ラブライブ! feat.仮面ライダー555 作:hirotani
今回より「555」サイドが本格的に介入してきます。1期終盤に入ったところでようやくです。長かったなあ。
火事で両親を失ったのは、巧が9歳の頃だった。
巧はすぐ児童養護施設に引き取られた。資産家として富を得ていた両親の遺産欲しさに親戚達が巧を引き取ると名乗り出たが、巧はその誘いを全て拒否した。
金はやる。だから俺のことは放っておいてくれ。
巧が憮然としてそう言うと、親戚達は喜んで金を受け取ったらしい。らしいというのも、親戚のなかで巧に会いに来る者はひとりもいなかったからだ。財産の譲渡も親の顧問弁護士を通じてやり取りされていた。目的は金で自分のことなんてこれっぽっちも気に掛けていない。そんな大人の邪な欲望を子供ながらに巧は感じ取っていた。
施設での生活は実家と比べたらかなり質素だったが、巧はそれなりに気に入っていた。施設にはたくさんの子供達が暮らしていて、彼等と同じ境遇の巧はすぐに受け入れられた。
だが巧が施設に馴染んでいくにつれて、子供達の間でいじめが起こっていることを知った。いじめられていたのは、巧と同い年の少年だ。他の子供達は少年を殴り蹴ることは勿論、芋虫を食べるよう強要し泥の水溜りに顔を埋めさせた。
いじめられていた少年は、他の子供達とひとつだけ違うところがあった。少年は施設のなかで唯一、肉親のいる子供だった。少年は事故で両親を失ったが、父親の弟、即ち叔父が頻繁に会いに来ていた。経済面や住む家など、まだ子供だった巧には理解できない事情が重なり、少年の叔父は甥を引き取る余裕がなかった。代わりとして少しでも寂しい思いをさせまいと少年に会っていたのだろう。施設に暮らす子供の大半は天涯孤独だ。子供達は肉親がいる少年に嫉妬していたのだ。だから少年を痛めつけることで、寂しさを紛らわそうとしていた。
少年はいじめの全てを享受した。暴力を振るわれても抵抗せず、言われるがままに蠢く芋虫を食べ、泥水を啜った。まるで自分を罰しているようだった。皆が決して味わうことのできない幸福を得ている自分を。
巧は少年を庇った。そうしなければ、あの火事で見ず知らずの少女を助けた事実が消滅してしまうような気がした。もし少年を見捨ててしまえば、あの少女を裏切ることになる。少年を庇った巧もいじめの標的にされた。巧は臆すことなく抵抗した。殴られれば殴り返し、虫を食べるよう強要する手をはねのけて虫を踏み潰し、掬った泥をいじめっ子達の顔に投げつけた。
巧といじめっ子達の攻防戦が職員に知られることはなかった。子供というのは残酷で狡猾だ。いじめは職員の目の届かないところで繰り広げられていた。いじめっ子達が少年に怪我をさせても、また巧がいじめっ子達に怪我をさせても転んだと嘘をついた。巧に暴力を振るわれて怪我をしたと告げ口すれば、巧もまた子供達が少年をいじめていると告げ口する。その構図を施設の子供達は理解していた。誰が言うまでもなく、守秘は子供達の間で暗黙のルールになっていた。
その日が何月の何日でどんな天気だったか、巧は覚えていない。同じことが繰り返される日々を送れば、余程の出来事がない限り無駄な記憶として忘却へと処理されていく。その日に起こったいじめも、巧にとっては日常の出来事だった。
いつものように巧が少年を守るためにいじめっ子達と戦っていたとき、いじめっ子のひとりが振り回す木の棒が巧の額を打った。かすり傷だったが、血液が多く通っている巧の額からは血が噴き出し絶えず顔へと垂れ続けた。勇敢に戦った巧は膝をつき、邪魔者はいなくなったと子供達はうずくまる少年を囲んでサッカーボールのように蹴り始めた。
やめろ、と巧は立ち上がって叫んだ。それと同時に、巧の体は灰色の異形へと変貌した。自分の体の変化に気付かなかった巧は大人にも勝る筋力で子供達を殴った。子供達の体は巧の拳に生えた棘で傷つき血を流した。暴力を楽しんでいた子供達の顔が恐怖で歪み、なかには失禁する者もいた。いじめっ子達が逃げ出してようやく、巧は自分の変化に気付いた。それが、巧が初めてオルフェノクに変身したときだった。
興奮が冷めると、灰色だった巧の肌は瑞々しい人間の皮膚に戻った。巧は腰を抜かす少年に手を差し伸べたが、少年は巧の手を取らず化け物と叫んで逃げていった。
子供達は職員に巧のことを話した。
あいつは化け物だ。
殺される。
あいつを施設から追い出してよ。
口々にはやし立てる子供達のなかには少年もいた。子供の戯言と信じてもらえなかったが、いじめを知らない職員は巧が子供達を一方的に殴ったと結論付けて叱った。何故殴ったのか理由を聞かれた巧はいじめのことを話した。でも信じてもらえなかった。いじめっ子達は当然のこと、いじめの被害者だった少年まで否定した。職員は嘘をついたと更に厳しく巧を叱った。
その日を境にいじめはなくなった。いじめっ子達は大人しくなり、少年は穏やかに過ごした。巧も静かな日常を得ることはできたが、静かというよりは沈黙の日常だ。巧の正体を知った子供達は誰も巧に近付こうとせず、決して触れられないよう距離を保った。皮肉なことに、巧に対する恐怖と偏見がいじめを解決してしまった。
ほどなくして少年は叔父に引き取られた。他の子供達は成長と共に絆を深めていったが、それに比例して巧の孤立は更に深くなっていった。新しく入所してきた子供に、過去に起こったいじめのことを知る子供達は巧に近付かないよう教えていた。彼等にとって巧は怪物だ。子供達は怪物と暮らしていると怯えていたのだ。
施設には18歳までいられるのだが、巧は中学を卒業した15歳の頃に施設を出た。高校には進まず働く。働きながら旅に出ると職員に告げた。職員は高校に進学することを強く勧めた。今時中卒で働き口は見つからない。学費のことは心配しなくていいから高校に行ったほうがいい。そう職員から言われたが、巧の決意が揺らぐことはなかった。
疲れたのだ。
そのことに気付いたのは施設から荷物をまとめて出た日だった。共に過ごした子供達のなかで、見送りに来てくれた者はいなかった。それにどこか清々しさすら感じた。自分の正体を知り、常時監視される猛獣のように扱われる暮らしに疲れ果てた。誰も自分を知らない場所へ行きたい。贅沢を言うなら、誰もいない場所へ行きたい。
そこに行けば、やりたいことが見つかるかもしれない。夢が見つかるかもしれない。
そうして巧は旅に出た。目的地の定まらない旅だ。
♦
お構いなしに鳴くセミの声が耳をつんざく。はた迷惑だがセミも必死なのだろう。成虫になったら数日の命だ。早く交尾をして子孫を残すのに躍起になっているに違いない。短い命。オルフェノクと似ている。セミに奇妙な親近感を覚えながら、巧は目を覚ます。
厚手のカーペットが敷いてある分まだ良いのだが、それでも布団よりは寝心地が悪い。体に残る倦怠感が寝床のせいか、それとも自分の体のせいかは判断が難しい。
まだ夜だ。陽が射してこないのに蒸し暑くてたまらない。ビニールシートで作られたテントが湿気を閉じ込めている。湿度が高いせいか臭気も強い。原因は明らかに巧の隣で寝ている老人だ。肌は吹き出物だらけで、黒髪が微かに混ざった白髪と髭は伸び放題で艶がない。空いた口から覗く歯は殆どが虫歯で真っ黒になっている。この老人の体にこびりついた垢が酸化して、この鼻をつく臭気を放っている。とはいえ贅沢は言えない。行き場をなくした巧をこの老人は快く迎えてくれたのだから。
彼女らに正体が知られたあの日。巧は西木野家の別荘に戻ることなく東京への帰路についた。財布と鍵と携帯電話を持っていたのは幸いで、何食わぬ顔で新幹線に乗った。寝巻のままだったから周囲の視線を感じはしたが、巧は面の皮厚くシートにふんぞり返った。乗客達の視線など、彼女らのものに比べたら何てことはない。
東京に戻ってからしばらくの間はネットカフェで寝泊まりする生活を送っていたのだが、とうとう財布が寂しくなり、巧はホームレス達の集落になっている公園に身を寄せた。ホームレスは良心的だ。巧の事情について何も聞かずに受け入れてくれた。過去を聞くことは社会から疎外されたホームレスにとってタブーらしい。過去は本人の口から出なければ明かされることはない。だから巧も自分のことは名前以外何ひとつ話していない。
「兄ちゃん、ひどくうなされてたぞ」
起こしてしまったのか、老人がそう言ってくる。最近、眠りから目を覚ます度に心配されている気がする。昔の記憶を夢に見るときは、巧が忘却を求めているときだ。脳から捨て去りたいという願いに反して記憶は否応なしに夢として現れる。
「いつものことだ。ちょっと出てくる」
ビニールシートを暖簾のように捲ると、「気を付けてな」という老人の声が聞こえた。
外に出れば少しは良い空気を吸える。とはいえ、満足に風呂も入れないホームレスが集まる公園一帯に臭気は充満しているのだが。この集落で暮らして数週間。巧も彼等と同じ臭気を纏っているのかもしれない。ふっと無意識に乾いた笑みが零れる。薄汚い自分にはお似合いの匂いだ。ずっと着ている寝巻も泥や汗の染み、そして灰にまみれている。啓太郎に見られたら小言を言われるだろう。
巧は街灯がおぼろげに照らす夜道を歩いた。ふらふらと力の入らない脚を動かし、見慣れた道に出ていく。昼間は人が行き交っていた道も夜になれば雰囲気が変わる。寝静まった街を歩き、どれくらい歩いたのかも分からない頃に巧はそこに辿り着く。
木板に書かれた「和菓子屋 穂むら」の文字。灯りの点いていない家の前に1台のバイクが佇んでいる。巧はハンドルに掛けてあるヘルメットを被り、オートバジンに鍵を差し込んでエンジンをかける。長い間乗っていないが、エンジンの調子は良い。流石はスマートブレイン製のマシンといったところか。
巧は2階の窓を見上げる。家の住人はバイクの音になど気付かず寝ているようだ。合宿の2日目はしっかりと練習しただろうか。凛が楽しみにしていた花火はできたのだろうか。あの合宿で彼女らに得るものがあることを巧は願う。
もう2度と戻ることはないだろう。借りた部屋に放置したままの荷物は処分してくれても構わない。そう思うと寂しさがじわりと胸の奥で広がっていく。それを払い落とすように巧はアクセルを捻りオートバジンを走らせる。
ホームレスの集落を目指す道中、巧の視界に人影が入り込む。街灯の光で道路に落ちた影は青白い人の形を成していて、影の主人は影とは全く異なるシルエットを形成している。その影の前で女が腰を抜かしている。恐怖のあまり動けずにいる。
巧はオートバジンを停めて降りる。巧に気付いたカマキリタイプのオルフェノクが睨んでくる。巧は闘争の衝動を湧き上がらせた。呼応するように体がウルフオルフェノクへと変貌していく。
マンティスオルフェノクは少しだけ灰色の目を見開くも、すぐに両腕に携えた鎌を逆手に構える。ウルフオルフェノクは跳躍し、マンティスオルフェノクの背後へと回り込む。マンティスオルフェノクは鎌を振りかざしてきたが、それが触れるよりも早く、ウルフオルフェノクの尖爪に胸を貫かれる。青い炎が燃え上がった。近くで腰を抜かしたままの女の顔が照らされる。炎はすぐに消えて、マンティスオルフェノクは灰になった。一拍遅れて女が悲鳴をあげる。脚がもつれながらも暗闇のなかへ走り去っていく彼女をウルフオルフェノクは追うこともせず、巧の姿へ戻る。悲鳴を聞きつけて人が集まってきたら面倒だ。そう思い巧はオートバジンに跨って走らせる。
東京に戻ってからも巧はオルフェノクと戦い続けている。スマートブレインの回し者か、ただ力に溺れた者か。そんなものは問答無用に、しらみ潰しにオルフェノクを見かけたら巧は戦った。今の巧では体力の限界が近い。だから直接的な戦闘は避けて、物陰か闇夜に隠れて奇襲を仕掛けることが多い。
もう何体のオルフェノクを灰にしてきたか。数えるのも面倒になってやめてしまった。いくら倒しても、スマートブレインの動向とファイズギアを奪ったコンドルオルフェノクの行方は掴めない。巧は焦りを感じずにはいられない。その焦りが巧を同族殺しの非道な怪物へと変えていく気がする。さっきのマンティスオルフェノクも、まだ人としての心が残っていたかもしれない。ついかっとなっていただけなのかもしれない。
でも、と巧は良心を押し殺す。迷っていられる時間はもう残されていない。体から零れる灰の量も多くなっている。
ファイズに変身できなくても巧のやるべきことは変わらない。たとえ彼女らに拒絶されようと、彼女らの夢を守るために戦うだけだ。だからスマートブレインを早く見つけ出して根絶しなければならない。
同族殺しの罪を被ったとしても、巧の存在が消滅してしまえば罪も罰もすべて灰と共に流れていってくれるだろう。
♦
夏休み後の新学期を迎えて、μ’sは更なる盛り上げを見せている。ラブライブの出場枠決定を2週間後に控え、μ’sは19位にランクインした。出場枠である20位圏内にぎりぎり入り込んだことでメンバー達の士気も高まっている。だが油断はできない。ランキングは常に変動する。他のスクールアイドルもラブライブ出場に向けて追い込みに必死だろう。即ち出場が叶うかもしれないこれからが本番ということだ。
学園祭。
最後の追い上げに絶好の機会として、μ’sの活動は勿論ライブの開催だった。講堂はくじ引きに外れて使えないということで、練習場の屋上にステージを設営してライブをするという形に落ち着いた。メンバー達は手堅くこれまで発表してきた曲の歌唱やステップを磨くべく、練習に励むという流れだったのだが。
「え、曲を?」
部室での打ち合わせの席で、穂乃果からの提案を絵里が反芻する。穂乃果は「うん」と応え、続ける。
「昨日真姫ちゃんの新曲聴いたら、やっぱり良くって。これ、1番最初にやったら盛り上がるんじゃないかなって」
「まあね。でも振付も歌もこれからよ。間に合うかしら?」
「頑張れば何とかなると思う」
絵里の問いに穂乃果は迷うことなく答える。不安に思った自分に呆れて、絵里は苦笑を浮かべる。単純でしかも不明瞭だが、μ’sはこれまで穂乃果が牽引する勢いに任せてやってきたのだ。だから、根拠はなくても大丈夫と思えてしまう。
「でも」と海未が口を挟む。
「他の曲のおさらいもありますし」
「わたし、自信ないな……」と花陽が続く。それでも穂乃果の勢いは止まらないようで。
「μ’sの集大成のライブにしなきゃ。ラブライブの出場が懸かってるんだよ」
「まあ確かに、それは一理あるね」と希が。「でしょ?」と穂乃果は嬉しそうに言葉を受け取る。
「ラブライブは今のわたし達の目標だよ。そのためにここまで来たんだもん」
「ラブライブ」とアイドルへの情熱が強い花陽が呟く。
「このまま順位を落とさなければ、本当に出場できるんだよ。たくさんのお客さんの前で歌えるんだよ」
穂乃果は立ち上がる。メンバー達を見渡して続ける。
「わたし、頑張りたい。そのためにやれることは全部やりたい。駄目かな?」
数瞬の沈黙の後、絵里が「反対の人は?」とメンバー達に尋ねる。誰も異を唱える者はいない。「だって」と絵里は穂乃果を見上げる。
「皆……、ありがとう」
メンバー達は少し呆れたような、でも嬉しそうに笑みを零している。これでこそμ’sだ。そんな雰囲気が部室を満たしている。
「ただし、練習は厳しくなるわよ」
「特に穂乃果」と絵里は念を押す。
「あなたはセンターボーカルなんだから、皆の倍はきついわよ。分かってる?」
「うん」と穂乃果は強く答える。
「全力で頑張る!」
♦
夕方の神田明神は西日を受けて社殿の朱色をより深くしている。練習後の疲労を感じながら、絵里は同じ量の練習をこなしながらも石畳を箒で掃く希に尋ねる。
「いつまで続くのかしら?」
「何のこと?」
「分かってるくせに」と絵里はとぼける希に目を細める。
「……巧さんのことよ」
あの合宿の日から、メンバーの間で巧の名前を誰ひとり口にしていない。まるで最初からいなかったように、彼のことを忘れようとしているかのように。絵里は虚無感を拭えない。μ’sが何かするとき、いつも傍には巧がいた。いつも不機嫌そうな顔をしていたが、最後まで付き合ってくれていた。
でも、その全てが質の悪い夢だったのではと思えてしまう。合宿先のビーチで見た、彼の姿を見てしまってから。
「皆、きっと無理してる。正直、わたしも信じたくない。巧さんがオルフェノクだったなんて」
「その割に、エリちは落ち着いてるよね」
「これでも混乱してるわよ。でも、辻褄が合うような気がするの。何でわたしと海未がファイズに変身できなくて、巧さんができたのか」
ベルトの力を使いこなす資格。それは絵里にも海未にもなかった。なのに、巧とコンドルオルフェノクの男には資格があった。それが何故か。巧の正体で全てが合致する。全てがあるべきところに埋まり、物事をひとつの結論へと至らせる。
「巧さん言ってたわよね。ベルトはオルフェノクの王を守るために作られたって。きっと、ベルトはオルフェノクが使うために作られたんじゃないかしら?」
絵里の推理を聞いていた希はふと石畳に視線を落とす。夕陽を受けていた顔に影が落ちる。
「通りで、何で自分が変身できるか言わなかったわけやね」
「希は知ってたの? 巧さんのこと、特別だって言ってたけど」
希はかぶりを振る。
「何となく、巧さんが普通じゃないってことは感じてた。でも、オルフェノクってことまでは………」
しばしの沈黙を経て、希は笑顔を向ける。でも、それが繕った笑みであることに絵里は気付いている。
「ごめん、うちも混乱してる。これからどうすればいいのか、さっぱり分からないやん」
巧は姿を消し、ファイズギアも敵に奪われた。μ’sと音ノ木坂学院を守る者はいない。オルフェノクはあの合宿の日から現れていないが、その静寂が更に不安を助長していく。三原に応援を求むという選択肢もあるが、デルタに変身できる彼もまたオルフェノクかもしれない。
オルフェノクが敵として現れ、自分達を守ってくれていたファイズもまたオルフェノクだった。自分達はオルフェノクによって守られていた。この真実をどう捉えれば良いのだろう。感動的な英雄譚としてか、おぞましい悲劇としてか。
「何が最善かは分からないけど、今は目の前のことに集中しましょう。時間が解決してくれるとは思えないけど、それでも悩んでいるよりはずっと良いわ」
「長続き、すると思う?」
的確な希の問いに絵里は答えることができない。希は続ける。
「遠くないうちに限界が来るよ。特に穂乃果ちゃんは」
「………分かってる」
ここ最近の穂乃果の頑張りは目を見張るものがある。メンバーのなかで最も精力的と言っていい。海未によると毎日遅くまでランニングをしていて、睡眠時間も少なくなっているらしい。今日の練習でも徹夜で考えた新しいステップを提案し、脚が動かないとごねるにこを無理矢理立たせていた。いつもとは立場が逆転していた。完全に穂乃果の思考はライブのことが大半を占めている。
まるでライブのこと以外は考えたくないかのように。
でも、穂乃果に現実を見ろだなんて非情なことは言えない。学園祭が近い今、練習に励むことは良いことだし、ライブに集中することで巧を思考の外へ追いやろうとしているのは絵里も同じだ。
絵里はビルの影に隠れようとしている夕陽を眺める。暗くならないうちに帰らなければ。自分達は学校の名を背負うスクールアイドルだ。どういうわけか、廃校を望む彼等に狙われやすい。
絵里はぼそりと呟いた。
「一番辛いのは穂乃果よね」
♦
「ちょっと走り込み行ってくる」
ランニングウェアを着て廊下を足早に歩く穂乃果に、居間で問題集とノートを広げる雪穂は「ええ?」と漏らす。普段ならお茶を飲みながらだらだらしている時間帯だ。
「夜も練習するの?」
穂乃果は「うん」と明朗に答える。ここ最近は帰りが遅いと思っていたが、ここまでの頑張りを見せる姉に雪穂は日常との乖離を覚える。
「やり過ぎよくないよ。いつも無理するんだから」
「大丈夫。自分が誰よりも頑張って、ライブを成功させなきゃ。自分がやるって言いだしたんだから」
そう言って穂乃果は玄関へ行ってしまう。すぐに引き戸の動く音が聞こえる。普段はだらしないが、こういう発起したときの姉は頼もしい。普段の態度から、雪穂がそのことを口にすることは絶対にないが。
「あまり切り詰めないといいけど」
そう言いながら母が冷たい麦茶を出してくれる。「ありがとう」とコップをすすりながら、雪穂は小休止にシャーペンを置く。
「雪穂も文化祭行くのよね?」
「うん。亜里沙に誘われてね」
「誘われなくても行くんじゃないの?」
いたずらに笑う母の視線が、ノートと問題集に隠れるように置かれた音ノ木坂学院のパンフレットに落ちる。雪穂はそれをノートの影に隠す。
「お姉ちゃんには言わないでよ」
「はいはい」と笑って、母は自分のコップを啜った。
「それにしても、巧君いつ帰ってくるのかしら?」
「さあ。用事があるってお姉ちゃん言ってたけど」
巧はもう1ヶ月も家を空けたままだ。客間に置かれた彼の荷物がほこりを被り始めている。そもそも、しばらく家を空けるのに何故荷物を置いたままにしたのか。穂乃果が合宿から帰ったとき、巧のバッグまで持ってきた。巧は殆ど荷物を持たずに出掛けたというのか。
「何だか寂しいわよね。洗濯物が溜まって困るわ」
「乾さんが来る前にやってたことじゃない」
「雪穂だって、巧君にアイロンがけ頼んでたでしょ?」
「だって」と言う雪穂は耳が熱くるのを感じる。
「上手なんだもん。乾さん」
「そうね」と母は笑みを崩さない。母は、まるで息子のように巧を慕っている。あんな無愛想な男のどこに気に入る面があるというのか。もっとも、雪穂も分からなくはないが。
「アイロンがけが上手な人に悪い人はいないものね」
「お姉ちゃんも言ってたよ、それ」
♦
夜がすっかり更けている。街灯が弱く照らす夜道に巧はオートバジンを走らせる。夕方の帰宅ラッシュを過ぎると、車の通りは殆どない。
ホームレスは昼間、大半が住処を空ける。食糧や金になりそうなものを探しに街へ出るのが主な目的だが、監査に来る区役所の職員から逃れるためだ。行政とまともに争ったところで、社会的弱者のホームレスに勝ち目はない。だから職員が来る昼間は集落にいてはいけない。
そのことを入居初日に言い聞かされた巧は、その日もオートバジンで街を適当に走っていた。腹は減っているが、流石にごみ箱を漁る気はしなかった。ファーストフード店の外に置いてあるごみ箱は食糧庫だとホームレス達は言っていたが、巧にとっては生ごみだ。猛暑は過ぎたがまだ残暑が厳しい。熱に晒されてあっという間に腐っている。それに、食べようが食べまいが長くない。ごみを食べてまで生きようとは思えない。
集落に到着した巧はゆっくりとオートバジンのシートから降りる。恐ろしく静かだ。老人が多いから夜に大騒ぎする連中ではないが、物音ひとつしない。よく見ると、ビニールシートのテントや段ボールの小屋が所々で崩れている。元々不格好だから毎日見ていないと分かり辛い変化だ。巧の踏み出した足底に布の感触がある。視線を落とすと灰にまみれた服が落ちている。
「おい!」
巧は夜の静寂に呼びかける。返事はない。雲の切れ間から月が顔を出した。地面に散乱した衣類や靴が月光に晒される。衣類には全て灰が積もっている。「う………」と呻き声が聞こえて、巧はその方向へ視線を向ける。公園に植えられた樹に、巧を迎えてくれた老人が背中を預けている。
「おい、何があった?」
巧は老人に駆け寄る。老人は巧を見て安堵の表情を浮かべる。
「兄ちゃん………。鳥だ。でかい鳥が飛んできて――」
最後まで言い切る前に、老人の唇がひび割れた。唇だけでなく顔全体に、巧の肩を掴む手に亀裂が広がり、そして崩れていく。老人の体は砂煙をあげて消滅した。その体を構成していた灰と残った彼の服が巧の膝に落ちた。
巧はすぐオートバジンに跨ってエンジンをかける。フルスロットルでアクセルを捻り、夜の街へとバイクを走らせる。ぽつりと雨が降ってきた。雨音は強くなり、巧の体をあっという間に濡らしていく。
奴はどこに行ったのか。見当もつかないまま街を走ると無意識に知っている道を通ってしまう。巧が神田明神へ辿り着いたのは何かに引かれてなのか。そびえ立つ社殿を見て、自分はまだ彼女らを求めているのかと苛立ちを募らせる。
巧はオートバジンを停めてヘルメットを脱ぐ。唯一濡れていなかった頭に容赦なく雨が落ちてくる。社殿をしばらく眺め去ろうとしたとき、巧の視界に人影が入り込む。余程の物好きなのか。この雨の中ランニングウェアのフードを被って階段を駆け上がってくる。見たところ女のようだ。向こうも巧に気付いたらしく、立ち止まってこちらにフードに隠れた顔を向けている。雨が強すぎて顔がよく見えない。
しばしその場で対峙したように立っていると、2人の間に空から一筋の影が降り立った。人に近いシルエットだ。でもそれが人でないことに巧は気付く。エリマキトカゲに似たオルフェノクを見て、ランニングウェアを着た女は階段へと引き返す。フリルドリザードオルフェノクの両手に剣と盾が現れた。
巧は駆け出す。全身の筋肉を灰色に変えて、ウルフオルフェノクに変身すると跳躍した。フリルドリザードオルフェノクの前に立ちはだかり、拳をその顔に打ち付ける。フリルドリザードオルフェノクが振り下ろした剣を肩の尖刀で防ぎ、手首を蹴り上げて盾を弾く。敵を羽交い絞めにしたウルフオルフェノクを街灯が弱く照らしている。石畳に落ちた影が巧の形を成す。
「逃げろ!」
叫ぶように言うが、階段を途中まで降りていた女は立ち止まったまま逃げる気配がなく、ウルフオルフェノクを凝視している。フードがはだけているが、視界が揺れるせいで焦点が定まらない。
ウルフオルフェノクは敵の剣を掴んだ。刀身を掴んだせいで掌から灰が零れ落ちる。フリルドリザードオルフェノクの手首を肘の尖刀で斬りつけ、腹に蹴りを見舞い引き剥がす。剣を持ち直したウルフオルフェノクは敵に次々と創傷を刻み付けていく。同族意識などかなぐり捨て、容赦なく。
ウルフオルフェノクの突き出した剣が、フリルドリザードオルフェノクの大きく空いた口へと滑り込む。咥内を突き破った刀身が延髄から突き出す。刺したまま剣を捻ると、敵の顎が上下に引き千切れた。石畳に頭がごろんと転がり、下顎以外の頭部を失った体が力なく倒れる。その体はほどなくして青く炎上し消滅していく。ウルフオルフェノクの握る剣も、青く燃えて灰になっていった。
ウルフオルフェノクは振り返る。女はまだ逃げていない。視界が安定し女の顔に焦点が合うと、ウルフオルフェノクの脚が地面に固定されたかのように動かなくなる。フードがはだけ、雨に濡れた彼女の片方だけ纏めた髪がしなびたように垂れている。
「穂乃果………」
ウルフオルフェノクの影から巧が呼びかける。穂乃果はその場に立ち尽くしたままだ。無意識にウルフオルフェノクはゆっくりと歩み寄っていく。胸の奥から湧き上がる衝動が体を動かしているようだ。
彼女に触れたい。
彼女の柔らかい肌を力いっぱい抱きしめたい。
彼女の心臓を青く焼き尽くしてやりたい。
これまで押し殺してきた衝動に意識が覆われてしまいそうになる。まだかろうじて留めている理性で、ウルフオルフェノクは歯を噛んだ。激しく打っていた脈が静まっていく。それに伴い、灰色の肌が昔日の形と色を取り戻していく。
巧は背を向けた。あのときと同じように、穂乃果は巧の名前を呼んでくれない。邪魔するものもなく、オートバジンに乗った巧は宵闇へと走り出す。
胸が張り裂けそうだった。むしろ張り裂けてほしい。穂乃果、ひいてはμ’sは守るべき存在だった。彼女達の夢を守りたい。その想いこそが、巧が人間の心を持っていることの証明だった。でも、さっきの巧は違った。彼女にオルフェノクへの進化を促す儀式を施したいという衝動。あれは紛れもなく乾巧としてではなく、オルフェノクとしての欲求だった。人間を殺せというおぞましい本能。自分よりも弱い種を蹂躙しようとする衝動に飲み込まれてしまいそうだった。
巧は唇を噛んだ。強く噛み過ぎて血が滲み、咥内に鉄臭い味が広がっていく。何でもいいから痛みが欲しかった。
痛みを感じるという、人間としての証明を。
♦
携帯電話を握りしめながら、海未は雨を降らす夜空を見上げる。明日は学園祭でライブの本番だというのに。雨と伝える天気予報は外れてほしいが、今夜ばかりは降ってもいいと思える。ライブに向けて夜遅くまでランニングをしている穂乃果も、流石に雨のなか走ることはしないだろう。さっきも電話口でくしゃみをしていたし、今夜はしっかりと休養を取ってもらわなければ。
でも、と海未は不安を拭えない。一度火が点いた穂乃果を止める術がないことは知っている。海未とことりがいくら止めても巻き込まれていく。それが良い方へ向くこともあれば、悪い方へも向いてしまう。
やはり、今の穂乃果にことりのことを相談するのは間違いだっただろうか。新学期が始まってからというもの、ことりの様子がおかしい。しっかりと練習に参加しているのだが、どこか上の空だ。曖昧に笑ってばかりで、時折口を固く結んでいるのを何度か見かけた。穂乃果はライブに向けて気持ちが昂っているだけと言っていたが、それならばもっと練習に集中するはずだ。
何か悩んでいるに違いない。ことりのことだ。ライブに向けて張り切っている穂乃果に気を遣い言い出せずにいるのだろう。海未も弓道部の練習に出なければならないから、あまり話せていない。学園祭が終わった後でいい。一度話してみよう。
そう思うも、それが正しいことなのか海未は迷う。正しいことに違いないのに、自分の判断に迷ってしまう。あの日からずっとそうだ。自分の判断や言動に自信が持てないのは。あの日、巧がμ’sの前から姿を消したきっかけは、紛れもなく海未の放った言葉だ。海未が巧を拒み、その言葉の通り巧は消えてしまった。「来ないで!」という言葉は咄嗟に出たものだ。あのとき見た巧の姿は、海未が恐れるオルフェノクそのものだった。だから海未は拒絶してしまった。巧が、オルフェノクが怖いから。オルフェノクに穂乃果やことり、他のメンバー達の近くにいてほしくないから。
自分の抱く恐怖は間違っているのだろうか、と海未は疑問を抱く。オルフェノクは恐れるべき存在だ。人間を襲い、音ノ木坂学院を狙っている。
なら巧はどうか。海未は自分自身に尋ねる。自分達の夢を守ると宣言し、同族であるオルフェノクと戦ってきた巧を拒絶して良いものだろうか。もしかしたら、自分はとんでもない言葉を言い放ってしまったのかもしれない。
雨音に混じって携帯が着信音を鳴らす。穂乃果が何か言い忘れたのだろうか。そう思いながら液晶を見ると、着信はことりからだ。通話ボタンを押して携帯を耳に当てる。
「ことり?」
『……海未ちゃん、わたし………』とことりの弱々しい声が聞こえてくる。雨音のせいで、耳を澄まさなければかき消されそうだ。
『あのね……、実は………』
♦
「すごい雨………」
「お客さん、全然いない………」
土砂降りの雨に打たれる屋上をドアから見て、凛と花陽が不安そうに言う。雨は昨晩よりも強くなっていて、床に溜まった雨水は排水口にも収まりきらず縁から溢れていく。
「この雨だもの、しょうがないわ」
冷静に真姫が言うも、納得していないことはまなじりがいつもより吊り上がった目から察しがつく。学園祭、しかもラブライブ出場をかけたライブ当日としては最悪の天気だ。
「わたし達の歌声で、お客さんを集めるしかないわね」
険しい顔で絵里はそう言った。ライブ直前になって場所を変えるなんてこともできない。簡易だが屋上にはステージが設営されている。雨音をかき消すほどの歌声で客を集める。それしか方法はない。メンバー達に異論はなかった。
全校生徒で取り組む祭典というだけあって、飾りつけに彩られた校内は賑わっている。それぞれのクラスや部活動で決めた出し物が執り行われている。生徒、教師、学外の客問わず皆が一時の祭りを楽しんでいた。
「おはよー………」
メンバー達が衣装に着替え終わった頃、気の抜けた挨拶をして穂乃果は部室に入ってくる。
「穂乃果」、「遅いわよ」と海未とにこが嗜めるような口調で言う。穂乃果が遅刻することは珍しくないのだが、こんな大切な日にまでとは。
「ごめんごめん。当日に寝坊しちゃうなんて」
そう言って歩く穂乃果の足取りはおぼつかない。すぐに自分の足につまずいて近くにいたことりにもたれ掛かる。よく見れば顔が赤い。髪の結び方もいつもより雑だ。
「穂乃果ちゃん、大丈夫?」
「ごめんごめん」
絵里が異変に気付く。
「穂乃果、声がちょっと変じゃない?」
「え、そうかな? のど飴舐めとくよ」
穂乃果の声はしゃがれている。明らかに風邪だ。まさか、昨晩雨のなかランニングをしていたというのか。こんな足取りで踊れるのか。そんな声で歌えるのか。心配はしても、海未に止める勇気はない。穂乃果はセンターボーカルだ。ダンスの振り付けも他のメンバーと違う部分があるし、今更誰かが代わるわけにもいかない。それに、メンバーのなかで穂乃果が1番楽しみにしていたライブだ。
穂乃果が着替えて、メンバー達の準備は整った。それに伴い雨は更に強くなっている。メンバー達の表情が曇り、口々に不安を述べている。
「やろう」
それでも、穂乃果は言う。
「ファーストライブのときもそうだった。あそこで諦めずにやってきたから、今のμ’sがあると思うの」
メンバー達のなかで最もコンディションが悪いはずなのに、穂乃果の調子はいつもと同じだ。
「だから皆、行こう!」
皆の表情から少しだけ陰が取れた。これくらい無茶なほうがμ’sらしい。花陽が「そうだよね」と切り出す。
「そのためにずっと頑張ってきたんだもん」
「後悔だけはしたくないにゃ!」
凛が続き、次に絵里が。
「泣いても笑っても、このライブの後には結果が出る」
希と真姫が張り切った声で言う。
「なら思いっきりやるしかないやん」
「進化したわたし達を見せるわよ」
にこがガッツポーズしウィンクする。
「やってやるわ!」
メンバー達の活力は最高潮に達している。彼女らとの温度差が激しいことりに海未は声をかける。
「ことり」
「あ、ごめん……」とことりは曖昧に笑う。ライブが終わった後に自分から話すと言っていたが、それでことりの肩の荷は降りるのだろうか。何はともあれ、今はライブを最優先すべきだ。ことりのことも、巧のことも、一旦今は思考から外さなければ。
「今はライブに集中しましょう。せっかくここまで来たんですから」
「うん」とことりは頷く。やはり、その笑顔は曖昧だった。
メンバー達が屋上へ向かうと、それなりに多くの観客が集まっている。音ノ木坂の生徒が大半だが、なかにはセーラー服を着た中学生も混ざっている。姉の姿を見ようと、雪穂と亜里沙も傘をさしてライブが始まるのを待っている。
ステージに立ち、簡単な口上を終えていよいよ曲が始まった。頑張ればきっと大丈夫。メンバーの誰もがそう思いながら踊り歌う。穂乃果もしっかりとステップを踏んでいる。杞憂だったとメンバー達は最初から最後まで、新曲ということもあって全力で踊った。
1曲目のフィニッシュが決まり2曲目へ。次の配置につこうとしたときだった。
「穂乃果!」
海未が呼びかける。曲が終わったと同時に、穂乃果はステージ上で倒れた。観客の目の前で。まさか。そう思うと同時に海未のなかでもうひとつの判断が浮かび上がる。
当然だ。
歩くのさえままならないのに歌って踊るなんて無謀すぎたのだ。穂乃果のことだから気力で乗り越えられるだろうと浅はかな判断を下した自分を戒めたい。本人が嫌がろうと、無理矢理にでも休ませるべきだった。何のために自分が近くにいたのか。
「お姉ちゃん!」と観客の中から雪穂が傘を放って飛び出してくる。
「穂乃果、大丈夫?」
絵里が穂乃果の体を起こそうと体に触れる。絵里は驚愕のあまり息を飲んだ。
「すごい熱」
海未とことりが呼びかけても、穂乃果は返事をしない。その唇が微かに動いていることに海未は気付く。
「つ、次の曲………」
雨音にかき消されながらも、穂乃果は懸命に声を絞り出している。
「せっかくここまで……、来たんだから………」
穂乃果の目元から滴が滑り落ちていく。それが容赦なく打ち付ける雨なのか、それとも涙なのか。海未には分からない。懸命に荒い呼吸を続ける穂乃果の口から出た言葉は、雨に完全にかき消されて海未にも届かなかった。
「たっくん………」
♦
酷い雨だ。昨晩から時間が経てば経つほど強くなっていく。雨のなかオートバジンを走らせる巧は町内掲示板の前で停まる。掲示物のなかに遠目でも分かるカラフルなチラシがある。デフォルメされたメンバー達のイラストが描かれたμ’sの学園祭ライブのチラシ。それの隣には、音ノ木坂学院学園祭を告知するチラシが掲示されている。日程は今日だ。こんなにも大々的に告知するということは、μ’sは祭りの目玉になっているのだろう。会場は屋上とあるが、まさかこの雨のなか決行するというのか。決行するにしろしないにしろ、この学校を恐怖へ陥れるのに絶好の日をスマートブレインが逃すとは思えない。
巧はオートバジンの鍵に手をかける。だが、捻ろうとした手をすぐに引っ込める。自分が行ったところで何になるのか。ファイズギアを奪われた今、オルフェノクが出たとしても勝てる自信がない。
自分はまだ夢の守り人を気取るつもりなのか。その資格は失われた。自分はオルフェノクで、怪物で、人間とは異なる居場所に立つ存在だ。昨晩、穂乃果は名前を呼んでくれなかった。それが無言のメッセージであるかのように巧は思う。あなたはもう、わたしの知る人じゃない。そう言われてしまったように思えてならない。
分かっていたはずだ。いくら人間を守ろうとも、決して人間に戻れないのは変わりない。灰色の姿は死ぬまで付きまとう。真理と啓太郎は巧がオルフェノクと知っても受け入れてくれた。でも、だからといって彼女らも巧を受け入れてくることにはならない。オルフェノクは人間を襲う。だから恐ろしい。巧が拒絶される理由はそれだけで十分だ。
「はーい」
雨音のなかからその声は聞こえる。前方を見ると、青い傘をさした青い服の女が完璧な笑顔で手を振っている。
「俺を殺しに来たのか?」
巧が聞くと、スマートレディは大袈裟に首を振る。
「違います。ファイズのベルトはもう返してもらいましたから、あなたはもう怖くありません」
スマートレディは歩み寄り、巧の耳元に口を近付けてささやく。
「あなたを、お迎えに来ました」
「迎え?」
「私達の仲間になれば、これまでのことはぜーんぶ水に流してあげます。この雨みたいにね。
「お前んとこの社長にも言ったけどな、お前らの仲間になるくらいなら死んだ方がましだ!」
巧はウルフオルフェノクに変身する。強靭な筋力で地面を蹴り、スマートレディとの間合いを一瞬で詰めていく。その爪が彼女の首筋に触れようとした直前、上空から落下してきた灰色の槍がウルフオルフェノクの手甲を貫きアスファルトの地面に突き刺さる。痛みに顔を歪めるウルフオルフェノクをスマートレディは表情と声色を完璧に一致させて言う。
「ざーんねん。あなたは強いから期待していたのに」
彼女の背後に鳥人のオルフェノクが降り立つ。その右手にはケースに納められていない剥き出しのファイズギアがある。
「お掃除は任せましたよ。私、彼が死んじゃうところ、見たくないんです」
「えーん」と涙の流れない目を手で擦りながらスマートレディは近くに停まっているスポーツカーへと歩いていく。追おうとするも、左手を貫く槍が地面に固定されて動けない。ウルフオルフェノクは無事な右手で槍を抜き、そこから左手を抜く。掌にぽっかりと空いた穴からは灰が零れる。スマートレディの乗ったスポーツカーがマフラーからガスを吹かして走り出す。オルフェノクの脚力なら追いつく。だがウルフオルフェノクの前にコンドルオルフェノクが立ち塞がり、両者は対峙する。
コンドルオルフェノクの影が笑う。
「悪いオルフェノクだね。お仕置きが必要だ」
ウルフオルフェノクは咆哮と共に駆け出す。振り下ろす拳と尖刀はことごとく避けられ、コンドルオルフェノクは槍の柄でウルフオルフェノクの顔面を打つ。バランスを失ったウルフオルフェノクの体が地面に投げ出された。力が出ない。まともに食事を摂っていない生活を続けたせいか。
コンドルオルフェノクは男の姿に戻った。男は笑いながら腰にファイズギアを巻き、フォンにコードを入力する。
『Standing by』
「変身」
『Complete』
赤いフォトンストリームを光らせながら、ファイズはゆっくりとウルフオルフェノクに近付いてくる。
「皮肉なものだね、自分が戦っていた姿に殺されるなんてさ」
ファイズはウルフオルフェノクの顎を蹴り上げる。地面を転がったウルフオルフェノクは巧の姿に戻った。指先がささくれて灰を零している。雨に打たれているせいか、灰は止まることなく落ち続ける。
「へえ、君もう死にそうなんだ。このまま君が死ぬのを見るのと、今すぐ僕が殺すの、どっちが面白いと思う?」
ファイズの問いに巧は答えない。痛みも苦しみもない。ただ自分が崩れていく様を他人事のように傍観できる。オルフェノクの死とはこういうものか。散々同族が死ぬのを見てきながら、どんな気分で死ぬのかを始めて知った。
ファイズは仰向けに倒れる巧の腹を踏みつける。めきめきと骨が悲鳴をあげて、腹からも灰が落ちていく。
「やっぱり、今殺すことにするよ」
ファイズが脚に体重をかけてくる。乾いた声が喉を震わせて、視界が霞んでいく。おぼろげな感覚のなか、唯一しっかりしている聴覚で巧はバイクのエンジン音を認識する。視線を向けると、霞んだ視界のなかで紫色の光が見える。
「何しに来たわけ? 助けは必要ないよ」
ファイズは巧の腹から足を退ける。はっきりとした視覚で、巧は突如現れたバイクを認識して目を見開く。
スマートブレイン社製のサイドカー付きバイク。サイドバッシャー。そのシートから、黄色のフォトンストリームを光らせる超合金の鎧を纏った戦士が降りる。ファイズとよく似た、しかしファイズとは似つかない紫の目を持つ戦士。
「カイザ………」
巧は思わずそう呟く。紛れもなく、「王」との最終決戦でベルトを破壊されたはずのカイザだった。カイザは右腰のホルスターからχの文字を模したブレイガンを引き抜き、ミッションメモリーを挿入する。
『Ready』
グリップの下から黄色いフォトンブラッドの刀身が伸びる。
「邪魔しないでよ。この人は僕の――」
ファイズの文句を最後まで聞かず、カイザはブレイガンで斬りつけた。不意打ちにファイズが仰け反る。斬られた胸部装甲を抑えながらファイズは問う。
「何のつもりだ!」
「ちゅーか、あれだ。奴に手出したお前が悪い」
カイザは続けざまにブレイガンを振り降ろす。ファイズが間合いを取るも、ブレイガンの銃口からフォトンブラッドの光線が発射されファイズに命中する。よろめく隙に、カイザはファイズの腹に渾身の蹴りを見舞う。ファイズの体が吹き飛び、倒れると同時に衝撃のせいか腰からファイズギアが落ちた。
変身が解けた男はすぐさま立ち上がりコンドルオルフェノクへと姿を変える。カイザはターン式のフォンをスライドさせENTERキーを押す。
『Exceed Charge』
ファイズのものよりトーンが低い音声と共に、ベルトからフォトンブラッドが流動路を伝っていく。ブレイガンを構える右手にエネルギーが充填されると、ブレイガンの刀身が輝きを増す。カイザはコッキングレバーを引き、ブレイガンの引き金を引いた。翼を広げて飛び立とうとしたコンドルオルフェノクに光弾が命中すると同時に、その体を網目状に展開したエネルギーが身動きを封じる。カイザは逆手に持った剣を構えた。目の前にχを模した光が現れ、それを共にカイザは猛スピードでコンドルオルフェノクに突進する。
「だっしゃあああああああっ‼」
あまりのスピードで視認すらできない。カイザが背後に姿を現すと、コンドルオルフェノクは青い爆炎をあげる。その背中から黄色に輝くギリシャ文字のχが。しばし佇んでいたコンドルオルフェノクの体は、まるで砂像のように崩れ落ちた。
いつの間にか雨は止んでいた。巧は膝をついたままカイザを見上げる。カイザも巧に紫色の目を向けている。ミッションメモリーとブレイガンを所定の位置に戻し、カイザはフォンをベルトから引き抜く。プッシュ音と共にカイザのスーツが分解され、残っていたフォトンストリームもベルトに収束する。巧は驚きと共に、そのカイザだった人物の名前を呼ぶ。
「海堂……!」
雨上がり、雲の切れ間から射し込む陽光を浴びた海堂直也は、3年前と変わらず緊張感のない顔に笑みを浮かべた。
「よう乾。元気に……、してなさそうだな」
今回のようなシリアスな話は久し振りなので張り切ってしまいました。