TALES OF CRYING ―女神の涙と黒い翼― 作:ILY
第一頁 追想、無人の闘技場
「はい、ラーク。あなたの武器よ」
「ありがとう、リョウカ」
クリフとの一騎打ちの末に壊れてしまっていた武器。
元通りの形で帰ってきたそれをラークはすぐさま鞘から抜き、重心に違いが無いか確かめて満足そうに頷く。
その一方で、突然武器の修理を頼まれたリョウカは、ようやく心労から解放され溜息を吐く。
闇の宝珠アスネイシスの残り全てを持つ『ジード』との再会を経て、一行は最後の戦いに向けて貿易拠点マーミンの宿で準備を進めていた。
このアクシズ=ワンド王国領内で指名手配されているエッジとクロウを擁する彼らはなかなか宿が取れなかったが、王都が炎上した事で辺境のこの町までは捜索の手は届かず辛うじて安息の時を得ている。
「良かったじゃねえか。――あ!漆黒の翼の連中の怪我も大体良くなってきたらしいし、今日は疲れてるリアトリス達の慰労も兼ねてご馳走にしようぜ!」
リョウカの表情が険しくなって来た事に気付かないラークに代わり、クリフがそう提案する。
ラークは久々に触れる愛剣をくるくると振り回すのに夢中の様だった。
彼の横から献立の気配を感じ取ったクロウが真っ先に右手を突き上げ、クリフにリクエストを出す。
料理当番とは関係なくこの様な気晴らしを兼ねた食事は、今や自然と彼の担当になっていた。
「私オムレツが良い。トマトと何か細かいタマネギと肉入ってるやつ、ニンジン抜きで」
「そうだな卵も発つ前に全部使い切っておきたいし丁度良いから作ってやるよ」
要求が通って上機嫌のクロウの隣から、エッジが手伝いに名乗りを上げる。
「俺も出来るところまで手伝うよ、この人数分だと材料切るだけでも一苦労だろ」
「お?サンキュー」
そのまま然り気無くクリフに近付いて、エッジが小声で尋ねる。
「本当にニンジン抜くのか……?」
「そんな訳ねーだろ。見た目に目立たなきゃクロウは多少なら気付かねえし、そもそも気付いてもアイツいざ出されたら『勿体無い』って結局全部食うぜ」
慎重に彼女の顔色を伺う二人を尻目に、当のクロウは鼻歌混じりに部屋を出ていった。
―――――――――――
太陽が南中を過ぎる中、何時間も食事も摂らずリアトリスは『ジード』と戦って傷付いた怪我人と向き合っていた。
(この人の傷特に深い……急所は的確に外されてるけど、少し位置が左にずれてたら間違いなく出血多量で助からなかった)
汗が彼女の頬を伝う。
時間が経過すると治癒術で瞬時に傷を治すのは難しくなる。本人の自己治癒力でなおり始めた
この為、大勢の怪我人が一度に出た時は初期の治療が最も重要になる。限られる治癒術の使用回数で全ての患者の傷を把握して、優先順位を付けて迅速に処置する――そんな理想的な動きがきちんと訓練を受けていないリアトリスとクロウの二人だけで出来る筈も無かった。結果として数名、治療が遅れる人間が現れる。
今リアトリスが診ている相手はその最後の一人。
漆黒の翼も、怪我した賞金稼ぎの面々も皆感謝こそすれ、誰一人彼女達の事を責めなかった。
それでもリアトリスの胸には後悔が残る。
(もっと先にこの人を治療していれば)
既に初歩的な治癒術が用を成す段階では無かった為、リアトリスはずっと手伝ってくれていたクロウを先に帰らせていた。
(『この人数なら私一人で平気』か。いつの間にか随分嘘が上手くなっちゃったな)
笑顔で送り出したリアトリスをクロウは心配こそしたものの、疑いはしなかった。またもや嘘を吐いている事に彼女の胸は少し痛む。
それでもリアトリスはこれを、『
(これ以上あの子が背負うものを増やしたくない)
いずれ自分が命を奪うかもしれない相手でも――否、だからこそ無駄な荷物などクロウに負わせないとリアトリスは密かに決めていた。
アキが冷水を含ませてくれた綿織物で汗を拭い、慎重に一つずつ彼女は治せる箇所から順番に治療を続けた。
―――――――――――
ほの暗い深みから不意に光が目を射して少女は我に返る。
木漏れ日の反射する井戸を覗き込んでアキはふう、と溜息を吐いた。夏を過ぎて涼しくなり始めたとはいえ真昼の晴天の下で桶いっぱいの重い水を何度も運んでいれば汗も出る。
井戸の遥か下方の地下水から涼やかな風が吹き上げてくるのを暫し楽しんで、アキは最後の分の釣瓶を引き上げた。
(飲み水と、洗濯用に、リアさんが使う分……これで全部の筈)
料理や飲用だけでなく、身を清めたり、汚れた布の洗浄、患部の冷却――と、とかく水は用途が多く必要量も多い。
単純な水運びでもやっている内に、アキは人の生活がいかに水に密着しているかを実感する。屋敷で何もかもやって貰っていた頃の彼女には縁の無かった作業も、旅を通して大分こなれてきていた。
アキはこうして汗を流すのが嫌いではない。それを姉に話した時は思い切り怪訝な顔をされ共感は得られなかったが。
多くの人の「当たり前」の生活の手伝いが出来る時間は、アキにとって義父の下で謀略に手を貸していた頃より何倍も心安らぐ時間だった。
(私ちゃんと、役に立てていますよね……?)
頭の中でふとそんな自問をし、彼女はくすりと笑った。
井戸と建物を七往復もしたのだから、もう少し自分も自信を持っても良いだろうに、と。つい後ろ向きになってしまうのは変わらないなとアキは自省しつつ、同時にそう考えられるだけ随分前向きになれているとも思う。
気を取り直し、最後のひと踏ん張りのつもりで再び動き出した彼女を不意に眠そうな声が呼んだ。
「それで最後ー?アキ」
桶から水を零さないよう注意しながらアキはクロウを振り返る。
「ええ、丁度これで終わるところです」
いつの間にか随分打ち解けた二人は以前よりずっと砕けた言葉で会話する様になっていた。
「え、本当にもう全部運んじゃったの?今日は御馳走だっていうから、そろそろ皆のとこ戻って休みなよ。これは私が運ぶか、ら!」
言いながらクロウは桶の横木に手をかけて受け取ろうとし、その重さにつんのめりかけた。
水が少し溢れ、アキは慌てて桶の側面に手を沿わせて直ぐ様平衡な状態に戻す。クロウが落とさないので精一杯だった桶を彼女は軽々支えた。
「だ、大丈夫ですか!?」
クロウは水をぶち撒けず済んだ事に一瞬安堵するも、不甲斐なさで二つ年下の少女の心配そうな視線から目を背ける。
「これは私が運びますから、あとちょっとだけ待ってて下さい」
手慣れた様子で重い桶を運び去るアキに、クロウは手を伸ばしかけた姿勢のまま瞬く間に取り残された。一見華奢なアキに、クロウにはとても過重な大型の武器を使いこなすだけの体力がある事を彼女は改めて思い出させられる。
(……ここまで筋力差があると思わなかった)
―――――――――――
その夜、宿の裏手の空間はちょっとした宴会場になっていた。
夜の帳の中に浮かぶ篝火が、仲間達の影を大きく壁上に踊らせる。
他の客にも食事を提供する炊事場を占領する訳にもいかなかった彼らは、普段通り自分たちの調理器具で野外調理を行っていた。他の町であれば出来ない様な大胆な催しではあったが、かつての事件の影響から町全体がエッジ達に友好的なマーミンに至ってはそれは例外。
並べた木箱に平織りの布を敷いただけの簡易テーブルに、真紅のソースが鮮やかなオムレツ、焼けたばかりで小気味良く油の弾ける羊肉、木の実のアクセントが印象的なチョップドサラダに、特に時間をかけて丁寧に煮込まれたブラウンルーのシチュー……等々、クリフが中心となって作り上げた料理が並ぶ。
リアトリスとアキはそれら一つ一つの料理に目を輝かせながらも取る順番を逡巡し、リョウカはそこに加わって二人と早口に相談する。火起こしが得意で料理をずっと手伝っていたルオンは、クリフにずっと話しかけられており、どうして良いか分からない様子で何度も皿と彼の顔とに視線を行き来させていた。エッジとラークは色んな料理を少しずつ取って、どうやって作ったのだろうかと分からないなりにあれこれ意見を交わす。そんな仲間達の隙間を縫って動き回りながらクロウは飢えたリスの様に黙々と食事に集中していた。
料理の出来栄えは間違いなく最高で、それを味わう皆の表情も自然と解れる。
穏やかな時間が過ぎていく。
他の町より安全であるとはいっても野外での談笑は少なからず人目を引く。そのリスクは全員薄々感じてはいた。
旅人や行商人にエッジやクロウの姿を見られればマーミンの町の門番か賞金稼ぎ達が呼ばれ騒動になるだろう。けれど誰もそれを理由に宴に水を差す様な事は言わない。
これが或いは最後の休息になるかもしれない事を全員が分かっていた。
「ん、この皿で終わりか?」
あれだけ並んでいた料理の皿を見渡して、その殆どが空になっていることを確認するクリフ。
「あっという間でしたね、みんなすごい……私はもうお腹いっぱいです」
然程大食では無かったリアトリスは一通りの料理を味見して以降、会話の聞き役に回っていた。
「おーい、誰かこの最後の肉食べちゃってくれ」
クリフがそう声をかけると、彼と目が合ったルオンは押し付けられると思ったのか無言で首を横に振り、早々に満足したらしきクロウは手をひらひらさせて断った。
と、最後に残った皿の上でこんがりと焼けたラム肉にほとんど同時に二人が手を伸ばす。
互いの手が触れた所で二人は手を止め、相手を牽制するように睨み合った。
「あら、トウカ。こういうのは姉に譲ってくれるわよね」
「姉さんこそ、こんな時くらい大人の余裕を見せて引いてくれても良いんですよ?」
一瞬引こうとしたアキだったが、リョウカにやや高圧的な態度で来られて反射的に眉を吊り上げて言い返す。
「もう十分食べたんじゃない?」
「それは姉さんだって同じでは?」
「私はただこのままだと片付かないと思っただけよ」
「さっきは『譲って』って言ってましたけど」
普段遠慮がちなアキはリョウカと喧嘩などあまりしないのだが、根本的に負けず嫌いなのは姉妹共に一緒の様で特にこういう二人だけの問題となるとどちらも驚く程子供じみた喧嘩をする事があった。
一人っ子のリアトリス等はそんなアキとリョウカの様子を「互いの素の部分を出せる家族としての信頼あればこそだから少し羨ましい」と評していたがそんな温かい羨望の眼を向けるのは彼女一人で、他の仲間達はその姉妹喧嘩からさっさと興味を他へ移す。
「――で、えっと……誰か皿洗ってくれるか?」
板挟みになって身動きの取れなくなったクリフは苦笑いしながら、助けを求めた。
「俺やるよ」
「じゃあ、私も」
エッジが直ぐ様手を上げ、クロウもほぼ同時に名乗りを上げる。
「悪い、じゃあ頼むな」
何とか火花散らすアキとリョウカから皿だけは回収したクリフは器用にその皿を二人の間からエッジにパスして片付けをエッジとクロウに託し、ずっと面白がる様な視線を自分に向け続ける相手を睨んだ。
「……最初に目が合ったんだから手伝えよ、ラーク」
「いやー食べ過ぎちゃったのか体が動かなくて。料理すごい美味しかったよ、ご馳走様」
どこか面白がる様ににっこり笑う青年にクリフは溜め息を吐いた。
―――――――――――
宿の洗い場を借りた二人は手分けしながら三回程往き来して全ての皿を運び終える。
他の客の分の皿も洗う事を条件に借りた為、エッジとクロウはすぐ作業に移った。
エッジが肉の骨などをまとめて処分しながら油汚れの酷い皿を選り分け、クロウは
「お湯使えると楽だよね――けど、こんな田舎に温熱筒なんて無いか」
「俺が深術でやってみるよ」
手は止め無かったが、きょとんとクロウは首を傾げる。
エッジもクロウも火属性の攻撃深術は使えなかった。
「あれ、エッジそんな事出来たっけ」
空気中で先に火属性のディープスを集めたエッジは、それから水に手を浸して金属製の洗い桶の底面に触れる。
水中で遊離状態のディープスを収束するのは難しかった。
「適正が無いわけじゃないんだ、戦闘で普段から使える程安定しないだけで」
武器に
「そう、じゃあお願い。お湯が沸くまでの間私が洗った皿を拭いて貰って良い?この量だと何回笊が一杯になるか分からないし」
「分かった。皿を戻す場所……同じデザインのは同じ所に戻しとけば良いだろうけど、他はどうする?」
「あー、それは仕方ないからとりあえず除けといて後で聞こ」
軽い相談をしている間にも次々に皿が汚れを落とされ、水気を拭き取られて積まれていく。
作業量が多いため、ある程度流れが出来てからは二人とも無言になった。
しばし水と皿の規則正しい音だけが厨房を満たす。
「あっ」
ふと、二人が並んで洗いの作業をしている時エッジが皿を落としかけた。
クロウがそれを咄嗟にキャッチする。
「っと、セーフ。料理はともかく皿洗いは私のほうが上手かもね」
ミスを茶化す様に笑ったクロウに、エッジは礼を言う。
「ごめん、ありがとう」
皿をエッジに返しながら彼女は口元を引き締めてほんの少し真剣な表情になる。
「また考え事?」
「違う、って言いたいけど」
図星を差されてエッジは言い淀む。
「禁忌の剣の事か、これからの戦いの事か、この間怪我した人たちの事か……何を考えていたかは知らないけど悪い癖だよ、エッジ。ほんの少し時間が出来ると色々考え過ぎるのは」
反論できずにエッジは苦笑いを浮かべながら頭を掻く。
暇さえあれば他人の事。
本来なら自分の時間であってもそうやって他人の為に割いてしまうそんな少年の姿を見て、クロウは微かに目を逸らした。
(私にも……話してくれたら)
けれどそれを口にしてもエッジは話さない事を彼女は知っている。
どんなに一緒に居ても彼の苦しみを、クロウは共有できなかった。
エッジはそれを「苦しみ」だとさえ自覚していないのだから。
と、うっすらと蒼い光がエッジの周辺で立ち上った。
それが触れた服の袖は微かな粒子になって分解されかかる。
「っ!?」
その光景を見たエッジは反射的に原因を察知して、肌身離さず帯剣している二振りの内、特に厳重に布をかけて目立たない様持ち歩いている方の剣を投げ捨てた。
布が解ける程の勢いで深海の剣は転がり、床と鈍い音を立てる。
その間も所有者の意思に反して蒼い光を発し続けるその剣は、布を分解して裂き、奇妙な彫刻の様な跡を残してテーブルの脚を一本消滅させた。
支えを失った卓は大きく傾き、その上に乗っていた多くの皿が雪崩を打って床に崩れて割れた。宿中を揺らす様な振動が響く。
「何!?これ、エッジがやってるんじゃないよね」
文字通り目の色を変えながら、クロウも無差別に分解能力を発揮し始めた剣に向き直る。
とはいえ、彼女もこの武器に対しては有効な対処法が有る訳では無く、エッジ同様その動きを注視することしか出来なかった。深海の剣は戦闘時程の勢いでは光を放射してはいなかったものの、辺りのものを確かめる触角の様に少しずつ蒼い光の帯を伸ばし、確実にその影響範囲を広げていく。
光が触れた床や壁の表面にはスプーンでくり抜いた様な跡が刻まれ、深海の剣の周囲の床板が抉れて沈み込む。第一元素破壊は音も無く進行し、支えを失った物が落下する二次的な破壊のみが音を立てる。
宿の中の平穏な空間を掻き乱すその異常の広がりは建物の柱にまで到達しかけた。
それを見てエッジは反射的に飛び出す。
微かに光が弱まった一瞬の隙に転がるようにして飛び込み、剣の柄を掴む。
あと一歩遅ければこの宿に居る大勢の人間達が、支えを失った屋根に潰されていたかもしれなかった。
「エッジ!?」
強引に飛び込んだ彼が暴走を続ける剣を手にしたまま自分に背を向けるのを見て、クロウは思わず制止しかける。
「外に出る、他の人を巻き込む訳にはいかない」
そう告げて彼女の方を振り返りもせずにエッジは屋外へ飛び出した。
クロウはこんな危険を前にしても迷わず「頼る」事より「頼らない」事を選ばれた口惜しさに歯噛みする。
「ばか、『ごめん巻き込む』くらい言えないわけ!」
大きく抉られた痕の残る扉を潜って、彼女もすぐにエッジの跡を追った。
―――――――――――
屋外に飛び出したエッジの肌を夜気が打つ。
しかし、彼にはそれを味わう余裕など無かった。
夜の薄ら寒さなど比較にならない冷気を帯びた蒼い光が腕を掠め、エッジはそれを避けて身を捩る。
本来なら冷たくなど無い燐光が、鋭利な刃物の様なその殺傷能力で腕をもぎ取ろうとする度に彼の背筋を凍らせて錯覚を起こす。
「はっ……ぁ」
次の瞬間には身を裂かれるかもしれない恐怖が、エッジの呼吸まで不規則にしていく。
それでも彼はその状況の中で少しでも開けた場所、人家から離れた場所を探して走った。
必然としてその足は町の外へ、外へと向かうことになる。
日もすっかり暮れたマーミンの街で
(いけるか?今のこの剣の状態で)
彼が思案する間にも光は揺らめく蝋燭の如くふらりと向きを変え、彼に襲いかかった。
エッジは剣身を身体から少し離しながら前転する事でそれを掻い潜る。
彼が再び体勢を立て直して前転から立ち上がった時には、地面の形が変わっていた。
蒼い光は剣の向きとは無関係にある程度決まった方角に流れている様であり、少しでも速度を緩めたり、違う方へと足を向けてしまうと、その度エッジの身体は深海の剣の反攻に晒される。
彼は走り続ける事を余儀なくされていた。
行き止まりを示す整然と並んだ木柵は、もうエッジの眼前に迫る。
門を通って足を止めれば、確実に門番を巻き込む。
引き返す選択肢は論外。
エッジは一か八か暴走状態の武器を振りかぶった。
「
きちんとコントロール出来ている時はただ剣閃をなぞる軌道を描く筈のその一撃は、ほとんど暴流の様に柵を突き破った。
飛び越えられる様に上部だけを破壊するつもりだったエッジは歯噛みしながら、直後に空いた大穴からマーミンの外へと飛び出す。
とても周囲の様子を窺う余裕など無い。
こんな時間に柵の外側を歩いている人間が居ない事を祈るしかエッジには出来なかった。
徘徊するモンスターがこの穴を見つけない事も。
―――――――――――
「ラーク」
意識の端に棘が刺さった様な感覚を覚えて、リアトリスは食休みを中断させられる。
彼女の呼び声に異常なものを感じ取ったラークも武器に手を添えながら、表情を引き締める。
続くリアトリスの声には微かな恐怖が滲む。
「エッジとクロウに何かあったみたい。深海の剣の力が、多分……制御できない状態になってる」
禁忌の剣をエッジが手にした時から、こういう結末も有り得るのだという事を二人は覚悟していた。
剣が一度でも完全に制御を失えば、それを持つエッジは間違いなく死ぬ。
そもそも宝珠に対抗する力を持つ深海の剣とは本来そういう剣なのだ。
それを持ち続け、且つ武器として使用できているエッジの状態こそ「異常」だった。
だから、何の前触れもなくこういう事態が起きたとしても何の不思議も無い。
ラークは尻込みしかけるリアトリスに案内をさせる為、強く彼女の手を引いた。
「……急ごう。クロウまで巻き込ませる訳にはいかない」
《シリアン近郊の森》
「エッジ!足元」
彼を追ってきたクロウが、肩衣がずれるのも構わず警告を発した時には遅かった。
薄暗い森の中で木の根に足を取られたエッジは、走ってきた速度のまま巨木に頭から突っ込んでいく。
「しまった……!」
「くっ、スナイプバースト!」
エッジを挟んでちょうど樹の反対側に立つクロウはいつもの様に「ブラッディランス」が使えない位置関係に舌打ちしながら、代わりに深術の力を乗せて羽根の装飾の付いたスローイングダガーを抜いて立て続けに違う方向へと投げた。
勢いよく飛び出したそれらは羽根によって風を切り、弧を描きながらエッジを飛び越え、ただ一点に収束する。
武器としては樹皮を傷付ける程度の性能しか持たないダガーが、黒い鋸状の無数の刃を付加され、膨大なディープスの噴射で猛加速する事で太い幹を根こそぎ切り裂く。
辛うじて障害物との正面衝突を免れたエッジは地面に手を付きながらもどうにか体勢を立て直し、クロウによって切り倒された大木を振り返った。
自重を全て地面に叩きつけたそれは周囲の木の枝を弾き飛ばしながら、地面に大きな轍を残し大地を揺らす。
「クロウ、何て無茶を……」
「エッジだってさっき結果的に似た様なことしてたけど?」
周辺への被害と彼女の両方を心配するエッジと、そういった事よりまずこの危機を乗り切る方を優先しようとするクロウ。
二人は一瞬睨み合ったが、お互いに今は口論している場合ではないと判断し深海の剣の光が流れていく方向を見る。
蒼い光はここに来て幾分落ち着いてきており、そして同時に道標の様に明確な方向を示し始めていた。
二人の視界の先に、月光を反射した白い壁面が微かに映る。
まだ遠いにも拘らず不思議とその輝きは森の暗さで曇ること無く、どこか現実離れして見えた。
「あの建物、だね」
「ああ」
二人は深海の剣が明らかにその建造物に引かれている事を確認する。
その上でクロウが提案した。
「どうする?その剣があの場所に引っ張られてるのは間違いないみたいだけど、行ったからってこの暴走が収まるとは限らない。何より禁忌の剣と引き合う様なモノなんてどんな危険があるか分からない――引き返すなら今だよ」
それを聞いて試しにエッジは少し剣を身体から離しながら、来た道を引き返してみる。その途端、勢いよく燃え上がる炎の様に深海の剣から立ち上る光は不安定に強くなり、再び所持者を脅かす。
「……どうやら引き返すって選択肢は無いみたいだ」
エッジが白い建造物の方に向き直ると、何事も無かったかの様に剣は落ち着いた。
クロウは尚も尋ねる。
「良いの?ここにその剣を捨てていくって選択肢もあるけど」
エッジは首を横に振った。
「この剣は俺一人のものじゃない、みんなで『ジード』と戦う為にどうしても必要なんだ」
それだけ言って、少年は迷うこと無く歩みを進める。
そんな答えが欲しかった訳ではないクロウは、しかし一度決めたエッジの意向に異は唱えなかった。
「分かった、付き合うよ」
出だしが遅れた分少しだけ歩調を速め、少女は彼の横を並んで歩いた。
近づくに連れ、その建造物の奇妙さは際立ってきた。
壁面は劣化がひどく長い年月放置されてきた事を物語っているが不思議とその輝きには一点の曇りもなく、まるで鏡面に写った映像か何かの様だった。何よりエッジの住んでいた村が丸ごと入ってしまいそうなその大きさと、真円に近いその形状はとても家屋にも何人の居城にも――否、およそ二人の知るどんな建物の種類にも該当しなかった。
分厚い壁の下は月光が届かぬ暗闇だった為、トンネルを抜けた二人は反射する一面の月光に暫し目を細めた。
内部は中央部が大きく開けた砂地になっており、その周囲をぐるりとすり鉢状に石造りの段差が囲む。一見するとそれらは階段の様だったがよく見ればそれは一段ごとに区切られ中央部を臨む形で配置された腰掛けであることが分かる。
今二人が抜けてきた分厚い石壁の上部は全てその腰掛けになっており、中央の平らに
「屋根が無い……」
頭上から直に降り注ぐ星々の光に、クロウはいよいよこれが何の為の建造物なのか分からなくなる。
「劇場、とかなのかな」
エッジも自分の知識の範囲で候補を巡らすものの、どこか間違っている気がした。
戸惑う二人に、聞き馴染んだ女性の声がかかる。
「見世物という意味ではね、但しここでいう所の演目は『闘い』だけれど」
その声で振り返った二人は、他の仲間達が皆追ってきた事にそこで初めて気付いた。
リョウカの解説は続く。
「この国、アクシズ=ワンド王国の黎明期には武芸や、或いはそんな呼び名も付かない様な獣と人との殺し合いが娯楽とされていた時期があったのよ。勿論今はそんな事が行われてる場所はこの国には無いけどね」
そう言って視線を向けられたクリフは、むっとして言い返す。
「セオニア王国にだってねぇよ」
元々の出身が違うリアトリスも一応補足する。
「レーシアもです」
リョウカも本気で他国を貶める意図は無く確認も兼ねた冗談だったようで、「そうよね」と微笑んで続けた。
「これは闘技場という施設よ、今となっては風化して歴史に置いていかれた忌まわしい過去の遺物。観客も戦う者も誰も居ないまま放置されたものの一つ……ただ」
そこまで話してリョウカは一つ引っかかった様で、細い眉根を寄せて口を噤む。
その姉の様子を不審に思ったアキが尋ねた。
「何か気になるんですか?」
リョウカは妹の問いにすぐに顔を上げ、笑顔を作る。
「ああ、いえ。場所がね。一般的にこういうのはもっと、それこそ王都位人工が多い場所に作られるものだから、ここにあるのは少し不自然というか……いえ、確かにカースメリア大陸の中でならここは比較的人口が多い地域ではあるんだけど」
歯切れの悪い彼女の言葉を聞く内に、エッジはこの闘技場を最初に見た時の違和感の正体に気付いた。
「大きすぎる」――辺り一帯は森で覆われ道さえ存在しない様な場所であるにも関わらず、それを利用する周辺地域の人口と建物の規模が釣り合っていない。
数百年以上前のものであるという点を考慮しても、この闘技場の存在は不自然だった。
そこでふと、話に加わらず周囲を警戒していたルオンが無言でクロウの袖を引き、彼女もそれで気付く。
この無人の闘技場に居る人間が自分たちだけでは無かった事に。
「誰か居る」
低い声で呟いた彼女の視線の先を辿った一行の目に、月明かりの下で闘技場の反対側に静かに佇む人物が映る。
とても背の高い女性で、その
均整のとれた身体の線に沿って流れる緑のドレスは彼女の女神の様に恵まれた体型を強調しながらも、不思議と馴染んでいて違和感を感じさせず、まるで彼女自身も含めて一つの花であるかの様な一体感さえあった。
(白い羽根……?)
クロウは一瞬、その女性の足元から舞った様に見えた何かを追おうと目を眇めるがその時にはもう羽根など影も形も無かった。仲間達の顔を伺っても誰も気付いた様子は無く、彼女は自分の見間違いだと思うしか無かった。
緑衣の女性も彼らの存在に気付いた様で微笑みを返す。
「あら、こんばんは」
その笑顔は何処までも慈愛に満ちて、敵意の欠片も無かった。