TALES OF CRYING ―女神の涙と黒い翼― 作:ILY
どれだけ二人で黙っていただろう。
気まずさもあってエッジが長く感じたのかもしれないし、意外に短い時間だったのかもしれなかった。
「ところで、お前が行動を共にしていた少女のことだが」
本題に入る様に、先程までの優しい声から少し厳しい声になって兄が話しだす。
エッジは思わずクロウの名を口にしかけたが、黙って続きを待った。
「まだ何者かはっきりしていない。けれど、あの年齢であれだけの術が使えるのは幼い頃から戦いの術を教え込まれたきた子供としか考えられない。恐らくは孤児か、親から離されて育てられたのだろう」
エッジに対し探るような目をブレイドが向けてきたが、彼は何も表情にすら出すまいと目を合わせないようにした。
「ここから先は完全な推測だが。エッジ、お前はあの少女のそんな境遇に自分を重ねたのではないか?」
「……!」
思いもしなかった言葉だったが、しかしエッジには返す言葉もなかった。
「エッジ、お前は本当に彼女の仲間か?今のままならお前は下手をすれば死罪になる」
死罪。
それはとても重い響きとなって、エッジの耳にまとわりついた。
既に捕まってしまった以上、この先エッジの運命は他人の手の中にある。
判決が下れば、それを受け入れるしかない。
彼の頭の中が一気に真っ白になる。
「だが、もしお前が彼女に利用されただけならあるいは罪が軽くなる余地はあるかもしれない。それにまだ小さかったお前を一人、村に残した俺にも責任がある。無論、厳しい戦いになるだろうが、お前の命だけなら助けてやれるかもしれない」
エッジは思わず疑う様にブレイドの顔を見つめる。
その目は本気だった。
まだエッジはブレイドを兄だと思う事は出来なかったが、こんな絶望的な状況でも自分の味方をしようてしてくれているのは嬉しかった。
「もう一度聞く、お前はこの国に悪意を持って王城に現れたのか?」
エッジはその質問に迷った。
もちろん、国王を暗殺しよう等考えてもいなかった。
けれど、ここでもし無実だと言えば罪をクロウに着せて逃げるようなもの。
エッジは完全に否定する事が出来なかった。
「違う……違うけど、彼女は俺の友達だ」
その答えにブレイドは顔をしかめた。
「エッジ、これはそんな感情的な事を言って解決する問題ではない。この街の破壊の跡を見なかったのか?彼女は野放しにするには危険過ぎる存在だ、お前が庇おうと庇うまいと既に彼女には捕まる以外の道は残っていない。たとえ彼女の境遇が同情すべきものだとしても、放置すれば傷付くのは罪のない善良な人々になる。単なる同情で深入りすればお前自身も全てを失う事になるんだぞ」
エッジはその言葉を聞きながら今までの事を振り返る。
初めてクロウと出会った時から彼が今まで時折感じていた気持ち。
彼女の目の奥に孤独を感じた時の胸が強く締め付けられる様な感覚と、絶対に彼女を一人にしてはいけないという義務感にも似た感情。
それは、つまりエッジ自身の辛い記憶を思い出さないようにしていただけだった。
その時、エッジの耳に泣き声が蘇る。
いつも辛い感情を表に出さないようにしているクロウが、たった一度だけさらけ出した本心からの泣き声。
(……そうだ、どうして気が付かなかったんだろう。あの時は何か本当に辛いことがあったんだとしか思わなかったけど、クロウは自分が信頼しない人間には自分の気持ちなんて言わないし、ましてそれを表に出すことなんて絶対に無い)
エッジの無意識の、自分勝手な押し付けの善意であったとしても、いつの間にかそれは一方通行ではなくなっていた。
今もそうだという確証は無かった。
もしかしたら、本当にその一時だけだったのかもしれない。
それでも、その一回だけでもクロウが信じてくれたなら、エッジの答えは決まっていた。
「……ブレイドの言う通りだ」
エッジは静かに、ブレイドの言葉に同意する。
目の前でブレイドが安堵しかけたが、弟の表情から何かを感じたのか慎重な様子で言葉の続きを待つ。
「俺は自分の辛さだけしか見てなかった。彼女に自分の過去を重ねていただけだったんだ」
ブレイドは目の前の弟の一挙手一投足から目を離さない。
エッジは机を挟んだブレイドの更に後ろ、入り口の扉をちらりと見た。
ブレイドは話を聞かれないように見張りを遠ざけていた様子だった。
で、あるなら部屋の外に出ることが出来れば、見張りはいない筈だと見当をつける。
暖炉の側にはエッジが今まで着ていた服があったが、それはもう諦めるしか無かった。
今着させられている服はどう見ても寝間着か何かで動くのには向かない、外がまだ雨ならすぐにグショグショになるだろう。
考えをまとめながら、エッジは我ながら何て無謀な事を考えているのだろうと思う。
武器もないというのに、目の前の武装した騎士を越えて逃げる事を考えているのだから。
エッジに自信は全く無かった。考えを目の前の兄に見透かされているのでは無いかと心臓が高く鳴り続ける。
けれど不思議と彼に迷いは無かった。
「俺はまだ何もしていない、彼女の信頼に本当の意味で応えられる様な事は何も!」
クロウの気持ちに応えなければいけない、その思いだけで言葉と同時に椅子をはね飛ばしてエッジは扉へと踏み出す。
しかし、二歩も行かない内に彼は立ち止まらなければならなくなった。
ブレイドもまた立ち上がり、重い鎧を着けているとは思えない動きでエッジの首に剣を突き付けていた。
エッジがいつも使っているものより細めの長剣が、間近で危険なほど鋭く輝いているのが嫌でも彼の視界に飛び込んでくる。
「あくまで犯罪者の仲間になる。それが俺の問いに対する答えか」
残念そうな声でブレイドはそう言う、けれど剣は全くぶれない。
エッジは剣に気を付けながらゆっくり顔をブレイドの方に向ける。
「ブレイドの言うことも分かる……いや、多分ブレイドの方が正しいんだ。このまま彼女を放置しておけば大勢の人に危害が及ぶかもしれない」
弟がそれを認めると、兄はすぐに怒りの声をあげた。
「それが分かっていながら、何故お前は大勢を危険にさらす方を選ぶ!既にこの街での事件で家を失った者や、死んだ者までいるんだぞ」
流石にその言葉には多少エッジの意志も揺らいだ。
彼が現場を見たのは短い時間で、怪我人が出たのは想像できても死者まで出ているとは思っていなかった。
「でも、このままブレイド達が彼女を捕まえようとしたらどうなるんだ?彼女は積極的に誰かを襲ったりする様な人間じゃない。けれど、もし追い詰められて今回みたいに戦いになったら死ぬかもしれないのはブレイド達じゃないのか!?」
それを聞いても、ブレイドの態度は変わらなかった。
「それでも構わない、少なくとも捕まえる事さえ出来ればそれ以上の被害は出さずにすむ」
兄の目は本気だった。
しかし、退く気がないのはエッジも同じ。
「そんな事にはさせない、俺が彼女の側にいて誰も殺させない」
なおも食い下がるエッジに、ブレイドはかぶりを振って聞いた。
「なぜそんな不確実な方を選ぶ、お前一人で全てを食い止められる保証など何も無いんだぞ」
エッジは首元の冷たい刃を強く意識しながら大きく、ゆっくりと息を吸い込んだ。
もしかしたら、次に発する言葉で最期になるかもしれないと覚悟して。
「確かに、危険は排除する方がより確実かもしれない。でも、誰もが『より確実な方』を選んだら彼女は一人きりになってしまう。ひと一人を、友達を無視してその上に成り立つ平和の中で普通に生きる事なんて俺には出来ない。だから……斬りたければ、斬って良い」
エッジは、冷たい汗が背中を流れ落ちるのを感じ、手を強く握りしめて覚悟を決めて動いた。
剣を握る兄の手に力が込められるのを視界の端に捉えながら、彼は兄の剣に背を向けて扉に走った。
たった一歩が、エッジにはとても長い時間に感じられる。
彼の背中に剣が降り下ろされた様な冷たい感触が走る。
けれど、それは恐怖から来る錯覚だった。
剣は降り下ろされなかった。
エッジは廊下に飛び出す。
なぜブレイドが斬らなかったか考える暇は無かった。
まだ異変に気付いていないのかエッジの近くに騎士達の姿は無い。
しかし、ここは宿の二階、逃げようとしても階段を下りた途端捕まるのは目に見えていた。
(なら――)
「待て!」
部屋から飛び出して来たブレイドにエッジは左手を掴まれた。
柔らかい生地の寝間着に金属の籠手が食い込む。
「逃がす訳にはいかない、ここで逃げたらお前は……」
エッジは自由な右手に雷のディープスを集め、ブレイドの胸に押し付けるようにして解放した。
呻き声を上げて、ブレイドが手を離す。
「俺の心配なら要らない。悪いブレイド、出来ればいつかまた違う形で」
今の衝撃からか返事はなかった。
しかし、さっきといい今といい兄がエッジに手加減をしているのは明白だった。
ブレイドはただ、胸を押さえながら弟を睨み付けていた。
今の音に気付かれたのか階段の方が騒がしくなる。
エッジはもう一度右手に雷のディープスを、そして左手には風のディープスを
その雷の方を廊下の外側の大きな窓に向けて解放する。
ばりばりと大きな音がして、ガラスにヒビが入る。エッジはそこに間を置かずに体当たりした。
「エッジ!!」
二階の高さから外へと飛び出そうとする、エッジの背後からブレイドの声がする。
エッジは固く目蓋を閉じながら窓の木枠やガラスがぶつかる痛みを感じ、足元が無くなる感覚に恐怖を覚えるのを必死に抑えた。
彼と、周りのガラスが重力に捕まって落下を始める。それを感じるのと同時にエッジは風のディープスを足元に向けて解放する。
つむじ風が起こり、周りのガラス片が上へと巻きあげられ、手の甲や頬を切られる。
エッジの体も落下の勢いを弱め、そして少し浮き上がる。
(風が強すぎた!?)
一瞬、木の葉の様に舞い上げられ地面へと叩きつけられる想像が彼の頭をよぎる。
けれど、それは杞憂だった様で上昇はすぐに止まり、緩やかな落下に転じて俺は何とか宿の外の細い道に着地した。
それに少し遅れて巻き上げられたガラス片が降ってくる。
弱くなってはいるもののまだ雨が降っており、薄い服の生地はどんどん水を吸ってエッジの体温を奪う。
普通ならどこかで休むべき所だが、今のエッジにはそんな時間は無かった。
宿の二階と入り口の方からも声がする、すぐにでもこの場を離れなければならなかった。
辺りを見回すと、エッジから一番近い路地の入り口まで七歩はある。
彼はすぐにそちらへ向きを変え駆け出すが、その間にも見つかるのではと気が気では無かった。
宿から離れられた訳ではない、間近に無数のアクシズ=ワンドの騎士達が居る。
角を曲がる前に、今彼が居る道の先から騎士が歩いてくるがしゃがしゃという音が聞こえた。
エッジは角を曲がっても走り続けたが、鎧の音は遠くならない。
入った路地は狭く、いくつも左右に分岐しているのが見えた。
エッジの背後の物音は少しずつ歩調を上げてきている様だった。
足音に気づいたか、狭い路地に逃げたと分かったのかもしれない。
(すぐに曲がらないと……)
姿を見られて確信を持たれたら終わりだった。
そう思っていると、エッジは足音が一つでは無いことに気づいた。
(右か左かよく分からない――いや、もしかして両側から既に騎士が来ているのか?)
そんな焦りが、彼の集中力を削いでいたのかもしれない。
次の角を曲がって目の前の人影に気付いたときには、エッジは両腕を強く掴まれ拘束されていた。とても人間のものとは思えない力だった。
「あら、こんな天気なのに散歩なんて奇遇ね」
目の前で微笑むその顔は以前アキに襲いかかってきた女性、リョウカだった。