その日、朝岡家に新の姿はなかった。
本来であるなら恋人である心春が心配なため傍に居るのだが、今回に関しては学校の行事――所謂部活動があるため学校に行かざるを得なかったのだ。新にとってこの獣たちの住む家に大切な恋人を一人置いていくことに抵抗はあった、それはもう部活を辞めてやろうかとすら思ったくらいである。だがそんな新の考えを改めさせたのだが何を隠そう心春なのだ。心春は新の恋人ということで、部活を頑張る新の姿をずっと見続けていた。楽しそうな新、頑張る新、辛そうな新、多くの新を見てきた心春だからこそ、新に自分を優先してその頑張りを無駄にしてほしくなかったのだ。
流石にここまで言われてしまっては新としても心春の気持ちを汲まないわけにもいかず、不安な胸中を押し殺しながら部活動を行うため学校へと向かった。新の姿が見えなくなり、獣の住む家に一人残された心春は頬を赤く染めて熱い息を吐き出す。
「……はぁ♡ あっくん、そんなに私のことを想ってくれてるんだね」
新から向けられていた心配だという感情は心春の身を熱く焦がす。新を想うこと、新の為に生きることが全てだと考えている心春にとって、新から向けられる全ての感情が愛おしかった――それが例え負の感情だとしても、心春はそれを愛おしいモノだと変換してその身を震わせるだろう。それほどに心春の世界には新しか存在していなかった。
両親が亡くなり、紆余曲折会って新の家に引き取られた心春だったが、聡明な彼女はすぐに新を取り巻く家庭環境を把握した。頑なに家族のことを話さなかった新、自分の体を舐め回すように見てくる新の父と兄、それだけで心春は全てを理解した。それからの行動は早く、心春は新の父と兄が居ないときを見計らって書斎に忍び込みありとあらゆる場所を物色すると、出てきたのは女の小春が直感的に嫌悪を感じる写真、そしてDVDだった。
写真に写っていた女性が誰かは分からないが、どことなく顔の造形が新に似ていることから母親だと予測した。そして次に再生したDVDに記録されていたのは……新の母と思わしき女性がその身を蹂躙され、最終的には男の精を求めるだけの雌に堕ちていく過程だったのだ。
ご丁寧にその瞬間を目撃し絶望の表情を浮かべた新を映すほどの用意周到っぷりは吐き気さえしたほど。新の母親の身に起きた境遇には同情するが、その後に映った新の絶望に比べればどうでもいいと心春は思えた。おそらくではあるが新が心配しているのは間違いなく、この映像のように心春が父や兄に汚されてしまうかもしれないと思ったからだろう。
愛する人を奪われる苦しみ、心春自身にその経験はないがいざ自分が経験するとなるとその悲しみは果てしないモノだろうことは容易に分かるもの。仮に自分が男として、好きな人が女であった場合……自分の知らない所で大好きな人が知らない人間と体を重ねているなんて考えただけでもゾッとする話だ。
「……うん、そうだよね。こんな不安を……あっくんはこんな苦しみを抱えていたんだね」
心春は新の苦しみを明確に感じ取り想いを強くする。それは新を守ること、決して裏切らないということ。ずっとずっと新を好きであり続ける決意を胸に。
そのためにはまず何をしなければいけないのか、それは至極簡単なこと――新を不安にさせる要素の全てを排除する。それは即ち、ゴミ掃除だ。
愛しい新のことは一旦頭の隅に置き、思い浮かべるのは自分を舐め回すように見る忌まわしきゴミ屑共、それをどう排除するべきか……その答えは既に心春の中にしっかりとした手順で完成されていた。
「ゴミの掃除は簡単だよね――特に、自分から近寄ってくるゴミはね」
寒気を感じさせるほどの冷たい声音と共に、心春は見る人間全てを恐れさせる笑みを浮かべる。そんな心春の言葉と表情を裏付けるように、今彼女の元に一人のゴミが現れるのだった。
「あっれぇ? 心春ちゃん一人かよ」
二階から現れたのは新の兄、名前は勝。その声が聞こえた瞬間、心春の目に宿るのは黒い憎悪の炎だ。だがまだだと自分に言い聞かせ、小春は極めて人懐っこい笑みを携えて振り返った。
「はい。あっくんは部活に行きました」
「ふ~ん。なるほどね」
そう言って勝は舌なめずりをした。
今勝が何を考えているのか、心春は明確に理解し表情には出さず頭の中で嗤う。早くしろ、早く行動に移せ、早く私にお前を始末させろ、そう心春は頭の中で念じ続け、その想いは届くのだった。
「ちょっと心春ちゃんに頼みたいことがあるんだけどさぁ、今から部屋に来てくんね?」
「今からですか? う~ん、はい。分かりました」
心春は勝の後に付いて部屋に向かう。
憎悪を抱く小春とは反対に、勝は笑い出したいほどに上手くいったと思っていた。新が小春を家に連れて来た時から勝は心春を狙っていたのだから。今まで多くの女を唆し、時には彼氏を持っている女を、また果てには夫を持った妻を何人も勝は食ってきた。今回は弟が愛する女を奪う、これほどに愉快なことはない。心春の前では極めて良い人ぶっているが、やはり内心は腐りに腐り切った男だった。
「……うふふふ」
もちろん、心春がそれを分かっていないわけがない。
勝は気づかない、主導権を握っているのは勝ではない。心春なのだということを。勝は気づかない、これから訪れる時間は快楽と欲望に包まれたモノではない……苦しみと絶望に包まれた最悪の時間だということを。
勝の部屋、そこに心春を連れ込んだ瞬間すぐさま襲い掛かろうとした勝だったが、ふとおかしなことに気づく。自分は今間違いなく心春を押し倒そうとしたはず……それが何故、何故自分が天井を眺めているのだろうかと。心春ではなく、倒れているのが自分なのは何故。
「何が……あん?」
何が原因なのか、それを探ろうとした時に目に入ったのは心春の姿。幽鬼のようにフラフラとした足取りで、目に一切の光が無くなった普通ではない姿の心春が勝を見下ろしていた。何のつもりだと、気に入らないことがあれば怒りに任せて怒鳴るように、いつもと同じようにそうしようとした勝だったがそれはできなかった――それほどに見下ろす心春の姿が異常だったからだ。
「ふふふ。お兄さん、まずはあなたからですよ」
「……心春ちゃん? ちょっとばかしおいたが過ぎるんじゃ――」
そう言葉にした瞬間、何かが自身の頭の横に振り下ろされた。それは禍々しい光を放つ凶器、鋭い刃を持ったナイフだった。その鋭さと振り下ろす力は容易に生半可なモノであるなら貫通する力を持っていた。これがもし自分の顔に振り下ろされたらと思うと……勝は顔を青くして改めて心春の顔に視線を向けた。
「ひっ!?」
見上げた先にある心春の目は勝を写していない、写しているのはただのゴミ……そう思ってしまってもおかしくはない冷たい目だった。力に任せて心春を退かせばいいのにそれができない、そんな異様の雰囲気が今この部屋にはあった。抵抗してはいけない、そう思わせる何かが今の心春にはある。
恐怖で動けない勝の頭のすぐ横に立ち、心春は口を開く。
「お兄さん、私ずっとこの時を待っていたんです。あっくんを不幸にするゴミを一つ、確実に消せるその瞬間を」
「……何を」
心春は嗤う。ただの女子高生では絶対に浮かべることのない残酷な笑みは恐怖の二文字すら生温い。確実に消せる、それは心春にとって=殺すということではない。相手がどんな屑であっても、殺しをしてしまっては犯罪者となる。まあいくつも犯罪まがいのレイプや凌辱をやってきた勝なのだからいいかと一瞬思えても、殺人だけはやはり世間に認められはしない。
「安心してくださいお兄さん。別に殺したりはしませんよ。だってそんなことしたらあっくんが悲しむじゃないですか……あ、お兄さんが死んじゃうことじゃなくて、私が犯罪者になってしまうことにですよ?」
「……………」
「だから決めたんです。お兄さんを殺したりはしません――壊せばいいんだって」
「……は?」
壊す、壊すとはどういうことだろうか。
勝の疑問を他所に心春は更に言葉を続ける。
「最初からこうすれば良かったんです。あっくんと幸せに、二人で生きていくためにはこれが一番なんですよ。お兄さんやお父さんが自分から居なくなればあっくんは何も悲しまない。不安から解放されたあっくんは自由になるんです。そうしたら私はもっと、もっともっと愛される。永遠に近い時間をあっくんに……ずっと私はあっくんに愛され続けるんですよ」
永遠に近い時間を新に愛される。その想像は軽く心春を絶頂へと導いた。自然に動く右手は胸へと、左手は股へと伸び軽く擦る。
「……ぅん♡ ねえお兄さん、それって凄く素敵じゃないですか? 大好きな人にずっと愛されるのって」
寝転がっているからこそ、心春の下着が小さなシミを作っていることに気づくが、状況が状況なだけに興奮さえすることができない。今ここに来てようやく勝は気づいたのだ――心春という少女が狂っていると言うことに。気づけてももう遅い、勝は既に心春の地雷を踏んでしまったから。心春はもう、勝を逃がすことは絶対にない。
「以前私という彼女が居るのにあっくんに告白したクソ女が居たんですけど、これからお兄さんにすることと同じことをしたらお人形みたいになったんです。病院に入ったらしいですけど、あれからどうなったのかは私も知りません。というよりも知る価値がありません」
淡々と喋りながら心春は時計を見る。
今針が差している時刻は9時30分だ。
「部活は昼までだから、あっくんが返ってくるのは12時30分くらいかな。丁度3時間ですねお兄さん」
「何をする気だ……」
「さあ、何でしょうね。あの女の子は確か……20分だったかな、それくらいでダメになったんですけど。お兄さんは男性だから1時間は持つかな……あ、でも安心してくださいね? 例え途中で壊れてしまっても、ちゃんと3時間きっちりお相手しますから」
心春の言葉に勝は大きく肩を震わせる、それは紛れもない恐れだった。
これから行われるのは世に出ぬ地獄、勝にとっての終わり、心春にとっては一つのスタート地点だった。