POSSIBLE DREAM   作:鈴河鳴

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第十七章 知緑の昼

 

 

「だってそもそも私、あのとき……確かに刺されて、死んだはずだったのに」

 あのとき――エンブリオが発動する前。確かにハザマはトリニティという少女に胸を刺され、ハザマも死をすぐ側に感じたはずなのに。けれど、確かにそこにハザマは存在し、意識も記憶も保っていた。

 トリニティ=グラスフィール。かつて六英雄と呼ばれた人物の一人。事象兵器『雷轟・無兆鈴』に憑りついていた彼女の目的は、テルミとハザマを分離させるというものだった。そして、二重の者となった彼らの隙を突いた攻撃により、器である彼から、テルミは魂だけの状態で切り離されて、剥き出しとなった。

 そのとき、器であるハザマは破壊されるはずだった。そうなるのが自然だった。けれど、彼女はそうしなかった。

「トリニティ=グラスフィールという女性にどんな思惑があったのか知りませんが、どうやら彼女は私を『助け』ようとしたみたいですね」

 ハザマを助ける。その言葉が信じられず、ラグナは眉間に皺を生んで、尋ねた。それに首肯し、ハザマは笑いを零す。

「ふふ。私が昔のお知り合いにでも似ていたんじゃないですか? あの方、誰にでも優しいみたいですし……」

 それを偽善だと貶め、そして彼は帽子のツバを摘み深く被り直す。ここまで来ると、『狂気』を感じる。言う声は低く、けれど微笑みはそのままに。

「ま、どちらにせよ……甘い人ですよ」

 短く片付けられたその言葉に、ラグナはどう返せばいいのか分からなかった。ハザマもまた返答など期待していなかった。

「ですが……その『甘さ』のおかげで、私はこうして思うまま行動できているわけでして……」

 私、個人として。付け足すハザマ。ラグナはそれに首を傾けた。テルミとは別でありながら同一の存在としていたはずの彼が、テルミ抜きでやりたい事ができたと言うのだろうか、と。それにハザマは答えない。それでも追及するように、ラグナは問いかけた。

「テメェの狙いはなんだ? いや……テメェの『願望(ゆめ)』は何なんだ?」

「皮肉のおつもりですか? あるいは……魔女に何か吹き込まれたか……」

 少しだけ、ラグナの問いにハザマは眉根を寄せる。ラグナだって、最初はそんなことを意識していなかったはずなのに。自身のことがはっきりしたからと他人のことにズカズカと入り込むのが、気に食わなかった。それでも彼はすぐに眉間の皺を緩めて微笑んだ。

「……いいですよ。ここは『見捨てられた事象』ですし……。お答えしましょうか」

 頷き、ハザマは人差し指を立てる。「ところで」と前置いて紡がれる言葉は、先の言葉とは一見何の繋がりも見えなくて、ラグナは困惑する。

 痛いのはお好きですか。その問いに、間抜けた声を漏らし、そして否定した。好きなはずがない。嫌いに決まっていた。わざとらしく、ハザマは意外だと告げるが、それにラグナが眉根を寄せる。まどろっこしくて仕方がない。

「質問に答えろ、ハザマ」

「せっかちな人ですねぇ。こらえ性のない男は嫌われますよ。そう怖い顔をしないでください」

 話を進める。そう言うハザマにラグナは舌を打って、これ以上話がややこしくなるのを避けるため、黙り込む。そうすることで、ハザマが話を再開するのを促した。

「ユウキ=テルミが、人の憎しみや悲しみ、苦しみ……そして痛みを糧に強くなることはご存じでしたよね」

 ハザマの問いに、ラグナは首肯する。それがどうしたのだと問えば、彼は吹く風に帽子を取られまいと頭を押さえながら、頷く。

「それはつまり、彼が他者の苦しみや痛みを感じ取ることができる、ということです。そして、彼自身もまた苦しみ、痛むことができる。……ところがですね、私にはそれがないのです」

 ユリシアの頭にぽんと手を置いて、撫で遣り、ハザマが苦笑し告げる。少女が頭上に乗る手に触れようと、手を伸ばし――マシュマロのように白い指先が触れるより早く、彼はするりと手を引っ込めた。

「あぁ? どういう意味だよ?」

「そのままの意味ですよ。私は『痛い』と口にはできても、それを感じることはできません」

 他者がどれほど苦しみ、痛めつけられようと何も感じず、それが逆に、自身に降りかかったとしても同様に、特に何とも思わない。傷ができてもすぐ修復されるし、痛みを知らずに過ごしてきた。それは、自身の中にテルミが入ってからもそうだった。これが痛いときの感覚なのだろう、というのはあっても、実際に痛くて苦しい、などは一度たりとも。

「ですが……」

 そう言って、彼は自身の左胸に手を当てた。微かに俯けば、帽子のツバのせいでユリシアにしかその表情は窺えない。薄らと目を開け、ユリシアを見つめる。

「『痛い』んですよ。ここが。まるで大きな穴でも開いたみたいに。でも……」

 一歩、後ろに下がる。そうして、彼は自身の白いシャツに手をかけ、ボタンを外していくと。胡乱げな視線を送るラグナにもしっかり見えるように、シャツの合わせ目に手をかけ、引っ張った。自然と露出される肌は白く、薄くついた胸筋が存在を主張する。

 けれど、傷一つない陶器のような肌とは言えなかった。そこには、まるで何かに貫かれたような、白く痛々しい……大きな傷跡があった。

 顔を上げ、ハザマは紡ぐ。

「見えますか? 私の胸につけられた、この傷痕が。あの『クソ女』につけられた傷痕ですよ」

 一見、それは何の変哲もない、ただの刺し傷だった。けれど痛々しさに視線を逸らそうとした一瞬、傷痕が黒い大きな穴に見えて、ラグナは目を疑った。それはユリシアも同じだったようで、二人は驚きに声を漏らす。

「見えましたか? この穴が……」

 くつくつと漏らされる笑い声に、二人がハザマの顔を見る。視線を下げて胸を見て、そこに変わらず開いた穴を、身体に走る罅(ひび)を『観て』顔を顰める。

「物理的に開いた穴ではありません。これは、私の『魂』につけられた傷です」

 魂につけられた傷は、修復されるまでに時間がかかる。また、肉体が境界に繋がる『窯』そのものであるハザマであれば、その傷は境界を通じて世界を越え、現れる。

 いくらエンブリオが特殊な空間であろうと、いくら時間が巻き戻ろうとも。ラグナも同じだ。

「その傷が、ズキン、ズキン。って、痛むんですよ……まるで今まで感じなかった痛みを全て圧縮したみたいに」

 眉尻を下げてこそいたけれど、痛むと言う割には歓喜の色を滲ませながら、ハザマは語る。

 厄介なものだ、『痛み』というのは。煩わしくて仕方がない。けれど代わりに、その感覚が『自分』を認識させてくれる。『痛み』が自身という『個』を感じさせ、存在証明を示してくれる。

「不思議です……とっても不思議な気持ちです! 分かりますか?」

「分からねぇよ! テメェ……何が言いたい?」

 問うハザマに、ラグナは吠える。先ほからラグナには、ハザマの言いたいことが何一つ分からなかった。その痛みがどうしたのか、その気持ちがどうしたのか。だから何なのか。意外だとばかりに眉を持ち上げて、ハザマは不思議そうに首を傾けた。分からないのですか、と。

「貴方が聞いたんですよ。私の『願望』は何か……とね」

 言えば、今度はまるで少年のように無邪気に破顔して、ハザマは口を動かした。

 ――私の『願望』は、『知る』ことです、と。

 ゆっくりと瞬きをして、開けた目でラグナを見つめる。爬虫類を思わせるような鋭い瞳に見つめられ、ラグナの背に嫌な汗が浮かぶ。

「私もですね……知りたくなったのですよ。他人の痛みが、苦しみが、悲しみが!」

 少女と居るとき感じた様々な感覚の意味も。今まで感じられなかった全ての感覚を。

 そのために必要なものがあるのなら、ハザマはソレを手に入れるつもりだった。そのために、何を利用しようとも。そして、今回は目の前に居る赤いジャケットの男を。

「いやぁ~ここでお会いできたのは好都合でした。本当に運が良い。ここまで来ると、何かの『意思』を疑いたくなるレベルですよ。なんせ……拾ったばかりの『彼女』に、貴方を始末させることができるのですから……ね」

 彼女。その言葉が指すものが何か分からずとも、その不穏さだけは感じ取れた。笑うハザマ、両腕を広げれば、彼らの目の前に現れる光。光は形を変え、瞬時に形成されるのは――。

 少女。それは、ラグナの見知った顔をした少女だった。

 ノエル=ヴァーミリオン。第十二素体ミュー・テュエルブ。あの日、ノエルがミューとして精錬された時のように白のケープを纏った金髪の彼女は、淑やかにそこに佇んでいた。

「ノエル……!?」

「いいえ、違いますよ。『これ』はノエル=ヴァーミリオンではありません……ミュー・テュエルブ、『神殺し(クサナギ)』です」

 ラグナが呼んだ名をハザマは頭(かぶり)を振って否定し、紡ぐ。けれど、ラグナにとってはミューもノエルも同じで、区別を付ける意味が分からなかったから、眉根を寄せ歯を剥いて、ふざけるなと怒鳴る。けれど、ラグナの言葉の方がおかしいとばかりにハザマが眉尻を下げた。

「とんでもない、違いますとも。違うからこそ都合よく、しかし貴方の言うように同一でもあるからこそ厄介なのです」

 ゆるゆると首を振るハザマに、尚もラグナは怒鳴る。ハザマの台詞の意味を理解できなかったから、ただただノエルに何をしたのか、と問い詰めるしかできないラグナ。そろりと大剣へ手を伸ばす。見切ったハザマが眉を顰めた。

「物騒ですねぇ。だから違うって言ってるじゃないですか。同じだったら私も手間をかけなくて良かったんですけれど……」

 溜息を吐く。ラグナが信じようと信じまいと、彼女がノエルであろうがクサナギであろうが、彼には関係なかった。もうここでの用事は済んだのだから。

「クサナギ、彼……ラグナ=ザ=ブラッドエッジを始末しておいてください」

「んだと、テメェ……!!」

 彼女が、いくら一度は精錬された身だとはいえ。そう簡単に彼の言葉に従うはずがない。思いながらも噛みつくように吠えるラグナを、虚ろなブルーの瞳で見て、今まで沈黙に徹していた少女がケープを取り払う。

 外したそれが風に連れ去られるのと同時。両腕を広げれば、彼女は白い光に包まれ、直後には光が吸い込まれるようにして消える。何度も見たことのある光景だった。

 今まで見てきた他の素体とは少し違って、肌も露わとなるコスチューム。しかし晒された白い肌の柔らかさに反し無機質な印象を与えるそれに身を包んで、頭には『十二』の文字が刻まれた大きなヘッドギアを装着していた。

 翻る金髪と、夕焼(ゆうや)けの明かりに濡れた頬は、いつもの困ったような表情も見せてくれない。

「な……おい、しっかりしろ、ノエル!」

 彼女はやはり素体なのだと分かっていたし、この姿を見るのも初めてではない。この姿へ嫌悪を抱くこともなかったけれど、ただ、彼女が彼の知っている表情を見せてくれないのが不安で。

「彼女もまた『半分』の状態ですが……とはいえ『神殺し(クサナギ)』です。情に揺らいで手を抜いていては……本当に殺されますよ」

 声をかけるラグナに、無駄という言葉こそ使わなかったけれど、それでもハザマの台詞にはそんな意図が十分込められているのにラグナは気付いていた。

 それでも、何のつもりなのか、何がしたいのか、そういったところまでは理解できずに、ハザマに視線を移し、尋ねた。

「あらら、想像以上に鈍いですねぇ。私という器そのものが『碧の魔道書』であること、まさかお忘れではないですよね?」

 ラグナの問いに、逆にハザマが尋ねる。ラグナも、彼の身体が碧の魔道書であることは前に聞いてから覚えていた。忘れるはずもない。最終的には勝ったけれど、その前に味わった屈辱を、痛みを、自身があのままでは勝てないと言われた理由を。

 けれど、碧の魔道書であることが、どうしたのか。首を僅かに傾けるラグナへ、ハザマが呆れたように溜息を吐く。

「貴方にとっての心臓がナンバーサーティーンであるように、私にとっての心臓はナンバーテュエルブらしいのですが……」

 心臓。ナンバーサーティーン。その二つのワードから導き出されるものに心当たりがあって、ラグナは思わず冷や汗を浮かべた。彼の言う心臓とは『黒き獣』の心臓のことを指す。

「テメェ、まさか……」

「さすがにここまでヒントを出せば、勘付きますか? ええ、そうです。私は……」

 やっとか、という呆れはあったけれど、同時に気付いてくれたことへの嬉しさと愉快さにハザマはニンマリと唇に弧を描きながら首肯した。

「私自身が……黒き獣、いいえ……『蒼炎の書(ブレイブルー)』となります」

 そのために、更なる『痛み』と『苦しみ』を教えてください――。

 そう残して彼はユリシアの肩を軽く押しながら、くるりと踵を返した。悠々とした足取りで去って行く彼。待て、と手を伸ばす直前、ユリシアが振り向いた。

 追いかけようとラグナは腰の大剣を握り締め、地を蹴る。

 けれど阻むのは、光の刃。目を見開けば既に彼らは見えなくなっていて、苛立ちを覚えながらも光の刃が飛んできた方向を見遣る。そこに立つのは両手を前に突き出した、クサナギ。

「目標を補足……確認しました」

「お、おい、ノエル、いや……ミューか? あぁ、どっちでもいい! そこを退け!」

 明らかに自身の声が届いていないような彼女に、それでもラグナは恐る恐る声をかける。一歩退けた足は、戦闘の意思がないことの表れだった。けれど、それでも彼女は目を伏せ、紡ぐ。

「――対象の殲滅を開始します」

 言うや否や、彼女の背には再び八枚の光の刃が現れる。彼女の紡ぐ声とその光景を受けてラグナは舌を打ち、仕方なく剣を構えた。

 刃を上下左右、自在に操って射出し、ときに振り下ろし、連撃を叩きこむ。大剣がそれを受け流す間に男の元へ飛び込む。四肢に纏う装甲を刃のようにして振りかざす少女、刃が厚く広い大剣一本と腕で巧みに捌き切り、彼女に生まれた一瞬の隙に捻じ込むようにして攻撃を叩きこむ男。

 剣戟(けんげき)の音は一度鳴り出せば、呼吸を挟む余地もないほどに絶え間なく。軽やかに、あるいは重く激しく、鈍く、速く鋭く。

 お互いがお互いの行動を読み合い、繰り返し、いつまで経っても終わらないかと思われた戦い。ラグナの頭ほどもある光球を、魔素でできた黒い顎で噛み砕く。

 攻撃をしながら気付かれないように出していたのだろう、いつの間にか周囲に浮いていた、淡い光を纏う装置の銃口は、全てラグナに向けられていた。

「解き放て」

「当たるかよ……!」

 クサナギの口から呟かれる声に反応し装置から放たれる白い光線を躱せば、動かなくなる装置らを放置してラグナは駆ける。あの日をなぞるような彼女の動きを見切って、ラグナは跳び、彼を見上げる少女の頭に大剣を叩きこんだ。

「目を覚ませノエル!」

 涼やかに割れる音が響くと同時。目を見開いた少女の身体が吹き飛ばされ、床に転がる。動かない彼女を心配して駆け寄り、顔を覗きこめば震える瞼。一瞬、戻っていなかったらどうしようと不安を抱くラグナ。けれど、その心配は杞憂に終わったようだった。

 起き上がろうとする少女の身体を支えれば、少し呻いた後、彼女はラグナを認識しハッとする。

「……ラグナ、さん……あ、私……すみません!! なんてことを……」

 先まで自身が何をしていたのか思い出した瞬間、眉尻を下げ、申し訳なさに謝罪の声をあげる。それにゆるく首を振って、ラグナは苦笑した。

「今のことは気にすんな。どうせ、ハザマの野郎に何かされたんだろ」

 言いながら、ラグナはふと、眉根を寄せる。何かがおかしい。『簡単すぎる』。思えば、その違和感は胸を支配し……いつの間にか表情が険しくなっていたようだ。心配するように、少女が顔を覗きこみ、どうかしたのかと問う。

「まさか、どこかに怪我でも……」

 眉間の皺が、痛みによるものだとでも思ったのか、慌てたような少女の声に正気付いて、ラグナは再び首を振る。

「あ、いや、大丈夫だ……それより、お前ここで何してたんだよ。さっきまで俺が居た世界には、ノエルはノエルとしていた……よな。あぁクソ、訳が分からねぇ」

 立ち上がる二人。ラグナが確かめるように問いつつも、だんだんと訳が分からなくなってきて頭を掻く。この世界に何故彼女が居るのかも、ノエルとしていたはずの彼女が再びクサナギの姿になっていたことも、理由が分からなかった。

「それは……多分、私を切り離した『ノエル=ヴァーミリオン』だと思います」

 そんなラグナに、ミューがかける声。切り離した、という言葉の意味が分からず、ラグナは顔を上げ、首を横に傾けた。どういうことだと問われると、少女は自身の胸に手を当てる。いつの間にか白いケープをまた羽織っていた少女は、目を伏せる。

「私は、厳密には『ノエル=ヴァーミリオン』ではありません。その中に眠っていた素体の意思、ミュー・テュエルブ。『神殺しの剣』の力そのものに当たるのが私です……多分」

 どこか曖昧な言葉、薄く開けた目は泳がせて、彼女は語る。彼女にも、どこまでが『ノエル=ヴァーミリオン』で、どこまでが『ナンバーテュエルブ』なのか、上手く認識できていなかった。

「……とにかく『神殺し』の力だけを自分の中から切り離したってことか」

「はい、そうです。そうなんだと……思い、ます」

 随分と自信がなさげに言う少女へ、ラグナが眉尻を下げる。彼だって知りたいことだらけなのに、彼女も自身のことすら分からないと言われれば、不安ばかりが残る。

 そのことを指摘すれば、彼女は申し訳なさそうに俯く。そんな表情をさせたかったわけじゃないけれど、だからと言って聞かないわけにもいかず、ラグナは黙って彼女が話すのを促した。

「……分からないんです。私を切り離したのは、確かに私自身です。それは間違いありません」

 でも、と付け足して彼女は二拍ほどの間を置き、再び語り出す。どうして切り離されたのか、その理由が彼女にも分からないのだと。一度は受け入れて、自分と同じだと認めた力のはずなのに、どうしてまた否定されたんだろう。

 とても悲しげな色を瞳に宿し紡ぐ少女。沈黙、やがてラグナが口を開く。

「……俺の主観になっちまうが……ノエルは強い決意で力を、お前を受け入れたように見えた」

 その言葉に、偽りはない。何故なら、一度は嫌がっていたはずのその力に、彼女に、何度かラグナも助けられたからだ。ならば、切り離したのにも理由があるはずだと。

 理由。呟くように復唱する少女へ、ラグナは首肯する。

「そうだ、ノエルは確かに頼りねぇけど……弱い奴じゃない。自分を信じてやれよ」

「ラグナさんが、そう言うのなら」

 どこか未だ納得の行かない様子で、けれどそうしないと前に進めないことを分かっていたからか。彼女もまた肯定するように首を縦に振る。ニッと快活に笑って、ラグナが相槌を打つ。

 それから、思い出したように「ところで」とラグナは別の話を持ち出した。

「あー……こっからどうにか出る方法、知らねぇか? 俺、急いで戻らねぇといけねぇんだ」

 戻ってどうするのか、考えてはいなかったけれど。

 またイザナミに挑んでも同じことを辿るだけかもしれない。救うと言っても簡単ではない。自身に何ができるのか。イザナミ……サヤの言葉を思い出す。

 神は『願望』を拒絶する。全ての『願望』を拒絶し、オリジナルの『願望』を映し続ける。

「――さん……あの、ラグナさん?」

「っ……! あ、悪ぃ……何だ?」

 彼女の声も聞こえなかったほど考え込んでいたらしい。どこか不安げな表情を見せる少女になるべくいつも通りを装って問いかければ、彼女は少しだけ黙った後、押し出すようにして声を絞り出し紡ぐ。

「ここから戻る方法、ですよね。あの、私……考えたんですけど」

「何か方法、思いついたのか!?」

 ミューの言葉に目を大きく見開いて、勢いよく身を乗り出すラグナ。迫る彼の勢いに圧されつつも、彼女はぎこちなく首肯し、その白い腕を伸ばしてラグナの背後を指差す。

 そこに佇むのは、巨大な黒のモノリスだ。黒一色ではなく、青い光の筋が無数に走る。その上空に、かつて彼女、ミューが精錬され生まれた繭があった。何枚もの大きな翼でできた球状の白い繭の中には光が満ち、隙間から光の筋が零れている。

「あそこに浮いている繭。あれが、私が精錬されたときと同じように窯の機能を持っているなら」

 そこから、別の事象に辿り着けるかもしれない。色々な事象を集約したエンブリオの中だけれど、可能性を持たない今のラグナであれば、そして一度は境界に入ったことのある彼ならば、迷うことなく元の事象に戻れるはずだ。

 どういう理屈なのかはあまり分からなかったが、ラグナもその説明を受けて、それ以外に方法も思いつかず、取り敢えずできることからやってみようと頷いた。

「よし。行くぞ、ノエル」

 身体をモノリスの方へと向けると、ラグナはノエルを呼ぶ。その声に、ノエルが間抜けた声を漏らした。まさか、自分も呼ばれるとは思っていなかったとばかりに。

 それにミューを振り返り、どこか呆れた様子でラグナは紡ぐ。

「何を間の抜けた面してんだ。一緒に戻るぞ。こんな所に居たって、しょうがねぇだろうが」

 彼女の声だけで大体の考えを察して言う彼。最初こそ戸惑いと躊躇いを見せていた彼女だったけれど、その逡巡する様もすぐに終わる。いつものノエルらしい、可愛らしくも元気な笑顔を見せて、大きく首を縦に振る。

「そう……ですね。はい、一緒に!」

 跳躍し、吸い込まれるようにして彼らは繭に飛び込む。白い光に包み込まれ、掲げた腕で影を作ろうと試みるも、それも無駄に終わる。意識が、溶ける。

 目を伏せ、流れに身を委ね、けれど確実に元居た場所へと進んで行った。

「――――ぃでっ!!」

 身体を、床に思い切り叩き付けられる感覚。こうも何度も繰り返せば、受け身こそ取れずとも慣れてくる。気が付けばすぐに彼は手をついて身体を支え、立ち上がった。

 痛みに小さく呻きつつも、彼はゆっくりと辺りを見回す。薄暗いが、見えないほどではない。天井が中央へ行くにつれて高くなったドーム状の空間と、中央に鎮座する繭のようなもの。見慣れた景色だった。

「ここは……窯、か? あの妙な空間から、戻って来れたみたいだな」

 先ほど感じていたような不安定さや、どうにも頬を気持ち悪く撫でるような違和感の類は感じない。消えてしまったとレイチェルが語った『元居た世界』ほど安定してはいないけれど、確かに、ここは先の空間とは違う。元の事象に戻って来れたようだ。

 それが理解できた瞬間、彼はふと疑問に首を傾ける。先ほど繭に一緒に飛び込んだはずの、少女の姿が見えないのだ。その人影を探すように首を回そうとするラグナ。

「ラグナさん、私の声が聞こえますか?」

「うおっ……この声は、ノエルか? おいノエル、どこに居るんだよ」

 そんな彼の頭に、突如として響く声は、聞き慣れた少女のものだった。頭の中に直接響く感覚は前にもあった気がするが、やはり違和感しか生まない。声の主である少女の姿が見当たらないことに疑問を覚えてラグナが問えば、少女の声は少しだけ戸惑った様子で答える。

「それが……何故か、今の私では『その事象』に入れないみたいなんです」

「事象に入れない、だと? どういう意味だ、そりゃ」

 どういう意味か、と問われればその言葉の通りなのだろうけれど、何故彼女が入れないのかラグナには理解ができなくて、尋ねる。彼女もまたそれについては「分かりません」と答える。

「でも、もしかしたら『私』……ノエル=ヴァーミリオンが居れば、その事象に入ることができるかもしれません……多分」

 やはりどこか困ったような、曖昧な声で言う彼女。彼女が指すノエルと言うのは『神殺しの力』を自身の中から分離させた、残りの半分。この事象に居る少女のこと。

 自身が入ることのできない理由が、同一の存在が二つも居られないから……ということならば、ノエルがここに来て融合すれば、あるいは。そんな考えだった。

「お願いします、ラグナさん。『私』をここに連れて来てもらえませんか? そうすればこの世界のことも、もしかしたら何か、分かるかもしれません」

 意外とあっさり、ラグナは首肯した。虚空に快活な笑みを向けて、胸を張る。その様に、逆に彼女の方が拍子抜けして、彼には見えないのだけれど、目を丸くしてしまった。

「……お前を連れて来りゃいいんだな。分かった、任せとけ」

「え……いいんですか? そんな、何も聞かずに……」

 どういう理屈を考えたからだとか、そういうのは一切話していなかったのに簡単に頷いてしまうラグナへ、彼女は恐る恐る確かめるように尋ねる。それにもやはり、すんなりと首を縦に振る。

 それはまるで、何かを――。

「いいんだよ。俺も確かめたいことがあるしな」

 けれど、彼がそう言うならそうなのだろうと一応は納得してみせようとする彼女。ラグナが溜息を吐いて、窯に背を向ける。

「さて、と。無駄話はここまでだ。サヤ……イザナミが何か仕掛けてくるかもしれねぇ。『時間もない』し……行ってくるぜ」

 言うだけ言って、歩き出すラグナ。そこに至るまでが早くて着いて行けず、慌てながらも少女は彼に声をかけた。

「は、はい。多分『私』はカグラさんのところに居ると思います!」

「ヤビコ、だな。必ずお前を連れて来てやる。ちょっとそこで待ってろ」

 立ち止まり、告げると、また歩き出す。カグラが前と同じように、イカルガの総領主を遣っているのであれば、目指すは第六階層都市『ヤビコ』。早足気味に去って行く彼の足音を聞きながら、彼女は、思う。やはり、彼は以前と少し変わったみたいだ、と。

 

 一方。ラグナが現れた場所とはまた別の窯。ドーム状の空間で、彼らは笑みを浮かべていた。

「計画通り、死神が神殺しを倒し、この事象まで戻ってきたみたいで、良かったですねぇ」

 けれど同じ顔をした男の片方、黒いハットを被った人物の言葉に、もう片方であるオレンジのフードを被った人物は顔を少しだけ顰めた。

「計画通り……計画通り、ね」

 どうにも、順調(じゅんちょう)過ぎではないだろうか。眉間に皺を寄せて、男は舌を打った。それを、傍らに佇む少女はどこか心配げに見上げることしかできなくて。

 

 

 

   2

 

「世界中の人間の殆どが魔素にされたって話だったが……こんだけ賑わってるところを見ると、ウサギやサヤが言ってたことはやっぱり真実なのか」

 元居た世界の住人達は、全て魔素となったあとエンブリオに吸収されたという話だ。エンブリオで再構築されたというのなら、このヤビコの賑わいも頷ける。そして、それを理解すると同時に、ラグナは舌を打った。

 分かってはいたけれど、今まで当たり前にあった自身達の元居た世界が、綺麗さっぱり消えてしまった、というのは気分の良いものではない。

 これがノエル=ヴァーミリオンという一人の少女の願望を映した鏡だというのだから驚きだ。

 だけれど、先ほどの感覚だとノエル本人がそれを理解・自覚しているとは考えづらかった。前にラグナが会ったノエルも、ただ記憶を失っているだけに見えたし、この事象に入れないというもう半分もまた、そんなことを語ってなどいなかった。

(テルミやサヤがノエルを利用していたのは何故だ。それは『神殺し』の力を持っていたからだ)

 ならば、クシナダの楔がなくなった今、神を殺す力を持つノエルだけがイザナミを倒す『可能性』を持つはずだ。あるいは、ノエルと同等かそれ以上の『蒼』を持つ者だけが。

 であれば、何故ノエルは『神殺しの力』を捨てたのか。あの力がどれほど重要なものか、少なくともあの時のノエルは理解していたはずだったのに。

 もう一人の自分を受け入れたはずの彼女が、それでも尚、その力から目を背けた理由。何が彼女の考えを変えさせたのか。

「くそ……まだ分からねぇことが多すぎるな。今はとにかくノエルを探すしかねぇ」

 彼女は多分、このヤビコのどこかに居るはずだ。広さを考えれば気の遠くなる作業だと思えてしまうし、統制機構支部内であれば自身は侵入できないし、など不安も尽きないけれど……。

「ラグナ――――――っ!!」

「うおぉおっ!?」

 背後から響く、自身の名を呼ぶ声。それにラグナが振り返ろうとするより早く、勢いよく何かがぶつかる感覚。衝撃にバランスを崩しそうになりながらも必死に体勢を維持して、ラグナは首を動かし、背中にしがみつく何かを振り向いた。

 覚えのある声と、重さ。頭の上でぴょこぴょこと揺れるアホ毛と、ふわふわと柔らかそうなブラウンのポニーテールが見える。

 背中に当たる感覚は柔らかい。その柔らかさの正体は、彼女の……理解しかけて、ラグナは慌てて背中のそれを引き剥がした。

 向き合えば、正しく知っている人物の顔がある。

「お、おお前、セリカか!?」

 肩を掴み、どもりながらもラグナは確かめるように問う。目を細めたにこやかな笑顔も、声も、その体格も、前と何ら変わらない少女は、そんなラグナの焦った顔を見て、ふふ、と笑いを零す。

「やっぱりラグナだ! もう、やっと見つけたよ」

「待て、セリカお前、俺のことが分かるのか? まさか偽物とか言うんじゃ……」

 嬉しそうに言う少女へ、ラグナはますます訳が分からなくなった。今まで会った人物の殆どが、自身のことを、前の世界での事を覚えていなかったのに、目の前の少女――セリカは、ラグナのことを覚えているのだから。

「どうして? 私がラグナのことを忘れるはずないでしょ」

 けれど、逆にセリカが不思議そうに首を傾けて問う。誰かが作り出した偽物のようにも感じられず、ラグナは少しだけ黙り込んだ後、ふっと笑った。確かにこの感覚は、間違いなく本物だ。

「もう、ラグナってばどこ探しても居ないんだもん。みんな、心配してたんだよ。私のこと護ってくれるって言ったのに……どこ行ってたの?」

 セリカもまた小さく笑う。けれど、コロリと表情を変えて、今度は眉尻を下げ心配するようにラグナを見上げる。言われ、ラグナは答えを濁す。その時のことは、自身でもよく覚えていなかったし、それにこの世界に来てからも色々なことがありすぎた。

「……あぁ、何だ、色々あってな。約束、守れなくて悪かったよ」

 ラグナは思わず目を逸らした。それにセリカはまた不思議そうな表情を見せるけれど、大丈夫だとすぐに首を振って、笑みを浮かべる。

「あ、そうだ。私とミネルヴァはカグラさんの所に向かってるの。多分ココノエさんも一緒だと思うんだけど……ラグナは?」

「あぁ、俺はノエルを探しに、ちょっとな」

 ラグナは何をしにここに居るのか、と問う少女へ、やはり目を逸らしたままのラグナの答え。

 ノエルという単語を聞いた瞬間、きょとりと目を丸くするセリカだったけれど、それなら、とすぐに顔を明るくした。

「それなら一緒に行こう! きっとノエルちゃんも一緒に居るはずだよ!」

 だから、と手を差し出すセリカ。それに一度は短く返事をして、その黒いグローブに覆われた手を伸ばしかけ――ラグナは、引っ込めてしまう。

「……悪いが、一緒には行けねぇ。多分この世界じゃ、俺は『重犯罪者』として扱われてるはずだからな。勿論、カグラやココノエも俺を狙ってるだろうし……一緒に行動するのは危険だ」

 この世界で誰も記憶を思い出していないのならば、彼女らもまたラグナを狙っているのだろう。

 背中に手をやって、俯くラグナ。その頭部に、セリカの声がかかる。仕方ないな、とでも言うような、ちょっと困った笑いを含んだ声だった。

「そっか。大丈夫だとは思うけど……ラグナがそう言うなら」

 眉尻を下げて言うセリカに、再びラグナが「すまない」と謝るより早く。そして彼女はぽんと手を叩いて、口を開いた。

「そうだ! 私が先に行って、様子を見てこようか? カグラさんとココノエさんがどうしてるかだとか、ノエルちゃんが居るかだとか」

 セリカの提案に、ラグナが勢いよく顔を上げる。そこまでさせてしまっていいのか、と尋ねた。彼女には前のときも世話になりっぱなしだった気がして、更に心配までかけさせてしまって。それなのにいいのか、と。

 けれどセリカは、逆にラグナの問いの方が不思議なものだとでもいうように大きく頷き、快活に笑んでみせた。

「勿論。ノエルちゃんを連れて来るんだよね? 任せて!」

 得意げに胸を張り、ぽんと叩く。頼もしいその表情に、ラグナも断る理由は思いつかず、ちょっと戸惑い気味ではあったけれど頷く。それを受けて、彼女は「ここで待ってて」と言うと、後ろに控えた白い機械人形――ミネルヴァを連れ、歩き出す。

 しなやかな腕を振って、元気よく歩き出す少女の後ろ姿を一度は微笑ましく見送ろうとしたラグナだったけれど、その眉はすぐに顰められ、彼は慌てて彼女を引き留めた。

「ちょ、ちょっと待て、セリカ! カグラ達が居るのは、統制機構支部のはずだよな……そっちは逆方向だぞ」

 顔を引き攣らせる彼をセリカは不思議そうに振り返って首を傾けるが、寧ろ気付いていない彼女に逆に彼は首を捻りたかった。何度も通った道のはずだし、何より支部までの道は分かりやすく標識まで置かれているというのに。

「へ? あ、そうだった? あはは、間違えちゃった。こっちだね、今度は大丈夫……」

「だからそっちじゃねぇって言ってんだろ!? 全っ然、大丈夫じゃねぇから!!」

 ラグナの言葉に、苦笑して彼女は頬をポリっと引っ掻く。今度こそ大丈夫だと言う少女を胡乱げなまなざしで見つめるラグナだったけれど、進みだす方向はラグナが引き留める前と変わらない。目を見開き、ラグナは慌てて呼び止める。

 そして、立ち止まる少女を見てがっくりと肩を落とし、呆れたように深く深く溜息を吐く。

 前々から分かっていたことだが、彼女はやはり重度の方向音痴らしい。眉間をラグナは揉んで、暫し考えた後、見遣るのはミネルヴァ。

 本当なら心配だから、ラグナ自身も着いて行きたかったけれど、それはできない。ならば彼女に頼むしかない、とばかりにラグナはミネルヴァへと身体を向けると。

「悪いが、セリカがこんな調子だ……コイツを、支部まで送ってやってくれ」

 頭を乱雑に掻きながら、ラグナがミネルヴァにそう願う。答える声はない。表情も機械故に変わってはいない。けれど確かに少しだけ顎を引いて、ミネルヴァは応えた。任せろ、と。

 先のセリカみたいな頼りなさがない、安心感だけを伝える力強いその答えに、ラグナはニッと笑った。任せた、と。

「んじゃあセリカ。一つだけ言っておく。大事なことだからな。お前はミネルヴァの後ろを着いて行け。絶対後ろだぞ。良いな、前にも出るな、横にも並ぶな。いいな?」

「あはは、そんなに言わなくても分かってるって。心配性だなぁ、ラグナは」

 どの口が言うのだか、とラグナは思う。けれど彼女は何度言っても自覚しないタイプだから仕方ないと、再び溜息を吐く。

「そういや、一つ聞いていいか」

「うん、いいよ。何、ラグナ?」

 彼女がミネルヴァの後を着いて行こうとする。その背に、何気なくラグナは問いかけた。立ち止まり、振り向く少女。話を促されれば、ラグナは何でもない風を装って、尋ねてみる。

「セリカ、お前の……今の『願望』は何だ?」

 それは、本当に、何となくの問いかけだった。

 資格者でない自身が知ってどうにかなるわけでもないけれど、ただ神が否定するという資格者の願望が何なのか。人間の願望によって可能性が潰えた世界での、彼女の願望がどんなものなのか、ふと気になったのだ。

 ラグナの問いが脈略もないものだったから、セリカはきょとり、と目を丸くする。

「願望? んー、そうだなぁ。こうしたいっていう希望は色々あるけど……」

 顎に手を添えて、僅かばかり俯くと、悩むように唸る。うーん、と首を捻って声を漏らした後、顔を上げてへらっと笑う。

「ラグナ達が穏やかに、幸せに、暮らしてくれたらいいな。……うん、それが私の願望」

「……ちっ。お前はこんな時にまで『他人のこと』かよ。聞くだけ無駄だったな」

 もしかしたら彼女も、この世界の可能性を潰した人間達のような、汚い願望があるのかと思ってしまったけれど、思うだけ無駄だったようだ。彼女はやはり、どこまで行っても。

「なになに、その願望がどうかしたの?」

「……んや、何でもねぇよ。気にすんな。さ、行った行った」

 どこか、呆れたような、けれど安心したようなラグナの表情を見て、自然とセリカが尋ねる。腰を折りラグナの顔を覗きこむようにして問う少女に、ラグナは顔を逸らし誤魔化すように手を振った。素っ気なく追い払うような仕草の彼に、セリカが苦笑する。

「あはは、何それ、ラグナが聞いてきたのに。でも……うん。行くね」

「あぁ。ミネルヴァ、任せたぞ」

 頷く少女にラグナもふっと笑って、それからミネルヴァの方を向き親指を立てる。

 見送られ、そして彼女らは人と人の間を縫うようにして歩き出した。

 

「……うーん、誰か居るかなぁ。すみませ~ん!」

 そんな経緯を経て、彼女は統制機構ヤビコ支部の入り口で声を張り上げていた。口許に両手を添え、何度も呼んでいれば、やがて中性的な黒髪の青年が中から現れる。入り口に居た衛士に「怪しい人物が居る」と呼ばれてやって来たのだ。

「セリカさん……!」

 青年の衛士は、セリカを認識すると少し驚いたように名を呼ぶ。セリカもまた呼ばれてそちらを見ると目を皿にした。青年もセリカも、互いに顔見知りだった。青年の名はヒビキ。彼女はその名を呼び軽く会釈、挨拶の言葉を投げかける。けれどヒビキは呑気に挨拶を返す様子もなく、慌てた様子で近寄って来るのみだ。

「今までどこにいらっしゃっていたんですか……いえ、貴女も、こちらに来ていたのですねと言うべきでしょうか」

 整った眉の尻を下げながら紡がれる一言に、セリカが首を傾ける。こちら、という言葉が何を指すのか、色々考えてみるけれど、多分思いつくものとは違う気がしたからだ。口を開く少女が問いをかけるより早く、ヒビキは首を振ってセリカの言葉を遮った。

「いえ、何でもありません。それより、支部まで無事に戻られて何よりです」

「ありがとうございます。あの、ところで、ココノエさんってここにいますか?」

 安心したような言葉とは裏腹に、ヒビキの表情はいつまで経っても事務的な無表情を崩さない。それに彼も忙しいのだろうと察する。だから聞いてもいいのかと、彼の仕事を邪魔してもいいものかと悩んでしまったけれど、セリカはそれでも聞かずにはいられなかった。自分はこのために来たのだから。

「ええ。カグラ様のところに。ご案内しましょうか?」

 問いに、顎を僅かに引くことでヒビキは答える。案内を提案したのは、かつての世界で彼女が支部内で迷ってばかりだったことを思い出したからだ。けれどセリカは首を振り、自信満々に大丈夫だ、と親指を立てる。場所は覚えていると語る彼女の目がきらり、と輝いた気がした。彼女がこう言う時は、決まって……。

「やはり、ご案内いたします。丁度、カグラ様に報告に行くところでしたので」

 溜息を吐いて、目を伏せる。呆れに眉間を揉みそうになったがその手は自然に下ろしたままを装って堪える。言う彼の胸中など露知らず、彼女はそれなら、と案内をお願いするのだった。

 

 

 

「じゃあ、お前もなんだな。ココノエ」

「ああ。これまでは突然脳裏に浮かぶ妙な記憶や、辻褄(つじつま)の合わない記録が何なのか確証が持てなかったが……あの瞬間、全ての仮定が確証を得た」

 統制機構ヤビコ支部内の一室にて、会話の声が響く。片方はチェロのような心地良い低音の男声、それに応えるもう片方の声は聡明さを孕みながらもどこか堅苦しい空気を纏った、女のものだった。

 男に『ココノエ』と呼ばれた女の腰から生えた、しなやかな桃色の尾が揺らめく。

 彼らが話す内容は、この世界……『エンブリオ』という世界と、自身らの記憶についてだ。

「我々が感じていた違和感は、我々が持っていた記憶と、本来あるべき記憶との間に生まれた矛盾(むじゅん)や齟齬(そご)だ」

 否定や疑問の言葉はない。ココノエはふんと鼻から息を吐き出して、言葉を続ける。

「イザナミが『エンブリオ』を起動させたとき、世界は構成し直された。それは我々が知る世界をモデルにしながら、あちこち都合よく改変された世界だった」

 エンブリオと呼ばれた巨大な黒球。それが生み出した世界は改変されていた。そして、その世界に沿うように、撮り込まれた彼らの記憶もまた改変されたというわけだった。つまり、彼らは記憶を取り戻していた。

 それどころか、まるで誰かに教えられたかのように……そのことに関する情報を『知っていた』。

「だが何故急に、記憶の改変が元に戻ったんだ? いや、何故『戻す必要があった』のか……」

 戻ったきっかけは、あの大規模な事象干渉で間違いがない。目覚め、気が付けば自身らは思い出していたのだから。ならば引っかかるのは。

「『ノエル=ヴァーミリオン』だな」

 それに、カグラは肯定も否定もしない。いくらそういった能力があったことを知っていても、彼女がそんなことをするなんて信じたくもなかったし、彼女にもそんな自覚があったようには見えなかったから。けれど、無言を肯定だと受け取って、ココノエが再び口を開こうとした瞬間。

 彼女の言葉を遮るように、三つのノック音が響く。それにカグラが「何だ」と返事を返せば、聞き慣れた声が名乗る。ヒビキだった。

「おう、入れ」

「失礼いたします。……ココノエ博士にお客様です」

 カグラの声に反応して扉が開かれ、現れる青年。部屋に居た二人を交互に見て、それから彼は用件を述べた。そんな彼の背後に現れるのは、ぴょこぴょことブラウンの髪の毛を揺らす少女だ。

「セリカか。問題はないか?」

「うん、ミネルヴァがずっと一緒に居てくれたから」

 メガネ越しの目を少しだけ丸くしながらも、すぐにいつもの小難しい顔になって問うココノエへ、元気よくセリカは頷いた。

「それなら良い。こちらも事態の確認と情報の収集に手一杯だったからな。転移装置も使えず、お前を連れ戻す事ができなかった」

「転移装置、壊れちゃったの?」

 頷き言葉を紡ぐココノエに、今度はころりと不思議そうな表情になって、セリカは尋ねた。少しだけ不安だったけれど、別に転移させてもらえなかったことや、離れてしまったことは気にしていなかったが。ただ、何かあったのかと心配になって。

「違う。使えない原因は……認識による座標のズレだ」

「えっと……どういうこと?」

 首を横に傾けて、セリカは問う。ココノエの言葉の意味するところを理解できなかったからだ。

 彼女が分からないことを、ココノエも察していたのだろう。呆れに息を吐くこともせず、彼女は静かに語り始めた。

 今いるこの世界は、非常に不安定な構造になっている。世界を認識する個人によって、その有様や位置関係などに微妙な誤差が生じている。それぞれの願望が入り混じる歪んだ世界だからだ。

 つまり、こちらで座標を指定したとしても実際に転移する人間にとっての座標とはズレている可能性がある。そして、ズレた座標に転移することはできない。転移するためには、転移先に実際に赴(おもむ)き、座標を固定する装置を設置しなければならない。が、先述の通りココノエ達は忙しく、設置している余裕すらなかったという。

「よく分かんないけど、人によって見えてる景色が違う……ってことかな」

「簡単に言えばそういうことになる」

 頷くココノエに安心したようにセリカは笑みを浮かべる。そんな二人を見つめながら、ふとカグラが尋ねた。

「そういやセリカ、ちょっと聞きたいんだが」

 自然とカグラの方を振り返って、用件を尋ねるセリカ。何、と問う少女に、彼は暫く視線を泳がせた後、やけに真剣なまなざしでセリカを見つめた。

「自分が覚えているはずのものを覚えていなかったり、持っているはずの記憶と違う記憶が流れ込んできたりはしなかったか」

 きょとり、と目を丸くするのはセリカ。聞くには理由があるのだろうけれど、何故そんなことを聞くのか理解できなかった。だって、そんなことは一度もなかった。誰のことも忘れたことなどなかったから。ない、と答えるセリカへ、尚もカグラは問いを続ける。

「じゃあ、あの声は聞いたか? 『願望を叶えたければ、イザナミを倒せ』ってやつ……」

「……それは聞こえたよ。うん、はっきり聞こえた」

 今度は、カグラがその紫の目を丸くした。

 声を聞いたということは、彼女も資格者なのだ。けれど、それ相応に記憶を改変させられた様子はないというのだから。

「……セリカはエンブリオの影響を受けなかったってことか?」

 エンブリオ。聞き慣れないその単語にセリカが首を傾げるが、それについては後だとココノエが言い放つ。仕方なく頷く少女から、床へと視線を落とし、ココノエは呟く。

「あの声を聞いているということは、セリカも『エンブリオ外部』から取り込まれた資格者ということだ。ならば原因は……『秩序の力』か」

 秩序の力。それは、世界が生み出した、世界に対する防衛本能のようなものだ。世界の均衡を一定に保つように作られたそれは、事象干渉すらも跳ね除ける。

 ジン=キサラギも同じ能力を持っていることは、この場に居る全員が知っていた。

「……待てよ。ってことは『秩序の力』を持っていない連中は皆、俺達と同じような状況だったってことか?」

 眉根を寄せるカグラへ、ココノエが首肯する。全員を取り調べたわけではないが、恐らくそうだろうという憶測でしかなかったけれど。もっとも、例外である者が他にも存在しそうなことも、考えていたが。

 ココノエの返答を受け、ますますカグラの表情が険しいものへと変わる。

「それって、危険なんじゃねえか?」

 自身らだって、自身の願望が見せつけられ、一度は叶うかもしれないと期待させられた。そして『願望』を叶えるにはイザナミを倒せと言われたけれど。資格者達は、知っている。

 イザナミを倒し『願望』を叶えるには、蒼の力……『眼』を宿す『ノエル=ヴァーミリオン』を倒さねばならないことを。

 誰に教えられたわけでもないけれど、まるで誰かに言われたかのように、そう認識している。ならば、願望を叶えようとする人物は、自然とノエルを狙うだろう。

「ま、待って! それならラグナに知らせないと……」

 息を吐き出して、言う彼女に。今まで話を聞いていた少女が慌てて異を唱える。友達とも呼べる少女が危険であることも心配だけれど、彼女はラグナに頼まれて、ノエルを探しに来たのだ。

 ならば、そのことを彼に伝えるのは自然の流れのはずなのだけれど……。

「何……『ラグナ』だと? セリカお前、ラグナ=ザ=ブラッドエッジに会ったのか?」

「うん。さっき……ノエルちゃんを探してるって言ってて。あのココノエさん、どうしたの?」

 彼女の顔が、セリカの言葉を聞くにつれ、だんだんと険しくなっていく。それにどうしたのか問うセリカだったけれど、その言葉を無視するように後ろを向いて、彼女は顎に指を添えた。

 ラグナ=ザ=ブラッドエッジがノエル=ヴァーミリオンを探している。それが事実ならば、その理由は何なのだろうだとか、何にせよ、今邪魔をされるわけにはいかないだとか、考えることが多くなってくる。ぎゅっと目を瞑った後、彼女はポケットから通信機を取り出した。

「聞こえるか、テイガー……――」

 応答する声に、彼女は命令を下す。止める声や、理由を求める声を煩わしげに無視して。

「至急、ラグナ=ザ=ブラッドエッジを捕獲しろ。ヤビコに居るはずだ」

 彼の持つ『蒼の魔道書』、そして彼のドライブ『ソウルイーター』から考えれば、自然と彼のやりそうな事は考えがついていた。

 

 

 

   3

 

「この辺の地理は滅茶苦茶だな……ヤビコの近くにカグツチはあるし、あっちにはワダツミらしき廃墟まで見えやがる」

 ヤビコの街を彷徨い、不意に遠くを見遣れば、本来の距離的に見えるはずのない景色が視界に映る。イカルガとカグツチはとても離れているし、ヤビコとワダツミがそれなりの近距離にあるとはいえ、それでも距離はある。

 これも、エンブリオの影響か、それともマスターユニットの願望なのか。

 しかし街を行く人達はそれが当たり前だというのか、それとも見えていないだけなのか。気にした風もなく、せかせかと歩いていた。

「何にせよ、この状況じゃ他の『資格者』を探すのも骨が折れそうだぜ。しばらくは勘に頼るか」

 ぶつかりそうになった人を避け、ラグナも考えるだけ無駄だと進みだそうとして――。

「……あ~あ、見つけちゃったぁ」

「テメェは……確か」

 呆れと落胆が混じったような声が気になって、ラグナは僅かに顔を上げてみる。丸い耳と栗色の短髪、そして目を引くのは腰から生えた大きな尻尾。リス系亜人種の少女が、腰に手を当て首を振っていた。

 その顔はラグナも知っていた。確か、ノエルの親友の一人。

「博士。ラグナくん、発見しました」

「ご苦労だ、マコト」

 少女が手に持った通信機へ話しかけると、無感情な女の声が返る。それも聞き慣れたものだった。マコトと呼ばれた少女が通信をかけた先は、ココノエという人物の元。ラグナが少しばかり驚いたようにその名を口にすれば、声は今度、ラグナに向けて発される。

「久しぶりだな……ラグナ=ザ=ブラッドエッジ」

「テメェが出てくる……って事は、この姉ちゃんは俺を捕まえに来たってわけだな」

 久しぶりという声に、感情は一切込められていない。ただ事実だけを淡々と述べる女に、ラグナもまた警戒した声色で返した。肯定の声。

「ご明察だ。なかなか頭が回るようになったな『死神』。『この世界』で何か学んだか」

「『この世界』だと? もしかしてお前も以前の記憶が残ってるのか……!?」

 問うラグナに、彼女は答えない。少しの沈黙を返した後に、彼女はマコトへ指示を下した。

「悪いが、くだらん問答はここまでだ。マコト、そいつを拘束して連れて来い」

 その命令に短くマコトは了解の意を返し、落胆したような溜息を吐くと苦笑してラグナを見た。纏ったパーカーの金具に手をかけ、下ろし、脱ぐ。

 彼女だって、ラグナとは一緒に戦ったことがあるし、個人的な恨みだってない。だから、小さく謝って、彼女は動きやすくなった身体を構える。が、ラグナもまた大剣に手を伸ばしこそするけれど、それ以上の敵対行動は見せなかった。

「チッ……さっきからどうもおかしいとは思ってたが、どうやらお前もココノエも記憶が『戻ってる』みたいだな。これもマスターユニットの影響か……?」

 眉をひそめ、考え込むように言った後、やはり自分では答えが出せないと悟ったのか首を振る。何でもいい、どっちにしろ、ここで捕まるわけにはいかないのは変わらないのだから。

「だけど戦う前に……一つ、聞いてもいいか?」

「なんか呑気だね。んで……何?」

 問うラグナの呑気さに呆れながらもマコトが構えを解いて問いの内容を尋ねる。ラグナが頷く。

「アンタも資格者なんだろ。その『資格者』ってのは、お互いが近付けば分かるモンなのか?」

 資格者でない自身には、誰が資格者であるかなど分からない。けれど、彼らはどうなのか。気になって問いかけてみれば、彼女は目を丸くして、それから視線を逸らすと……頷いた。

「アタシも仕組みはよく分からないけど、一応そんな感じ、かな」

「そうか……あと、ノエルがどこに居るか知ってるか?」

 一つ、と言ったはずの問いは二つめに突入する。ラグナにはそれで何か言われることなど考慮していないし、それどころか自身が『一つ』と言ったことすら忘れていた。マコトはそれを指摘するか否か悩んだけれど、ラグナの問いが気になったのと、単純に隠す必要もないからと、気にせず答えた。

「のえるん? 何か用でもあるなら、代わりに伝えておこうか?」

「ふん、お断りだ。自分で見つけるしな」

 けれど代わりに……という提案はあっさりと切り捨てられる。予想はしていた。けれど、そう易々と行かせるつもりもない。彼に勝てる自信があるわけでもないけれど、彼女はニッと笑って再び腕を構えた。鍛えられた腕につけられた、ギラつくトンファー。

「行かせるつもりはないけどね。んじゃ……ちゃちゃっと捕まっちゃって!」

 言うのと同時、姿勢を低くして駆けるマコト。迎え撃つべく、大剣を構えるラグナ。

 リス型とは言っても獣人には変わらない。その身体能力は凄まじく、特に鍛え抜かれた脚と腕は強力であり、脚をバネのようにして、打ち上げる拳はそれだけで十分な武器となる。けれどまたラグナもそれに対抗できる程度に、戦闘は慣れていた。拳と自身の間に挟み込んだ大剣を、相手のトンファーに添えるようにして受け流す。火花が散った。

 そのまま剣を握り直し、空いた隙に捻じ込むようにして、彼女の横腹に剣を叩き込めば、間一髪で彼女はもう片方のトンファーに当てて、剣が露出された肌に当たることを防ぐも、攻撃は重く。吹き飛ばされる身体。それに歩み寄って、ラグナは剣の切っ先を向けた。圧倒的に、ラグナの方が勝っていた。

「くっそ~……やっぱ敵わないかぁ……」

「マジで分かりやすいな、お前」

 マコトの攻撃は強い。しかし、大振りなものばかりだったり、動きが分かりやすかったりして、ラグナは少しだけ呆れていた。けれど、それで馬鹿にするほどラグナも落ちぶれてはいない。剣を腰に戻し、そのまま踵を返そうとする。しかしそんなラグナに、マコトが声をかけた。

「……ノエルのこと、頼んでいいかな」

 振り返るラグナに笑みを浮かべながらも、彼女の目だけは笑っていない。強く睨んでいるようにすら見えるマコトの瞳に、ラグナはその言葉の続きを促す。吐かれる言葉は、呪詛のよう。

「あの子に何かあったら、絶対に君を許さないから」

「『頼む』くせに『許さない』かよ、おっかねえな。まぁいいけど……んじゃ、行くわ」

 親友に対する気持ちの強さが、その言葉と視線だけでも伝わってくる。彼女の強さはそこにあり、また『願望』もそこに関わりがあるのだろう。

「次に会う時はまた敵同士かもな。お前の願望が変わってなけりゃ……だが」

「え? それってどういう意味……?」

 ラグナの台詞の意味が理解できず、マコトが戸惑いに瞳を揺らす。けれど、その問いに答えることなく彼は去って行き、追いかけようとするも打ち付けられた身体は上手く動いてくれない。どんどん遠くなっていくその背中を見送り、ただ溜息を吐いて、マコトは呟いた。

「……願望……あたしの、願望……」

 そして、目を見開く。先ほどまでは、確かにあったはずの願望が、思いつかないのだ。まるで何かに丸ごと『食べられた』かのように。

 

 

 

   4

 

 紅茶の香りが辺りに広がる。鼻腔をくすぐるそれに頬を緩めながら、彼女は大好きな人のことを思い浮かべる。ここの所、いつも以上に忙しそうだった。何故か自分を連れて行ってはくれないこともあって、今日も同じ。

 度重なるマスターユニットによる事象干渉のことや、他にもやることがいっぱいあるのだ。

 寂しくは感じるけれど、それが彼の考えなのだろうと一人納得して我慢する。

「……きょうは、いつ、かえってくる……でしょうか」

 カップになみなみと注がれたお茶を零さないよう、そっとそっと運びながら彼女は考える。けれど、考えても分からないし、逆に寂しくなってくるから、その考えに蓋をするように紅茶を見つめながら、テーブルへ運ぶ。コトリ、と小さく音を立ててテーブルにカップを一つだけ置くと、ソファの方に回って、腰かける。

 熱々の紅茶のカップにそっと手をかけて、前に教えてもらったように息を吹きかける。一口、口をつけてみた。やっぱりまだまだ熱くて、液体の乗った舌が痛みを訴える。慌ててテーブルにカップを戻して、溜息を吐いた。

 部屋を見回す。人が一人、暮らすために作られた部屋だけれど。二人の人間が同時に暮らしていても狭さを感じないどころか広いと感じる執務室は、一人で待つには、やはり広すぎる。

 脚をぶらぶらと揺らして、その勢いに任せて立ち上がる。横を向いて、二、三歩進めば窓は近くにあって。ちょっとだけ踵を持ち上げて窓の外、下の方を覗いてみる。

 小さな庭園があって、彼女は少しだけ表情を緩める。けれどその笑みは、やがて消える。

「……『かのうせい』ですか」

 可能性を可能にする力。可能性そのもの。そう呼ばれる力が自分自身だと言われたし、それも自覚しているけれど。いまいちピンとこなくて、呟く。

 今、資格者と呼ばれる人達は、自身の『願望』を叶えるその力を手にするため、走り回っている。そして願望を叶えるために、ある少女を狙っている。

 ノエル=ヴァーミリオン。その少女の『眼』によって、この世界は他の可能性を拒絶するからだ。そして、彼女は自身……ユリシアと名付けられた少女が、ノエルと同等の……世界を好きに観られる力を宿していることも理解していた。もっとも、それを上手く使えるかは別として。

 ならば、と疑問に思う。

 実際に誰かから聞いて知ったわけではないけれど、ノエルは危険なのだろう。しかし、何故ユリシアは誰からも狙われていないのだろうか。

 彼女だって、無知ではあるけれど馬鹿ではない。

 テルミがこの『蒼』を欲してユリシアを回収したことはもう理解しているけれど、それと同じように、否、もっと過激な手段で他が自身を狙うこともあるはずなのでは。

 それがないというのは、ある意味何かしらの意思を疑うというか、不気味すぎるというか。

「……おともだちが、きけん、というのは……すこし、きぶんは、よくない、ですね」

 一人、口にする言葉。いくら彼女が人間じゃなかろうと、どういう存在だろうと、何のために生まれようと。あの日、精錬されることを全然疑わずに手伝っていようと。

 色んな事を考えすぎて、逆に考えが纏まらない。首を振って、彼女はソファへと再び戻り、腰を下ろす。カップの取っ手を摘まんで、口許へ運ぶ。丁度いい温度になっていた。一口飲んで、テーブルへ戻す。

 願望。自身の願望は知らない世界を知ること。ハザマの願望は痛みを知ること。ならば世界を壊そうとまで企むテルミの願望は何なのだろう。

 ――不意に扉の開く音がして、彼女は勢いよく振り返った。そこには、見慣れた緑髪の男が立っていて、自然と顔が緩むのが自分でも分かる。

「はざまさん、おかえりなさい、です」

 後ろ手に扉を閉めながら、頭に乗せた帽子へ手を伸ばす彼の元へ駆け寄って、笑いかける。けれど、すぐに細めた双眸を開けて首を傾けた。

「……あれ、てるみさんは、どうしました、でしょう」

 そこに居るのは、紛れもなくハザマ。そして、同時にテルミの気配もするのだけれど、どうにもその姿が見えない。首を捻る少女は、そしてある結論に辿り着き、微笑む。

「ぶじ、ゆうごう、しなおせた……ですか?」

 ハザマとテルミが元通り一つの身体に収まったのであれば、テルミの姿が別に見えないのも不思議ではない。元々、彼らはユリシアと出会った時点では同じ身体だった。

「ええ。そうですね。もっとも、完全に前と同じ……という訳にはいかないようですが」

 頷くハザマ。けれど、苦笑しちょっとだけ違うのだと言う。何が違うのか、ユリシアには理解できなかったから、少しだけ首を横に傾けた。

「……そうですねぇ。強いて言うのであれば、主導権が変わった、という感じでしょうか」

 ユリシが、更に首の傾きを大きくする。捻り、理解しようとして呻き、そして頷く。前も今も、ハザマの身体にテルミが入ることは変わらない。が、主人が違うのだ。前はテルミが主人となり、好きなようにハザマを使うことができた。けれど今度は、ハザマが主人となり、テルミの力を好きに使える、と。

 それが理解できれば、今度はふと先ほど気になったことを思い出す。さっき、一人で居た時に考えていたことだった。

「……そういえば、てるみさんの……『がんぼう』って、なんですか」

 ハザマの口から、間抜けた声が漏れる。彼女の言葉が意外だと言うように。その反応に、もしかして変な事を言ってしまったかとユリシアは思う。背に嫌な汗が浮かんで、どう言い訳しようか必死に視線を泳がせながら考えて。

「え、えと……そ、その、さっき、ちょっと、かんがえて、いて……」

 けれど、考えても考えても、ちっとも言葉は浮かばないし、先の思考の答えだって生まれない。斜め下を見つめる少女に、溜息がかけられる。肩が跳ねた。もしかして、呆れられてしまっただろうか、と恐る恐るユリシアは顔を上げる。

 そこにある彼の表情は、笑み。思わずユリシアは目を丸くしてしまう。そんな少女に何を言うでもなく、彼は自身の胸に手を当てて、静かに内側へ尋ねた。

「……テルミさん、どうなんです?」

 空気を震わせて、囁くハザマ。問うのに声を出す必要はなかったけれど、特に理由はないがあえてそうした。答えは返らない。黙り込むハザマの口。テルミに答える気がないと察したハザマが困ったように笑いながら帽子を外して、ユリシアの頭に乗せる。自然とずれた帽子のツバがユリシアの視界を遮って、ユリシアがツバを持ち上げると同時、口を開くハザマ。

「さて……私もテルミさんの願望は気になってましたが、残念なことに、テルミさんも喋るつもりはないみたいですし……」

「いつか、教えてやるよ」

 ハザマの声色が不意に切り替わり、話していた言葉を切って別の言葉を紡ぐ。テルミだ。間抜けた声が、今度は二人の口から漏れた。

「おやおや。テルミさんは休んでいるんじゃないんですか? いえ、聞いたのは私ですが」

 まさかテルミが答えるとは思っていなかったのか、ハザマが少し眉尻を下げながら問うけれど、それには今度こそ答えがない。

 先ほど黙っていたのは単純に悩んでいたのだ。ハザマが話を切り上げようとするまで、話すべきか悩んでいた。隠すほどのモノでもないけれど。それも、結局来るかも分からない『いつか』に先延ばしにしただけだったが。

「いつか……そのときを、まってます、ですね」

 それでも、彼女はそう言う。彼が「いつか」と言うなら、それを信じて待とうと思った。見上げられる彼が顔を逸らして、そのままくるりと身体ごと後ろを向く。

「……そうですか」

 答えるのはテルミではなく、ハザマ。けれどそれに何か言うでもなく、元気よく頷いて少女はへにゃりと笑みを浮かべた。

 数秒の沈黙の後、振り向いたハザマがそっとユリシアの頭に手を乗せる。骨ばった大きな手に、ユリシアの小さな手が添えられて、温かくて柔らかくて、いつも感じている感触のはずなのにやけにそれを意識してしまうようで、ハザマは手を引っ込めた。きょとりと目を丸くする少女に、気取られぬように彼はソファへ歩み寄り、先ほどユリシアが口をつけたカップを持ち上げ、紅茶を口にする。以前の彼であれば有り得なかったことだった。

 

 

 

   5

 

 身体が叩き付けられる感覚。何度目とも知れぬ事象干渉により強制的に転移させられる形となった身体は、衝撃から来る痛みを訴える。身体が床にぶつかる直前まで意識はほぼないものになっていたし、受け身も取れない。漏れる呻き。

「ぐ、うっ……。今度はイカルガか……くそ、またかよ」

 ゆっくりと身を起こせば、向こうにはイブキド跡地らしき景色が見える。疼き、重くなる腕。内に飼っている化け物が暴れ出そうとしている時の感覚だ。食われそうになるのを必死に抑え、唸るラグナ。他人の――可能性、『願望』を喰らってきた故のそれだった。

「もう一度だ……くそ……腕が重い……」

「そのくらいにしておくのね、お馬鹿さん」

 聞き慣れた声が背後から届いて、彼は振り向く。幼くありながらも、どこか普通でない荘厳さを湛えた声。ヴァイオリンのようなそれは、レイチェルのものだ。

 その人物がそこに居ることに驚いて、ラグナは腕を押さえながら声を漏らす。

「な……テメェ、ウサギ。どうしてここに居やがる……!?」

「事象干渉を分析して、貴方が出現する確率の高い場所を割り出してもらったのよ」

 ひどく驚いた様子のラグナに、さらりと簡単に言ってのけるレイチェル。眉根を寄せ、誰が、とラグナが問うと同時。レイチェルの後ろから声が届いてラグナは自然と視線をそちらへ向ける。

「私以外に居ると思うか? この馬鹿者」

「にしても、場所がここで良かったぜ。テイガーが真っ先に埋めた座標固定装置が役に立ったな」

 二人分の足音と声。それもやはりラグナは聞き慣れたものだった。久しくも感じる声はココノエとカグラだ。ますます驚いた様子のラグナにひらりと手を掲げるのはカグラ。

 調子はどうだ、というラグナを気に掛けるような台詞の後に続くのは、やはり『馬鹿』。

 揃いも揃って馬鹿、馬鹿と言われ続け、ラグナは眉根を寄せる。

「それよりも、ラグナ」

 呼ぶレイチェルの声に視線を移して、用件を尋ねるべく首を傾ければ彼女は目を伏せ、静かに唇を開いた。動かされる唇、そこから漏れ出る言葉。

「少しは身に染みたのではなくて? それでは目的を成す前にその身体が『喰われて』しまうわ」

 ラグナはある理由で資格者達の『願望』を己のドライブ『ソウルイーター』で喰らっていた。それら願望は全て魔素となって、ラグナの内側から這い出ようと暴れ出す。元々その能力に目覚めていたわけではなかったから、体内に溜めこんでいる魔素の量は多くない。つまり他人よりも魔素に対する容量は大きいが、それでも溜め込めばいつかは破裂してしまう。それを危惧しての、レイチェルの言葉だった。

 黙り込むラグナ。だったらどうしろと言うのだ、と。言われずとも肌で察して、レイチェルはわざとらしく大きな溜息を吐いた。

「改めて、今度は貴方のようなお馬鹿さんにも分かりやすいように、具体的に言ってあげるわ。ラグナ、貴方……ここに居る、彼らと組みなさい」

 何を言いだすのだと、ラグナは思わず吐き捨てる。いくら記憶が戻っていたとしても先ほどのマコトの件からして、彼らがラグナを捕まえようとしているのは明らかだ。そんな連中と、何をどう協力すればいいと言うのか。

「おいおい、そんなボロボロになってまで粋がってんじゃねぇよ。話は大体、吸血鬼のお姫様から聞いたぜ」

 吸血鬼のお姫様、とは正しくレイチェルのことだ。カグラを見るラグナに、再び彼は馬鹿だと言って、それにラグナが何か返すより早く言葉を続けた。

 誰かの『願望』一つで世界を固定化するのではなく、その記憶全てを自身に集めることで、世界にいくつもの『可能性』を与える。それがラグナの狙いだった。人の生命力を喰らう『ソウルイーター』があってこそ成せる業。

「いやしかし『あの』お前がそんな事を一人で始めてたってのは驚きだよな。このかっこつけが」

「うるせぇ。テメェにそんなこと言われる筋合いはねぇよ。からかいに来たんならさっさと帰れ」

 からかうようなカグラの台詞にムッと顔を顰めてラグナが反論する。それすらも笑って返されれば、相手と自分の余裕の差にラグナは更に機嫌を損ねてしまい、思わず口走る。苦笑し、生意気だと返すカグラだったけれど、しかしそのすぐ後に言葉を続けた。

「だけど、お前のその考え方は正直言って面白ぇ。何よりそれならノエルちゃんを……何かの犠牲にしなくてもいい」

「まだノエルが何の犠牲にもならずに済むなどと、決まったわけではないぞ」

 紡ぐ言葉を否定するのは、ココノエだ。ずり下がった眼鏡を指で押し上げ指摘する彼女に、尚も笑みを浮かべたままカグラも負けじと返す。

「そうだけどよ。少なくとも俺は、こいつの無謀な賭けに乗りたい気分だ」

 彼らが何を言っているのか、ラグナには理解できなかった。誰もラグナを馬鹿だとは言っても、馬鹿にはしないし、やろうとしていることも否定しない。それどころか、これではまるで肯定されているみたいではないか。

「まだ分からんのか。お前のやろうとしていることは、既にレイチェル=アルカードから聞いた」

 力を貸す。ココノエが言った。その言葉が信じられず、ラグナは困惑に目を見開いた。

 彼女は彼女なりの理由があるのだろう。彼女が味方なのが不服なわけではない。ただ、それでもイマイチ信用ができなかった。

 けれど、自分一人でどうにかできる状況じゃないのは分かっていた。願望を食えば食うほど、右腕はどんどん重くなり喰われそうになるし、何度だって事象干渉で否定され、邪魔される。

「……それなら、頼む。手を貸してくれ。俺は『世界』を守りたい」

 俯きそうになる顔を必死に持ち上げ、前を見据え言うラグナに三人は顔を見合わせ強く頷いた。




あと二章で完結予定です。

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