重度の怪我をして約一週間。体も慣れたものなのか歩けるようになり異常な速度で回復を見せ、漸く病院と名された牢獄から解放されて、退院したかと思えば義姉に心配され今度は家での軟禁。我家は監獄なのかもしれないと言い出したいところだが、そんな愚痴を聞いてくれるのは義姉の親友達のみなので見舞いに来てくれた時にしか会わない。早々に諦め、義姉の手厚い看病を受諾、でもまぁ家というのは退屈しないほど本が蔵書されているから、と理由付ければ悪くない退院だ。
家でじっとしているのも飽きた頃、休み続けると単位がヤバイことに気付き、二時間による説得の甲斐あってか今日から登校だけはできるようになった。
朝――までは、いつもの一日だ。
部屋に差し込む朝日の中で、薄らと覚醒してきた意識を手探りに、手繰り寄せるように携帯を探して――。
――ふにょん。
と、柔らかな感触が左掌いっぱいに広がる。
メロンサイズのマシュマロ。一言で言えば大きさと弾力はそれくらいだろうか。しかし桃のように繊細なしっとりとした感触。ほんのりとした体温。包み紙のような薄い布の下にそれを感じると、直感でまたかと呆れているのか喜んでいるのかどうしようもない気持ちで目の前の人物に問い掛ける。この柔らかさとあたたかさの持ち主を――
「また潜り込んだの? 舞姫菜――」
こんな事やるのは義姉しかいない。と、思っていたら予想外の人物が目の前に。
「……」
天使、ラフィエルの見開いた双眸と視線が交わる。予想外過ぎる人物との遭遇に一瞬心臓が跳ね上がると、表情筋はコンクリートのように固まり引き攣る。ただ、何度かこの経験があるからか心臓の早鐘すらも抑えきれず、上擦った声で漸く口にしたのは、
「おはよう、ラフィエル」
「おはようございます。クロさん」
初めて、友達と交わした挨拶だ。
おててとおっぱいがこんにちわ。
なんて、ボケてる場合でも惚けてる場合でもない。
「ラフィエル、いつから?」
「昨夜、鍵を開けさせてもらいこっそりと入らせていただきました」
「……不法侵入じゃないか!」
そうじゃない。期待した返答は、『今朝の何時から部屋に入り同衾したか』なのだ。てっきり義姉が通したのかと思ったのに、想像の斜め上を行く返答に困惑するのも束の間、注意だけは忘れない。
「でも、良かったよ。最近は物騒だし女の子一人で深夜の徘徊は危険だから。あと、出来れば、最初から許可を取って欲しかったけど。今度から忍び込むのはやめてくれよ」
夜中に娘一人出歩くなど言語道断。義姉にも言いつけていることでほっとしたのも数秒だけ、ストーカー気質な友達に複雑な感情を抱くものの、やはり一番の問題はその許可すら簡単にしてくれるかわからない義姉、舞姫菜の存在にある。
取り敢えず、懸念すべき事態から目を逸らして、思考の整理を実行。軽いパニック状態の脳内を冷却していると、悩ましげにラフィエルが、
「その……そろそろ手を離してくださいませんか? 通報しちゃいますよ」
と、読み取れない表情で脅迫を。
慌てて左手を離して、ベッドから転げ落ちる。折れて接合した肋骨がまた離れそうになる感覚を味わい、同時にラフィエルの姿を隠していた布団が捲れて、全貌が明らかになった。
「……なんでパジャマなんだ?」
ネグリジェとかを期待していた訳では無い。裸ワイシャツなる格好でもない。が、侵入した家でパジャマとは、不自然にも程がある。
「寝る時はこういう格好なんですよ。ネグリジェの方が良かったですか?」
真っ当で尤もなことを仰るが、一応、気になったので訊いておく。
「パジャマで来たの?」
「いえ、制服で来ましたよ」
「どこで着替えたの?」
「ここでですよ」
さらっと、この部屋を指差した。椎名が転げ落ちた場所、つまるところ椎名の位置を指し示して。
よく見れば、壁には舞天の女子用制服が一式掛けられている。女装癖はない。下着泥棒でもない。なら、あれはやはりラフィエルが着てきたのだろう。
男子生徒なら夢見るような?シチュエーションに溜息を吐いて、また説教を一つ。
「あのさ、ラフィエル。男の部屋に無闇に侵入するのをやめようか。あと、着替えは脱衣場でしてくれ。夜這いと勘違いして襲うよ?」
怪我人でも狼である。
友達、といえど節度くらいは保つべきだ。
友達でも男は狼。
幼馴染とかそんな関係でも、極論、男は狼。
コレ常識。
「……そうですね。軽率でした」
「わかればいいよ」
ただ、男としては惜しいな――とは言わない。仲が良くなったのか悪いのか、特殊な縁を感じるような気もするが、流石にいきなりこんな発言は失礼だろう。
元より、舞姫菜にも言ったことがない。いや、シスコンでもなければ変態でもないが。言えることがあるとすれば、何かを間違っている。友達は、普通であっても他人の家に侵入はしない。
「――それより、なんで来たの?」
放棄していた質問へとシフトすると同時に、ベッドの淵へと座り、ラフィエルを見据える。
きょとんと首を傾げて、ラフィエルは面白おかしいものを見たと言わんばかりに、
「決まってるじゃないですか。御見舞――」
と、当たり前に言い放とうとしたところで、キィっと音を立てて前方の扉が開いた。
白くサラッとした絹のような長髪と、スタイルのいい体躯が可愛らしい私服の上にエプロン姿、
「椎名くん、おはよー……ぉ?」
一番に懸念すべき存在が部屋の外から、扉を開けて覗き込んだまま硬直。義姉の舞姫菜、彼女は微笑みを一旦どこに追いやったのか失い、引き攣った笑みの後に悲痛に嘆き悲しむ表情で涙をポロリと落とした。
「そんな……私の椎名くんが、他の女と大人の階段登っちゃった……」
絶望に打ち拉がれたその表情は、哀しみと虚無と喪失を宿す瞳から溢れ出る涙でぐちゃぐちゃだ。
きっと浮気がバレた夫や彼氏とか、姉や母親に内緒で彼女と隠れて会っている時、いきなり見つかった場合の心境はこんなものだろう。
ヤバイ、どうしよう……。
言葉を思いつくより先に、自己防衛機能が作動する。
「舞姫菜? ご、誤解だから、友達だよ?」
「……じゃあ、なに、この状況!」
詰問するような口調は鬼気迫り、間女を見たと言わんばかりのそれ。浮気現場に遭遇した彼女そのものだ。
彼女でもないが、やましいことでもない。
なら、最適解はひとつだけ。
「えっと……。御見舞?」
我ながら、意味不明である。いったい何処にパジャマで見舞いに来る人がいるのか。
「じゃあ……なんでそんな格好なの?」
ふるふると震える指で椎名の背後を指差す。そこは突っ込みどころが多過ぎて触れたくなかったが、現実を直視しなければ解決には至らない。
「あぁ、これ? これは――」
ラフィエルの方を振り向き、絶句。
二の句に繋がらず、暫し神秘と艶美に魅入られて、少女の艶姿に頭は真っ白になった。
シーツを手繰り寄せ、胸の上から押えるように纏ったその少女の姿は、本来ある筈の肩先にはパジャマの布地はなく白い肩が覗き薄水色の紐が下がるだけ、脇や背中は露出気味で……。
「…………待て、パジャマはどうした?」
爛々と輝く、まるで子供が欲しい玩具に目を奪われたような瞳に、問い掛けた。
決まってラフィエルは演技力を披露し、恥ずかしそうにシーツを掻き抱く。
「……私にあんなことしたくせに、忘れたフリだなんて酷いです」
「いや、胸に触れたのは謝るから!?」
「えっ、と、友達ってそういうこと? そういう関係?」
邪推が危険な方向へと進む。
きっと今の義姉に何を言っても訊かないだろう。確実にラフィエルの邪魔が入る。
だから、証拠として――は疑わしいが、ラフィエルに詰め寄りシーツを剥がしにかかった。自由な左手だけで彼女の抑えるシーツを引っ掴みぐいっと引っ張る。何をされるか察したのかラフィエルは必死に抵抗した。
「な、何するんですか、警察呼びますよ!?」
「俺が呼びたいよ! むしろ不法侵入したお前を突き出したい」
「あ、あのね、お姉ちゃんが悪かったから。男の子だしそういう本やDVDがないのは可笑しいなって思ってたの。だから爛れた関係はやめよ? お姉ちゃんなら受け入れてあげるから、だからダメだよっ」
ラフィエルのシーツを剥ごうとする男と、愚行を止めようと奮闘する義姉、望まぬサンドウィッチな状況に誤解を解くこともいつの間にか忘れて、
「舞姫菜、アイドルのしていい発言じゃないからね!?」
冷静になって気づけば、天然ボケアイドルの暴走を止めることに変わっていた。
□■□
「い……行ってきます……」
誤解を解く事に一時間。盛大に一限目を遅刻して家を出る。心配性の舞姫菜が車椅子を用意するが、左手だけでは回せない車輪を抗議したところ、ラフィエルの申し出により車椅子を使用することになって……結局、ラフィエルに車椅子を押されながら登校することになった。疲れ切った体が重たいので反論することはなかったが。
登校時間がずれたことにより静かな街並みをカラカラと音を立てながら進む。
急に運動量の不足が体にこたえる。足は万全で、降りたいところだが――何故かラフィエルが降ろしてくれない。
「一応、訊いておくけど……」
「はい、なんでしょう?」
お互いに無言だったから耐え切れなくなって、訊けなかった質問をする。
「なんであそこで着替えようとした?」
「ご家族に挨拶するなら制服でと、気を回したつもりだったのですが……手遅れ――ええ、残念でしたね」
「確信犯だな」
呆れを通り越して、むしろ怒るべきことではなくなって諦めが早く嘆息する。別に本気で怒っているわけでもなく、ただ彼女の行動に苛立っているだけだ。
何について苛立っているのかは、自分でもわからないが嫌いではない。
お互いにまた無言でゆっくりと学校へと向かう。
路地を幾つも抜けて、見慣れた通りをふたりして、商店街を抜けるとまた新しい女の子を――とか呟かれたが、肉屋のおばさんには会釈を返すだけで理解してもらう。あらあらモテるわねーとか、商店街の男連中が血の雨を降らせるから勘弁して欲しい。
きっと今頃、新たな噂が沸き立つのだろう。脳裏にはそんなことを思い浮かべる。同時に死亡フラグも建設中。
その間にも、校門へと辿りついた。
舞天高校――正門。
登校時刻を過ぎた今、閉め切られた鉄柵が行く手を阻む。
「車椅子はここまでだね。どうする?」
一応、ラフィエルは飛ぶことが出来るから困りはしないが、提案の有無を問う。
果たして、羽を出していいものか――。
誰かに見られれば、大惨事となる。
「ラフィエル程度なら俺が抱えて跳べるけど……」
「仕方ありません。登りましょう。私が先に行って門を開けてもらいますから、待っていてください」
そう言って、鉄柵をよじ登ろうと手を掛けて身体を持ち上げるラフィエル。手は柵の上に、膝を持ち上げる。
その間にも、椎名は周囲を見渡して――尾行しているような輩がいないか警戒をしていた。
怪我をしている絶好の機会に狙う舞姫菜のファンの数は計り知れない。これまでにもう10人はいた。主に椎名を狙う者が大半でそれ自体には異論はない。ただ、舞姫菜が無事であるならば。
――きっとこの話は何時か。
誰かに話すことなんてないのかもしれないが、心の内に留めておこう。
故に警戒した尾行はいないようで、営業に出ているのか会社員がこちらを見ている。
正確には、校門の上を――。
思わず振り返って、直視した。
――揺らめくスカートを。
見えそうで見えない、何か。ラフィエルの履いているスカートと太股の間に心臓が跳ね上がり、慌てて焦って触れてしまう。
「きゃっ!?」
「見えるラフィエル!」
隠そうとしてスカートを抑える。驚いたラフィエルがバランスを崩して、体を弓形に反らした。
続いて、倒れ込んでくる体を左手と上半身だけで受け止めて一息、安堵するとキッと睨まれる。笑っているように見えるその笑顔が怖い。
「……えっちですねぇ〜。これ、何回目ですか?」
「ほんとごめん。でも、見えそうだったから」
「だからって、触っちゃいけない時だってあると思うんですが……まぁ、いいです。事故ですし」
「君が事故だと言うと、そう訊こえないんだけど」
「なんですかぁ〜。クロさん」
「いえ、なんでもありません」
せっかく不問になったのだから、掘り返すことはないと引き下がり椎名は己の内に思い留める。
きっと嫌われた。なんか、何故か、悲しい気がするがそうでないといいなと願って。
看守がいない。事実に気づいたのは後のこと、気を取り直して椎名の提案した柵を乗り越える方法によって漸く校内敷地に侵入すると、ラフィエルはニコニコと車椅子を押して催促した。
つまり――椎名に乗れ、と言っているらしい。
拒否したら義姉に告げ口すると言われた。さすが大悪魔を手玉に取る天使である。
「そうだ。今日からクロさんのお家でお世話になろうと思うんですが、どうですか?」
昇降口、生徒玄関にてラフィエルが思い出したように物申す。別に嫌でもダメな理由もない。ただ、一つを除いて。
「うちの義姉に許可を取れるならいいよ」
それが最大の難所だ。今朝の悶着から難易度は最大へと上昇している為に成功率は1%にも満たない。
「では、成功した暁にはベッド……私が使ってもよろしいですか? さすがに男の人と寝るのは危険なので」
「一応、そういう認識はあったんだな……」
先程の一件で考えを改めたのか、ラフィエルの物怖じしない提案に頷く。
階段でまた車椅子を降りて、登る。そして教室のある階へと到達するとまた車椅子に揺られて自分の教室へと向かう。
教室へと到達した。確か、1限目からグラサンの数学が課目に入っていた気がする。それを肯定するようにグラサンのハードボイルドな声が教室内から響いてくる。
意を決して、鬼門を開く。
すれば当たり前のように視線を独り占めだ。
「遅れてすみません」
「……。生きていたか」
「それ最初にしていい教師の台詞ですかね」
もちろん、グラサン教師は嫌味とかで言ったわけじゃない事はこれまでの経緯を得て知っている。戦争に行った兵士が生還したような口振りもご愛嬌。
他愛のないじゃれあい。朝の挨拶を交わして、いきなり車椅子が発進し段差に躓く。
ガッ、と芯に響く音を訊かせて、前に傾いた体は床へと投げ出された。
「いってぇ……」
「わ、すみません、大丈夫ですか?」
慌ててラフィエルが駆け寄ってくる。
まだ、自分の教室へと帰っていなかったらしい。
やっぱり、車椅子に乗るんじゃなかったか。
反応からしてわざとではない。ラフィエルが故意にしたわけではなく、厚意であることはこの反応だけで十分に伝わった。あと左手だけじゃ手動式の車輪を回せないことも忘れていたわけではない。
「夫婦漫才はさっさと終わらせてふたりとも席につけ。授業を再開する」
「夫婦漫才って……からかうにも程があるでしょ。グラサンを海に沈めますよ」
丸頭にグラサン、一見ヤクザのような風貌の教師にこんな軽口を叩けるのは、世界でもサターニャくらいの馬鹿か親しい人間のみ。
何故か生暖かいクラスメイト達の視線を無視して、席へと進み、後列から2番目の窓際――そこが椎名の席――に座ると
隣の席にラフィエルが着席。
「……えっ?」
椎名の記憶が正しければ隣は男子生徒だったはず。基本、女子生徒と隣接するように配置されている席は、男女比の都合により男子同士の場合もある、椎名の隣はそれに準例して男子生徒だった。
それ以前に何故、ラフィエルが……?
隣のクラスの少女が並んで座ったことに、黙考すること数秒、こちらを見ているグラサン教師と目が合う。
「海坊主。席替えした?」
椎名だけが呼ぶ、渾名。
海坊主と呼ばれたグラサン――彼、海坊主は顔色一つ変えず告げる。
「あぁ、今日からオマエの世話をするらしい。それに付きクラスを異動した。名前は知っているな」
「ちょっと待て、有り得ないだろ普通。クラスを異動? そんなの許可されるの?」
「問題ない。特例だ。……しかし、授業中のイチャイチャは控えろ。いくら恋仲とはいえ、教室が暑苦しくなる」
グラサンの位置を直すと、海坊主は当たり前のように授業へと戻ろうとして――なるほど。椎名には生暖かい視線の正体が何か、理解してしまった。
「隣の席のやつは?」
「……長谷川なら転校した」
名前を訊いて漸く思い出した。
よく思い出せば、隣の席の長谷川は例の長谷川で、ラフィエルを突き落とした犯人だったのだ。隣の席がそいつだったことも椎名は忘れていた。
表向きは転向したことになっているが、真相は明白。それが当たりだというように授業の終了を報せる鐘の音が鳴ると、海坊主はここまでと言ってそれから。
「それと、黒羽と白羽は後から職員室に来るように」
去り際にその言葉を残して行った。
グラサン教師と海坊主。
結構、好きなキャラです。
海坊主、またの名をファルコン。
今回は若干のラブコメ。
たぶん、グラサンの出番が増えるかも……。
変わらず視点を最後まで迷っていたのでおかしくなっていると思いますが、元からですねごめんなさい。