バシッ! という音とともに、四葉深雪が床に倒れた。
音の音源先には、左手を裏側に回した司波達也がいる。
そして、深雪は自らの左手で左頬を抑える。
達也はさらに、シルバーホーンを深雪に向けて構える。
慌てて花菱兵庫ら四葉家の執事らが動こうとするが、
「動くなッ!」
と、達也が一喝する。
その一喝が衝撃波となって、彼らは動けなくなる。
それは、同じように達也側としてここにいる九島光宣、桜井水波らにとっても同じだった。
さて、ここまでの経緯をまとめておこう。
達也は人質交換に応じ、光宣と水波を連れて旧長野県との境に近い旧山梨県の山々に囲まれた狭隘な盆地に存在する小さな村にある四葉家本邸を訪れた。達也にとっては6歳まですごした旧家であるが、良い思い出といわれれば愛する母とガーディアンとして自分に親身になってくれた桜井穂波以外のことしかない。あとはむしろ憎悪がにじみ出ることばかりである。
達也はそんな中、チラッと水波を見た。
穂波にどことなく似ている水波。そのためか、穂波のことをどうしても思い出したのだと思った。
そして、屋敷の前で花菱兵庫の出迎えを受ける。
「お待ち申し上げておりました」
丁寧な一礼をする兵庫に対して、達也は何も言わない。
「深雪はどこにいる?」
「ここにはおられません」
「何?」
「伊豆におられます」
「伊豆?」
「はい」
達也が疑問に思う。人に人質交換に応じると言いながら、なぜ伊豆にいるのか。
「お忘れですか? 伊豆は深夜さまがかつて保養地にされていた場所でございます」
「あ……ッ」
達也は迂闊にも忘却していた。自分も6歳になり、この家を出ることになるまでは母とともに伊豆で過ごした思い出がある。幼い頃にろくな思い出がない達也にとって、それは唯一の温かみのある思い出と言って良い。
「そうか。なら、伊豆へ向かう」
「お待ちください。私は深雪さまから、達也さまご一行を伊豆にお送りするように命じられています。どうか、お役目のほうを果たさせてくださいませ」
「…………」
達也が兵庫を見つめる。
兵庫は、頭を下げたまま上げようとしない。
そして、達也は光宣や水波と共に兵庫が用意した車に乗り込んで、伊豆へ向かったのであった。
伊豆の屋敷に入った達也は、すぐに母との面会を求めた。
そして、母の状態を見た瞬間、冒頭の部分となったのだ。
達也は激怒していた。なぜなら、母親がすっかり衰弱し、大きなベッドに小さく横たわっていたからである。以前、別れたあの時よりかなり衰弱している。
「これはどういうことだッ!」
倒れこんだ深雪に、達也はシルバーホーンを向けている。
深雪が答える。
「お兄様と別れた後、お母様はよほど寂しかったのでしょう……日に日に衰弱しました。私たちも医師や使用人が懸命にお世話したのですが、衰弱は止まらず、遂にこのようになったのです……」
倒れこんだ深雪が、小さい声で言う。
「俺はお前に言っておいたはずだ。母に何かあれば容赦はしないと」
達也はシルバーホーンの照準をそのまま深雪の眉間に向けている。
「なぜ、こうなるまで俺に連絡をしなかったッ!」
「それは、お母様の意思です」
「何?」
「お母様が、貴方に知らせるなと言われたのです」
「……なんだと……」
すると、ベッドから消え入りそうな声がしてくる。
「……本当よ……達也……深雪さんには……私が言うなと言ったのよ……だから……深雪さんは何も……悪くは無いわ……」
その声に、達也はシルバーホーンを収めて母に近づく。
「母上……」
「……貴方に……知らせたら……貴方は心配して……私に付きっ切りになる……そうさせたくない……貴方は……貴方の人生を生きて……ほしいから……知らせるなと言ったのよ……」
「馬鹿なことを……母上……」
そして、すっかり小さくなってどことなく老いも見えてきた母の上半身を抱きしめる。
達也の目から、涙が流れていた。
そして、母をベッドに戻して、涙をぬぐって言う。
「深雪……」
「はい」
深雪はこのとき、兵庫に支えられて起き上がっていた。
達也は、深雪のほうに振り返りもせずに言う。
「桜井水波は返す」
「ありがとうございます」
深雪が深々と頭を下げる。
深雪にとって、水波は単なる側近ではない。最も信頼している親友なのである。だから、水波を返すという言葉に嬉しさを隠さなかった。
そして、水波が光宣に一礼して、深雪に近づく。
と、そのときだった。
達也がいきなり、水波に向けてシルバーホーンを向けると水波の右腕を消したのである。
水波が悲鳴を上げて倒れる。
それを、深雪も光宣も兵庫も他の使用人も、みんな驚愕の思いで見つめている。
「何の真似ですッ!」
深雪が叫ぶ。だが、達也は冷徹に深雪を見下ろす。
「大切な者が苦しむ気持ちがわかったか?」
「…………ッ」
このとき、深雪は達也の目を見て初めて恐怖を感じた。
まるで全てが「無」であるかのような目。
人を殺すことに何のためらいも無い目。
氷とかそんなものでは語れないような目。
それが今の司波達也だった。
そして、床で苦しくのたうちまわる水波をまるでゴミでも見るかのように見つめる。その水波を支えようと光宣が近づこうとしたとき、達也は再成を行使した。
水波の右腕が元に戻る。
達也は、自分の右腕を少しさすった。
そして言う。
「俺を……みくびるなよ……」
「…………」
深雪も誰も何も言えなかった。
そして、達也は深夜を引き取って伊豆を後にした。
深夜にこのまま四葉に居させることなどできない。
そして達也は、深夜を九島家お抱えの病院に移したのであった。
次回は「偉大なる母」です。