帝国建国記 ~とある休日、カフェにて~ 作:大ライヒ主義
(……少し、考えを改めねばならんようだな。戦争が非生産的行為であるという認識、あれは絶対ではない)
諸外国全てを敵に回すという、この無謀な戦争――最初こそ、このような外交状態に持ち込んだ政治家たちの無能を呪ったものだが、今なら彼らの思考を理解できる。
――彼らは非合理的で無能ゆえにではなく、合理的で有能ゆえにこの最悪な戦争を開始したのだ。
(諸外国全てを敵に回す大戦争か……クソッ、それなら違う宗教であろうと民族であろうと、妥協せざるを得ない。内輪で揉めていれば、『帝国』は一瞬で包囲殲滅の憂き目に遭うのだからな!)
もし平和であったのなら、ターニャ・デグレチャフは共産主義者に容赦しないだろう。部下の一人が共産主義に染まっていると知った途端に、そいつを撃ち殺すに違いない。
だが、今の帝国は末期状態だ。兵力不足であり、物資不足である。
いくらコミュニストいえども、むざむざ撃ち殺せば銃弾一発分が無駄になる。少なくともボコボコにしてから強制収容所に放り込み、死ぬまで労働させて祖国の勝利に貢献する栄誉の一部を分け与えるぐらいの妥協をせざるを得ない。
それが、長年にわたって脈々と『帝国』に伝わってきた「伝統」であった。
――競い! 争い! その先に未来がある!
だが、それは希望に向けてではない。目の前の破滅を避け、未来への破滅へ向かうという意味ではあるが。
破滅に向かって突き進む、ノンストップの暴走特急。ターニャは知らずのうちにその乗員として、ボイラー室に薪をせっせとくべ続けてきたことに今更気づいて絶望する。
それこそが『帝国』の歴史、伝統、文化であった。
伝統は、伝統であるがゆえに強い。歴史は、古くから受け継がれているがゆえに滅びない。
ターニャ・デグレチャフにルーデルドルフ、ゼートゥーアといった、『帝国』最高の頭脳をしてもなお、そのシステムは崩れることない。それどころか誰もが知らず知らずのうちに、気づけば歴史の歯車として組み込まれている有様だ。
つまるところ、誰もかれもが思考を放棄して、因習と伝統に身を委ねていたのだ!
争うのが人の歴史。内なる争いを鎮めるため、外にそれを輸出する。そのサイクルを飽きもせずにせっせと続ける無為無策……保守に脈々と受け継がれてきた伝統が、その集大成としてこの大戦争を引き起こしたのだ。
しかし希望は残っている。人という生き物は存外に強い。ゆえに生半可なことでは、まったくの諦観に徹しきれるものではない。
『帝国』という建物はだいぶ綻びがひどくなってきた。しかし修理しようとすればするほど、次から次へとボロが出てしまう。では、どうするか?
正解はひとつ――――何もしない! その一言に尽きる。
ひたすら保守、反動、懐古主義に徹する。誰もみだりに動いてはならぬ。ただ己を空しくして、ひたすら古の伝統、過去の権威に身を任す。それでこそ帝国は動き、続いてゆく。
この手に限る! 先の皇帝はそう悟った。そして民を導く責任感と指導者としての矜持から、徹底した無思考、完璧な虚無の世界へと臣民をいざなう。偉大なる皇帝陛下の後姿を追い、迷える7000万の帝国臣民もまた虚無の世界へと旅立った。
辿り着いた先に待っていたのは、恋い焦がれた不老不死の世界である。生と死の境界が曖昧となった、ヴァルプルギスの夜。すでに死んでいるのだから、それ以上の死はない。
かくして皇帝はまったくの無為無策によって、その帝国を永遠のものとした。
大陸の古き力を結集した、進歩と発展の時代へのアンチテーゼ。その中心には死があり、虚無が存在する。そして古来、人は虚無を畏怖する。死後の世界はその代表だ。だからこそ、そこへ心臓を授ける。
皇帝が死後の世界に求めたのは、完全なる虚無だった。複数のバラバラな勢力を抱える多民族・多文化の超大国『帝国』を維持するには、多種多様な勢力の、そのいずれもが決して手を触れること叶わぬ絶対的な虚無が必要である。
虚無とは何か。“死”である。
では何が“死”をもたらしてくれるのだ?
――それこそ「戦争」に他ならない!
虚無の中心には戦争がある。戦争こそが、『帝国』に意味をもたらす。戦争あってこそ、『帝国』は『帝国』として現世に存在し続けられる。
皇帝、そして軍部はその統治システムを十分に理解していた。『帝国』の中心にあるのは、それ自体が目的となった「戦争」だ。
「 争い! 競い! その果てに未来があぁぁぁあああるッッッ!!!
オール・ハイル・ブリタぁぁぁああああニアッ!!!!」
デグさん、前世は絶対にブリタニア帝国人だよなぁ、と勝手に思ってる。