POSSIBLE DREAM   作:鈴河鳴

10 / 23
第九章 哀赤の夜

「もう、無茶ばっかりするんだから」

 優しくも寂しげな声色で、だけれど言葉だけは少し咎めるようにして言うのはセリカであった。

 あれから医務室にてラグナ達はセリカの治療を受けていた。大きな怪我から小さな怪我まで、傷口が繋がり薄くなり、消えていく。魔法のような――否、魔法により生み出されたその不思議な光景を不思議そうに見つめるのはユリシアだった。

「まほう……」

「俺も最初は驚いたよ。ま、今じゃ見慣れちまったけどな」

 漏らされるユリシアの言葉にふっと笑って、ラグナが語る。今や魔法は歴史の中の存在であり、使う人物などそう居ない。ユリシアは二人ほど、魔法を使う人物を見たことがあるが――それでもたった二人だ。そこに加わるもう一人、となれば驚きはある。

「せりかさん……でしたか」

「うん、そうだけど、なぁに?」

 ユリシアが確かめるように、セリカの名を紡ぐ。それに治療を続けながらセリカはユリシアの方を見て、用件を尋ねた。

「どうして、せりかさんは……まほう、つかえるですか」

 首を傾けると言うのはそんなこと。きょとん。セリカが目を丸くした後、眼を逸らした。

「あー……それはね。えーと、なんて言えばいいのかな」

 言葉選びに迷うのは、彼女がこの時代の人間ではないからだ。過去――それも、百年近く前にひっそりと存在した島の住人なのだ。その島の話こそ知られていれど、それらも全て過去の話なのだ。それに、この時代の本当の彼女は――。

「……えっとね、生まれつきかな」

 嘘は言っていない。生まれつき治癒の魔法には長けていた。それを高めたり、他の魔法を使えるようになったのは住んでいた島――イシャナの学校で習ってからだったけれど。

「うまれつき……ですか。てきせいのあるひとって、すくないのに、すごいです」

 関心したようにユリシアが言って、セリカの手とラグナの傷口を纏う柔らかな光に視線を落とす。

 グリーンをした、優しい光だ。

「はい、終了。二人とも、お疲れ様」

 暫くそうしていれば、やがてセリカがそう言って、光が消える。最後に傷があったところをポン、と軽く叩いてへらっと笑う。

「おう、ありがとさん」

 それに軽く手を掲げて礼を言って、ラグナは立ち上がった――が。ふと、声を漏らす。

「どうかしました、ですか」

「いや……まだ傷が残ってるっぽくてな」

 不思議そうに問うユリシアに答えるラグナ。一見して傷は見当たらないが、ガタリと音を立てて、慌てた様子でセリカは立ち上がる。

「嘘、どこ? ちょっと見せて!」

 そんなセリカに対し、ラグナは少しばかり圧されながらも別にいい――と言うのだが、いいから見せてと強く言う少女を無碍にすることもできず、仕方なく軽く屈んで見せた。

「ほら、ここ。首んとこ」

 指差したのは首の側面で、よく見ればそこには擦ったような赤い掠(かす)り傷ができていた。本当だ、と漏らして、セリカはすぐ治すからと手を添えようとしたけれどそれはすぐにラグナに制された。疲れてるだろうから、という言葉で。

 それでも、と言おうとしたけれど、ラグナの想いを無視するわけにもいかず、渋々と頷いた。そして思う、何故気付かなかったのだろうか、と。

「まさか、力が弱ってる……?」

 不安げに自身の手を見つめる少女の肩に、ぽんとラグナの手が置かれた。

「ま、今日は色々あったし、お前もゆっくり休めよ」

「……うん」

 そんな二人を見つめながら、彼女はふと胸がざわつく感覚をおぼえた。初めてセリカに会ったときと同じものだ。先ほどまで、何ともなかったのに。

 そわそわ、と瞳を左右に泳がす少女に二人は気付かず、代わりにその空気に水を差したのは扉の開く音だ。ユリシアを含めた皆の視線が、途端に扉へと集まる。

「……ウサ……じゃなくて、レイチェル」

 真っ先に彼女の名前を口にしたのは、ラグナだ。彼女は靴を鳴らしながら部屋に入ると、一度高いところで結んだツインテールを払って、彼らを見つめた。

「あら、お邪魔だったかしら」

「へっ? そんなことないよ!」

 首を微かに傾ける少女に首を振って、セリカが言う。そう、とだけ返すレイチェルはラグナを一瞬だけ見遣ると――近くに座る少女へと目を向ける。その目はやはり悲しげで、ユリシアは困惑する。が、それに気付かずに口を開くのはラグナだった。

「そういや丁度いいところに来てくれたな。話があったんだ」

 やけに真剣な面持ちで話すラグナに、しかしレイチェルは冷たくあしらう。自分は話すことなどないと。けれど、それにいつものように怒ることもなくラグナは、いいから聞いてくれと頼むのを聞いて、仕方なくという体で彼女はラグナが話すことを許した。

 それを受けて、一拍の間を置き、ラグナは話の口を切る。

「俺……もう『蒼の魔道書(ブレイブルー)』使うのやめるわ」

「えっ、ちょっとラグナ?」

 ラグナの一言に最初に声をあげたのはセリカだ。彼女も魔道書の存在を知る一人で、だからラグナがそれを使わないと突然言い出したのが疑問だったし、同時にとても驚くことだったから。

 レイチェルがすぅっと目を細める。

「……一応、理由を聞いてあげましょうか」

 少しだけ気に食わなかったけれど、それでも何故彼がその思考に至ったのかは気になる。けれど素直に聞くのは癪だったから『聞いてあげる』という体で彼女は彼が考えを話すのを促した。

「……アズラエルとの戦いん時によ、色々考えちまったんだ」

 そんなラグナの言葉からレイチェルの中に生まれたのは呆れだ。呆れて物も言えない。あの状況で、突然止まってしまったかと思えば考え事か。

「考えたっつーか……迷ってたところにアイツが出てきて、なんか考えさせられたって感じなんだけどよ」

 ちらりと視線だけでユリシアを指してラグナは言う。

「んで、そんときに気付いたんだよ。この『蒼の魔道書(ちから)』は『奪う力』だって、な」

 奪う力。そう聞いた途端、レイチェルは彼なりに考えた結果なのだろう、と思ったけれど。そんな単純なものではないそれを、そう言いきってしまう彼に、仕方ないけれど少し悲しさのようなものを覚えた。ちら、と彼女もまたユリシアを一瞬だけ見た。

 彼の中に彼女が出てきたというのなら、そこで『奪う力だ』と言われた彼女はどう思ったのだろうか。自身が否定されたように感じたのだろうか。それとも、何も分かっていなかったのだろうか。

 ――彼の出した結論に、彼女は問う。彼がああ言うということは違うということを知っておきながら、あえてだ。

「奪い、壊して、敵を捻じ伏せる。倒すための『力』。それが貴方の求めたものだったのではないのかしら?」

 レイチェルの言葉に、ラグナは頷く。最初は彼もそう思っていたらしい。それを知っていたから何も言うことなくレイチェルはラグナの言葉を聞く。最初は、倒す力を求めていたと思っていたことを。けれどそれは違っていて、失わないための力を欲していたことを。

 それに気付いたら、この力はもう使えないと思ってしまったことを。

 そこまで考えられるようになったのは、やはり成長したとレイチェルは思う。けれど。

「……それに気付けたのは褒めてあげる、と言いたいけれど。貴方……また『逃げる』の?」

 レイチェルの問いに、どういう意味だとラグナが目を見開き、返す。その反応が来るのは察していたのか少しばかり声を荒げたラグナに驚くこともなく、レイチェルは一度ゆっくり瞬きをすると、言葉のままだと答えた。

「求めていた『蒼の魔道書(ちから)』と違うから使わない。それは選んだはずの『それ』から逃げることと、何が違うというのかしら?」

 問題点から目を背けるだけでは、前と何も変わらない。ゆっくりと紡がれるレイチェルの言葉に、バツが悪そうな顔をして舌を打った。顔を背けてガシガシと乱暴に白髪を片手で掻きむしる。

「好き勝手言うんじゃねぇよ……。こっちは『蒼の魔道書』ってやつがなんなのかも分かってねぇんだから」

 そうぼやいてから、でも、と付け足してラグナは顔を上げる。もう『奪う』ためには力を使わないと彼は決意したように言うけれど。彼の口から自信ありげに紡がれた『奪う』という言葉は、この力をそうやって片付けられるのは、レイチェルにとってとても幼稚で、馬鹿らしく思えた。

「奪うなんて。馬鹿ね。一体、誰から、何を奪うというのかしら? それに『蒼の魔道書』はそんな単純なものではないわ」

 使っている人間からすれば奪っているように感じるのだろうけれど、本当はもっと、複雑なのだ。何と表現すればいいのか、長い時を生きたレイチェルにすら分からなかったし、彼が理解できるように説明するなんて到底無理な話だったけれど、奪う力と表現してしまうにはあまりにも強大で複雑すぎる力だった。

「そうは言うけどよ、これはテルミが作った模造品なんだろ。あのテルミが作った偽物だ」

「……てるみさんが?」

 レイチェルの言葉に眉根を寄せるラグナの言葉に、真っ先に反応したのはユリシアだった。胸のざわつく感覚はいっそう強くなっていたけれど、それでも自身の『たいせつなひと』の名が出たことが興味を引いた。思い返せば、彼がラグナに対して言っていたような気がしないでもないけれど……『蒼の魔道書』という存在がどういう形をしているのかも、先の話でラグナが右腕を指すまで知らなかったから。

「……あのときテルミが言ってた限りではな」

 あのとき。ユリシアも一緒に居た、そのときのことを思い出すだけでも気分が悪かったけれど、無視することは良くないとして、彼は首肯して答えた。それに繋げるように、レイチェルが口を開く。ラグナの言う通り、彼の右腕となった『蒼の魔道書』はテルミが作ったものだと。

「――だからこそ、ラグナ。貴方はその力と向き合わなければならない」

「向き合えって言われてもよ……」

 レイチェルの言葉に、ラグナは眉尻を下げた。弱気になっているわけではない。彼女はいつだって曲がりなりにも自身を導いてくれたし、無理ではないと思っているからこそ言っているのだろう。けれど、あまりにもそれは難しすぎた。

 流石に分かるわけがない。この『蒼の魔道書(みぎうで)』は分からないことだらけで、何を知らない、分からないのかすら見当もつかないのだ。

 そんなラグナの悩みに水を差すように、声が響いた。

「ラグナの『蒼の魔道書』が模造品だとするなら『本物』はどこにあるのかな」

 それは何気ない疑問だった。ラグナも自身の持っているものが偽物だと聞いただけで、考えたこともなかった。けれど、テルミが作ったとするなら、テルミが持っているものが本物なのではないだろうか。そうやって雑に出された答えに頭を横に振るのは、やはりレイチェルだ。

「違うわ。テルミのものも『模造品』。偽物だわ」

 その言葉に意外そうにラグナは目を丸くして、思わず問い返す。それから、だったら『蒼の魔道書』の本物はどこにあるのだろうかとラグナもまた口にした。そもそも『蒼の魔道書』とは何なのだとも。

 レイチェルは沈黙した。目を伏せて黙り込んだ。その様子に、不審そうにラグナが声をかけると――レイチェルはその紅い瞳を開けて、どこか迷った様子で、傍らの蒼眼に視線を向けた。

 彼女もまた、きょとりと不思議そうにレイチェルを見つめていて、それを受けてレイチェルは視線を床に戻した。未だ理解していない様子の彼女に抱いた気持ちはなんだったのかレイチェルにも分からないまま。

「そう……ここが決断の刻(とき)」

 呟く。疑問符を頭に浮かべるラグナに、レイチェルが目を向ける。突然瞳を真っ直ぐに見つめられたことにラグナが少しだけ驚いて、でも何も言えずに左右で色の違う瞳でレイチェルの目を見つめ返すことしかできなかった。

「ラグナ」

 名を呼ぶ少女。ラグナが何かを返すよりも早く、レイチェルは告げた。未だ少し迷った様子で。

「覚悟を決めなさい」

 その言葉にラグナは一瞬意味の分からないといった顔をした。何の覚悟だ。問う彼に返すのは、知ることへの覚悟だ、と。知ればラグナの未来は決まってしまう。それが一番の気がかりだった。

「……未来が決まる、ね」

 レイチェルの言葉を復唱して、ラグナは息を吐き出した。本当なら、自身の未来は自身で決めると言いたいところであった。けれど既に概ね決まっているようなものだと自覚しているところがあったから、ラグナの答えは決まっていた。

「俺は知らないことが多すぎる。もし、教えてくれるってんなら。答えは当然『知りてぇ』だよ」

 ラグナが案外早く答えを出したことに驚きながら、しかし表に出さないようにして尚もレイチェルは問う。また、失うことになってもかと。

「失わねぇよ。失わせねぇ。……俺は、そのために戦うんだ」

 最後の最後まで。

 言うラグナの目を見つめて、レイチェルは思う。

 良い目をするようになったと。あの時、何もできなくて力に縋った時とは違う――強い意思を持った目だ。ならば、自身も覚悟を決めなければ。

「いいわ、ラグナ。貴方がそこまで言うのなら――貴方が本当に自身の求める『力』の意味を知りたいのなら。この私が、導いてあげる。」

 

 ――始まりのゼロへと。

 

 

「ゼロ?」

 ラグナは問い返す。けれどそれには答えず、レイチェルは長い髪を翻して、後ろを向いてしまった。その代わりに、また一度ユリシアを見た後――、

「明日、セリカ(その子)とノエルを連れて、イブキド跡地の最下層にある『窯』まで来なさい。詳しいことはそこで話すわ」

「あっ、おい!」

 言うだけ言って彼女は入って来た扉の方へ体を向ける。そのままカツカツと靴を鳴らして出て行く彼女はそれ以上を語ろうとせず、かけられる声は無視して。

 ふらり。彼女が出て行ったのを皮切りにして、立ち上がるのはユリシアだ。どうしたのだ、とかけられる声を彼女もまた無視して部屋を出る。確かハザマが来るまでここで待機しているはずだった彼女の、そんな意外な行動に、どうでもいいはずなのにラグナは追いかけてしまう。

「あっ、待って、ラグナ! 離れちゃ……」

 立ち上がるセリカを無視して、駆けていくラグナ。ココノエの言いつけを守ろうと、追いかけようとした彼女を止める者がいた。

 

 

 

「待てよ、おい……っ」

 扉を開け、足早に道を進んで行く彼女。ここの構造も分かっていないはずなのに、どうして迷いなく進めるのかは分からなかったけれど、ラグナは止まらぬ彼女を追いかける足を止められなかった。ココノエの言いつけも忘れるほど、何故か彼女が気になって仕方なかった。

 ――やがてある程度進んだところで、ラグナは気付く。

 向こう側から足音が聞こえてくるのだ。カツン、カツンと。それに彼女も気付いたのか、それとも別の理由があったのか。ユリシアが足を止めた。

 近付く足音、そうして影から姿を現すのは……。

「……ッ!?」

 影に紛れる漆黒。そこから零れる鮮やかな緑。少女の蒼い瞳は瞳孔が開き、ただその一点を見つめていた。綻ぶ少女の表情を他所に、ラグナが彼の名を叫ぶ。

「テルミ!!」

「あら、思ったより早く合流しちゃいましたね」

 帽子のツバを摘まんで直しながら、意外だというように眉を持ち上げて、現れた彼――ハザマは言う。観えなかったのは多分仕方ないことでしょうからいいとして、なんて付け足す彼に、何故ここに彼が居るのかといった疑問が頭を過るが、それよりもある感情の方がラグナの中で上回った。

 疑問を忘れさせるほど、その存在――あの日、自身から全てを奪っていった目の前の男に対する、どうしようもない怒りと憎しみが彼を支配した。

 常人であれば竦み上がってしまうほどの殺気を受けながら、しかし彼は動じた様子もなく、視線を蒼の瞳へと向けた。

「あぁ、待てずに出てきちゃったんですか? できればきちんと大佐に話を伺ってからがよかったんですけどねぇ」

 薄らと金の双眸を見開いて、少しばかり困ったように告げるハザマ。駆け寄ろうとしていた彼女はそれが自身の行動を責められているものだと理解した瞬間、近寄ろうとするのを止めて素直に謝罪した。眉尻を下げてだ。

「……ごめんなさい、です」

 でも。付け足す言葉、そして彼女は首を振った。

「なんだか、むねが、ざわざわってして。こっちに、きたほうがいいような、きがして……」

 そう思ったら、居ても立っても居られなくなったのだと彼女は必死に拙い言葉を並べて伝える。

 ユリシアの弁明に、さして興味を抱いた様子もなく短く相槌を打つ。緑髪を揺らしながら、今度はラグナの方へとまた視線を戻すと。ニィと彼の口端が吊り上がる。

「んで……ラグナちゃんも居ることが分かったし、あとは確認したいことを済ませるだけだな」

 テルミの声音はひどく愉快そうで、何が面白いのかとラグナが身構える。確認したいこと。その言葉に何故か不穏さを感じて、自然と大剣を握り直した。

「テメェは偽物じゃねえよなぁ!」

 突如、テルミの後ろから空間を食い破って飛び出たのは蛇頭のついた鎖――事象兵器(アークエネミー)・ウロボロスであった。

 ウロボロスはラグナへ一直線に伸び、蛇頭が大口を開けて噛みつかんとする。しかしテルミの行動に備え構えていたこともあって、ラグナはそれを容易く弾いてしまう。空気の動きで後ろから迫るもう一本も察知し、同様に。金属音が狭い廊下に鳴り響く。

 後ろの攻撃に振り向いたラグナへ駆けるテルミ。攻撃しようとしてテルミの方へ向いたラグナの足元へ滑り込み、テルミが足を払う。バランスを崩して倒れ込むラグナにすぐさま立ち上がったテルミの脚がめり込んだ。

 一瞬にして戦場と化した廊下で、突然のことにユリシアはどうすることもできない。

 『たいせつなひと』が突然、やっと慣れてきた人物に突然攻撃したのだから、その行動をどうするべきか分からなかったのだ。

 彼らが出会って戦うのは珍しいことじゃないし、寧ろ毎回であるとさえ思う。ユリシアだって、ラグナの相手をしたこともあるけれど。それでも世界の敵だと言うほどラグナが悪い人物だとは考えられなくなっていたし、テルミが攻撃する理由がそれだけではない気がして、迷ってしまった。思えば、テルミはラグナの相手をするとき、いつも笑っていた気さえする。

 ラグナの悲痛な声が木霊し、テルミがより一層笑みを深く刻み込む。

「んん~、いい悲鳴のあげっぷりだなぁ。この響き、ラグナちゃんで間違いないみてぇだな!」

 言いながら、尚もラグナを踏みつける。何度も、何度も。高く笑いながらテルミは傷だらけのラグナの身体を弄ぶ。その度に呻くラグナの声を心地よい音楽のように感じながら。

 死ね。テルミが叫び、ラグナの肩にはウロボロスが喰らいつく。そうしてボロボロのラグナを痛めつけるテルミと、それを見つめる少女の後ろで影が動いた。

「やれ、テイガー」

「了解した」

 ココノエの命令に、赤い巨体が動く。彼が両手を向かい合せると、途端手の中でバチバチと光を放つ高電圧の球体が形成される。それを持ったままテイガーが、未だラグナに夢中なテルミへと手を向けた瞬間――放たれる。

 けれど咄嗟にその存在に気付いたテルミが身を翻して飛び退き、躱す。球は壁にぶつかると四散し消えた。

「うぉっと、危ねぇじゃねえか! 邪魔すんじゃねぇよ、化け猫」

 睨み付け、テルミがそう怒鳴る。対して化け猫と呼ばれた彼女――ココノエといえば至って冷静にふん、と鼻を鳴らすだけだ。

 普段引きこもりの彼女が出てきただけでも彼は違和感を覚えているのに、自身を毛嫌いするはずの彼女がこれ以上何もしてこないのを不思議に思うのと同時――。

「う……おぇ……おま……げほっ……」

「うお、また右目が……」

 ユリシアの胸がまたざわつきを覚える。テルミの背筋を寒気がはしり、瞬間、吐き気が襲ってくる。ひどく気持ち悪い。この感覚は前にも味わったものだ。自身を内側から削り取られるような、ひどくおぞましい感覚。せり上がる酸っぱいものを必死に抑える彼に、平然とココノエは一歩近寄った。

「久しぶりだな、ユウキ=テルミ。直接会うのはいつ以来だろうな」

「化け猫……テメェ……っ」

 ひどく怒りをおぼえた様子で、しかし体調が優れないために覇気のない声で、テルミが叫ぶ。

「知っていたんだろう? 私達の連れているものを」

 冷ややかな目で見つめるココノエの言葉を、テルミはまともに聞き取れず、肺に入り込んだ空気はひどく重く、淀んでいるようにすら感じる。

 知ってはいた。『アレ』に最初会った時の時点で、誰が『アレ』を呼び出したのかも、その目的も察してはいたのだ。だからここに来たのもそれに出会う危険を考えた上で、仕方なくだ。

「今まで実に散々なほどの干渉を受けてな。その中でどうすれば干渉を受けずに貴様らに対抗できるか考えてきた。そして私が見つけた、これこそが――お前『達』と『蒼の魔道書』の弱点だ。そうだろう、テルミ」

 ココノエがそう言った瞬間、後ろから現れたのは――置いて来たはずの、セリカだった。ラグナにすぐさま駆け寄る彼女から飛び退くように離れるテルミと、途中で起こしてすまない、そう言った後ココノエ。彼女がまたテルミに向き直る。

「……『居ないはずの者』を呼ぶなんて、マジでどうかしてんじゃねえのかよ」

「それを言えばテルミ、貴様がその少女を連れているのも大概だろう。それに、神に対抗するんなら、どうかしていないと無理な話だ。そのためになら、悪魔にだってなるさ」

 無表情で、ちらりとユリシアを見て語る彼女の言葉すら、近距離で鐘を鳴らされているように頭に響く。自身から振った話だが、それすらどうでもよくなるほどに気分が悪い。叫ぶ。

「待て、待て……っ、これ以上ソイツをここに留めんじゃねえ、マジでやめろって……!! おい、ファントム、今すぐ俺とユリシアを転移させろ、早く!」

 話をやめろ。これ以上セリカと同じ空間に居させられてはたまらない。胃が雑巾のごとく絞られるような不快感を覚えながら必死になって声を張り上げる。

「――――」

 途端の出来事だった。テルミの言葉に呼応するように空気がふと揺れ動く。『それ』を感じ取った瞬間、テルミが汗を浮かべたまま口角を持ち上げた。

 そこには。皆の目の前には――影のようなものを纏った『何か』が居た。広いツバをもつ三角帽で顔は隠れて見えない。

 揺らめくそれに皆が一斉に目を瞠(みは)る。その異様な存在感に、そして、纏う雰囲気に――。

「えっ……あの人が……『ファントム』なの?」

 戸惑い、そして驚いたようにセリカが漏らす。ココノエもまた、眼鏡の奥の目をすぅっと細めて『彼女』を見た。尻尾は、警戒するように揺らめく速度を速めて。

「聞いていた通り、のようだな」

 そんな二人を彼女――ファントムもまた、じぃと凝視していた。それは、意思無き『亡霊(ファントム)』と呼ぶにはあまりにも。

 そうして、いつまで経っても自身の命令の通りに動かないファントムを急かすようにテルミが咳き込みながら声を荒げる。

「げほ、ごほっ……何してやがる、ファントム、今すぐ俺らをどこでもいいから、ここから離れた場所へ転移しやがれ!!」

 叫ぶ彼にやっと彼女が紫色の魔法陣を展開する。テルミが腕を伸ばしてユリシアを引っ張り、陣の中へ収めた瞬間、彼らは消える。待って、一歩前へ出たセリカの声は届かず。それを呼び止めるのはココノエだった。

「セリカ! 今は無理をするな。お前はすぐに戻れ」

「でも……!!」

 振り向く彼女は、今にも泣きだしそうな顔をしていた。ココノエも、セリカの気持ちは痛いほど分かる。だって『彼女』は、ファントムと呼ばれたあの女は、セリカにとって、そして自分にとって。

 でも、今はどうにもできないことを、やらなければいけないことがあるのを理解していたから気持ちを隠して、冷たく、再度「戻れ」と告げた。

「……うん、ごめんなさい。ラグナ、また後で」

 ココノエの気持ちを察してか、セリカは苦笑して頷く。寂しげにラグナを見た後、

テイガーに連れられるまま去って行った。

「……母様」

 呟く声は静寂に掻き消される。

「おい、ココノエ」

「話は後だ。支部に戻ったらしてやるよ」

 ココノエの台詞、そしてセリカが現れた途端のテルミの豹変ぶりに、ラグナが漏らす。しかし、それ以上をラグナが口にする前に――ココノエは、冷たく制した。

 

 

 

「さて……話を聞かせてもらおうじゃねえか」

 ヤビコ支部に戻ったラグナが、カグラの執務室で一番に発した言葉はそれだった。支部に戻るまでに事態の処理やらがあり、さらに言えばそれが終わった後も先に退場したカグラは何か用があったらしい。カグラが戻って来た頃にはすっかりと日は暮れていた。気怠げにカグラが明日じゃ駄目か……と問うけれど、それには勿論駄目だとラグナは返す。今すぐ、聞きたかった。目の前の人物らは何を企んでいるのだと。

 口にすれば、カグラが答える言葉は聞きたかったこととは違うこと。だから聞き方を変える。

「統制機構を乗っ取るだとか、帝を倒すってのは分かってる。そうじゃねえ。そのための具体的な手段を教えろ」

「手段って言ったって……」

 やけに真剣な面持ちで言うラグナであったが、それに困ったようにカグラは眉尻を下げた。カグラが答えに詰まるのは、ラグナが統制機構や十二宗家、そしてその歴史について知らないからだ。そこから説明するとなると二日はかかるだろう。けれど、そんなカグラに首を振ったのはココノエだ。

「いい。こいつには私から話す。……どうせラグナが聞きたいのはセリカのことだろうからな」

「んだよ、女絡みか」

 ラグナが聞きたいのは、セリカを使ってどうこうだとか、テルミとセリカの関係だとか、そういうことだった。それを言い当てたココノエに、どこかがっかりとした様子で茶々を入れるカグラ。窘め、ココノエは語りだす。

「……端的に言う。セリカはこの時代の人間ではない。『刻の幻影(クロノファンタズマ)』だ。彼女の魂を過去から複製して、用意したこの時代の器に定着させた」

 思わず、間抜けた声をあげたのはラグナだ。事前に聞いていたのか、カグラは驚く様子もない。

「は? じゃあ、セリカはずっと昔の人間ってことかよ。その魂をコピーするって……んなことできるのかよ」

 コピーした、ということは本人は既に他界しているのだろう。ならば、よほど昔の人間なのだろうと踏んで、ラグナは問うた。

「できるさ。だからセリカがここに居る」

 首肯。咥えた飴を反対側に転がして、頬を丸く膨らませながらココノエは語る。

「セリカはな、『暗黒大戦』時代の人間だ。そして、彼女には特殊な力が備わっていた。自身の周囲にある魔素の活動を無意識に抑制する……という力がな」

 魔素を。それは、クシナダの楔に近いものを感じながら、ラグナは納得した。何故セリカが近付くと右目と右腕が使えなくなるのかずっと疑問であったが、魔素でできた『蒼の魔道書』の力をセリカが抑制するからだと理解する。

「昔のセリカなら、このヤビコの魔素を全て浄化してしまうことも可能だったろうな。無論、術式も使用不能になり、民の生活も危ぶまれる。そこで、セリカにはリミッターを施した」

 それは簡単に言えば『ある一定以上の魔素』だけは浄化できないように調整したものだ。だが、とある『魔素』に関してだけは例外にしてあり、セリカの能力が充分に発揮できるようにしてあると。

「その例外が、蒼の魔道書か……」

「そうだ。だが……リミッターでも抑えきれなくてな。蒼の魔道書以外でも、想定以上に魔素を浄化してしまっているようだ」

 リミッターには、セリカ本人の負担を減らす役目があった。しかし、今日は随分と長く外に居たため、魔素を過剰に浄化しすぎて影響が出たのだろう。

 それが、セリカの調子が良くなかったことに繋がるとココノエは説明した。

 セリカの生きていた時代と、今の時代では魔素の濃度は次元が違う。現代は魔素だらけゆえに、セリカの能力はフル回転するのだ。その分、精神や身体に負担がかかるのは当たり前だった。

「もっとも、この支部はセリカの負担にならないギリギリまで魔素を調整してある。術式が使える程度にな。……それで、セリカには大体理解したか?」

「あぁ、俺の『蒼の魔道書』を抑えるっつーことは、テルミのも抑えるってことだろ。そのために、セリカを過去から呼んだってわけか」

 ココノエの問いに頷いて、納得したように言うラグナに――ココノエは俯き、いや、と漏らす。

 一歩歩み寄り、ラグナの顔を覗き込んで彼女は付け足すように語る。勿論、ラグナが言ったのも役立つ能力だとは思うが、セリカが必要な理由は別にあると。首を傾げるラグナ。

「お前も聞いただろう。クシナダの楔だよ。あれを起動させるために、起動キーであるセリカを呼んだのだ。……セリカ(それ)を使う以外に、クシナダの楔を起動させる方法を、私は知らない」

 クシナダの楔を起動できれば、魔素の活動を一時的にだが、完全停止させることができる。そのときが――テルミ達(やつら)を倒すチャンスだ。

 懸念するべきは、彼女(ユリシア)の存在くらいだろう。

「勿論、起動時にはお前の力も借りるから心しておけ」

 頷くラグナに、ココノエはふん、と鼻を鳴らす。

「あと、もう一つ……質問いいか」

 

 

 

「あの、てるみさん」

 ココノエが話しているのと同時刻。彼女は、自身の髪を洗うテルミに声をかける。目をきゅっと閉じたまま、思い出すのは先の――ヤビコでのことだった。用件を尋ねるテルミに、しかし何かに気が付いたかのように。

「あ……えっと、いやなこと、おもいださせるかも、ですが……きいても、いい、でしょうか」

 話しかけておきながら、気遣うように話すのを躊躇う彼女にむっとして、テルミは少しだけ語調を強め、勿体ぶるなと話すのを促した。それに、割とあっさり頷いて彼女は口を開く。頭に触れる彼の両手に、小さな白い手をそれぞれ重ねて。自然とテルミの手が止まる。

「てるみさんが……あの、おんなのひと。せりかさん、でしたか。……あのひとを『いないはずのもの』と、いっていたのは、なぜですか」

 ユリシアの声が浴室に響く。沈黙。あの女の名前を出された瞬間のテルミの意外さと嫌悪感は計り知れないが、それ以上にテルミは、何故そんなことを聞くのだろう、と思ってしまった。そんなに彼女が気にするような内容だとは思っていなかったからだ。

「……えと、その、へんないみ、じゃなくて、なんか、わざわざいってたのが、きになったので」

 彼の疑問を肌で感じたのか、彼女が繕うように言って、手を離す。再開される手の動き。金糸の束をいくつかに分けて、その一つを泡で包むように揉みながら、テルミは少しだけ悩んだ。

 どう言えば彼女に伝わるのだろう。どれを言わなければ彼女を困惑させないだろう。多少の疑問や混乱は仕方ないものだとしても、必要最低限に抑えたい。彼女が困った顔を見せるのは――。

 胸の内で、嘲るような愉快さと不快さがない混ぜになった感情を覚える。勿論、テルミは現在悩んでいたわけだし、そんな感情を覚える暇はなかった。これはハザマだろう。

「……テルミさん?」

 気付けばシャンプーの泡を流そうとシャワーヘッドを持っていたところだった。けれど一向に流すための手が動かなかったらしい。流水音だけが響く。

 いつまで経っても答えぬ彼を不思議に思った少女が問う声でやっとテルミは気が付いた。けれど、胸の内は未だにその感覚を残している。気取られぬようシャワーの湯をかけ、泡を流し始めながら、テルミは自身の胸を見た。

 薄く筋肉のついた胸板は彼女と出会う前より血色も良くなった。が、それは今どうでもいい。

 何だ、とハザマに問う。何故、そんな感情をテルミにぶつけてくるのか、理解ができなかった。そんなテルミの様子に、愉快げな気持ちは更に強くなる。

 分からないのか、という嘲りだった。

「んだよ……」

 そんな声は、喉を震わせ、唇から零れ落ちる。少女が間抜けた声をあげ、咄嗟に何でもないと言って誤魔化した。肩先が震えるのは、ハザマの笑いが滲み出てきたからだ。

『――いえ、テルミさんが、私と同じ……謂わば『道具』であるユリシアを、やけに大事にしているようなので……ねぇ? とても『人間くさい』んですから』

 とうとう堪え切れなくなったのか、彼は内側で饒舌に語りだす。

 別に言ってしまえばいいものを、わざわざ悩んだりして。どうせ、最終的には理解させる予定なのに……。そんなハザマの台詞に、そこでやっとテルミは気付く。

 何故、こんなにも少女が気になるのだろうか。

 慕われたりするのも、拙くくだらない愛情のようなものを向けられるのにも慣れたはずだった。けれど、毎日寝食を共にする彼女がやけに――。

 それ以上は考えたくなくて、テルミは首を横に振った。

「あの、いいたく、なければ……その」

 ずっと黙している彼に、言いたくないのだろうと思ってしまった彼女は、気遣うようにそう言う。けれど、遮るようにテルミは「いい」と言って、話の口を切った。

「アレは……セリカ=A=マーキュリーは。過去の人間なんだよ。『暗黒大戦』時代の人間だ。んで『あの』女は本物じゃねえ。過去からコピーしてきた偽物だ。……だから『居ないはずの者』なんだよ」

 手に出したリンスを少女の髪に馴染ませながらテルミは語る。

「かこの……にんげん」

 少し遅れて、彼女がそう呟いた。肯定してやれば、彼女は振り返る。シャンプーと違い泡のないリンスなら問題ないらしく目を開けていた。蒼の瞳がテルミを見つめる。

「かこのひと、っていうの、は、おどろきました、ですが。それだけ、ですか」

 驚いた、と言うには少しばかり表情の変化が乏しいが、彼女が言うならそうなのだろう。それよりも、疑問が勝ったのだと思えば納得もできる。テルミを見つめる少女の頭を鷲掴み、前に向かせながら、テルミはまた少しだけ驚いていた。

「……なんだか、もっと、いみしんに、きこえました、です」

 彼女は、そこまで勘の鋭い人物だっただろうか。否、彼女はもっと鈍感で、無知で、純粋で。彼女らしからぬ問いに眉根を寄せながら、テルミはしかし隠す必要もないだろうとして答えた。

「……前に言った、観測や干渉についての話は、覚えてるか」

 明日には、窯の準備も整うだろう。ならば明日、彼女には――。ずっと、タイミングを掴めずにいたそれを、やってしまおう。

 

 

 

 ココノエはラグナの問い――何故、テルミがセリカを『居ないはずの者』と呼んだのか、について解説していた。

「観測・干渉は『居るはずの者』に対してのみ行うことができる。逆に言えば、データがなければ観測は行えない。つまり、この時代のデータがないセリカの観測はできない。観測ができないなら事象干渉もできない」

 そして、セリカと関わっている者も同じく干渉はできず、特にラグナはセリカと常に居たためその影響を強く受けているらしい。このところ干渉を受けた覚えはないだろうと問う彼女にラグナは頷く。ゆっくりと瞬きをしながら、ココノエは咥えた飴の棒に指を添えた。

 それを見ながらラグナは――思い出したように、あ、と声をあげる。

「んじゃあ、テルミに対して……ユリシアを連れているのも大概だって言ったのは」

 思い出すのはココノエの台詞だ。ユリシアは一見、ただの少女だ。多少、鎌などの武器を出せたりといった特殊さはあるが。そういったことができる人物は他に心当たりがあったから、そこまで驚くことはない。ならば、どこにその『大概』だという特殊さがあるのだろう。

「……あぁ、あの少女はユリシアというのか。アレの場合はまたちょっとケースが違うが、似たようなものだ」

 ラグナの問いに、極めて冷静な話し方で彼女は言う。そこで彼女の名を改めて知って、ふむと頷いた。何と説明するべきか悩んで、それから彼女の中で整理できたのだろう、話し出す。

「彼女のこの時代のデータも、この世界にはない。……否、どの事象の、どの時間軸にすら、な」

 言いながら、厄介な者が出てきたと改めて思ったのだろう、彼女は眉間を指で揉んだ。眼鏡越しに見えるその眼はぎゅうと伏せられている。

「どの事象の、どの時間軸にすら……って。どういうことだよ。そんな、この事象だけの存在みてぇな……」

 ラグナは驚きに色の違う両目を大きく見開く。この事象のこの時間にしか彼女は存在しない、とでも言いたげな言い方をする彼女に、まさかと思って漏らすラグナの言葉に、そうだとココノエは頷く。ピンク色の尻尾が揺らめく。

「……そう。彼女は、この事象の、この時代にしか存在していないわ。ノエルのように、別の事象では死んでいたというわけでもなく、本当の意味で……突然現れた存在」

 告げるのは、薔薇の香りを纏う声だった。それは、数々の事象を観てきた『傍観者』。千年を生きる吸血鬼、レイチェル=アルカード。

「な……レイチェル! またお前は突然……」

 突然現れ、ココノエの代わりに彼女(ユリシア)の存在について語る少女に、ココノエは目を見開き噛みつくように声を荒げた。それにはちらと一瞥するだけで、レイチェルは特に何か言い返す素振りは見せなかった。それに何か言おうにも、彼女には通じないのだろうとココノエはまた眉間を指で揉みながら溜息を吐くだけに終わる。

 黙り込む皆。そこに水を差したのは、この部屋の主、カグラだった。

「ところで、ラグナ。報酬についてなんだが……」

「あー、そのことなんだけどよ、明日まで待ってくれねぇか。正確に言えば一日だけ俺に時間をくれ」

 報酬。それは即ちクシナダの楔のことを指し、前にラグナへ渡すと約束したものだ。それについての詳しい話をしようと持ち出したカグラであったが、その話はあれだけ欲しがっていたラグナに制される。鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くしながら取り敢えずは首を縦に振る彼を見て、ラグナはココノエに視線を向ける。

「それと、ココノエ。明日一日、セリカとノエルを借りるぞ」

「は……? 駄目に決まっているだろう」

 レイチェルに言われた通り、明日、イブキドに彼女らを連れていかねばならない。けれど案の定、ココノエは許可をしてくれないようだ。

「いいじゃん、別に。羨ましいことに女二人引き連れてデートだろ、楽しんで来いよ」

「カグラ!!」

 が、厳しいココノエに対してカグラは軽い口ぶりで、腕を組みながらそう言うのだ。咎めるように彼の名を叫ぶココノエ。咳払いを一つ、ラグナを見上げた。

「貴様がどこに、何故、二人を連れて行くんだ。場合によっては容認できん」

 ココノエなりに考え、譲った結果がコレだった。流石に真っ向から否定・拒否することこそしないが、彼の答えによってはやはり認めることはできない。でなければ、ココノエの考えていた計画が全てでないにしろ狂ってしまうのだから。

「それは……コイツに聞いた方が早いと思うぞ」

 言葉に迷い、ラグナが見た先はレイチェルだ。ココノエの息を飲む声が聞こえた。様子をちらりと窺った瞬間。

「レイチェル……だと? 駄目だ。絶対に駄目だ! コイツは邪魔しかしてこないだろう、絶対に許可できん!!」

 目を見開き、レイチェルを指差して叫ぶココノエ。その尾はぴんと立ち、大きく膨らんでいた。

「それについてだが、お前の邪魔になると思ったら即爆発させればいいからよ。頼むわ」

 レイチェルが何か言うより早く、ラグナが口を開く。

 いざとなれば爆発させればいい。そう言われてしまえばそれ以上止める言葉が見つからず、ココノエは俯いた。……数秒の後、

「……分かった。私の邪魔になることだけはするなよ」

 

 

 

「ユリシア」

「はい、なんでしょう、てるみさん」

 翌日のことだった。昼食を食べ終わり、片付けが済んだ頃合いでテルミが彼女を呼ぶ。すると彼女はいつも通り嬉しそうに振り返る。その姿を見るのにも慣れてしまった。

 テルミは、その少女に歩み寄る。硬い地面と靴がぶつかり合い、高く小気味よい足音が響いた。

「そろそろ、ユリシア……テメェには自覚してもらわなきゃならねぇんだよ」

 へ、と間抜けた声をあげる少女のすぐ目の前に、テルミは佇み、腰を折る。見上げる少女の顔と、自身の鼻がぶつかりそうなほどの至近距離。テルミは、ニィと笑った。

「来てくれるよなぁ」

 これも『滅日』への準備だ。

 自覚。その言葉が理解できなかったけれど頷く少女を連れて、テルミは部屋を出る。いつの間にか居ることが当たり前になってしまった少女の手を強く握って、向かう先は最下層。窯だ。

 階段を下り、昇降機を使ってさらに下へ、また階段を下りて――。結構な時が経ち、辿り着いた窯への扉。それを開けば僅かな熱が押し寄せる。身に受けながら、彼女を中に押し込んで、続くように自身も入り、扉を閉める。

「……今から、テメェには窯の中へ入ってもらう」

「かま……あの、あなのことですか」

「ああ、そうだ」

 視線の先には大穴があった。揺らめくオレンジ色は、ドロドロと蠢く溶岩は、生きているようだった。

「……おちたら、しんじゃいます、ですよ。きっと」

 頷く彼に、不安げに彼女が訴える。あんな熱の海に放り込まれたら、飲み込まれて、消えてしまう。それに、それ以上に、あの穴は――何だか怖い。彼女の様子を見つめながらも、普通ならそうだな、とテルミは頷いた。

 が、先ほど言った言葉を訂正しようとはしない。本気なのだろうか、と初めてユリシアはテルミの言葉を疑った。何故そうしなければいけないだとか、そういうのを全く言ってくれないから、彼女は不安だった。

「魔法で、近くまでの足場は作ってやるよ。最後は目を閉じて、あの中に入って、委ねるだけでいい。大丈夫だ、テメェは死なねぇよ」

「…………」

 いつも通り笑って言ってやっても黙り込むだけのユリシアに、テルミは少しだけ不思議に思って、訝しげな視線を送る。普段なら、テルミの言葉には必ず頷くのに――何故、目の前の少女は従わないのだろうか。

「……わかりません、です」

「あ?」

 ユリシアが口を開いたかと思えば、小さな唇が紡ぐ音は『分からない』、そう言った。

 何が分からないのだ、とテルミは思う。別に、分からなくても自分の言う通りにすればいいじゃないか、とも。

「てるみさんが、なんで、そんなこと、させようとしてるのか、わからない、です」

 声は震えていた。初めて、テルミに怯えていた。突然意味の解らないことを言われたのだから当然といえば当然だろう。今までも、理解できないことを言っていたことはあったけれど、今回のは特に理解が追い付かない。彼は、どうしてしまったのだろう。

「……テメェには自分の素性について、そろそろ理解してもらわねぇと困るんだよ」

 ユリシアが色を失う。素性。ずっと忘れたまま、けれど新しい生活を始めるうえで忘れたままで構わないと思っていた記憶について、まるで知っているような口ぶりだったから。

 テルミは、何故か分からない確信を持っていた。彼女が――『蒼』そのものの片割れだと。帝がそう言ったからじゃなく、少し前から、何故だかそう思うのだ。まるで『そう思わされている』かのように。そして、彼女は――境界に触れることで、思い出すはずなのだと。

「……てるみさんは」

 震える唇は、上手く言葉を紡いでくれないけれど、必死になって彼女は言葉を絞り出した。

 テルミは、それを遮ることもなく聞いていた。

「てるみさんは、わたしの、きおくとか、かこについて、なにか、しってる……ですか?」

 まるで、信じたくないというように。何も分からない自身を救い出してくれた彼が、全て知っているのが怖いというように。彼女は半分、そうじゃないと言ってくれるのを期待しながら、尋ねた。けれど、

「……確信は持てねえが、そうだと言えるな」

 言葉を失った。知っていたなら、何故今まで話してくれなかったのだろう。否、断片的に、それを匂わすようなことは言っていたかもしれない。が、それじゃ分かるわけもなくて。

「――それはどうでもいいだろ。それに、テメェだって思い出したいとは思わねぇのか。本当は気付いてんだろ、この世界のことだってよ」

 世界だなんて言われても分からないし、何を思い出すのかだって分からない。分からないに分からないを重ねて、彼女は頭の中がショートしそうだった。

「わからない、ですよ」

 そんなのじゃ、分からない。だから言っているだろう、だなんて言うテルミに、自然と声は口に出ていた。

「てるみさんが、なにをしたくて、なにを言ってるのか、わたしには、ぜんぜんさっぱりです。わかりません、わからないです……!!」

 声を張り上げて、彼女は訴える。何故あんなところに入らなければいけないのだろう、何を思い出せと言うのだろう、世界の何に気付かなければいけないのだろう。彼は何を言っているのだろう。前に話した『蒼』だって、可能性だって、全だって、何一つ分からない。

 今まで分からないまま無視してきたことが、ここになって全て思い出されてしまって。

 ユリシアの声が、ドーム状の空間に反響し木霊する。テルミは、目をゆっくりと見開いた。

 彼女がここまで激情する様など初めてだったから。

「……だから、だから……」

 俯き、はぁ、はぁ、と呼吸を荒くして、彼女は尚も言葉を続ける。

「おしえてください。ちゃんと、ぜんぶせつめいして、くれないと……わたしには、なにもかも、わからない、です」

 教えて欲しかった。テルミに、きちんと。けれど、そこまで言って、知るのが怖いとも思ってしまった。が、テルミはユリシアの言葉に口角を持ち上げる。ユリシアの大好きな、嬉しそうな顔だった。

「……そうだろ、知りてぇんだろ。なら、あの窯が『知る』ための扉だ。テメェの知りたいこと全てを教えてくれる、扉だ。そこに、俺が導いてやるからよ……」

 テルミの言葉に、彼女は俯けていた顔を上げた。彼の言葉に、知らなければいけないと、腹を括らねばならないと、思ってしまった。

「……しる、ための……とびら……」

「あぁ、そうだ」

 扉、という言葉は全くもって似つかわしくないが、彼が、そう言うのなら、そうなのだろうと。いつものように、彼を信じる彼女が居た。テルミを見上げて、彼女は苦笑する。

「……てるみさんが、みちびいてくれるなら」

 決意した。生きた穴に飲み込まれ、全てを知ることを。

 テルミが歩き出すままに、導かれるままに、彼女は彼の後ろを歩いて、着いて行く。穴のふちに立つ。足が竦んだ。吸い込まれそうな深い穴を見つめていると、今にも飛び降りてしまいそうだった。

 命じられるまま、彼女は一歩足を踏み出す。

 途端、彼女の足元には魔法陣が浮かび上がる。不安になって、一瞬足を引っ込めかけるが、その魔法陣は体重をかけても通り抜けることなく――彼女の体を支えた。コツリ、と靴が鳴る。

 一歩、一歩。階段状に連なる魔法陣の上を彼女は進んで行った。熱風が髪を揺らし、至近距離の灼熱が肌をチリチリと焦がすような感覚がした。一度、穴の入り口を見上げると、テルミは頷く。足下の魔法陣は先のよりも大きく、寝そべっても平気なほどの大きさをしていた。

 しゃがみこんで魔法陣の足場に膝をつけ、言われたように目を伏せた。

 そして、灼熱にそっと手を近付けて、指先を触れさせる。――瞬間。

「ッ……!!」

 どろりと纏わりつく溶岩に自身が溶けるような感覚に、声にならない声をあげた。だけれど、熱さを越えて感じる痛み、逃げ出したいほどのその熱の先に何かを感じて、彼女は触れた指先を奥へと進めた。本来ならこの熱で溶けてしまっているはずの手にはまだ感覚があった。そして、手首までを浸けた後――ゆっくりと、身体を傾けて、どぼん。頭からつま先まで、一気に全身を潜るようにして溶岩の内部に滑り込ませる。その途端。

 自身が消えていくような、溶岩と一体化したように、熱を感じなくなった。

 しかし同時に肌を伝い、脳にかけて強い電流がはしる。正確には、それはとてつもない情報の波であった。叩き付けられるように、無理に押し込まれるようにして、情報が脳に流し込まれる。沢山の映像が一度に展開されて、ついていくことすら困難だ。

 拒絶しそうになるけれど、そんな余裕すらない。苦しくて、息を吐き、喘いだ。無慈悲なことに情報の波は止まらない。

 ――そうして、体感的には長い時間が過ぎた頃。止まった時には、彼女は目を開き放心していた。脚がついている感触が無くて、よく見れば見慣れた腕の中。軽く上を見上げると、たいせつな人の、初めて会った時と変わらぬ顔がそこにあった。

 確かに、彼女は知ってしまったのだ。

 汚いことも、綺麗なことも、この世界が繰り返されていることも、その中での人間のあがきも、人間が生み出してしまった人間への『罰』の恐ろしさも痛みも悲しみも憎しみも恐怖も、狂った茶番の中で、この事象で初めて自分が生まれたことも、自身のせいで『彼女(アマテラス)』達が干渉できないことも――自分はずっと、遠くで見ていたことも。

 けれどそれを思い出した後も、この男に湧き上がる気持ちは変わらない。変わりなく、彼が大切だと思った。もっと彼のことを知りたいと思った。

「あ……」

 想像を絶する量の情報全てを無理矢理受け入れ、整理しきった時。――何故か視界がぼやけて、目元が濡れるような感触があって。手の甲を擦りつけても止まらない。涙がぽろぽろと零れる。

 そんなユリシアに、テルミが口を開く。短い一言だった。

「おかえり」

「はい。……ただいま、もどりました、です」

 テルミの言葉を受けてユリシアが顔を上げ、へにゃっといつも通り微笑みを浮かべる。いつもほど綺麗には笑えなかったけれど。

 簡単なことだった。テルミ達が、どうして、そういうことを企んでいるのか、自身に何故、境界に触れさせたかだなんて。

 それから数時間が過ぎた後。イブキドの窯に集まったのは四人。レイチェルを始めとし、ラグナ、セリカ、そしてノエル。皆がそこに居るのを確認した後、レイチェルの導きでラグナは――。

 

 

 

   1

 

「……レイチェル=アルカードが、事象に多大なる干渉をしたか。……まったく、愚かなことをするものだ」

 カザモツの最下層にある、窯。大穴のふちでは幾重にも布を纏った少女が佇み、煮えたぎる灼熱を見下ろしていた。

 溶岩は、彼女の青白い頬を、伏せられる瞼を、明るくオレンジ色に照らして揺らめく。

 彼女は『傍観者』の動向を観ていた。

「……これは『居るべきはずの者』を……自身の観測対象を。過去に送り込み、時間軸と事象を固定化したのか……」

 今更無駄なことを、と帝は思う。だが、これで過去から現在に至るまでの全ての『事象』が確定した。世界は滅日へと歩み始めた。ならば、もはや揺らぐこともないだろう。

 帝の口端に笑みが浮かぶ。

 そこに響くのは三つの足音。振り向くと、居たのは二人の男――片方は仮面、もう片方は緑髪の。そして、少女。ユリシアだった。

「帝。全ての窯の準備が完了した」

 それは、主賓を招くための――。

 いくら彼女(ユリシア)が居ても、この事象が終わってしまえばまた世界はくだらない繰り返しが起きる。それを避けるための、世界を正しい形に戻すための。

「そうか。……ハザマ、宴(えん)も酣(たけなわ)だ。主賓を招くぞ」

 不思議そうに彼らを見つめる少女は、これから起きることを理解していた。

「了解致しました。では『岩戸』の前で。レリウス大佐、念のためにネズミの様子を確認してきてください」

 恭しく帝に礼をした後、ちらとレリウスを見遣ってハザマが告げる。返される言葉は、分かっている、の一言だ。二人の短い会話が終わり、彼らは各々のやることを成すため窯の間を出て行く。振り返り、会釈する少女に微笑みかけ、去る背中を見届けて、帝は口を開く。

 口端には笑みを刻みゆっくりと紡がれるのは、自身が掌握し手中に収め、干渉のために役立ってくれたシステムへの『別れ』を告げるものだ。

「では、さらばだ……『タカマガハラシステム』よ」

 そう言って、帝は目を伏せた。アレは充分役に立ったが、これからの世界には邪魔でしかない。

「ファントム……全システムを『消去』せよ」

 命じられるままに、影のような意思無き亡霊――ファントムがタカマガハラへと繋がる。そして、人間が作り出したそのシステムを、消去した。

 

 

 

「……! な……」

「どうした、ココノエ」

 タカマガハラが消えると同時刻。彼女は画面を睨み付け、目を見開いていた。眼鏡がずり落ちそうになるのをすんでのところで抑えた彼女に、赤い巨体、テイガーが心配げに問う。

 普段冷静沈着な彼女がそこまで驚くのは珍しく、よほどのことがあったのだと思ってだ。

「……帝からの、事象干渉が……止まった……だと」

 震える唇が形成した言葉。モニターには、帝の事象干渉の強さを表すリアルタイムのグラフが映し出されていたのだが、今、この瞬間に。グン、と一瞬にしてグラフの線が下へ落ちたのだ。

 即ち、干渉力が弱まったことを指し、その数値はゼロ。つまり、干渉が止まったのだ。

 あれだけこちらに干渉していた帝が何故、突然にして干渉を止めたのか。理解できずとも不穏な気配がして、嫌な汗が吹き出す。何があったというのだろうか、自然と口からそう零れていた。

 そしてまた、イブキドに居たレイチェルも、干渉が止まったことを、そしてタカマガハラシステムが消えたのを肌で感じたのだろう。黙っていた口を開き、漏らす。

「これは……」

 それを聞いて不審に思ったセリカとノエルが反応を示す。

 ノエルに関しては、集中を切らしては駄目だという言葉にまたラグナという存在の『認識』を再開した。レイチェルも、彼女達が何故タカマガハラシステムを消したのか不可解でならなかった。セリカが何かを言いかける。それに振り向いた瞬間……落下してくるのは、ラグナ。

 鈍い音を立てて、現れたラグナは床に身を叩き付けられる。女性陣のそれより野太い声をあげた後に、勢いよく跳ね起きてラグナは辺りを見回した。

「帰って来た、ようね」

 微かな声で呟くレイチェルを他所に、ラグナを心配して駆け寄るセリカとノエル。しかしそれに反応することなく、荒い息で焦点が定まらないまま、彼は口を開く。

「どこだ、今度はどこに来た!?」

 顔を強張らせて叫ぶ彼に、戸惑ったように声をあげるノエルと、思い当たる節があるのか「もしかして、また」なんて漏らすセリカ。やがて、漸くセリカの存在に気付いたのか、ラグナが彼女を見つめた。

「っぐ……セリカ……か?」

 だんだんと鮮明になる視界の中に茶色の髪を見た気がして、ラグナが問う。彼が無事であることに声にならない声をあげ、大きく頷くセリカであったが――。

 肩を強く掴んでラグナはセリカを引き離すと、ひどく驚いたように声を荒げた。

「いつのセリカだ、つかお前、こんな所で何を……っ」

「ラグナ、落ち着きなさい」

「今度はデカいウサギかよ……お前、どこにでも現れるな」

 何をしているんだ、と怒鳴りつけるラグナをなだめるように静かにレイチェルが告げる。そこでやっと自身がウサギと呼ぶ人物に気が付いたのかラグナは目を見開いた。しかし彼が口にした通り神出鬼没な彼女への驚きは少ないが。

 まるで先ほど窯に入って行ったときのことを忘れているかのような、そして支離滅裂なラグナの言動にセリカが途端不安そうに首を傾げた。ラグナの顔を覗き込み、どうしたの、と。

 その不安が傍で立ち尽くしていたノエルにも伝わったのか、眉尻を下げて彼女は声を震わせる。

「ま、まさか私のせい……? 何か失敗して……」

 ゆるゆると口許まで手を運び、まさか、そう漏らすノエル。まさか自分が失敗したせいで、目の前の男はこんな状態になっているのでは。そう思ったノエルにレイチェルが首を振る。

 凛とした声音曰く『境界を越えたことにより記憶が混乱している』のだという。それを聞いて、ノエルは、それならば――と思い立つ。

『蒼』の継承者としての力はまだあった。あの日、ラグナに逆精錬を行われていても、まだ『何か』が自身を『蒼』の継承者として認識しているらしい。

 ならば、彼に干渉して、記憶の整理を手伝うことだって可能なはずだ。

 混乱する彼に、一歩歩み寄り――ノエルは、そっと声をかける。

「ラグナさん、落ち着いて……私の『眼』を見てください」

 その声に反応して、ラグナがノエルの存在を認識する。何故、彼女がここに居るのか。漏らす彼に、再度同じ言葉をかけてノエルはラグナのオッドアイを見つめた。

 それに合わせて、未だ興奮した状態ではあったが、ラグナはノエルの眼を見つめ返す。途端、ゆっくりと、絡まり合った糸が解けていくような不思議な感覚を覚えた。

「ノエル、今日はいつだ……? 場所は?」

 落ち着いてくると同時に、最後に浮上してきた疑問はその二つだ。それに対して、ノエルはただ淡々と、静かに答える。

「二千二百年、七月の十五日です。時間は……お昼を過ぎたくらいで、場所は連合階層都市・イカルガにある元イブキド地下の窯です」

 そこまでを聞き終わって、ラグナは零す。自身は、何をしていたのかと。

「……ラグナさんは、数時間前……この『窯』を通って、過去に行った……らしいです」

 どれくらい過去に行ったのかは分からないですが、言うノエルの言葉に続けるのはセリカだった。彼、ラグナを過去に飛ばすためにその時代を強く意識したのは彼女だったからだ。

 よく、その時代のことは覚えていた。

「今から九十四年前の……二千百六年。暗黒大戦の時代だよ」

 どこか悲しげ、そして真剣みを帯びたセリカの表情と声色は、その凄惨な時代のことを語るようだった。それを聞いて、ラグナがハッと正気付く。

 そうだ、セリカは暗黒大戦時代の人間だ。ならば、何故この年に居るのだろうか……けれどその疑問はすぐに記憶が語り解決してくれた。

 随分前に感じるけれど、それは最近……ココノエが語っていた。彼女の魂をコピーして、この時代の器に定着させたのだと。

「理由は……何だっけか」

 何故彼女をここに呼び出したのか、その理由は確か。思い出すよりも早く、セリカが紡ぐ。『クシナダの楔』であると。

 ラグナは大きく目を見開く。クシナダの楔。確かに彼女はそう言った。そして、今のラグナにはそれがどういう意味を持つか――理解していた。怒りの心が、瞬間、燃え上がる。

「クシナダの楔を……ココノエ、あの野郎!!」

 ラグナが咆哮する。突然大声をあげるラグナに慌ててノエルとセリカが落ち着いて、と声をかける。しかし、ラグナは落ち着いてなどいられなかった。情報の整理を手伝ったノエルには感謝したけれど、すぐにココノエに湧き上がる怒りで興奮を思い出す。

「セリカ、一緒に来い……っ」

 乱暴にセリカの手を引っ掴んで、引っ張る。バランスを崩しかけるセリカだったが、その引く手の強さに着いて行かざるを得なかった。

 途中、レイチェルに声をかける。自身をあの場所へ連れて行ってくれたことに、素直に感謝の言葉を伝えるためだった。

 そして、ラグナ達が見えなくなって――レイチェルも、自身の住まう古城に帰ろうとする。

 けれど魔法を展開しようとした途端だった。いつもと、反応が違う。展開されぬ魔法、転移ができず、黙っていたお供達が不思議そうに声をかける。

「……思っていたよりも、早く影響が出るものなのね」

 それは『傍観者』へのしっぺ返しだ。

 世界のあり方を眺めるに徹するのが、傍観者の役割であり掟だ。謂わば、理の外の人物。けれど……彼女はそれに反し、世界に多大なる干渉をしてしまった。その結果、世界は彼女を『傍観者』でなく、舞台に上がる登場人物だと認識した。

 ならば、理の外の者として与えられていた権利は剥奪される。

 彼女が転移魔法を使えないことも、それ故に居城に戻ることができないのも、彼女が傍観者でありながら世界に干渉した『しっぺ返し』だった。

 ふっと寂しく笑う少女のもとにヴァルケンハインがやって来るのはそれから間もなくのことだった。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。