り立って、自分勝手に人間としてあの憎い男と地を闊歩して、そのくだらない世界に何をすることもなくて。けれど自身以外が干渉をすることも許さないなんて。

 誰よりも守りたかった妹を、何度も何度も同じ悲惨な死に送り込んでいただけだった。

 誰が何と言おうと、例え世界で一番愛する妹セリカが認めようと、ナインは絶対に許せなかった。憤怒に握った拳から、赤い雫が垂れる。

 たった『一人』の願望を叶えるためだけに繰り返す世界。それ以外の願望は全て『生贄』として食い潰す世界。そんな世界は認めない。彼女は叫んだ。

 だから、そのふざけた夢を終わらせるために。代わりに新しい世界を創ろうとした。

 誰かの意思や願望なんかじゃなく、あるべきものがあるべき姿で、あるべきように存在する。誰の意思も介入させない完璧なプログラムによって構成された世界を構築する。そのために新しい『神(システム)』を造る。

「そして世界は再びあの時代に遡るわ。そこまで行って、ようやく私達は、私達の足で歴史を踏むことができる。偽りの神による偽りの世界からの解放を許されるのよ」

 誰もが『願望』を叶えることができる世界。それが、彼女の『願望(ゆめ)』だった。

 そのための、第十一番目の事象兵器。神に贈る『鎮魂歌(レクイエム)』。

「さあ、これで私のお話はおしまいよ。理解できたかしら。できなくてもいいけど。だってどうせ……ここで皆『終わる』のだから」

 そう言って、彼女は手を広げ、その手の平に炎を灯す。口角を歪に持ち上げた彼女に、皆が表情を引き締めた。

「止めて、お姉ちゃん……そんな悲しい事言わないで、もう止めようよ……」

 けれど、セリカだけが悲しみに満ちた表情で、やはり悲しみから震える声で、静かに、けれど叩き付けるように制止を呼びかける。それにナインは、やはり愛する妹が相手だからだろうか。彼女もまた苦しそうに顔を歪めて、そして首を振る。

「無理よ。止まりはしない……いいえ、止まれないの」

「はいはい……んで、てめぇの話はこれで終わりか、ナイン」

 けれどそんな彼女の言葉を遮るようにしてラグナが気怠げに問えば、彼女は瞬き一つで目つきを刃のようにして、その次の瞬間には手に灯していた炎の球を投げつける。

 始めに話を聞きたいと言ってきたのはラグナなのにそんな態度をとられただとか、そういうのに苛立っているわけではない。寧ろそんな事、どうだってよかった。彼という存在自体が、彼女は気に食わなかった。

「っと……いきなり危ねぇな……」

 火球を跳んで躱し、ラグナが漏らす。躱された火球は壁にぶつかる直前で霧散した。

 歯を噛み締め、ナインがラグナを睨み付ける。それに合わせて、ジンとノエルが一歩前に出ようとする。振り向かず、けれど察したのかラグナは腕を横に突き出して彼らを制した。

「お前らは下がってろ。ここは俺に任せとけ」

 ジンが、一人では無理だと止める。ノエルもまたそれに賛同しラグナを止めた。相手は六英雄のナインなのだと。黒き獣と戦ったような彼女の実力がいかに凄まじいかなど、想像に難くない。

 けれどラグナは『元』に過ぎない、と指摘する。振り向かないまま。

「随分と威勢がいいのね。それともやっぱり本物の馬鹿なのかしら。全員でかかれば少しは私を倒せるかもしれないのに、無謀と勇気を履き違えているわ」

 見下すように笑ってナインがそう評する。けれど、ラグナはそれにも動じない。未だナインを目で睨み付けたまま、吐き捨てるようにまたラグナも口角を吊り上げる。

「いや、お前ごとき俺一人で十分だよ。『元』英雄様」

 ラグナの台詞に、ナインが露骨に眉根を寄せた。笑みを苛立ちに歪め、聞き捨てならないと。何様のつもりだと。

「んじゃ、てめぇは誰だよ。悪ぃが、俺の知ってるナインは『英雄様』なんかじゃねぇ」

 ラグナもまたナインに向けて誰何する。

 彼の知っているナインは、口うるさくて、怒ると怖くて、セリカに近付く気に食わない人間にはすぐ蹴りを入れて、それはもうとても強くて、ラグナとの無茶な約束を守って世界を救って。

 妹が胸を張って誇ることのできる、立派な『勇者』だと。

「もう一度聞く……てめぇは『誰』だ?」

 それを聞いて、ナインは俯く。数秒の沈黙。そして、彼女は静かに答えた。

 ナイン。それ以外の何者でもない。言う声は、まるで勇者などではないと諦めるかのように。

「そうかい……なら『最後』に一つだけ言わせてくれ。弟妹を持つ身として、俺はあんたを尊敬してるよ」

 それを聞いて、ラグナは表情を緩めることなく、ただ淡々とそう告げた。その言葉に、偽りはない。ましてやナインを落ち着けるための言葉でもない。それを肌で感じたのか、ナインはそれに返す言葉がなかった。否、言葉など必要なかった。

「ラグナ……お姉ちゃんを、お願い」

 ぐったりとしたままの獣兵衛を抱きかかえたまま、セリカは縋るようにラグナへと願った。

 それに強く頷いて、ラグナは応える。妹が、気に食わないその男に縋るのが尚更ナインを苛立たせ、仕方ない事だと分かっていながらもナインは不愉快の色を濃くした。

「ナイン……てめぇの『願望』はよく分かった。痛いほどにな」

 そう語りかけ、ラグナは背中の大剣に手をかける。抜き取り、構え、そしてラグナは告げる。

 だからこそ、自身は彼女を止めねばならないと。

「大口を叩くじゃないラグナ=ザ=ブラッドエッジ。なら私の『願望』、終わらせてみなさい!」

「上等だ、おら、かかってこい『泣き虫姉ちゃん』! 俺が『助けてやる』よ!」

 咆哮し、ラグナは駆ける。

 繰り出される火球。それを大剣で薙ぎ払えば、炎に隠れるようにして近付いていたナインが現れる。手に纏った炎から逃れるように跳躍、炎が消えた瞬間に再び駆けた。飛ぶナインを追いかけ、彼もまた跳ぶ。

「うおらぁ!!」

 ラグナの大剣とナインの魔法がぶつかり合って、弾かれればすぐさま次の攻撃に移る。

 彼女が攻撃した瞬間現れる白い何かが吐き出す光線を避け、かと思えば彼女が突然展開する鏡。それを魔素を集めて作りあげた顎で攻撃すれば、鏡から射出される刃。それを大剣で慌てて薙ぎ払う。ナインが少しばかり圧していたが、勝負はまだ着きそうにない。

 一見、ただ乱暴にぶつけ合っているかのような攻撃。お互いの行動を読み合い、それ以上に転じられない戦闘。終わらないゲームのように感じられていたその戦いの最中、不意にナインが口角を持ち上げる。疑問に眉根を寄せるラグナ。

「なかなか粘るじゃない。……でも、ここまでよ」

 瞬間だった。ラグナの胸で、いつの間にか紫の魔法陣が光っているのに気付く。目を見開く。しかしそれも一瞬。気付いた瞬間に、魔法陣が爆発した。その衝撃に従って、ラグナの身体が吹き飛ばされる。

「っぐおぉ……!」

 床に転がるラグナ、見守る皆がラグナの名を呼ぶ。それを聞きながら、ラグナが身を跳ね起こして、地に降り立つナインへ大剣を振るった。宙に再び浮かび上がり、それをナインは躱す。

 目を見開き、そして彼女を見上げるラグナに、ナインは両手を掲げた。

「消し炭に……なれえぇえっ!!」

 生まれる火球。最初はチリチリと燃える程度の大きさだったのも瞬きの合間くらいで、みるみるうちに大きさを増していく。それは人間一人分よりも到底大きく、その火球をラグナめがけてナインが投げようとして――止まる。

 ラグナの丁度後ろを見てしまったからだ。

 ラグナを、そして自身を見つめる少女が居たからだ。

 彼女があまりにも悲しげな目でこちらを見ていたからだ。

 昔と全く変わらない彼女が、愛しい妹が、こちらをじっと見つめて。そして、静かに名前を呼んだ、気がしたから。

「っ、あぁあ……!」

 けれど、彼女――セリカに気を取られていた一瞬の隙に、ナインの身体に衝撃が走って、彼女は身体を反らせた。痛みと熱が身体を駆け回り、喉から苦痛に濁った悲鳴が溢れた。急激な痛みにより魔法は解けて炎は消えた。

 落ちそうになる身体を必死に支え、彼女は後ろを振り向く。ラグナだった。

 ラグナはナインをしっかりと見つめ、そして口を開く。

「闇に、喰われろぉぉお!」

 叫び、そしてラグナの右腕、ブレイブルーから闇色の魔素が吹き出す。それはやがて巨大な獣の顎を形成し、咄嗟に魔法を展開しようとしたナインへ一直線に飛びついた。彼女の展開した火球ごとナインに喰らいついて、そのまま地に飛び込み、ナインを叩き付ける。

 衝撃に砂塵が舞って、顔を覆う面々。

 煙が晴れたとき、そこに魔素でできた獣はおらず、ナインが一人で地に倒れていた。

「お姉ちゃん……!!」

 駆け寄り、ナインの傍らで屈み、顔を覗きこむ。眉根を寄せた彼女。傷だらけの身体。治療するため手をかざそうとするセリカを、薄らと目を開けたナインが制する。

「コレは……私が選んだ『結果』よ……理解して?」

 だから、自身に魔法を使っては駄目だと言う彼女に、それでも……と食い下がるセリカ。そんな彼女にふっと笑いかけ、ナインはそっとセリカの頬を撫でた。

「セリカは……どこに居ても、やっぱりセリカね……変わらない」

 先ほどまでの憤怒に満ちた彼女はそこには居なくて、ただただ優しい声音でセリカを見つめるナインに、彼女は思わず泣き出しそうになる。

「お姉ちゃんは昔から頑固で……一度こうと決めたら絶対に諦めない……お姉ちゃんこそ、やっぱりお姉ちゃんだよ」

 けれど必死に涙をこらえて、くしゃくしゃの笑顔を作って見せる少女。ナインは仕方なさそうに笑った。

「貴女も十分……『頑固者』よ。昔から、諦めて欲しい事ほど絶対に、諦めないんだから……」

 でも、そんな妹が、姉が、お互いに大好きだった。

「セリカ……私は私の、信じた道を進んだわ……だから貴女も、貴方が信じた道を進みなさい」

 例え何があったとしても。そう言う彼女に、セリカは強く頷く。分かっている、大丈夫。そう言葉をかけるセリカに安心したように、そして嬉しそうに彼女は微笑んだ。

 そこに居たのは、十聖に所属する『大魔道士ナイン』などではなく、セリカの姉である一人の少女、コノエ=マーキュリーだった。

「ナイン……」

彼女の名を呼ぶラグナに、ナインが目玉だけを動かして視線を移す。何か言おうとして、咳き込み、代わりに吐き出されたのは血だ。喋らなくていい、言うセリカに首を振りナインはラグナを睨み付ける。けれど、先ほどまでの憎しみや怒りの色は少しだけ消えているようにも見えて。

「シケた面ね……この私を倒したんだから、もっと誇りなさいよ……」

 お互いがお互いの考えがあり、衝突し、そして倒したのだから。なのに、痛々しい表情を浮かべるラグナへの挑発のようなものだった。最後に自身を地獄へ突き落とすのがラグナであることが、たまらなくムカついて、たまらなく納得できたから。

「そうだな……安心しろ。テメェの願望も、俺が持って行ってやる」

 そう言うラグナに、笑ってナインは吐き捨てる。ふざけるな、何が安心なのだと。

 言葉の割に、ひどくおかしげに言った理由はナイン自身もよく分かっていなかった。

「ラグナ=ザ=ブラッドエッジ。私は、向こうで見ているわ。アンタが何を『願望する(のぞむ)』かを、そして『あの子』……蒼が何を選ぶのかをね」

 あの子。その単語に首を傾げるラグナだったが、再び顔を顰め血を吐くナインに頷くしかできなかった。

「っ……最後の最後で、また『甘さ』が出るなんて、我ながら情けないわね。ねえ……あなた」

 そしてナインは獣兵衛を見遣る。伸ばされる彼女の手をしっかりと取って、獣兵衛は少し寂しげに笑ってみせた。

「先に逝け、ナイン。冥府の底でまた会おう」

「ふふ……待って、いるわ。愛しいあなた」

 それにつられるように彼女もまた嬉しそうに笑って。ゆっくりと目を閉じる。

 静けさが訪れる空間。愛する者に見守られ、やがて、彼女は――。

「ならば余が送ってやろう……ファントム」

 溜息のようでありながら、朗々と語るように。幼さが残りながらも人ならざる尊厳さを纏った少女の声が地を這い、そして彼らの背筋を撫で上げる。ひどく悪寒がして、その声に――聞き慣れた『死』の声に、彼らは振り向く。

「ナイン=ザ=ファントムよ。情けない姿ではあるが……ご苦労であったな。其方はこれまで余のため、実によく働いてくれた」

 冥王イザナミ。影から現れた少女は、正しくその人物であった。

 彼女の名を呼び警戒するノエル以外の面々に、にこやかに微笑むとイザナミは歩み寄る。

「なればこそ……余が直々に送ってやろう。だが、其方の赴くところは冥府ではない」

 ――『虚無』だ。

 告げる彼女に、ノエルが困惑した表情を浮かべた。記憶の戻っていない彼女にとって、イザナミと出会ったのは初めてのようなものだからだ。あれが冥王なのか。何故、自身はこんなにも彼女に既視感があるのか。疑問を覚える少女を他所に、ラグナがイザナミへ問う。

「サヤ、なんでテメェがここに居やがる……」

「何故と申したか、ラグナ=ザ=ブラッドエッジ。決まっていよう。余はその者に……完全なる『死』を与えに来たのだ」

 虚空なる、永遠なる無へと。そう答える彼女に、セリカが一歩前に出る。そんなことはさせないと、叫ぶ彼女に視線を向けてイザナミはまるで見下すような態度で言葉を紡いだ。

「其方は……ほう。『まだ』存在していたか、目障りな亡霊め」

 冷ややかな視線に、思わずセリカの足が竦む。それに興味が失せたのか、イザナミは再びナインへと視線を移した。

「其方なら、新たな神を生み出すやも……と思っていたが。この程度の者に敗れるとはな」

 鼻で笑い、そして、肩を震わせる。大きく笑って、彼女は「所詮は『人』だ」と嘲る。

 そうして再びナインに向けて歩みを進めようとするのに、セリカが立ち塞がった。ナインには指一本も触れさせないように。けれど、それは無謀だと誰もが思っていて、ラグナもセリカを止めた。けれど、腕を伸ばしたラグナの身体が揺らぐ。呻きが漏れる。

 先のナインとの戦闘で消耗したラグナは、立つので精一杯だった。だから、レイチェルが駄目だと制止を呼びかける。

「……下がりなさい」

 そこに割って入る声は、大人びた女の声だ。地に伏せていた彼女が自身に鞭を打ち立ち上がったのだ。強く歯を噛み締めて、身体を支えると。彼女は大きく息を吐く。そして顔を上げ、強くイザナミを睨み付けた。

「はぁ……言ってくれるじゃない、冥王イザナミ」

 感心、そして関心したように、イザナミがそれを見て「ほう」と声を漏らす。僅かに笑みすら湛えたイザナミを睨み付けたまま、ナインは口に溜まった血をそこらへ吐いて、口を開いた。

「ここには……私が全てを懸けた『家族』が居るのよ。それは、私の世界、私の全て。『そのため』にここまで来たのよ……」

 ナインの言葉を聞き、イザナミは静かに双眸を伏せると。

「……そうか。しかし、残念であるな。其方の『願望』も、ここで終わりだ」

 そう言って、赤い両目を開け、彼女は歪な笑みを浮かべてナインを見つめる。片手を掲げた。

 受け取れ、と言うのは死のことだろう。けれど、それ以上彼女は動かないし、ナインもまた苦しんだりする様子もない。

 皆が訝しげに首を傾け、沈黙が支配する。沈黙に差し込まれるノイズは、イザナミの声だった。

「……何をした」

 ひどく、不快げに彼女は眉根を寄せる。低い声で問うのは、彼女の魂が奪えなかったからだ。自身の思い通りに事が運ばなかったことに機嫌を損ねるイザナミへ、ニィとナインの口角が持ち上がる。

「イザナミ……あんたが、ここに来ることを……私が予測していなかった……とでも思う?」

 その言葉からして、彼女はイザナミがここに来る事を予測していたのだろう。けれど、それがどうしたのか。その疑問には、ナインの口から紡がれる言葉が答えた。

「私はね、最後にアンタを……『倒す』つもりでいたのよ」

 彼女が告げた瞬間、空間が揺れる。ぐにゃぐにゃと歪み出す空間に、そこに居たナイン以外の面々が驚きに声を漏らした。この感覚は、前にも何度も体験している。それは、事象干渉の感覚だった。

「くだらんな……この程度の干渉で何ができると申す?」

 倒す。そう言った割には規模の小さな事象干渉を起こすのみ。そんな彼女にイザナミが首を傾けた。彼女はその問いに、できないと答えるのだからますます疑問に思って。けれど「『私』は」と彼女が付け足した瞬間、工房内に咆哮が響き、皆がその声がした方向を振り向いて――気付く。

 レクイエムが、起動し、そして暴走していた。

 避難を呼びかけるトリニティ。それを逃がすまいとイザナミが手を突き出そうとするが、それは叶わない。鎖のような拘束陣が、何重にもなって彼女を拘束したのだ。

「く……何のつもりだ、ナイン=ザ=ファントム」

「特製の拘束陣よ……いくら貴女でも、それを解くのには……数分かかるわ」

 逆らう姿勢を見せるナインにイザナミが問えば、彼女は汗を顔に浮かべながらも挑戦的に笑ってみせた。けれど、イザナミはたかだか数分か、とくだらない冗談を聞いたかのようにそう吐き捨てる。負けじと笑ってみせ、イザナミは煽るように言葉を紡いだ。

「それで、その後は未完成の『骸葬・レクイエム(おもちゃ)』で何を楽しませてくれるのだ?」

「そうね……『レクイエム(コレ)』はまだ未完成」

 でも、付け足して彼女はレクイエムを見遣る。間を置き、再びイザナミを見ると。

「アンタを『止める』には、十分よ」

 その台詞にイザナミが目を見開く。彼女らしくなく動揺を見せていた。何か、思い当たることがあったのだろう。「まさか」と漏らすイザナミにふんと鼻を鳴らして、ナインはラグナを振り返った。聞きなさい、前置いて彼女は語り出す。

 それは『滅日』が止められないこと。滅日の核である『死』は冥王イザナミの存在そのものであること。つまりイザナミが存在する限り滅日は止められないこと。そして死という概念的な存在であるイザナミを消滅させることは不可能であること。

 だから、今からイザナミの『死』の時間を停止させること。そうすれば滅日も一時的に止められるということ。

「けれど、止められるのは多分……『一週間』よ」

 瀕死の状態で事象干渉を起こしているうえに、イザナミほどの存在をも捕える拘束陣を作り上げたためか。言う声は息も絶え絶えだったが、ラグナは真剣にナインを見つめ、その話を聞いていた。

「だから……その間に、何とかしなさい……」

 約束しろ。そう彼女は紡ぐ。

 ナインがイザナミ……『滅日』を止めている間に、ラグナが彼の妹を、サヤを倒す……否、『助ける』方法を見つけろと。

 ラグナは少しだけ困惑した表情を見せた。分からないことが多かった。けれど、彼女がここまでやってくれたのだ。それを理解した瞬間、ラグナは強く頷く。

「分かった、『約束』する。必ずサヤを……妹を助ける方法を見つけてやる」

 それに、それだけあれば彼女を助ける方法だって……。僅かに笑みを見せるラグナに、けれどそれには首を振るナイン。何故、問うラグナに彼女は再び鼻で笑う。

「無駄よ。だって……」

 イザナミを止めるための『骸葬・レクイエム』起動の触媒は、ナインの魂なのだから。

 聞いた瞬間、ラグナが驚きに声を漏らす。

「ラグナ=ザ=ブラッドエッジ……私はね。自分のした事に一切の後悔はないし、それに……自分以外の『可能性』も絶対に信じないわ」

 けれど。ラグナが本当に『蒼の男』だと言うのならば、その『可能性』に少しだけ賭けてあげてもいい。

 今までラグナに向けたどの笑みよりも優しい笑顔を浮かべて、ひどく穏やかな声でナインは告げる。何か言おうとして、けれど言葉の思いつかないラグナ。

 それを見て、ナインは仕方なさそうに追い払うように手を振った。時間がないからさっさと行け、と。頷き、ラグナは悔しさに歯を噛み締めながら、踵を返した。


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