時刻は12時15分、部活動を終えた新は急いで帰路に着いていた。家に一人残された心春の身に何か起きていないか、それだけが心配だった。新の脳裏を過るのはかつての記憶、幼い新が帰宅した時に見た母親の壊れた姿……その時のことがトラウマとなっていまだ新を苦しめていた。
新の家から学校まではおよそ30分、当然のことながら帰るのに同じ時間が掛かる。いつもは心春と二人揃って他愛無い話をしながら歩む心休まるその距離も、今だけは新にとって不安と焦燥を募らせるだけの忌々しい距離だった。
「……はぁ……はぁ……っ!」
ずっと走り続けていたせいか息が切れる。足を動かそうと、体を前に進めようとしても体の疲れを誤魔化すことはできない。電柱を背にして何とか息を整える新だったが、心春の笑顔が頭に浮かんで休憩を止める。荒い息を吐き出しながら再び走り出そうとしたその時、新を呼び止める声があった。
「おい新! 後ろ乗ってけ!」
「……え?」
聞こえた声に振り返るとそこに居たのは二つの人影。そのどちらも新にとっては知っている顔……と言うよりもその二人は新の同級生だった。二人の男女、そのうちの一人である男子生徒が自転車に乗りながら新の横に並ぶ。
「ほら、急いでるんだろ?」
「あ、ああ……」
流されるままに男子生徒に言われた通り自転車の後ろに新は乗った。新を自転車に乗せてくれた男子生徒、名前は佐山和弘と言って新にとっては友人に当たる少年だ。高校に入学してから出会ったのだが、色々と気が合うのか良く遊びに行く仲でもある。そしてもう一人和弘と同じく自転車に乗っている女子生徒、彼女も新にとっては顔見知りである。
「朝岡君凄く急いでたから。カズ君が放っておけないって」
「……そっか」
和弘の背に乗った新にそう教えてくれたのは櫻井恵梨香、和弘と同様に新の同級生である女子生徒だ。ちなみに新が和弘と仲が良いように、恵梨香も心春とは仲が良くこの四人でどこかに遊びに行くのも決して少なくはない。新と心春というカップルの傍で気まずくないのか、そう思われるかもしれないがこの二人にとってその心配はない。何故ならその理由はとても簡単で、和弘と恵梨香の二人も新たちに負けず劣らずのバカップルであるからだ。
「高校からの付き合いとはいえ結構長く一緒に居るからさ。お前が不安になっていることとか何となく分かるんだよ」
「和弘……」
普段はふざけ合っている者同士だと言うのに、こういう部分は本当に鋭いなと新は思う。恥ずかしさを覚えもするが、やっぱり一番は気に掛けてくれたことへの嬉しさである。心配してくれてありがとう、本当に助かる……そう伝えようとしたのだが、それに待ったを掛けたのは呆れたように口を開く恵梨香だった。
「とか何とか言っちゃってるけど、私が朝岡君の様子変だねって言わなかったら気づかなかったでしょ?」
「うぐっ!?」
恵梨香の言葉が図星だったのか和弘は大きく肩を震わせた。
「……お前」
「あ、あははは……」
どうやら本当に和弘は気づいていなかったみたいで新としても呆れるだけだ。とはいえ、こうして自転車に乗せてもらっていることについては素直に感謝している。持つべきものは友達、新にとって和弘や恵梨香が良き友人というのは間違いないことだ。
さて、そんな風に新に二人が合流した経緯が分かったわけだが、こうしているうちにも時間は刻々と進んでいく。逸る気持ちを抑える新に対し、恵梨香がこんなことを口にした。
「心春ちゃんなら大丈夫だよ。あの子は朝岡君以外には絶対に靡かないから」
「え?」
「? 何のことだ?」
新はいきなりの言葉に目を丸くし、和弘もいきなりどうしたんだと怪訝な表情をしている。新の不安を払拭するために、そう考えれば聞こえは良いが何も事情を知らない恵梨香からの言葉としてはタイミングが良すぎる。邪な気持ちは一切なく、心の底から新と心春のことを想っての恵梨香の言葉だと言うのは分かるため、新は少しだけ気になったが特に追及することはしなかった。
体力が蝕まれ中無理に走るよりも、自転車で移動する方が早いのは当然で、新が思ったよりもすぐに家に帰ることができた。時刻を確認すると12時30分、少しだけ遅くなってしまったが今は心春のことが何よりも大事だ。
「ありがとな和弘! 櫻井さん! また何かお礼させてくれ!」
「あいよ。期待してるぜ!」
「ふふ、どういたしまして」
ここまで自転車に乗せてくれた和弘、そして同じく付き添ってくれた恵梨香にお礼を言って新は心春が待っている自宅へと駆けこむのだった。
……残された二人はと言うと。
「やれやれ、新のやつ心春ちゃんのこと好きすぎだろ」
「いいじゃない別に。私から言わせれば、カズ君の方が大分物好きだけどね」
「……それを言うかそれを」
「あはは。でもそうじゃないかな? 普通私みたいな子を好きにはならないと思うよ? あんなことをしていたって知ってるなら尚更」
新を見送った和弘と恵梨香は、自転車を手で押しながら雑談を交えて歩みを進める。雑談を交えながら歩みを進める二人は本当に仲睦まじいカップルのようで、非常に微笑ましい光景と言えるだろう。
恵梨香の言葉を聞いて和弘は小さく苦笑し、かつて恵梨香を口説き落とした言葉を口にする。
「しょうがないだろ。それでも好きになったんだからさ――恵梨香、君を」
「……………」
和弘の真っ直ぐな言葉に恵梨香は分かりやすく頬を赤く染めた。さっき新に感じさせた不思議さは今の恵梨香にはない、ここに居るのはただの照れてしまった女の子である。恵梨香は自分だけ照れているのが面白くないのか少しだけ頬を膨らませるも、すぐに和弘と一緒に居れるこの時間が嬉しくて笑みを浮かべた。
「その言葉、凄く嬉しい。大丈夫だよカズ君。私はもう、カズ君だけのモノだからね」
「モノって言い方はあまり好きじゃないんだけど……」
「言葉の綾だよ。でもさ、カズ君は私を手放す気なんてないんでしょ?」
「もちろん!」
近くで若い会社員が砂糖を吐いたようだ。
二人が和やかに進む中、最後に恵梨香だけは振り返った。恵梨香の視線は新の家へ向けられ、和弘には聞こえないくらいの小さな声で囁くのだった。
「本当に大丈夫だよ朝岡君。心春ちゃんは君が思っている以上に君のことを愛してる……ううん、愛しすぎてる。それこそ、他の人なんてどうでもいいほどに。私がカズ君を愛おしく思ってるのと同じようにね」
後半に行くにつれて恵梨香の言葉は重い何かを感じさせるが、隣を歩く和弘を見てすぐに恵梨香はいつも通りの笑みを浮かべた。恵梨香の言葉が何を意味するのか、それを理解できるのはおそらく心春だけだろう。
「心春!!」
家の玄関を開けた新は真っ先にそう叫んだ。するとリビングの扉が開き、エプロン姿の心春が慌ただしく小走りで出て来た。どうやら新の様子に何かを感じたようである。
「あっくん!? どうしたの――っ!?」
「心春!!」
思わず新は心春に駆け寄って抱きしめた。
その存在を確かめるように抱きしめる力は強い、普通なら抱きしめられた側は少し痛いと思ってしまう力だ。でも心春はそんな表情はしない、彼女が今浮かべている表情はとてもダラシのないもので、新から見えないのを計算しているのかどうかは分からないが、それほどに他者には見せられないほどに心春の表情は緩んでいた。
「あっくん、大丈夫だよ」
「……本当か?」
「うん」
答えるように笑みを見せてくれる心春の姿に新はひどく安心した。本当に何かをされた様子はなく、心春の様子もいつもと変わらないからである。安心した影響なのか、リビングから香る食事の匂いに腹の虫が大きく鳴った。
「あ……」
「ふふ。ご飯できてるよ。旦那様♪ なんてね」
お茶目な仕草を見せる心春の姿に一気に不安が消えて行くのを新は感じた。
心春に引っ張られてリビングに入ると、そこに並んでいた料理はどれも美味しそうですぐにかぶりつきたくなるほどだ。
心春と共に椅子に座り、いただきますと声を揃えて少し遅めの昼食を取る。
そんな中、ふと心春がこんなことを口にした。
「そうだあっくん。お兄さんね、なんか用事があるとかで当分家を空けるだって」
「え……?」
心春の言葉に一瞬耳を疑った。
兄が長く家を空けるとはどういうことだろうか、別に一々どこに行くかなど伝えられるわけでもないし、嫌っているからどうでもいいことだが、今まで長く家に居ないことはなかったため新は気になった。しかし今はあの嫌いな兄が家に居ない、その事実が新にとって嬉しく深く考えることはしなかった。
「それでね、お掃除とか色々したよ?」
「そっか。大変だったでしょ、この家無駄に広いから」
「そこまで大変じゃなかったかな。11時くらいには終わったから。あまりしつこい汚れとかもなくて良かったよ」
「それは良かった。でも今度からは俺も手伝うから一緒にやろう」
「うん!」
和やかな空気で進む食事の時間は二人の仲の良さを知らしめるかのようだ。
愛する恋人の作ってくれた料理に幸せを感じる新。作った料理をお礼を言いながら食べてくれることに幸せを感じる心春。二人の間にあるのは何者にも邪魔されない強い絆――一方通行ではない、正真正銘の強い結びつき。
「あっくん」
「うん?」
「もう少し待ってね。もうすぐだから」
「もうすぐ?」
「うん。もうすぐ」
「??」
「ふふ、ほら。冷めちゃうから早く食べよ?」
「お、おう!」
心春の言動が少し気になった新だったが、すぐに食事を再開した。
美味しそうに料理を食べる新をニコニコしながら眺める心春は本当に幸せそうで、そんな様子すらも新を穏やかな気持ちにさせるのだった。
朝岡家の食卓は新にとって良い記憶はない、でも心春とならどんな嫌な思い出も塗り替えてくれる――そんな心春の存在に新は何度目になるか分からない感謝をするのだった。
「ありがとう――心春」
「ふぇ? えっと、どういたしまして?」
「ぷふっ! なんだよそれ!」
「ええ! なんで笑っちゃうの!?」
温かな食卓がいつまでも広がっていた。
(一人消えた。後一人)
佐山和弘と櫻井恵梨香の二人、知ってる人は知ってるかな。
お互いに名前呼びなのであのエンディング後、恵梨香が気持ちを自覚し和弘の元から去らなかった場合のIFです。
あの二人の物語は寝取られとは少し違いますが、スッキリしない点では同じかなと。
例によって例のごとく、恵梨香も和弘に対してかなりの依存、所謂ヤンデレです。もしかしたらいつか彼らにスポットを当てて2話くらい書くかもです。