TALES OF CRYING ―女神の涙と黒い翼― 作:ILY
第一話 はじまりの波音
暗い森の中を一人の少女が走っていた。
辺りは木はおろか地面さえ見えない位に暗い。
それは単に夜の闇の中の暗さではなく、木々の間から差し込むはずの月明かりさえ拒む暗幕の様な暗さだった。にも拘わらず彼女は木にもぶつからず、足元を石に取られることもなく走り続ける。
「ハァ……ハァ」
長く走り続けていた為か少女の息は上がり、足元はふらついている。
いつ果てるとも分からぬ暗闇の中、不意に少女の目の前が明るく開けて森が終わり、急な崖が現れた。
森の終わりで速度を落としていなければ間違いなく落下していただろう。
しかし、少女の顔に疲労の色はあっても、今しがた死にかけたという焦りや追われている恐怖は微塵もなかった。
彼女の目の前には、青い海と夜空が広がっていた。
満月が彼女の紫の長髪に反射する。
その美しい光景には目もくれず、少女は息を整えながら下りられる場所を探して眼下の状況を確認する。
――と、少女が背後から迫る何かに気付き、振り向く。
「!」
突然、周囲が光に包まれ、それと同時に何かが弾ける様な音が響く。
一拍遅れての轟音が辺りにとどろき光が消えると、そこにあった筈の崖と共に少女は消えていた。
崖が崩れた直後、森の中から小さい人影が走ってくる。
「……」
その手の中にある金属製の鉤爪の間で、直前まで起こっていたらしき放電の残滓が消えた。
人影は崖があった場所を見下ろすと無言で、再び森の中へ去っていった。
いつの間にか森には本来の月明かりが戻り、静寂の帳が降りていた。
――――――――――
海沿いの小さな漁村の中で一番高い建物――自警団の詰め所の屋上で手摺りにもたれ掛かって、空を見上げている少年がいた。
髪はやや暗い橙色、首に黄金色の石がついたペンダントを下げている。
特に目的があるわけでも、夜空に浮かぶ星に詳しいわけでもなく、ただ遠く離れた場所に何か自分の探すものを求めるように彼は上を見つめ続けた。
少年の名は、エッジ。
主に周辺地域での凶暴な生物に対抗する為に組織された、この村の自警団に所属している。
今日は彼が夜回りの当番で、村の周囲を警戒する事になっていた。
エッジはいつも村の外に出る前は、こうして詰め所の屋上に来る。
特にやることは無くとも漁村の他の男達と違い海に出ない彼は、夜風から海を身近に感じるこの時間を大切にしていた。
彼は村の中でも多少浮いた存在で両親がおらず、泳げない代わりに村の中ではあまり使い手がいない剣を学んで、狩りで生計を立てている。
育ての親のボブと共に若いながらも自警団の一員として働くことで村の一員として認められてはいたが、彼自身が自分を認められていない様でもあり、そんなエッジの意識が自然と村の外に向き異変に村の誰より早く気が付いたのはごく自然なことかも知れなかった。
エッジが夜回りを始めようと屋上の手摺りから離れ、階段に向かおうとしたその時、いきなり微かな光が辺りを一瞬明るくした。それに何かが崩れたような音と振動が続く。
彼が咄嗟に音のした方を見ると、村から少し離れた岬が崩れたのが見えた。
(何だ、今の?)
音自体は小さなもので光を見ていなければ気付かなかったかもしれない。少なくとも村に直接影響がある程の自然災害では無さそうだった。
しかし、アクシズ=ワンド王国の端も端、立ち寄る者も少ないこの村で異変があること自体珍しい。
エッジは少し足早に建物全体を貫く螺旋階段を下り、外に出る前にこの自警団の詰め所にいつもいるボブに声をかける。
ボブはエッジの親代わりの様な人で、今は一緒に暮らしていないが小さい頃は同じ屋根の下で暮らした事もある。
両親がいない彼にとって、村で唯一家族に近いおじの様な人だった。
最近、少しお腹周りが気になるようになってきてはいたが、それでもエッジにとって大切な存在である事に変わりは無かった。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ、そういえば今日はエッジ君の日か、気を付けてな」
「はい」
軽く頷くとエッジはボブに背を向け入り口の扉から外に出た。
扉を開けると、すかさず入り込む潮風が心地良く彼の顔を撫でる。
しばし、それを楽しむとエッジは再び岬の方へ目を向けた。
(調べに行ってみようかな)
――――――――――
ザザー……
エッジは波の音を聞きながら浜をさっきの岬に向かって歩いていた。
一歩踏み出すごとに、砂とブーツが擦れる音がして波の音と混ざる。
ザクッ、ザクッ、ザザーッ…
変わらずに規則正しく波と足音がリズムを刻み、その心地よさに彼は心を奪われそうになる。
と、不意に狩りや夜警の時に出くわすモンスターの気配に似たものを感じたエッジは足を止め、右手の森に目を走らせる。
「誰かいるのか?」
背負った長剣に手をかけ、エッジは警戒しながら声を掛ける。
彼の呼びかけに対して、木々の陰から紫の長髪の少女が姿を現した。
何処か鳥を思わせる肩衣が多少印象を緩和してはいるものの、旅人が好んで身につける様な革のコートや野生動物染みた鋭い目付きは十代半ばの少女とは少々不釣り合いだった。
エッジには一目で彼女が村の人間で無いことが分かる。
「誰?」
見つけられたことに少し驚いた様子で少女は少年に尋ねる。
エッジは手を長剣から離し、相手を安心させる為に丁寧に答えた。
「俺か?俺はエッジ・アラゴニート、この近くの村で自警団に入ってて、モンスターかと思って少し警戒してたんだ。それで、君は?」
「私は……私の名前はクロウ。あの、村がどこだか教えてくれない?」
クロウ、と名乗った少女は伏し目がちに村の場所を尋ねる。
「ああ、こっちだよ」
エッジは先に立って歩きだそうとするが、少女に止められる。
「あの、場所だけ教えてもらえれば一人で行けるから」
それは言外に「付いてくるな」と言っていた。
クロウはまだエッジを警戒している様でそれは当然といえば当然かもしれなかったが、だからといって放って置くのは危険すぎると判断しエッジが付け足す。
「この辺りは夜モンスターが出て危ないんだ、一緒に行くよ」
少女は考え込みしばらく黙っていたが、やがてエッジと目は合わせないまま口を開く。
「じゃあ、村までお願い」
「ああ」
エッジは頷き、先に歩きはじめる。少し間を置いて少女の砂を踏む足音が後ろから付いて来るのを聞いて、彼は振り向かずそのまま来た道を引き返した。
「仕方ない、か」
どこか苛立ちを含んだ呟きとため息をエッジが聞くことは無かった。
《漁の村 トレンツ》
「ここだよ」
エッジたちは幸いモンスター――狂暴な動物のことだが、特に人間に害をなすもの等を区別していう――に出会うこともなく、村の入り口に来ることができた。
もっとも村といっても家は数十軒しかない。道もあまり整備されておらずあちこち雑草が生えていたり、途中まであった道が突然消えていたりする。
エッジも正直何も無いのは分かっていたが、観光客が無いのは当然だろうなと苦笑いしてしまう。
「どこかに休める場所はない?」
少女の質問を聞いて、エッジは少し考えた。
「そうだな、この時間じゃ宿も閉まってるし、泊めてくれる人も居るかどうか……俺達の住んでる自警団の詰め所位しかないと思うけど、それで良いかな?」
少女は黙って頷く。
なら、とエッジは身振りでついてくる様うながした。
詰め所に戻るとまだボブおじさんは先程と同じ所にいた。
「まだ早いのに、どうしたんだい?……ん?そこにいるのは?」
エッジが見知らぬ子を連れてきたことに気付き、おじさんは身を乗り出して興味を示す。
村への訪問者は勿論のこと、彼が誰かを連れてくる事自体も稀なのだ。
「この子はクロウ、休む場所を探してたんだけど、この時間じゃもう宿も開いてないから連れてきた。空いてるベッド借りても良いかな?」
エッジの説明にボブは納得し、暖かい笑顔を見せる。
「ああ、旅の人か。二階に空き部屋があるからそこを使って下さい」
その言葉を聞いて、少女は軽く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「階段を上がったところの部屋だから、すぐ分かる」
二人がそんなやりとりをしているのをぼんやり聞きながらエッジはクロウ、と名乗った少女を観察していた。
歳は自分と同じくらいか、少し上に見えた。
同年代の他の子と比べるとずいぶん無口で、単に内気で無口な子というのは村にも居るが彼女の場合はそれより冷たい印象だった。
ふと旅の人、という単語がエッジの中で引っ掛かり、彼の脳裏をかすかな疑問がよぎった。
……本当にこの少女は旅人なのだろうか、と。
だが、初対面であれこれ聞くのはエッジも流石に抵抗があり、彼には人の事情を詮索する趣味も無かった。
「じゃあ、俺は夜回りに行ってきます」
疑問を振り払うようにそう言って再び扉をくぐると、エッジは詰め所を出た。
「……」
少女は一瞬だけ少年が去った扉の方を見ると改めてボブに礼を言い、すぐに二階への階段を上っていった。
――――――――――
程なくして、エッジは先程見えた崩れた崖の上についていた。
(これは……)
崖に生えていた苔や草といった物のほとんどが黒く焦げていた。
さっき見た光を合わせて考えたエッジは、何か強い人為的な力で崖は破壊されたのではないかと考える。
漁村であるトレンツの村の中に、こんな事ができるような者は居ない。
そもそもこれほどの破壊が出来る人間がいるのか疑問になる程だった。
(あの子が崖を崩した?だったら何故?)
こんな田舎で崖などを壊してメリットがあるとは考えにくく、そもそも少女が崖を壊したとは限らない。
エッジが気になる事は他にもあった。
この崖に出るまでの森の中で発見した、人が走った様な痕跡。
獣の痕跡と比べてはっきりしており、折れた草などを見るにかなり最近――下手をするとついさっき位のもの。
それに加えてここと同じようにいくつか地面が焦げたり、木が倒れたりしている場所もあった。
(誰かが何かを追いかけて攻撃していた?いや、だとしたら崖で追い詰めたはず。なのに崖の下には何の痕跡もない)
狩りの為の動物の痕跡ならともかく、この様に事件の調査じみたことは専門外でこの現場を見てもエッジの少ない知識では限界があった。
(狩りをしていたなら死んだ動物を持ち帰った可能性もあるけど……そもそも、それだけならここまでの破壊をする必要もないだろうし、こんな辺境に出向いてまで狩る価値のある獲物なんていない筈だし)
何かあったのは間違いなくても、結局はっきりとは分からず疑問は増えるばかり。
ただ漠然とあの少女は無関係では無いのではないか、とエッジは思う。
色々考えたい事はあってもとりあえず更なる崖崩れの心配は無さそうだとはっきりした為、彼は村の周囲の見回りに戻った。
――――――――――
エッジが村の周りの見回りをしている頃、クロウはベッドの上に座って部屋の窓から村を眺めている。
時間が時間とはいえ、彼女はここまで人気の無い村は見たことが無かった。
「トレンツか」
田舎だと話で聞いたことはあったが、クロウはまさか自分が直接目にするとは思いもしなかった。
建物も今彼女がいる詰め所が石で造られているくらいで、ほとんどの家は木で造られている。
詰め所のすぐ隣には学校があるが、そこも一階建ての小さなもの。
決して恵まれた環境では無い。
しかし先程の男性も快く部屋を貸してくれ、浜辺で出会った少年もここまでクロウを案内してくれた。
良い村なのだろうと彼女は思う、しかし――
(私は、ここには居られない。まだ何も終わっていない)
すぐにでもここを出ていく準備をしようと窓から視線を外したクロウは、これからの不安で少し暗い気分になる。
「こういう所は、私には似合わない……そうでしょう?」
或いは何処か寂しさを感じたのか誰に言うわけでもないのに、彼女の口から自分の影に対してついそんな言葉が漏れた。
いつの間に眠ってしまったか、気が付くとクロウはベッドの上でちゃんと布団も掛けずに寝ていた。
「――朝か」
出来れば彼女は睡眠もせずに出て行くつもりだったが、身体は思った以上に疲労していて眠るしかなかった。
日はまだ昇ったばかりのようで薄暗い。
クロウにこれ以上長居する時間は無かった。
(もう、行かないと)
彼女が身の回りのものを確認していると、ノックの音がした。
どうぞ、とクロウが許可すると昨日の少年が入って来る。
「あ、おはよう……今忙しかったか?」
「何か用ですか?」
彼女は本当は無視して早く準備を済ませたい所だったが一応聞く。
「大したことじゃないけど、聞きたいことがあって。何でこんな田舎に来たんだ?」
「そんな事聞いて何になるの?」
予想以上につまらない質問だった為、丁寧な対応を心がけながらもクロウの声にほんの少し苛立ちが滲んだ。
「いや、この辺に旅の人が来るのは珍しいからさ、何でだろうと思って」
「それ、話す必要がある?」
少年は質問を繰り返してくるが、クロウは今度はそれをはっきり拒絶した。
「そうだな、邪魔してごめん」
まだ彼は何か聞きたそうに口を開きかけたがやめ、首を横に振って謝った。
「いいえ……」
エッジと名乗った少年はそれだけ言うとドアを閉めて出ていく。
クロウは軽く眉根を寄せたが、すぐに忘れることにした。
どうせもう会うことも無い相手だ、と。
(そういえば、食料の事を考えていなかった)
何とかして分けて貰えないか、交渉するだけしてみよう。
――――――――――
エッジはまっすぐ家に帰ると、ベッドに身体を投げ出した。
家といっても詰め所のすぐ近くで、彼の唯一の家族だった母が死んでからは他に誰もいない。
食事をしたり、日中生活の場としているのは基本的にボブの居る詰め所の方。
エッジがここに来るのは寝るとき位、それも時々。
家、というより『部屋』という方が正確かもしれない場所。
この建物にもうベッド以外ほとんど何も無くても、考え事をしたり一人になりたい時エッジにとってはここが一番良い場所だった。
昨日からエッジの頭を離れない疑問。
それを何とかするには直接聞きに行くしかない、と思って少女の部屋まで行ったのは良かったがほとんどまともに質問することすら出来ず彼は帰ってくる結果になった。
先程の様子からすぐに彼女がこの村を出るつもりだと確信して、エッジは呆然と天井を見上げる。
「ダメだったか」
呟いて彼は頭の中を整理する。
(だけど、得体の知れない力を持った奴が近くにいるのは確かだ。あの子自身ならまだ良いけど、何か……胸騒ぎがする)
エッジが一人考えていると、突然誰かが家の扉をノックする音がした。
慌てて彼は玄関に行き扉を開ける。
(でも、誰だろう?)
空いてる事も多い彼の家には滅多に人は来ない筈だった。
ボブが呼びに来たのだろうかと思いながらエッジは扉を開く。
「今、開けます」
外に立っていたのはエッジが知らない男だった。
髪はあまり手入れされていない銀色で、年令は二十代後半というところだろうか。
服装だけは妙に整っており細身のあまり見たことの無い長い剣を下げて、隈のある目元は険しい。
エッジは無意識に身を固くした。
「この辺りで紫の髪の女の子を見なかったか」
「えっと、クロウっていう名前の子ですか?」
兄弟か何かだろうかと、エッジは推し量る。
顔はあまりにこやかではなかったが、銀髪の男の口調は意外に穏やかだった。
「どこにいるか教えてくれないか?」
――――――――――
「部屋、貸していただいてありがとうございました。食べ物まで」
クロウは支度を済ませ、下の階に降りてきてボブに礼を言っていた。
「いや、気にしなくていい。どうせあの部屋は滅多に使わないんだ、じゃあ気を付けてな」
ボブはまだ眠そうだったが、笑顔でそう言う。
「お世話になりました」
軽く頭を下げるとクロウは、ボブと別れドアを開けて外に出る。
外にはエッジと銀髪の男が待っていた。
「やっと出てきたか……探したぞ」
先程エッジに話しかけた時とは違う、どこか冷たい喋り方で男が言った。
「!」
クロウは男を見ると僅かに驚いた表情をした、しかしすぐにそれは敵意に変わる。
「今すぐ俺と一緒に来い」
クロウは答えず腰のホルダーに挿してあった黒い羽の付いたダガーを抜く。
「ここで逃げても、あいつらが代わりにくるだけだ。おとなしく俺に捕まったほうがまだましだと思うがな」
クロウは黙って男を睨み、動かない。
突然の状況にエッジは困惑した。
(何なんだ、これは?)
案内してきた男が少女と知り合いなのは間違いなかったが、誰がどう贔屓目に見てもこれは穏やかではない。
少女は武器を抜いており、男も剣は抜かないものの相手の出方を冷静に観察している。
このまま放っておけば危険なのは明らかだった。
(だけど、どうすれば良いんだ)
何がどうなっているのかエッジには分からなかった。
彼がどちらの味方をするのが正しいのかも判別がつかない内に両者は動き出す。
銀髪の男が痺れを切らしたのか剣の柄に手を掛けると、エッジは無意識に自分の剣を抜いて少女を庇う様に飛び出していた。
「いくらお前でもここなら――」
「
「!」
剣閃が空を裂いた。
声と共に、エッジの『気』によって剣から生み出された斬撃が空を駆け、銀髪の男に襲い掛かる。
突然の攻撃に男は驚いて背負っていた剣を砂に突き刺し、飛んできた斬撃を受けとめた。
と、同時に砂が舞い上がり男は咄嗟に腕で目をかばう。
「チッ……」
視界が晴れた時、二人はどこにもいなかった。