POSSIBLE DREAM   作:鈴河鳴

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第十二章 白手の昼

「……これより滅日を始める」

 背後には黒球と巨大な機械――この世界の神、マスターユニットアマテラス。

 少女が両手を掲げ、厳かな声で語る。

 途端、視界が眩んだ。

 

 

 

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「んん……」

 顔に眩しい光が降りかかる感覚に、彼女はゆっくりと目を開ける。

 寝ぼけてぼやける視界。片手で瞼を擦りながら前を真っ直ぐ見つめれば、見慣れた天井がそこにあった。ゆっくりと首を動かして隣を見る。すぐ目の前に、こちらを覗き込む男の顔。

「あぁ、起きましたか。ユリシア」

 糸のように細い目を薄く開けば、男の目つきが存外悪いことに気付く。長い睫毛の生え揃った瞼。その間から覗く、金の鋭い瞳は大好きな人物のものだった。

「はざま……さん……?」

「えぇ、私ですが、何か」

 確かめるようにユリシアは思わず名前を呼ぶ。彼の存在に驚いてか、それとも別の理由があってか、口から漏れる声は震えていて。男――ハザマはどうしたのかと首を傾けた。

 そこで、ユリシアは思い出す。

 彼は確か、テルミに聞いた話ではトリニティという少女に刺され、池に落ちたはずだ。それを助けるために自身は飛び込んで、でも駄目だったはず。

 そこからの記憶は曖昧だったけれど、もしかして彼は無事だったのだろうか。どこにももう怪我はないだろうか。自分は何故こんな所で寝ていたのだろうか。

 意識が覚醒すれば、同時に沢山の疑問が頭の中に溢れ出し、その勢いに合わせて上体をまるで跳ねるかのように起こした。

「はざまさん、ですか……? ほんとうに、ほんとうに……っ」

 頬や顎、肩に手をぺたぺたと触れさせて、本物かと、実体があるかと確かめる。

 確かにその体温があるのだかないのだか分からない感触も、その姿形も、先ほど聞いた声も全てハザマのものだ。思わず涙が溢れそうになるのを堪える。

「え、えぇ。勿論ハザマですよ。何を分かりきったことを聞いているんですか。それに、そんなに慌てて……」

 あまりにも驚き慌てた様子のユリシアに疑問を抱いて、身体を好きに触らせながらもハザマは眉根を寄せる。彼女が慌てる要因は、彼には思い当たらなかった。

「け、けがは、もう、だいじょうぶですか。どこも、いたいところ、ありませんですか」

「はぁ……? 怪我、ですか」

 ユリシアが何を言っているのか分からず、ハザマはますます疑問を感じて、戻したばかりの首をまた傾げる。けれど、それにユリシアもまた訳が分からなくなって、疑問に声を漏らす。

 もしかしてショックで忘れてしまったのだろうか。そう思えば、下がる眉尻。彼女は触れた手を離して、それを宙でせかせかと何かをこねるように動かしだす。

「だから、あの、その、けがして。あのおんなのひと、に……」

「あぁ、もしかして昨日、情報源だった女性の機嫌を損ねて刺されかけたことですか? いやぁ、流石にアレは私でも恐怖しましたね。でもそこまで心配することじゃ……」

 上手く話せないのはいつものことだが、今日は焦っているからか更にたどたどしい。

 それでも必死に話すユリシアの話に最初こそ眉をひそめていたが、やがてハザマは思い出したように問う――けれど、その内容はユリシアが思っていたものとは微妙に食い違いが起きていた。

「それはそれで、しんぱい、ですが、そうじゃなくて……! いけに、おちた、はずじゃ……」

 あの冷たい水に溶けるように体温を奪われていく感触も、沈んでいく感覚も、見つけた先の彼のずっしりとした重さも、ユリシアはしっかりと記憶に残していた。

「池? 私、水遊びをした記憶はありませんが。大丈夫ですか? 何か変な夢でも見ました?」

「へ……?」

 ユリシアがわざと変なことを言っているようには思えなくて、だけれど全くもって意味が分からなくて、夢でも見たのかとハザマは問う。

 間抜けな声がユリシアのふっくらとした唇から漏れた。

 ハザマが演技をしているようには見えなくて、ユリシアは自分が可笑しいのか、と思ってしまう。そうだ、きっと夢だったのだと咄嗟に自分に言い聞かせる。

「ご、ごめんなさい、です。ゆめ……ですよね。そんな、はざまさんが、しんじゃうなんて」

「私が死ぬ? 縁起でもないことを言わないでください。私がそんな簡単に死ぬわけないじゃないですか。……まぁ記憶に多少の混乱はあるようですけど、意識ははっきりしてますし、大丈夫ですね」

 ハザマが困ったように眉尻を下げつつも安心したように笑って言う。

 それなら、夢ならば。はっきりと覚えているその記憶の、どこからどこまでが夢だったのだろう。この世界を作ったらしいあの神は、自分が蒼だというのは、タケミカヅチという巨人は――。

 ハザマとテルミは今日も変わらず何か難しいことを考えながら平和に過ごしているのだろうか。

「そういえば、てるみさんは……?」

「テルミ……? 聞いたことのない名前ですね。どなたですか。本当に大丈夫ですか?」

 再度、間抜けた声があがる。

 目の前に居る人物は、何を言っているのだろう。先ほどからいつもはあるテルミの気配を感じないと思ったら、テルミを知らないだなんて、そんな。

 いつも一緒に居て、肉体を共有していたはずなのに、何故。

 それも、夢だったのだろうか。前の記憶を忘れてしまうほど、長い長い夢だったのか。

「あの、わたしは、いままで、なにを……。どうやって、はざまさんと、であいましたっけ」

「そんなことも忘れたんですか。……六月二日付けで、貴女を諜報部が保護したんじゃあないですか」

 彼が言うには、虐待を受けているのを見つけた衛士が回収、その後術式適正値が高いことから保護し、面倒事を押し付けるように諜報部に来て、名前も分からないということでハザマが名付けたということと、今は六月の下旬であること。

 そこにテルミという名は一切出ておらず、しかも彼との出会いも記憶とは全く違う内容だった。唯一、自身らが出会った日だけが一致しているくらいだ。

 ここは託児所でも厄介事を押し付ける都合の良い道具でもない、と愚痴を零すハザマに、ユリシアは俯いて静かに相槌を打つ。

 次いで、昨日は先述の女性とのやり取りもあり疲れたのだろう、帰ってくるや否や彼女をそのまま寝かしていたという彼に、彼女は静かに俯いた。

「……そう、ですか」

「満足しました?」

 これだけ聞けば納得したか。ハザマが問えば、違うと言いたい心を抑えてユリシアは頷いた。

 ハザマが離れるのに合わせて、彼女もかけられたシーツを剥いでベッドから降りる。

 すぐ近くの姿見を横目に見る。映る服はいつもの青と白を基調としたワンピースだ。この服のまま、寝てしまったのか。

「さて、今日はカグツチに調査へ行く日です。こちらの準備は済ませてありますので、さっさとユリシアも準備してくださいね」

「……あ、はい」

 ここはまだカグツチでも、カザモツでもなかったらしい。記憶では、会ってから間もなくカグツチに移ったと思うけれど、今回はそうではなかったらしい。

 なんでも、あの『死神』がカグツチに出没したという情報が入ってのことだった。危険だから置いていけると良かったけれど、そういうわけにもいかないため、連れて行くことになったというが。

「……ほんとうに、ゆめだった、でしょうか」

 ハザマの言う事はやはり信じられなくて、あの記憶を夢だと言い切るだけの自信が彼女にはなかったからそう呟いたけれど、今はそういうことにしておこう、と彼女は頷いた。

 

 

 

「……こんな辺鄙なところまで調査なんて本当、諜報部も楽をさせてくれませんよね。さて、早く部屋に――」

「よう、ハザマちゃん。元気にお仕事してっかぁ? と……ユリシアも居たか」

 戻りましょう。そう言いかけたところで、ハザマの前に立つ人影。

 それは、ユリシアのよく知るものだ。思わず、目を見開く。何と言えばいいのだろう。彼の存在は夢ではなかっただとか、自分を分かってくれるのだとか、色々と思うことはあったけれど、それらを言葉にするよりも早く、ハザマを見てしまった。ハザマが、首を傾ける。

「はい? えぇと……どちら様、でしょうか。この子のことも知っているようですけれど……」

「……マジかよやっぱりこのパターンかよ、面倒臭ぇなあ」

 眉根を寄せて、警戒するようにハザマが誰何(すいか)する。

 その反応に深く溜息をついて、やはりか、そう男は漏らすと、ユリシアを見る。

「……てるみ、さん……ですか?」

「知っているんですか?」

 見据えられると、そこでやっと声が出る。先ほどハザマにもしたように、確かめるように問う。

 思わずハザマがユリシアを見下ろして尋ねた。そして、出された名前に、思い当たる節があったように、声を漏らす。先ほどユリシアが夢で見たと言った人物の名だ。

「で、そのテルミさんとやらが何の御用でしょう。私、貴方とは面識もないと思うのですが……それに、統制機構の関係者とも思えませんし。ここ、関係者以外立ち入り禁止区間なんですが」

 けれど、それはどうでも良いらしい。ただ、何故自分の名前を知っていて、何故声をかけて、そもそも何故ここに居たのか。それだけを知りたかった。

「……これから楽しくなるってーのに、まーだそうやってお役所ごっこしてるつもりか? 本当は薄々テメェも気付いてんだろ、違和感があることによ」

 しかし、テルミはハザマの疑問には答えず、ただそう語る。眉間に皺を作りそうになるハザマではあったが、話が後半に近付くにつれ――ゆっくりと、その目を見開く。

 その瞳は、目の前に立つ男と同じ色をしていた。

「貴方は……何か、ご存じみたいですね」

 テルミの言う通りだ。先ほどユリシアに今までのことを説明したばかりだったけれど、ハザマも目が覚めてから、違和感を覚えていた。

 すぐに思い出す記憶が違和感を打ち消そうとしていたけれど、どこかに靄のようなものが残っていて、ユリシアが夢の内容を話したときなんかも、何故だか飲み込んでいる自分がいた。

 目の前のテルミという男は、それについて何か知っているのだろうか。そう思って、思わず聞かずにはいられなかった。

「ご存じ、と来たか。あぁそうだよ存じ上げてるよ。この世界の全てをな」

 ハザマの問いに、テルミはケッと吐き捨てるように言って、それからハザマを見つめ、口角を持ち上げ凶悪な笑みを作り上げる。

 テメェにも取り戻してもらう。

 ――全てを。

 

 

 

「……ル……ノエル!!」

 聞き慣れた声がして、ノエルはそっと睫毛を震わせた。目を開けるのも億劫ではあったけれど、応えなければいけない気がして、ゆっくりと瞬きをする。繰り返すうちに、ぼやけた視界が鮮明になっていく。

「んん……ツバキ……? それに、マコト……」

 見慣れた姿。紅い髪に青の瞳を持った少女と、どんぐりのような目と大きな尻尾が特徴的なもう一人の少女。自身の親友である二人だったけれど、何故ここに居るのだろうか。先ほどまで、自身は何をしていたのだっけ。

「ちょっとちょっと、ま~た寝ちゃってたの? 確かに魔操船に乗ってからかなり経つけどさ」

 心配するようにかけられる耳心地の良い声は正しくマコトのものだ。

 魔操船。確かに尻に触れる硬いシーツの感触と、窓の外の景色からして魔操船に乗っているのは確かなのだけれど、自身らは、魔操船に乗っていたのだったか。そもそも、行動を共にしていただろうか。眠気がとれないまま首を傾ける少女に、二人が眉尻を垂れて顔を見合わせる。

「ノエルったら、大丈夫? 私達第四師団は、指名手配犯である『死神』の捕縛と、行方不明になっているジン=キサラギ大尉の捜索のために、現在カグツチに向けて航行中……覚えてる?」

 ツバキが顔を覗きこんで、ゆっくりと語る。言われれば、確かにそうだったかもしれないとは思うが、そうだっただろうかと思うノエルがどこかに居た。

 ツバキが第四師団、というのに違和感を覚えたけれどそれを流して、ならばマコトは何故一緒にいるのだろう。自然と彼女の方に視線を向ければ、大きな溜息を吐くマコト。

「だから、あたしも諜報部から第四師団に合流して一緒に任務にあたる~って話だったでしょ」

 どこか悪いのか、と尚も心配してくる少女らに、困ったようにノエルは笑う。

 そうだ、確かそうだったはずだ。彼女らの言う通りのはずだ。

「ごめん、なんだかぼーっとしてたみたいで……私ったら、任務中なのに恥ずかしいな」

 頬をぽりっと掻いて、ノエルはそう言う。

 首を振り大丈夫だと告げる二人に安心を覚えた。この平和な時間がたまらなく幸せだと思う。

「今、どの辺りなんだろう」

「美味しいものとか沢山あるといいなぁ」

「マコト、遊びに行くんじゃないのよ」

 冗談を言って咎められ笑うマコト、いつでも真面目なツバキ。大事な二人の親友が、たまらなく愛しいと、そう思った。

 初めて来るはずの場所に、前に来たことがあるようなこのデジャヴも、彼女らに対する違和感も、この平和な時間の前には薄れてしまう。

 

 

 

「……ライチ殿ぉ!!」

 扉を勢いよく叩く音が、静寂にノイズを差す。声とその音からして、よほど急いでいるのだろう。慌ててすらりと背の高い女――この診療所の医者であるライチは、その戸を開けた。

 途端、飛び込んでくる大きな影に小さく悲鳴を漏らす。

「ライチ殿、大変でござる!! 今すぐこの者を診てくれぬか!」

 よくよく見てみれば、その飛び込んできた人物は見知った顔であった。

 いつも声が大きく元気で、悪い人ではないけれど単純すぎてたまに心配になる人物。イカルガの復興を志す忍、シシガミ=バングであった。

「ば、バングさん……? って、その人……」

 彼の後ろには、いつも担いでいる大きな五十五寸釘以外にもう一つ、何かが背負われていた。

 人だった。白い髪が揺れたのを見て老人かと一瞬思うけれど、違う。まだ若い。

 赤いジャケット。黒いインナー。目つきは悪く、左目は閉じているため見えないが、開いた右目は赤だ。腹を抑え、片腕をバングの肩に預けたその人物は、最近出回っている手配書のそれに特徴がぴったりと一致していた。

「詳しい話は後でござる、まずはこの者を助けて欲しいでござる。死ぬな、死ぬなでござるよ旅の者……!!」

 揺さぶり、意識が朦朧としながらも必死に歩こうとする男に、バングは励ますように声をかける。その声が頭に響くのか顔を顰める彼。ハッとして、ライチが駆け寄った。

「こっちよ、今すぐベッドに寝かせて。手当てするわ」

「相分かったでござる。旅の者、今ライチ殿が処置してくれるでござるからな……!」

 助手に道具の準備を呼びかけながら、彼女は診療所の奥へと彼らを案内した。

「んん……ここ、どこだ……? 俺は……」

 そうして数時間が経った頃だった。

 痛む頭。身体を起こそうとすれば、使おうとした腹部に鈍痛がはしる。

 見慣れぬ景色。自然と警戒して、彼は先の痛みも相まって目を見開く。咄嗟に首を動かし隣を見た。すると、視線に気付いたように、女がこちらを見る。

「目が覚めたみたいね。気分はどう?」

 駆け寄り、その女は話しかける――が、それよりも早く彼は痛む身体に鞭を打って身体を跳ね起こした。

 記憶にない人物への、明らかな警戒。

 何故なら、先まで彼は色んな人物に身に覚えのない罪で狙われ、追われ、殺されかけだってしたのだから。

「そんなに警戒しないで。大丈夫、ここには貴方を狙う人はいないわ」

 彼の気持ちを察したのだろう、女はそう言う。言われてすぐに警戒を解けるはずもないが、辺りを見れば特に人が居る気配もない。仕方なく、構えを解く。それを見て安心したように女は笑って、その後に名乗る。ライチ=フェイ=リンと。

「で……俺はなんでこんなところに」

 最後の記憶は、確か咎追いを自称する子供が連れた大きな人形に、腹を思い切り刺されたところまでだ。確か頭に響くうるさい声が聞こえて、倒れ込んだような気もするが――。

 あれからどうやって自身はここまで来たのか。男はどうにも思い出せなくて、眉根を寄せ問う。

「貴方、覚えてないの? バングさんが重傷を負った貴方をここまで連れて来てくれたのよ。貴方ったら、足元もおぼつかないのに必死に自分の足で歩こうとして……」

 少しだけ驚いたようにライチが目を見開き、問いを交えながら語る。

 追われていた自身をわざわざ運ぶ物好きが居たことにも驚きだが、それよりも彼は知らない名前に疑問を示した。バングとは誰なのだ、と。

「あぁ、彼なら……もうすぐ帰ってくると思……」

「ライチ殿! あの者の容体はどうなったでござるか!!」

 扉を勢いよく開け、飛び込んでくるのは大きな声で話す巨漢。キィンと頭に響くその叫びに眉根を寄せる怪我人と、苦笑するライチ。それからライチは、飛び込んできた巨漢を手で指して、語った。

「紹介するわ。彼が、貴方をここまで運んできてくれたバングさんよ」

 にこやかに笑いかけて紹介をする彼女に、バングは頷く。

 褐色の肌と、黄金の瞳、額にはクロスする二重の傷跡。夏だというのに赤いマフラーを巻いたその男は腕を組むと、にっと人好きのする笑顔を浮かべた。

「いやぁ、先ほど見つけたときは驚いたでござるよ。腹に大きな穴を開けていたのでござるからな。ここまで回復できたのも、ライチ殿のおかげでござる」

「何も私の力だけじゃないわ。リンファとバングさんのおかげでもあるし、何より、私が手をつける前に、目の前で傷はどんどん塞がっていったんだもの」

 隣に立つライチを横目に語るバング。そして、それに首を振るライチ。彼女が言ったことも気になりはするが、男のうるささにそんな気持ちは掻き消えた。

 それにしても、このうるさい男が自身を運んだのか、と彼は思う。不思議な口調で話す目の前の人物は、確かにお人好しの雰囲気が出ていたから疑うという考えが出てこなかったけれど。

 だからこそ、彼は思う。自身は先ほどから追われていた身だ。ならば彼らと共にいれば危険に合わせる可能性もある。そんなわけにはいかないし、何より自分はやるべき事がある気がして。

「……そうか。助かった。んじゃ、俺は行くわ」

「待って、まだ傷は塞がりきっていないわ。それに、行く宛でもあるの? ……『死神』さん」

 素っ気なく言って、出口へ向けて歩き出す彼。横を通り過ぎた彼を、黒髪を翻し振り返ってライチは制止の声をかけた。呼び名に、露骨に彼が反応し足を止める。ライチを彼もまた振り返る。

 鋭く、先ほど以上の警戒を露わにして睨み付ける。

「テメェ……」

「勘違いしないで。先ほども言ったように、私達は貴方を通報してどうこうなんてつもりはないわ。ただ医者として患者を放っておくわけにはいかないだけよ。それがどんな人物であろうと。それも貴方、巷で噂の『死神』なんでしょう? それなら余計だわ」

 しかし彼の表情にも怯えることはなく、ライチは淡々と言ってのける。

 強い、瞳だった。それに彼の方が引けそうになったけれど、尚も彼は首を横に振る。

 彼には分からなかった。自身が死神と呼ばれ追われている理由も、それで尚も守ろうとしてくれている人物がいることも。

「……俺がその『死神』なのかも分からないけどな」

 彼がそう呟くと、ライチは間抜けた声をあげる。どういうことだ、と問う表情は彼の言葉の意味を薄々理解していて尚、信じられないというそれだ。

「……そのまんまだ。俺がその反逆者とかいう奴なのかも、それどころ今まで何をしていたかも、名前さえ覚えてねぇんだ」

 そんなライチの問いに、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて男は語る。

 白い頭髪を荒く数度引っ掻き、そっぽを向く。何故思い出せないのかも分からず彼自身も、とても困っていた。

 俗に謂う記憶喪失の類なのだろう。

 けれどそれをどうにかできるはずもなくて、深く溜息を吐く。

「……それなら尚更困ったわね。ここには『死神』の捜索と調査で『イカルガの英雄』カグラ=ムツキも来ているし……」

 ライチが口に出した言葉に反応して、男はライチに顔を向ける。

 眉根を寄せ、まるでライチがおかしなことを言ったかのように首を傾ける。

「カグラ=ムツキが……イカルガの英雄?」

「えぇ。何かおかしなことを言ったかしら? それとも、何か思い出した?」

 先ほど記憶がないと言ったばかりの彼が反応したことに、きょとりとライチは目を丸くする。

 その名を知っているような彼の口ぶりだったが、しかし問われた先の彼はこめかみに手を当て考える素振りを見せるものの、首を振る。

「いや……分かんねぇ。ただ、何となく違和感がしただけだ」

 何故だろう。

 そんな名前は知るはずもないのに。自身のことすら思い出せないというのに、何故だか知っているような気がしたのだ。それどころか、カグラ=ムツキが『イカルガの英雄』と呼ばれていることに違和感すら覚えて、でもその違和感の正体も理由も思い出せない。

 無理に思い出そうとすると、頭がずきずきと痛みを訴えだすのだ。

「そう。それは残念だわ。……にしても『イカルガの英雄』が来ているとなれば、ここも安全じゃないわね……どこか、いい隠れ場所はないかしら」

 ここにまで調査の手が入らないとは考えにくい。もし衛士に匿っているのが見つかれば、自身や助手、バング達だってただでは済まないだろう。彼らは、反逆者に対して異常なほどに容赦がないのだから。

 考え込むライチに、やはり悪いと言って彼が歩き出そうとしたとき――。

「それなら、カカ族の村に来ればいいニャス!!」

 声と共に前方から飛びかかってくる何かに、彼は思わず身を横に翻す。

 カーペットを敷いた床に、顔から勢いよく突っ込んだ『それ』は、淡い色のフードを被った人型の何かだった。少女と呼ぶのが一番、大きさ的にも近いだろう。それは先ほど彼が、ここに来る前に出会った人物にそっくり――否、同じ形をしていた。

「タオ!? なんでここに……」

 タオと呼ばれたその人物は暫く身体を痙攣させた後、ゆっくりと起き上がる。

 その顔は赤く腫れている――かと思いきや、フードの中は影のような闇がぽっかりと丸く浮かんでいるのだ。そこに、赤く光る丸い目と、ニィと笑った三日月状の口があるのみ。

「さっき飛ばされてから『いい人』の匂いを追っかけて来たニャス!」

「……すげぇな、お前」

 一瞬、彼は彼女のことを犬のようだと思う。そのフードの頭には、ぴんと立った三角の耳が二つ立っていたし、口調もどちらかというと猫のようだったけれど。

 そして『いい人』というのは、タオが彼につけたあだ名だ。

 なんでも、飯を奢ってくれたから『いい人』らしいがそんなことは今の彼らにはどうでもよく。

「……うん。カカ族の村なら、いいかもしれないわね」

 ふと、男とタオの後ろでライチが頷き、呟く。途端、その場に居た人達の視線が、一気にライチへと集まる。何がだ、と白髪が問うとライチはそちらに視線を向けて微笑んだ。

「貴方の隠れ場所よ。タオの出身であるカカ族の村は、存在自体知っている人が極少数だし、下層の方にあるから、そこまで調査に来る人が居るとは思えないわ」

 良い案だと思わないかと、ライチは首を僅かばかり傾けて問う。

 彼にはよく分からなかったが、彼女が言うならば良いのかもしれない。できるのであれば、自身だって捕まりたくはないのだから、素直に彼は頷く。

「あぁ。……捕まる確率が低くなるってんなら、それで頼むわ」

「決まりね。タオ、案内をお願いしてもいいかしら?」

 首肯し、ライチはタオへ視線を向け言う。彼女の言葉に元気よく返事をして、すぐさま動き出す。それにライチが着いて行こうとしたのに、彼は疑問を覚える。

「女医さんまで来るのか?」

「だって、まだ傷は治りきっていないもの。医者として、最後まで責任を持って面倒をみないと」

 強情な女だ、と思ってしまう。けれど、それを言うのは失礼だろうからと何とかして飲み込んだ。こんな指名手配犯らしい人間のことなんか放っておけばいいのに、どこまでお人好しなのだろうと彼は思う。

「なぬっ、ライチ殿と二人きりでござるか! 羨ま……いや、それなら拙者も行くでござる」

「いやだわ、二人きりなんて。タオも居るじゃない」

 着いて行きたがるバングに、ライチが言う。いつまで経っても来ない面子を心配したのか、扉からタオが顔を覗かせるのを一瞥して、ライチは首を横に振ると、

「バングさんが来てくれると心強いのは確かだけれど、バングさんには統制機構の人達が来ないか見張っていてくれると助かるわ」

 でも、とバングが言いかける。しかし、ライチが静かにバングを見つめ「バングさんにしかできないこと」だと言えば、渋々と眉尻を下げて笑い、頷いた。

 バングにとって、ライチからそうやって頼ってもらえることは嬉しいことだったから。何故なら、彼はライチのことが――。

「よし、相分かったでござる。そうと決まれば、拙者は見張りに行ってくるでござるよ! ライチ殿達も、お気を付けてでござる!」

 とう、と掛け声をかけるや否や、バングは消える。どういう術を使っているのかは分からないが、いつの間にか扉の向こうに居るのが見えた気がした。

「じゃあ、私達も行きましょうか」

 それを見て放心していた彼らだったが、やがてライチが手を叩くと同時にハッと正気付く。

 あぁ、と頷き歩き出す白髪に合わせ、ライチとタオカカもまたカカ族の村への道を進みだした。

 カグツチの発展に向けて賑やかさを保ちながらも、どこか仄暗さのある浪人街とは違い、賑やかさと明るさだけが立ち込める、百人だけの小さな村。

 下層の街よりも魔素は濃いが、それでもカカ族は魔素への耐性がとても高いため、暮らしていても平気なのだとか。

 そして元々カグツチが建設される前からの先住民だったカカ族が下の下まで追いやられた結果、誰も寄りつかない構造の隙間にひっそりと村を作って暮らしているのだと道中で彼は聞いていた。

 そこかしこを駆け回るフードを被った小さな影達が元気よくはしゃぐ様は案内人の少女にとてもそっくりで、とてもひっそりしているとは思えない。丸い影に穴を開けたような顔も、ピンと耳の立ったフードも同じ。

 それにしてもどこかから漂ってくる匂いは何を使っているのだろうか、食欲をそそられ――。

「……血の匂いがするのう。怪我人かね?」

 ふと、しわがれた女の声が近くから届き、タオを筆頭として白髪の男、ライチは声の方向を振り向いた。そこに居たのは、骸骨を模した仮面をつけた、やはり小さな人物だった。他と同じフードを着ているが、その耳は老いた声に相応しく垂れている。

 身の丈ほどもある杖をついて歩み寄ってくるその人物へ、ライチが一歩前に出る。

「長老。すみません……突然お騒がせしてしまって」

 ライチが丁寧な言葉を使うということは、ここの偉い人物なのだろうか。長老と言うのだから、きっとそうだ。申し訳なさそうに謝るライチに、からからと笑って、その小さな長老は首を横に振った。

「ライチの連れならば、構わんよ。時折こちらの怪我人も見てもらっておるのだから」

 優しくそう言う声には聡明さが感じ取れて、なるほどライチがかしこまる理由も分かる気がする、と彼は思う。

「寝床が必要にゃらば、儂(わし)の家を使うと良い。人間には少々狭いだろうが……横ににゃるくらいはできるじゃろう」

 そして老婆はそう語ると、今しがた自身が出てきたこじんまりとした小屋を手を差し出すことで示す。確かに狭そうではあるが、長老の言う通り寝るだけなら事足りそうな大きさだった。

 長老の気遣いに感謝するライチの傍らで、彼は気怠げに零す。

「何か妙だよな。俺は指名手配犯のはずで、自身の身を危険に晒すかもしれない相手に、どうしてそこまで肩入れすんだよ」

 疑問だった。彼女は先のバングやタオのように、頭が良くないわけでも相当なお人好しというわけにも思えない。ならば、自身を賞金目当てで通報したり、そうしなくても突き放すことだってできたはずだ。けれど、何故わざわざ匿うようなことをするのか。

「……肩入れってわけじゃないわ。さっきも言ったように医者として放っておけないだけよ」

「いい人と乳の人、長老の家に行かないニャス?」

 彼の言葉に少しだけ間を置いて答えるライチ。彼女に胡乱げな目を向けたまま適当に相槌を打つ彼。そんな二人がいつまで経っても動こうとしないのを見て、口許に手を添えたタオが首を九十度に傾けて問う。それを受けてやっと気付いたように二人は各々に声をあげ、歩き出す。

 その後ろを追いかけるようにして、ぴょこぴょことタオもまた歩いていた。

「……なぁ、一つ聞いていいか」

「何かしら」

 家に入ればすぐにお出迎えするベッドに恐る恐る腰かけながら、白髪は口を開く。赤のジャケットを傍らに置くと、彼はそう口にする。首を傾け用件を尋ねるライチに、あぁ、と頷くと彼は、先ほど気になったことをここに来てやっと話し出した。

「さっき『イカルガの英雄』って言ってたけどよ……ソイツって何者なんだ?」

 イカルガの英雄が、カグラ=ムツキという人物だと聞いた瞬間に覚えた違和感。何故違和感を感じたのかは分からないけれど、そもそも『イカルガの英雄』とは何者なのか。何故英雄と呼ばれているのかも、そもそもイカルガが何かも分からなかった。

「そうね……。数年前に、イカルガ内戦という争いがあったの。イカルガという地域を昔から治めていた『テンジョウ』という人が、統制機構へ反旗を翻したところから始まったわ」

 そうして、いくつかの階層都市を戦場にして、内戦は激化していく中、その戦火が広がりきらないうちに、内戦を終結させたのが『イカルガの英雄』カグラ=ムツキなのだと彼女は語る。

 なんでも、最前線に出て戦った、統制機構の優秀な衛士なのだと。

「イカルガ……」

 カグラの話など、彼にはどうでもよくなっていた。それよりも、戦場となった地域である『イカルガ』という単語が、今の話を受けた後だとやけに聞き覚えがある気がして。

 何度かその名を繰り返し呟く。

 何故だろう、知っている。いや、知っているどころではない。あの日、あの場所で、自身は。

 頭の中にノイズ混じりに現れる光景が、知っていると訴えかけてくるのに。断片的なものばかりで、よく分からない。あと少しで思い出せそうなところまで来ているというのに。

「っ……ぐ」

 頭が痛みを訴え、思わず呻く。荒くなる呼吸。思い出せなかった。悔しさに、拳を握る。

 その様子に慌ててライチが声をかける。大丈夫、落ち着いて。その優しさに満ちた声音に、やっと彼は呼吸を落ち着けだす。

「焦ってはダメよ。相当な負荷がかかってるはずなんだから。しばらく休んでいて。私は長老と話してくるわ」

 やがて、彼が落ち着きを取り戻した頃にそう言うと、彼の相槌に送られ彼女は立ち上がり、家を出る。その背を見送りながら、彼――ラグナは、何に向けるわけでもなく溜息を吐いた。

 何故自身は、記憶を失ったりなどしたのだろうか。何か、とんでもないことを忘れているような気がするのに、いつまで経っても思い出せない自分に少しだけ苛立ちを感じた。

 

 

 

「うーん……ここ、だったよね……『死神』の目撃情報があった場所って……」

 ノエルは一人、カグツチの下層周辺を彷徨っていた。

 統制機構が指名手配中の反逆者にしてSS級の賞金首である『死神』の調査と捜索の任務で彼女は来ていたのだ。が、先ほど入った繁華街での食い逃げの通報はアテにならなかったし、探しているもう一人の人物も見つからない。だから、今度の情報こそ合っていて欲しいのだけれど。

「あれ、あの人って……」

 辺りを見回して、目的の人物が居ないか探していると、ふと見慣れない人影が目に入ってノエルは首を傾げる。少し迷った後に頷き、自分と同じように何かを探しているらしいその人物に向けて歩き出した。

「すみません。失礼ですが、ここが現在、部外者は立ち入り禁止なのをご存じでしょうか」

 白い髪をしたその女の背に声をかけると、勢いよくその人物は振り向く。

 見開かれた目の下、鼻柱の上には大きな傷が真一文字に刻まれていた。

 そんな彼女は、いつまで経っても話し出さない。それを不審に思い、眉尻を垂れそうになったノエルであったが――。

「きゃっ……!!」

 吹きだされる熱と眩しさに小さく悲鳴をあげ後ろに飛び退く。何をするのだと思ったときには、目の前の彼女は既に構えていて、ノエルもまた身構え、自身の得物をいつでも出せるようにした。

 統制機構による政治は縦割り行政の形だ。それを良しと思わない人も多い。ならば、攻撃してきた彼女もまたその一人なのだろうか。

「待ってください、私は貴女を捕まえてどうこうというつもりはなくて……っ」

「何だと……?」

 さらに攻撃をしてこようとする彼女を、反逆罪だと言って捕えることもできた。けれど、何となく事情を知りたくて、身を構えたままに彼女は首を横に振った。

 それを疑問に思ったのだろう。統制機構の制服を着た人物が、まさかそんな発言をするだなんて。自然と、彼女も佇まいを直して首を傾げた。

「ただ、関係者以外がどうしてここに居るのか気になっただけなんです。それを大人しく話してくれさえすれば、見逃すことも考えているんですが……」

 その女は腕を組み、警戒しながらもノエルの話を最後まで聞く。溜息を吐き、ゆっくりと口を開くのを見て安心するノエル。

「しかし、貴様にそれを話す義理も義務もないな。私はただ己の任務を果たすだけだ」

 しかし、その口から紡がれる言葉はノエルの期待を裏切った。任務、ということは他機関の依頼を受けた傭兵か何かだろうということは分かるけれど、瞬き一つで目つきを鋭い刃のように変える女に、足が竦んだ。

「……退け、バレット」

「隊長……!?」

 けれど少し離れた場所から男の声がして、バレットと呼ばれた女は振り向く。

 何かしらを言おうとしたのだろう。口をもごもごと動かし、けれど隊長と呼んだ彼の言うことに結局は従い、ノエルを一度睨み付けた後に彼女は駆けて行った。

 嵐のようなその様子に、ノエルは一瞬混乱した。遠くに見えた大きな赤い影――声の主だろうその人物は、確か第七機関の赤鬼のものだ。

「あれは……えっと……あっ、取り敢えず本部に連絡しなきゃ!」

 疑問に満ち混乱する頭の中。しかしすぐにやるべきことを思い出し、ノエルは通信機を取り出す。ボタンを押したりして操作し、応援を呼ぶべく通信を試みるが――。

「あれ、繋がらない……なんでだろ」

 通信が、繋がらないのだ。

「通信なら無駄ですよ」

 勢いよく振り返った先に居たのは、ひょろりとした長躯の男だ。目深に被った黒いハットの裾から覗く髪は、鮮やかな緑色。黒いスーツに身を包んだその男の台詞は、何か知っている人物のそれだ。露骨に警戒し、見慣れぬその人物に距離を取るノエル。

「あぁ、すみません、驚かせてしまって。私、諜報部所属のハザマと申します。階級は……大尉だったかな」

 それに慌てて顔の前で手を振って、男――ハザマは名乗る。

 自身も統制機構の人物だ、と。それに驚いて、ノエルは目を丸くする。同じ統制機構の、しかも二階級も上だったなんて。自身と違い制服に身を包んでいないため統制機構の衛士だとは分かりづらいが、諜報部であるなら、気取られぬようにするのも仕事のためだと思うと頷ける。

「し、失礼しました!! 上官に対して失礼な態度を取ってしまい……」

「いえ、大丈夫ですよ。それに私、堅苦しいのは少し苦手でして」

 頭(かぶり)を振って、ハザマは苦笑し語る。それにつられて自然とノエルも気を緩めると、そのまま気になっていたことを問いかける。

「それで……ハザマ大尉は、どうしてこちらに? 通信が無駄って……」

「あぁ、それはですね」

 ノエルの問いに、そう前置いてハザマは一、二拍ほどの間を置くと語り出す。

 自身が『死神』の調査の任務で来ていることを。同じだと言う彼女に、さも今初めて知ったかのような顔をしてハザマは「ならば丁度いい」と告げる。

 あの『死神』の居場所に関する情報を手に入れたらしいが、何やら通信が妨害されているらしく通信機が使えなくて困っていたのだ、だから自身が本部に連絡しに行く間に向かい、監視をしてくれないか――ハザマが頼めば、驚いたようにノエルは目をまた見開くけれど、すぐに頷く。上官の助けになり、且つ自分の仕事も達成できるのだから。

「それで、その居場所というのは……?」

「実は、私も最近存在を知ったばかりなのですが、カグツチのここよりも下層にあるカカ族の村というところです。良いですか? 『カカ族の村』ですよ」

 念を押すようなハザマの台詞に、ノエルは一度首を傾げそうになるも大きく頷いた。

 聞いたことのない名前であったが、諜報部が間違えるとは思えなかったし、何より何か聞き覚えのある気がして。

 お任せください、そう言うと彼女は駆けて行く。その背を見送り――ハザマはニィと凶悪に口角を持ち上げた。

「これで良いんですよね。ねぇ……テルミさん」

「あぁ、上出来だ」

 虚空に話しかければ、近くに現れるのはハザマと同じ顔をした男だ。首肯し、男はそう囁くと同じように笑う。

「おわりました……ですか?」

 今度は鈴を転がしたような幼い甘やかな声。聞き慣れたたどたどしい話し方の人物で思い当たるのは一人しかいない。

 振り向き、ハザマは「えぇ」と首肯する。そして物陰から顔を覗かせる少女へ静かに歩み寄ると、にこやかに微笑みかける。彼女の大好きな表情の一つだった。

「いい子で待っていましたね、ユリシア。さて……私達は私達で行動しましょう。そう……『取り戻す』ために、ね」

 

 

 

   2

 

「……間違いないな」

 第十三階層都市、某所。ジン=キサラギは佇み、辺りを見回していた。

「死神が襲撃する前の、あのときと何もかもが同じ形をしている……いや、何もかもではないか」

 溜息に混ぜて呟き、ふと俯けていた顔を上げ、虚空に目を向ける。途端、その視線の先には女が現れた。

 半透明で、その後ろの景色が透けて見える幽霊のような女。否、幽霊というのは強ち間違いでもなかった。何故なら、彼女の肉体は暗黒大戦が終わると同時に滅んでいたし、その時に死なずとも寿命を迎えとうに死んでいる年齢だ。

 白のフードから溢れるふわふわとしたプラチナブロンドを二つに纏めたその女性は、心配するようにジンを見て、問う。大丈夫か、と。

「問題はない。貴様こそ、支障なく意識を保っているようだな……トリニティ=グラスフィール」

 トリニティ。ジンが呼んだその名が、彼女の名前だった。

 首肯すると、間延びした口調でゆっくりとトリニティは口にする。ジンが意識と記憶を乱されることなく保っているから、自身もこうして保たれているのだと。

「ふん……僕の力ではない。秩序の力のおかげだろう」

 そんなトリニティに、しかし冷たい口調でジンは告げる。顔を逸らした。そして、そのままに口を再度開く。『これ』は一体どういうことなのだと。

 その問いに対する答えを、トリニティは持っていなかった。申し訳なさそうに謝って、強いて言うのであればとても不安定な場であることは分かると紡ぐ。

 ジンもそれは薄々察していたのだろう。さして驚いた様子もなく頷いた。そうでなければ、彼らの記憶が揃ってどうにかなったとしか言いようがない。

 何故なら彼らは。

 ――先ほどまで、ヤビコの統制機構支部に居たはずなのだから。

 元々、彼はあのとき暴走したラグナに襲われ、重体であった。そして傷の治療をするため、ヤビコに滞在していたのだが。

 彼の武器であるアークエネミー『氷剣・ユキアネサ』に憑りついたトリニティに頼まれ、彼女が宿っていた無兆鈴を持つ子供『プラチナ=ザ=トリニティ』を探すことを決意。トリニティの錬金術で動ける肉体を得た、というところまでが彼らの覚えている記憶だ。

 だというのに、肉体を得た直後にはカグツチに立っていたのだ。そこまでどうやって移動したかも覚えていないし、何より得た情報によるとタケミカヅチも何もかも現れていない。それどころか人間の殆どが魔素化されたはずなのに、沢山の人で賑わっている。

 そのうえラグナ=ザ=ブラッドエッジがまだ統制機構を襲撃していないというのだから驚きだ。

「とにかく……あの子供を探さねばならないな」

「ええ……すみません、お願いします」

 

 

 

 賑やかな村の中に、長い金髪を靡かせて一人の少女が現れる。

 緊張した面持ちのその人物は、この空間には不釣合いでとても浮いていて、異変を察知した忍は駆けて行く。

 とある小屋の前まで辿り着くと、勢いよく扉を開けて飛び込んだ。

「大変でござるよぉおっ!!」

「ぬおっ、いきなり入ってくるんじゃねえよオッサン!!」

 大きな声をあげるバングに、驚きラグナもまた悲鳴のような声をあげた。

 それに謝りながらも、大変なのだとバングは言う。その慌てた様子にただならぬ気配を感じて、何があったのだと問えば、

「拙者、図書館の動向を探るため、上層まで偵察に行っていたでござる。その帰り、心配になってここまで来たら、入り口に衛士が立っていたでござる……!!」

 バングの回答に思わず勢いよく吹き出し、咳き込んだ。

 俯きながら大きく開かれた双眸は、焦点が定まらないながらバングを睨み付ける。それを早く言え、と叫ぶラグナの傍でライチが大変だと慌て、その言葉を足元の小さな子供のカカ族が復唱する。一気に賑やかさを増す部屋の中、ラグナは頭を抱えて唸った。

「俺はまだ捕まりたくねぇぞ! 記憶も戻ってねぇし……おいタオ、なんか近くに抜け道とかねぇのか!?」

「うーん、裏の方に『げすいど~』があるにはあるニャスが、危ないからオススメしないニャス」

 縋る先は、この村まで自身らを連れて来た案内人の少女。

 その少女は一度、穴のような赤い目を細め考え込むように唸ると、言いづらそうに告げる。オススメしないと言われれば、そうか、と頷くしかなかった。

「私が様子を見てくるわ。私がただの町医者だってことは、他の衛士さん達が証明してくれるはずだし……切り抜けてみせるわ」

「んなっ……ライチ殿、危険でござるよ、ここは拙者に!」

 皆が慌て悩む中、声をあげたのはライチだ。

 危険な目に合わせまいとバングが引き留めるも、彼女は首を振り穏やかな笑みを浮かべる。

 大丈夫だから、ここで皆を守っていて。そう言われれば、バングは返す言葉がなかった。自身よりも彼女の方が賢い人間であることはバングの方が理解していたから、渋々ではあったけれど彼女を信頼して送り出すように頷いた。

「相分かったでござる。ここは拙者に任せるでござるよ。ライチ殿も、無茶はしないように」

「えぇ、分かっているわ。それじゃあ、待っていて」

 そう言って、彼女は扉を開けると去って行った。

 扉が閉まるのを見届けた後、バングは先までラグナが居た方向を振り返り、

「安心するでござる。ライチ殿はとても賢い故、そう簡単に捕まるなんてことは……」

 言いながら、そこを見る。言葉が途切れた。それを不思議がって、そこに居た面々は揃って同じ方向を見て、目を瞠る。

 居ないのだ。そこに、先ほどまで居た白髪の男の姿はない。置いていたジャケットと共に忽然(こつぜん)として姿を消していた。

「ありゃ、いい人どこ行っちゃったニャスかね」

「な、ななな……た、大変でござる――――!!」

 せっかく彼が捕まらないようにとライチが行ってしまったのに、その守られる側である男がどこかへ行ってしまったのだから大変だ。

 もしそれで見つかりでもしたら。彼はまだ記憶も戻っていないのに。

「ライチ殿に知らせてくるでござる……!!」

 そんな言葉を残して、バングはすぐさま家を出て行った。

 残される皆は、茫然と佇みその扉を見つめるのみ。

 

 

 

「貴女……こんなところで、何をしているの?」

 村の入り口に佇み辺りを見回す少女に歩み寄る、一人の影。背の高いそれは身体のラインからして女だろう。その人物は、少女の傍まで来ると、問いかける。

 別のことに集中していたのか、少女は声をかけられてやっと彼女――ライチの存在に気付き、目を丸くする。

「あっ……えーと」

 少女は問われた内容を理解すると、迷ったように口をもごもごと動かす。何と言うべきなのか、悩んでいた。だって、もしかしたら仲間かもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 不必要な警戒を生む理由はなく、どうすればいいのか分からなくなって、視線を泳がせ――少ししてからやっと正直に話すことを決意した。首を僅かに縦に振ると、

「実は現在、ここに『死神』が現れたとの情報が入り調査に来た次第です」

 そう言い、少女ノエルはポケットから一枚の紙を取り出した。折りたたまれた羊皮紙に似たそれを開くと差し出して、彼女はライチの顔色を窺う。

「この人物に見覚えはありませんか?」

 手配書、それも『死神』のものだ。彼について知っているならば何かしら反応を見せるはずだと思っての行動だったけれど、差し出した手配書を受け取り見つめるライチは、顔色一つ変えないでノエルを見た。

「あら、死神の手配書ね。でも……私は見ていないわ。力にならなくてごめんなさい」

 そう言って彼女は焦るどころか寧ろ申し訳なさそうに言うのだから、やはり知らないのだろうとノエルは思う。だから知らないのに疑ってしまったと逆にノエルまでが申し訳なく思ってしまった。

「い、いえ! 知らないならいいんです。疑ってしまってすみません」

 両手を顔の前で横に振った後、ぺこりと軽く会釈する。そうして顔を上げたノエルは、ふとライチの後ろから迫ってくる影に気付いた。目を丸くしてそれを眺めていれば、ライチも視線に気付きどうしたのかと後ろを振り向く。そして、同様に――否、ノエル以上に目を大きく見開いた。

 近付くにつれて、叫んでいるらしき声が聞こえてくる。よく通るその声がすぐ近くまで来たところで、ライチは少し声を大きくして問いかけた。

「ライチ殿ぉぉぉお!! 大変、大変でござる!!」

「バングさん!? どうしてここに……」

 あまりに慌てた様子のバングに嫌な予感がしながら、ライチが問えばバングは少しどもった後に、こう叫ぶ。『死神』が逃げた、と。

「死神が!? ……さっき死神は来ていないって……」

「……あ」

 冷や汗が褐色の頬を伝う。

 伝えることに必死で、衛士の存在など眼中になかったのだ。結果起きてしまったこの失敗。やってしまった、と漏れる声。沈黙。

「もうっ! 彼はどこに行ったの?」

 沈黙を破る声はライチのものだ。

 眉を少しばかり吊り上げて問う彼女の気迫に圧されながらバングが紡ぐのは、分からないという言葉。気が付いたときには居なくなっていたのだから。

「そう、分かったわ。私も探すから、バングさんも探してちょうだい! 私は村の裏側に行くわ」

 彼女は言うや否や駆けて行く。確か、先ほどタオが『下水道』のことを口にしていたはずだ。なら、村の裏側に居るかもしれない。言葉の最後、何かを言ったように口が動いていたけれど、その声は誰にも届かなかった。

「ま、待ちなさい……!!」

 頷きバングも跳ねるように走って行き――慌てて、ノエルは二手に分かれた彼らのどちらを追いかけるか悩んだ後、ライチを追って駆けだした。

 

 

 

「暗いし、臭ぇ……マジでこんなところが外に繋がってんのか? 案内にタオも連れて来れば良かったな……」

 カカ族の村の、裏手から繋がる『下水道』と呼ばれるその場所は、名前の通りに生活排水などの汚れた水が通っているらしく、凄まじい臭いに鼻を摘ままずにはいられない。

 なるべく汚れないようにとは思うものの、上には蜘蛛の巣、下には点検用の道すら水に侵されており、壁は埃などの汚れだらけ。汚れない方が無理というもので、仕方なく腕で鼻を塞ぎながらラグナは進んでいく。薄暗く、少し先は闇だ。

 それに比べ、あそこはとても賑やかな場所だった、とラグナは思い出す。あそこに居たときに思い出しかけた記憶は何だったのか。自身は何を忘れているのか。

 何かを引きずるような音もするが、きっと入り込んだ動物の類だろう。それにしても、ひどい臭いだ。思いながら進むにつれて、何故だか脈の打つ速度が速くなっていく。右腕が疼くような気もして、こんなところはさっさと出てしまいたいけれど、あとどれくらいかかるのだろう。

「――誰だ!」

 高い、音が聞こえた気がした。音というよりは、何かの『声』という方が正しい気がして、ラグナは後ろを振り向く。誰も居ない。横や前を見る。やはり居ない。

 まさか、居るはずもない……ゆっくりと顔を天井に向ける。何かが滴っているのが見えて、目を凝らしもう少し上を見――。

「キヒャヒャヒャヒャ!! 見つ――た、蒼、蒼蒼蒼、欠片!」

 そこには、目を凝らさないと分からないほど闇と同化した、黒い何かが居た。

 ラグナが認識した瞬間だった。それは落下し、こちらに向けて飛びついてくる。思わず握った大剣を叩き付けると、それは素早く身を引いた。対峙する、黒い異形。声を発したり蠢いていることから多分生きているのだろうが、生物と言うにはあまりにもラグナの記憶と一致するものがなかった。『化け物』というのが相応しいのだろう。

「ソ、我……欲シイ、深淵、至……オ、その欠片ヲ寄越せぇ!」

 先ほど剣を叩き付けたというのに手応えがある様子はなく、叫び、それは高く耳障りな声で笑いながら彼へと襲い掛かる。舌を打つ。今度はこんなのが相手か、そう思いながら彼は剣を握り直し振りかざした。

 やけに手に馴染む剣。振る感覚が懐かしく感じる。

 疑問を覚えながら振り回してもその黒い物体に沈み込むだけで、一向にダメージは与えられないようだった。

「チッ、この化け物が……!!」

「キヒ、キヒヒ……蒼――弱い……我、本物だ!」

 襲いかかるのを払うのが精いっぱいで、笑う声が癇に障る。こちらは体力もそれなりに削られているというのに、相手は動きが遅くなることもなく。

「……この反応……蒼、感じるぞ。強い蒼、感じる! こっち、本物――蒼か!!」

 ふと、黒いドロドロとした物体は後ろを見遣る。どこを見ているのだ、と叫ぶラグナにも構わず、それはやがて勢いよくどこかへ向かって行く。

 戦わないに越したことはないし、わざわざ追いかける理由も同様になかったからラグナは首を傾げながらもそれを見送った。

 逃げたのだろうか。けれど、まだ右腕の疼きが収まらない。

 この先に何かがあるのだろうかと、彼は何に向けるわけでもなく呟いた。

 直後、耳に届くのは、女の悲鳴だった。

「きゃぁぁああ!!」

「なっ……!? あっちか……!」

 驚き、居ても立ってもいられずラグナは声のした方向へと走り出す。

 黒い化け物が入ったところへと自身も身を滑り込ませれば、

「こ、来ないで……!!」

 声を震わせながら双銃を構え、撃つ女が居た。

 金髪を翻して、何度も弾を打ち込む。火花が散った。けれど、何度女が撃ったところで『それ』にダメージは通らず、寧ろ下品な甲高い笑いをあげるのみだ。

「キヒヒ、蒼――けじゃなく、アーク……ミーまで持っ――るとは!!」

 歓喜したように叫ぶ。水に飲まれるようなごぽごぽという音のせいで声が途切れ途切れにしか聞き取れなかったが。

 攻撃が効かないことに驚き、目を見開き佇む少女に飛びつく黒い物体。どろどろとした流動体が大きく口を開け、どこからか生えた小さな腕を伸ばす。咄嗟に、術式による障壁を張るも即席で用意したそれは脆く、簡単に砕け散る。衝撃で吹き飛ばされ、背を壁に打ち付ける。

 小さな悲鳴が漏れ、腕を抱く少女。潤んだ瞳で上目にその化け物を見る彼女の身体は震えていた。来ないで、と呟く少女にも構わず、引きずるようにして黒い流動体はにじり寄る。

「いただ――まぁす」

「ひっ……!!」

 大口を開けるそれを視界に入れるまいと、ぎゅっと目を瞑り覚悟を決める。

 その瞬間だった。人間のものとは思えぬ悲鳴が耳を劈く。その声は、先の異形のものだ。

「え……?」

 何があったのだろうか。気になって恐る恐る少女は瞼を持ち上げる。薄暗い空間に、赤い背中と乱れた白い頭髪が見えた。自身を守ってくれたのだろうかと思うと同時に、何故かその背中が一瞬だけ懐かしく感じた。思わず声をかけようとしたけれど、それより先に目の前の人物が口を開いた。

「おい、大丈夫かアンタ」

 顔を僅かに振り向かせ、視界の隅に少女を捉えると男は問う。

 目つきの悪いその横顔に、赤い瞳に少女は心臓が跳ねたような錯覚を覚える。けれどすぐに応えなければいけない状況だと脳が言うから、慌てて頷き返事をした後にダメージが与えられないことと会話が成立しないことを告げる。

 思ったより声が小さくなったけれど聞き取れたのだろう、彼もまた頷いて前へ顔を向けた。

「でも……ダメージは通ってるみたいだぜ」

 先ほどからダメージが与えられていない様子だった化け物だが、彼女を庇うために放った先の一撃の後に『それ』を見ると、先ほどのようになりふり構わず突っ込んでくる姿勢は見受けられない。それどころか、苦しそうに呻き声をあげているのだ。

 腕の疼きが先より強くなった気がするが、それと関係性はあるのだろうか。

「わ、私も戦います……!」

「え、あ、おい!」

 彼の言葉を受けて、ダメージが与えられると理解した途端だった。彼女は立ち上がり、向かって来る異形の前に出て、銃を撃つ。けれどそれをものともせず襲い掛かってきて、何故、そう漏らしながら彼女が再度障壁を張る。破られ、また吹き飛ばされる。

「全っ然、駄目じゃねえか!」

 勇敢なことを言って、何もできない彼女に逆に驚いて、ラグナは叫ぶ。心配に声をかけるも、返事はない。一度呻いたから生きているのは分かったけれど、気を失っていた。仕方なくラグナはこちらを見つめる異形に向き直った。

「混ざ――う、蒼、蒼……どっち――だ? 否、どっちも喰らえば良い……」

「意味の分からねぇこと言ってんじゃねぇよこの化け物が」

 先ほどから自身らの言葉など聞いておらず、それでも人間の言葉を解するそれに男は剣を握り締めた。黒い粘液のような身体に向けて真っ直ぐ剣を構えると同じ頃合い、その異形も体勢を立て直したらしい。身体を一度ぎゅうっと縮めると、伸ばし、バネのようにして飛びかかってくる。その身体から漏れる見たこともない蟲らと共に、その身体を大剣で弾き飛ばす。

 醜い悲鳴があがり、吹っ飛ぶ身体に駆け寄り追撃。

 不思議と、先ほどよりも身体が動く。まるで忘れていた記憶を思い出すかのように、本能がこう動けと指示を出してくる。自然と身体が従い、最後。真っ黒な身体を地面に叩き付けると、それは小さく呻いて痙攣し、そこにべっとりと広がり動かなくなる。

 それを確認した後、心配の念からラグナが彼女に視線を遣った直後。引きずるような音が前方から鳴り響く。まさか、倒しきれていなかったのか。振り向けば案の定、それは逃げだそうとしていて。

「おい待て!」

 剣を構え、斬りかかろうと駆けるラグナ。逃げるその流動体を今度こそ倒そうとして――。

「待って! 『彼』を殺さないで……!」

 腕を広げ立ちはだかるように、間に割り込む人物が居た。

 それは先ほどまで彼が世話になっていた人間。ライチ=フェイ=リンだった。

 彼女の登場に、少女とラグナの二人が同時に驚いたように目を見開く。彼女の後ろで黒いそれは身体を引きずり、一刻も早くこの場から立ち去ろうと逃げていく。

「蒼……蒼、深淵……蒼、必ず……」

「また来る気満々じゃねえか。んで女医さん、アレの次はアンタが相手か? っつか、なんでアレを庇うんだよ」

 理解ができないとでも言いたげなラグナに、ライチは首を振る。逃げていく異形を尻目に、悲しげな表情を浮かべると彼女は口を開いた。

 曰く、あの異形――アラクネは『蒼』を狙っているらしく、『蒼の魔道書』を持つラグナが居れば現れると思ったらしいと。そして、彼女はそのアラクネを追いかけているのだとか。

 ラグナには訳の分からない言葉ばかりだった。蒼とは、そもそも『蒼の魔道書』とは何なのか。

「……蒼の魔道書は、ブレイブルーとも呼ばれる魔道書よ。原書の魔道書とも呼ばれ、それを狙っている人も存在するわ」

「つっても……俺、書なんか持ってねえぞ」

 そもそも書と呼べる所持品など心当たりがなく、ラグナは訝しげな表情でライチを見つめた。すると、やはり気付いていないのか――ライチはそう言い、ラグナの右腕を指差す。

 多分、その黒いラグナの右腕が蒼の魔道書そのものだと。

 腕が魔道書ということには多少驚くが、イマイチ理解できずに眉根を寄せるラグナ。そもそも蒼とは何なのか。問えば彼女は詳しくは知らないというのだから肩を落とす。

「……でも。神の力、と言って信じるかしら」

「マジかよ」

 ますます意味が分からなくなって、それしか言葉が出てこない。神の力というのが具体的にどんな力なのかは分からないが、その名からして相当なものなのだろう。

 自身の右手に視線を落とすラグナ。その前で彼女はふと首を傾ける。視線は、ラグナの後ろに向けられていた。

「あら? その子……」

「知ってんのか?」

 名も知らないその少女について、どうしようか悩んでもいたから、ライチが反応したのには光が見えた。彼女なら、知らずとも手当なりをしてくれるだろうと思ったのだ。

「その子は貴方……『死神』の調査に来た統制機構の衛士さんよ。もし気付かれでもしたら大変だわ。先に手を打たないと」

 けれど、ライチは顎に手を添え険しい表情でそう言うのだ。手を打つだなんて、物騒なことを言う、とラグナは思わず漏らす。できるならば人を殺したりなどはしたくなかった。

 だから自身が逃げればいいだけでは、とラグナが問おうとするも、それより早く彼女がまた口を開いた。

「……あら、胸元に何か書かれているわね。何かしら」

 先の戦闘でどうやら破れてしまったらしいその胸元に、彼女の言葉を確かめるように自然とラグナも視線を投げて――目を丸くする。そこには『十二』の文字が刻まれていた。それを見た途端、頭の中を沢山の映像が、記憶が駆け巡る。

 ムラクモユニット。次元境界接触用素体。精錬。窯。

 頭の中で響く、媚びつくように甘ったるい女の声。それはやけにはっきりと、近くに聞こえて思わずラグナは振り向く。

「誰だ!?」

「きゃっ……」

 大きな声をあげてしまい、驚いたライチが悲鳴を漏らす。

 振り向いた先にも、どこにも、あの少女は居ない。幻覚だったのだろうか。それにしては随分とリアルな――。

 冷や汗を浮かべるラグナの耳に、やがて届く声があった。

「ライチ殿ぉぉお! 大丈夫でござるか――!!」

 バングだ。このよく通る大きな声は、正しくあのバングのものだ。

 彼も自身を探していたのかと思えば、真っ先に心配するのは彼女のこと。呆れ、溜息を吐く。

「バングさんだわ。私達を探しに来てくれたのね。……さ、戻りましょ」

 ライチもその声が聞こえたのだろう。にこやかに微笑み、手を差し出す。カカ族の村に戻ろう、そう言う彼女に、しかしラグナは首を横に振った。

「いや、俺は行かねぇ。確かめたいことができた。……っつーわけで、コイツは任せた」

 確かめたいこと、と言うにはあやふやな点が多すぎたけれど、頭の中に流れ込んできた映像はとんでもなく大事なことである気がして、それを確かめる術を自身は知っているような気もして。よくは分からないが、取り敢えず行かねばならない。そう思えば、身体は動きだしていた。

「ちょっと待って! 外には統制機構の衛士達が沢山居るわ! 私なら助けになれるから!」

「悪ぃが、それでまた『餌』になるのなんざごめんだからな」

 手を伸ばし、呼び止めるライチに言うだけ言って、ラグナは駆け出した。真っ直ぐ道なりに進んでいくと、やがて光が見えてくる。その光を頼りに進み、走り――。

「っはぁ……!!」

 やっと、外に出る。先ほどまで暗い場所に居たためか、陽の光が眩しく腕で目を覆う。


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