ラブライブ! feat.仮面ライダー555   作:hirotani

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 9月12日はことりちゃんの誕生日だそうで。
 カイザの日じゃなくて良かった。何が良かったのは分かりませんが、何となく(笑)。


第7話 なんとかしなきゃ! / 求められる代償

 荒い呼吸音とリズムの速い足音と、トレーニング室から借りてきたランニングマシンの駆動音。何とも生徒会室という場に不釣り合いな光景だ。そんなことを思いながら巧はパイプ椅子にくつろいでお茶を啜るも、まだ熱くて息を吹きかける。

「たるんでる証拠です」

 学校指定のジャージを着て室内ランニングに励む穂乃果に、海未は書類の整理をしながら冷たく言い放つ。机には厚いファイルが積み上げられている。部活動の予算会議が近く、生徒会は多忙らしい。

「書類もこんなに溜め込んで。すべてに対してだらしないから、そんなことになるんです」

 「ごめんごめん」と穂乃果は走りながら呑気に謝罪を述べる。

「でもさ、毎日あんなに体動かして汗もかいてるでしょ? まさか、あそこまで体重が増えているとは」

 こんな光景が生じたのは、雪穂が発見した穂乃果の身体測定の結果だった。今朝起きたら雪穂と高坂母が測定結果の紙を見て表情を険しくしていたから、結構な数値が叩き出されていたのだろう。巧は穂乃果の羞恥から見せてもらえなかったが。

 「身長は変わらないの?」とことりが聞く。

「うん、雪穂に怒られちゃった。そんなアイドル見たことないって。あ、それオニオンコンソメ味?」

 穂乃果の視線が、ことりの持っているポテトチップスの袋へ向いた。「うん、新しく出たやつだよ」とことりが示すと、「食べたかったんだよね。一口ちょうだーい」と穂乃果はランニングマシンから降りて袋へと手を伸ばす。すかさず海未は穂乃果の手首を掴んだ。

「雪穂の言葉を忘れたんですか?」

「大丈夫だよ。朝ごはん減らしてきたし。今もほら、走ってきたし」

 全く危機感の欠片もない穂乃果を海未は睨み、ため息をつく。

「どうやら現実を知ったほうが良さそうですね」

 目を丸くする穂乃果とことりをよそに、海未は壁際のロッカーから綺麗に畳まれた服を出して穂乃果に手渡す。成る程、それなら分かりやすいな、と感心しながら巧は冷めたお茶を啜る。

「ファーストライブの衣装……。何で?」

「いいから、黙って着てみてごらんなさい」

 「ええ?」と府に落ちない様子の穂乃果を置いて、海未とことり、そして巧も生徒会室から出る。ドアを閉めた海未は、さっきよりは穏やかな口調で言う。

「わたしの目が間違ってなければ、これで明らかになるはずです」

「そんなに大袈裟なもんか?」

 巧の見る限り、穂乃果の外見に変化は見られない。最近の食生活を回顧しても、穂むらで出す新作和菓子の試食が増えただけだ。

 と、そこで巧は思い出す。ここ数日の、家での穂乃果の様子と彼女の言葉。

 3日前、練習の帰り道に買い食いしたクレープ。。

「疲れた体には甘いものが良いんだよ」

 一昨日、食後のデザートにと高坂母が出してくれた新作のずんだ餅。

「お父さんの仕事なんだし、協力しなきゃ」

 昨日、練習での休憩時間で鞄から取り出したパン。

「いやー、今日もパンが美味い!」

 何かにつけて食べる様子しか思い出せない。目を逸らす巧に海未は言う。

「これは一緒に暮らしている巧さんの責任でもあるんですよ」

 ああ、やっぱりこれか。

 部室へ行こうとしたらメールで生徒会室に呼び出されたのはこの説教を受けるためだったのか、と巧は肩を落とす。

 そこへ、生徒会室から悲鳴が聞こえてきた。「穂乃果ちゃん!?」とことりが不安げに呼び、海未は無言のまま神妙な表情でドアの前に佇んだ。

 しばらくして部屋に入ると、穂乃果は涙を流して椅子にうなだれている。テーブルに置かれたファーストライブの衣装は雑に畳まれていた。せっかくアイロンをかけてやったのに、と巧は思うも、泣いている穂乃果に文句を言う気にはなれない。

「穂乃果ちゃん、大丈夫?」

 ことりがそう呼び掛けるも、穂乃果はショックが大きかったようで頭を後ろへ垂れる。

「ごめん皆、今日はひとりにさせて………」

「き、気にしないで。体重は増えたかもしれないけど、見た目はそんなに変わってな――」

 「本当!?」と穂乃果は表情を明らめる。だがことりは「えっと――」と口ごもってしまう。巧もじっと穂乃果の顔を見てみると、心なしか顔が丸くなっている気がした。いや、衣装が入らなかったとなると気のせいではないのだろう。

「気休めは本人のためになりませんよ」

 海未は容赦なく言う。「さっき鏡で見たでしょ?」と上着のポケットから手鏡を出し、獣と遭遇したように怯える穂乃果の眼前に突き出すと更に語気を強める。

「見たんでしょ?」

 鏡に映る自分を見て、穂乃果は「やーめーてー‼」と悲鳴をあげる。流石に巧も気の毒になってきた。だがここで海未を止めてしまうと自分へと飛び火しそうな気がして、黙っていることしかできない。

「体重の増加は、見た目は勿論動きのきれを失くしパフォーマンスに影響を及ぼします。ましてや穂乃果はリーダー」

 まあ確かに、最終予選が近い今になって太ったなんてことは不味いだろう。

 海未は告げる。

「ラブライブに向けて、ダイエットしてもらいます!」

 「ええええ!?」という穂乃果の不平は、すかさず「ええええ、じゃありません!」と海未にぴしゃりと返される。涙を浮かべた両眼が巧へと向けられる。

「何でたっくんは変わってないの? いっぱいお菓子食べてたのに!」

「知らねえよ。そういう体質なんだろ」

 「良いなあ」とことりが言って、海未は顎に指を添えて巧を足元から見上げてくる。

「まあ巧さんは細すぎるくらいなので、鍛えたほうが良いですね」

「やだね面倒臭い」

 

 ♦

 穂乃果のダイエットを他のメンバー達に知らせようと部室を訪ねると、3年生は進路説明会らしく1年生の3人だけ集まっていた。

「収穫の秋! 秋と言えば、何と言っても新米の季節です!」

 花陽は嬉しそうに言って、バスケットボールほどの特大おにぎりを両手で掲げる。まさかそれはおやつなのか、と巧が思っていると凛が見慣れたような口調で。

「いつにも増して大きいにゃ」

 確かに花陽はよく練習の休憩時間におにぎりを食べている。白米が好きなのは知っていたが、まさかここまでとは。

 真姫は巧と同じように眉根を寄せて言う。

「まさかそれ、ひとりで食べるつもり?」

「だって新米だよ? ほかほかでつやつやの。これくらい味わわないと」

 大口を開けておにぎりを食べようとした花陽は自分、というよりおにぎりに向けられた視線に気付く。横を向くと穂乃果がおにぎりを睨み「美味しそう……」と恨めしそうに呟く。人の良い花陽が「食べる?」と勧めると穂乃果は満面の笑みを浮かべる。

「良いの?」

「いけません!」

 すかさず海未が穂乃果の横へつく。

「それだけの炭水化物を摂取したら、燃焼にどれだけかかるか分かってますか?」

 それだけの炭水化物をこれから摂取しようとしている花陽の前で言ってやるな。そう巧は思うも花陽は特に気にも留めていない様子でおにぎりを食べ始める。

「どうしたの?」

 まだ事情を聞いていない凛が尋ねる。真姫のほうは察しがついているらしく、「まさか」と。

「ダイエット?」

 「うん、ちょっとね……」と穂乃果は脱力した声色で答え、机に顔を埋める。

「最終予選までに減らさなきゃって……」

 「それは辛い」と頬に付いたご飯粒を取った花陽が。

「せっかく新米の季節なのに、ダイエットなんて可哀想」

 こいつは結婚したら激太りするタイプだな。口いっぱいに白米を詰め込む花陽を見て、巧はそう思った。

 「さ、ダイエットに戻りましょう」と海未が穂乃果の肩に手を添える。勢いよく立ち上がった穂乃果は突っかかる。

「ひどいよ海未ちゃん!」

「仕方ないでしょう。可哀想ですがリーダーたるもの、自分の体調を管理する義務があります。それにメンバーの協力があった方が、ダイエットの効果が上がるでしょうから」

 「確かにそうだけど」と花陽がいかにも他人事といった様子で言う。

「これから練習時間も増えるし、いっぱい食べなきゃ元気出ないよ」

 いきなりダイエットの敵になるような発言をされているが、これでも効果があると言えるのか。

 「それはご心配なく」と海未が。

「食事に関してはわたしがメニューを作って管理します。無理なダイエットにはなりません」

「でも食べたいときに食べられないのは――」

 曖昧に異議を申し立てながら、花陽はおにぎりを咀嚼し続ける。巧は花陽の顔をじっと見てみる。花陽は元から丸顔だが、何だか顔が更に丸みを帯びているような気がする。口に白米を詰め込んでいるせいと思いたい。凛と真姫も同じようにおにぎりを食べる花陽を凝視する。

 「かよちん……」と凛がおそるおそる呼び掛ける。続けて真姫が。

「気のせいかと思ってたんだけど、あなた最近………」

 真姫ですら告げるのを躊躇するほどのことなのだが、巧は何の躊躇もなくさらりと告げてしまう。

「太ったんじゃないか?」

 その発言で凛と真姫が絶句し、巧を睨んでくる。

「言っちゃったにゃ………」

「デリカシーなさすぎよ………」

 確かに直球すぎるが、オブラートに包む言葉を見つけるなんて器用な真似は巧にはできない。当の花陽は逡巡の後に白米を飲み込み、ぎこちない笑みを浮かべる。

「ま、まさかそんな……、大丈夫だよ。ちょっと測ってくるね………」

 半分以上残っているおにぎりを笹に置くと、花陽は椅子から立ち上がって隣の更衣室へと入っていく。メンバー達は花陽が入っていったドアを無言のまま見つめ、部室に冷たい静寂が訪れる。

 その静寂は、花陽の奇声にも似た悲鳴で破られた。

 

 ♦

「まさかこんなことになっていたなんて………」

 屋上の床にジャージ姿でへたり込み、嗚咽を漏らす花陽を見て絵里が言う。柵の縁石では穂乃果が顔を両手で覆っていて、練習着に着替えたメンバー達はそんな2人を気の毒そうに眺める。

「まあ2人とも育ちざかりやから、そのせいもあるんやろうけど」

 希はそう言うも、穂乃果は実際のところ身長は変化していなかった。2人とも食欲で成長したのは横幅だけだ。

 絶望に打ちひしがれている2人に海未は毛筆で文字が書かれた紙束を提示する。

「これが、今日からのメニューです」

 差し出された紙束を捲り、内容を見た2人は「え!?」と口を半開きにする。

 「夕飯これだけ?」と穂乃果が。

 「お、お米が………」と花陽は目に涙を浮かべる。

「夜の食事を多く摂ると、体重増加に繋がります」

 慈悲など微塵も感じさせなかった海未はそこで笑みを浮かべる。

「その分、朝ご飯はしっかり食べられるのでご心配なく」

 紙束に綴られたメニューを不満げに眺める穂乃果に、花陽は「頑張るしかないよ穂乃果ちゃん……」と弱々しく言う。もっとも、自己責任だから文句を付けようがない。

 「そうだね」と肩を落とした穂乃果は「でも良かったよ」と花陽の手を取る。

「わたしと同じ境遇の仲間がもうひとりいてくれて」

 穂乃果は力強く花陽を見つめるが、花陽は府におちない様子で「仲間?」と目を逸らす。仲間というより同じ穴の(むじな)だな、と巧は思った。

 そこへ、屋上のドアが開かれる。

「あの、今休憩中ですよね?」

「良かったら、サイン頂きたいんですけど」

 そう言って3人の生徒達がドアの影から顔を覗かせてくる。リボンの色から1年生だろう。

「わたし達、この前のハロウィンライブ観て感動して」

 「ありがとう、嬉しいわ」と絵里が言う。

「穂乃果、どう?」

 ライブを楽しんでくれたのなら拒む必要もない。当然、穂乃果はファンである生徒らに笑顔を向けて。

「もちろん、わたし達でよければ!」

 メンバー達は3人が持参してきた色紙に自分のサインを書き込んでいく。こんな機会はあまり無かったから、彼女らのサインは芸能人のようにデフォルメされたものではなく、署名というべきだ。にこは芸能人ばりのサインだったが。

「ありがとうございます!」

 それでも生徒達にとってμ’sメンバー9人全てのサインが記された色紙は大変な価値があるようで、大事そうに抱えて礼を言う。

「実はわたし、園田先輩みたいなスタイルに憧れてたんです」

 生徒のひとりがそう言うと、海未は「そ、そんなスタイルだなんて……」と恥ずかしそうに、でも満更でもなさそうに笑う。

「わたし、ことり先輩のすらっとしたところが綺麗だなって」

 別の生徒が言うと、ことりは「全然すらっとしてないよ」とはぐらかす。

 「わたしは穂乃果先輩の……」とまた別の生徒が言い、穂乃果は「の?」と言葉の続きを待つ。逡巡の後、生徒は苦笑を浮かべる。

「元気なところが大好きです!」

 「あ、ありがとう……」と穂乃果は返した。「失礼しました」と生徒達は中へと戻っていく。ドアが閉められると、穂乃果は巧へと近付き、力の抜けた視線を向けてくる。

「たっくん、やっぱりわたしそう見えてるのかな?」

「ああ、顔が饅頭みたいだぞ」

「ひどいよ!」

 

 ♦

 食い辛い。

 ずず、と巧はすっかり冷めた夕飯の味噌汁を飲みながらそう思う。

 成長期の娘2人と居候の青年のために、高坂母は毎日手の込んだ料理を食卓に並べてくれる。穂むらの仕事も忙しいはずなのに。雪穂によると、巧が住み始めてから食事の品数が増えたらしい。高坂母は息子ができたみたい、と巧を迎え入れてくれたが、子供というのはそんなに良いものだろうか。疑問を抱いても仕方ない、と思いながら巧はエビフライにソースをかける。子供ができない自分には無意味な疑問だ。

 気にしないようにしていたが我慢には限界が来るもので、巧は隣でこちらの食事を凝視する穂乃果へと視線を流す。既に穂乃果の茶碗は空になっている。

「お姉ちゃん、そんなに見られると食べ辛いんだけど」

 向かいで食事をしている雪穂がそう言うと、穂乃果は「だって」と。

「夕飯これだけなんて、すぐにお腹空いちゃうよ」

「朝ご飯はちゃんと食べられるんだし良いじゃない」

 「でもお」と穂乃果はうなだれて、雪穂はそんな姿を晒す姉に「でもじゃない!」と声を荒げる。

「ぶくぶく太って最終予選に進むつもり?」

 「うう……」と穂乃果は呻き巧へと顔を向ける。巧は敢えて何の反応も示さず、エビフライを食べる。

「ご飯のときぐらい静かにしなさい」

 そう言って高坂母が台所から出てくる。姉妹喧嘩――喧嘩というより雪穂の説教だが――の仲裁は決まって高坂母の役目だ。口数の少ない高坂父と巧は完全に不干渉で、今もこうして面の皮厚く食事を進めている。とはいえ、高坂父も娘達に無関心というわけではあるまい。巧が視線を向けると、グラスに注がれたビールの泡がすっかり潰れている。泡が抜けきる前にビールを飲み干す高坂父がこうして放置している時は、何かに意識を注意深く向けている時だと最近になって分かってきた。高坂母が出てこなければ代わりに仲裁していたかもしれない。

「さ、お父さんの新作よ。味見してみて」

 高坂母は笑みを浮かべ、巧の前に黒いたれのかかった串団子の皿を置く。ふわりと胡麻の香りが鼻孔をくすぐる。

「あれ、お母さんわたしの分は?」

 自分の分がないことに気付き、穂乃果は口をとがらせる。

「穂乃果はダイエット中でしょ。せっかく海未ちゃんが食事メニュー考えてくれたんだから、我慢しなさい」

 「そんなあ」という娘の声には耳を傾けず、高坂母は雪穂の前にも団子の皿を置く。雪穂は手を控え目に振った。

「わたしはいいや。太っちゃうし。乾さん食べてください」

 そう言って雪穂は巧へと皿を差し出す。考えてみれば、雪穂が手をつけなかった分を穂乃果が食べて太ったのでは。そう思いながら巧は皿を受け取ろうとしたのだが、巧が取る前に皿は横から割り込んできた手に取られる。

「じゃあわたしが食べるよ」

 「あ、こら」という雪穂の制止を無視し、穂乃果は団子みっつを一気に口へと納めてしまう。唇の端にたれが付いているが、気付いていないのか穂乃果は頬をほころばせながら団子を噛み続ける。

 姉へと向いていた雪穂の訝しげな視線が巧へと移る。巧は無言のまま首を左右に振り、自分の団子を食べた。

 

 ♦

 穂乃果と花陽のダイエットが始まってから、μ’sは練習場を屋上から神田明神へと移した。学校に入れない休日に利用していた場だが、この神社の男坂はダイエットに最適だから平日も練習場にと海未が提案した。とはいえ、μ’sを始めた頃は男坂の長い階段を駆け上がっていたのだから、あれからずっと体力作りをしてきたら慣れたものだろう。

 穂乃果と花陽が階段を走っている間、ことりは持参してきたPCを開きラブライブの公式ホームページ、その中でμ’sのページへとアクセスする。メンバー達はこぞって画面を食い入るように見た。

「もの凄い再生数ね」

 PCの画面を見ながら、絵里が唸る。動画にはハロウィンライブのときのμ’sが映っていて、左下に表示された再生数はとても投稿から数日とは思えない数値だ。

 

 A-RISEに強力なライバル出現。

 最終予選は見逃せない。

 

 感想欄にはそんなコメントが散見される。

「どうやら今まで通りの自分達のスタイルでいって正解やったみたいやね」

 希の言葉の正当性は再生数が証明している。方向性が確立できたのなら、後は練習で更に歌とダンスに磨きをかけていけば良い。

 「よーし」と凛が拳を強く握る。

「最終予選も突破してやるにゃ!」

 全ては順調に進んでいる。このままいけば、本当にA-RISEに勝てるかもしれない。ただ、そのための不安要素をいま抱えているわけで。

「それまでに、ふたりにはしっかりしてもらわないとね」

 そう言って絵里は男坂へと目を向ける。釣られて他のメンバーと巧も。丁度、穂乃果と花陽が息を切らし、足をふらつかせながら階段を上り終えたところだった。

 皆のもとへ辿り着いた2人は膝に手をつき、疲労した体をかろうじて支えている。

 「な、何これ……」と花陽が掠れた声で呟く。続けて穂乃果も同じ声色で。

「この階段……、こんな、きつかったっけ………」

 ここ最近は生徒会が忙しくて練習も休みがちだったから、体力の低下は仕方ない。だがそれを差し引いても2人は深刻なのだろう。試しに他のメンバー達も階段を走ってみたが、皆息も切らさず上ってしまった。

 にこが呆れ顔で言う。

「あんた達はいま、体に重り付けて走ってるようなもんなのよ。当然でしょ」

 「はい」と海未が神社から伸びる道路を手で示す。

「じゃあこのままランニング5キロ、スタート」

 「えー!?」と不満を出す2人に海未は猶予を与えず「早く行く!」と。

「何してるんです。さあ早く!」

「もう、海未ちゃんの鬼!」

 文句を垂れながら穂乃果は走り出す。その後を花陽が追って、メンバー達は2人の背中を心配そうに見送る。

 不意に、巧の携帯電話が着信音を鳴らした。画面には往人の名前が表示されていて、巧はメンバー達から離れてから通話モードにして端末を耳に当てる。

「どうした?」

『乾さん……、助けてください………』

 

 ♦

 電話で往人が指定した場所は近くの喫茶店だった。適当に理由を付けてμ’sと別れた巧は、オートバジンを走らせながら不安と焦燥感を募らせていく。電話口での往人の声からして只事でないことは察しがついたが、待ち合わせの場所も異様だ。店を指定したのなら店内で落ち合うものだが、往人が指定したのは店の裏だった。

 路地裏にバイクを滑り込ませて停車すると、巧は換気ダクトがひしめき合う空間に呼び掛ける。

「おい! どこだ!」

 「乾さん……」と、換気扇の影から往人が立ち上がる。巧はシートから降りて往人へ近付き、「何があった?」と尋ねる。往人はひどく錯乱しているようだった。巧の肩を掴んで喚く。

「まずは逃げましょう。奴が来る前に」

「奴?」

 きーん、と甲高い音が空から聞こえてくる。視線を向けると、丁度真上に太い飛行機雲が見えるのだが、肝心の飛行機が見えない。太さからして超低空飛行なのに、それを噴射する点はとても小さい。点はどんどん大きくなり、それが下降していることに気付く。

「来た………!」

 それが近付くにつれて、辺りに白い排気ガスが撒き散らされる。視界がままならないなか、巧はケースを開きベルトを腰に巻く。ガスの噴出を止めて、飛行装置を背負ったそれは着地した。四肢を持った人の形をしているが、明らかに人ではなかった。だが、オルフェノクでもない。

 ガスが漂う路地裏のなかで、それの頭部にひとつだけある大きな目が紫色に発光する。白亜の鎧には青のラインが走っていて、腰には巧のものと同系のベルトが巻かれている。

 明らかにファイズと同じ技術で作られた戦士だった。

「霧江。お前がいま生きているのは、お前の力が有益だからだ」

 戦士はこちらに人差し指を向け、その手で次は親指を下に向けて首を切る仕草をする。

 巧はフォンにコードを入力した。

 5・5・5。ENTER。

『Standing by』

「変身!」

『Complete』

 巧はファイズに変身する。隣にいる往人もホエールオルフェノクに変身し、戦士へと駆け出す。ファイズが拳を打つよりも速く、戦士の拳がファイズの胸部装甲を打つ。カイザのものよりも重い一撃だった。戦士にとっては軽いジャブだったようで、続けて迫ってきたホエールオルフェノクの顔面に裏拳を見舞う。

「ファイズか。天のベルトを試すのに丁度良い」

 戦士の蹴りがファイズの顔面に直撃する。1撃目は辛うじて体のバランスを保つも、戦士は体を回転させて更に勢いをつけて続けざまに蹴りを連発してくる。とうとうバランスを崩し、ファイズの体が倒れた。

 「あああっ!」と咆哮しながら、ホエールオルフェノクが戦士に組み付く。戦士はものともせず、ホエールオルフェノクの背中に肘を打ち付け腹を蹴り上げる。

 戦士はバックパックの操縦桿を握る。パックが腰部へと展開し、操縦桿に接続されて2門の砲塔に変形する。

 銃口からフォトンブラッドの光弾が発射され、ホエールオルフェノクの体に命中する。創傷を付けられたホエールオルフェノクは力なく倒れ、往人の姿に戻る。

「霧江!」

 ファイズは駆け出し、背後から戦士へ拳を振り上げる。だが戦士は素早く、ファイズの背後へと回り込んで組み付く。スラスターが勢いよく吹き出す音が聞こえて、一瞬遅れてファイズと戦士の体が浮き上がる。上昇を続け、ビル群よりも高く飛んだところでスラスターの噴射が止まり、2人の頭が下へ向いたところで再びスラスターが噴射し急降下する。

 上下が逆転したファイズの視界のなかで、バトルモードに変形したオートバジンが近付いてくる。オートバジンが戦士に体当たりする。体勢が崩れ、右へ左へと迂回するうちに戦士の手が離れて、ファイズは受け身も取れず地面に衝突する。同じく着地に失敗した戦士は起き上がるも、ベルトに電流が走りシステムに異常をきたしたのか身をよじらせる。

「改良が必要か……」

 戦士は呟き、操縦桿を握る。バックパックからガスが排出され、戦士の体が浮上し空の彼方に飛行機雲を引きながら消えていく。ファイズの隣に降り立ったオートバジンはAIが追いつかないと判断したのか、追跡の素振りは見せず佇んでいる。

 ファイズはベルトからフォンを抜き、変身を解除する。それに伴いオートバジンもビークルモードに変形する。

「乾さん」

 おぼつかない足取りで往人が歩いてくる。

「あれは何だ?」

「分かりません。学校から帰る途中に襲われて」

 戦士は往人を裏切り者として襲ってきた。それに初めて見るファイズと同系列のベルト。それだけでスマートブレインの刺客であることは判断できる。巧は携帯電話を取り出し、アドレス欄から琢磨逸郎という名前を指定し耳に当てる。しばらくのコール音の後、琢磨の声が聞こえてくる。

『乾さん、丁度良かった。連絡しようと思っていたところです』

「新しいベルトのことか?」

『………戦ったのですか?』

「ああ。あれは何なんだ?」

『あれはサイガです。3本のベルトのいずれも凌駕する性能を持った、天のベルトとも呼ばれています。試作段階でテストはまだ先だと思っていたのですが、予定が早まりました』

 タイミングが悪すぎる。あのサイガなる戦士が不調を起こさなかったら、間違いなく巧と往人はやられていた。

「何だってそんなベルト作ったんだ? カイザだけで十分だろ」

『開発を主導したのは私です。こちらの戦力でファイズとカイザだけでは心許ないので、新しい戦力として迎えるつもりだったんですよ』

 琢磨が言っていた準備とはこのことか、と巧は察する。「王」とロブスターオルフェノクを倒すための戦力を整えるために、表向きは「王」の護衛としてサイガを作り出したのだろう。

『それと厄介なことに、霧江さんの背信が上に知られました。サイガのテストが早まったのも、彼を始末するためでしょう。私と海堂さんはまだ疑われていませんが』

「そうか。なら霧江は海堂の家に――」

 『いえ、それは危険です』と琢磨は冷静に、さらりと言う。

『口封じのためにも、霧江さんはサイガに片付けてもらいましょう』

 「ふざけんな!」と巧は怒鳴る。こちらに本人がいると知らないのを良い事に、何て残酷な言葉を述べられるのか。隣にいる往人は顔に絶望の色を浮かべていて、口を半開きにしたまま巧を見つめている。

 琢磨は続ける。

『乾さんの延命が達成された以上、霧江さんの役目はもう終わっています。残念ではありますが、私達が勝つために彼には――』

 「もういい」と巧は遮る。

「霧江は俺が守る。お前のことを少しでも信じた俺が馬鹿だったぜ」

 巧はそう言って通話を切る。往人は震える声を絞り出す。

「乾さん、俺ならだいじょう――」

「うるせえ! ガキは黙って守られてりゃいいんだよ」

 「でも」と往人は怯えながらも巧を見据える。

「琢磨さんの言う通り、俺の役目はもう終わってるんです」

「お前はそれで良いのかよ? 穂乃果を守るんじゃないのか?」

 ふと、巧の視線が往人の顔から彼の右手に流れる。黒ずんだ手は陶器のようにひび割れていて、亀裂から灰が零れている。

「お前………」

 巧の視線に気付いた往人は背を向けた。巧の身にも起こっていた、オルフェノクの死期を刻むカウントダウン。だが、往人は1年前にオルフェノクになった。いくらオルフェノクが短命でも10年は生きられる。

 巧は悟る。とても残酷なことを。

「俺を生かすために………」

 往人は振り向く。寂しそうに笑って。

「何のリスクも無いなんて、そんな都合の良い力は無いってことですよ」

 巧は往人の顔を見つめる。ただ見つめるだけで、何の言葉もかけてやれない。オルフェノクは強靭な肉体と引き換えに命が短くなった。命を対価として支払っているのだから、進化に付随した力に代償が無いなんて何故言えるのだろう。少し考えれば、疑問を抱くことぐらいはできたはずだ。

「呼び出してすみませんでした。どうせ俺は近いうちに死んじゃいますし、ここで殺されても同じでしたね」

 はは、と往人は笑う。あまりにも趣味の悪すぎる冗談に、巧はどう反応すればいいのか分からない。慰めも、謝罪も、感謝の言葉も出てこない。出てくるのは質問だ。

「これから、どうするつもりだ?」

「乾さんに協力しますよ。もう長くないけど、最期まで俺は高坂を守るために生きたいんです」

「それで、良いのか……?」

「良いんですよ。俺は高坂が笑ってくれれば、それで良いんです」

 往人は真っ直ぐだ。愛する者のために生きることに迷いがない。何故自分が生きて、この少年が死ななければならないのだろう。

 儚い笑顔を浮かべ続ける往人を見て、巧はそう思った。

 

 ♦

 巧は自分の掌を見つめる。握り、開きを繰り返し、灰が零れないことを確認する。この命は往人が与えてくれたものだ。彼が自分の残りの命を代償として。そう自分に言い聞かせる。

 自分に彼の命を背負う責任が取れるのか。

 いや、と巧は自分の傲慢さを打ち消すように拳を握る。

 命は命を食べて生きている。家畜として飼育された牛も豚も鶏も、人間を生かすために自らの命を差し出している。それは一種の取引だ。自分達の種が滅びないよう保護してもらうための。だが、それは人間が一方的に交わした取引で、家畜達は承認なんてしていないだろう。

 世界は残酷だ。

 誰かが生きるために誰かが死ななければならない。誰かの夢を守るために誰かの夢を壊さなければならない。そんな過酷な調和のもとで、この世界は成り立っている。

 だとすれば、巧の抱く夢を叶えるには、誰かの夢を壊さなければならないのだろうか。何かを得るために犠牲を要求する世界のどこに、守る価値があるのだろう。木場はそんな残酷さに抗おうと、オルフェノクとして生きることを決意したのだろうか。

「お兄さん、お兄さん」

 不意に声をかけられ、巧は視線を上げる。恰幅の良い警察官が立っていた。

「今ここ駐停車禁止だから、バイク別のとこに停めてくれる?」

 見れば、少し離れたところのビル前に立入禁止の黄色いテープが張られている。何人かの警察官がテープを潜ってビルに入っていくのが見えた。手にグローブをはめながら巧は尋ねる。

「何かあったんすか?」

「あそこの劇場でライブしてたバンドと客達が全員行方不明でね。不気味なもんだよ」

 「そうすか」と言って巧はヘルメットを被り、オートバジンのエンジンをかけて走り出す。

 取り敢えず神田明神に戻ろうとバイクを走らせていると、視界に赤いジャージを着た2人組が入り込む。真面目にランニングをしていると思ったのだが、2人は何故か定食屋の前で足踏みをしている。

 巧は路肩にオートバジンを停めた。道路の反対側だから、2人はこちらに気付いていない。

 穂乃果が店を指し示す。

 花陽は目を輝かせるも、すぐに両腕でバツ印を作る。

 穂乃果は店に人差し指を向けて入ろう、とジェスチャーする。

 驚くことに、この2人のやり取りには言葉が一切無い。ただ息遣いのみが、道路を行き交う車の走行音の間から聞こえてくる。

 雑念を振り切るように花陽は前へと進む。

 穂乃果はそんな花陽の襟首を掴む。

 振り向いた花陽は穂乃果が指差す「黄金米」と書かれたのぼりを見ると、うっとりと悦に浸った様子で穂乃果と共に店内へと飛び込んでいく。

 海未には黙っておこう。

 深いため息をつき、巧は再びオートバジンを走らせた。

 

 ♦

 ダイエットが始まってから1週間が経った。海未の考案したメニュー通りの食事と運動に文句をつけていた穂乃果も、慣れたのか巧や雪穂の食事を睨むようなこともなくなった。でも、巧はその理由がダイエットに慣れたこととは別にあることを知っている。

「行くよ花陽ちゃん!」

「はい!」

 神田明神から意気揚々と走り出す穂乃果と花陽をメンバー達は見送る。

「頑張ってるにゃ」

 街へと走り去る2人を見て凛が言う。安心した様子で絵里も。

「順調そうね。ダイエットも」

 「そうでしょうか?」と海未が怪訝そうに。

「この1週間。このランニングだけは妙に積極的な気がするのですが」

 「気のせいじゃないかな?」とことりが言うも、海未の疑念は晴れずじっと細めた目で巧を見てくる。

「巧さん、何か知っていますか?」

「さあな」

「本当に?」

「ああ」

「………本当に、ですか?」

 海未の探るような眼差しが突き刺さってくる。このままだと、体のどこかしらがちくちくと痛みそうな気がする。

 巧は白状した。先日見た光景のことを。

「そのお店に連れていってください」

 全てを聞いた海未は、何の感情も込めずにそう言った。巧が素直に海未をオートバジンに乗せて件の定食屋まで連れていくことを了承したのは、海未の剣幕に押されたというのもあるが、それ以上に罪悪感が大きかったからだ。一応巧はμ’sのマネージャーなわけで、彼女らをラブライブ本戦に進ませるためのサポートをしなければならない。

 店に到着すると、丁度2人が出てきたところだった。

「いやー、今日も美味しかったね」

 腹をさすりながら、巧と海未に気付かない穂乃果が満足そうに言う。「見て見て」と花陽がスタンプカードを見せる。

「今日でサービススタンプ全部溜まったよ」

「本当?」

「これで次回はご飯大盛り無料!」

「大盛り無料。それって天国!」

「だよねだよね」

 「あなた達」と海未の険のこもった声が、2人の笑い声に割って入る。ぴたりと動きを止めた2人はまるで壊れたロボットのようなぎこちない動作で振り返り、海未の姿を認識すると声にならない悲鳴をあげる。穂乃果の視線が海未の隣に立つ巧へと向けられる。助けて、と請うのが分かるのだが、巧はそれを無視する。

 眉をぴくぴくと痙攣させる海未は激昂するかと思ったのだが、予想に反して彼女はとても優しい笑みを浮かべた。

「さ、説明してもらえますか?」

 

 ♦

「それでは、これまでのダイエットの状況を報告します」

 場所を部室へと移し、ノートを持った海未が告げる。長椅子に座る穂乃果と花陽は罰が悪そうに俯いていて、「はい」と同時に弱々しく応じる。

「まずは花陽。運動の成果もあって、何とか元の体重まで戻りました」

 「本当!?」と花陽は顔を上げる。穂乃果も期待を込めた眼差しを海未へ向けるも、「しかし穂乃果」と海未が含みのある言い方をする。

「あなたは変化なしです」

「えー!? そんなあ」

「それはこっちの台詞です。本当にメニュー通りトレーニングしてるんですか?」

「してるよ! ランニングだって腕立てだって」

 確かに家でもトレーニングしている様子を巧は見ている。事実を疑われたことに我慢ならないようで、穂乃果は立ち上がる。だが運動量が増えたことで食欲も増しているわけで。

 巧は海未の声がだんだん低く、そして冷たさを帯びているのを感じ取る。

「昨日ことりからお菓子を貰っていたという目撃情報もありますが」

 「え、あれは一口だけ……」と穂乃果は誤魔化すように笑う。因みにその目撃情報を提供したのは巧だ。お腹空いた、と喚く穂乃果を不憫に思ったことりがクッキーを与えたのだが、実際のところ穂乃果は一口どころか包装された小袋の中身全てを平らげた。

「巧さんの話によると、数日前自宅でお団子も食べていたとか」

「あれは、お父さんが新作つくったから味見してて……」

「ではその後のケーキは?」

「あれはお母さんが貰ってきて……。ほら、食べないと腐っちゃうから!」

 仕方なく食べた、とでも言いたげだが全て穂乃果が自発的に食べたものだ。ケーキも巧と高坂夫妻で食べることにしたのだが、穂乃果は「甘いものは別腹」なんて理屈を並べた。

 メンバー達の浮かべている表情は、そのときの高坂夫妻と全く同じだ。

「問題外ね……」

 うるさく言いそうなにこですら、その言葉しか出てこない。

 「何考えてるんです!」と海未は穂乃果に迫る。

「あなたはμ’sのリーダーなのですよ」

「それはそうだけど……」

「本当にラブライブに出たいと思ってるのですか?」

「当たり前だよ!」

「とてもそうは見えません!」

 売り言葉に買い言葉。よく見る光景だから巧は何とも思わないが、今日は普段より海未の口調が強い。

 「穂乃果ちゃん、可哀想」と2人を見て凛が言う。自業自得なのだから同情することもないだろうに。

「海未は穂乃果のことになると、特別厳しくなるからね」

 いつもは辛辣なことばかり言う真姫でさえ毒舌を控えている。

「穂乃果ちゃんのこと、嫌いなのかな?」

 「ううん」とことりが凛の言葉を否定する。

「大好きだよ」

 ことりは巧よりもずっと長く2人を見てきた。だから彼女の言葉が、この場にいる誰よりも正しい。

「穂乃果!」

 海未の怒号が部室に響く。耳を塞ぐ穂乃果に海未はがみがみと説教を続けている。巧はことりの言葉に乗せた説得力が失せていくような気がする。

「そうは見えないけどな」

 「あのー」と部室のドアが開かれる。同時に海未の説教が止まり、訪ねてきた生徒に穂乃果が「どうしたの?」と。

「それが………」

 生徒は口をつぐむ。ああ、これはトラブルだな、と巧は悟った。

 

 ♦

 来年度の部活動における予算の分配は、生徒会と各部長の会議によって決定される。だから会議前に予算が承認されるなんてことはないのだが、何故か美術部の予算が既に承認されていた。

 些細なミスで、ことりが提出された申請書を承認へと通してしまったのが原因だった。承認を取り消せば反発を招く。何とか交渉し、一度予算を見直さなければならない。

 空が藍と茜のコントラストを彩る頃、絵里から事の顛末を聞いた巧は校舎へと視線を向ける。どこの教室も照明が落ちているが、生徒会室はまだ明かりが点いている。

「まあ、仕事も溜めてたみたいだしな。自業自得だろ」

 巧は素っ気なく言い放つ。今回ばかりは巧も手は貸せない。音ノ木坂学院は生徒の自主性を重んじる教育方針のもと、生徒会の運営に教師は極力介入しないのだ。部外者である巧にどうこうできる問題じゃない。こればかりは穂乃果達だけでやり遂げなければならない。

「色々と忙しい時期ですし、多少のミスは仕方ありません」

 そう擁護する絵里も、まだ明るい生徒会室を見つめる。その顔はどこか寂しそうに見える。

「気になるのか?」

「ええ、まあ。知り合いに美術部のOGがいるので、わたしの方から話すつもりだったんですけど、穂乃果に断られちゃって。わたし達で何とかする、って」

 以前は自分が指揮を執っていた生徒会だから、放っておけない。そんな意図が読み取れる。せっかく会長という面倒な役職から解放されたというのに、絵里は心配性だ。穂乃果を次期会長に推薦したことの責任を感じているのかもしれない。

「もうお前の生徒会じゃないんだ。そんなに思い詰めることもねーだろ」

 「そうそう」と希が歩いてくる。

「うちらが卒業したら、3人でやっていかなきゃいけないんやから」

 こういったことの割り切りは希のほうが上手だ。親友に余計な負担をかけさせまいと、本人の気付かないところで助力していたのだろう。希がいなかったら、絵里はきっと許容量を越えていたかもしれない。

「帰り、パフェでも食べてこうか。巧さんもどう?」

「ああ」

 家では穂乃果の恨めしそうな視線を浴びながら食べていたから、パフェでなくても落ち着いてものを食べたい。「行こ」と希は離れた前方を歩くメンバー達の後を追う。絵里は生徒会室を一瞥し、黙って歩き出す。

「大丈夫だろ。多分」

 物憂げに目蓋を垂れる絵里に、巧はそう言った。

 絵里は要領が良いから全部自分で背負いがちだが、生憎穂乃果はそんなに完璧な生徒会長じゃない。詰めが甘く、それが原因でダイエットする羽目になっている。本人もそれは自覚しているだろう。だからこそ穂乃果は周囲に助けを求めることができるし、彼女をよく知る海未やことりも助ける気になれる。

 秋葉原の街を歩く頃には、既に陽はすっかり暮れていた。黄昏というものは短い。どこの店が良いかとメンバー達が吟味しているなか、巧はすっかり馴染みのある喧騒渦巻く街を眺める。

 この街にいる人間のどれほどが、世界の残酷さを知っているのだろう。自分が何かを得るのと引き換えに、どこかで誰かが代償を支払っていると自覚できているのだろうか。自覚したとしても、見知らぬ誰かに情を抱くほど慈愛に満ちた人間がそう多くいるとは思えない。結局、多くの人は自分とその周囲にしか興味がないのだ。

 堕落している。だが巧もまた、そんな堕落した大多数のひとりだ。人の夢を守るために戦っていながら、自分の周りにいる者しか守れない。真実を知ったとしても、巧に抗うことはできない。それに、たとえ堕落していても、この街は巧が守りたい世界の1部なのだ。

「ライブやりまーす!」

 聞き覚えのある声が聞こえて、巧は視線を向ける。雑踏のなかで目立つUTX学院の制服を着た3人の少女達が、道行く人々にチラシを配っている。

「あれ、UTXの人よね?」

「A-RISE以外にもアイドルがいたんだ」

 にこと凛が彼女らに気付き、チラシを貰いに行く。2人に笑顔でチラシを渡した彩子が巧に気付いて、「乾さん!」と嬉しそうに駆けてくる。

「わたし達、デビューが決まったんです!」

「本当か?」

「はい! わたし達をプロデュースしてくれる人ができて、小さいけど劇場を貸してくれたんです」

 「凄いですね」と巧の隣にいる絵里が言う。彩子は絵里にもチラシを渡した。絵里はチラシを見て「ヴェーチェル……」と呟く。

「ロシア語で風って意味ですね。素敵だと思います」

 「そうでしょ?」と彩子は笑う。

「風に散る桜とか、そういうの綺麗だなって思って付けたんです。わたし達の歌が、風に乗って皆に届きますようにって」

 彩子はとても嬉しそうだ。この前で見せた涙が嘘のように。ずっと望んでいたアイドルとしてのデビューが叶うのだ。これで喜ぶなというほうが無理だろう。

「μ’sの皆さんも来てください。チケット代は結構なので」

 「え、そんな……」と絵里は申し訳なさそうに口ごもる。「良いんです」と彩子は言う。

「お金とかじゃなくて、わたし達は皆に見て欲しいんです。乾さんにも」

 彩子は満面の笑みを巧に向ける。

「観に来てくださいね。乾さんのお陰でここまでこれたんですから」

「俺は何もしてないさ。お前らが頑張ったからだろ」

「いいえ。乾さんが応援してくれたから、頑張れる気になれたんです」

 巧はヴェーチェルのために何か行動を起こした覚えはない。オルフェノクである彩子に夢を見させたのも、大人が子供に夢を持つべきと押し付ける事と同じ無責任なものだ。夢を持つように言っておきながら何の助けもしない。巧に誰かを助け導く裁量なんて持ち合わせていない。彼女らの夢を阻む者が現れたら、倒すだけだ。それが正しいのか、これまでは確証に至らなかった。

 でも今は、守ってきて良かったと素直に思える。こうして自分の守った夢の種が育ち、花開こうとしている。

 「それじゃ」と彩子は愛衣と里香のもとへ戻っていく。まだ花は咲いていない。彼女らの夢は始まったばかりだ。物事は始めるよりも、続けることの方が難しい。

「ヴェーチェルか。せっかくだし観に行こっか」

 絵里のチラシを覗き込んで希が言った。「そうね」と絵里は同意する。

「別のグループを見ることは刺激にもなるしね」

 「そういえば」と真姫が思い出したように切り出す。

「巧さん、あの人達と知り合いなの? やけに親しげだったけど」

「まあ、ちょっとな」

 巧は曖昧に、それだけ答えた。巧と彼女らの接点は言えない。

 言えるはずがない。

 

 ♦

 予算会議を当日に迎えたμ’sの練習は、あまり捗ったとは言えない。生徒会役員の2年生3人とアイドル研究部部長であるにこが会議出席のために不在で人数が少なかったこともあるが、メンバー達は会議が上手く運んだのか心配していた。絵里は特に心配していた。ダンスレッスンの際に珍しくステップを間違えていたから巧にはすぐに分かった。

 だから、練習は会議が終わる頃に切り上げた。メンバー達は結果を心待ちにしていて、制服に着替えるとすぐに中庭へと集まり会議に出席した面々と合流した。

「それで予算通しちゃったの!?」

 穂乃果から報告を聞いた花陽が上ずった声をあげる。結果として、穂乃果達が作成した予算案で各部長たちの賛成が得られた。申請された希望通りの振り分けとはならなかったが、希望の8割は確保ということで押し通したらしい。生徒会長に就任して初めての大きな案件としては、健闘したほうだろう。

「ほんと危なかったあ」

 ため息交じりに言う穂乃果を「でも上手くいって良かったね」とことりが労う。

「わたしのお陰よ! 感謝しなさ――」

「ありがとう、にこちゃん」

 穂乃果に抱きつかれたにこは「そんなの良いからアイドル研究部の予算を」と言いかけるが、海未によって遮られる。

「その前にダイエットです」

 「それがさ」と穂乃果が揚々と。

「さっき測ってたら戻ってたの」

 「え?」とメンバー達が一斉に声をあげる。「本当?」とことりが安心したように聞いた。

「うん。3人で一生懸命頑張ってたら食べるの忘れちゃって」

 「分かりやすい体だな」と巧は皮肉を飛ばす。確かに、ここ数日の穂乃果は生徒会の仕事で帰りが遅く、疲れたのか食欲が無い様子だった。

 真姫がことりのもとへと歩く。

「ことりの言った通りね」

 真姫がそう言うと、ことりは「え?」と目を丸くする。真姫は穂乃果と海未を見て、続ける。

「3人、信頼し合ってるんだなって」

 ことりも真姫に釣られて2人へと視線を移す。「いやー、今日もパンが美味い!」とポケットから出したパンを食べようとする穂乃果とそれを阻止しようとする海未に、ことりは微笑を浮かべる。

「うん。お互い良いところも悪いところも言い合って、ちょっとずつ成長できてるんだと思う」

 どこが成長してるんだか。鬼ごっこを始める2人を見て、巧はそんなことを思う。でも、長い付き合いのことりが言うのなら成長しているのだろう。

「まだガキだけどな」

 巧がそう言うと、ことりと真姫は苦笑する。まだ成長の余地があるということだ。これからも穂乃果が海未に説教される様子は目にするだろう。説教するほうもされるほうもストレスが生じるが、3人にとってはそれが日常だ。なくなってしまうと調子が狂ってしまうかもしれない。

「生徒会、大丈夫そうやね」

 ふと、そんな希の声が聞こえて、巧は彼女へと視線を向ける。風で木の葉が舞うなかで、希はどこか憂うように校舎を眺めている。他のメンバー達がいる前で、そのような顔をする希を見たのは初めてだった。メンバー達の意識が鬼ごっこを続ける穂乃果と海未へと向いているからできた隙なのかもしれない。

 巧の目の前を木の葉が掠めた。冬にかけて樹が葉を落とし始めている。冷たさを帯びた風は冬が近づいていることを知らせている。

 3年生である希と絵里とにこにとって、高校生活最後の冬が。




 愛用していたイヤホンが昇天してしまいました(泣)。
 ちょうど巧役の半田健人さんがTwitterにてイヤホンの紹介をされていたので参考にしようと思ったのですが、半田さんお勧めの商品は結構値が張っていました。
 でも買いました!
 半田さんが言う通り良い音質です!

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