ラブライブ! feat.仮面ライダー555 作:hirotani
異国を描くにはやはり現地の空気を感じなければ、と思いニューヨークへロケハンに行こうとしたのですが、金銭の理由で断念しました(笑)。
高層ビルマニアである巧役の半田健人さんがニューヨークの摩天楼にどんな感想を述べるのか気になりますね。
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01
<recollection>
あれはわたしが小さかった頃、まだ幼稚園に通っていた頃だったと思う。
梅雨が明けて、いよいよ夏に入ろうとしていた時期。夕陽が街を茜色に照らしていた公園で、多くの子供たちが家に帰ろうとしている時間帯。靴を脱いで駆け出すわたしを、「穂乃果ちゃん」と心配そうにことりちゃんが呼んでいた。確か、少し離れたところに立つ木の陰で、海未ちゃんもはらはらした目で見ていたっけ。
あの頃はまだ、海未ちゃんはわたし達に心を開いてくれなかったかな。何ていうか、打ち解けるのに海未ちゃんにはもう少しだけ時間が必要だった。幼い頃の海未ちゃんはとても恥ずかしがりやさんで、いつも公園でわたしとことりちゃんが遊んでいるのを木の陰に隠れて見ていたから。わたしが声をかけて一緒に遊ぶようになっても、しばらく海未ちゃんは木の陰にいた。海未ちゃん本人にとって、恥ずかしい過去かもね。
わたしが全速力で走る先には、前日に降った雨で大きな水溜まりができていた。夕陽を浴びてきらきらと光って、底が見えないその水溜まりは本当に底なんて無いんじゃないかな、って思えた。わたしはその地底へと続きそうな水溜まりの縁に着いたところで、ぬかるんだ地面を蹴って大きく跳ぶ。あともう少し、あともう少しで対岸に届くと思ったところで、幼い脚力の限界からわたしの足は地面に張った水に沈んで、すぐ底にある泥に滑って盛大に転んだ。
勿論、ただの水溜まりが地底への入口なんてありえない。幼いわたしはそれを発見したわけだけど、それよりも水の冷たさへの驚きのほうが大きかった。
何より大きかったのは悔しさ。子供っていうのは、自分が何でもできる、って思いがちで、その分できないという現実を知っても反抗する。でも、そんな子供はわたしくらいかな。水溜まりに跳び込んだのはわたしだけだったし。
「やっぱり無理だよ。帰ろう」
何で何で、と喚くわたしにことりちゃんがそう言った。泥水に服を濡らしたわたしは「大丈夫!」と返した。
「次こそできる!」
わたしは地面を蹴って、勢いよく駆け出す。全力疾走する途中で、どこからか歌が聞こえてきた。子供の声が幾重にも連なったそのハミングが心地よくて、わたしは速度を落としステップを踏みながら進んでいく。
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<ララランラン>
<ララランラン>
<ララララランランランララン>
<ラララララン>
</music>
わたしは跳んだ。跳んだ、というより、ふわりとした浮遊感があった。まるで誰かの歌が、わたしの体を上へ上へと押し出すように。
その時のわたしには確信があった。わたしは飛べる。どこまでも、あの空の上にさえも飛んでいける。わたしは何にだってなれる。
いつからだろう。
あの頃の確信が、子供の根拠のない夢想と片付けてしまうようになったのは。
</recollection>
02
まるでさっきまでの道のりを遡るように、穂乃果は音ノ木坂学院の玄関を、廊下を走った。卒業式を終え、帰路につく3年生を見送ろうとしたところで、携帯に届いた通知を見た花陽が血相を変えて部室へと引き返した。穂乃果に続いて廊下を走る3年生たちも、まさか卒業した矢先にまたこの廊下を通ることになるとは思ってもみなかっただろう。
部室に入ると、先に到着していた花陽がPCの前でわなわなと肩を震わせている。「花陽ちゃん」と穂乃果が呼びかけると、返ってきた花陽の声はまるで彼方からささやくようにか細く聞こえてきた。
「ドームです………」
「え?」と聞き返したところで、他のメンバー達がぞろぞろと部室に入ってくる。それを待ってか待たずか、花陽は振り返り叫ぶように告げた。
「ドーム大会です!」
「ドーム大会?」と皆で反芻する。花陽は早口で続ける。
<tension>
「アキバドームです! 第3回ラブライブがアキバドームでの開催を検討しているんです!」
</tension>
アキバドームという施設は、行ったことがなくても誰だって知っている。
「アキバドームって、いつも野球やってる?」
凛がそう言って、続けて絵里が「あんな大きな会場で?」と。
アキバドームはプロ野球チームが本拠地としている球場だ。大きさは他の施設の規模を分かりやすく図る基準にされているほどで、球場としてだけでなくコンサート会場としても使用される。収容人数も球場なだけあって数千単位が入れるほどの容量を持ち、それだけの施設でコンサートが検討されるということは、それだけの観客を集められるという見込みがあるということ。
「わたし達、出演できるの?」
早とちりしたにこに、すかさず希が「いやいや」と。
「うちらはもう卒業したやん」
「今月まではまだスクールアイドルでしょ!」
確かに卒業式を終えたとはいえ、3年生の所属は4月までは音ノ木坂学院の生徒ということになっている。あながちにこの言い分も間違ってはいないのだが、今月中にラブライブがまた開催されるかはまた別の話だ。
「やっぱりここね」
背後から聞こえてきたその声に、皆が一斉にドアへと振り返る。そこに立っているのは理事長、ことりの母だった。
「その顔は聞いたみたいね。次のラブライブのこと」
理事長の表情と顔はとても落ち着いた様子でいながら、どこか嬉しそうに読み取れた。
「本当にやるんですか? ドームで?」
穂乃果の質問に「まだ確定ではないけどね」と理事長は答えた。
「だからその実現に向けて、前回の大会優勝者のあなた達に協力して欲しい、って。今知らせが来たわ」
そう言って理事長はジャケットのポケットから一通の封筒を取り出した。
03
滑走路から離陸した飛行機が、轟音を響かせながら空の青の中へと飛んでいく。飛ぶ軌跡を飛行機雲として残していく機体はものの数分も経たないうちに小さくなって、やがて青に溶けて消えるのを、穂乃果は展望デッキにいる人々と共に見届ける。
「穂乃果」と背後から絵里の声が聞こえてきた。穂乃果は大気に拡散していく飛行機雲から視線を外すことなく告げる。
「わたし達、行くんだね。あの空へ、見たことのない世界へ」
飛行機に乗ることは初めてではない。修学旅行で沖縄へ行くときに乗った。でも、飛行機で日本を囲む海を越えること。無限に広がる蒼穹の彼方へ飛び立つことは初めてだった。
あの空の向こう。テレビや雑誌で見たことはあるけど、実在するかも危うい未踏の国。日本とは異なる言葉が話され、異なる歌に溢れた地。
そこへの旅をもたらしたのは、理事長から渡された異国からのエアメール。
次の穂乃果たちのステージへのチケットだった。
直行で12時間の空旅。空港に降り立つとすぐに入国審査。入国する目的は何か、荷物の中に変なものを積んでいないか。他の乗客たちはそれらの手続きで随分と疲れ果ててしまったようだった。穂乃果たちにまだ披露が訪れていないのは、若さに練習で身に着けてきた体力が上乗せされたからだろう。
「Next person please!」
空港を出てすぐのタクシー乗り場で、ブロンドの髪をなびかせた女性がそう呼びかけている。当然、英語だ。何を言っているのか分からないが、乗るよう促されたと判断した穂乃果は「は、はい」と返事をする。
「い、いえーす………」
拙い発音でそう言いながら、穂乃果は背中にしがみ付いている花陽と共に黄色くカラーリングされた車へ乗り込む。花陽は到着してからずっとこんな様子だ。
「ちょっと花陽、かばん!」
危うく置き去りにするところだった花陽のスーツケースを車のトランクに積み、後部座席に乗ろうとした絵里を海未が呼び止めた。
「だ、大丈夫なのですか?」
「平気よ。そのメモ、運転手さんに渡して」
「しかし――」と未だうろたえる海未を、「海未ちゃん、次の人待ってるから」「乗るにゃ!」とことりと凛が後ろに停まっているタクシーへと引っ張っていく。海未に渡したメモには、宿泊先のホテルの名前をしっかりと書いておいた。宿泊先はこの街でもかなり有名らしい。タクシー運転手なら街なんて庭みたいなものだから、間違いなく連れていってくれるだろう。
海外となると、わざと目的地まで遠回りしたり、料金を高く見積もられたりというタクシーのトラブルを聞いたことがある。そういった悪徳タクシーは現地の事情を知らない観光客を狙うのだという。海外に行き慣れた絵里と真姫によれば、そこで信頼できるのがイエローキャブと呼ばれる会社のタクシー。名前の通り黄色い塗装の車は街の認可を受けた証拠で、最も信頼できるタクシーということ。
そもそも何故海外までμ’sが出向くことになったかというと、理事長のもとへ届いたエアメールがこの国のテレビ局からの出演依頼だったことだ。日本の高校生が結成するスクールアイドルというものがこの国では珍しいようで、日本の文化として紹介したいという。ライブの会場も提供されるようだ。律儀なことに、テレビ局は宿泊先のホテルや航空便のチケットまで手配してくれた。普通に海外へ行こうとすれば、事前の審査で準備には数カ月を要する。
「アキバドームの収容人数は、第2回決勝会場のおよそ10倍」
車の中で告げる花陽に、「10倍⁉」と穂乃果は上ずった声を返す。
「そんなに大きいんだ」
「ラブライブの人気に勢いがあるとはいえ、今の実績だけでは会場を抑えることは難しいんです」
つまりこのタイミングで海外からの出演依頼とは、渡りに船ということ。それを理解した絵里が言う。
「そこでこの中継で更に火を点けて、ドーム大会実現への実績を作ろうってことね」
「はい」と頷き、花陽は続ける。
「もし実現したら、μ’sはエントリーしなくてもゲストとして呼ばれると思います」
矢継ぎ早に迫ってくる物事に、穂乃果は遅れてしまいそうだった。最初は廃校阻止が目的だったのに、事がこれほど大きくなっているとは。廃校になろうとしていた音ノ木坂から、まさか海外へと舞台を移すことになるなんて。
ふと窓を見やると、そこに広がる風景に穂乃果は息を呑んだ。
<surprise>
視界を埋め尽くすほどの高層ビルの群れは、ある意味で森のようだ。地面からにょきにょきと突き出した建造物が、空高くそびえ立っている。日本にも高層ビル群はあるが、この国はスケールが違う。これが摩天楼というものか。
「凄い! たくさんのビル!」
花陽が窓から顔を出してビル群を見つめている。
「あの橋、本で見たことある!」
絵里が普段とは打って変わって興奮した様子で街を眺めている。穂乃果も窓から街を見渡した。
「こんな街が世界にあるんだね。凄いねえ!」
</surprise>
タクシーから降りてビル群の麓を歩くと、その高さで押し潰されてしまいそうな重圧を感じ取れる。ひとつのビルの中には複数の、国内のみならず国外からも企業がオフィスを構えていて、そんな建物で街の景観は形成されている。この街ひとつとっても、拠点としている企業は星の数ほどあるだろう。世界中から経済が集中する都市。
故にこの街は「世界の中心」と称されている。
穂乃果はとにかく感激することで忙しかった。
<list:item>
<i:街を行き交う異なる人種の人々>
<i:手配されたホテル外観の荘厳さ>
<i:舞踏会でも開けそうな広さのロビー>
<i:巨大なシャンデリアが煌かせる光>
</list>
「これで海未たちが来れば全員ね。ちゃんと場所は教えた?」
興奮する穂乃果を尻目に、落ち着いた口調で真姫が聞いてくる。「任せて」と得意げに絵里は答えた。
「穂乃果がメモ渡してあるから」
04
「ごめん!」
ベッドの上でうずくまり嗚咽を漏らす海未に、穂乃果は深々と頭を下げた。部屋に集まった面々が、その様子を呆れ顔で眺めている。
海未とことりと凛の到着が遅れた原因は、3人を乗せたタクシーが別の場所に行っていたからだった。何故タクシーがホテルの場所を間違えたのかというと、そもそもの原因が謝罪した穂乃果にあった。
「絵里ちゃんに渡されたメモ、写し間違えちゃって。だって英語だったから――」
<anger>
「今日という今日は許しません!」と海未は涙で腫れた目で穂乃果に迫った。
「あなたのその雑で大雑把でお気楽な性格がどれだけの迷惑と混乱を引き起こしていると思っているのですか!」
「ま、ちゃんと着いたんだし」となだめる真姫にすら当たり散らすほど、海未の乱心は大きいと穂乃果には分かった。
「それは凛がホテルの名前を覚えていたからでしょ!」
</anger>
海未は両手で顔を覆い再び泣き出した。
「もし忘れていたら今頃命はなかったのですよ!」
枕に顔を埋める海未に「大袈裟だにゃ」と凛が漏らす。日本語の通じない異国への旅で最も心配していたのは海未だ。不安なだけに恐怖が倍増してしまったのだろう。凛の言う通り大袈裟と思うのだが、そもそもの原因を作ってしまった穂乃果は「海未ちゃん」と明るい口調を作って呼びかける。
「皆の部屋見にいかない?」
海未は無言のまま枕に沈んだ顔を左右に振る。
「ホテルのロビーも凄かったわよ」
絵里の呼びかけにも同じ反応を返す。海未はホテルに到着してからずっと顔を俯かせて泣いていたから、ロビーのシャンデリアを見ていない。
「じゃあ近くのカフェに――」と言い切る前に同じ反応をされたものだから、どうしたものか、と穂乃果は溜め息をついた。
「気分転換におやつでもどう?」
丁度よく部屋に戻ってきた花陽が、そう言って両手に抱えた箱を見せる。
「カップケーキ買ったんだ」
「おお、花陽ちゃんナイス!」と穂乃果は言った。ナイスタイミングだ。
「じゃあそれ食べたら、明日からの予定を決めちゃいましょ」
絵里の言葉に部屋の皆が頷いた。
「海未ちゃんも食べるでしょ?」
穂乃果が聞くと、海未は嗚咽を止めて控えめに答えた。
「………いただきます」
夕食のレストランはホテルの目と鼻の先にある店を選んだ。すっかり異国に怯え切っている海未への配慮だ。帰り道に迷わないように、と。
「わたし、あの鉛筆みたいなビル登りたーい!」
席について注文する品を決めると、穂乃果は両手を挙げてそう進言する。
「ここに何しに来たと思ってるんですか?」
海未の質問に「何だっけ?」ととぼけてみせると、すかさず「ライブです」と答えが返ってくる。
「大切なライブがあるのです。観光などしている暇はありません」
「ええ? でも――」
「幸い、ホテルのジムにはスタジオも併設されているようです。そこで練習しましょう」
「外には出ずに」と海未は付け加える。ええ?」と凛が不満そうに漏らす。「わざわざ来たのに?」と希も。「よっぽど怖かったのね」と真姫も呆れを表情に出した。
「大丈夫大丈夫。街の人、みんな優しそうだった――」
「穂乃果の言うことは一切信じません」
そっぽを向く海未にそう切り捨てられ、穂乃果は向けるべき言葉を探る。見つける前に、絵里が「確かに」と。
「ラブライブ優勝者としても、このライブ中継は疎かにできないわ。でも、歌う場所と内容に関してはわたし達からも希望を出してくれと言われている。この街のどこで歌えばμ’sらしく見えるか。街を回って考えてみる必要があると思うの」
絵里の言うように、こちらのテレビ局はライブ会場の手配はするが、μ’sの希望を重視する方針らしい。ラブライブの予選で会場をグループが決めた運営方法から、こちらの街でも同様に、と。
自分達が最も自分達らしく歌って踊れるステージ。それを見つけることができるのは、μ’sの本人たちということ。
「いや、それは……」と海未は途切れ途切れにさっきまでの勢いを衰えさせる。「そうだよそうだよ」と穂乃果は追い打ちをかけた。
「だから、朝は早起きしてちゃんと練習。その後は歌いたい場所を探しに出かけるのはどう?」
絵里の提案に「それ良いと思う」とことりが賛同した。「賛成の人」とにこが促すと、皆が次々と挙手する。海未以外の全員が賛成の意を表している。多数決の結果を希が告げた。
「決まりやね」
05
「ただいま」
部屋に入った希を、バスルームから漏れるシャワーの音が出迎える。
「真姫ちゃん、ジュース買ってきたよ」
「ああ、ありがとう」とドアの奥から水音と共に真姫の声が聞こえてきた。ジュースを冷蔵庫に入れて視線を僅かに上げると、テレビボードの上に乗った薄い冊子が視界に入る。
手に取ると、それは譜面ノートだった。何気なくページを捲れば、これまでμ’sが歌ってきた曲は当然、途中で書くのを辞めたタイトルのない音符の連なりも綴られている。ライブで披露するまでに、多くの曲が産声をあげることなく、このノートの中に埋もれていったのだろう。言うなれば歌の水子。希の知らない曲の数々は殆どが未完成なのだが、捲る手を止めたページに綴られた曲はしっかりと最後に終止記号が打たれている。
「何勝手に見てるのよ」
不意に聞こえてきたその声に希は振り向く。憮然とした表情で髪をタオルで拭く真姫に、希は「ごめん」とおそるおそるノートを手渡す。
「なか、見たの?」
逡巡を挟み、希は「うん」と答える。怒るかと思ったのだが、真姫は表情を変えずにすたすたとテーブルまで歩きノートを置いた。
「真姫ちゃん、もしかして――」
「いいの」と真姫は背を向けたまま希の言葉を遮った。
「わたしが勝手にやってるだけだから、気にしないで」
寂しげな色を帯びる真姫の背中を、希はじっと見つめる。終止記号が打たれた譜面は、きっと真姫が納得のいく曲として完成したのだろう。そんな曲をノートに閉じ込めておくのは勿体ない。
希は湧き上がる想いを喉元に留めた。
希が何を言ったところで、希は近いうちにスクールアイドルではなくなるのだから。
窓の外に広がるネオンの光が、まるで星空の真似事をしているようだった。この異国の街に住む人々の営みの光。未だに眠る気配のないビル群の奥に広がっている夜空は、少しばかり狭く見える。切り取られたかのような夜空には本物の星が煌いていた。
「綺麗だね」
花陽が呟き、肩を並べる凛が「うん」とうなずく。空はどこに行っても変わらない。昼間は青く、夜は黒い。黒い夜空には星が瞬く。
ふと、花陽は空へ向いていた視線を凛へ移す。凛ならはしゃぎそうなのに、今夜はとても静かだ。
「どうしたの?」
「何か、全然知らない場所にいるって、不思議な気持ちだな、って」
花陽は今でも現実に認識が追いついていない。1年前の自分では、想像もできなかった場所にいる。ただアイドルを追いかけてばかりで、1歩も踏み出せないまま無為に日々を送るだけと思っていた。そんな自分が、まさかアイドルになってラブライブで優勝して、海外からも知られる存在になるなんて。
「遠くに来ちゃったね」
生まれ育った故郷を花陽は追憶する。μ’sに入らなければ、何も起こらなかったかもしれない街。新しいことに怯えていた日々。それでも、慣れ親しんだ居場所というのは愛おしく思うものだ。人間というのは、いつか必ず育った居場所から巣立たなければならないのかもしれない。覚悟も決まらないまま唐突に。ある程度成長したら、自力で飛ぶために親から巣に落とされる小鳥のように。
「かよちん、寂しいの?」
「………ちょっぴり」
花陽が弱々しく答えると、凛は無言のまま肩を寄せてくる。両親も知り合いもいない場所は寂しい。誰かに助けを求めたくなる。
でも、自分には凛がいる。凛が、μ’sの皆がいてくれる。花陽にはそれで十分だった。この先で何が起ころうとも、どんな困難が待ち受けていても、皆と一緒なら花陽は1歩を踏み出せる。凛が花陽の背を押して、また花陽が凛の背を押したように。
花陽は肩からしっかりと凛の存在を感じ取った。
「あったかい」
06
窓から射し込む朝陽やベッドの寝心地よりも先に、目覚めたにこは体に圧しかかる重圧を感じた。圧迫されて息が苦しい。一気に覚醒した意識で、にこは「なにこれ?」と声を絞り出す。
<anger>
「ちょっと穂乃果!」
怒号を飛ばしてようやく、ゆっくりと穂乃果がにこの体からどいて起き上がる。「何でにこちゃんが
「あんたの
ベッドは間違えられるわ、部屋は何故か
「絵里も何か言ってやってよ!」
隣でまだ寝息を立てている絵里に呼びかける。大声で喋っているのに起きないとは、よほど眠りが深いらしい。
</anger>
「おばあさま………」
寝息に交じって、絵里がそう呟くのが聞こえてくる。穂乃果と顔を見合わせ、そっと寝顔を覗き込む。絵里はとても心地良さそうに微笑を浮かべている。夢のなかで祖母に存分に甘えているのだろうか。
「おばあさま、だって。今まで気付かなかったけど」
にこの言葉の続きを、穂乃果が引き継いだ。
「絵里ちゃんて意外と甘えんぼさんなのかも」
もうしばらく寝かせといてあげよう。そう思いながら、にこと穂乃果は笑みを浮かべ絵里の寝顔を見守る。部屋を包む静寂のなかで、絵里の寝言はよく聞こえた。
「おばあさま………」
街の景観は遠くから見ればビル群の無機質さが漂うが、いざその胎へ潜り込むと自然の温かみを感じることができる。朝の公園には蒼く茂る木々のかさつく音と、鳥の鳴き声が響いていた。
国を変えてもμ’sの習慣は変わらない。練習着に着替えた9人は念入りにストレッチをして、睡眠中に強張った筋肉をほぐす。
「海未ちゃん、大丈夫だよ」
ことりが呼びかける先で、縁石に隠れる海未が辺りにせわしなく視線をくべている。まるで敵地に潜入した兵士のようだ。
「信じても、よいのですね?」
そう言っておそるおそる海未は縁石から身を出した。
「出発にゃー!」
その声と共に威勢よく凛が走り出す。「凛ちゃんは元気やね」という希の呟きの後に、他の面々も凛に続いて走り出す。9人は湖沿いのルートをランニングコースとして選択した。そのほうが、対岸に広がる摩天楼がよく見えるから。走りながら景色を楽しむことができる。定番のルートなのか、現地ランナーが多くいる。大きな湖だが、この湖は自然にできたものではなく貯水池で、つまりは人工の湖だ。
「Konnichiwa」
海未の隣に近づいてきた女性ランナーが、日本人と見たのか声をかけている。戸惑いながらも、海未は「こ、こんにちは……」とぎこちなく返した。
敷地の広い公園の真ん中に差し掛かったところで、先導していた凛がふと脚を止めた。
「見て、こんなところにステージ!」
皆もそこで立ち止まり、凛の視線を追うと白い石造りのドームがあった。イオニア式の柱が古代ギリシャの様式を思わせるが、この国の成り立った時代からすれば古代への回帰を試みたネオ・クラシック建築の劇場だろう、と解説する希の博識さに感心しながら、穂乃果は劇場を見上げる。それほど大きくはないが、白亜という色彩と石材の無機質さが威風堂々とした雰囲気を発している。
「本当、コンサートとか開いたりするのかしら?」
絵里がそう言うと、希が「ちょっと登ってみる?」と提案してくる。休憩がてらということで、皆は賛成した。
ドームの中に1列に並んで立ってみると、壁に沿って風がドーム内を回るように吹いてくる。その風が心地よく、ことりが「気持ちい」と呟いた。
「ライブはここを舞台にするのも悪くないかもね。何か落ち着くし」
絵里の声が壁に反響してよく聞こえてくる。自由の国と呼ばれるここでは、誰もがこのような場で自分のステージを開く自由が与えられるのだろう。「落ち着くのは皆と一緒だからやない?」と希は言った。確かにそうだ、と穂乃果は思った。どこのステージに立っても、皆と一緒ならできる、という確信を持てる。「そうかも」と返す絵里も同じだろう。
「ねえ、ちょっとだけ踊ってみない?」
真姫の提案に皆が頷く。どの曲の配置でいこうか話し合おうとしたとき、「Halo」と聞こえて皆は一斉に舞台の前へと視線を下ろした。現地人らしき3人の女性が立っている。
「Are you girls Japanese?」
「い、いえーす」と穂乃果は返す。ネイティブな発音で紡がれる英語の全部は聞き取れなかったが、何となく「あなた達は日本人?」というニュアンスは辛うじて理解できた。
「うぃー、あー、ジャパニーズ、スチューデント」
「You’re here for some performance?」
続けざまに向けられる質問に、穂乃果はもとより他の面々も答えられずにいる。「な、何と言ってるんですか?」と後ろから海未が聞いてくる。
「どうやら怒ってはないみたい」
「それはわたしでも分かります………」
もう諦めて「あいきゃんとすぴーくイングリッシュ」と言ってしまおうか、と思ったときだった。
「Yes, We are School Idols. We are called μ’s」
すらすらと出てくる英語が希の声と分かるのに、穂乃果は数舜の時間を要した。「School Idols?」と女性が反芻する。3人は互いに顔を見合わせ、こちらに視線を戻すと笑みを浮かべる。
「Well Japan seems cool」
「We’d wanna go there too」
「Well, I hope you have a fun time around here. Enjoy your stay」
「Bye」と手を振って去っていく3人を、「See you」と希は見送る。英語を話せるなんて知らなかった。希は気取った様子などおくびにも出さずに告げる。
「せっかく来たんだからいろんなとこ見て、だって」
「だって」と乗るあたり、絵里は希の一面を知っていたということか。「希ちゃんすごい!」「さすが南極に行くだけのことあるにゃ」とことりと凛が賛辞を向ける。希は微笑を浮かべ、海未に視線をくべる。
「海外も悪くないでしょ?」
「勿論、注意は必要だけど」と絵里が付け加えた。ずっと強張っていた頬を緩め、海未はほっと胸を撫でおろすように「そうですね」と笑みを零す。ずっと気を張っていても仕方がない、と思ったのかもしれない。自分達は異国へ戦いに来たのではなく、ライブという楽しい時間を作るために来た。まず自分達が楽しまなくてどうするというのか。
公園の奥へと去っていく3人の背中を穂乃果はじっと眺める。金髪の白人系、黒髪の黒人系、茶髪のネイティブ系と世界には様々な血の系統がある。その人種のバリエーションは、この街の多様さにも表れているのだろう。様々な国や地域の景観がひとつの地に共生するという形として。
「よーし」と穂乃果は立ち上がった。
「じゃあ練習しっかりやってから、この街を見に行こう!」
07
朝練を終えると、皆で町中を見て回った。女神像に有名やケーキ屋にタイムズ・スクエア。この街はいくら歩いても飽きがこない。ビルの足元に立ち並ぶ店やオブジェの数々で彩られ、人が楽しむための娯楽に満ちている。本来なら経済都市であることを忘れてしまいそうなほどに。
陽が傾くと空は昼と夜が交じり合った不安定な色を映し出す。それに伴い、街はまだ眠らないとはしゃぐ子供のように次々と光を灯していく。
ロックフェラーという設計者の名を冠したビルの展望台から臨む街並に、皆は「うわあ」と声をあげる。
「さすが、世界の中心」
絵里の呟きに「綺麗よね」と真姫が応じる。あまりの光量と高さで底が見えない。行き交うはずの車も人々も光に埋もれている。ここには世界中のエネルギーが集結しているようだった。
「ライブのときもこんな景色が使えたら最高なんやけど」
希の言うことも頷けるが、こんな景色が広がってしまうとステージ上の自分たちが光に呑まれてしまいそうだ。
「何かどこも良い場所で迷っちゃうよね」
感慨深い溜め息と共にことりが言う。「そうですね」と海未が返して、再び摩天楼を眺めて続ける。
「最初は見知らぬ土地で自分たちらしいライブができるのか心配でしたが」
すっかり恐怖が抜けたようで、海未は穏やかにたゆたう光を見つめる。ふと「そっか」と凛が呟いた。「どうしたの?」と花陽が聞くと、「分かった、分かったよ!」と凛は繰り返す。
「この街にすごくワクワクする理由が。この街ってね、少し秋葉に似てるんだよ」
「この街が?」と絵里が、「秋葉に?」と希が尋ねる。「うん!」と凛は頷く。
「楽しいことがいっぱいで、次々に新しく変化していく」
穂乃果は再び街へと視線を戻した。確かに、初めて見るはずの景色なのにどこか親しみのようなものを感じていた。そういえば、と思い出せる。ラブライブ決勝の前夜に、皆で学校の屋上から街の夜景を見た。光量はこの街のほうが勝るが、人の営みが織り成す光は変わらない。
「実はわたしも少し感じてた。凛ちゃんもそうだったんだね」
ことりが何かを見つけたように、そう言った。
歴史と最先端の経済が入り混じる秋葉原。歴史は浅いが最先端の経済と、その背景にある世界中から文化と人々が集まったこの街。常に賑やかで、そして変化していくという点で、ふたつの街は確かに似ている。
「言われてみればそうかもね。何でも吸収して、どんどん変わっていく」
「だからどの場所でもμ’sっぽいライブができそう、って思えたんやな」
絵里と希が口々に述べる。秋葉に似ているこの街なら、μ’sらしさを存分に出せるライブになる、と穂乃果は確信できる。
どこへ行っても、9人が揃えばμ’sなのだから。
08
夕食に適当なレストランに入ってメニューを手にしたときだった。英語で表記された料理が一体何なのかを希に尋ねようとしたとき、穂乃果は花陽のすすり泣きを聞き取った。
「どうしたのよ?」
真姫が尋ねるが、花陽は俯いた顔を両手で覆っているばかりだ。「にこちゃん、かよちんに何かした?」「知らないわよ!」という凛とにこのやり取りにも反応を示さない。
「どうしたの? 気分悪いの?」
「ホームシック?」
希と絵里が尋ねて、花陽はようやく声を絞り出す。
「……くまいが………」
「くまい?」と穂乃果は辛うじて聞き取れた言葉を反芻する。声がか細くてよく聞こえない。嗚咽の後、花陽は唐突にテーブルに両手をついて立ち上がった。
<passion>
「白米が食べたいんです!」
「白米?」と絵里が戸惑い気味に反芻し、「そう!」と花陽はまなじりを吊り上げる。
「こっちに来てからというもの、朝も昼も夜もパン、パン、パン! 白米が全然ないの!」
「でも、昨日の付け合わせでライスが――」という海未の言葉が「白米は付け合わせじゃなくて主食! パサパサのサフランライスとは似て非なるもの!」という花陽の鋭い剣幕に圧される。
「御に飯と書いて御飯。白米があってご飯が始まるのです」
</passion>
正直何を言っているのか穂乃果には分からないが、とにかく花陽は日本産の白米を欲しているということか。とはいえ、食文化が異なる地なのだから仕方がない。むしろ、日本とは違う味に穂乃果は毎食喉を唸らせていた。
「あったかいお茶碗で、真っ白なご飯を食べたい………」
今度は涙交じりに座った花陽は、ウェイターが運んできたバケットのパンを取って何気なしに口へ運ぶと「あ、このパン美味しい」と頬をほころばせた。
「凄い白米へのこだわり」と穂乃果は呟く。「と言ってもねえ」と絵里は溜め息をついた。
「真姫ちゃん、どこか良いところ知らない?」
希が尋ねた。真姫は以前にこの街へ来たことがあるらしく、観光中も慣れた様子で露店のジュースを買っていた。チップの相場も真姫から聞いた額を払っている。
「まあ、知らなくはないけど」
真姫は呆れた様子でそう答えた。
店での食事は軽いものに留め、真姫の案内で訪れた先は日本料理店だった。店主も日本人で、使われている食材も日本産。当然、白米もある。
「この街にもこんなお店あるんだね」
故郷を離れてそう経っていないはずなのにどこか懐かしさを覚える箸での食事を堪能した後、店を出た穂乃果は感慨深く看板を眺める。「世界の中心だからね」と一緒に出た真姫は得意げに言った。
「大抵のものは揃っているわ」
ぞろぞろと他の皆も店から出てくる。花陽が店の前にある狸の置物に「美味しかったあ。やっぱり白米は最高です」と抱きついているのを見て穂乃果は笑みを零した。
「さ、遅くなる前に戻りましょ」
絵里が呼びかけ、皆は夜のネオンを輝かせる街へと踊り出る。皆でこうして夜の街を歩くと、ここが異国であることを忘れさせてくれる。
「何かこうしてると、学校帰りみたいだね」
「そうね」「不思議な感じ」と絵里と真姫が言った。
「皆でこうしていられるのも、もう僅かなはずなのに。この街は、不思議とそれを忘れさせてくれる」
絵里は後ろを歩く穂乃果に背を向けて寂しげに、そして愛おしげに言った。穂乃果はそこで思い出す。3年生たちは今月末には正式に音ノ木坂学院を卒業するということを。ラブライブの決勝が最後になるかと思ったら、間を置かずに再びライブを行う機会を与えられた。こうしてμ’sの終わりが先延ばしになったとしても、あと数週間だけだ。海外での取材とライブに3年生たちが応じる選択を取ったのも、最後に楽しかった思い出をくれたラブライブへの恩返しがしたかったのかもしれない。
ホテルへ向かう地下鉄に降りると、仕事帰りの時間帯のせいか多くの人で駅はごった返していた。改札口にクレジットパスを通すが、ゲートのバーは動かず穂乃果の進行を阻む。「そーりー」と後ろにいる女性に前を譲り、穂乃果は切符売り場がないかと辺りに視線を這わせる。
券売機らしきものを見つけたとき、先に改札を通った皆は穂乃果に気付かず階段を降りようとしていた。慌てて券売機に向かうがそこは行列ができていて、ようやくクレジットに料金を補充したときには既に10分近くが経過したように思える。改札を通って階段を駆け下りると、丁度電車がホームに停まっている。最後の数段を飛び降りて、穂乃果は閉まろうとしている電車のドアに体を滑り込ませた。勢いあまって転ぶと同時に、ドアが完全に閉まりきる。ぶつけた鼻を「痛い」と喚きながら抑えながら、穂乃果は電車のどこかにいるはずの皆を探し始めた。
地下鉄の駅はどこも同じに見える。駅の名前なんてアルファベット表記だからぱっと見ただけでは把握できず、穂乃果は取り敢えず通過する駅の数だけを覚えることにしていた。行きと同じ数の駅を過ぎて電車を降りるまで、全車両を見て回ったが皆は見つからない。もしかして、と思いながら穂乃果は降りた駅のホームを見渡す。地上への階段へ向かう様々な人種のなかに、見慣れた皆の顔が見つからない。
はぐれた。
「どうしよー!」
事実を認識した穂乃果の叫びが、ホームの冷たい空間にこだまする。駅員に目的地を尋ねようと思い立つが、まず言葉が通じない。通じたとしても、そもそも目的の駅名を知らない。
とにかく地上に出よう、と穂乃果は階段を上がった。記憶にあるホテル近くの駅とは違う階段だと分かった。止まっていると恐怖が濃くなってくる。振り払うように穂乃果は街を歩いた。
街を歩きながら、穂乃果は行き交う人々の顔を見た。どこかに皆がいるかもしれない。そんな淡い期待は全く的中せず、異国の顔ぶれは慣れた様子で賑やかな街を行き交っている。海未の気持ちがよく分かった。知らない場所、知らない言葉。どこに行けばいいのか、誰と話せばいいのか分からずに気付かないまま暗闇へと引き込まれそうな気分になる。
ふと、穂乃果の耳孔にメロディが響いてきた。街にはBGMが流れているが、そのメロディに乗った歌声はとても生々しい感触があって、スピーカー越しでない響きがある。脚を止めて視線を向けると、道路を挟んだ路地の隅で路上ライブが催されているのが見える。
穂乃果は車道を横切り、人込みを掻き分けてライブへと近づいていく。それほど大きなライブではなかった。パフォーマーはボーカルの女性ひとりで、機材はスタンドマイクと曲を流すスピーカーしかない。でも、そのアジア系の顔立ちをした女性シンガーにはそれだけで十分なんだ、と穂乃果は思った。歌詞は英語だから内容は把握できないが、その歌声は穂乃果の目蓋のない耳へと潜り込み、感情を揺さぶる波のようだった。歌はすごいな、と穂乃果は改めて思う。こんな風に人の心に想いを伝えることができてしまうのだから。
曲が終わり、観衆たちが拍手を贈る。穂乃果も力いっぱい手を叩いた。
「Thank you! Everyone thanks a lot for being here today. I would love to see you all at my live performance, too. Bye!」
観衆たちに英語で挨拶した彼女の視線が、未だに拍手を続ける穂乃果に向けられた。
「ま、たまにいるよ。あなたみたいに迷子になっちゃう人」
電車のシートで事情を聞いた女性シンガーはそう言った。彼女が日本人で本当に助かった、と穂乃果は胸を撫でおろす。異国で同郷の人間と出会うのは一種の感動だ。初対面でも、まるで家族との再会のようで。
「でもまさか、ホテルの名前も分からないとは」
「すみません……」と穂乃果は弱々しく言って「でも」と。
「お姉さん、大きな駅ってだけで分かるなんて!」
彼女は尊敬の眼差しを向けてくる穂乃果の顔を見ておかしそうに笑った。
「あなた、いちいち動きがオーバーね」
我に返り、羞恥に顔を赤らめる穂乃果に彼女は「大丈夫よ」と言ってくれる。
「場所は大体分かってるから。大きな駅があるところの大きなホテルなんでしょ?」
彼女はこの街に随分と精通しているようだった。穂乃果のずさんな説明だけで場所を特定してしまったのだから、ここでの生活が長いのかもしれない。
「大きなシャンデリアもあるでしょ?」
「あります!」
「じゃあ間違いなくあそこね」
そこで彼女は「あ!」と上ずった声をあげる。「どうしたんですか?」と穂乃果が聞くと、「……マイク、忘れた」と。一瞬驚くも、穂乃果は彼女の隣に置いてあるケースを指さす。
「あの、もしかしてそれじゃ……」
ケースに気付くと、彼女は舌を出して笑った。何ておっちょこちょいな人なんだろう、と穂乃果は思った。
「びっくりさせないでくださいよ!」
「ごめんごめん。あったんだから良いじゃない」
電車が駅で停車する。「あ、ここね」という彼女と肩を並べて穂乃果はホームに降りた。
「こっちでずっと歌ってるんですか?」
駅の構内を歩きながら穂乃果が尋ね、彼女は「まあね」と答える。
「これでも昔は仲間と一緒に皆で歌ってたのよ。日本で」
「そうなんですか」
「うん。でも、色々あってね。結局グループも終わりになって」
何だかいけないことを聞いてしまったような気分にとらわれて、穂乃果は表情を曇らせる。そんな穂乃果に彼女はふ、と笑った。大丈夫、と言うように。
「当時はどうしたらいいかよく分からなかったし、次のステップに進める良い機会かな、とか考えたりしたわね」
懐かしむよう穏やかに語る彼女の顔を穂乃果はじ、と見つめる。脚を止めると、足音が止んだことに気付いた彼女も脚を止めて振り返り「どうしたの?」と穂乃果の顔を覗き込んでくる。
逡巡を挟み穂乃果は尋ねる。
「それで、どうしたんですか?」
あまり気持ちの良い思い出でないことは穂乃果にも想像がつく。でも聞かずにはいられなかった。彼女の語る過去は、「いま」の穂乃果と似た境遇だったからだ。μ’sはあと数週間で本当に終わる。その後で、自分はどうすればいいのか。彼女なら答えを提示してくれるような気がした。
「簡単だったよ」と彼女は笑みと共に答えた。
「とっても簡単だった。今まで自分たちが何故歌ってきたのか。どうありたくて、何が好きだったのか。それを考えたら、答えはとても簡単だったよ」
彼女は再び歩き始める。その足取りがとても軽く見えて、穂乃果は後を追って背中に口を尖らせる。
「あの、何か分かるような分からないような、なんですけど」
彼女の語る言葉の連なりは、穂乃果にとっては難解な謎かけだった。うまく言葉にできない、というよりは、敢えて核心を言わないようにも思えてくる。
「夢を持つとね、時々すごく切なくなるけど、時々すごく熱くなれる」
唐突に出てきた彼女の言葉に、穂乃果は「え?」と漏らす。彼女は続けた。
「私にそれを教えてくれた人がいたの」
「どんな人だったんですか?」
穂乃果が尋ねると、彼女は困ったように視線を泳がせる。さっきとは違って、本当にどう言えば迷っているようだった。
「それが、よく覚えてないの。どんな顔でどんな名前だったのかも。ただ、私がその人のことが大好きだった、ってことは覚えてる。変よね。大好きなのに忘れてるなんて」
穂乃果にはよく分からなかった。多分、彼女自身も分からずにいるのだと思う。「でもね」と彼女は笑う。
「その人の言葉と夢が、私の背中を押して前に進ませてくれる。そう思うの」
まったく人物像が浮かび上がってこないが、穂乃果はその人に会ってみたいな、と思った。その人なら答えをもたらしてくれるような気がした。その人のことを尋ねようにも、彼女でさえ顔と名前を覚えていないのなら詳しくは聞き出せそうにない。
しばらく歩いているうちに、街の景色が記憶と合致してくる。人通りも少なくなってきたから、注意深く見なければ昼間とは違う場所のようだ。
「穂乃果!」
聞こえてきた海未の声に、穂乃果は数メートル先に向いていた視線を上げる。ホテルの前で海未、真姫、絵里、凛、ことりが立っている。
「皆!」と穂乃果は駆け出した。再会の喜びを分かち合おうとしたときに、海未の怒号が飛んでくる。
<shout>
「何やっていたんですか!」
</shout>
海未の声が夜の街に吸い込まれるようにこだまして、次には寂しい沈黙が訪れる。「海未ちゃん……」と穂乃果が呼ぶ先にある海未の顔は、涙に濡れていた。
「どれだけ探したと思ってるんですか………」
涙を手で拭った海未は穂乃果を力強く抱きしめる。それを見守る皆は安堵を表情に浮かべている。海未の存在をしかと感じながら、穂乃果は「ごめん」と言った。
「そうだ。実はここまでね――」
後ろを振り返った穂乃果の言葉はそこで途切れた。案内してくれた彼女を紹介しようと思ったのだが、視線の先には夜の寂しい通りが広がっていくばかりだった。
「あれ? 途中で会った人とここまで………」
「人?」「誰もいなかったにゃ」とことりと凛が言った。「そんな!」と穂乃果は声をあげる。暗いが十分視認できる距離に彼女はいたはずだ。
「まあいいわ。早く部屋に戻って、明日に備えましょ」
絵里の声の後に、皆の足音が聞こえてくる。ドアが開く音と、「あ、穂乃果ちゃん帰ってきた」「良かったあ」「遅いわよ」という希と花陽とにこの声も。
「ねえ皆」と穂乃果はホテルに入ろうとする皆を呼び止める。
「ごめんなさい。わたし、リーダーなのに皆に心配かけちゃった」
「もういいわよ」と真姫は返した。さっきまで泣いていた海未も笑みを向けている。「その代わり」と絵里が不敵に微笑んだ。
「明日はあなたが引っ張って、最高のパフォーマンスにしてね」
絵里の言葉をうけて、ドアの前に立つにこが腕を組む。
「わたし達の最後のステージなんだから」
続けて希も。
「ちょっとでも手抜いたら、承知しないよ」
「うん!」と穂乃果は頷いた。そう、明日はライブだ。異国で催される、μ’sのラストライブ。必ず成功させなければ。
穂乃果は再び夜の通りへと視線をくべる。さっきまでそこにいたはずの彼女は、もう自分の家に帰ってしまったのだろうか。お礼を言っておきたかったのに。これから否応なく訪れる未来。そこでどうしたらいいのか、という問いに彼女から返された、返されていないかもしれない答え。
おそらくそこに全てが詰まっているであろう彼女の言葉を、穂乃果の唇がなぞった。
「何のために歌う、か」
</body>
</ltml>
マークアップ言語のオマージュ元である伊藤計劃先生の『ハーモニー』は名作ですが、勘違いされてしまったらいけないのでちょっとした注意を。
『ハーモニー』は本作みたいなほのぼのできる作品ではありません。恐怖小説です。鬼気迫ってきます。共通点は女性キャラクターが多いということだけです。