好きな人に全てを捧げることができず、体を思うがままにされたことは理不尽なことだ。その調教の果てに男に犯されることを望むようになり、愛する存在を捨ててしまったことも……だって仕方ないじゃないか。愛する存在の傍に居るよりも彼らの傍に居る方が気持ちいいのだから。
一途な想いさえも塗り替えてしまう快楽の呪い、悔しいが身を持ってそれを知った今となっては納得できる。薄汚い想いも、綺麗な想いも、純粋な想いの何もかも全てを洗い流すそれは手を出して辞めることができなくなってしまう麻薬のようなものだった。
一時だけの気持ちよさと分かっていても、もう逃げ出してしまうことができないほどには囚われてしまう。
――そしてそれは生まれ変わってもなお、快楽という呪いは私を蝕んでいた――
姿形は変わっても、中身そのものと言える魂までは変わらない。
楔のように打ち付けられた呪いは私を蝕み、そのことに対する嫌悪感の一切を排除する。そうして前の人生と同じことを続けていた私はある日、正に体に電気が走るほどの衝撃を受けた。
居たのだ――私の初恋であり、私が愛したあの人が。
その瞬間私はこの生まれ変わった世界が私の居た世界なのだと気づいた……正確には並行世界とも言えるのだろうけど。そんな世界で生きるあの人の傍にはやっぱり“ワタシ”も居た。どうせ彼女も私と同じようになる……そうなったらまたあの人は一人になる。そうなった時、私があの人の傍に居ればいい――私はそう考えた。
前の時とは違いヘマはしない、それどころかあの人を私に縛り付けてしまえばいい……私のすること全てに肯定を促し、そして私を愛し時に気持ちよくしてくれればいい。あの人に愛される中他の人に快楽で満たされ、そしてあの人は私の愛で満たされる……困る人なんてどこにも居ない。私もあの人もそれでずっと幸せだ……そう、思っていた。
でも現実は……この世界のワタシはどこかおかしかった。
――なんで……なんで何食わぬ顔であの人の傍に居るの!? あなたは“ご主人様”に犯されてるはずでしょ!? どうしてあなたは兄さんだけに愛を捧げ続けられているの!?――
前と一緒ならワタシはご主人様に黙って犯されているはずなのだ……それなのにワタシにはそんな様子は見られず、それどころか理想の恋人のように振る舞っているではないか。私に訪れた理不尽に襲われることなく、ただ愛する人を愛せるその姿に私は激しく嫉妬し憎悪した。
許さない……許さない許さない許さない!
私だけあんな理不尽な思いをしたのに、私と同じはずのアナタが幸せだなんて絶対に許さない。
そう、許せない……兄さんを奪う。そしてアナタを不幸にさせ、私と同じ目に遭わせてやる……間違ってない。私は絶対に間違っていない! それなのに……それなのに何なんだお前は!!
「ふざけるな……ふざけるな!!」
「……………」
ただ泣き喚く私とは違い、余裕さえ見せるワタシの様子に怒りが込み上げる。私のことを路肩の石ころのように見つめる無機質な瞳、全く気にさえ掛けていないその姿……これが本当に私なのかとさえ思えてくる。奪うと誓った、不幸にさせると誓った……そんな私の決意を粉々に砕くような恐ろしさ……この女は本当に私なの?
兄さんの前ならこの女は笑っていた……私だってよく浮かべていた笑顔だった。でも今は? 今この女の浮かべている表情は決して私が浮かべるような表情ではない。
「……アンタは……アンタは私じゃない……私じゃない!! アンタは誰なのよ!!」
「……………」
そうだ。この女は私じゃない。こんなにも物怖じしない女は私じゃ……水原沙希じゃない! 水原沙希はただ一途に兄さんを愛し、そしてその想いを利用されてご主人様に犯されるだけの弱い女だ。じゃないと……そうでないとかつて水原沙希として生きた私は何だと言うんだ!!
思う限りの罵声は目の前のワタシに届くも、やはりワタシは特に反応しない。
イラつく……本当にイラつく女だこいつは。
相変わらずの無機質な目、しかし僅かに憎しみを感じさせる目をした女に私が飛び掛かろうとした――その時だった。
「何を当たり前のことを言っているの? お前は私じゃない、そんなの当然のことじゃない」
ここに来てようやく届いたワタシの言葉に、私はポカンと間抜けに口を開けて固まるのだった。
沙希は目の前の女を哀れに思った。とはいえ何らかの形で愛する兄を苦しめていることが分かっているため、憎悪は消えないがそれでも……沙希はこの女を哀れに思った。
違う世界に生きた己自身、正直な所現実味がない話だが、少なくとも沙希には目の前の汚れた女が自分自身……というのは認めたくはないが理解できてしまった。姿形は違えど根本的な部分、所謂魂が同じということは理解ができたからだ。
女の叫びを聞いて分かる部分もあった。愛する人と違う人間に犯されて汚れてしまった体、今の自分では到底耐えることが出来ない屈辱。バラバラに引き裂いても尚消えることのない怒りとなることだろう。それ故に、この女がここまで壊れたことも一応の理解はできる……しかし、だからと言って受け入れられるかどうかと聞かれたら答えは残念ながらNOだ。それは何故か、そんなもの――沙希にはどうでもいいことであり、全く関係のないことだからである。
「どうでもいいよアンタのことなんて。だって、所詮違う世界のことでしょ? この世界に生きる私には全く関係がないもの」
「なっ!?」
沙希の言葉に女は口をあんぐりと開けて固まってしまった。
しかしそれも一瞬で、すぐに沙希の言葉を理解したのか顔が赤く怒りで染まっていく。
「ふざけるんじゃないわよ!! アンタも私と同じ、兄さんと違う男に弄ばれるだけの存在!! 無様に股を開いて男の精を乞うだけの醜い雌豚! そうよ、アンタは私と同じ……同じじゃないと不公平よ!」
醜く唾を飛ばして自分勝手な言葉を吐き続ける女の姿に、沙希はもう話をする価値はないと確信した。その瞬間、目の前の女が更にどうでもいい存在へと成り下がる。かつて自分の体を思い通りにしようとしてきた男と同程度、そんな風にさえ思えてしまう。
やはり……やはり兄だけなのだ。この世界で必要であり、自分が愛すべき存在であり、自分が全てを犠牲にしてでも守らなければならないものは。
「……なんか拍子抜け」
「……なにを……」
「兄さんを苦しめる何か、それが分からないからこそ私は怖かった。でも……蓋を開ければその正体は私と兄さんの仲睦まじさに醜く嫉妬しただけのゴミ女だった。こんな拍子抜けする展開ってある?」
「ふ、ふざけ――」
口を開こうとした女の喉元を思いっきり沙希は掴んだ。女性ではあり得ないくらいの握力で掴まれた首はミシミシと音を立てる。女は苦しみに悶えるが沙希は容赦しない。段々と失われていく女の力、瞳の光。沙希は女の目を覗き込んで残酷に笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「アンタも私と同じ水原沙希、それは認めてあげよっか。でもね、私とアンタは決定的な違いがある。私は兄さんと結ばれて幸せになり、アンタは兄さんと結ばれず幸せになれなかったっていう違いがね」
「……っ!!」
最後の最後にキッと目を鋭くした女だったが、そんな抵抗も長くは続かなかった。沙希の手を掴んでいた女の手は力を失い地面へと落ちる。
「アンタの分も幸せになってあげる。アンタが得るはずだった幸福は全部私がもらってあげる。アンタの代わりにたっくさん兄さんに愛し愛されてあげる。だから、安心して消えてね。天国か地獄かどっちに行くか分からないけど、そんなに獣のような交尾がしたいならあの世でどうぞ~♪」
「………………」
動かなくなった女の体を前にしても、沙希の罪悪感と言った物はなかった。
暫くして空気に溶けるように女の身体が消えて行く。そしてその場に居た沙希は辺りを見回し、小さく首を傾げて呟いた。
「……あれ、何で私こんなところに……って! もう晩御飯の準備しなくちゃ! 待っててね兄さん!!」
短いスカートが捲れるのもお構いなしに、沙希は物凄いスピードで自宅へと駆け出すのだった。