TALES OF CRYING ―女神の涙と黒い翼― 作:ILY
どれくらい寝てしまっていただろうかと、目を覚ましたエッジは疑問に思った。
彼が体を起こしてみると、喉の痛みと頭痛ははっきりとしたものに変わっていた。
しばらくは十分に動けないだろうと溜息ながらにエッジは思う。
少なくとも戦闘の様な激しい運動は難しそうだった。
二人を乗せた船は変わらずに高速で走り続けていた。
発進した時と比べたら揺れは大分落ち着いている――と、いってもそれは小型船としてはの話でクロウがいたら閉口する揺れではあったが。
エッジが操舵を続けていたリョウカの方を見ると、無表情を装っては居るが彼女も少し疲れている様だった。
いつ追手が現れるかも分からない状況下、寄る辺の無い海上でたった一人、船を操り続けるプレッシャーと戦い続けていたのだから無理もない。
「大丈夫か?代わるよ」
エッジがそう声を掛けると、彼女はずっと前方を見据えていた目をちらりと彼の方に向け、すぐに視線を前方に戻して言った。
「あなたこそ寝てなさい、そんな状態で船を任せて転覆するのはごめんよ」
リョウカの弁は正論だった。
が、自分だけ何も出来ない状況をエッジは歯がゆく思う。
せめてもの気持ちとしてエッジは、気を取り直して狭い船内で何か出来る事が無いか探す。
「じゃあ、何か手伝える事は無いか?」
「なら食べるものを持ってきて。どこかに残ってるはずよ」
エッジはそう言われて、リョウカがずっと何も食べられなかった事に気付いた。
ようやく彼女の力になれそうな事を見付け、エッジは二つ返事で引き受ける。
「分かった」
船の上はあまり広く無かった為、戸棚はすぐに見付かった。
揺れの多い船内の為か、引き戸は回転錠の様な物できっちりと閉められていたが幸い鍵は必要なく、エッジが手で回すだけで簡単に開く。しかし、中に入っていたのはずっしりと重い銀色の容器ばかりであり、これが本当に食べ物なのか彼は確信が持てなかった。
とりあえず彼は、操舵席に座るリョウカの所へそれを持っていく。
「ええ、それよ……缶は騎士団以外ではまだ普及してないのね」
リョウカは銀の容器を確認して頷きながら、後半は一人言の様に呟く。
いざ持ち出したものの、エッジはその容器の形状に首を傾げる。
「で、どうやって開けるんだ?開けられそうな所が無いけど」
「さあ?」
さも当然の様にリョウカも首を傾げ、エッジは困惑した。
「え?」
「決まった開け方なんて無いわよ。釘で穴を開けようが、深術で壊そうが中身が出せればそれで良いんだから」
エッジは思わず疑いの眼差しをリョウカと銀の缶に向けてしまうが、彼女の表情は至って真面目だった。
「それが面倒だから、あなたに頼んだんじゃない」
リョウカは皮肉めいた笑みを浮かべる。
エッジは喉まで文句が出かかったがそれを飲み込み、缶と格闘を始める。
何か道具が欲しい所ではあったがエッジは剣を取り上げられて持っておらず、それどころか旅立つ時からずっと使ってきた道具や服は全て無くしていた。
そこで彼は、はっと気付き胸元を探る。
首にずっと掛けていたペンダントだけはちゃんとそこにあった。
ほっと安心して、エッジが再び缶を開ける作業に取り掛かるとリョウカが尋ねる。
「ねえ、あなた。私やジェイン・アキ、シントリアの貴族をどう思う?」
唐突な質問にエッジは面食らいながらも、缶を船の甲板に叩き付けてみた。
缶はびくともしなかった。
「どうって言われても、俺が知ってるのはアキやあんただけだから『貴族だからどう』っていう風には考えた事無かったかな」
答えになっているのかエッジには分からなかったが、彼は偽らない正直な所を答え、缶の端の何処かに爪が立てられないか試みながら続ける。
「アキは良い子だっていうのは分かるし、あんたが居なきゃ絶対ヴィツアナからは逃げ出せなかった。だから少なくとも貴族に悪い感情は持ってないよ」
その返答にリョウカは顔を曇らせる。
まるで自分が信用される事を快く思わないかの様だった。
「それはあなたが私やジェイン・アキと個人的に関係があるからそう感じるだけよ、貴族に対して抱いている感情じゃないわ」
「それは……」
そう言われるとエッジは何も言えない。
事実として彼がすぐに思い描ける顔は、リョウカとアキだった。
エッジは手で開けるのを諦めて、缶を置く。
暗い顔のまま、リョウカはとある貴族の話を語り始めた。
「以前、王都でこんな事件があったわ。シントリアの学校に通う為に田舎から出てきた子が、スピードを出した馬車に跳ねられて亡くなったの。馬車に乗っていたのは教育方面を取り仕切る貴族だった。その事故の後、彼はどうしたと思う?」
エッジは首を横に振った。
リョウカは微かな嘲りの笑みを浮かべながら続けた。
「裁判の場、遺族の前で謝罪し、堂々と言ったわ『この身と残りの人生を子供達の未来の為に捧げ償う』とね」
「でも、実行しなかった?」
リョウカは首を振った。
「いいえ、それから彼は熱心に働き続けたわ。貧しい子も学校に通える様にし、教科書を見直し……まあ、とにかく色々とね」
そこまで話してリョウカはため息をついた。
エッジにはまだ今一、話が見えなかった。
「それで一体何がいけなかったんだ?」
「彼が乗った馬車はそれからもスピードを緩めることは無かったのよ。それどころか、自分が起こした様な事故が起きない様にする為の努力は何もしなかった。彼の担当が教育であって、交通の整備などは管轄外だったのを理由にね」
エッジは絶句した。
罪を償う為にそこまでしようとする人間が、何故そんな簡単な事に思い至らなかったのか分からなかった。
「彼は自分が貴族として何が出来るか追い求めたけど、自分も一人の人間である事を忘れてしまったのよ。残されたその子の家族はどう思ったでしょうね」
しばらくエッジはショックのあまり、何の返事も出来なかった。
「でも、それはその男だけの事だろ?アキやあんたはそんな事――」
エッジの言葉を、リョウカは表情を変えずに厳しい声で遮った。
「私もジェインも実感の伴わないまま人々の暮らしを動かそうとしてる点では同じよ。何もその男一人だけが問題な訳じゃないわ。誰が選んだわけでもなく、資質に沿って役職に就くわけでもない、貴族なんて人間は皆ね」
エッジは彼女の言い方が奇妙な気がした。
自分自身もその一員でありながら、彼女の言い方はまるで貴族という仕組みそのものを憎んでいる様に聞こえる。
「……こんな時でも、あの子の肩を持つのね」
ぽつりと、今更気付いたかの様にリョウカは言う。
それがアキの事だと悟って、エッジは顔を上げた。
「信じてる、それだけだよ」
エッジの返答をリョウカは気に入らなかった様だった。
沈んでいた様子から一転して、皮肉な笑みを浮かべる。
「信じる?現にそのジェイン・アキに一度裏切られて、それが原因でこうして追われる身になったんじゃ無かったかしら?聞いてるわよ、あの子が城であなた達をセオニアの間者だと摘発したって」
エッジも否定は出来なかった。
彼自身、正直に言えばまだアキへの信頼は完全に戻った訳ではなかった。事情があったのだと信じてはいても、彼女が何を思っていたのかは明かされぬまま。けれど、ラークやリアトリスの様な一族の使命でもなく、自分達を助けに来てくれたのもまたアキだけだった事をエッジは忘れてはいなかった。
一度離れて冷静になってみて、今更ながらアキがどれだけ複雑な思いを一人で抱えていたのかエッジは考える様になっていた。
「まあ、良いわ。いずれ裏切られて、あなたも思い知らされるんだから」
「そんな事にはならないよ」
リョウカは不機嫌そうに鼻を鳴らし、それきり会話は無くなった。
結局、開かなかった缶は深術で吹き飛ばすしかなく、エッジとリョウカはかなりの部分がパンくずになった保存用のそれを食べた。
――――――――――
セオニアのとある町外れ。
人目につかない森の中で燃えるような赤毛の少女と、いつもの様に丈の余った服をだらし無く着崩したフレットが言い争っていた。
少女は猫科じみた真朱の瞳を吊り上げ、怒りの感情を顕にする。
「あんたがヴィツアナで勝手な事しなければ、私はこんな所まで来なくてすんだのよ」
鞭を手に不機嫌な少女とは対象的にフレットは興味なさそうに岩の上に仰向けに寝そべってだらり、と右腕を垂らしている。
「俺が受けた任務はあいつを探す事だぜ。遠くから見たら似た奴なんて結構居るんだし、戦ってみないと本人かどうか分からないだろ?」
呆れた顔で、少女の方は盛大にため息をつく。
与えられた任務はきっちりこなすタイプの彼女は、フレットの行き当たりばったりの行動に頭を痛めていた。
「だからって、そんな本気の戦いしなくても良いでしょ?片手動かないなんて馬鹿じゃないの」
動かずに垂らしたままの右腕をそのままに、頭だけ少女の方に向けるフレット。
「俺は楽しければ良いんだよ、それに向こうはもっと大ケガだった筈だぜ。俺より弱いのに指図すんな『爆発セルフィー』」
その言葉に、少女――セルフィーは頬を朱に染めて怒る。
「誰が爆発よ!私の識名は『
うんざりした表情でフレットは彼女から視線を外し、空の方を向いて小声で呟く。
「……その反応が『爆発』だって言ってんだよ」
気付く様子もなく、セルフィーは捲し立てる。
「大体、その騒ぎ起こしたせいで私たちも動きにくくなったでしょ。何かクロウ捕まってるみたいだし、警戒されたじゃない」
面倒臭そうにフレットが髪を掻く。
「あいつがあんな奴らに本気で捕まるわけないだろ。その気になれば居ないも同然の筈だ、俺たちにとってもな」
「私だって捕まえてる奴らの強さなんか心配してないわよ。見つけにくくなったって言ってるの!」
セルフィーはピシャリと鞭を鳴らしてフレットを睨み付けるが、彼は目を合わせようともしなかった。
彼のその態度にセルフィーも怒って実力行使に出る。
左手で赤い何かを懐から取り出すとフレット目掛けてそれを撒く。
キラキラ光る「何か」は撒いた側から次々に火のディープスを吸い込んで赤い玉になり、宙に浮かぶ。それはちょうど、シントリアに伝わる提灯の様だったが目にしたことすらないセルフィー達が知る筈も無かった。
ほぼ同時に、彼女の右手の鞭が飛び最も手前の赤い玉を打つ。
「ふっ飛べ、フレット!」
フレットがその行動に反応し起き上がるのをセルフィーが確認した直後、赤い玉があった位置から爆発が起きる。
炎に飲まれ彼の姿は見えなくなった。
「馬鹿。少しは思い知った?」
幾分気が晴れた様な顔のセルフィーだったが、背後からの何かを引っ掻く様な音に慌てて振り向く。
「馬鹿はお前だ」
動かない右手の代わりに左手の武器だけをセルフィーに突きつけ、フレットが立っていた。
全く無傷で――とはいかなかったが服以外はダメージらしいダメージも無い様子で。
ちらりと、爆発があった方を彼女が振り返ると地面にフレットの鉄の鉤爪のものらしき跡があった。
「右利きの癖に、まだそんなデタラメな動きを……」
思ったような結果が得られず、先程にも増してセルフィーの機嫌は悪くなる。
「お前の相手なら片腕で十分だ」
得意になる訳でもなく、興味無さそうにフレットは言う。
二人は睨み合ったまま動かず、フレットも突き付けた武器を下ろそうとしなかった。
「何をしている」
と、突然の声に二人は対峙するのを止め、声のした方に向き直る。
深術を使うところを見られたならその相手は消す――互いに喧嘩をしていようとも、染み付いたその行動はどちらも変わらなかった。
しかし、現れた人間を見て二人は警戒から緊張へと態度を変えた。
「勝手な争いは慎め、と言っている筈だ。それもスプラウツを統制する側の名有り同士で争うとは、馬鹿共め」
「バルロ」
現れたのは老人だった。
歳は六十程だが、真っ直ぐに伸びた背は未だ高く威圧感がある。
スプラウツでは『
『
バルロはフレットの鉤爪のリーチより更に一歩離れた距離まで近付いた。
セルフィーは彼の怒りとその威圧感に身を固くする。
「ま、待ってバルロ、私は」
彼女の言葉を無視し、バルロは二人を『殴った』。
バルロは近付いた訳ではない。
彼の拳は届いていないにも関わらず、二人は地に叩きつけられる。
「っ……バルロてめえ!」
痛みに顔を歪めるもフレットはすぐに起き上がって、怒りを露にする。
セルフィーは震えて起き上がらなかった。
「やめろ、と言った」
明確な殺意を向けられながら、老人は微動だにしない。
「殴って人を従わせようって態度が気に入らねえ。俺に命令すんなよ、俺はもうあんたより強い。誰の指図も受けない」
「私に刃を向ければスプラウツには居られないぞ」
その返答をフレットは鼻で笑う。
「別に良いさ、強い奴と戦えるならどうでも良い。今はクロウとだって戦えるんだ」
全く聞く耳を持たないフレット。
しかし、バルロはそれでもなお、虫でも観察するような目で彼を睨み続ける。
「何の為に名有りが七人もいると思っている。私達二人を相手にしても勝てるつもりか?」
未だに立ち上がらない傍らの少女を見てフレットが笑う。
「こいつが戦える訳無いだろ」
「セルフィー、フレットを攻撃しろ」
隙だらけのフレットの体をいきなり炎が包む。
突然の事に驚き、フレットは腕を振り回すが火は消えない。
「ぐ、この……セルフィー!」
怒鳴りながら左手の鉤爪で、少女の方に向かってめちゃくちゃな攻撃を繰り出すが先程まで無かったはずの岩に弾き返される。
「怒鳴っても意味はない、お前の方が強くともあの子が恐れているのは私の方だ」
セルフィーは両目に涙を浮かべ、さっきの位置から動いていなかった。
恐怖が彼女を縛り付け、同時に支配する。それは恐れを知らないフレットには、決して理解できない感覚だった。
「それ位でいい、使い物にならなくなっても困る」
再びバルロがセルフィーに指示を出すと、明らかに火の勢いが弱くなる。
フレットがそれに気付いて地面を転がると、火は消えた。
「やはりお前では駄目だ、フレット。クロウは私達が連れ戻す、お前は大人しくしていろ」
地面に伏せたフレットは憎々しげに毒づく。
「くそ、覚えてやがれ、バルロ」
これ以上は戦いにはならないだろうと判断したのか、セルフィーがフレットから離れつつ尋ねる。
「それで、私……いえ、私達はこれからどうしたら?」
倒れたフレットからセルフィーへ、バルロが視線を移すとそれだけで彼女は身をすくませた。
「奴らの向かう方向は見当がついてきた。このまま首都のウォーギルントに向かい、そこから人数を増やして探索を再開する。このまましらみ潰しに探して後手に回り続けるより早い」
戸惑いを顔に浮かべながら、セルフィーは遠慮がちに質問を続ける。
「スプラウツは……四人もクローバーズが不在の状態で大丈夫、なんですか?」
「ネイディールが居る、お前の心配することではない」
老人に睨まれセルフィーは縮こまったが、疑念は残った。
ネイディールはスプラウツの主要なメンバーではあったが、誰も彼女の事をよく知らない。
十代またはそれ以下の年齢の者がほとんどの中で二十代後半の彼女の姿は異質であり、何時からメンバーなのかも判然としない。
自室にこもっている事が多く、セルフィーでも顔をよく思い出せない程だ。共に戦った事もないので実力も分からない。
「あれで本当に仲間なんて言えるの……?」
バルロに聞こえない程の小さな声で、セルフィーは呟いた。