その日の4限目の授業は、国語の現代文だった。
「ここ、テストで出すから覚えておけよ」
スーツの上から白衣を羽織った女教師――平塚静が、黒板をチョークでつつきながらそう言った。
ほぼ同時に、4限目終了のチャイムが軽やかに鳴る。
「ん、今日はここまでだな」
「きり~つ、れ~い」
日直の声と共に、教室は昼休みのざわめきに包まれる。
その中で結衣はまだ、ノートに板書の書き写しをしていた。
授業中まで昨夜の『あのこと』が気になってしまい、まったく授業に集中できなかったのだ。
(やっぱりこういうの、よくないよね――よし! ちゃんとヒッキーと昨日のこと話そう!)
そう思い定めた結衣は、教室の中をぐるりと見回す。
「て、ヒッキーもういないし?」
当の八幡は、いつの間にか教室から姿を消していた。
結衣は慌てて立ち上がる。
「ユイー、今日の昼だけど――」
「ごめん優美子、ちょっと今日は用事があるの」
三浦の誘いを愛想笑いで断りつつ、結衣は教室から飛び出した。
廊下の左右を見回す。
「いた」
ちょうど階段の方へと向かう、八幡の後ろ姿を見つけた。
結衣は慌ててその後を追う。
「……やはり、そういうことか」
「隼人、どうかした?」
「いや、なんでもないさ」
そんな自分を、葉山がさりげなく見ていたことに、結衣は気づいていなかった。
○ ● ○ ● ○
その時の結衣は、八幡に声をかけるタイミングを計りかねていた。
(……やっぱり、人前でできる話じゃないよねえ)
昨夜、人気のない公園で悪魔じみた黒い影の化物に襲われたところを、魔法のような不思議な力を使う八幡に助けられた。
こんな馬鹿げた話、万が一にでも他人に聞かれる訳にはいかない。
ていうか、八幡本人に切り出す踏ん切りすら中々つかない。
そんなやきもきする結衣をよそに、八幡はやや猫背気味の姿勢で廊下を歩いていた。
購買部でパンと飲み物を買い、渡り廊下を通って特別棟へ、そのまま教室の1つに入る。
プレートには、何も書かれていない。
「い、行かなきゃね」
少しだけためらった後、結衣はからりとその教室の戸を開ける。
「た、たのも~~」
端に机や椅子が積み上げられた、倉庫じみた一室だった。
「……由比ヶ浜?」
八幡はその中央の席に着き、机の上でパンの袋を開いていた。
「あ~~」
何となく事情を察した結衣は、何だか居たたまれなくなって目を逸らす。
「待て由比ヶ浜、お前は誤解している」
「うん、分かってるよ。ヒッキー友達いないもんね。でもわざわざ特別棟まで来て空き教室で1人でお昼って、ちょっとどうかと思う」
「いやいや、俺はただここで人と待ち合わせをしているだけだ。その前に腹ごしらえをしようと思ってだな」
「ヒッキー、そんなウソつかなくても――」
「彼の言っていることは本当よ」
「ひゃう!?」
いきなり背後からかけられた怜悧な声に、結衣はあやうく飛び上がりかけた。
慌てて振り向き、思わず呼吸を止める。
そこには、1人の女生徒が立っていた。
端正な顔立ち。
流れる黒髪。
制服のネクタイの色は、結衣と同じ2年生の赤。
その少女のことを、結衣は知っていた。
「ゆ、雪ノ下雪乃さん、だよね? 国際教養科の……」
容姿端麗、成績優秀、才色兼備。
様々な名声で学校中の生徒に知られ、畏怖される、校内でも屈指の有名人。
それが、雪ノ下雪乃という少女だった。
「あなたは、由比ヶ浜さんね。そこの比企谷くんと同じクラスの」
「う、うん」
うなずきながら結衣は、八幡と雪乃を交互にチラチラと見やる。
この2人の接点が、どうしても想像できなかったのだ。
「比企谷くんに、何か用かしら?」
「えーっと、用って言ったら用なんだけど……」
雪乃の前では、昨夜の話を口にはしかねた。
結衣は八幡に『お願い察して!』と目で訴える。
だがその八幡は、我関せずと言わんばかりに、モソモソとパンを囓っていた。
(だよねー)
内心でため息をつきながら、とりあえず結衣は触りだけでもと話を切り出す。
「あ、あのさあヒッキー、昨日のことなんだけど……」
「昨日?」
「ほ、ほら、夜の公園での、あの時のこと」
「夜……公園……」
つぶいた八幡は、三白眼で結衣を見上げ――
「何のことだ?」
心底から不思議そうに、そう言った。
「――――え」
「昨日は、ちょっと部活が遅くなってな」
「ぶ、部活? ヒッキー、部活に入ってるの?」
「入ってるというか、強要されたというか、とにかく色々あるんだよ」
ゲンナリとした様子でそう言いながら、八幡は雪乃をねめつける。
「言い忘れたわね。ここは私たち『奉仕部』の部室なの。もっとも部員は、私と比企谷くんの2人だけだけど」
「……奉仕部?」
聞き慣れない言葉に、結衣は戸惑った。
「何やってるの、それ?」
「一言で説明するのは、少し難しいわね」
しなやかな指を形の良いおとがいに添え、しばし雪乃は考える。
「そうね、言うなれば現代社会に巣くう病巣を切除することによって、地域の安全と発展に奉仕することが、この部の活動かしら」
「は、はあ」
妙に抽象的な上、そこはかとなくヤバイ匂いがする。
正直、結衣は引いた。
「どうかしら、由比ヶ浜さん。あなたも何か、その手の問題を抱えているなら――」
身を乗り出した雪乃の口元に、妖しげな笑みが浮かんだ。
結衣の背筋を、ゾクリと悪寒が走る。
「ま、間に合ってます、そういうの!」
そう言い残して結衣は、奉仕部の部室から撤退した。
○ ● ○ ● ○
部室の扉が閉められるのを見て、八幡はため息をつく。
「結局、煙に巻いて追い返しただけか」
「あら心外ね。あなたはともかく、私は何一つ嘘は言っていないわよ」
「確かにそうだよな。本当のことだけを並べ立てて相手を騙すのは、お前の十八番だものな」
ゲンナリとそう言った八幡だが、雪乃の笑みは毛筋ほども揺らいでいない。
「で、これからどうするんだ?」
「昨夜のホラー、やはり由比ヶ浜さんに目をつけたようね。彼女から、ほの暗い闇の残り香がしたわ」
「てことは……」
「ええ、次で決着をつけましょう」
「分かった」
そう2人がうなずき合った時、教室の戸がガラガラと開かれる。
「方針は決まったかな?」
そう言いながら部室に入ってきたのは、国語教師の平塚だった。
八幡と雪乃を、無遠慮に見やる。
「ほう、ずいぶんと気合いが入っているじゃないか。結構なことだ」
そう含み笑いを浮かべた平塚に、雪乃は冷ややかな声で言った。
「入る時にはノックをと、お願いしたはずですが。平塚先生――いえ、今は神官殿とお呼びするべきでしょうか」
「好きにしたまえ」
○ ● ○ ● ○
その日の放課後、結衣は早々にバスで帰宅した。
「ただいまー」
「あら、今日は早いのね」
昨夜のこともあったからか、専業主婦である母の声は心配げだった。
「うん、ちょっと調子が悪くって」
曖昧な笑顔でそう答えながら、結衣は部屋に戻った。
制服姿のまま、ベッドに倒れこむ。
「何だか疲れたなあ……」
その声は、自分でも驚くほど弱々しい。
身を捩って、結衣は仰向けになった。
若々しい胸の膨らみが、制服のブラウス越しに存在を主張する。
「やっぱり、夢なんだよね……」
自分に言い聞かせるように、結衣はそうつぶやく。
昼休みに八幡が見せた、キョトンとした驚きの表情。
あれが演技だとは思えなかった。
加えて、昨日は一緒に部活中だったという雪乃の証言もある。
(2人には、ヘンな子だって思われたかなあ……?)
いや、客観的に見れば八幡や雪乃も相当に変だったが。
そもそも『奉仕部』とは一体、何なのだろうか?
雪乃の語った妖しげな活動内容を思い出そうとするが、どうにも頭が働かない。
まるで霞がかかったように、思考が薄ぼんやりと曖昧になっていく。
「結衣、そろそろご飯にするわよ」
台所の方から母の声がする。
いつの間にか、窓の外は暗くなりかけていた。
うん、すぐに行くから――そう答えようとする結衣だが、声を出すことすらひどく億劫だった。
体には全く力が入らず、手足どころか指の1本も動かせない。
鉛のように重い目蓋が、徐々に閉ざされていく。
眠い。
ただひたすらに眠い。
(――こっちに来るのだ)
結衣の意識が微睡みの深淵に転がり落ちる寸前、ふとそんな声がしたような気がした。
○ ● ○ ● ○
冷たく湿った夜風に頬を撫でられ、結衣はハッと我に返った。
「え……えええっ!?」
結衣は制服姿のまま、人気のない夜の野外に1人でポツンと立っていた。
「え、ええっと、何がどうなってるの」
取りあえず、自分の頬をつねってみた。
痛い。
夢じゃない。
部屋のベッドで、うとうとしていたはずだった。
外に出た記憶など、結衣には全くなかった。
今の服装は制服姿のまま、しかも靴を履いていない。
お気に入りの靴下は泥で汚れ、所々がすり切れてしまっている。
どう考えても異常だ。
「なんで!? なんであたし、こんなところにいるの!? ここどこ!?」
パニックに陥った結衣は、周囲を見回しながら声を張り上げる。
だが誰1人として、答える者はいない。
その時、ようやく結衣は気づいた。
今、自分がいるのは、昨夜のあの公園だということに。
「あ……ああ……」
深刻な恐怖が、結衣の心身を蝕み、縛り付ける。
昨夜に垣間見た、あの理不尽で不条理な世界の一端に、再び自分が巻きこまれたことを理解したのだ。
夢だと思っていた、いや思いたかったあの恐怖と体験。
だがそれは、紛れもない事実だったと、結衣は思い知らされる。
ならば、次に現われるのは、当然――
ガサリ、と横合いの茂みから音がした。
「ひっ」
掠れた悲鳴を上げて、結衣は硬直した。
恐る恐る、音の方向を見やる。
「あ――――」
幸いなことに、そこに立っていたのは昨日の影ではなかった。
紛れもない人間、それも結衣の知っている人物だったのだ。
「やっぱり、結衣だったのか」
「は、隼人くん?」
思いがけない場所で葉山の姿を目にして、結衣は目を丸くする。
「ど、どうして、こんなところに?」
「それはこっちの方が聞きたいかな。こんな時間に靴も履かず道を歩いてる君を見て、心配になって追いかけてきたんだ」
「そ、そうなんだ。あ、あはは」
困惑混じりの苦笑を浮かべる葉山に、結衣も誤魔化すような愛想笑いで答える。
何だか、急に気恥ずかしくなってきた。
「何があったのかは知らないけど、無事そうで何よりだ。何なら家まで送ろうかい?」
「う、うん、お願い……」
葉山の提案にうなずいた結衣は、うなずきながら一歩を踏み出し――その一歩だけで、ピタリと足を止めた。
「結衣?」
「ねえ、隼人くんはどうしてこんなところにいるの?」
先ほどと同じ問いを、結衣は繰り返す。
先ほどとは、違う意味をこめて。
「いや、さっき言った通り――」
「隼人くん、学校で言ってたよね。しばらくは家の用事で早く帰らないといけないって、昨日も、今日も」
「…………」
「昨日なんて、優美子との約束をドタキャンしたでしょ? そんな大事な用事なのに、今日は外をブラブラしてるの?」
「それは――」
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ葉山は言葉に詰まり、目線が泳ぐ。
その反応を、結衣は見逃さなかった。
「――ただの気分転換だよ。ちょっとあれこれが煮詰まってて、夜風に当たって頭を冷やそうとしただけ。そうしたらたまたま結衣と会った訳で、俺も驚いたよ」
ウソだ。そう結衣は直感した。
ギュッと両手を握り締める。
「どうしたんだい、結衣?」
そう言いながら、葉山の方から近づいてきた。
思わず結衣は、その場から一歩だけ下がる。
葉山の顔に張りついた薄い笑み、それが昨日の影が浮かべていたおぞましい嗤いと、1つに重なった。
「……こ、こないで」
「結衣?」
「お願い! こっちにこないで!!」
金切り声を上げた結衣は、そのまま葉山に背を向けるなり、脱兎のごとく逃げ出した。
○ ● ○ ● ○
取り残された葉山は、走り去る結衣の背を半ば呆然と見ていた。
その形相が、見る見るうちに変わっていく。
学校の友人が誰1人見たことのない険しい表情が、葉山の端正な顔を歪めている。
「しくじったか、くそ」
短い、だが痛烈な罵声を葉山は漏らす。
だが、それも一瞬のこと。
「まったく、面倒をかけてくれる」
別人の様に落ち着いた声でつぶやきながら、葉山は結衣の逃げ去った方向を見やる。
その周囲では、異形の影が次々と身を起こしていた。
ゆきのんに魔戒法師の魔法衣は、とても似合うと思います。