POSSIBLE DREAM   作:鈴河鳴

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第十三章 傷紺の夕暮

 下水道から出たラグナを出迎えたのは、自身よりものさし一つ分よりも大きいだろう人影だった。地面が揺れるのは、それが上空から落ちてきたためだ。真っ赤な服から出た太い腕などは同じ赤色をしていて筋骨隆々。

 さらに見上げれば、目に飛び込んでくるのは口から飛び出た牙。凶悪な風貌。その巨体に似合わず顔には小さな黄色の眼鏡をかけている。

 人、なのだろうか。否、『鬼』というのが相応しい。鬼というものを詳しく知らなかったけれど、ラグナは何となくそう思う。

 見上げてくるラグナを見下ろして、赤鬼は口を開いた。色眼鏡を指先で持ち上げ軽く位置を調整しながら、溜息を吐くと。

「やれやれ……やっと見つけたぞ。貴様があの『死神』か。手配書通りの人相……間違いないな」

 死神。それは先から何度か彼が言われてきた名前だ。そう呼ばれるほどの残虐非道な行いを自身はしてきたのだろうかと考えてしまうところがありながらも、ラグナは赤鬼を睨み付け、知らないと言う。半分は本当だ。何故なら記憶が戻っていないのだから。

「おら、邪魔だ。退け」

「つまらん嘘を吐くな、死神」

 しかしラグナの言葉を嘘だと解釈したのだろう。赤鬼は静かに『くだらない』と一蹴すると、溜息を吐いて言った。

「私は第七機関の者だ。用件は分かっているな? 悪いが、貴様を拘束させてもらうぞ」

「……人の話聞けよ、おい」

 分かっているな、と聞いておきながら返事も待たずに拘束すると宣言してくるその人物。話し方は常識のある人間のそれなのだが、話が通じないのだろう気配を何となくラグナは肌で感じる。それでも尚、僅かな望みにかけて『聞け』と返してみるが。

「今更、他人のフリをしても無駄だ。たとえ貴様がどこへ行こうが、私には貴様の居場所が分かる。貴様が『蒼』の魔道書を持っている以上、測位システムはその反応をどこまでも追う」

 また『蒼(それ)』か、とラグナは胸の内で呟いた。第七機関が何かも分からないし『蒼の魔道書』とどういう関係があるのかも知らなかったけれど、またその魔道書の名が出てくるのにはもううんざりしていた。

「んで、その第七機関ってやつと『蒼の魔道書』に何の関係性があるっつーんだ」

 問えば、赤鬼は黙る。答える気はないのだろうか。

 しかし、そのすぐ後に、ラグナの頭の中に声が響く。

「関係はないな。しかし、最強と言われる蒼の魔道書を、統制機構に渡すわけにはいかんからな」

「誰だ、テメェ。いきなり横から会話に割り込んできやがって」

 少しだけ低めの女の声だ。突然、聞いたこともない声が頭の中に流れてきたというのに、しかしラグナは驚かずに返した。何故だかそれに慣れているような感覚があったのだ。直後にその感覚を疑問に思って間が開くのだが。

 いつの間にか目の前に展開されていたのはホログラムのディスプレイ。

 向こう側が少し透けて見える青白い画面に映し出されるのは、ピンク色の髪をした女だった。鼻は高く、小さく。釣り目がちの黄金の瞳と、頭頂に生えた小さな丸い耳。猫のようだ、とラグナは思う。

 その人物がどうやら声の主なのだろう。映る女の口が動く度に、一瞬のタイムラグを要して、先と同じ声が頭の中に響く。

「ふん。聞いていた通り鼻息が荒いな、死神。私はそこの……赤鬼と同じ第七機関に所属するココノエだ。お前に二つ三つ質問したい。私の質問に答えたら、お前を見逃してやろう」

 名乗ると、その声――ココノエは、質問させろと要求してくる。提示された条件が本当ならば見逃してもらえるのだろう。それなら万々歳であるし、特に断る理由も思いつかず、取り敢えずはとラグナは何を聞きたいのか促した。

「……その『蒼の魔道書』、どこで手に入れた?」

 蒼の魔道書というのが未だによく理解できていないが、先のライチの台詞が本当だとするならば、彼女らが指しているのはラグナの右腕のことだろう。右腕がいつからこうなったのか。そもそも、気が付く前はどうしていたのか全て覚えていない彼は、素直に白状した。今でも、この右腕が本物なのかすら疑っていることも。

「……次の質問だ。その腹部の傷だが、反応から察するにアークエネミーに付けられた傷だな。それを、どうやって治した?」

 ラグナの回答に、驚きこそしないけれど眉をぴくりと動かし、二拍程度の間を置くと、彼女はまた次の問いをかける。

 アークエネミー。また知らない単語が出てきたことに眉を顰めるラグナ。

 服の腹部は切り裂かれ痛々しい傷跡を未だに覗かせている。そんな腹を見下ろしながら、自身にこの傷をつけた奇怪な機械人形のことだろうかと問えば首肯される。

「そうだ。いいから答えろ。そいつを治したのは、誰だ」

 やけに真剣な声音で言われるが、ラグナにはそれすらもあまり覚えていなかった。

 ただ、強いて言うならライチがバングと会話していたときに少し漏らした――。

「医者が言うには、勝手に治っちまったらしいぜ。まだ痛むが、これもその蒼の魔道書とかいうやつのおかげとかなんとか……」

 ラグナの答えに今度はひどく驚いたように映る女の目が見開かれる。その答えが意外だったのだろうか。馬鹿な、信じられんだとか、まさかなどと漏らされる様子からきっとそうなのだろう。

「……なんか大変そうだな。もう行っていいか?」

「待て。最後にもう一つ、質問させろ」

 何やら一人でぶつぶつと呟くその女に痺れを切らしラグナが問うも、すぐに引き留められる。今度は何だと思いながらラグナが返事するよりも早く、先に彼女は質問の内容を告げる。

「ユウキ=テルミ。この名に聞き覚えがあるか?」

「……ユウキ=テルミ?」

 ココノエの言う名を繰り返した瞬間だった。

 視界が一瞬白くなり、次に頭に浮かぶのは、二人の女と――目の前に、男が居る。どうやら先ほどの女が居た場所と同じような風景で、ノイズ混じりに見える男の顔を認識した瞬間、ひどい驚きと、燃え上がるような怒りと、どろどろと煮えたぎる憎しみのような感情がない混ぜになって浮上してくるのだ。

「なっ……」

「どうした。やはり知っているのか」

 訳が分からず、漏れる声。その反応を見て何かを察したのかココノエが尋ねる。しかし、これ

以上はやはり思い出せなかった。

 首を緩く横に振り、知らないと答える。小さく、多分と付け足される声は届いたのだろうか。相槌を打つココノエ。

「おい、約束通り質問には答えたぞ。いい加減、先へ行かせてもらうぜ」

 しかしいつまで経っても行かせてくれる様子のない彼女に痺れを切らし、ラグナは眉根を寄せながらそう言った。いい加減、行かねばならないと。

 しかし、それをやはりココノエは許すことがなかった。

 短く謝って、行かせる訳にはいかなくなったと告げると、今までずっと黙っていた赤鬼――テイガーへと、拘束命令を出す。冷たい声音だった。

 了解した、と短くテイガーは応え、ラグナに改めて向き直る。

「という事らしい。すまんが……諦めてくれ」

「けっ、やっぱりか。んなら最初から力づくで来やがれっての」

 構える赤鬼に、ラグナもまた剣を真っ直ぐに構える。この大剣の重さにも、もうすっかり馴染んでしまった事実に少し悔しさを覚えながら、目の前の巨体を睨み付け――駆けた。

 

 

 

「うおらぁ……!!」

 剣を叩き付けるも、腕の硬い装甲に守られる。そうでなくとも筋骨隆々の腕はなかなか刃を通そうとせず、何でできているのかと疑うばかりだった。

 更に、相手はどうやらその重そうな見た目に反して瞬間移動したり、こちらを引き寄せたりといった不思議な技を持っているようだ。金属が特に引きつけられているのに気付き、磁力の力かと気付くが、どうやってそれを付与しているかは分からない。

 それでも、何度か隙を見つけては殴り、蹴り、剣を叩きつけと繰り返していればやがてダメージが通っているのが窺える。赤鬼が呻きを漏らした。

「ぐ……さすが『蒼』の魔道書の所有者なだけはあるな」

「チッ……くそ、滅茶苦茶に硬ぇな、アンタ。何でできてるんだよ」

 褒められても嬉しさなど無く、寧ろ蹴った脚が痺れを訴えていた。一体何をしたらこんな身体になるのか、想像もつかず問うラグナを無視して、テイガーは肩につけたジッパーのような通信機に話しかけた。

「まだか、ココノエ。そう長くはもたんぞ」

 赤鬼は確かに硬いし強い。しかし、それと同等かそれ以上にラグナの力――否、『蒼の魔道書』の力も強いのだ。持久戦に持ち込まれれば、もしかしたらやられてしまいかねない。

 テイガーの言葉に、あと少しだと短く言うだけ言ってココノエは通信を切ってしまう。溜息が漏れた。

「……しかし、蒼の魔道書とはこれほどか。なるほど、多くの者が欲しがるわけだ」

「聞きてぇんだけどよ。その蒼の魔道書ってのは一体何なんだ。そんなに欲しがるモンなのか?」

 何かに納得したように頷くテイガーに眉をひそめて、ラグナは首を傾げる。

 この右腕が、どれだけの価値があるのかラグナには全くもって理解できなかった。先ほど説明を受けたけれど、神の力だとか、最強だとか、そんなものもさっぱりだ。

 ラグナの言葉に、テイガーが露骨に反応する。信じられないと言った様子で、本気で言っているのか、と問うた後――ラグナが首肯したのを見て、再度溜息を吐き語った。

「蒼の魔道書、ブレイブルーはこの世で最強の魔道書だ。それを欲しがる連中はごまんと存在し、中には『悪』のために使おうとする者だっている」

 そして、我々――第七機関は、そんな連中の手に渡る前に蒼の魔道書を確保するのが目的なのだと。それを聞いて、ラグナはならば自身は『悪』に使うつもりもないし、そもそも理解すらしていないのだから良いのではと思ってしまう。そのまま口にすれば、おかしなことを言う、とテイガーは返した。

「何を言う。お前は統制機構の支部に攻め入って、大勢の人間をその手で殺めた犯罪者だろう。お前のような奴にこそ、渡せるものか」

 そう言われて、そういえばと思い出す。

 確かに巷では、自身はそういうことになっているらしい。ならば渡せないのも当然かと。

 しかしラグナ自身だって捕まりたくないし、捕まるわけにはいかない――。

「ッ……!? いつの間に……!!」

 ふと周りに視線を遣れば、いつの間にか周りには沢山の衛士が構えており、ラグナは囲まれていた。言ったそばからこれだ。目を見開くラグナの視界に、ふと一人の男が現れる。

「ご苦労だったな、テイガー。死神捕縛への協力、感謝するぜ」

「ココノエの命令だ。貴様に協力したわけではない」

 ニッと笑いながら手をぱんぱんと払う黒髪の男に、冷たくテイガーは言う。手厳しい、などと漏らすその男に一瞬首を傾けるラグナであったが――。なるほど、とすぐに頷く。

 要は、戦闘をすることで時間を稼ぎ、自分を捕まえるために人を集めたのだ。これが彼らのやり方か。理解すれば、吐き捨てるようにそう言った。

「不本意ではあるが……貴様を逃がすわけにはいかんのでな」

「上等だ。言っておくが、簡単に捕まるつもりはねぇぞ」

 テイガーの言葉に返すと、ラグナは改めて周りの衛士達を見遣った。好戦的に睨み付けながら、挑発するように彼は手招き、言う。

「テメェら、俺を捕まえるつもりなら相応の犠牲は覚悟しとけよ。それでも構わねぇって奴からかかってきな」

 自身は死神と畏れられるほどの人物なのだ。ならば、挑発すれば下手に出たり、逃げる者だって居るはずだと思っての言葉だった。現に唸り、顔を恐れに塗り潰される衛士だって居た。

「おら、どうしたよ。かかって来ねぇなら、こっちから……」

 そんなラグナの近くで、空気が動く。ラグナがそれに気付くよりも早く――その首に、男の手が叩き込まれた。ラグナが衛士らに気を逸らしているうちに近付いたのだ。

「きゃんきゃん吠えるんじゃねえよ、みっともねぇ」

「な……くそ、が……」

 まるで犬を躾するような彼――カグラの物言いに、ラグナは思わず毒を吐いた。

 視界がぼやけ、意識が朦朧とする。膝から下がなくなったみたいだ。立っていることができず、ゆっくりと地に吸い込まれるように倒れるラグナを冷たく見下ろし――カグラは、呟いた。

「部下を助けてもらった礼だ。『今』は殺さねぇよ」

 その声は小さく、他の衛士の耳には届かず。それからカグラは周りに視線を遣って、声をかけた。命令だった。

「おい、コイツを支部へ連れて行け。拘束陣を忘れるなよ。それから、念のためだ。俺が戻るまで上位の術式を使える奴を何人か付けとけ」

 カグラの言葉を聞き届けると、皆一様に短くはっきりと返事をし、頷き合う。各々が自身の役割を理解し、動き出すのを見て――カグラは、静かに虚空へ話しかけた。

「さて、ココノエ。協力感謝するぜ」

 展開される、ホログラム。けれど、そこに居る彼女は黙りこくっていた。

 どうしたのだと問えば、彼女は「いや」と前置いて、間を開けると静かに囁く。

「……先ほどの、奴の言葉がな」

「死神の? 何の話だ」

 どうやらカグラが訪れる前の話のようで、問うてみるものの彼女は応えない。

 何言か呟くと、一方的に通信は途切れ、おい、と声をかけるも時すでに遅し。

 何だったのだろうか、零すカグラ。そして思い出すのは先ほど捕縛した男のことだった。

「しかし『死神』か……聞いてたほど、大したことなかったな」

 期待のしすぎだったのだろうか。

 否――それとも、何か理由があったのだろうか。何か、よからぬ気配がして、カグラは汗も浮かんでいないのに額を拭った。

 

 

 

 『死神』が捕縛されたという知らせをハザマが聞いたのは、彼が捕まってから間もなくのことだった。

「へぇ、捕まっちまったか」

 一つ隣でテルミがそう言うのに相槌を打って、薄く目を開く。覗く瞳は瞳孔の細い金色のものだ。愉快げに笑みを浮かべる彼らに挟まれ、二人を交互に見ながら――少女は首を傾けた。

「えっと、らぐな……さんが、つかまった、ですか」

「えぇ。滑稽なことに、あのカグラ=ムツキ大佐に捕まったとか。その場で殺してしまっても良かったのに……何故そうしなかったんでしょうねぇ」

 カグラ。その名をユリシアは知っていた。否、知っているどころではない。数度『この世界』じゃない世界で会っていた。

 あの男が捕まえたのか、理解すれば頷くユリシアにテルミが手を伸ばす。くしゃりと撫でてくれる感覚が心地良くて目を細める少女。この肉体は未だにハザマと融合できないテルミが自己観測することによって保っている仮の身体らしい。故に一刻も早く融合せねばならないらしいのだけれど――。

「そうだ、今度会いに行こうぜ」

「えぇ。そうですね」

 ニンマリとどこか悪戯っぽい笑みを浮かべて言うテルミに、相槌を打つのはハザマ。二人が言うならばと、ユリシアもまた頷いて微笑んだ。

 

 

 

「っ……いってぇな、くっそ……」

 意識が浮上するとともに、まず感じるのは身体中の痛みだ。頬に触れる冷たく硬いものは何だろうか。目を開けるのすら億劫だったけれど、ゆっくりと片方の瞼を持ち上げて、ラグナは腹筋だけを使い上体を起こした。

「……ここ、どこだ?」

 見慣れぬ天井、見慣れぬ壁、見慣れぬ床。知らない景色に眉根を寄せるラグナであったが、やがて横に視線を向けることで納得する。

 壁が鉄格子になっており、そこから向こうが見える。廊下らしき場所に佇む男は見張りだろう。

 牢屋。実際に入ったことはこれが初めてだが、知識が告げる。これは、悪い人間を閉じ込めておく牢屋なのだと。

「……マジかよ。俺……捕まっちまったのか? いやいや、待て、おい、出せよ!!」

 ここが牢屋だとするならば。そう考え、ラグナは信じられない、といった様子で立ち上がろうとして――違和感に、身体を見下ろす。

 身体が上手く動かせないのだ。主に腕が体に貼りついたように。

 その原因は、彼の身体に巻き付くようにして展開された術式陣にあった。

「うおっ、何だこれ……!? んぎぎぎぎ……っ」

 淡い光を纏う術式陣を外すべく力を込めてみるも、その術式陣はびくともしない。

 どうにかして出なければ。足は動く。ならばと、身体を何度か鉄格子に叩き付ける。痛みはあるが、それよりも――。

「やれやれ、目が覚めた途端、大した暴れっぷりだな」

「なっ……テメェは……!!」

 腕を組み、やって来る人影。からかうように言うその人物は、先ほども見た男だった。

 ラグナより僅かに身長の高い男――カグラは、愉快げに笑いながら、へたり込むラグナを見下ろしていた。

「しっかし……街で見たときは大した男に見えなかったが。こうやってると男前に見えるな。似合ってるぞ『その部屋』」

 その部屋、という言葉が指すのはラグナが現在収容されている牢屋のことだ。負けたラグナをからかいに来たのだろうか。そう思えば、怒りが込み上げてくる。

「テメェ……俺は負けてねぇからな! 何なら今すぐ再戦するか? あぁ!?」

 飛び出そうなほどに両目を見開き、ラグナが怒鳴る。

 しかしそれも牢屋の中に入っていれば負け犬が何か喚いているようにしか思えず、ますますカグラは面白がって笑みを深くした。

「お約束の台詞だな。面白ぇなコイツ。お前はお縄についたんだ、潔く負けを認めろ。大罪人」

 男の台詞に、白髪は思わず呻いた。

 あのとき自身から大罪人を名乗り、しかも好戦的な態度をとってしまったのだから、こう言われても仕方ないといえば仕方ない。俯くラグナに、カグラはスッと表情を冷たくして告げた。

「ま、どうせお前じゃその多重拘束陣は解けねぇよ。蒼の魔道書も全然使えてねぇみたいだし。死神とか呼ばれてるからどんなもんかと思ったら……全然ガキじゃねぇか」

 貶すようなその言葉にラグナが目つきを鋭くする。けれど、それよりも早くカグラを窘めるような声が、彼の隣から響いた。中性的な高いもので、けれどかろうじて男のものだと分かる声だ。

「支部の方達の目もありますので、それくらいにしてください」

 声の主である黒髪の青年は、静かに琥珀色の双眸を伏せると小さく溜息を吐いた。丁寧な口ぶりからして、隣でラグナをからかっていた男よりは下の階級なのだろう。秘書官の類だろうか。けれど、纏う雰囲気の油断ならなさは。階級が上の彼よりも強い。

「おっと、そうだったなヒビキ。つーわけで、悪いが相手をするのはここまでだ。あんまりイジメんなってお達しだ」

 声がかけられればそちらに目を向け、ヒビキと呼んだ秘書官に軽く笑う。それからラグナにまた視線を戻すとそう告げた。言われて尚、まだからかうような口ぶりは正されていない。

 言っても無駄だと思ったのか、最後にそれくらいは許すということなのか何も言わないヒビキを睨み付けた後、ラグナは改めて男を見た。

「イジメ……って、からかうのも大概にしろよ」

「はいはい……んじゃ、罪状を読み上げるぞ」

 ラグナの氷の刃のような目つきにもカグラは物怖じせず、寧ろ軽くあしらう。

 そうして、隣のヒビキが差し出す白い紙――ラグナの犯した罪状が書かれている書類を受け取ると、それに視線を落とし、通る声で読み上げ始めた。

「世界虚空情報統制機構の支部二箇所を襲撃、そこの窯を破壊。アキツでは駐屯していた一個師団を壊滅状態に。死傷者合わせて二千人。建築物の破壊は……百以上!?」

 どうやったらそこまで壊せるんだ、と小さくカグラが呟くのが聞こえた。それから咳払いをした後に、続けられる内容。まだあるのか、と思わずにはいられなかった。

「その罪状は主に、殺人、傷害、暴行、略取、住居侵入、建築物損壊、公務執行妨害、その他に強盗、詐欺、恐喝、器物損壊、放火、国交機能に対する国家反逆罪」

 ここまで来ると凄いな、と逆にカグラは思ってしまった。同時に当時の様子を想像して、寒心に堪えなかったけれど。

 ラグナもまた、読み上げられるその量に驚愕せずにはいられなかった。過去の自身はそんなに罪を犯していたのかと。

「こんだけあれば、多少間違ってても問題なさそうだな。で、この内容に間違いないな?」

「いや、全っ然身に覚えがねぇわ」

 全く身に覚えがない。事実だ。先ほどから何度も思い出そうと試みてはいたが一向に思い出す気配がない。今まで自身が何をしていたのかも、名前すら思い出せないというのに罪状を知っているはずもない。けれどラグナが白を切っているのと思ったのだろう、カグラは鼻で笑い告げた。犯罪者は皆そう言うのだ、と。

「言っておくが、これだけの罪だ。その罰も当然重い。百二十パーセント間違いなく極刑……つまりお前は死刑になるな」

「ちょ……マジかよ!?」

 薄々感じ取ってはいたが、記憶がないために罪の意識もなく、実際言われてしまうと驚くところはあった。しかし、ラグナがそれすら理解できない馬鹿だとでも思ったのかカグラは眉根を寄せる。

「当たり前だろ。まさかお前……助かるとでも思ってたのか?」

 疑うような視線を向けて言った後、何か思い当たるところがあったのか彼は小さく「あぁ」と漏らして、溜息を吐いた。

「言っておくが、その場で殺されなかったから……って思ってるなら間違いだぞ。お前を殺さなかったのは、うちのノエルを助けてくれた恩があったからだ。あの場で殺されなかっただけ、ありがたく思えよ」

 冷たい声に言われて、ラグナは何も言えなくなる。そんな希望を抱いていたわけではなかったが、その台詞からして過去の――記憶をなくす前の自身はなんてことをしていたのだと思ってしまった。そのとばっちりが、同じ人物とはいえ記憶のない自身にやってきたのだから余計に。

 黙りこくるラグナを見て「だが」とカグラは付け足す。

「お前にはまだ聞かなきゃならねぇ事が山ほどあるんでな。悪いが……それまでは生きててもらうぜ」

 そう言うと、尋問は明日であるということだけ告げて彼らは踵を返し、去って行った。その背を見て、ラグナは動かない腕を伸ばそうとしてバランスを崩し、床に倒れ伏せる。

 唸りながらも、彼は声を張り上げて制止を呼びかけた。

「おい、本気かよ、待て――カグラ!」

 そう叫んだ時には、既に彼らの姿は随分と遠く見えていた。

 けれど、それよりもラグナは、今しがた自分が口走った言葉に目を見開く。

 カグラ。彼とは初対面だったはずだ。見たことも、それどころか存在自体も今日知ったばかりだというのに、何故自身は彼の名を知っているのだ。

 彼が、今の男が『イカルガの英雄』だとでもいうのか。

「はぁあ~……」

 考えても分からないことだらけだ。

 それに、明日から尋問が始まるうえに、それが終われば自身は死刑。溜息が出てしまった。

「死刑、なんだよなぁ。はぁ……」

 自身はそんなに極悪人だったのか。何も思い出せないが、思い出せない方が世のためになるのでは。否、死んでしまったら何も残らないではないか。

 一人になってしまえば、どんどん後ろ向きな思考になってしまう。再度溜息が漏れる。

「まったく……無様ね。溜息ばかり吐いて、それでも死神なの? 少しは情けないと思わないのかしら」

 ふと、幼さが残る女の声が響く。声がした方向を見れば、隣の牢があった。先まで気付かなかったが、どうやらそこにも収容されている人物が居たようだ。

 少女だった。絹糸のような長い金の髪を上の方で二つに纏めた少女だ。髪を纏め上げる二つの黒いリボンはウサギを思わせ、服はこの場所に似合わぬたっぷりとしたドレス。

「……誰だよ、テメェ。随分と上から目線だな」

 あまりに牢の中には似つかわしくない風貌。けれど、それよりも先の台詞の方がラグナは気になっていた。やけに、まるで旧知の仲でもあるように馴れ馴れしく話しかけてくるのだから。否、こんな話し方をする旧知の仲があってたまるか、とは思うけれど。

「私が何者かだなんて、どうでもいい事だわ。それよりも、そんなにマイナス思考貴方が私と同じ空気を吸っている事の方が問題よ」

 その随分な物言いに、ラグナは間抜けた声が漏れた。呆れに似た感情が浮かび上がる。

 牢屋に入れられているくせに、何故そこまで偉そうにしていられるのか。思い、口にすれば彼女はそっくりそのまま返す、と。

「貴方こそ『この世界』での自分の立場を弁えているのかしら」

 意味が分からない、とラグナは思った。どういう意味なのだ。自身の立場など、知るはずもない。問えば、彼女は呆れたように見つめてくるものだからムッとする。

「少しは自分で考える努力をしてみる事ね。与えられるばかりじゃなく……そうすれば、溜息も少しは減るのではなくて?」

 けれど、彼女の言い分は一理ある。思わず復唱して、ラグナは俯いた。

 

 

 

「……どうも妙だな」

 一方、地下牢から出ると、カグラは不意に足を止め呟いた。

 妙だった。彼が本当にあの『死神』なのか、疑問ばかりが浮かぶ。聞いていたよりも明らかに弱すぎるし、自身の罪状を知らないと言うときの彼はあまりに嘘を吐いているようには見えなかった。それに、この状況に何故だか覚えがあるような――。

 否、気のせいだ。不思議なことに、すぐそう思ってしまう。が、どうにもすっきりしない。何だか苛ついて、高ぶる気持ちを落ち着けるように深呼吸した後――彼は歩みを再開した。

 廊下を暫く歩いて、ある扉の前で立ち止まる。両開きの、大きな扉だ。それを押し開けながら、カグラはふと傍らに仕える青年へ声をかけた。

「……さて、今後についてだが。ココノエから何か連絡はあったか?」

「ん? 私がどうかしたか?」

 思わずカグラは後ろに一歩退いてしまった。そこに――自身の部屋に、他人が、それも今しがた話題に出したココノエが居たからだ。それが他の人物だったら、やはり驚きはするけれどここまでではない。

 彼女は、他機関――統制機構と敵対する『第七機関』に所属しているのだ。現在カグラ達と協力関係にあるものの、それは本部も知らないカグラの独断のため、誰かに見つかろうものなら大変だ。改めて部屋に踏み入り扉を閉めると、どうやって入ってきたのだと問うてしまう。

「ああ、先ほど自分が案内しておきました」

 問いに答えるのはヒビキだ。彼がやったのか、と知れば思わず驚いてしまう。

 今のところ誰にも知られていないから大丈夫だと言うが、問題はそこではない。第七機関の最重要人物が、統制機構の支部内に居るだなんて知られれば冗談抜きで洒落にならない事態だ。それこそ、カグラの立場だって危ない。

 カグラの考えを察したヒビキが更に言葉を続ける。

「ご心配なく。身分証も既に偽造済みです」

「あぁ、抜かりはないぞ。なんだったら外に出て衛士共に挨拶してやろうか」

 彼の言葉に便乗するように、ココノエがニヤリと笑って言うものだから、思わず冷や汗が背に浮かぶ。何故、自身ばかり焦っているのだろうか。呟いてしまうけれど、なってしまったものはもう仕方がない。

 何度目かの溜息を漏らすとカグラは改めて目の前に立つ女を見据え、用件を尋ねた。

 彼女は基本的に外に出ず、代わりに部下に仕事をさせる性格だったと記憶している。そんな彼女が出向いてくるなんて、よほどの事態なのだろう。

 揺れる、二本の尾。半獣人の彼女――ココノエは、カグラの言葉を受けると肩にかかった髪を払い、静かに話の口を切った。

「ああ。場合によっては全てがひっくり返るぞ、カグラ」

 ひっくり返る、というココノエの台詞の意味がカグラは分からず、復唱し問い返す。それに首肯し、彼女は窓の外を見遣り――そっと、呟いた。

「それを直接確かめさせてもらいに来た。あの『死神』が何者なのか、な……」

 

 

 

 統制機構カグツチ支部。医務室から出てきた少女の横から、飛びつく影がいた。

「の~えるんっ」

「きゃ……!」

 驚きに小さな悲鳴をあげて、少女ノエルは目を瞬かせる。それから自身にくっつく人物を見て、目を丸くした。

「マコト。それに、ツバキまで」

 抱きつきこそしていないが、近くでこちらを見つめるもう一人の存在にも驚く。

 マコトと呼ばれた少女は頭頂の丸い耳を震わせると、そっとノエルから離れ、快活に笑った。

 大きな尻尾が特徴的な茶髪の彼女の隣に、ツバキと呼ばれた赤髪の少女が並ぶ。

「お疲れ様。貴女を見つけてくれた女医さんから話は聞いたわ。大変だったみたいね」

 眉尻を下げ、少し困ったように笑ってツバキが労いの言葉をかけ、そこで彼女らが自身を心配し様子を見に来てくれたのだと知る。女医というのは多分、先ほど死神を匿っていた彼女のことだろう。

「も~、あの死神と戦ったなんて聞いたからビックリしちゃったよね。でも無事で良かった~。もう怪我は大丈夫なの?」

 心配するように問うマコトにノエルは頷き礼を述べ――そして、その言葉に疑問を抱いた。

 ノエルの聞いた言葉が間違いでなければ『死神』とノエルが戦った、とマコトは言ったのだ。確かめるようにそう問えば、何を言っているの、とばかりに頷くと、

「戦ったんでしょ? もう衛士の間では、ちょっとした噂になってるみたいだよ」

 と、マコトはそう言う。その死神を捕縛したカグラ=ムツキのオマケのような扱いにはなっているけれど、と付け足される言葉。続けるようにしてツバキが、それでも凄い事だと言うが。

 違う。そんなはずはない。『共に』戦おうとしたかもしれないけれど、彼と対峙して戦闘しただなんてことは。驚き、黙るノエルの顔を覗きこんで、二人は不思議そうに首を傾けた。

「もしかして、傷が痛むの? 大変、早く医務室に戻らないと……」

 そう言って、今しがたノエルが出てきた部屋に戻らせようと肩に触れるツバキ。それに慌てて距離を取って、ノエルは首を横に振った。

「ううん。違うの。あのね、私は死神に――」

「あ~、お話し中のところすみません」

 真実を話そうとした瞬間だった。丁度よく遮るようにして、声がかけられる。

 驚きに思わず振り向くと、そこに居たのは黒いスーツを着込んだ長躯の男だった。見覚えのあるその顔に、彼女は名を呼んだ。体に、力が入ってしまう。

「は、ハザマ大尉……!?」

 諜報部所属のハザマ。それが彼の名だった。呼ばれた名を聞いて、マコトが同じく驚いたように声をあげ、ツバキが顔を強張らせる。三人の様子を、自身より上の人物に声をかけられたためだと思ったのかハザマは苦笑し、帽子のツバを摘まんで外した。

「いえいえ、そこまで畏まらなくて構いませんよ。大尉といっても、貴方達のように前線に出ている立場ではありませんから。さ、楽にして」

 表情をにこやかな微笑みにするとそう言って、改めて彼はマコトとツバキを見る。

「お二人は初めてでしたよね。私、諜報部のハザマと申します」

 名乗る彼に、どこか胡乱げな目を向けて相槌を打つのはマコトだった。どうにも彼は人を警戒するような雰囲気を持っている、と思うマコト。その前方から、小さな声が紡がれる。

「はざまさん、なにか、ようじ、あったんじゃ……」

 問い。それを聞けば忘れていたとばかりに声をあげて、ハザマは頷く。

「あぁ~そうでしたそうでした。いえね。私、実は道に迷ってしまったようでして……よかったら、案内していただけません?」

 ――カグラ=ムツキ大佐のもとに。

 言う笑みはとても温和なものだったけれど、何故だか三人の背には嫌な浮かんでしまう。けれど、それよりも気になるものがあって、三人は揃ってハザマの隣を見た。

「……え」

 ノエルが真っ先に声を漏らす。そこに居たのは、青と白を基調としたワンピースを着た、少女だった。甘い蜂蜜のような髪色をした彼女は、視線に気付くと三人の顔を交互に見て、首を傾ける。どうしたのだ、と。

「ハザマ大尉、この子は?」

 統制機構の制服も着ていないし、彼女のことも見たことがない。用件を思い出せば、部外者を連れて行くわけにはいかないから尚更疑問に思って。マコトが問う。

「あぁ、コレ……いえ、この子はですね。少し前に諜報部が保護したんですよ。上の命令で、なるべく行動は共にしろとのことで」

 それに短く頷くとそう語ると、彼は首を傾ける。それで、案内をしてくれるのかと。

 事情が分かれば、未だ怪しいと思う者も居たが――素直に彼女、ノエルは頷いた。

 

 

 

 カグラはココノエの言葉を聞き、驚愕していた。否、訳が分からない内容ではあったのだけれど、それでもこんな大きな話を持ち出されれば少しは驚いてしまう。

「この世界に『居ないはずの者』が存在している、だと?」

「……その通りだ。それが、私がここに来た理由だ」

 目を見開く男を見据えた後、そっと目を伏せるとココノエはそう告げた。

 手に持っていた青色の棒つきキャンディーを一舐めして、彼女はゆっくり目を開ける。ピンクの睫毛に縁どられた黄金の目が、床を見つめる。

「さっぱり話が見えねぇ。そいつは一体誰なんだ? ……まさか死神か?」

 先ほど『死神』の正体を確かめる、という旨の話をしていたことから、カグラは思い当たる人物の名を挙げてみる。しかしそれは彼女がゆるく首を振ったことで否定されてしまう。ならば、誰なのだ。もう一度問おうとするより早くココノエは口を開く。

「一人は私の知人だ。それも、数年前に死んだはずのな。そしてもう一人は……スサノオユニット。つまり、六英雄のハクメンだ」

 いやに落ち着いた声が、密やかに紡ぐ内容。それにまた、カグラは驚いてしまう。

 死んだはずの人間が生きていることにも驚きだが、その次に出された名前にカグラは冷や汗を浮かべる。だって、六英雄のハクメンだなんて。

 六英雄というのは、約百年ほど前にあった『暗黒大戦』で活躍した、その名の通り六人の英雄だ。その一人――当時のリーダーであったハクメンの存在は、暗黒大戦が終わってから確認されていない。てっきり死んだものだとばかり皆思っていた。

「おい、待てよ。それじゃあ……暗黒大戦の英雄が生き返ったってことかよ」

 そんなことがあるのか。ひどく驚いた様子のカグラに、しかしココノエはまた首を横に振る。

「正確に言えば『奴は生きていた』。百年近くもの間、境界の奥底でな……」

 境界。その存在こそ詳しくは知らないが、ココノエが言うのだから相当な場所であることは何となく伝わってくる。そして、そこからハクメンを引き揚げたものが居るとココノエは語った。

「……そんな事が可能なのは私だけだと思っていたのだがな」

 落ち着いた状態を装っているが、その実彼女は焦っていた。

 何故なら彼女もまたハクメンを引き揚げることを考えていたのだ。なのに、その先を越されたというのだから。誰が何の目的でそうしたのかも分からないのだから、尚更焦りはひどくなるばかりだ。

「それから、更にもう二人。興味深い反応を見つけたのだが……」

 まだそんなに居るのかと思えばカグラはもう驚くことを止めてしまった。それくらいには彼女の口から放たれる言葉は凄まじく、信じられないものばかりだったからだ。

「片方はあの死神と同じ……否、それより少し違った『蒼』の反応がするのだが、それ以外が一切謎に包まれている。私のデータベースにも全く引っかからん」

 ココノエのデータベースは非常に様々なデータを持っていた。この世界のありとあらゆる存在の情報が保存されたそこに、しかし引っかからないというのはよほどのことだった。

 更に、もう片方の存在は先に挙げた存在よりも謎に包まれていて、ただ生命体である以外は分からなかったという。

 そんな人間がこの世に――しかも二人も存在するとは驚きだとココノエは告げて、溜息を吐いた。眉間を揉み、キャンディをまた舐める。

「だが……もっと驚くべきは、そんなレアケースの存在達が例外なく『ここ』カグツチに集まっているという点だ」

 もう何を言われても驚かないと思っていたが、やはりカグラは目を見開き声をあげた。

 その存在らのことは詳しく知らないが、ここまでくれば、単なる偶然とも思えない。何者かが裏で操り、この世界で何かをしようと企んでいるのだろうか。

 だが、それなら目的は何だ。『それ』は何をしようとしているのか。呟く声を聞きつけたココノエすらそれは分からないと言う。

「……ただ一つ分かっているのは、裏で何かが起きているという事実だけ。そういうことだ。理解できたか?」

 理解こそしたが、信じたくなかった。これ以上面倒臭いことが増えるのだけは勘弁だった。

「チッ……統合本部も混乱してるってのに。これ以上何かありゃ、この支部だけじゃ対応しきれねぇぞ」

 舌を打つ。内情はどこも同じだな、とココノエが言う。全くもってその通りだった。

 イカルガ内戦時にカグラが保護した『天ノ矛坂焔』が帝の位を継承してからまだ二年。ホムラは未だ子供であり、統制機構統合本部の一部は、現帝が力を付ける前に統制機構を席巻するつもりらしい。

 それを認めない連中は勿論おり、カグラが筆頭である十二宗家が中心となっている。そんなくだらない派閥争いに明け暮れるせいで統合本部と十二宗家の確執はひどくなるばかり。かつて統制機構に多大なる貢献をし権力を与えられたはずの十二宗家は、もはやお飾り同然の存在であるし、統合本部だってその機能を失いつつある。

 その事実を改めて思い出せば、苛立ちに拳を握るカグラが居た。

「その状況を変えるために、我々が手を組んだのだ。そう逸るな。今熱くなったところで、何も解決はしないぞ」

 それを優しく宥めることはしないけれど、冷静すぎるほどの彼女の一言にハッとして彼は深呼吸を一つ。頷き、話を戻す。

「それでさっきの件だが……現状をどうする?」

「ああ。先ほども言ったが、まずは死神と面会をさせろ。奴の持つ『蒼の魔道書』を直接確認したい」

 ココノエの要求は先も聞いたものだ。詳しい事情は知らないが、何かこの世界に起きていることに関係でもあるのだろう。断る理由もない。

 今まで黙っていた秘書官のヒビキにカグラは一言、手配を頼むように言い付ける。しかしヒビキは表情を変えないままではあったが、言いづらそうに言葉を濁しながら、告げた。

「その件ですが……たった今、先約の方がいらしたようでして」

 それは、カグラ達が話し込んでいる間にやって来た人物だった。

 今は話の最中だからと外で待たせていることをヒビキから聞いて、眉根を寄せるカグラ。

 死神に用がある人物なんて、思い当たるものがなかった。けれど嫌な予感がして――。

「何者なんだ」

「諜報部のハザマ大尉……だそうです。いかがなさいますか?」

 

 

 

   1

 

「いやぁ、すみませんねぇ。ムツキ大佐の部屋まで案内していただいたばかりだというのに、続けて牢屋にまで案内していただいて」

 三つの靴音が、牢への道に連なり響く。眉尻を下げた笑みを浮かべて、緑髪の男――ハザマは申し訳なさそうに、一つ隣の少女へ語りかけた。

「いえ、これも任務ですから」

「任務ですか……一般衛士さんも大変ですね。カグツチなんて遠方まで来て、指名手配犯の追跡に駆り出され、こんな雑務までやらされるなんて」

 笑い返し、時折隣を歩く小さな少女を見ながら言うノエルに、返すハザマの言葉はどこか皮肉じみていて。それを気にしないようにしながら、ノエルは眉尻を下げる。

「いえ、そんなことは。ハザマ大尉こそ、お忙しいのではないですか?」

「……そう見えますか?」

 ノエルの何気ない問い。それに薄らと目を見開いて、ハザマが見つめてくる。間を置いて話す口ぶりは優しいのだけれど、ぞわりと悪寒のようなものがはしって、顔を引き攣らせそうになりながらも必死にこらえてノエルは頷いた。

「は、はい。諜報部は、大変なところだと伺っていますので……」

 視線を逸らした先に居たのは少女だ。視線に気付いて不思議そうに目を丸くする彼女に苦笑する。前は死神を追っていたせいか感じなかったけれど、改めて一緒に話してみると、どうにもこの男の雰囲気は苦手だったし、何か変な違和感を覚えるのだ。その違和感が何かは分からないけれど。この少女は、何も感じないのだろうか。ならば自身がおかしいのかと、ノエルは思ってしまう。

 そうしている内に、地下牢にやって来ていて、丁度目的の人物が収容された牢の前で足を止める。こちらだ、とノエルが言えば彼は頷く。

「どうも、ご苦労様です。……これが、かの悪名高き『死神』ですか」

「あぁ? 何だよテメェは……ガキまで連れて、俺は見せモンじゃねえぞ」

 鉄格子に触れ、ハザマがまじまじと『死神』を見つめる。同様に、その後ろから少女――ユリシアもまた死神とハザマの様子を見ていた。

 その視線に気付いたその白髪の男は、露骨に嫌な表情をしてハザマを睨み付ける。近くに居た彼女を見て、余計に眉を顰める。その表情に別段怯えた様子もなく、ただ眉尻をわざとらしく下げる彼に、ますます死神は苛ついた様子だった。

「おーおー、怖い怖い。まるで檻に閉じ込められた野獣ですねぇ」

「……あんまり、そういういいかた、しちゃだめ……ですよ、はざまさん」

 からかうような話し方で言うハザマを窘めるのは、鈴を転がしたような甘い声だった。今まで殆ど喋らなかった彼女が声を発せば、視線だけを後ろにやって、ハザマはにこやかに微笑む。口角が持ち上がる。

「そうですか? こんな獣を気遣う方がおかしいと思うんですけれど、私。ねぇ、ユリシア」

 言われて振り向く男は笑みこそ柔らかなものだったが、薄らとまた開かれた金の瞳がどこか笑みをとがったものにする。爬虫類を思わせる鋭い目だった。

 そうして、尚もその態度を止めないハザマにユリシアは少しだけ悲しげな表情を見せる。

 ユリシアには彼らがあの男をからかう記憶はあったけれど、今回の彼はいつもよりひどく冷ややかな空気を纏っている気がして。 怖いと思うわけじゃないけれど、今、目の前の白髪にそうするのは違うのではと、思ってしまった。

「……ま、いいでしょう。面会の時間は限られていますし、尋問を始めましょうか」

 少女が返事を返さないのを見て、少しばかり退屈そうに首を振ると彼は牢屋の中に入れられた男へ向き直る。口角をまた持ち上げ、糸のように細めた目で見据える。

「改めまして、こんにちは。ご機嫌いかがですか? 『死神』さん」

 穏やかな声で、優しく語りかけるハザマ。だけれど、白髪の男は鉛のように重い空気が肺に入り込むような息苦しさを覚えていた。今まで気に入る人間なんて居なかったけれど、特にこの男は気に入らない。

「いいわけねぇだろ。つか、そもそもテメェは何なんだよ……」

「あぁ、これは失礼。私、世界虚空情報統制機構諜報部に所属している、ハザマと申します」

 ――初めまして。

 問いに応えるハザマへ、死神は舌を打つ。

 どうにも胡散臭く、身体が動くならばその作られたように端正な顔を今すぐ殴り飛ばしたい。睨み付けたままの彼に、飄々とした態度でハザマは言葉を続けた。

「嫌われてしまいましたかね。でも、私も仕事なんでね。気に入られなくても、少々、尋問させていただきますよ」

 ハザマの台詞。それに彼はまた眉を顰めた。だって、答えられない問いをまたかけられるということなのだから。

「尋問ねぇ。はっ、俺に話せることなんかねぇぞ。何せ、何も覚えてねぇんだから」

 吐き捨てるように言う。尋問と言われても、記憶がないのだから答えられるわけもない。当たり前だった。けれど、やはりしらばっくれているように思ったのか、ハザマは頭を振った。

「しらばっくれるおつもりですかね。あんまり賢い態度とは思えないのですが……」

「だからそうじゃねえって! 本当にしつけぇな……あのカグラとかいう奴にも言っとけ、俺は全く、何も、覚えてねぇってな!」

 眉尻を垂れて言うハザマに、噛みつくように彼は怒鳴る。尋問は無駄だと、何も覚えていないのだと。けれど、それでもしつこくハザマは続けた。

「覚えていない? 何も? ご自分のしたことですよ? あれだけ大きな施設に単身乗り込んで、あれだけ派手に暴れたっていうのに?」

 まるで当時の情景を知っているかのような物言いで問うハザマに、声を張り上げてそうだと言う。ここに来るまで散々『死神』などと言われたが、自身は――。

「まさかとは思いますけれど、貴方……記憶をなくした、とでもおっしゃるつもりですか?」

 言おうとしたことを見透かしたかのようにハザマが告げる。瞬間、ぞわりと背筋に寒気がはしる。この空気は何なのだろう。溢れる唾をごくりと飲み込んで、彼はぎこちなく頷く。

「……そうだよ。テメェらの言う『死神』のしたことも、俺が本当にその『死神』なのかも分からねぇ。自分の名前だって思い出せねぇ」

「そんな……自分のこと、全部忘れちゃったんですか?」

「原因は知らねぇけどな」

 ラグナの言葉に反応したのは、ハザマをここへ案内した人物、ノエルだった。

 心配するように問い、肯定されれば自身のことのように悲しそうな表情を浮かべ「そうだったんですか」と漏らす。そんなノエルにハザマは眉根を寄せて異を唱えた。

「ちょっとちょっと、何を素直に信じちゃってるんですか。しっかりしてくださいヴァーミリオン少尉」

 むっと少しばかり怒ったようなハザマの話し方にハッとして、未だ彼のことを心配しながらもノエルは申し訳なさそうに頷いた。俯き彼女が黙ったのを見て、ハザマは呆れたように溜息を吐く。それから牢の中の男にまた笑いかける。

「さて……覚えていないとおっしゃいましたけど、本当に全部忘れちゃったんですか?」

 尋問を再開するハザマ。苛つきはまだ消えないけれど、時間が経ったことで少しばかり落ち着いたのか、彼は素直に首肯する。

 自身の名前も、過去も、何もかも覚えていない。ここがカグツチで合っているならば、カグツチ近くの森の中で気が付いて、それより前のことは全て覚えていない。そう白状する彼に、へぇ、とハザマが漏らすのが聞こえた。

「何か覚えていることはありませんかね。例えば……ご家族のこととか」

 首を振ればあっさり次の問いに移る。

 問われたのは、右腕のことであった。指される右腕。それは何度か、何か訳知り顔の他人に話を受けたものだったが、彼がそれについて聞いてきたのは予想外だったのだろう。何か、自身のことを知っているのかと警戒はそのままに彼は問うた。

「それは勿論。それなりには知っていますよ。何せ諜報部に所属しておりまして……ああ、これは先ほども言いましたね」

 答えるハザマ。冗談のような後半は既に耳に入っておらず、答えを聞いた瞬間に彼は、牢屋に身体をぶつけるようにして相手に詰め寄り、左右で色の違う目を見開くと、尚も問いかけた。

 知っているのなら、自身は一体何者で、名前は何で、どこから来て、この右腕――『蒼の魔道書』とは一体何なのか。全て知りたかった。知らないと不味い気がして。

「質問をしているのはこちらですよ」

 けれど、ハザマは首を振り、その問いには答えない。

 悔しさに歯を噛み締める彼に、ハザマが何度目かの溜息を吐く。

「しかし……『蒼の魔道書』の名を聞いてもまだ、思い出しませんか」

 腕を組み、顎に手を添えながら囁くように小さな声で語りかけた。

 いつからその腕はあるのか。どうやって魔道書を手に入れたのか。『蒼の魔道書』とはつまり何なのか。自然と耳に滑り込んでくるその言葉がぐるぐると、彼の頭の中を廻る。

 腕だ。右腕。いつ、どこで、どうやって、その腕は魔道書に変わってしまったのか。

「な……何なんだよ、テメェ……ぐっ」

 頭が割れそうなほどに痛む。何かを思い出しそうで、あとちょっとのところで届きそうで。思い出したいはずなのに、触れてしまったら――。

 頭の中に流れ込む映像は記憶だ。それは先ほど見たどの記憶とも違う、もっと古い記憶。

 教会が燃え、崩れ落ちる。『あいつ』が笑っている。何なのだ、この記憶は。

 呻き、零すラグナにハザマは冷たい目を向けて、頷いた。

「紛れもない、貴方の記憶ですよ。……やっぱり忘れているだけで、失くしてしまったわけではないんですねぇ」

 息を切らし、ハザマの言葉に首を振る。白髪を振り乱す彼に、けれどハザマは愉快そうに笑いながら情報を流し込む。

 ユウキ=テルミ。ジン。サヤ。シスター。大事な記憶だったはずのそれは、名前を告げられてもどうしてか断片的な映像しか齎さない。忘れたままでいいはずがない。こんなところでのんびりしていていいはずがない。

 けれど、身体が動かない。何を忘れているのかすら分からない。

 身体が動けば、今すぐにでも目の前の男を斬り捨てて、走って行きたいのに。思い出さなければいけないのに――。

「あの、はざまさん。いまはもう、そのくらいで……」

 制止の声をかけるのはユリシアだった。

 今はもういい。事情もあまり分からないくせに、口をついて出たのはそんな言葉。彼が苦しそうだったから止めたわけじゃない。何故止めたのかは自分でも分からなかったけれど、気が付けばそう口にしていた。振り向くハザマに何か言葉を続けようとして、出てこない。

 必死に言葉を探す彼女とそれに視線を向ける彼ら。

 その耳を、轟音が劈く。

「きゃあっ……!?」

 踏んでいた地面が、天井が僅かに揺れる。ノエルが悲鳴をあげ、すぐさま近くにやって来た衛士の男へ声をかける。

「すみません、今の音は何ですか!?」

 呼び止められた衛士は問いの意味を理解するや否や叫ぶ。

 襲撃だと。地下の機密地区に侵入者があり、警護の者では手におえず、増援の要請が入ったことを告げた。

「そんな、支部に襲撃だなんて……一体誰が。『死神』はここに居るのに……!」

 支部を襲撃するような人物で、且つそれほどの強さを持つ者など死神以外に思い当たるところがない。ノエルが不安げに声をあげる近くで、ハザマは静かに、呟いた。

「なるほど。所詮はここも……。『予定調和』は揺るぎませんか」

 予定調和。その言葉を聞きラグナが首を傾げる。けれど、それは口に出してまで聞くほど興味をそそらなかった。

「ハザマ大尉、すみません。私、地下の様子を見てきます」

 衛士と話していたせいか、ハザマの声が聞こえなかったらしいノエルが振り向く。

 そうして、ハザマが非戦闘員であることを思い出し、どこか安全なところに避難するように言う。ハザマが頷いたのを見て、いざ駆けだそうとした瞬間だった。

「待て、行くな!」

「えっ……?」

 死神が、ノエルを呼び止める。それに一瞬足を止めるノエルではあったが、彼の言っていることが分からず、頭を下げると去って行ってしまった。

 腕を必死に動かそうとしながら、彼は尚も叫ぶ――が、既に彼女は随分遠く。

「くそっ、何なんだこの感覚……っ」

 彼は、自分でも何故呼び止めたのか分からなかった。

 ただただ、何故か彼女を行かせてしまうのは良くない気がして、気が付けば叫んでいた。それでも止まらない彼女を止めるべく、何とかして拘束陣を解こうともがく彼に、ハザマは微笑んだ。

「では、私も失礼しますかね。巻き添えを食らったら堪りませんから」

 これから何が起こるか、しっかり観察させてもらう。

 そう言って、彼、ハザマはくるりと踵を返すと、近くに佇み不安げに彼らを見つめていた少女の肩を押す。そうやって行くように促し、自身もまた、一度だけ振り向くと歩き始めた。

 少女、ユリシアが牢屋を振り返る。澄んだ蒼の双眸と視線がかち合う。瞬間、何かが脈打つような感覚がして、ラグナは目を見開いた。

(アイツ、まだあんな奴と一緒に……)

 胸の内で呟き、そして彼は首を傾けた。

 彼女とは初対面のはずなのに、何故そんな事を思ったのだろうか。そんな疑問が浮上したが、それを確かめる術を彼は持っておらず。

 頭を掻こうとしても腕を動かせない。焦りと苛立ちが募るばかり。

「……この気配。彼が、来たのね。これで様々な事象が確定した……。結局『神』はまた、同じ夢を見るのね。じゃあ『あの子』は何をするつもりで……」

 少女が呟く悲しげな声は、誰にも届かず轟音に掻き消える。

 

 

 

 誰か居ないのか、何が起こっているのか、叫んでも呼びかけに応える者は誰一人居ない。それでも声を張り上げもがくことしかできないラグナを睨み付け、少女は言葉こそ綺麗なまま罵った。

「うるさいわね。先ほどからまるで野犬のようだわ。鳴いても無駄よ。だって、誰も居ないもの」

 彼女の口ぶりにますます苛立ってラグナは、強く睨み付ける。

 逆に彼女は何故そこまで落ち着いていられるのか。何が起きているかも分からないのに落ち着いていられる方が不思議だと。

「だったらどうするの? 拘束陣のせいで満足に身動きもできず、無様にもがくしか出来ない貴方に、一体何ができて?」

 少女の言葉に、ラグナだって思う。彼女だって捕まったままであるのに、どうしてそこまで偉そうに――。

 突然、地下牢全体が闇に包まれる。思わず驚きに声をあげてラグナは首を振るも景色は黒ばかりで見えやしない。停電。しかし、それは数秒の後に終わる。

 明るさが眩しく、手で目を覆い――気付く。

「身体が動く……? どうなってんだ」

 体を見下ろせば、今までラグナを縛っていた拘束陣も消え去っており、首を傾ける。今の一瞬に何があったのだと。しかし、そんなことを考えている暇などない。早く行かねば。

 頷き、腰に携えたままだった大剣を抜いて叩き付ければ、金属音が大きく鳴り響いて鉄格子が破壊される。ひしゃげ、扉が外れる。

 どうやらこの檻も今はただの檻らしい。

 そうして、いざ行こうとする彼。それを呼び止めるのは、やはりあの少女だった。

「どこへ行くのかしら。『逃げる』のだったら、私も連れて行ってほしいのだけれど」

「……『逃げ』ねぇよ。アイツを追う」

 関係ない、とそのまま無視することもできた。けれど、ラグナはそうせずに答える。アイツというのは、先の金髪の衛士のことだった。すると少女の紅い瞳が僅かに見開かれ、ラグナの瞳を見上げ、見つめる。そうして尚も問いを続けた。知り合いでもないのに、何故と。

 ラグナにもよく分からなかった。何故自身はこんなにも焦っているのか、何故彼女を追わなければいけないのか。

 けれど、逸る気持ちが警鐘を鳴らしているのだ。

 彼女をこのまま行かせればよくないことが起こる気がすると。ならば、それを止めなければと。

 ならば本能に従い、自身は行くまでだ。

「……そう、ご執心のようね」

 俯き、少女が呟く。別にそのような感情の類は持っていなかったけれど否定するのも面倒臭くて、ラグナはふいとそっぽを向いた。何故だか、こんなやり取りを前にした気がする。きっと気のせいだろうけれど。思いながら、ラグナは剣を振り上げた。

 勢いよく下ろした先は少女の居る牢。それも自身が入っていたのと同じように破壊し、彼は一度だけ少女を見る。

「テメェも、これで出られるだろ。逃げるんなら逃げるで、あとは好きにしな」

 そうして早口で言って、ラグナは彼らが出て行った出口へと全速力で駆けて行く。忙しない彼を見つめる少女の瞳は、どこか寂しげで、愛しげで。

 ふ、と小さく笑いを零す。

「落ち着きのないところは、まるで成長がないわね」

 呟き、彼女はゆっくりと瞬きをする。

 世界はあの少女が現れてから途端に、歪に形を変え始めた。けれどそれでも結局『本質』は変わらない。だけれど、彼はあの時とは違う。

「彼は――『ラグナ』は変わったわね。それが、滅日の間際に残った僅かな『希望』」

 そして、彼らについた『あの子』は何をしてくれるのだろうか。

 彼女は髪を翻し、歩み出す。

 見届けるために。

 


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