ラブライブ! feat.仮面ライダー555   作:hirotani

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 まず更新が遅れたことと、とてつもなく長くなってしまったことを謝罪させてください。前編後編と分けましたが書くべきことが多すぎて全部ぶっこんだら大変な事になりました。

 お詫びとして挿絵を入れました。というより挿絵の作業で更新が遅くなりました。

【挿絵表示】



第13話 ラストライブ / ひとりひとりの胸の中

 会場である東京湾の埠頭に到着した9人は、その壮大さに息を呑んだ。

 フェリーの乗船手続きを行うためのターミナルビル前には無数のパステルカラーに彩られたアーチと塔が立ち並び、一際大きいアーチには大会のロゴがプリントされている。それを前にして記念撮影をしている面々は、順番の抽選会にいた出場グループのスクールアイドル達。即ちμ’sのライバルだ。

「これが会場………」

 真姫が声を絞り出す。「おっきいねー!」と穂乃果は目を輝かせて、大会に彩られたビルを見上げる。

 「さすが本戦はスケールが違うわね」と絵里が、「こんなところで歌えるなんて………」と凛が感慨深げに言う。

「トップアイドル並に注目を浴びているのよラブライブは」

 にこが高飛車に言うも、その言葉が興奮を隠すためのものだということは、この場にいる全員が知っていることだ。にこにとってこの会場とは聖地にも等しい。

 にこと同様、この場を聖地として待ちわびた花陽が「注目されてるんだ……、わたし達」と現実を確かめるように言う。

 埠頭に特設されたステージの照明が(またた)く。スタッフが点検しているのだろう。

「凄い照明ですね」

 点滅する発光ダイオードの光を眺めながら海未が言う。「眩しいくらいだね」とことりが返した。昼間でもこれだけの光を放つのだ。μ’sの順番は最後で、時刻は夜になる。この光は、きっと夜空に映えることだろう。

「たくさんのチームが出場するわけやから、設備も豪華やね」

 希が冷静に分析するも、声からは興奮の色が見え隠れしている。こんな設備のステージで歌うなんて現実味がない。でも、その時は必ず訪れる。あと数時間程度で。

「ここで歌える………」

 穂乃果は自分に言い聞かせる。次に同じ言葉を皆に伝える。

「ここで歌えるんだよ、わたし達!」

 「そうね」と絵里は笑みを返した。皆で夢見たステージが間近に迫っている。練習は重ねた。あとは出番を待つだけ。

「巧さん、来てくれるかな?」

 ふと、花陽が不安げに漏らした。皆の顔から笑みが消える。唯一、まだ笑顔を保っている穂乃果は「来てくれるよ!」と即答する。

「約束したもん」

 穂乃果は自分の小指を見つめる。巧と交わした小指の温もりは、ひと晩が明けても穂乃果の中で脈打っている。今この瞬間。巧は戦っているのかもしれないし、もう勝利を掴んだのかもしれない。

 穂乃果は信じる。夢が叶うと信じ続けたように、巧がμ’sの歌を聴いて、ダンスを観て、笑顔になってくれることを。

 ステージに設置された大型モニターが点灯する。雲の浮かぶ青空を背景にロゴが浮かび上がった。

 『Love Live!』と。

 

 ♦

 一般のマシンよりも遥かに高性能に設計されたバイクを操り、ファイズとカイザは道路を駆け抜ける。追い越す際にその異様な姿を目撃した運転手たちを驚かせてしまっただろうが、これから人類の存亡を懸けた戦いが始まるのだから大目に見て欲しい。

 ラブライブの会場を目指して走っているうちに日も傾き始めた。移動に時間を喰い過ぎたせいだ。運転の疲労を緩和させるために変身しスーツの補正で何とか体力を温存させている。それに、ファイズのスーツなら時速100キロを超えた速度で転倒しても平気だ。

 ローター音が聞こえてくる。空を見上げると、ヘリが形をはっきりと視認できるほど低空飛行していた。ボディにあるスマートブレインのロゴが、ヘリの所属を明確に主張している。

「あれだ!」

 ファイズが吼えるように言うと、カイザはベルトのフォンを抜いてコードを入力する。

『Jet Sliger Come closer』

 電子音を鳴らすフォンをベルトに戻すと、カイザはこちらを向いてくい、と人差し指を自分へ向ける。簡単なサインを咀嚼し、ファイズは頷く。

 程なくしてきーん、という高周波の唸りが聞こえてきた。咆哮をあげて後方から接近してきたのは、まるでハチの巣のようなスラスターからロケット並に液体水素燃料を燃やす2輪走行のビークルだった。

 SB-VXO ジェットスライガー。

 スマートブレインが走行性能を極限にまで追求し実現したマシン。その走行音を咆哮と形容するに相応しい、まさにモンスターマシンだ。かつてファイズが操縦したときは、その複雑な操作系をうまく扱えずスクラップにしてしまった。

 ジェットスライガーがサイドバッシャーに並ぶと、カイザは跳躍してそのシートに腰を落ち着かせる。同時にファイズもサイドバッシャーへと飛び移り、離れる瞬間にスイッチを押しておいたオートバジンがバトルモードに変形してホバリングする。カイザもジェットスライガーを上昇させた。各部のスラスターがガスを吹かし、オートバジンと共にヘリへ接近していく。

 オートバジンがバスターホイールを発砲するも、ヘリは微かに機体を傾けることで射線から逸れた。パイロットは見事な腕だ。ジェットスライガーのカウルが左右に開き、収納されたミサイルが飛び出して炸裂する。数十発の爆発に圧されながらもヘリは直撃を免れていたのだが、煙の中から出てきた機体はよろよろと不格好に飛んでいる。回転の速度が落ちたプロペラが折れているのが分かった。回転翼が回らなくなると今度は機体のほうが回転しはじめ、急降下して横ばいにアスファルトの地面に突っ込む。尾部が折れた機体は何度か転がった後に止まった。折れた部分が火を噴いているが、燃料への引火は免れたようで爆発はしていない。

 ファイズは墜落したヘリ目掛けてサイドバッシャーを走らせ、ある程度の距離をとって停車させる。両隣にオートバジンとジェットスライガーが降り立って、バイクから降りたファイズとカイザはひしゃげた機体を眺める。操縦席らしき窓から、ガラス片を零しながらヘルメットを被ったパイロットが出てきた。パイロットの顔に筋が浮かび、それを視認したファイズとカイザはフォンのミッションメモリーとツールに手をかける。

 瞬間、パイロットの体を背後から伸びた光線が貫く。体が青く炎上し、苦悶の表情を凝固させたまま倒れると、背後から立つその姿が現れる。

 それはゆっくりと足を踏み出した。これが王者の風格というように。足元に転がる骸を踏むと、骸は陶器のように砕けた。ファイズとカイザは息を呑み、灰色の「王」を凝視する。

 知恵の実を食べた人間に、オルフェノクという生命の実を与える者。オルフェノクを滅亡から救う存在。

 方舟の(アーク)オルフェノクは灰色の目を向けて歩き出す。

「野郎……、目え覚ましやがった」

 カイザは呟き、ブレイガンにミッションメモリーを挿入する。『Ready』という音声と共に刃を伸ばす武器を逆手に構えて駆け出す。

 ファイズも走り出そうとしたとき、ヘリの残骸の中から飛んできた光球が足元で炸裂した。

「どこまでも邪魔をして………」

 地面を転がるファイズに、ロブスターオルフェノクが接近してくる。2人の間を阻むようにオートバジンが飛んでくるが、ロブスターオルフェノクは邪魔といわんばかりに剣を一閃する。堅牢なボディは何とか持ち堪えたが、弾かれた機体は地面に叩きつけられ、そのゴーグルアイの光を点滅させて沈黙する。

 ロブスターオルフェノクの振り下ろされた剣を脚で払い、ファイズはその腹に拳を打ち付ける。渾身の力を込めたが、ロブスターオルフェノクは全く意に介さない様子で籠手に覆われた拳をファイズの顔面に見舞う。体の力に緩みが生じ、その隙を見逃さずロブスターオルフェノクは膝でファイズの腹を蹴り上げる。

 地面に投げ出されたファイズはごほっ、と咳き込んだ。肺に詰まった空気を一気に出して、荒い呼吸でどうにか酸素を取り入れる努力をする。ファイズは周囲へと視線を這わす。オートバジンのリアシートに積んでおいたブラスターを手にできれば、勝機があるかもしれない。

 その淡い期待が命取りだった。ロブスターオルフェノクが仰向けになったファイズの腹を踏みつける。腹部にかけられた圧力に悶えながら、手加減されていると分かった。そうでなければ、いくら強固なスーツでもデルタギアのように粉砕されるのは容易だ。ゆっくりとロブスターオルフェノクが足に体重をかけてくる。増していく苦痛に声にならない叫びをあげ、スーツが軋み始めていく。

 破裂音と共に、苦痛から解放される。ロブスターオルフェノクの体に空から光弾が打ち込まれ、足と地面の間から脱出したファイズはその腹を蹴飛ばす。上空を見やると、排気ガスの尾を引いたサイガがベルトに納まったフォンを開きENTERキーを押す。

『Exceed Charge』

ベルトからエネルギーが両腕へ、両腕からフライングアタッカーへと充填される。ふたつの砲門が輝きを放ち、ファイズから離れたロブスターオルフェノクに向けてレーザー光を吐き出す。直撃したロブスターオルフェノクの体が後ろへと押しやられ、微かに逸れたレーザーが地面に触れるとアスファルトを剥がし瓦礫へと変えていく。砂埃がロブスターオルフェノクの体を隠すなか、サイガはファイズの隣に降り立つ。

「お前………」

 まだ整っていない呼吸に驚愕が上乗せされて、ファイズは声を詰まらせる。

「別にあなた方を助けるつもりはありません。僕はただ、自分の弱さと決着をつけにきただけです」

 そう言うと、サイガはカイザと戦っている「王」へ砲門を向ける。発射された光弾が「王」の体を貫くも、その傷が灰色の肉に埋まっていく。「琢磨!?」とカイザが上ずった声をあげた。だが話している時間などなく、すぐに戦闘へと意識を戻しブレイガンを振るう。

「まだ『王』は完全に力を取り戻したわけではありません。あちらは海堂さんに任せ、我々は冴子さんを」

 砂埃が風に流されていく。高出力のレーザーを食らったロブスターオルフェノクは下半身を失っていた。まるでてけてけのように這う腹の下から大量の細い触手が生えて、それが束となり籠のようなものを形成する。籠を成す繊維の密度は増していき、それが骨盤を作っていると理解できた。骨盤から大腿骨が伸び、大腿骨からは膝蓋骨、次に脛骨と脚を形作っていく。骨が出来上がると、そこに再び触手が纏わりついて繊維となり筋肉として膨れ上がった。

 あまりのグロテスクさにファイズは立ちすくんでしまう。これが完全なオルフェノクの肉体。細胞分裂の制限が取り払われ、生命の宿敵である老死を超越した力の一端。サイガが上昇し、再び上空からの砲撃を仕掛ける。下半身の再生を終えて立ち上がったロブスターオルフェノクは逃げも隠れもしない。容赦なく体を穿つ光弾など雨よりもぬるいと言わんばかりに。

 砲撃が止むとファイズは一気に距離を詰め、ロブスターオルフェノクの胸を殴る。この皮膚の、筋肉の奥に納まっている心臓を破壊さえすれば、この怪物は死ぬ。固い皮膚が抉れるほどの力を込めて何度も殴り続けるが、その度にロブスターオルフェノクの組織は再生を繰り返している。「はあああっ」と咆哮しながら渾身の拳を打とうとしたよりも速く、ロブスターオルフェノクの手がファイズの首を掴んだ。

「乾さん!」

 サイガの砲撃を背中に受けても、ロブスターオルフェノクは平然とファイズを持ち上げ、その頭を一気に地面へと叩き込む。脳が頭蓋骨のなかで揺さぶられたのか、意識があやうく遠のくところだった。力の抜けたファイズの体をロブスターオルフェノクは再び持ち上げて、今度は無造作に投げ捨てる。地面に四肢を投げ出し、立ち上がろうにも朦朧とした意識が神経系の不調を訴えている。

 ぼやける視界のなかで、ロブスターオルフェノクの手が青く光っている。光は手から離れ、真っ直ぐこちらへと向かってくる。咄嗟に背を向けて、体を丸めると同時に爆圧がファイズの体を持ち上げた。数瞬の浮遊感の後に衝撃が体の節々を打ち付け、ボールのようにバウンドする。

 がちゃり、とベルトからフォンが落ちた。スーツが分解され、残った軸であるフォトンストリームもベルトへ収まっていく。見やると、ロブスターオルフェノクは2射目を放とうとしていた。それが手から離れた瞬間、巧は目を閉じた。

 巧は受け入れる。世の中にはどうしようもない理不尽が充満していて、それに抗うも屈した。俺は逃げた、と巧は自嘲する。守るべき者達からも、託された想いからも、そして死の瞬間の恐怖からも。

 爆音が耳をつく。そのことに疑問を抱いた。直撃したのなら、爆音を聞く間もなく体は木端微塵になっているはずなのに。目を開くと、目の前にサイガのフライングアタッカーが見えた。両腕を広げたサイガの腰からひび割れたベルトが落ちて、スーツが光と共に消滅する。

「うおおおおああああああっ‼」

 雄叫びと共に、琢磨はムカデのように分節した体をしならせるセンチピードオルフェノクに変身した。その手から伸びた鞭の先端がロブスターオルフェノクに絡みつき、引くと体が宙を放射線状に飛んで破壊されたヘリに投げられる。今度は燃料に引火したらしく、ヘリは爆炎をあげて抱えていたパーツを吐き出した。

「琢磨!」

 人間の姿に戻った琢磨の膝が折れ、倒れる体を巧は抱き留める。巧の腕のなかで、琢磨の頬から青い炎が燃え始める。巧はそれを手で抑え、燃焼をせき止めようとした。だが琢磨は死の恐怖に怯える様子はなく、「良いんですよ」と穏やかに言う。

「これが、僕の夢だったんです。残された日々を人間として生き、最期は人間として死ぬ。ちっぽけですが、あの時に抱いた夢がやっと叶うんです」

 巧は驚愕した。これが死を目前とした者の言葉なのだろうか。これから死のうとする者が、笑っていられるのだろうか。往人のときと同じだ。本人が自分の最期を受け入れながら、それを看取る巧自身は受け入れられない。

 琢磨の体を燃やす炎は勢いを増してきている。それでも琢磨は苦しむことなく、巧をしっかりと見据える。

「乾さん、あなたは生きて下さい。生きて……、僕達オルフェノクが生きた意味を、見つけてください………」

 琢磨の顔が灰になって巧の手から滑り落ちた。灰は地面に積もり、吹いてくる風に乗って空へと舞っていく。

「馬鹿な子………」

 炎上するヘリの残骸からローズオルフェノクが出てくる。全身が焼け焦げているが、まるで脱皮するように表皮がぽろぽろと剥げていく。

「ただもがいて、無意味に死んでいくなんて。所詮、あなたも馬鹿な人間だったということね」

 巧は琢磨の灰を握り締める。無意味なことに耐えられない、という往人の言葉が蘇ってくる。海堂も言っていたように、それは事実なのかもしれない。ふざけるな、という憤怒で脚に力を込めて、巧はゆっくりと立ち上がる。

 呼応するように、沈黙していたオートバジンが拙い動作で立ち上がった。のっそのっそ、と亀のような緩慢さで歩き、近くに落ちていたブラスターを拾うと巧に投げてくる。それを受け止め、巧はロブスターオルフェノクを睨む。

「ああ、見つけてやるよ琢磨。そんで証明してやるさ」

 何もかもが無意味と立ち止まってしまえば、それこそ本当の無意味にしてしまう。喪った中には、巧に自身の想いを託した者達もいる。

 理想を。

 夢を。

 愛する者の笑顔を。

 生きた意味を。

 立ち止まってたまるか。迷ってたまるか。喪った者達の骸を通り過ぎるのではなく、想いを汲み取り、自身の力として受け継ぎ進み続ける。彼等の生命に意味を与え続けるために。

 巧は吼える。琢磨へ、散っていった者達へ。

「意味なく死んでった奴は、ひとりもいないってなあっ‼」

 巧はブラスターにコードを入力した。

 5・5・5。ENTER。

『Standing by』

「変身‼」

 握り締めたフォンをツールのスロットに叩き込むように挿す。

『Awakening』

 フォンのないバックルから、フォトンストリームがいつもとは異なった流動路を形成し巧の体を覆っていく。軌道上にあるスマートブレインの人工衛星から電送されたスーツにフォトンブラッドが駆け巡り、通常の変身時よりも眩い光で周囲を照らしていく。

 変身時の高出力エネルギーが収束し、供給の途絶えたフォトンストリームがブラックアウトする。逆に、ファイズの体は紅蓮の輝きを帯びていた。全身を包み込むフォトンブラッドが発光し、放出された熱で周囲の空気が揺らめいている。

 黄色の目がロブスターオルフェノクを捉え、ファイズ・ブラスターフォームはゆっくりと、力強く足を踏み出す。

 

 ♦

 黄色く光る剣尖が掠め、「王」の首から垂れるマフラーを切断する。すかさず「王」の手から触手が伸び、顔面に触れる直前にカイザは両断してバックステップを踏む。

 琢磨が死んだこと。それに対して感傷に浸っている暇はない。ファイズがロブスターオルフェノクを相手取っているなら、自分の役目は「王」を倒すことだ。

 カイザはブレイガンを一閃する。「王」は身を屈めて光刃を避け、目線の下がったその顔面にカイザは拳を打ち付ける。よろめく「王」に追撃として肘打ちを見舞い、更にゼロ距離でブレイガンの光弾を連射する。

 銃創を刻まれても、「王」は退く気配がない。それでもカイザは、海堂直也は怒りのままに剣を振り、拳を振るう。

 オルフェノクは間違った種。琢磨の言う通りだ。オルフェノクなんて種は滅びてしまえばいい。そう思う理由として、人類のためだなんて英雄じみた根拠はない。直也はただ、復讐という汚れた理由のために「王」と戦っている。

 カイザMark2は1号機よりもフォトンブラッドの出力を高めているが、それでもデルタにすら及ばない。いくら猛攻を仕掛けようが、ファイズのブラスターフォームでも完全に葬ることのできなかった「王」にダメージを与えることなど困難を極める。こうしてまともに戦えるのは、「王」が完全な復活を果たしていないからだろう。

 カイザは後方に佇むサイドバッシャーに飛び乗り、操作パネルにコードを入力する。

『Battle Mode』

 サイドバッシャーが戦闘形態に変形した。左腕から発射したミサイルを雨のように降らし、炸裂すると地面を穿つ。カイザはアクセルを捻りマシンを前進させた。巨大な脚で「王」を踏みつけ、重圧をかけて潰そうと試みる。頭以外を下敷きにされた「王」はまさに手も足も出せない状態だが、その首にかかったマフラーがうねり、弧を描く。ずるり、とサイドバッシャーがバランスを崩した。「王」のマフラーが鋭い刃となってマシンの脚を切断していた。足元で爆発が起こり、煙の中から飛び出してきた「王」にカイザはブレイガンを連射し牽制する。

 「王」の手から光弾が飛んできた。命中寸前でカイザはシートから飛び降り、光弾を受けたカウルが炎上する。サイドバッシャーはがくりと頭を垂れて沈黙した。操作系をやられてしまっては、残った武装も使えない。

 3・8・2・1。ENTER。

 フォンにコードを入力すると、『Jet Sliger Come closer』という指令を受信したジェットスライガーが滑走してくる。カイザは搭乗せず、乗り手のいないマシンは傍を素通りして速度を落としながら、それでも急停止できないまま「王」へと真っ直ぐ向かっていく。

 機体が「王」にカウルをぶつけ、更に前進してサイドバッシャーと挟んだところでようやく停止する。「王」をサンドイッチ状態にしたふたつの機体にカイザは発砲する。フォトンブラッドの弾丸がボディを貫き、銃創からスパークを散らした後に機体を吹き飛ばす。貴重なマシンを一度に2機も失ったことに感傷など覚えない。「王」を呑み込む爆炎を前に、カイザはミッションメモリーをブレイガンからポインターへと移す。『Ready』と音声を鳴らして変形するツールを右脚のホルスターに装着し、フォンのENTERキーを押す。

『Exceed Charge』

 カイザは跳躍した。燃え盛る炎のなかでこちらを見上げる「王」に右脚を向け、ポインターから発射された光の槍が寸前で円錐状に展開して目標を補足する。

「でえええやあああああああっ‼」

 キックの体勢を取ったカイザの体が光へと吸い込まれる。高出力のエネルギーが侵食してくるのを抑えようと、「王」は抗う。衝撃で削られる体は瞬く間に再生し、再び削られ、また再生を繰り返す。カイザはフォンのENTERキーをもう一度押した。

『Exceed Charge』

 ベルトから放射されるエネルギーがフォトンストリーム全体へと行き渡る。黄色く輝くカイザの流動路が銀色へと変わり、紫色の目もオレンジへと変色する。フォトンブラッドの出力が臨界へと達した。内部機構の温度が上がり、放熱のために胸部装甲がパージされる。

 この1号機にない仕様は、Mark2の開発時に直也がエンジニアに提案したものだ。出力を上げてほしいという要求に、今はもう「王」への生贄にされたエンジニアは頭を抱えていた。ファイズほどエネルギー供給が安定しないカイザに、アクセルフォームのようなリミッター解除はギアと装着者に大きな負担をかける。途方もない計算とシミュレーションの末に、アクセルフォームのような加速はなく、1度きりの出力増強という形で搭載された。

 輝きを増したエネルギーが「王」の体を圧していく。光のなかでもがく「王」を見て、脳裏に喪った仲間と少年の顔がよぎる。

 オルフェノクになった直也を迎えてくれた勇治と結花。直也の息子になってくれるかもしれなかった照夫。

 直也が好き勝手に振る舞い、怪物であることを受け入れようとしても、勇治は見捨てないでいてくれた。どこまでも純粋で騙されやすい彼に、人の醜さを知る直也は危うさを感じていた。同時に、その少年のような純粋さは捨てないでほしかった。

 直也が想いに応えないと態度で示しても、結花は直也を好きと言ってくれた。彼女の好意への戸惑いを隠すのに直也は苦労を要した。幼い頃から変わり者と周囲から疎まれ、誰も理解しようと歩み寄ってくれなかった。結花は直也に歩み寄ってくれた初めての女性だった。

 子供の扱い方など分からない直也の不器用な愛情を、照夫は受け取ってくれた。心を閉ざした少年は直也にだけは無垢な笑顔を見せてくれて、それが直也に人間を守ることの意義を見出させてくれた。照夫が直也を頼っていたように、直也も照夫を心の拠り所とした。もっと照夫に色々なことを教えてやりたかった。

 勇治を見捨てなければ、彼は人間に戻れたのだろうか。

 結花の気持ちに応えていれば、彼女はありふれた幸福を享受できたのだろうか。

 照夫を「王」から助け出せれば、いつか親子になれただろうか。

 後悔ばかりだ。大切な者達を喪い、過去に呪われ、「王」の生存を知った直也が復讐という選択にすがりつくのにそう時間はかからなかった。怪物どもの王者によって勇治と照夫は殺された。こんなものを目覚めさせる戦いの中で結花は死んだ。直也に人類の未来なんてどうでもいい。ただ、自分から全てを奪った「王」をこの手で葬るだけだ。

 直也は、カイザは大切な名を叫ぶ。愛しかった思い出の数々。自分の裡に在り続ける彼等に、力を貸してくれ、と。

「木場ああああああ‼

 結花ああああああ‼

 照夫おおおおおお‼」

 全身を巡るエネルギーが右足の一点へ集束していく。右足はフォトンブラッドの発光に呑まれ、熱量がスーツの許容量を越えそうだ。熱で溶けるのは自分の足か、それとも「王」か。

 焦燥も憎悪もない、無我に身を委ねたとき、勝負は決した。

 せめぎ合っていたエネルギーが一気に標的へと流れ込み、カイザを呑み込む光が槍となって「王」の体を貫いた。

 着地したカイザの右足から蒸気が昇っている。ふー、とため息をつくと、回路が焼き切れたベルトが火花を散らして腰から弾かれる。「うおっ」と上ずった声をあげて尻もちをついたカイザの目の前で、ベルトに納まったフォンが小さく爆発して黒煙をあげた。

 スーツが分解されていく。一時とはいえ自分の力となってくれたベルトの残骸を直也はぼんやりと眺めた。ただの戦力という認識で愛着など湧いていなかったはずだが、喪うと寂しさを感じる。機械にすら感傷を覚えるなんて、寂しがり屋も度が過ぎるな、と直也は自身への嘲笑を漏らした。

 不意に、背後から呻き声が聞こえる。咄嗟に立ち上がって振り向くと、そこにはまだ生きている「王」がいる。

 その姿を視界に収めた瞬間、直也は逡巡する。「王」は右腕と胸から下を失っていた。残った左腕だけで地面を這って、赤い血を地面に塗りたくりながら直也へと近付いてくる。近くで青く燃えているのは、吹き飛ばされた半身だろうか。

 直也は困惑した。この怪物を倒せば、自分は憎しみから解放され、晴れて残された時間を自分のために生きていける。復讐の相手である「王」はまだ辛うじてだが生きていて、丸腰の状態で屈辱的な死を与える絶好の機会が巡ってきた。

 でも目の前で血を流し、直也に左手をすがるように伸ばしてきたそれは怪物じみた怖ろしさも、王者としての威厳を喪失している。それは脆い生命体だった。怯え、悶え、苦しみ、半身を失っても生きようとする憐れな死にゆく生命の弱い脈動でしかない。

 直也は呆然と、灰が零れる「王」の顔を見つめた。こいつは仲間の仇だ。俺が葬らなければならない敵だ。そう思ってみるも、怒りが付随してこない。これまでの憎悪は消えてしまった。

「もう、いいだろ………」

 穏やかな直也の声と共に、「王」の頭頂部に刃が突き立てられる。スネークオルフェノクの、蛇の牙を模した短剣だ。剣先が顎下から突き出て、「王」はかっ、と口を開ける。口から吐き出されたのは泡でも血でもなく灰だ。体を構成していた組織の燃えかすを嘔吐し続け、「王」の顔が崩れて骨が露出していく。人間よりも眼窩の大きい頭蓋骨も灰となり、「王」は消滅した。

 スネークオルフェノクは直也の姿へ戻った。直也はその場で大の字に寝て、日が傾き茜色を映し出す空を眺める。「終わった……」と確かめるように呟くが、何も湧いてくるものがなかった。あるものと言えば、3年前から抜けない悲哀だけ。

 「王」が死んでも、直也の想いは変化しなかった。いや、とっくに分かり切っていたことだ。「王」の死はそれを明確にしただけに過ぎない。勇治も、結花も、照夫も生き返らない。死者である彼等から赦しの言葉を受け取ることもできない。結局、直也は彼等のために何ひとつ成し遂げることができなかったということだ。これまで抗ってきたものを、復讐を果たした今は受け入れなければならない。

 直也はポケットから出した煙草を咥えて、ライターで火を点ける。フィルターから煙を吸い込んで、煙草を口から離すと肺に溜まった紫煙を深く吐き出す。

「………ちゅーか、まっじいな」

 ふわりと浮いた言葉が、煙と共に空へ昇って消えていく。そう遠くない場所でファイズが戦っているだろうが、直也にはもう関われるものではなかった。

 

 ♦

 紅に輝く軌跡を描き、ファイズの拳がロブスターオルフェノクの腹へ打ち込まれる。高出力エネルギーの塊と言ってもいい拳が腹の組織を焼き、灰色の皮膚に隠された赤い筋線維を露出させる。だがそれはすぐに灰色の皮膚に覆われていく。

 ファイズは続けざまに拳を打ち続ける。再生のスピードよりも速くダメージを与え、このオルフェノクの「女王」をなぶる。反撃にロブスターオルフェノクの細剣が腕を掠め、傷口から発光する流体エネルギーが血のように飛沫をあげる。地面に落ちるとフォトンブラッドはじゅ、と音を立ててアスファルトを溶かした。

 追撃に振り下ろされた細剣を掴み、ファイズはロブスターオルフェノクの顔面を殴り飛ばす。顔を覆うマスクが割れて、灰色に濁った眼球がファイズを睨んでいるのが分かる。

 胸に拳を突き刺すと、ロブスターオルフェノクの体が後方へ吹き飛ぶ。表面を焼かれた胸は再生しかけているが、ロブスターオルフェノクは傷口を抑えて荒い呼気を吐き出す。奇妙なものだ。死ぬ怖れはないのに、死への危険信号である痛みはまだ残されているというのか。いや、「王」から命を授かってもオルフェノクは完全に死を克服していない。だから痛みという感覚を排除していないのは理に叶っている。

 完全なオルフェノクにとって、痛みとは滅多に実感できないもののはずだ。いざ感じたとなれば馴染みのないものに困惑するに違いない。ロブスターオルフェノクが痛みを理解しているのは、まだ痛みが身近にあった人間だった頃の感覚として覚えているからだ。

 敵の細剣を投げ捨て、ファイズは地面に放置されたブラスターを手に取る。

 1・4・3。ENTER。

『Blade Mode』

 折りたたまれていたツールが展開し、大口径のライフルを形作る。銃身の筒内で蓄蔵されていたフォトンブラッドが出力を上げ、外装を溶かし光の剣となる。

 ロブスターオルフェノクがこちらへ接近してくる。真っ直ぐに向かってくるその胸に、ファイズはブラスターの刀身を突き立てる。刀身は表皮に浅く潜り込んだだけで、どれだけ力を込めてもそれ以上は沈んでいかない。ぼこぼことロブスターオルフェノクの胸が泡立っている。傷を負っているのは確かで、同時に不死の器官である心臓を守ろうと細胞が分裂し続けている。

 ファイズは旗を掲げるように、ロブスターオルフェノクを刺したままブラスターの切っ先を垂直に持ち上げた。腕と肩の関節に痺れが生じる。負荷によるものではなく、フォトンブラッドという異物に体が拒絶反応を示し始めている。

 フォトンブラッドは人体には有害だ。丈夫になったとはいえ、オルフェノクであっても変わりはない。通常形態ならフォトンブラッドは流動経路に集中しているが、このブラスターフォームはフォトンブラッド自体が鎧であり、全身が有毒物質の膜に覆われているに等しい。

 痺れが痛みへと変わってくる。それを堪え、ファイズはブラスターにコードを入力する。

 1・0・3。ENTER。

『Blaster Mode』

 空から赤い閃光が、ロブスターオルフェノクを串刺しにしたブラスターへと降りてくる。信号を受けた人工衛星から送られてきた粒子が刀身に纏わりつき、銃の外装を構成していく。ENTERキーを押し、『Exceed Charge』という音声が響くと同時にファイズは銃身の下部にあるコッキングを引く。銃身の奥から光が漏れて、エネルギーを溜め込むにつれて銃口が光輪を纏う。

 トリガーを引くと、銃口から巨大な光弾が風船のように膨れあがり発射される。ゼロ距離で命中した最大出力のフォトンブラッド弾が炸裂し、凄まじい爆発がロブスターオルフェノクの体を上空へ高く突き上げていく。灰色のロブスターオルフェノクの胸に、赤くてらつく肉の塊が見えた。

 5・5・3・2。ENTER。

『Faiz Pointer Exceed Charge』

 コードを入力すると、背中の飛行・射撃マルチユニットがスラスターを吹かしファイズを上昇させる。ブラスターを無造作に放り捨てたファイズが上空に向けてキック体勢を取り、それに合わせてユニットが噴射の向きを調整し、更に上へと浮かせ成層圏にまで達する。右足が紅い輝きを帯び始めた。既にフォトンブラッドが全身を覆うブラスターフォームに、威力を上げるための補助ツールは必要ない。

「はあああああああああああああああっ‼」

 咆哮と共に、ファイズは右足をロブスターオルフェノクの胸、そこにある心臓へ叩き込んだ。命中する寸前でロブスターオルフェノクの体から幾重もの繊維が壁を作り、触れさせまいと阻む。流れをせき止められたエネルギーは右足を中心に渦を巻き、周囲の雲を払って円形に広がっていく。

 がりがり、とドリルのように繊維の壁を削っていくにつれて、ロブスターオルフェノクの心臓が赤く輝いているのが見えた。ファイズのフォトンブラッドの光を表面の粘液が反射しているためと思ったが、その心臓もまた光を放っていることに気付く。光は眩さを増していき、フォトンブラッドの輝きと相まって視界を白く塗り潰していく。生命体の神秘だとでもいうのか、何も見えないなかで圧されている、という恐怖が立ち上る。

 だが、それは一瞬のことだった。光が視界を覆うなかで、戦っているという現実味が薄れていき、自分が発しているはずの咆哮と、右足に感じるはずの衝撃が遠のいていく。まるで肉体と精神の接続が断線したかのような浮遊感のなか、プリズムに分けられたように光が七色に転じていく。

 虹だった。円弧を描かず波のようなうねりをあげる虹が幾重も迫ってきて、ファイズのスーツを透過し、巧の中へと入り込んでくる。

 何だこれは、と思った瞬間、暴風とも激流とも取れる奔流がなぶってきた。まるで嵐の海に放り込まれたような、いや、それよりも激しい。咄嗟に目を閉じ、腕を伸ばして奔流をかき分けていく。手は空虚を掴み、脚をばたつかせ、荒波に揉まれているという感覚すら朧になっていくなかで、その奔流が叫びであることに気付く。

 獣の咆哮のような激しさ。鳥のさえずりのような穏やかさ。あるいはクジラの奏でる歌のような不可思議。まるで地球上の生命全ての声が集結し、その全体のひとつである巧もまた腹の底から叫びをあげる。この世界で自己という存在を周囲に示し、また自身が世界を認識するための、赤子の産声のように。

 巧の叫びが全体の声と共鳴するように重なり合い、全が巧のなかへと入り込み、巧もまた全のなかへと飛び込んでいく。ここにいる、というクオリアが遠のき、精神という自己認識すら曖昧となっていく。生まれて初めて世界を視る赤子のように怯えながら、同時に希望を持ちながら、どくん、という確かな鼓動のみを携えて――

 

 乾巧は目を開く。

 

 

 ♦

 控え室の更衣スペースのカーテンを開き、そこに広がる花々のようなメンバー達を見た穂乃果は「おお!」と感嘆の声をあげる。

「みんな可愛いねー!」

 ひらり、とスカートを翻し、着心地を確かめた絵里が「流石ことりね」と。

「今までで1番可愛くしようって頑張ったんだ」

 そう言うことりは満足そうに笑みを零す。メンバーひとりひとりに似合うよう、他の人が着ては決してその魅力を引き出せないような衣装に仕上がっている、と穂乃果も思う。

「さ、準備はいい?」

 絵里が力強く呼びかけ、皆で「はい!」と力強く返した。

 控え室の扉は閉じられているにも関わらず、ステージからの歓声がけたたましく聞こえてくる。μ’sの出番まであとグループは5組ほど残っている。まだまだ先。そう自分に言い聞かせながらも、穂乃果の心臓は強く脈打ち、さらに激しくなっていく。

 扉を出て通路の先にある長方形に切り取られた光のなかに、夢見た舞台が広がっている。

「お客さん、凄い数なんだろうな………」

 怖気づいてしまったのか、ことりが弱く呟く。雰囲気に呑まれてしまいそうだ、という不安が穂乃果にも伝播してくる。大勢いるであろう観客を前にして、自分は果たして悔いのないパフォーマンスを見せることができるだろうか。

「楽しみですよね」

 歓声の隙間から吹き抜けるような、海未の声が耳孔に入る。「え?」と穂乃果はことりと共に海未の顔を見る。

「もうすっかり癖になりました。たくさんの人の前で歌う楽しさが」

 虚勢なんて感じなかった。海未はとても楽しそうに、待ちきれないというように笑みを浮かべている。あの恥ずかしがり屋だった海未が。海未の笑顔が、ことりと穂乃果の不安を取り払ってくれる。

「大丈夫かな、可愛いかな………」

 後ろで花陽が衣装を確認しながら言う。自分が衣装に見合っているか。「大丈夫にゃ」とすかさず凛が。

「凄く可愛いよ!」

 凛はその場でターンして「凛はどう?」と尋ねる。同じステージで歌う親友の姿を見て、花陽は笑みを零す。

「凛ちゃんも可愛いよ」

 そう、不安がることなんてない。この9人が唯一無二のμ’s。メンバーを変えることなく、共に走り抜けると共に決めた仲間たちが一緒にいる。こんなに嬉しいことが他にあるだろうか。

「今日のうちは、遠慮しないで前に出るから、覚悟しといてね」

 意気揚々とする希に、「希ちゃんが?」と穂乃果が尋ねる。普段から消極的ではないが、積極的でもなく割り振られたパートをこなしてきた希にしては、珍しい言葉だ。

 「なら」と絵里が。

「わたしもセンターのつもりで目立ちまくるわよ。最後のステージなんだから」

 「面白いやん」と応じる希が不敵な笑みを見せる。鼓舞されたのか、「おお、やる気にゃ」と言って真姫へ顔を向ける。

「真姫ちゃん、負けないようにしないと」

 「分かってるわよ」と真姫は答える。

「3年生だからって、ぼやぼやしていると置いていくわよ」

 「宇宙ナンバーワンアイドルさん」と付け加え、真姫は挑発的な視線を向ける。その視線の先にいるにこはふふん、と泰然と構えている。

「面白いこと言ってくれるじゃない。わたしを本気にさせたらどうなるか、覚悟しなさいよ」

 そこへ、ドアが外からノックされる。「はい」と絵里が返すと、「失礼します」と女性スタッフが入ってくる。出番だろうか。穂乃果がそう思っていると、スタッフはおそるおそる、といった声色で言う。

「浦安方面で爆発事故があったみたいで。今も空が赤く光っているとか」

 告げられた事実に、皆が目を見張った。だがうろたえることなく、絵里が「大会に影響はあるんですか?」と尋ねる。

「まだ被害は確認されていないですし、混乱も起こっていないので大会は継続します。すみません、もうすぐ出番なのに」

 「いえ」と絵里はかぶりを振った。スタッフはまだ仕事があるのか、「失礼しました」と足早に控え室から出ていく。彼女が出ていったドアを見つめる穂乃果の耳に「まさか……」という海未の声が届く。穂乃果は続きを引き継いだ。

「たっくんが戦ってるんだ………」

 右手の小指へと視線を下ろし、それを左手でそっと包み込む。昨晩、巧と交わした約束。脅かさせる不安を抑えつけ、胸の前で祈るように両手を組む。戦いに勝てば、自分達の夢を守り切れるかもしれない、と巧は言っていた。あの時、巧は不安だったのだろうか。必ず勝つ、という決意を確固なものにするために、会いに来てくれたのだろうか。ならば、自分はそんな彼に何をしてあげられたのだろう。この指を触れさせ合ったとき、巧に力を与えることができたのだろうか。

 そっと、肩に手が添えられる。振り返ると笑みを向けてくることりが「大丈夫だよ」と優しく告げる。「そうですよ」と海未が続いた。

「約束したんでしょう? 巧さんと」

 穂乃果は皆を見渡す。誰も表情に影を帯びていなかった。

 「絶対に来るにゃ!」と凛が。

 「わたし、巧さんに観てほしいもん」と花陽が。

 「ここまで付き合って、来ないなんて無いわよ」と真姫が。

 「巧さんなら、運命を越えられるよ」と希が。

 「あの猫舌男を驚かせるくらいのライブにするわよ」とにこが。

 「みんな……」と呟く穂乃果を真っ直ぐ見据え、絵里が告げる。

「巧さんを1番信じられるのは、穂乃果でしょ?」

 無意識に、穂乃果はきつく組んでいた両手を解いた。皆は巧を信じている。なのに、彼の優しさと強さをずっと傍で見ていた自分が信じなくてどうするというのか。

 「うん」と穂乃果は穏やかにうなずく。ゆっくりと目蓋を閉じ、再び開く。

「みんな、全部ぶつけよう。今までの気持ちと、想いと、ありがとうを。全部乗せて歌おう」

 祈るなんてことはしない。祈るとは、巧の勝利を疑うということだ。穂乃果は信じている。巧がこの会場に来てくれることを。自分達の晴れ舞台を見てもらい、彼にも楽しい気分を噛みしめてもらう。それが果たされたとき、今まで守ってくれた巧への「ありがとう」を伝えることになるだろう。だから、自分のすべきことはステージに立つ事と、穂乃果は夢見た舞台への方向を見据える。

 巧は穂乃果を、μ’sを信じて戦っているのだから。

 

 ♦

 目を開いた瞬間、それまでの叫びが一瞬にして消え去った静寂に戸惑った。

 陽光の射し込まない海の底で、俺はたゆたっている。温かい海水のなかで時折気泡が昇り、上へ上へと消えていく。ぼごん、と気泡が出る音は、まるで地の底から響く胎動のようにも聞こえてくる。

 そう、この暗闇から全ての生命は始まった。母の胎内で羊水に包まれているかのような温かさ。母である地球はその胎で、海という羊水のなかで自分の子を育んできた。宇宙へ産み落とすことなく。

 地球の胎のなかで子は増え続け、最初は同じ姿をしていたそれらは様々な姿をとり、捕食するものとされるものへと分けられる。やがて子は海から地上へと登る。海では必要だったひれを捨て、代わりとして歩くための足を持って。ある子は足で歩き、ある子は長い体をくねらせて陸を移動する。

 でも、地球にとってはほんの小さな変化によって多くの子が死んでいく。大地が割れ、山が火を噴き、身を取り巻く変化に追いつくことができない子らは自分たちも変わろうとするも、それでも適応しきれずに遺伝子を途絶えさせていく。

 辛うじて生き残った子らは滅ぶまいと大きく成長していく。最も大きくなった種は他種を蹂躙し、地上を我が物顔で歩いている。強靭な肉体を持っても儚く、ほんの一撃と生じる変化によって滅び去る。長く冷たかった日々を生き残った別の子らが地上を埋め尽くし、そこで雌雄の営みによって未来へ遺伝子を残していく。

 始まりから定期的に破壊と再生が繰り返され、繁栄する生命の世代交代が成されていく。それはとても、とても長い時間をかける。でも地球にとって、それはほんの僅かな時間に過ぎないだろう。人間という種に絞れば、彼らが自分の胎にいた期間など愛しいと感じる間もなく、その中のひとりが生きる数十年なんて刹那よりも短い。瞬きをすれば裸だった男女は布を身に纏う。それが体毛の薄い種が寒さをしのぐための知恵と気付く頃には捕食目的でないにも関わらず互いに殺し合っている。

 永遠という言葉よりも永く過ぎていく時間のなかで、ひとりの青年が広い平原のなかで自分の血に溺れて死んでいた。動物を狩ろうとして返り討ちにあったのか、それとも同じ人間に殺されたのかは分からない。死んだ青年は新しい命を授かり第二の誕生を果たし、ゆっくりと立ち上がる。自分が全く新しい存在になったことに気付いた青年は、遺伝子を残そうと人間とは異なる形の営みで男女問わず子種を与えていく。でも、多くの者達が子種を受け入れることができずに燃えていく。自分と同じ灰色の姿を得た仲間が生まれても、それらは自分よりも早く命が尽きていく。

 青年は悲しみの涙で顔を濡らしていた。仲間よりも、人間よりも永く生きる孤独に震えていた。涙を拭った青年は、新しい種の「王」になることを決意する。青年は自らの体を小さく縮めて、産声をあげた人間の赤子の体へと入り込む。そこで静かに座り、器が成長すると別の器へと移り自分の命をより濃密に醸造していく。子供の命。それが最も新鮮で同胞へ分ける命をより濃くできるから。

 「王」は考える。自分達を何と呼ぼうか、と。死から生へと戻る誕生の様は、妻を追って冥界へ赴き生還を果たしたオルフェウスの神話に似ている。神によって御使いの翼を与えられたエノクのように、完全な命を得た自分達も高く飛べるはずだ。それなら、この名前が最も相応しい。

 

 オルフェノク。

 

 「王」が眠っている間にも、オルフェノクは人間の中から生まれ続ける。だが不完全な命によって僅かばかりの生涯を終えて、繁栄せず、それでも滅びることなく着実に種から根を張っていく。人間はというと、自分達から生まれた灰色の生命に気付くことなく同族同士での争いに忙しい。最初は食べ物を奪い合うだけだった争いは、食べ物が多く採れる土地を巡る争いへ、結託した者達が国というコミュニティを形成し、高い知性故に織られた複雑なルールやシステムを否定し合う争いへと移り変わっていく。だが、人と人とが殺し合うという様相は変わらない。木の棒が鉄の剣へ、剣が銃へと使われる武器が変わっても。

 地球に生きる人間全てを巻き込んだ戦いの後、人間たちが少しばかり静かになった、一瞬にも満たない時のなかで産まれる俺自身の走馬灯を俺は俯瞰していく。

 産褥に横たわる母親が俺をそっと抱き上げる。父親が部下に怒号を飛ばしている。どうせ大したミスでもないのに機嫌が悪いから八つ当たりしてるんだろう。恵まれた家で過ごしてきた、自分という意思が抑圧された日々。自分と感じ取れなくなる恐怖の日々。それに対する打撃として起こったホテルでの火事。煙の中で幼い真理がうずくまって泣いている。真理を背負い、炎の中を歩く俺は死に、そしてオルフェノクとしての命を授かる。両親を失って預けられた孤児院での生活。いじめられた少年を助けようとして、オルフェノクになった俺に向けられる子供達の恐怖。誰とも心を通わせなかった孤独な日々。孤児院を出て、目的地もなくバイクを走らせた旅の道程。

 その時々に抱いた感情を再認識させられながら、俺は自分の人生を見続ける。これまでは、俺自身も忘れかけていた軌跡。これからは、決して忘れることのできない時間の連なり。

 ファイズに変身できなかった真理が、盗まれたバッグを探しにその場へ居合わせた俺の腰にベルトを巻いている。

 

「おい何の真似だ?」

「ものは試しよ」

 

 何気なく海を眺めていた俺に向けられた、真理のささやかな問い。

 

「あなたは、何故旅をしてるの?」

「夢が無いんだよ、俺には。だからかな」

 

 歩み寄ろうとする姿勢を撥ねつけられ、俺に向けられる啓太郎の冷たい視線。

 

「名前聞いていいかな? 俺、菊池啓太郎」

「何で男同士がいちいち名前教えなきゃいけないんだよ? 気持ち悪い」

「あの子の言う通りだね。君友達いないでしょ?」

 

 俺を助けたのに何で人間を襲うのか、と問い詰め、長田の答えた切な願い。

 

「私、人間が怖い。でも、生きていきたいんです。人間として」

 

 仮面を被り、その下の素顔に気付いた俺を消そうとした、身の回りに都合の良い奴しか置こうとしない草加の明確な敵意。

 

「お前、何考えてんだ?」

「ずっとここに居たいんだよ、君の代わりにね。君は邪魔なんだ。分かるか? 俺のことを好きにならない人間は邪魔なんだよ」

 

 バッティングセンターで木場と話しながら、戦うことの意義を見出せない苛立ちをぶつけて跳ねていったボールの音。

 

「強くなければ生きてけない、って言いますけど、人間てどれくらい強くなればいいんでしょうね?」

「さあな。こっちが聞きたいぐらいだ」

 

 雨音にかき消されまいと叫ばれる、真理へ求めた草加の悲痛な想い。思えばあれからだったか。俺が草加をはっきりと嫌えなくなったのは。

 

「真理はなあ……、俺の母親になってくれるかもしれない女なんだ………。俺を救ってくれるかもしれない女なんだ!」

「救うって……、何からお前を救うってんだ?」

 

 俺にデルタのベルトを託そうとし、その時は遺言になるだなんて思っていなかった木村沙耶の祈り。

 

「10年後も生きていてくださいね、乾さん。乾さんならきっと、多くの人を救えると思うから。私のスープを冷ましてくれているみたいに」

「そんな大げさな事じゃねーだろ」

 

 互いの正体を知った俺と木場の拙い会話を、夏のセミがうるさくかき消そうとしている。

 

「俺は、君を信用したい。そう思ってる」

「ああ、俺だって同じさ。お前のことを信用したい」

 

 死に際に自分の人生を呪い懺悔する澤田を救った真理の言葉が、俺に人間として生きることを決意させてくれた。

 

「真理、済まない………。俺は人間としても、オルフェノクとしても、生きられなかった………」

「そんなことない、澤田君は人間だよ! 昔の優しかった澤田君のままだよ!」

 

 人間を守ることに疑問を抱き始めた木場を、必死に俺が諭そうとしている。でも俺が言葉足らずなせいで、木場が求めていたものを示すことができなかった。俺自身も分からなかった。

 

「お前の理想はどうしたんだよ? オルフェノクと人間の共存が、お前の夢だろうが」

「君に俺の気持ちは……、分からないのかもしれない」

「どういう事だよ?」

「君はオルフェノクであることを押し隠し、ずっと普通の人間として生きてきた。でも俺は、オルフェノクであることを受け入れて生きてきたんだ。だから感じ方が違うのかもしれない」

 

 ああ、そうかもしれないな。でもな木場、オルフェノクになっても心は人間のままだったんだよ。お前がそれを知ることができたら、お前は迷わず人間として生きられたのかな。長田を殺したのが人間じゃないって知ることができたら、お前は人間を憎まずに済んだのかな。

 

「君は何故人間にこだわる? オルフェノクとして生き、『王』の力を受け入れれば、死の運命から救われるのに。君は死ぬのが怖くないのか?」

「怖いさ。だから一生懸命生きてんだよ。人間を守るために」

「守る価値の無いものを、守っても仕方ない………!」

 

 そう吐き捨てたけど、結局お前は人間として生き抜くことを選んだよな。「王」に手も足も出なかった俺を助けに来てくれたお前は、間違いなく人間として戦いに来てくれたんだよな。

 

「まだ俺には分からない。何が正しいのか。その答えを、君が俺に教えてくれ」

 

 木場。あれから少しだけ時間が経ったけど、俺は答えを見つけられないままだった。

 ほんの僅かだった安寧と、彼女たちと出会った日々を想う間もなく時間が川のように流していく。殺伐とした戦いと、どこか安らぎを感じていた少女たちとの日常を行き交うなかで、その光景は飛び込んでくる。

 いつの出来事だろうか。見たことのない衣装に袖を通した9人が円陣を成し、その中心にピースサインした手を集めている。

 穂乃果が「1」と。

 ことりが「2」と。

 海未が「3」と。

 真姫が「4」と。

 凛が「5」と。

 花陽が「6」と。

 にこが「7」と。

 希が「8」と。

 絵里が「9」と。

 皆が一斉に手を高く掲げ、声を揃えて宣言する。

「μ’s、ミュージックスタート!」

 その先にあるはずのステージは、一瞬にして通り過ぎる風のように吹きすさんでいく。見えるのは、彼女たちと同じ舞台に立つことを、他の少女たちも夢見ること。彼女たちのように輝きたい、と海の見える町で少女が立ち上がり、集まった仲間と共に太陽を掴もうと空へ手を伸ばしていく。

 彼女たちの抱いた夢は、永遠の中で切り取られた一瞬でしかない。人の見る夢は時間の流れによって命と共に消え去り、後に生まれる人もまた夢を抱き、その夢は叶うものもあれば潰えるものもある。大きく視野を広げてしまえば、それは宇宙という括りのなかで起こったほんの小さな瞬きで、地球という箱庭のなかで完結してしまう。

 紡がれる夢の数々は人間という種が終焉すると共に消滅し、別の生命が進化した種が地上を埋めていく。その種も滅び、別の種が繁栄し、それを繰り返した地球というひとつの生命体もまた宇宙のなかで死んでいく。死ぬことでようやく、地球は子を胎から宇宙へ産み落とすことができた。

 さあ、お食べ。これが生命の実だよ、と「王」の熟成した命を分け与えられたオルフェノク達が、広がり続ける宇宙へ翼をはためかせて飛び発つ。人間と、別種の遺伝子を抱えた彼等の永い旅が始まる。天使とも悪魔とも形容しがたい翼を持った灰色の種が渡り鳥のように羽ばたく姿を俯瞰する俺は悟る。

 これが、オルフェノクの生まれた意味。

 滅び行くしかなかった別種の遺伝子を自らの器に保管し、死を超越して永遠の宇宙を旅する方舟(アーク)となること。そうすれば地球に生きた生命たちの記憶が失われることはない。だが、それのどこに意義がある。宇宙を照らす星々は寿命を迎えて藻屑と消えていく。降り立つ惑星を見つけ、その星が散ればまた次の星を求めてオルフェノク達は宇宙へ飛ぶ。

 星から星へ。やがて星も死に絶えて、太陽すらも輝きを失い、オルフェノクは一切の光のない宇宙の闇を彷徨い続け、それを見る俺も闇へ溶けて――

 いや、光はひとつだけ残っている。朧げな光が俺を包み、冷たい宇宙をほんの微かだが温める。ふっ、と息を吹けばすぐに消えてしまう、ろうそくの灯のような脆く儚い光だ。でもこの熱が、俺を温めてくれる。俺に熱を与えてくれる。肉体という器に閉じ込められた故の熱かもしれない。それは不要なのかもしれない。でも、肉体の温かさを知るからこそ、到達できる境地があるはずだ。同じく朽ち果てる遺伝子の運命に囚われた人々との言葉の応酬が俺を俺として育んできたように。

 光が俺の背中を押す。どくん、という脈動を反復する毎に熱は上がっていき、放出するように俺は宇宙の虚無へと叫ぶ。

 

 叫びと共に光が広がっていき、闇を切り裂いた。

 

 

 ♦

 明確な「今」という時間を認識した瞬間、ブラスタークリムゾンスマッシュを阻んでいた肉の障壁が瓦解した。

 拡散していたフォトンブラッドがロブスターオルフェノクの体へ流れ込み、隅々まで侵食された灰色の肉体が灼熱を帯びて赤く染まっていく。入り込んでくるエネルギーが体を膨らませ、許容量を越えて胸が張り裂けると同時に爆散し、空中に大量の灰を撒き散らす。おびただしい量の灰が降り注ぐ地上へ、重力に従ってファイズは落下していく。背中のスラスターを吹かし落下速度を緩めながら、ファイズは昼と夜がない交ぜになった黄昏を映す空を見上げた。巨大なΦの文字が浮かんでいて、それは風に吹かれて消えていく。

 すとん、と地面に降り立つ。拾ったブラスターを折りたたみ、スロットから引き抜いたフォンのコードを押すと、ブラックアウトしていたフォトンストリームが輝き、瞬時にファイズのスーツは消滅する。

「よう、こっちも終わったぜ」

 地面にだらりと脚を投げ出して座る海堂が、そう言ってくる。

「終わったんだな………」

 言いながら、巧は何が終わったのか、と考える。

 そう、「王」と不死身のロブスターオルフェノクが死に、オルフェノクという種は滅亡を決定付けられた。これからオルフェノクはゆっくりと、着実に数を減らし、やがてこの地球上から姿を消す。だが、オルフェノクの終わりは人間にとって何かの始まりをもたらすのだろうか。種の絶滅なんて特別に珍しいことではない。巧はあの(ビジョン)でその繰り返される滅亡を見てきた。

 オルフェノクという方舟を失ったことで、いつか地球が滅べば、この地に生きた生命達の記憶は宇宙の虚無へと消え去る。だが、それに伴う感慨は巧にない。そう遠くないうちに生涯を終える巧に、遥か未来に想いを馳せたところで何ができるわけでもない。

「お前はあれを見たのか?」

 巧の向ける問いに、海堂は首をかしげる。

「何だお前、疲れてんのか? いや疲れてんだ。激戦だったからな」

 海堂は両腕を広げて空を仰ぐ。大衆に演説を聞かせる牧師のごとく。

「晴れてこれで、オルフェノクと人間の戦いは幕を閉じた。王様の復活という悲願を失ったスマートブレインは完全に消えて、科学の発展のために巨額の投資をした政府や企業群は大打撃の嵐で株も大暴落。いやはや日本の、いや世界の経済はどうなるのか。皆の財布の紐はさぞ固くなるに違いない」

 海堂の語る、これから訪れるであろう未来。既に未来とその果てを視てきた巧には、それがとてもスケールに欠けたものに思える。だが、あの未来もオルフェノクが繁栄を遂げた場合の話で、滅びが決定した今となってはその可能性は確実にない。

「人間を人間にしてるのは、何なんだろうな………」

 唐突に浮上してきた問い。いや、これまでずっと抱いてきた問いと言うべきか。向けるべき者を迷うそれに、海堂が答えたのは驚きだった。

「ちゅーか、その正体は『言葉』だな。言葉は人間だけが持ってる」

「言葉にそんな力があるのかよ?」

「舐めちゃいかん。舐めちゃいかんよ。言葉は歌になるし、楽譜だって言葉だ。こう歌え、こう弾け、ってな。琢磨の言った通りだぜ。オルフェノクになっても心は人間と変わらん。現に俺達はいま、言葉を使ってる」

 自分の演説が随分と満足のいくものだったようで、海堂は煙草を取り出して火を点ける。煙を吸い込みすぎたようで咳き込み、まだ減っていない煙草を地面に押し付けて火を消してしまう。

「お前、これからどうするつもりだ?」

 巧が聞くと、「さあな」と海堂は肩をすくめる。

「気の向くまま風の向くまま、どこへでも好きな場所へ行くさ。どこに行けば良いのかも分からんがな」

 らしくない言葉に眉を潜める巧に、「でもよ」と海堂は続ける。

「お前は行かなきゃいけない場所があるはずだぜ」

 どこだよ、と言おうとしたところで、巧は気付いた。昨晩に交わされた約束を。察した海堂は笑っている。

「女神様がお待ちだぜ。ちゅーか女を待たせるなんて、何て罪な野郎だ」

 「よっこらしょ」と立ち上がった海堂は背を向けて、「アディオス」と手を振りながら去っていく。何て素っ気ない別れなんだ、と巧は呆れながら海堂の背中を見送った。

 巧は沈黙しているオートバジンへと歩き、その胸部にあるスイッチを押す。まだ生きているようで、『Vehicle Mode』という音声を鳴らしバイクに変形する。ベルトのツール一式とブラスターをリアシートに括り付けながら、巧の脳裏を駆け巡るのは問いだった。

 木場から託された答え。

 それは人間を守ることの意義。何故人間は守るに値し、オルフェノクが滅ばなければならなかったのか。オルフェノクが滅んでも人間に変革はもたらされない。オルフェノクという種が変革をもたらすのであれば、灰色の種こそが生きるべきだったのか。飛び発つ翼が得られようとしたのに、それを放棄して翼をもいだ。とてつもなく愚かなことなのかもしれない。滅亡が決まった今となっては今更だが。生命の最優先事項は種の存続、自分たちの遺伝子を繋ぎとめていくことだ。オルフェノクは不死を得れば子を残す必要はない。世代を経ないことで遺伝子の変異はなく、オリジナルのままゲノムを保管できる。データの上書きもなく、原書のまま残されたDNAの螺旋に描かれる物語。巧の成し遂げたことは人間の守護などではなく、むしろ人間という種が忘却の彼方へ去ることを助長してしまったのか。

 物語の消失。それは巧が最も拒むことだ。喪われた者達の想い、物語を受け継ぐ巧は、自らの誓いに背いてしまったのかもしれない。所詮は卑しい箱庭に納まる住人のエゴイストか。

 ならば、あの光は何だったのか。

 生命の織り成す営みの果てに視た宇宙の虚無。その中で巧を温め、闇を祓ったあの光はどこから来て巧の背を押し、どこへ向かっていくのだろう。

 正しかったのだろうか。俺は木場との約束を果たせたのだろうか。巧は不安に苛まれながらも、会場へ向かうべくオートバジンのエンジンを駆動させ、アクセルを捻る。

 分からない。

 木場が、オルフェノク達が求めていた答えに手を伸ばし、そのための知識を蓄えてきたつもりだった。だが知れば知るほど、仮説は否定され問いが増えていく。答えは遠のくばかりで手中に納まってくれない。

 人間を人間たらしめるのは言葉。海堂が説いた事柄が的を射ているのだとしたら、口下手な巧のなかにも言葉が凝縮され、それが空っぽだと思っていた男を乾巧たらしめているのか。いや、と巧はかぶりを振る。巧を巧たらしめているのは、出会った者達との言葉の応酬だ。その連なりが、視てきた自身の物語を作った。

 巧の物語には、多くの登場人物がいる。登場人物たちもそれぞれの、人間には人間の物語があり、オルフェノクにはオルフェノクの物語がある。

 ならば、俺はどっちなんだ。巧は自分に問いかける。

 今この瞬間、巧が見ている空の茜は、人間の見る茜と同じだろうか。このヘルメット越しに撫でる風も、バイクが吹かすエンジンの音も、巧がまだ人間だった幼い頃と同じだと断言できる根拠はない。

 白にも黒にも属しきれず、灰色の境界線上をさまよう巧の物語を、読み手はどう捉えればいいのだろう。

 

 ♦

 会場に到着する頃には、すっかり夜も更けて月が見えていた。埠頭に設営されたステージは観客達がケミカルライトをちらつかせている。

 外苑に近付くと見慣れた背中がいる。巧が横に立ち、気付いた婦人は驚愕で目を見開くも、すぐに品の良い微笑を浮かべる。

「終わったんですね」

「………ああ」

 巧の短い返答の後に、理事長との間に交わされる言葉は何もなかった。賑やかな観客達の端で漂う奇妙な沈黙は、興奮した高坂母の声で破られる。

「巧君! ああ間に合って良かった!」

 駆け寄ってくる高坂母は両手の指間にケミカルライトを挟んでいる。そう離れていない場所に堂々と立つ高坂父も。まるで似合っていないその姿に辟易する巧に、高坂母は手に持っている1本を押し付けてくる。

 不意に、ステージを照らしていた照明が暗転した。東京湾を挟んだ対岸に広がる夜景が映え、観客達が一斉に声を静めると同時、中央にスポットライトが当てられる。

 曲のイントロが流れ始めると、ステージに備え付けられた昇降機が昇ってきて、そこにμ’sの9人が立っている。ひとりずつ、ゆっくりと目を開くと照明がステージ全体を照らし出した。

 

 ――信じてたよ、たっくん――

 

 センターに立つ穂乃果と目が合い、彼女の瞳がそう告げたように錯覚する。俺のためのライブじゃないだろ、と見届ける視線の先で、彼女らは踊り始め、歌にした言葉を観客達に告げていく。

 それは「これまで」と「今」を歌う曲。夢見たこのステージを目指し、9人で共に疾駆してきた軌跡。2度とない刹那の瞬間に湧く情調を抱きしめ、次の連続する刹那へと向かった先に起こした奇跡。

 その奇跡が「今」ここにある。辛さと、苦しさと、愛しさと、楽しさを経て。それを近くで見てきた故の感慨だろうか、それともステージの照明のせいか。この空間が世界で最も眩しい場に思えてくる。

 あの時間の流れと一緒だな、と巧は思った。悠久の時のなかで人間という種が生きる時間と。その中で切り取られた、光ある「今」という瞬間はとても短い。ほんの一時だけ瞬く光。すぐに消えても、その瞬間だけは他のどの時間よりも熱かった。その光の熱は、今でも巧のなかに残っている。それが何なのか分からないまま奇妙に、そして(うら)らかに。

 どくん、と巧は胸のなかで脈動する熱が大きくなっていることを自覚する。それは内からも、外からも感じ取れる。そうだ、と巧は確証へ至る。あの光。宇宙の虚無を照らし出すものと同じ光と熱が、この会場にも脈打っている。舞台上で踊るμ’sが、μ’sに声援を贈る観客がこの熱を出して冷たい宇宙を温めていたのだ。いつか朽ち果てる有限の生命。やがて脈を止める心臓が刻む鼓動が。

 曲が終わり、観客たちの声援が会場の空気を震わせる。ステージ上で横一列に並び手を取り合う9人は、息をあえがせ肩を上下させながら観客たちを見渡している。

「ありがとうございました!」

 高く力強い穂乃果の声は声援にかき消されることなく、巧の耳にもしっかりと届いた。端からメンバーがひとりずつ名乗りをあげる。

「東條希!」

「西木野真姫!」

「園田海未!」

「星空凛!」

「矢澤にこ!」

「小泉花陽!」

「絢瀬絵里!」

「南ことり!」

「高坂穂乃果!」

 喜びに満ちた思慕を噛みしめるように聞こえる声の数々。最後に、リーダーである穂乃果は締め括る。

「音ノ木坂学院スクールアイドル、μ’s!」

 9人で声を揃え、手を繋ぎながら「ありがとうございました!」と礼をする。すると観客たちが湧いた。その歓声はμ’sがステージから去った後も止まない。はしゃぐ子供のようにケミカルライトを振る高坂母の隣で、巧は舞台裏で皆はどうしてるかな、とささやかに思った。労いの言葉をかけてやるべきだろうか、と思いかけるが、それは野暮だろう。ここまで来られたのは9人の力だ。9人それぞれの持つ光が合わさってもたらされた。そんな彼女らに、まるで指導者のように巧が「頑張ったな」なんてどうして言えるのか。

 衰える気配のなかった歓声が、やがて均整の取れたリズムを刻んでいく。どこから発したのか、その言葉になった多くの声が会場全体へと波紋のように広がっていく。

「アンコール! アンコール!」

 観客たちは求めているのだ。この光をもっと、もっと見せてほしい、と。ほんの一時だけで終わらせてほしくない、と。広がっていく宇宙のなかで生じる刹那の光。その光を消さず、次の刹那にも繋げていこうと、人々は「アンコール!」と叫び続ける。

 

 ――このまま誰も見向きもしてくれないかもしれない。応援なんて、全然貰えないかもしれない。でも、一生懸命頑張って、わたし達がとにかく頑張って届けたい。今、わたし達がここにいる、この想いを――

 

 ファーストライブの直後、絵里から続けるか問われた穂乃果はそう言っていた。この声は、彼女にも届いているだろうか。届いていたら、一曲しか準備していないのにどうしよう、と慌てているだろうか。それとも涙を流してあの時の想いを抱きしめているだろうか。

 しばらく、長かったようにも短かったようにも思える時間の後に、曲のイントロが流れ始めた。「アンコール!」という言葉が歓声へと変わり、昇降機からステージに舞い戻ってきたμ’sはさっきとは違う衣装に身を包んでいる。いつ用意したのだろうか。本戦で披露できるのは1曲だけだというのに。何となく、μ’sに協力してくれた穂乃果の同級生3人組だろうな、と巧には分かった。こんな酔狂なことをしてくれるのは、あの3人くらいしかいない。

 再びμ’sは踊り、歌い始める。

 それは「これまで」と「今」と、そして「これから」を歌った曲。

 「今」と比べたら、出会った頃の彼女らはまるで異なって見えるだろう。希も言っていた。同じ想いを持つ人がいるのに、どうしても手を取り合えない子があちこちにいた、と。でもこのステージで歌っている、手を取り合い繋がることができた彼女らこそが本来の姿で、それを引き出したのは穂乃果だ。

 今なら理解できる。穂乃果が何故μ’sのリーダーなのか。

 穂乃果がμ’sを引っ張ってきたのは誰が見ても明らかだ。穂乃果がメンバー達をまだ見ぬ世界へと連れていった。でも、それは強引に手を引いてきたわけじゃない。前に立つばかりじゃなく時には後ろに立って背中を押して、時には隣で共に迷ってくれる。そうすることで他者に寄り添い、眠っているその人の美しく輝ける部分を目覚めさせ力強く1歩を踏み出させてくれる。そんな素晴らしい才能を彼女は持っているのだ。

 そう、たった1歩。たった1歩でいい。暗闇に囚われても迷っても、弱くても射し込む光を見出せたときに、人は足を踏み出せるのだ。破壊と再生。光の発現と消滅は繰り返しているのではない。長い眼では見えないが、その実で人はたとえ1歩ずつでも前進を続けている。自分たちの秘める「可能性」という光を目指し、その時に抱く小さな光を互いに灯し合って次へと繋げていく。

 その行きつく先はまだ視えない。巧の視てきたオルフェノクの未来は潰え、これから人が向かう果てがどこなのかは分からない。世代を重ね、光へ到達しても人間という種は変わらないのかもしれない。時に光を見失い、暗闇と虚無をさまようこともある。だがそれでも、人は光を見出せる。冷たい虚無を温めることができる。

 それを認識できたとき、止まっていた足を再び踏み出して、果てしない旅は続いていくだろう。

 

 

 ♦

「ねえ、もう1度だけライブできないかな?」

 帰りの電車のなかで、穂乃果はメンバー達にそう提案した。浸っていた余韻から引き戻された皆の視線を一身に受け、穂乃果は続ける。

「今度こそ本当のラストライブにしたいんだ。場所はどこでもいいの。学校の講堂でもグラウンドでも、屋上でもいいし」

 言葉足らずな意図を察してくれたのか、絵里が笑みを零す。

「巧さんのため、ね?」

 「うん!」と穂乃果は答える。皆も笑みを浮かべ、同意を示してくれる。ラブライブの本戦ステージで歌うという目標を達成しても、μ’sにはまだやり残していることがある。そのためにどんな方法が良いのか、既に穂乃果には分かっている。皆も分かってくれているのだろう。自分たちに、μ’sに最も相応しい方法が。

 穂乃果はそれを告げる。

「ライブで、たっくんに『ありがとう』って伝えよう!」

 帰り道、9人揃って穂むらへ向かいながら、皆で巧へのライブを話し合った。あの不愛想な男を笑顔にしてやろう、とにこが息巻いて、新曲が良い、と提案する穂乃果に海未も真姫もどんな詞と曲が良いか、とイメージを巡らせていた。ことりも衣装をどうしようか、と張り切っていた。

 楽しみだった。自分たちが「ありがとう」と伝えたとき、巧はどんな顔を見せてくれるのか。どんな言葉を向けてくれるのか。

「ただいまー!」

 期待に胸を躍らせながら、穂乃果は家の引き戸を開けて揚々と中へ入る。店内の掃除をしていた母が「お、お帰り……」と娘の勢いに少し圧されながら迎えるのも尻目に、穂乃果は「たっくんは?」と尋ねる。

「巧君なら――」

「部屋にいるのかな?」

 穂乃果は玄関で無造作に靴を脱ぐと、急いで階段を駆け上がっていく。後ろから「あ、穂乃果!」と母の声が聞こえたが、叱られるのは後だ、と穂乃果は奔る想いのまま巧がいるであろう部屋の襖を開ける。

「たっくん!」

 ライブだよ、という言葉を出さず、声を寸止めされた口を開けたまま穂乃果は巧に貸した客間を見渡す。

 そこに巧はいなかった。彼の着替えが入ったバッグも、押入れにしまったのか布団も。客間の様相は、巧が来る前にすっかり戻っている。

 先ほどとは正反対のゆっくりとした足取りで店先に戻る穂乃果を、メンバー達が期待に満ちた眼差しで迎えてくる。穂乃果は母に、無感情に尋ねた。

「お母さん、たっくんは?」

 母は少し気まずそうに顔を背け、向き直ると誤魔化すように笑う。どこか寂しそうに。

「巧君なら、さっき出てったわ」

 「え……?」と皆が声を詰まらせる。海未が声を絞り出すように言う。

「そんな、突然……」

 「突然じゃないのよ」と母は穏やかに言った。

「1ヶ月くらい前から話してたの。穂乃果達のライブを観たら行く、って。皆には黙っておくようにお願いされたのよ。ほら、巧君って照れ屋だから」

 ずっと隠されていたことに怒りは沸かない。巧のことだから、しんみりと別れてしまうのが嫌だったのだろう、と分かる。

「そうそう、巧君から伝言預かってるんだったわ」

 「何?」とがらんどうに穂乃果が聞くと、母は優しく微笑んで答えてくれる。

「ありがとう、だって」

 巧から母に託された言葉は、穂乃果に、他の8人にとって不意打ちだった。自分たちはこれから、その言葉を彼に伝えるつもりだった。その言葉を伝えるライブをするつもりだった。

 「巧さん……」と花陽が俯いた。目尻に涙が光っていて、親友の肩を抱きながら凛も堪えようと口を固く結んでいる。

「まったく、勝手な人よね」

 場の雰囲気に耐えかねたのか、にこがため息交じりに言った。外を向いているせいで、顔が見えない。

「せっかくにこ達の歌を聴かせてあげようと思ってたのに、張り切って損しちゃったわよ。勝手にいなくなっちゃうなんて………。本当…、勝手よ………」

 「にこちゃん………」と、真姫はそれだけしか言えなかった。真姫だけじゃない。皆が肩を震わせ、嗚咽を抑えつけているにこへの言葉を探しあぐねている。

「そっか、たっくん行っちゃったんだ」

 何気なく言う穂乃果に、皆が意外そうな視線を向けてくる。にこも振り返り、涙を拭うことなく穂乃果を見つめる。そんな皆に穂乃果は笑顔を返した。穂乃果には分かった。巧が去ったことの意味が。

「きっと、誰かの夢を守りに行ったんだよ。わたし達、もう夢が叶ったでしょ? だからたっくんに守ってもらわなくてもいいんだよ」

 「寂しく、ないんですか?」と海未が聞いてきて、穂乃果は「ちょっとね」とはにかむ。

「でも、きっとまた会えるよ。わたし達に新しい夢ができたとき、たっくんはきっと会いにきてくれる。そう思うんだ」

 穂乃果はとても清々しい気分だった。巧にさようならも言えずに別れてしまうのは寂しい。でも、彼はμ’sだけの守護者じゃない。彼が人の夢を守ることは、彼自身の夢を叶えることに繋がる。

 「そうね」と微笑んだ絵里の目尻から涙が零れた。皆で目に涙を浮かべて、笑顔を作っていく。この世界には出会いと別れがあって、その時の想いを大切に抱きながらこれからの時間を過ごしていく。想いを扉にして広がっているのは、善いことばかりの世界じゃないだろう。辛いことも当然ある。だから善くありたい、輝きたいと願えるし、その可能性を追っていける。

 巧が守ってくれたのは、そんな世界だ。

 穂乃果は外へ飛び出した。夜空には満月が浮かんでいる。この月を巧も見ているだろうか。伝えたいことは山ほどある。でも今は、彼に伝えたい言葉は胸のなかにしまっておく。新しい夢を見つけたとき、彼は会いに来てくれる。待ちきれなかったらこちらから会いに行こう。

 その時こそ、今の想いを彼に伝えよう。夢の守り人に、μ’sにとってのヒーローに。

 

 ありがとう。

 そして、大好き、と。

 

 

 ♦

 バイクが唸らすエンジンの音が空気を震わせ、遥か遠くの地平へと拡散していく。視界の隅に満月が浮かび、暗闇の中で我ここに在り、と主張しているのが見える。

 暗闇に満たされた道路をオートバジンのヘッドライトが照らすも、その光は整然と広がる闇のなかでは一瞬にして通り過ぎる一寸先を照らすのが限界だ。「今」の人間と同じだな、と巧は思った。

 どれだけ人類の歴史が紡がれ、そこに幾多の物語が綴られても、人は未だ扉を潜ったばかりなのかもしれない。旅は途中で、始まったばかりだ。道は敷かれていない。道は自分達で踏みならしていかなければならないのだ。それはとても過酷なことで、永い時間を要する。可能性の光を視たところで、それはあくまで「可能性」のままだ。いつか、ほんのちょっと揺らぎを与えれば、簡単に消えてしまう灯かもしれない。でも、まだ消えていないことは確かだ。

 無論、それを巧ひとりだけが知るだけでは意味がない。そう遠くないうちに寿命を迎える、滅びゆくオルフェノクのひとりである巧だけでは。いつか、人が滅びを乗り越える翼を広げるには、全ての人が自分達の秘める光を知り、絶やすことなく弱くも灯し続ける必要がある。オルフェノクにならずとも、人は人のまま、翼を得ることができるのだ、と。そこに至るまでの道のりで今は数十歩、いや、数歩進んだだけでも大きいだろう。

 巧もまだ、1歩を踏み出したばかりだ。木場から託された答えは出たのかもしれないし、出ていないのかもしれない。現時点ではまだ曖昧だ。それを確証へ至らせるには、たくさんの時間がいる。迷うことも多く、引き返してしまうこともあるだろう。でも、今のこの熱を捨てることはない、と確信できる。この想いの正しさを証明するための、巧の旅は続いていく。有限の肉体に縛られながら、この暗闇の向こうに存在する、次の新しい世界を目指して。

 焦る必要はない。地球にとってはほんの一瞬でも、その切り取られた刹那に生きる人々には十分な時間が残されている。

 旅立つために必要なものは既に備わっていて、繋げていく限り潰えることはないのだから。

 

 「今」巧は走り出す。確かな熱を裡に抱き、白と黒の狭間を駆け抜けていく。

 

 





 最終回のような雰囲気ですが、まだ終わりではありませんよ。

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