ラブライブ! feat.仮面ライダー555   作:hirotani

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 更新に時間がかかったなあと思ってたら、今回はこれまでで1番長くなりました。そりゃ時間かかるわ!
 はい私が内容詰め込みすぎたせいです。反省しております。


第13話 ともだち / 仲間

 どうしてお前がカイザに。

 その問いを投げかけようとしたとき、巧の唇から灰が零れる。体の細胞ひとつひとつが焼き尽くされ、燃えかすが濡れた地面へ落ちていく。

「やべえな」

 海堂はズボンのポケットから薄い長方形のケースを取り出す。シガレットケースに似ているが、開けた中身は煙草でも葉巻でもなく注射器だ。そのひとつをつまみ、海堂は巧の前にしゃがんで灰が侵食しかけている腕に針を刺す。何をするつもりか。抵抗する力も残っていない巧は自分に行われていることをただ虚ろな目で傍観している。海堂はゆっくりと、プラスチック製の容器に入った無色透明の液体を巧の血管へ押し込んでいく。

 体から落ちる灰の奔流が止まった。崩れかけていた手が瑞々しい肌色を取り戻し、左手に開いた穴が塞がり筋肉と血管と皮膚を再構成していく。体中を侵食していた倦怠感が消えた。まるで体内の老廃物を全て取り除かれたようだった。あまりにも活力が漲ってくるものだから、かえって気味が悪い。

 「よし」と海堂は注射針を巧の腕から抜く。抜いた肌の一点から血がドーム状に滲んでいる。

「まあ気休めだが、これでしばらくもつだろ。ファイズなら変身しても大丈夫だろうが、なるべく控えとけ」

 そう言って海堂は空になった注射器をケースに納めた。

「お前、俺に何したんだ?」

「ちょっとした栄養剤みたいなもんだ。どうだ、少しは元気になったろ?」

 確かに、鉛のように重かった脚が軽くすんなりと立つことができる。巧は質問を重ねる。

「何でカイザが――」

 「まあまあまあ」と海堂は両手を巧の眼前で振り言葉を遮る。

「色々と聞きたいのは分かる。何故俺様が颯爽と現れたか。それは俺様が正義のヒーローとして、捨てられた狼を助けるためなのだ!」

「何言ってんだ?」

「あー、うんうん。相変わらずクールだよねお前は、うん。まあ、せっかく天気も良くなったしお前も元気になったんだ。ここじゃ何だ。俺様のセーフハウスで祝杯を挙げようではないかワトソン君」

 ワトソン君というのが誰かは追及しないでおこう。どうせ意味はない。

「ああ、全部聞かせてくれ」

 巧がそう言うと、海堂は無言のまま笑みを浮かべる。腰に巻いたカイザギアをケースに納め、地面に転がるファイズギアと共に無造作にバイクのサイドカーに積む。

 三原が海堂に渡すために持ってきて、スマートレディに奪われたサイドバッシャー。だがそれは三原の目的通り海堂の手に渡っている。スマートレディから奪い返したという解釈もできるが、海堂のことを知っている素振りを見せたコンドルオルフェノクから、巧のなかで不快な可能性が浮上する。

「レッツらゴー!」

 ふざけた掛け声と共に、ヘルメットのゴーグルをかけた海堂はサイドバッシャーを走らせる。オートバジンに跨った巧はその後を追い、雨上がりに陽光を受けて光を反射するアスファルトの道路を駆け抜けていく。

 そう長く走らず、海堂のセーフハウスであるマンションへ着いた。音ノ木坂学院からあまり距離はない。近くにいたのに街ですれ違うこともなかったとは妙なものだ。もしかしたら、海堂は巧がこの街にいることを分かっていたのか。

 豪奢なロビーで海堂は指紋とカードキーの厳重なセキュリティを通過していく。それなりに裕福な人間の住める集合住宅だと、彼の後ろを歩く巧は理解する。

「ようこそ、俺様の城へ」

 エレベーターで8階まで上り、ドアを開けた海堂は得意げに言って巧を迎え入れる。部屋は住人の心を映すという。昔の人間は上手いことを言ったものだ。1人暮らしにしては広々とした部屋は正に海堂のいい加減な性格をそのまま映し出している。量販店では買えそうにない白亜のテーブルには大量の酒瓶とビールの空き缶、吸殻が山盛りになった灰皿が散乱している。部屋の隅にはデリバリーピザの箱が何重にも積み重なっていて今にも崩れそうだ。何て汚い城だ。まるで酒に溺れる駄目親父の部屋みたいだ。

 海堂は革製のソファにどかっと座り、テーブルの上でまだ半分残っているピザを一切れ掴んで食べ始める。

「お前も食うか?」

「それいつのやつだ?」

「昨日頼んだやつだな。まあ見たとこ腐ってねえし、ちゅーか俺たちゃオルフェノクだから腹は壊さん」

 オルフェノクでも体調は崩す。巧も何度か風邪を引いたことがあるし、真理が作った新作料理を食べて下痢になったこともある。

 海堂はピザを咥えたまま、油にまみれた手を拭かずに冷蔵庫からビール瓶を2本持ってくる。海堂はテーブルに散らばる雑物から栓抜きを見つけて瓶を空ける。

「ほれ」

 差し出された1本を巧は受け取り、海堂が突き出した瓶に控え目に当てて乾杯する。海堂は口端から溢れるほどビールをあおり、「ぷはー」という親父臭い声と共に喉からげっぷを鳴らす。巧は恐る恐る瓶に口をつけて一口だけ飲み込む。苦さにしかめた巧の顔を見て海堂は愉快そうに笑っている。

「お子ちゃまだなあお前は」

「酒はあまり好きじゃないんだよ」

 酒なんて20歳の誕生日以外に飲んでいない。啓太郎は下戸で、真理も当時は未成年ということもあって家には酒を置いていなかった。高坂家に住み着いてから高坂父の晩酌に付き合うこともあったが、巧は決まってお茶を飲んでいた。

 巧は瓶をテーブルに置いてソファに腰掛ける。

「教えてくれ。何でお前がカイザのベルトを持ってんだ? あれは壊されたはずだろ」

「まあ何ちゅーか、ありゃ作り直したんだ。正確にゃカイザじゃなくてカイザMark2だな」

「作ったのはスマートブレインか?」

 「おう」と海堂は再びビールをあおる。

「お前、スマートブレインに肩入れしてるのか?」

「そーゆーこと」

 にやりと笑った海堂はテーブルの隅に追いやられたパスケースから紙片を1枚取り出す。

「どうも、スマートブレイン技術開発室の海堂直也です」

 海堂はステレオタイプの営業マンのように深々と頭を下げながら名刺を差し出す。口調の丁寧さが逆にふざけているように見えるのは、この男の才覚だろうか。

「まあまあまあ、そんな怖い顔しなさんな」

 打って変わって海堂はソファにふんぞり返る。彼の言葉で巧は自分が眉間にしわを寄せていることに気付く。戸惑いと怒り。後者の感情は、まるで裏切られたかのような嫌悪に端を発している。かつては人間を守るために戦っていたというのに、今はスマートブレインで何かを企んでいるというのか。

「気持ちは分かるよ、うん。俺様だって気持ちよくはない。うん、気持ちよくはない」

 海堂はそう言うと、着ているアロハシャツの胸ポケットから煙草の箱とライターを取り出す。紙巻の先端に火を付け、吸い込んだ煙を鼻から吐き出す。「吸うか」と箱を差し出されたが、巧は「いらねえよ」と断る。煙草は嫌いだ。灰皿に積もる灰が、まるで自分の末路を見ているようだからだ。でもそれは海堂も同じはず。

「でもな、俺がスマートブレインにいるお陰でお前は九死に一生を得たわけだ。啓太郎の店にバイクも送ってやったしな」

「お前がオートバジンを?」

「おう。ちゅーかあれも作り直すの大変だったって話だぜ。ただでさえ金がねえってのに無理しやがってよお。しかも作ってすぐ盗まれちゃったから会社は大慌てだ。まあ盗んだのはこの俺様だがな。お陰でカイザのバイクは作れねえから三原に持ってこさせる羽目になっちまった」

「じゃあ何で取りに来なかった? 俺と三原は下手すりゃやられてたぜ」

「俺様も自由に動ける状態じゃねえっちゅーことよ。三原に持ってこさせるのが上に知られちまってな。どうせならデルタのベルトを奪っちまおうって話になっちゃった」

「お前なあ………」

「しょうがねえだろお。カイザだってそんときゃまだ調整中だったんだからよお」

 海堂は煙草を深く吸い込み紫煙を吐き出す。色々と言いたいことはあるが、海堂が来なければ灰になっていたのは事実だ。まだ猶予を与えられた。

「まあ、助かった」

「よせやい気持ち悪い!」

 口ではそう言うがにやにやしている海堂は瓶に残ったビールを飲み干す。

「ちゅーか、あの鳥野郎から聞いたぞ。お前μ’sの前でオルフェノクになったんだってな」

「………そこまで知ってるのか」

「奴がベルトを土産にべらべら喋くってたんだよ。まあお前も、あんなカワイ子ちゃん達としばらく一緒にいられたんだ。当然の報いって奴だ。俺様にもその幸せ分けろ」

 ほいほい、と海堂が両手を差し出してくる。巧はそれを無視してビールを一口飲む。海堂が珍しく真面目な表情を見せた。

「その後どうなったかは、お前の恰好見りゃ分かる。行くとこがねえならここに居ていいぜ」

「俺をかくまって大丈夫なのか?」

「心配しなさんな。子犬一匹ぐらい面倒見てやんよ。仲良くしようぜ、オルフェノク同士」

 久々に見る海堂の変人ぶりに自然と笑みが零れる。「1本くれ」と巧が言うと、海堂は煙草を寄越してくる。火を点けて吸ってみるが、肺が煙に拒否反応を示して咳き込む。その様子を見て海堂は大笑いしている。

「………俺は――」

 煙草を灰皿に押し付けて、巧は自分の懊悩を吐き出す。さっきの注射のお陰で倦怠感は消えたが、胸のあたりにあるつっかえは取れない。

「オルフェノクと人間は分かり合えるって、勘違いしてたのかもしれない。真理と啓太郎、三原と阿部は俺を受け入れてくれた。でも、あいつらの怯えた顔見て思い出したんだ。オルフェノクは人間にとって化け物だって」

「そりゃしょうがねえわな。結局、オルフェノクと人間は相容れんてこった。なっちまったもんは変わんねえ。俺たちゃ化け物として生きるしかねえのよ」

「本気でそう思うのか?」

 巧の質問に海堂は少しだけ逡巡を挟む。

「思ってたらどんなに楽かねえ。木場や長田と一緒にいたせいだな」

 口調は変わらないが、このときの海堂は少し寂しそうに窓の外を眺めている。

「ちゅーかあいつ、自分の理想がどんだけきついか分かってたんだかな」

「多分、長田が死ぬまで分かってなかったと思う。だから人間を憎んだんだ。でも、最後だけは――」

「ああ。最後のあいつは、どこまでもお人好しで馬鹿な木場だった。本当に馬鹿だぜあいつは。真っ直ぐすぎるっちゅーか」

 

 ♦

「申し訳ありませんでした」

 そう言って絵里は深々と頭を下げる。他のメンバー達も絵里にならって、カウンターに立つ高坂母に頭を下げる。「あなた達………」と高坂母の険のこもった声が聞こえる。当然だ。大事な娘が風邪を引いた状態でステージに立たされたのだから。本人の意思を尊重したなんて言い訳はできない。糾弾される覚悟で、メンバー全員で謝罪しに来た。でも、次に投げかけられた声色はとても朗らかだった。

「何言ってるの?」

 「え?」と拍子抜けした絵里は頭を上げる。高坂母は笑っている。娘の友人が来たことを喜んでいるように。

「あの子がどうせできるできるって全部背負い込んだんでしょ? 昔からずっとそうなんだから。それより、退屈してるみたいだから上がってって」

 「え、それは………」と絵里は口ごもる。隣にいることりが言う。

「穂乃果ちゃん、ずっと熱が出たままだって………」

 穂乃果は何日も学校を休んでいる。ことりと海未が様子を見に行ったら熱が下がらず寝込んだままで、感染してはいけないからと会わせてくれなかったらしい。

「一昨日あたりから下がってきて、今朝はもうすっかり元気よ」

 高坂母はそう言って階段へと案内してくれた。大勢で押しかけては悪いと1年生の3人は外で待たせ、海未とことりの後に3年生組が着いていく。

 「穂乃果」と襖を開けた海未が呼びかけると、「海未ちゃんことりちゃん」とベッドでプリンを食べていた穂乃果が嬉しそうに出迎える。

「良かったあ。起きられるようになったんだ」

 ことりが安心したように言う。「うん」と答える穂乃果はいつも通りだ。弱々しい声しか出せなかったあの時の様子がまるで嘘みたいに。

「風邪だからプリン3個食べてもいいって」

「心配して損したわ」

 口元をマスクで覆う穂乃果に、にこがぶっきらぼうに言い放つ。照れ隠しなのはこの場にいる皆が分かっていることだろう。

「それで、足のほうはどうなの?」

 にこが尋ねると、穂乃果は「ああ、うん」と布団を捲って足首に包帯が巻かれた右足を見せる。倒れたときに足を挫いたらしい。保健室に連れていったとき、腫れ上がった足首を見て皆が血相を変えた。

「軽く挫いただけだから、腫れが引いたら大丈夫だって」

 そう言うと穂乃果はマスクを下ろし、彼女にしては珍しい弱気な表情を見せる。

「本当に、今回はごめんね。せっかく最高のライブになりそうだったのに………」

 「穂乃果のせいじゃないわ」と絵里が言う。

「わたし達のせい」

 「でも……」と口ごもる穂乃果に絵里はCDを差し出す。真っ白なCDには手書きでFor Honokaと書かれている。

「真姫がピアノでリラックスできる曲を弾いてくれたわ。これ聞いてゆっくり休んで」

 「うわあ」と感嘆の声をあげた穂乃果は、窓を開けて外にいる1年生達に手を振る。

「真姫ちゃんありがとー!」

 「何やってんの!」、「あんた風邪引いてんのよ!」と絵里とにこが無理矢理穂乃果をベッドに戻す。すっかり快復したようだが、治りかけでまた無理をしてぶり返してしまってはいけない。ティッシュで鼻をかむ穂乃果の肩に海未がカーディガンをかける。

「ほら、病み上がりなんだから無理しないで」

「ありがとう。でも、明日には学校行けると思うんだ」

 「本当?」とことりが嬉しそうに言う。穂乃果が学校に来ない数日間。メンバーのなかで特にことりは気を落としていたように見える。

「うん。だからね、短いのでいいからもう一度ライブできないかなって」

 穂乃果がそう言った瞬間、部屋にいるメンバー達の表情が曇る。穂乃果は気付いていないのか続ける。

「ほら、ラブライブの出場グループ決定まであと少しあるでしょ? 何ていうか、埋め合わせっていうか。何かできないかなって」

 明るく振る舞っているが責任を感じているのだろう。急ではあったが、歌もダンスも仕上がった状態でライブの日を迎えることができた。穂乃果が倒れなければライブは成功したのは事実だ。でも、成功に固執するあまり盲進していたのは他のメンバー達も同じだ。だから告げなければならない。家を尋ねた理由は親への謝罪と見舞い、そしてもうひとつある。

「穂乃果」

 絵里が重い声色で呼ぶ。かつて生徒会長として彼女を否定していた頃に戻ったかのような声色に驚いたのか、穂乃果は目を見開く。

「ラブライブには、出場しません」

 穂乃果は2、3度瞬きをする。絵里は続ける。

「理事長にも言われたの。無理しすぎたんじゃないか、って。こういう結果を招くためにアイドル活動をしていたのか、って」

 実は理事長から巧の行方についても聞かれたのだが、それは言うべきではないだろう。聞かれても彼がどこにいるのか分からないし、彼の正体についても絵里は言えなかった。それに、今ここで巧のことを話題に出しても穂乃果の心的負担が増えるだけだ。

「それで皆で相談して、エントリーを辞めたの」

 その決断は簡単に決まったものじゃない。にこと花陽はとても楽しみにしていたし、他のメンバー達も今までの努力を反故にしてしまうことに葛藤があった。何度も賛成意見と反対意見が衝突した末にこの決断に至った。とても悔しいし、とても苦しい。でも、残酷なことにこれが最善の選択だ。

「もうランキングに、μ’sの名前はないわ」

 絵里がそう告げると、穂乃果は「そんな……」と俯く。それ以上に言葉が出ない穂乃果に海未が言う。

「わたし達がいけなかったんです。穂乃果に無理をさせたから」

 「ううん、違う」と穂乃果は首を横に振る。

「わたしが調子に乗って………」

「誰が悪いなんて話してもしょうがないでしょ。あれは全員の責任よ」

 ベッドに腰掛けた絵里は言う。

「体調管理を怠って無理をした穂乃果も悪いけど、それに気付かなかったわたし達も悪い」

 「エリちの言う通りやね」と希が。

 穂乃果は何も言わずに視線を宙に浮かせている。どこを見ているのか、何を思っているのか読み取れない。まだ絵里の言葉を受け止めきれていないのかもしれないし、告げられた事実を受け入れようと気持ちを整理しようとしているのかもしれない。

 多分、絵里達が帰った後に泣くかもしれない。絵里も、エントリー辞退後にμ’sの名前が消えたランキングを見て心に穴が開いたような気分になった。これまでの練習が全て夢想だったかのようで、何のために努力してきたのかと神に問いたくなった。

 巧さんがいてくれれば――

 ふと、そんな考えが絵里のなかで浮かぶ。あのぶっきらぼうで、それでも自分達の傍にいてくれた彼なら、穂乃果に慰めの言葉でもかけてくれただろうか。

 その考えを絵里は拒否する。巧はオルフェノクだ。オルフェノクにも人間として生きようとする者がいることは分かる。巧に倒された戸田がそうだったし、巧もそうなのだと思いたい。でも、オルフェノクは恐ろしい。理屈抜きで。戸田は絵里を襲った。巧もいつか、その牙をμ’sに向けてくるのではと思ってしまう。そんなことない、という否定したい気持ちも確かに存在している。

 矛盾だらけだ。結局自分は何を恐れているのだろう。絵里には分からない。

 

 ♦

 ラブライブ出場がなくなってもμ’sの活動が終わったわけではない。アイドル活動の目的は音ノ木坂学院の廃校を阻止することだ。穂乃果が復帰して再びライブという気運が持ち上がったところで、その知らせは届いた。

「来年度入学者受付のお知らせ………」

 掲示板に貼られた紙の題を穂乃果が読み上げる。電話で練習の場を外していることりを除くメンバー達は、その知らせを持ってきた1年生達へと振り返る。

「中学生の希望校アンケートの結果が出たんだけど………」

「去年より志願する人がずっと多いらしくて」

 花陽と真姫が説明すると、穂乃果は隣にいる海未と顔を見合わせる。空耳じゃない。自分と同じ反応を示す海未を見て穂乃果は確信する。

「ってことは………」

 「学校は――」と詰まる海未の言葉を希が継ぐ。

「存続するってことやん」

 希も困惑を隠しきれていない。普段の落ち着きからは珍しい。それほどにこの知らせは大きいのだ。正に学校の命運を懸けた。

「再来年は分からないけどね」

 そう言うも、真姫も嬉しさを隠しきれていない。「後輩ができるの?」と凛が興奮気味に言う。廃校決定で後輩ができないことを残念がっていた凛は「やったー!」とばんざいする。

 穂乃果の視線に彼女の姿が入り込む。メンバーで唯一この場にいないことりが、こちらに気付いていない様子で廊下の奥からゆっくりと歩いてくる。

「こっとりちゃーん!」

 名前を呼んで穂乃果はことりに抱きつく。「え、え?」と状況を飲み込めていないことりに、海未が「これ」と掲示板を指差す。ことりは目を見開いて掲示板に視線を固定させた。

「やった……。やったよ。学校続くんだって。わたし達、やったんだよ」

 目を潤ませながら言う穂乃果に「嘘……」とことりは漏らす。確かに嘘のようだ。でも、はじめは実体を持たない知らせは文字に起こされ、こうして自分達の目の前に提示されている。

「じゃ、ないんだ………」

 

 ♦

 この気持ちをどう整理すれば良いんだろう。

 夕暮れ時の道を歩きながらことりは問いを続ける。学校が存続するのは嬉しい。そのためにμ’sは始まったわけだし、無事に結成目的を果たした。もうやり残したことはないはず。なのに、胸の奥に詰まったもやは消える気配がない。原因は分かっている。分かっているのに、打ち明ける勇気が出ない。

 しばらく歩いて、待ち合わせの場所に立つ海未が重苦しい顔でことりを見つめてくる。海未も弓道部の練習で学校にいたのだが、学校では話せない。穂乃果がいるから。

「遅らせれば遅らせるほど、辛いだけですよ」

 公園のベンチに腰掛けると、海未はそう言った。ことりは「うん……」と力なく返す。分かり切っていることだ。現に遅らせている今、海未の言う通りとても辛い。

「もう決めたのでしょう?」

「うん。でも、決める前に穂乃果ちゃんに相談できてたら、何て言ってくれたのかなって、それを思うと、上手く言えなくて………」

 ことりは俯く。海未に打ち明けたとき、彼女はことりの意思を尊重してくれた。きっと穂乃果も同じだと思う。怖気づくことりの背中を押してくれるはずだ。でも、今はその確証が持てない。一緒にμ’sをやってきて、メンバーの関係は切っても切れなくなっている。自分の決断が、大好きなμ’sを壊してしまうことが怖い。

「巧さんだったら、何て言ってくれたのかな………?」

「やめましょう、あの人の話は」

 海未は撥ねつけるように言う。

「でも――」

「あの人はオルフェノクなんです。ずっと正体を隠していたんですよ」

「言えなかったんだよ。言えるわけないよ、そんなこと」

 ことりがそう言うと、海未は固く唇を結ぶ。海未も迷っているのだと思う。海未だけじゃない。皆そうだ。巧がオルフェノクだったという事実を受け入れられていない。

 巧は生徒達にとってはヒーローだった。オルフェノクに対抗できる唯一の手段であるファイズに変身できて、学校が襲撃される度に守ってきた。理事長であることりの母が警察に相談したこともあったが、「そんなことがあるわけない」とオルフェノクの存在を信じてもらえなかったという。

 社会に潜み、人知れず存在する異形。人間の振りをして人間を襲う。巧もそうなのだろうか。自分達を守るために戦ってくれたことが、全て偽りだったのかと思ってしまう。

 分からない。何もかも。

 オルフェノクとは何なのか。何がオルフェノクを怪物たらしめているのか。人間として生きようとするオルフェノクは、何をもって人間と証明できるのか。

 海未は口を開く。

「今の問題はあの人ではなく、ことりの方です」

 ことりは「うん……」と答えることしかできなかった。ここで議論して結論が出る問題ではない。

 きっと、μ’sの前から姿を消した巧自身にも分からないのだろう。

 

 ♦

「では取り敢えず、にっこにっこにー!」

 簡単な飾り付けをした部室に、いつもの音頭を取ったにこの声が響き渡る。

「皆グラスは持ったかなー? 学校存続が決まったということで、部長のにこにーから一言、挨拶させていただきたいと思いまーす」

 「おー!」と床に敷いたビニールシートに腰掛ける凛、花陽、穂乃果が拍手する。呆れた視線を向けた真姫も、控え目ながら拍手した。パイプ椅子に座る希と絵里は互いに笑みを交わし、窓際のベンチに座ることりと海未は床に視線を落としている。

「思えばこのμ’sが結成され、わたしが部長に選ばれたときから、どのくらいの月日が流れたのであろうか。たったひとりのアイドル研究部で耐えに耐え抜き、今こうしてメンバーの前で想いをかた――」

 にこの音頭を最後まで待たず、メンバー達は「かんぱーい!」とジュースが注がれた紙コップを掲げる。

「ちょっと待ちなさーい!」

 文句を言いながらにこも紙コップを掲げた。

 テーブルの上に並べられた料理はその量を瞬く間に減らしていく。主に食べているのは凛と穂乃果で、花陽も炊きたての白米を頬張っている。呆れながらも残り僅かのサンドイッチをにこが手に取る。

「ほっとした様子ね、エリちも」

 希のその言葉で、絵里は自分が安堵のため息をついたことに気付く。μ’sに加入してから少しは気持ちが楽になったものの、生徒会長としての役目を忘れたわけではない。学校を存続させたいという願いが叶った。そのときが来たら両手を挙げて喜ぶものと思っていたが、現実はとても淡泊だ。これまでの練習で溜め込んでいた疲労が押し寄せてきたような錯覚に陥る。でも、やはり嬉しいことに偽りはない。亜里沙も喜んでいたし、電話で音ノ木坂学院を卒業した祖母も喜んでくれた。

「まあね。肩の荷が下りたっていうか………」

「μ’s、やって良かったでしょ?」

「どうかしらね。正直わたしが入らなくても、同じ結果だった気もするけど………」

 「そんなことないよ」と希がはっきりと言う。

「μ’sは9人。それ以上でも以下でも駄目やって、カードも言うてるよ」

「………そうかな」

 希の言葉で、絵里は救われた気がした。生徒会長なのに、自分のやりたいことをやって良いのか。それが気掛かりだった。もしアイドル活動をしても廃校が阻止できなかったら、長く懺悔の念を捨てられなかったかもしれない。夢や願いは呪いに似ている、と絵里はふと思う。夢の呪いを解くには夢を叶えるしかない。叶えなければずっと呪われたまま生きることになる。

 ――まだガキなんだ。やりたいことやればいいし、夢見たっていい――

 巧の言葉を思い出す。巧は夢が呪いと知っていたのだろうか。だから誰かの夢を守ろうと戦っていたのだろうか。自分もオルフェノクでありながら。

「巧さんのこと考えてる?」

 希の口から出た名前に絵里は目を僅かに見開く。メンバー間で巧の名前を出すのはいけないという雰囲気が、μ’sの中では暗黙のルールになってしまっている。でも他のメンバー達は食事に夢中で、絵里と希の会話に気付いていない。希も絵里にしか聞こえないよう、声量を抑えている。

「何で分かったの?」

「分かりやすいからね、エリちは」

 「もう」と絵里は呆れ気味に言う。希は鋭い。いつも絵里の考えていることを的中させる。

「巧さんをどう思って良いのか分からないけど、ここにあの人もいればいいのにって思っちゃって。わたしって、変かな?」

「ううん、うちも同じ。巧さんが運命を超えたものをもたらしてくれるって思ってたけど、その解釈が間違ってたらどうしようって。運命を超えたものっていうのは、巧さん自身のことなのかも」

 オルフェノクは死を経て進化する。1度死んだ身でありながら、新しい命を授かり再びこの世に帰還する。それはある意味、運命を超えた存在なのだろう。

「珍しいわね。希が占いに自信持てないなんて」

「だって、事が事やからね………」

 希は寂しい笑みを向ける。絵里も希に笑みを返す。

「今は喜びましょう。お祝いなんだから」

「そうやね」

 2人は控え目に紙コップを当ててジュースを飲んだ。今は喜びを噛みしめよう。

 賑やかな部室の窓際に絵里は視線を向ける。パーティが始まってからというもの、ことりと海未は料理に手を付けず、ずっと座ったまま特に会話に華を咲かせることもない。そもそも、ことりは以前から様子がどこかおかしかった。希も何か悩んでいるのではと言っていたし、時々辛そうな顔をしているのを何度も見かけた。

 ことりが頭を垂れて、その肩に海未が手を添えている。具合でも悪いのだろうか。そう絵里が思ったとき、海未が立ち上がる。険しい彼女の表情から、只事ではないと絵里は悟る。

「ごめんなさい。皆にちょっと話があるんです」

 食事をしていたメンバー達の手と口が止まり、皆の視線が海未に集中する。「聞いてる?」と尋ねる希に「ううん」と絵里は返す。

「実は、突然ですがことりが留学することになりました。2週間後に日本を発ちます」

 淡々と海未は告げた。ことりは俯いた顔を上げない。メンバー達の視線が海未からことりへと移る。

 「何?」、「え、嘘………」、「ちょ……、どういうこと?」と海未の言葉を咀嚼したメンバー達から困惑の声が挙がってくる。俯いたままことりは言う。

「前から服飾の勉強したいって思ってて。そしたら、お母さんの知り合いの学校の人が来てみないかって………」

 そんな話を絵里は聞いていない。しかも2週間後に日本を発つなんてかなり急だ。留学の話は随分と前から持ち上がっていたはず。

「ごめんね。もっと早く話そうって思っていたんだけど………」

 続きを海未が引き継ぐ。

「学園祭のライブでまとまっているときに言うのは良くないと、ことりは気を遣っていたんです」

 「それで最近………」と希が漏らす。留学といっても期間は様々だ。数週間か数ヶ月の間かもしれない。でも、打ち明けるのを躊躇するとなると。

「行ったきり、戻ってこないのね」

 絵里が言うと、ことりは首肯する。

「高校を卒業するまでは、多分………」

 もう音ノ木坂学院には戻ってこない。もうμ’sとして活動していくことはできない。ここで皆とはお別れ。即ちそういうことなのだ。

「どうして言ってくれなかったの?」

 部室に漂う沈黙を破ったのは穂乃果だ。彼女の険のこもった声を聞くのは初めてで、絵里は制止するのを躊躇してしまう。穂乃果は立ち上がり、ことりへと歩いていく。

「だから、学園祭があったから………」

「海未ちゃんは知ってたんだ」

 「それは……」と海未は言葉を詰まらせる。穂乃果は身を屈めて、ことりの手に自分の両手を被せる。まるで逃がすまいと捕まえているように見える。

「どうして言ってくれなかったの? ライブがあったからっていうのは分かるよ。でも、わたしと海未ちゃんとことりちゃんはずっと――」

 「穂乃果」と絵里は止めようと試みる。声色から次第に興奮しているのが分かった。続けて希も。

「ことりちゃんの気持ちも分かってあげな――」

「分からないよ!」

 穂乃果は叫んだ。

「だっていなくなっちゃうんだよ! ずっと一緒だったのに、離れ離れになっちゃうんだよ! なのに――」

 誰も穂乃果を止めようとしない。止められる状態じゃない。ことりは弱々しく言う。

「何度も言おうとしたよ。でも、穂乃果ちゃんライブやるのに夢中で……、ラブライブに夢中で………。だからライブが終わったらすぐ言おうと思ってた。相談に乗ってもらおうと思ってた。でも、あんなことになって………」

 ことりの目から涙が零れた。端を切ったように流れは止まらない。

「聞いてほしかったよ。穂乃果ちゃんには1番に相談したかった。だって穂乃果ちゃんは、初めてできた友達だよ。ずっと傍にいた友達だよ。そんなの………、そんなの当たり前だよ!」

 堪えかねたのか、ことりは穂乃果の手を振り払った。走って部室を出ていくことりを、目を赤くした穂乃果は追おうとするも立ち止まる。苦虫を噛み潰したように海未は告げる。多分、こうなることを予想していたのだと思う。

「ずっと、行くかどうか迷っていたみたいです。いえ、むしろ行きたがってなかったようにも見えました。ずっと穂乃果を気にしてて……。穂乃果に相談したら何て言うかってそればかり。………黙っているつもりはなかったんです。本当にライブが終わったらすぐ相談するつもりでいたんです。分かってあげてください」

 海未の言葉が耳に入っていないのか、穂乃果は何も言わない。黙って目を見開いたまま、ことりが出ていった部室の入口を見ている。かける言葉を絵里は見つけることができなかった。代わりに脳裏で浮かんだのは、先ほど忘れようとした巧のことだった。

 巧さんなら何て言うだろう。

 穂乃果に何て言えば良いんだろう。

 絵里はどこにいるか分からない巧に尋ねる。

 

 巧さん、μ’sはこれからどうすればいいの?

 

 当然、答えは返ってこなかった。

 

 ♦

 電車が線路の上を走っていく音が黄昏の街へと響いていく。がたんごとん、と線路の繋ぎ目のあたりで車輪がぶつかる音が一定のリズムを刻んでいて、それが街のBGMのように思えてくる。

「ことりちゃん、いなくなっちゃうんだね………」

 凛は思い出すように呟く。唐揚げとサンドイッチと大盛りの白米を食べたのに、何だか食べた気がしない。だからといって空腹なわけでもなく、好物のラーメンを食べる気にもなれない。共に帰路についている花陽、真姫、にこは目蓋を物憂げに垂れて視線を落とす。

「まったく、反対するほどわたし達は器小さくないってのに」

 にこは呆れ顔で言う。真姫も賛同を示す。

「そうね。急だけど決まったものは仕方ないわ。これから誰が衣装作るのか考えないと」

「勿論それはにこよ。にこのセンスで皆を可愛く仕上げちゃうんだから」

「何か心配だにゃ」

 凛が何気なく言う。花陽が「凛ちゃん」と注意しようとするが、既に遅くにこが不敵な笑みを浮かべながら凛を睨む。

「何ですってー………」

 ようやく自分が失言をしたことに気付いた凛は走り出す。その後を「待ちなさーい!」とにこが追う。道路の真ん中で繰り広げられた鬼ごっこを、真姫と花陽は呆れながらも微笑んで見守る。

 後ろを走るにこへ振り向いていた凛が通行人の背中にぶつかる。スーツを着たお勤め人らしき男は少しだけ驚いた顔で凛を見下ろす。

「あ、ごめんなさい」

 凛が謝ると男は優しく笑う。

「大丈夫だよ。君が死んでくれればね」

 男の顔に筋が走った。凛は直感的に何が起こるのか悟り、後方にいる3人のもとへ走る。男の体は灰色になった。サボテンのように棘が全身を覆っている。まるで鉄の処女(アイアンメイデン)を裏返したような姿だ。

 4人は悲鳴と共に逃げ出す。カクタスオルフェノクは地面を蹴り、高く跳躍し数メートルもの距離を一気に詰める。灰色の異形は4人の目の前で着地し、その進行を塞ぐ。

 4人は肩を抱き合う。目に涙を浮かべた花陽が叫んだ。

「誰か助けてー‼」

 声に応じたかのように、花陽の視界に影が入り込む。影は猛スピードで目の前を横切り、カクタスオルフェノクに突進した。棘だらけの体が宙を舞い、重力に従って地面に叩き付けられる。遅れてバイクのエンジン音が。銀色のバイクは甲高い摩擦音を立てて停まり、スタンドを立てた運転手はシートから降りる。

「ファイズ……!」

 カクタスオルフェノクの影が男の姿を形成し、真横から轢いてきた者を睨む。ファイズは手首を振り、ベルトのバックルに収まっている携帯電話からチップを抜いてバイクのハンドルに挿入する。

『Ready』

 ハンドルを引き抜くとグリップから真っ赤な刀身が伸びる。ファイズは立ち上がろうとしたカクタスオルフェノクの頭を蹴り上げる。再び地面に伏した敵の肩を掴み立ち上がらせ、がら空きの胴に剣を一閃する。

「巧さん………!」

 凛は無意識にそう呟く。ファイズの声から誰が変身しているのかすぐに分かった。あの日、ファイズのベルトは敵に奪われた。μ’sの前から姿を消していたこの1ヶ月半の間に、巧はベルトを取り戻したということか。

 ファイズの剣がカクタスオルフェノクの胸を突いた。カクタスオルフェノクは道路上に投げ出されて、すぐに立ち上がるとファイズに向かって駆け出してくる。

『Exceed Charge』

 携帯電話のキーを押したファイズは剣を構える。ベルトから発せられた赤い光がスーツに巡るラインに沿って剣を握る右手に到達する。同じタイミングで間合いを詰めてきたカクタスオルフェノクが棘の生えた拳を振り下ろしてくる。

「はあっ‼」

 ファイズは咆哮と共に、輝きを増した剣を下段から振り上げた。赤い刀身がカクタスオルフェノクの脇腹から肩にかけて滑り込み、刃が走った傷口から青い炎が噴き出す。カクタスオルフェノクの体が灰になって崩れた。その場には赤いΦの文字が残される。まるで墓標のように。

 ファイズは剣からチップを抜いて携帯電話に戻す。赤い刀身が消滅してバイクのハンドルだけになる。ファイズは凛達を一瞥すると、無言のままバイクにハンドルを挿して跨る。バイクのエンジンを吹かす戦士を4人はただ傍観する。日が暮れかけた街の影へ走り出すバイクを追いかけようと、凛は足を踏み出す。

「待って巧さん!」

「駄目よ、危ないわ!」

 真姫が凛の腕を掴んだ。引き留められた凛は不安そうに真姫を見つめてくる。真姫は言う。

「あの人、オルフェノクなのよ?」

「どうしてオルフェノクだからって巧さんが凛達と一緒にいちゃいけないの? あの時だって、巧さんは凛達を守るために戦ったんだよ?」

 凛にはもう我慢の限界だった。何食わぬ顔で日々を過ごし、巧のことを忘却しようとしていることに。

 巧がオルフェノクだったことにショックはある。でも、巧はμ’sを守るためにオルフェノクになった。巧は何も悪くないはずだ。オルフェノクであることが、自分達を裏切ったとは思えない。

「凛だってオルフェノクは怖いよ。でも巧さんは信じたいの!」

「わたしだって信じたいわよ!」

 潤んだ目をした真姫は唾を飛ばす勢いで言う。

「わたしも分からないのよ。オルフェノクが本当に危ないのか。でもわたし達は襲われてるのよ。もしかしたら、あの人だっていつかはわたし達を襲うかもしれないし、そのためにわたし達と一緒にいたかもしれないじゃない」

「じゃあさっきのは何? 何で巧さんは凛達を助けてくれたの? 巧さんは悪いオルフェノクじゃないかもしれないよ」

「良いオルフェノクなんていると思う?」

「分からないけど――」

「意味分かんない。滅茶苦茶よ!」

 互いの言い分なんて聞く耳を持とうとしない。凛と真姫の興奮は最高潮に達していく。そんな2人を見ていることしかできなかった花陽は涙を流しながら叫ぶ。

「喧嘩はやめて!」

 その言葉で凛と真姫は口を閉じる。互いに目配せし、少し罰が悪そうに花陽へと視線を移す。頭が冷えたのか、真姫が落ち着いた声色で尋ねる。

「ねえ、あの日からオルフェノクは出なかったわよね?」

 「うん……」と凛が首肯し、意図を察したにこが言う。

「まさか、わたし達を襲う前にあいつがオルフェノクを倒してたってわけ?」

「その可能性はあるわね」

 真姫の推測が正しければ、巧はずっとμ’sを守ってきたということになる。とても崇高な行為だ。でも、それなのに凛は巧に対して何も感じることができない。むしろ、忘れかけていたオルフェノクへの恐怖が再燃していく。同時にウルフオルフェノクに変身した巧の姿も。

 「かよちん」と凛は震えている花陽を呼ぶ。花陽は何に怯えているのだろう。自分達を襲ってきたオルフェノクか。それとも助けに来てくれた巧か。凛は尋ねる。

「かよちんは、巧さんの事どう思う?」

 花陽はただ肩を震わせるばかりで、凛の質問に答えてはくれない。凛は花陽の肩を抱く。背中をぽんぽんと叩き、「ごめんね」と謝罪する。

「もう帰ろう」

 

 ♦

 私、全然気付いてなかった…

 私が夢中過ぎてみんなの気持ちとか全然見えなくて

 だから

 ことりちゃん ごめんね

 

 打ち終わったメールを送信して、穂乃果は両膝に顔を埋める。

 謝ったって、もう………。

 全て自分のせいだ。ラブライブに出場できなかったのも、ことりの悩みに気付けなかったのも。ただ目の前のことにしか目を向けず、自分勝手にやりたいことだけしかやらなかった。結果がこの様だ。

 廃校阻止という願いは叶った。それと引き換えにこんな仕打ちを受けなければいけないのか。夢とは、こんなにも残酷なのだろうか。

 穂乃果は顔を上げて、照明が消えた部屋で唯一の光源であるパソコンの液晶を見る。画面のなかでA-RISEが踊っている。何度見ても見事なパフォーマンスだ。自分達とは比べ物にならない。観客席にひしめき合うサイリウムの数が実力差を物語っている。優れている方と劣っている方。どちらを見るか問えば当然人は前者を選ぶ。

 追いつけないよ、こんなの。

 努力すれば報われると思っていた。人一倍頑張れば全て上手くいくと思っていた。浅薄だったと穂乃果は思う。ただ努力すれば良いなんて、アイドルは甘くない。努力なんて必要最低限のものだ。容姿、センス、歌唱力、リズム、流行、才能。それらの要素が全て合致して、ようやくアイドルは陽の目を見る。事実、倒れるほど努力を重ねても、文化祭ライブでμ’sはA-RISEほどの観客を集めることができなかった。

 心にぽっかりと穴が開いたようだ。これまで培ってきたものが全て穴から零れ落ち、虚無へと消えていく。喉を潰すまで歌ったメロディも。全身が筋肉痛になるまで反復したステップも。繋がった絆も。

 このまま全て抜け落ちていってほしい。穂乃果はそう願う。夢も、友達も、何もかも。

 いや、違う。穂乃果は改めて認識する。心の穴など、とっくに空いていたのだ。彼がいなくなった日から。埋めようともがき続けてきた。余計なことは考えまいとしてきた。でも穴は埋まることがなかった。それだけだ。

 もう、たっくんはいないんだ。

 ことりちゃんも、いなくなるんだ。

 続ける意味が見つからない。皆で叶えようとした夢に「皆」が消えていく。巧が守ろうとした夢がぼろぼろと崩れていく。

 穂乃果の両眼から涙が溢れ出た。何も分からなくなった。

 たっくん、何でオルフェノクだったの?

 何でオルフェノクなのに、オルフェノクと戦ってたの?

 何でわたし達の夢を守ろうとしてくれたの?

 ことりちゃん、何で言ってくれなかったの?

 わたしの夢って何だったの?

 μ’sって何だったの?

 わたし、何やってたんだろう………?

 

 ♦

 スマートブレインの製品は、世界の科学技術を数世紀先へと飛躍させてしまう。だが製造コストが余りにも高く貴重な部品を数多く使用しているため量産は難しい。量産するためにはスマートブレインが先取りした新技術に時代が追いつくのを待つしかない。海堂はそう言っていた。

 海堂は啓太郎の店にオートバジンと共に置き土産を置いていった。それは日常にありふれた形をしていて、贈られた巧はその存在に気付かず日々を過ごした。スマートブレインから持ち出された追跡蝶(トレース・バタフライ)というマシンによって巧は常時監視されていた状態で、見張りに寄越した機械仕掛けの蝶の目を通じて海堂は巧の居場所を知ることができた。だから、巧が旅で辿り着いた音ノ木坂からそう離れていない街に海堂がセーフハウスを構えていたのは偶然ではないということだ。とはいえ、オルフェノクが集まっているこの街に巧が来ることになるのは、本当に偶然だったらしいが。

「相変わらず汚い部屋ですね。ここに住み始めてまだ半年も経っていないでしょう」

「うるせえなー。良いだろ俺様の部屋なんだからよお」

 巧が玄関のドアを開けると、その会話は聞こえてくる。玄関には見慣れない革靴がきちんと揃えられている。しっかりとワックスがかけられている来客の靴は、ひどく散らかっている玄関のなかで目立つ。巧はヘルメットを靴箱に置いてリビングに出る。

「おかえりー」

 海堂がそう言うと、巧に背を向けてソファに座っていた来客は振り返る。初めて見る顔ではなかった。来客は几帳面そうに眼鏡の位置を指で直す。

「お久しぶりです。乾さん」

「お前は………」

 巧はギアケースのロックに手をかける。「まあまあ」と来客は立ち上がる。

「警戒する必要はありませんよ。私のことを覚えていますか?」

「ああ、覚えてるさ………。琢磨」

 名前を呼ぶと、かつて巧と敵対したラッキークローバーの一員である琢磨逸郎(たくまいつろう)は不敵に笑む。相変わらずいけ好かない顔だ。2人の間に張り詰める緊張感を海堂はほぐすように言う。

「おいおい乾。琢磨は俺達の味方だぜ。そんな態度はねえだろ」

「こいつが?」

 「ええ」と琢磨は再び眼鏡を直す。

「信じてもらえないかもしれませんがね」

 巧はギアケースのロックから手を放す。ソファの空いている席に座り、じっと琢磨と海堂を交互に見つめる。

「琢磨はスマートブレインの幹部でな。色々と事情を教えてくれんのよ。オルフェノクを回すタイミングだって、今まで琢磨が教えてくれたんだぜ」

 スマートブレイン所属という特権を利用できる海堂は、企業がいつどこにオルフェノクを差し向けるのかを巧に教えてくれる。海堂がカイザとしてオルフェノクを倒してしまえば裏切り者として追われてしまうから、既にスマートブレインに追われる立場である巧が現場に向かっていた。今日もオルフェノクが凛達を襲うのは数日前から知っていたし、無事に彼女らを守り抜くことができた。できることなら見られたくなかったが。

 琢磨は挑発的な笑みを浮かべながら言う。

「まあ、そういうことです。昨日の敵は今日の友と言います。ここはひとつ、私と協力するのも手ですよ」

「そうかよ」

 巧は憮然と言い放つ。すぐに信用などできるものか。そう態度で示す。琢磨はわざとらしくかぶりを振る。

「今日来たのは、2人にニュースを伝えるためです。良い知らせと悪い知らせの両方がありますが、どちらからにしますか?」

 「迷うなー」と良いながら海堂は人差し指を左右に振る。戯れに付き合う気にはならず、巧は海堂の答えを待たずに言う。

「良い知らせからだ」

 「分かりました」と琢磨はテーブルに置いてあるノートパソコンを開き、キーを打ち込んで巧と海堂に液晶画面を向けてくる。

「音ノ木坂学院の存続が正式に決まりました」

 画面に表示されているのは音ノ木坂学院のホームページで、そのニューストピックスに『来年度入学者受付のお知らせ』とある。

「おいおいおい、あの学校存続するってことか?」

 画面を食い入るように見る海堂が興奮気味に言う。

「まあ、入学希望者が少なければ、再来年にまた廃校の案が出ると思いますが」

 琢磨が冷静に言うも、海堂は「ヒャッホウ!」と奇声をあげて冷蔵庫からビール瓶を持ってくる。

「今日は宴だ! 大いに飲もうではないか諸君」

「まだ悪い知らせの方があります。気が早いですよ」

 構わずビールを煽る海堂に呆れ顔でそう言うと、琢磨は別のウィンドウを開く。今度はラブライブのホームページで、エントリーしているグループの一覧が表示されている。

「μ’sがラブライブのエントリーを辞退しました」

「何?」

 巧は画面に顔を近付ける。グループ名ひとつひとつを目で追っていくが、μ’sの名前が見つからない。

「何で辞退した? 出場圏内に入ってたはずだろ?」

 以前秋葉原に寄った際、スクールアイドルショップでμ’sのグッズが大量に追加されていた。店員からはランキング19位に入ったと聞いていた。このまま順調にいけばラブライブ出場が叶ったというのに。

「聞いたところ、高坂穂乃果さんが学園祭で行われたライブで倒れたそうです」

「倒れた? それでどうなった?」

「ライブは中止になりました」

 げんなりと海堂は芝居じみた仕草で肩を落とす。

「俺μ’s好きだったのになあ。よりどりみどりでよ。特に希ちゃんなんて良いよなあ。高校生なのにあの胸だぜ。ああでも絵里ちゃんも捨てがたいし花陽ちゃんも――」

「それが辞退の理由だってのか?」

 海堂を無視して、巧は質問を重ねる。琢磨も呆れた顔で海堂を一瞥し咳払いする。

「理由かどうかは分かりませんが、無関係とは思えませんね」

 巧は握った拳で膝を打つ。いつも俺は戦うばかりで何もできない。巧は自分の無力さを呪う。

「随分と、彼女達に入れ込んでいるようですね」

「俺の勝手だろ」

 巧はそう吐き捨てて、海堂の手から瓶をひったくって煽る。何度飲んでもビールの苦味に慣れることはない。むしろ苦い気持ちを助長してくる。

「まあ、それはもういい。過ぎたことだ」

 まだ整理できない懊悩を頭の隅に追いやり、巧は更に尋ねる。

「それで、お前らはスマートブレインで何しようってんだ?」

 話題の矛先を変えたことに面食らった顔をするも、琢磨は何かを察したように表情を戻す。

「潰すんですよ。スマートブレインを。私は残りの人生を穏やかに過ごしたいので」

 琢磨の物腰からは考えられないほど物騒な答えだ。理由に穏やかなとか言うものだから矛盾を感じる。とはいえ、その目的が巧と同じであることは確かだ。

「スマートブレインは何を企んでる? 海堂にいくら聞いても教えねえんだ」

「海堂さんに言わないよう指示したのは私です。もし言ってしまえば、あなたはすぐに行動を起こそうとするでしょう?」

「当たり前だ」

 「言わなくて正解でしたね」と琢磨はため息をつく。

「乾さん。海堂さんから応急処置を施されたようですが、あなたの体はまだ危険です。ただ体の崩壊が止まっただけで、もってあと3ヶ月といったところですよ。だから、現時点でスマートブレインの目的を言うことはできません。まずは準備を整える必要があります」

「俺に打った薬のことも言えないのか?」

「ええ。ですが、あなたの命を延ばす方法は存在します。その時が来たら説明しましょう」

 要は、今は無暗に動くな。音ノ木坂学院をオルフェノクから守ることに集中しろ。琢磨の言っていることはそういうことだ。

「代わりと言っては何ですが、スマートブレインが音ノ木坂学院を狙う理由はお話しします」

「ああ、教えてくれ。それも海堂は全然口を割らねえ」

 「海堂さんには難しい話ですからね」と琢磨は苦笑する。当の海堂は煙草に火を点け天井に向けて紫煙を吐き出している。

「スマートブレインとそのグループ企業は3年前に倒産しましたが、それは日本経済において大打撃となりました。経済産業省としても経済の要だったスマートブレインをどうにか再建させようとした動きもあり、政府の援助を受けて会社は小規模ではありますが企業活動を再開させることができたわけです」

「政府はオルフェノクが関わってる会社を手助けしたのか?」

「オルフェノクは未だ社会に認知されていない存在です。警察にオルフェノクの研究機関がありましたが、あれは非公式でしかも何者かによって壊滅させられましたから。それに、政府はオルフェノクの存在を知ってもスマートブレインを援助したでしょうね。恐怖以上に、会社が再開すれば経済が回るのですから」

 「さて、話を戻します」と琢磨は続ける。

「スマートブレインが音ノ木坂学院の廃校を望む理由は、あの土地に会社のオフィスビルを建設するためです」

「オフィスビル?」

「ええ。スマートブレインはまだ小規模な工場しか構えていません。音ノ木坂学院は国立ですから、国有地である学校の敷地は廃校後政府によってスマートブレインに譲渡される手筈になっていたのですよ。ただ――」

「廃校はまだ決定事項じゃなかった。だから確実に廃校にさせようとオルフェノクに学校を襲わせたってことか」

 巧が答えを先に出すと、琢磨は「ええ」と肯定する。

「学校をひとつ潰すほどのもんなのか? そのオフィスビルってのは」

 「それもまだ言えません」とはっきりした口調で琢磨は言う。巧は苛立ちを隠さない。

「まだって、いつなら言えるんだよ?」

「こちらの準備が整ってからです。オートバジン2もカイザMark2も、全てはスマートブレインを打倒するための重要な駒です。物事は順を追って進めなければなりません。まずやるべきことは、あなたの体のことです」

 じれったい。巧は沸々と湧き上がる焦りを認識する。体調は良好だ。ファイズに変身しても灰は零れないし、以前よりも疲れが取れるようになった。今なら十分に戦える。琢磨を脅してスマートブレインの拠点を吐かせたいところだが、巧はその焦りをビールと一緒に飲み込む。

「他に聞きたいことは?」

 琢磨は尋ねる。聞いても教えてくれるのかは疑問だが。

「あの女のことを聞きたい」

「あの女とは、スマートレディのことですか?」

「ああ。奴は何者なんだ?」

 琢磨はしばし逡巡を挟み、パソコンに新しいウィンドウを開き巧に見せてくる。画面には女の証明写真が表示されている。スマートレディと同一人物のようだが、あの派手なメイクをしていないために印象が随分と異なる。どこにでもいる女という印象だ。

「彼女、というより彼女のベースとなった女性です。名前は花形すみれ。スマートブレイン前社長の、花形さんの実娘です」

「花形の?」

「ええ。記録上、彼女は10年前に交通事故で死亡しています。スマートブレインの蘇生オペレーションが施されましたが、肉体の損傷が酷く、当時はまだ技術不足だったこともあり手の施しようがない状態でした。なので損傷の激しい部分は機械で補い、脳の一部と脊髄以外を機械化させてようやくすみれさんは一命を取り留めました」

 だとしたら、彼女は人間なのか。巧が見たスマートレディは仕草のひとつひとつが完璧で、その完璧さがむしろ人間味が無いように感じていた。

 完璧な造形の表情。

 完璧な歩行動作。

 完璧な発声。

 まさに不気味の谷だ。人間に近付こうとしたら、逆に人間味を失ってしまう。

 巧の表情から察したのか、琢磨は少し表情を曇らせて続ける。

「一命こそ取り留めましたが、脳機能を殆ど失った彼女が、果たして花形すみれという人物の意識を保っているのかは分かりません」

 歯切れの悪そうに話す琢磨を見て、巧は彼の表情の真意を悟る。倫理を問われる事実に心を痛めているわけではない。複雑な事柄を素人である巧にどう説明したら良いのか迷っているのだ。

「人間の脳というのはかなりの数の処理モジュールを抱えています。視覚だけでも光や色や形。それらを認識するための各領域がしっかりと働き連動することでようやく機能するのです。細分化していけば、脳の領域は機能別に数百にまで分けることができます。多くのモジュールが生きていることで、意識というものは生成されるということです」

 自分が自分と認識する能力。ものを見て、音を聞いて、思考する。常に五感が機能している人間の脳は外部からの刺激を神経経由で認識・分解することに忙しい。たとえ眠っている状態でも、脳はしっかりと働いている。

「すみれさんの脳は大半の領域が機能を失いましたが、まだ生きているモジュールもいくらか存在しています。しかし、どれほどのモジュールが残っていれば意識があると言えるのか、それはまだスマートブレインの医療技術でも分かっていません」

「じゃあ、奴はもう人間じゃなくて機械なのか?」

「どうでしょうね。彼女は思考に関する領域のほぼ全てを喪失しています。現在の彼女の思考はAIによって賄われていますが、まだ残っているモジュールによって意識が生成される可能性もあるのです。恐らく、花形さんはその微かな望みに懸けたのでしょう。まだ生き残っている脳細胞が、娘の意識を蘇らせてくれると」

「どういうことだ?」

 琢磨はしばし考える素振りを見せて答える。

「例えば失明したとしましょう。もう目が見えなければ、脳の視覚領域は機能する必要はありません。しかし、それでもその領域は働いているという研究結果があります。視覚ではなく、聴覚や嗅覚といった他の感覚のためにね。脳というのは常にフレキシブルに活動しているのです。視覚も聴覚も失ったヘレン・ケラーの脳もまた、フル活動していたんですよ」

 制御する器官を失った脳の領域。すぐに別のモジュール制御へと移行し、細胞総出で絶えず働き続ける。これまで意識や人格を制御していた領域を失った脳は、残りの領域で再び意識を取り戻そうとするのだろうか。意識はモジュールの連合体。だとすれば、それまで制御していた領域とは別の領域で生成される意識は、以前と同じ「自分」と認識できるのだろうか。

「いったい、どれだけの部分が生きていれば意識と呼べるのでしょうね」

 巧にでも海堂にでもなく、琢磨は問う。問いに答える者はなく、ただ虚空へと霧散していくばかり。きっと、これまで明晰な頭脳を持った者がどれだけ問いを続けても答えはなかったのだろう。「自分」を感じ取れる境界線を見出せず、生きているのか死んでいるのかも定かにできない。

「調べることはできなかったのか?」

「これは主体の問題です。彼女自身が決めるしかないのですよ。現時点で言えることは、彼女はスマートブレインに従事せよというプログラムに従って行動していることだけです。それがプログラムの命令なのか、それとも彼女の意識によるものかは彼女にしか知りえないことです」

 誰も決めてくれない。意識があると決めるのは自分自身。現に今、巧が巧の意識で思考し迷いを生じさせているように。もはや医学の問題とは思えない。哲学の問題だ。

「ちゅーか、俺にゃ何のことかはさっぱりなんだけどよ」

 黙って話を聞いていた海堂が口を挟んでくる。黙っていたというより、理解が追いついていなかったのだろう。巧も質問には言葉を選んだ。

「花形もオルフェノクだったよな。オルフェノクなのにガキを作ったのか?」

 「いえ」と琢磨は即答する。巧の質問よりは答えやすいようで、すらすらと言葉を継ぐ。

「花形さんがオルフェノクに覚醒したのは、すみれさんが生まれた後です。そもそも、オルフェノクに子供を作ることはできません」

 「何いっ!?」と海堂は上ずった声をあげる。琢磨はパソコンの画面に新しいウィンドウを立ち上げる。ずらりと文字が並んだそれは研究論文のようだが、難解な専門用語ばかりで理解できない。

「オルフェノクの生殖方法は使徒再生です。人間だった頃の名残として性行為は可能ですが形だけです。人間としての生殖能力は失われています。かつて人間とオルフェノクを交配させる実験も行われました。まだ覚醒したばかりのオルフェノクの女性が人間との間に子を宿した記録はいくつかありますが、全て流産か死産しています」

「何てこった………。ん、待てよ? でも俺様は綺麗なねーちゃん見たらビンビンになるぜ。もうガキは作れねーのに、こりゃどういうこった?」

 海堂は自分の股間を指差して尋ねる。

「人間としての生殖が不可能だからといって、性的欲求が失われたわけではありません。それに関しては面白い研究結果がありましてね」

 琢磨は得意げに説明する。何で海堂の下世話な質問にまで律儀に答えてやるのか眉を潜めるが、巧は黙って聞くことにする。

「オルフェノクが人間に使徒再生を施す際、性ホルモンが多く分泌されることが確認されています。オルフェノクの殺戮衝動は、性欲に似ているんですよ」

「ちゅーことはあれか。オルフェノクは大好きだから人間を殺すってことか?」

「まあ、そういうことです」

 仲間を増やすため、愛故に殺す。巧はあの雨が降っていた夜を思い出す。穂乃果に向けるところだった人間を殺せというオルフェノクの本能。それが性欲だとすれば、あのとき自分は穂乃果に欲情していたということか。

 愛と呼ぶにしてもおぞましい本能だ。でも、同時に巧は悲しくもある。愛を伝えるには殺さなければならない。愛を受け取ってもらえれば同胞になる。でも、愛を拒まれれば相手は灰になる。

 不意にインターホンが聞こえてくる。「お?」と海堂はソファから滑るように降りて玄関に向かう。しばらくして戻ってくると、財布を手に意気揚々と再び玄関へと歩いていった。

「ピザが来た。取ってくるぜ」

 

 ♦

「ライブ?」

 朝のホームルームが終わってすぐ、絵里からことり以外のメンバー全員が集まる屋上へ呼び出された穂乃果はその提案を繰り返す。絵里は「そう」と頷く。

「皆で話したの。ことりがいなくなる前に、全員でライブをやろうって」

「来たらことりちゃんにも言うつもりよ」と希が続く。凛が両腕をいっぱいに広げて言う。

「思いっきり賑やかにして門出を祝うにゃ」

 「はしゃぎすぎないの」と背後からにこが凛の背中に手刀を見舞う。先輩後輩の上下関係など感じさせない戯れを繰り広げる2人の会話は穂乃果の耳孔に入ってこない。穂乃果はじっと床を見据える。

「まだ落ち込んでいるのですか?」

 海未の声が聞こえてくる。「明るくいきましょ」という絵里の声も。

「これが9人の最後のライブになるんだから」

 穂乃果は沈黙を保つ。いつもと違う様子に何かを察したのか、メンバー達にも沈黙が伝染していく。穂乃果はメンバー達の顔に焦点を合わせず、1歩先の床を見つめたままようやく口を開く。

「わたしがもう少し回りを見ていれば、こんなことにはならなかった」

「そ、そんなに自分を責めなくても――」

 花陽が怯えた声色で言うが、穂乃果はそれを強く遮る。

「自分が何もしなければ、こんなことにはならなかった」

 「あんたねえ」とにこが怒気を込めて言う。まだ落ち着きを保っている絵里が諭すように言ってくる。

「そうやって全部自分のせいにするのは傲慢よ」

「でも――」

「それをここで言って何になるの? 何も始まらないし、誰も良い思いをしない」

 「ラブライブだって、まだ次があるわ」と真姫が言う。自分に気を遣ってくれているのが分かる。皮肉を言ってばかりの真姫にそんなことを言わせてしまったことがとても切ない。

「そう。今度こそ出場するんだから。落ち込んでる暇なんて無いわよ」

 怒りを嚙み砕いたにこが不自然な笑顔を繕う。にこはまだラブライブ出場を諦めていない。それは他のメンバーも同じだと分かる。でも、穂乃果にはもうその熱が冷めきっている。

「出場してどうするの? もう学校は存続できたんだから、出たってしょうがないよ」

 「穂乃果ちゃん………」と花陽が何か言いたげだ。でも彼女が何を言ったところで何も変わらない。穂乃果の胸に灯っていた炎は消えてしまったのだ。炎が照らしてくれるものは何もない。ただ真っ暗なものが広がっていく。

「それに無理だよ。A-RISEみたいになんて、いくら練習したってなれっこない」

「………あんたそれ、本気で言ってる?」

 にこが静かに尋ねる。目の前にいる彼女の小さな拳が握られているのが分かる。

「本気だったら許さないわよ」

 穂乃果は無言を貫く。

「許さないって言ってるでしょ!」

 声を荒げたにこは詰め寄ろうとする。でもすぐに「駄目!」と真姫が止めに入って、にこはもがきながらも怒声と飛ばしてくる。

「にこはね、あんたが本気だと思ったから、本気でアイドルやりたいんだって思ったからμ’sに入ったのよ。ここに懸けようって思ったのよ。それをこんなことぐらいで諦めるの? こんなことぐらいでやる気をなくすの!?」

 分かっている。自分の言葉がにこの気持ちを踏みにじるものだと、穂乃果は十分に理解している。

「じゃあ穂乃果はどうすればいいと思うの? どうしたいの?」

 絵里がそう尋ねる。どうすればいいか。どうしたのか。穂乃果にはもう、これしか最善が思いつかない。何もなくなってしまった自分には、もう選択肢はひとつしかない。

「答えて」

 絵里の言葉に従い、穂乃果は答えを述べる。

 

「………やめます」

 

 その言葉にメンバー全員が目を見開く。穂乃果は続ける。簡潔に、明確に、そして空虚に。

「わたし、スクールアイドルやめます」

 驚愕の表情を固定し、動作の一切を止めたメンバー達に目もくれず穂乃果はドアへと歩き出す。誰も引き留める者はいなかった。引き留めるにはまだ理解が追いついていないのかもしれない。穂乃果にとってはどうでもいい。止めたってもう決めたことだし、止めないのならそれに越したことはない。

 不意に腕を掴まれる。何かと穂乃果は気だるげに振り返る。

 屋上に乾いた音が響いた。

 メンバー達の視線が頬を赤く腫らした穂乃果から、腕を振り切った海未へと移る。海未は息を荒げ、掠れた声で言う。

「あなたがそんな人だとは思いませんでした………」

 自分の身に何が起こったのか、穂乃果は頬にじんじんと走る痛みでようやく理解する。

「最低です。あなたは………」

 顔を上げると、海未の目に涙が浮かんでいた。

「あなたは最低です!」




「誰か助けてー!」
『♪♪♪~(Dead or alive)』

 こういう戦闘シーンを書きたく、今回入れてみました。かよちんの「誰か助けてー!」を敵の死亡フラグにしたい………!

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