リヒテンラーデの孫   作:kuraisu

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遺老の心境

 夕方の皇帝暗殺未遂から始まった一連の帝都騒擾事件“黄昏の衝撃(アインシュラグ・デメルング)”の事後処理のために情報を収集し、仮皇宮で行われた臨時御前会議で当面の方針について結論が出た時には、既に夜遅い時間となっており、クラーゼンは自邸に帰宅するために部下が車を回してくるのをロビーで待っていた。

 

 ふとロビーにあるデジタル表示の大時計が視界に入った。液晶には「2/8/30 AM00:23」と表示されていた。どうやら知らぬ間に日付さえ変わってしまうほど会議は長引いていたようだ。老人にこんな夜更かしは酷であるとため息を吐き、ついで別のことが気になってぐるりと周りを見渡した。

 

「仮のものとはいえ、これが皇帝陛下のおわす宮殿とはな」

 

 頭では理解できていることなのだが、老元帥としては感覚的に違和感を覚えずにはいられない。皇帝の居城たるべき場所に、平然と機械設備が存在しているなどということは。

 

 ゴールデンバウム王朝の時代、生活空間に機械力ですむところに人間を使うことが、ルドルフ大帝の頃より続いていた地位の高さと権力の巨大を象徴する形式のひとつであり、伝統であった。最大にして究極のものは、無論皇帝の居城であった新無憂宮(ノイエ・サンスーシ)である。人類社会で最強の権力者が暮らすところであるのだから、至極当然のことであった。

 

 そうした価値観の世界で良くも悪くも権力者側の人間として長く生きてきたクラーゼンにとっては、やはりどうしても奥歯に魚の小骨でも挟まっているような気持ちになるのであった。あくまで仮の皇宮だからというのならまだわかるが、正式な皇宮となる予定の獅子の泉宮殿(ルーヴェンブルン)も旧王朝の旧弊に縛られずに機械設備を盛大に導入したものにすると新皇宮の設計・建築責任者のシルヴァーベルヒが豪語してるのを知っているので、そうなってもこの種の違和感は消えてくれないであろう。

 

 いや、それでも少しはマシにはなるかもしれない。この仮皇宮は、元々はフェザーン自治領の迎賓館であったものを帝国政府が接収したものだ。だから、クラーゼンの若い頃の記憶を少なからず刺激してくるのだ。

 

 まだ自分が上昇志向などというものを持ち合わせて、自己の能力への過信と未来への野心に満ちていた少壮の軍将校であった頃。フェザーン駐在弁務官事務所の駐在武官として、あるいは統帥本部所属の課員として、幾度となくこの迎賓館に足を運んだものだ。フェザーンの仲介の下に叛乱軍――いや、同盟軍との交渉をするために。

 

  かつて銀河帝国と自由惑星同盟が互いに人類社会唯一の正統国家であると主張し、相手の存在を国家として認めずに長きに渡って慢性的に戦い続けていたわけだが、それでも両者の間で直接的な対話や交渉が存在しなかったわけではなく、むしろ頻繁に行われていたことであった。

 

 形式的には帝国と同盟の双方の親である銀河連邦が用いていた宇宙海賊をはじめとした武装勢力との対話鎮定要領の流用で、一世紀以上前に当時の帝国軍の統帥本部総長と同盟軍の統合作戦本部長の名で両軍の間で最初の戦時協定が結ばれて以来、その戦時協定を根底として軍を窓口として外交交渉が幾度となく行われてきたし、時には限定的事柄ながら両者の間で秘密裏の協力関係が――特に後世有名なのは双方の間で勢力を強めていたサイオキシン・マフィア取締りのための協力であろう――構築されたこともあった。

 

 ちなみに最初の協定に署名したのが、軍務尚書ではなく統帥本部総長だったのは、軍務尚書だったら同盟側のカウンターパートが国防委員長とかいう文民政治家になってしまって、軍同士の話し合いであるという建前が崩壊するためである。

 

 そこまで無理して協力関係を結んだりするくらいならば「もう相手を国と認めろ」とか「戦争そのものをやめてしまえ」という意見も当然出て、幾度かはそのための交渉もなされたことはあったのだが、残念ながら双方が掲げる理念に深刻な矛盾をきたす問題を解決することができず、主流派や原理主義者の反対によって、その種の交渉に関わった者達の努力が実を結ぶことは一度もなかったのである……。

 

 ともかく、若い頃のクラーゼンはそうした同盟軍との交渉に少なからず参加していた経験があり、その際に交渉の場がフェザーンの迎賓館に設定されることはよくあることだったので、そんな場所が仮とはいえ皇宮になっているなどという奇妙な現実は、頭ではともかく、感情的に違和感なく受けいれることは困難なことではあった。

 

「クラーゼン元帥」

 

 古い過去の記憶の回想に耽っていると名を呼ばれて、クラーゼンは振り向いた。

 

「これは内務尚書閣下。いかがされた?」

「いえ、先の御前会議では内務省の顔を立てる発言をしていただいたことについて感謝を述べておきたいと思いまして」

「何をおっしゃるかと思えば。儂はただ思うところを素直に述べただけのこと」

 

 そう言ってクラーゼンはオスマイヤーに向けて微笑みを浮かべた。会議でクラーゼンは可及的速やかに帝都における軍の非常警戒体制を解除し、事後の調査等々は内務省が中心となって処理するべきではないかと発言したのである。

 

 なぜならば、完全武装した兵隊が街中を闊歩している事実は、まだ帝国に完全に順応していないフェザーン民衆の過剰な恐怖を抱かせ、今後の帝都の世論に好ましくない変化を及ぼす懸念があること。そして今回のテロの兆候を内務省は察知していたし、調査能力の面でもルッツとワーレンを狙った爆弾テロの実行犯を捕らえた実績もあること。この二点を理由として述べた。

 

 しかしながら、本音としては一刻も早く首都防衛軍が面倒事の矢面に立ちづける状況を終わらせたいというのが一番の理由であった。如何に皇帝陛下の勅命であるから「文句があるなら皇帝陛下に言ってほしい」と言い返せるとはいえ、長々とこの措置が続くようならば現場の首都防衛軍に、ひいては司令官である自分を敵視する者が増えるという事態に発展するのは避け難く、そんなことになる可能性は早めに潰しておきたかったのだ。

 

「打算なくそう思ってくださっているのならば、なおのこと礼を。正直なところ、内務省に対する周囲からの評価というのはよろしくありませんから」

「やはり他省と比べて守旧的に過ぎると言われておるからかな?」

「はい、巷で言われている通りです。特に近頃はラング次官が悪目立ちしていることがありまして如何とも。内務省内の保守派の意見をまとめてくれているわけですから、ありがたくもあるのですがね」

 

 オスマイヤーが自分にこんな話題を振ってきた意図が奈辺ににあるのか、周囲から伴食呼ばわりされている元帥はある思い当たることがあった。

 

「内務尚書閣下。申し訳ないが、これでも儂は武人でしてな。無骨者ゆえ、政府官僚の思惑や力関係などという話には疎い。いや、かつて副宰相を務めていたゲルラッハ子爵を筆頭に、名前に覚えがある貴族官僚がいくらか復権しておる程度のことなら存じておるが。あまり儂には関係ないこととしか思えませぬな」

「文官との棲み分けというものを尊重されておるわけですか」

「というより、率直に言えば面倒なのでな。軍内部であっても、よその部署の管轄に犯すのは快く思われないのが常だ。今回首都防衛軍が一時的に内務省の職権を犯すことになったのも、非常事態故であったのと勅命あってのこと。儂個人としては望んでやりたいことではなかった。先の会議で内務省を持ち上げる発言をしたことに、あえて理由をつけるなら、ある種の詫びですかなぁ」

「会議で陛下が仰った通り、元帥閣下は優れた識見をお持ちですな。これからも軍の長老として、ローエングラム朝のために共に献身できればと願わずにはおられませんな」

 

 軽く頭を下げるオスマイヤーに対し、クラーゼンは意識的に渋い表情作って、冗談じゃないよという口調で言った。

 

「あまり老人を虐めんでくれよ。まだ若い卿と違って、儂は無理できるような歳ではないのだ。今だとて、一刻も早く邸宅に戻って休みたいのだ。夜更かしなんぞ、するものではないわ」

 

 大袈裟に欠伸をして、眠たいことを強くアピールされたことに、オスマイヤーは苦笑して仕事の話を切り上げ、あたりどころのない世間話へと話題を転じた。オスマイヤーとしてはクラーゼンがラングたちと接近するために先の会議で内務省を持ち上げてたのではないかと疑ったのだ。

 

 国内治安に責任を持つ内務省の長として首都防衛軍司令官となったクラーゼンと仕事上の付き合いというものができていたが、副司令官のトゥルナイゼンに実務のほとんどを委ねてそれで良しとしいていたので、これまでオスマイヤーは目の前の覇気に欠ける高齢の元帥自身をさほど重要視していなかったのだ。

 

 はたしてクラーゼンは“政敵”となりうるような存在であるか否か……。軽く釘をさしての反応がこれであるならばさほど心配はいらぬかもしれないが、本心であるという保証もない。しばらくこの老人の言動にも注意を払わなくてはならないだろう。

 

「閣下、車の用意ができました」

 

 ロビーに戻ってきた大佐の階級章をつけた参謀の言葉にクラーゼンはひとつ頷いた。

 

「ではな内務尚書。さっきも言ったように儂はもう帰るから、首都警備の関する話ならトゥルナイゼンと話してくれ。あやつ、まだ司令部で仕事をすると言っておったからの」

 

 若さというものは羨ましいななどと言って去っていく老元帥を、何言ってんだこいつという感情が九割と羨ましさ一割の胸中で内務尚書は見送った。オスマイヤーはこれより内務省に戻って、まだ働かなくてはならぬ身の上であった。今回の一件に関連して急ぎ対応しなければならないことが山積しているのである。

 

 私邸に戻る途上、クラーゼンは車の後部座席の背もたれに深く身を預けながら、疲れた声でぼやいた。

 

「あの金髪の孺子め。楽をさせてくれそうにないな……」

 

 皇帝に対する不敬発言以外のなにものでもなかったが、車内には彼と運転席に座る参謀の二人しかおらず、この参謀はクラーゼンが予備軍総監だった頃から仕えていたこともあって、上官の気質をよく理解していたのでそこは気にならなかった。彼が気になったのは別のことである。

 

「何故です? 陛下より此度の対処についてもお褒めの言葉も頂けたのでしょう?」

「それだけなら良いのだがな。識見を評価され、今後も王朝のためにその力を役立てて欲しいと言われてはな」

 

 不愉快げに顔を顰める上官の姿をバックミラー越しに確認した参謀は不思議に思った。普通に考えるならば、それはむしろ喜ばしいことではないのかという疑問を抱かずにはいられなかったのである。

 

 そんな参謀の心境を察したのか、クラーゼンは軽くため息をついた。

 

「卿もまだまだ若いのう」

「……は? いえ、まあ、閣下に比べれば、はい」

「いいか。儂は帝国元帥であることに十分満足しておる。今更ハイリスクを背負ってまで今以上の役職が欲しいかと言われるとな」

「しかし閣下は、ヴァルプルギス事件の折、クーデター派にリスクを承知の上で役職を要求してませんでしたか」

「もしクーデターが成功していた場合、儂も敵視される恐れがあったからの。なにもしなくてもリスクを生じるなら、クーデター側にいい顔をしてやった方が良いと判断したまでのことだ」

 

 もしノイラートたちのクーデターが成功していた場合、クラーゼンはローエングラム新体制に順応して地位と権力を保っている名門貴族と見做されたことだろう。またマリーンドルフ伯と違って、オーベルシュタインなどに警戒されるのを厭って旧貴族に“思いやり”を施すことにも消極的であったから、何もしなければクーデター政権から敵視される可能性の方が高いと踏んだのだ。

 

 もっとも、実際はクーデターの推移がクラーゼンの予想以上にグダグダで、もしもの可能性に備えて変に日和見的態度をとる必要性すらなかったのかもしれないが。

 

 そして今回このタイミングで帝国軍全体の意思決定に関わるような役職に自分がつかされるとすると、ほぼ間違いなく昨日の事件の遠因でもある皇帝への忠誠というものを履き違えたアホどもの粛清で主体的役割を果たすことが望まれるであろうとクラーゼンは想像がついた。そうでなくても時節柄、軍縮の必要性が議論になっていたのである。

 

 つまり“旧王朝時代からのくたばりぞこないである高齢の軍高官が新王朝の恩恵を受けて出世してちょっと勘違いしてしまった若者どもを粛清する”構図だ。そんな役を演じるというのは、少なくない敵意を買うであろうし、大変なリスクである。

 

「少し誤ったか」

 

 会議での言動、いや、首都防衛軍司令官に就任してからの振る舞い方が少々迂闊であったかもしれないとクラーゼンは自省したい気分であった。

 

 旧王朝時代から置物元帥だの伴食元帥だの好き放題言われてきたが、そんな状態で一〇年以上も現役元帥のままであり続けるというのは結構大変なことなのだ。有能さを示し過ぎれば周囲の軍高官の警戒や関心を生んで軍中枢の派閥闘争に巻き込まれるし、かといって無能に過ぎればさっさと退役させるか予備役編入でもしてしまえという声に抗うことが難しくなる。

 

 オーベルシュタイン元帥が首都防衛軍司令官就任の話を持ってきた瞬間、クラーゼンは義眼の軍務尚書から示唆されるまでもなくどのような意図からきた人事であるかを理解したし、また副司令官にトゥルナイゼンをあてる予定だと聞かされて、こちらに関してはなんら示唆があったわけではないが、ある種のトゥルナイゼンに対する試験でもあるのだろうと察した。

 

 トゥルナイゼンは軍幼年学校の頃にラインハルトと同窓であり、名門貴族出身でありながらラインハルトの天才を認めていた彼は内戦時からラインハルトの側について戦って相応の地位を得ていたが、かつての遠征時に短慮からくる軽率な独断専行のために全体の作戦を乱して窮地を招く失態を犯し、辺境軍管区の司令官に左遷されたとクラーゼンは知っていたのである。

 

 だからクラーゼンは司令官というよりは監督のような心持ちで“トゥルナイゼン司令官”を観察し、必要とあれば上に立つ者としての在り方を指導を行うというスタンスをとった。クラーゼンの立場からしても、彼のような経歴の持ち主が軍中枢に復帰するのは自身の利益になると考えられたこともあり、かなり好意的に接してやっていたつもりである。

 

 そうした自身の打算と思惑をラインハルトは見抜き、能力を評価して他に使い道があるという考えに至ったのかもしれないと推測できるので、もっと慎重に動くべきであったかもしれぬという気持ちが湧いてくるのであった。

 

「しかし閣下ならその気になれば今の軍上層部でも張り合えると私は思うのですがね」

「買いかぶるな」

 

 クラーゼンは厳しい口調で参謀の意見を否定した。老元帥は自分の能力というものに見切りをつけていた。フリードリヒ四世より元帥杖を授かるところまでいったが、所詮、自分はそれと引き換えに軍内の主要派閥から疎まれ、一〇年以上も帝国元帥をやっていながら軍三長官の地位に一度もつけたことがない男である。巷で噂されているように旧王朝の頃から過去の人間であったという評も外れてはいないだろう。

 

 そのおかげと言ってはなんだが、エルウィン・ヨーゼフ二世即位から始まった枢軸派と連合派の対立にも自然と離を置くことができた。双方の陣営より一応元帥だからと取り込もうとモーションをかけてきた者が皆無だったわけではないが、積極性などまるでなかったので、適当に言を左右して中立を確保し、ある意味では安全なポジションで帝国内の動乱を観戦することができたといえる。そして退役したミュッケンベルガーが言っていたようにあの孺子バケモンだわ、という認識を抱いていた。

 

 そもそもあんなにも勢いよく内戦まで突入するということ自体、クラーゼンからしたら予想外すぎた。なるほど、枢軸派は中央官界はリヒテンラーデ公が、正規軍の艦隊はローエングラム侯が、それぞれ掌握していたかもしれない。だが、言い換えればそれだけだ。

 

 ローエングラム侯が軍部を完全掌握していたわけではなく、リヒテンラーデ公にしても政府はともかく宮廷内においては一派閥の長にすぎぬ。ブラウンシュバイク公とリッテンハイム侯が手を組んでいる以上、彼らの連合の宮廷派閥は本当の意味で比類なき規模と化しているわけで、宮廷闘争を挑んだ方が賢明だろうし、下手したらそれだけで片がつく。エルウィン・ヨーゼフ二世が他の有力皇帝候補を押し退けて政府が決定した経緯を筆頭に、攻め所は十分あるように思われた。

 

 だのに蓋を開けてみれば、凄まじい速さで内戦への道へと突き進み、最初の一発を放ったのが連合の盟主たるブラウンシュバイク公直属の部隊だったため、相手陣営を公然と“賊軍”認定できる大義名分と首都圏と皇帝の身柄を確保と帝国を二分する内戦の始まり方としては想像しうる限り最高のスタートを切っていた。

 

 あとで知ったことであるが、リヒテンラーデ公がこの機に数が増えすぎた帝国貴族の整理を考えていたので高圧的かつ妥協なき態度をとって連合側貴族の敵意を煽っていたこと、ローエングラム侯も宮廷闘争を続けられては面倒だと、自分に有利な戦争に引き摺り込むべく相当辛辣な裏工作に励んでいたゆえのことであったようだ。調べても一端しか知ることはできなかったが、クラーゼンは距離をとっておいてよかったと安堵したものである。

 

 そして内戦終結直後に今度は帝都で大鉈をふるい、政府内の動揺を最小限に抑えて独裁体制を構築したのが新王朝の今上の皇帝と軍と政府の枢要をしめている者たちなのだ。そんな連中相手に対抗して自分の意思を押し通していけるとはクラーゼンには到底思えなかった。

 

「対抗できるものが儂にあるとすれば、地位を守る才能くらいよ」

「地位を守る才能、ですか?」

 

 クラーゼンは口を端を歪めて深く頷き、車を運転している若い大佐に対して軽く講釈を垂れてやるかという気分になった。

 

「これはただ儂がそう思ってるだけだがな。自分の望む地位を手に入れる才能、自分の望む形で地位を使う才能、自分の望む地位を守り抜く才能。この三つは同じようでいて実は根本から違う才能なのではないかと思っておってな」

 

 自分の望む地位を手に入れる才能とは、出世能力。いや、出世に限らず、自分が欲しい地位や役職をその手につかむ能力だ。とにかく己がなりたい社会的存在になれる才能とでも言っていいかもしれない。

 

 自分の望む形で地位を使う才能とは、権力者としての能力。地位や役職に伴う権力を自分の欲望や理想のために十全に使いこなす能力だ。人を道具として使える才能とでも言うべきか。

 

 自分の望む地位を守り抜く才能とは、保身能力。言ってしまえば既に手に入れているものを守り抜く能力だ。この三つの中では一番見栄えの悪い能力であろう。

 

 長い人生の中での経験から感覚的にこれらはそれぞれ別の才能であるという認識をクラーゼンは持っていた。そして野心を持って上の席を目指して四苦八苦していた頃と比べて、軍のお飾りとなって一〇年以上、幾度となく軍上層部で面倒事に巻き込まれたものだがその度に巧みな遊泳術で特に危うげなく乗り切ってきたし、王朝の交代という未曾有の大事変にも上手く対応してのけ、今現在も現役の元帥であり続けているのだ。そのため、自分には地位を守る才能において突出したものがあったのやもしれんとクラーゼンは自負していた。

 

「……ただの世辞の類という可能性もある。そうであってくれれば嬉しいのだが」

 

 御前会議での皇帝の発言はリップサービスとも思えなくはないのだが、それにしては熱が籠もっていたように感じられた。用心をしておくに越したことはない。長年軍上層部に意地でも居座り続けた遺老としての嗅覚が、警戒すべしとしているのだ。

 

 ローエングラム王朝の世においても高級軍人としての命脈を保っているが、クラーゼン自身には新王朝が行った数々の改革に対する共感などない。むしろ不快感の方が強い。本質的にクラーゼンは旧王朝末期の軍高官の平均値的な思想と価値観を有しており、改革のせいで少なからぬ実害を被ったのだから当然である。現在の主君であり至尊の座に座っているラインハルト・フォン・ローエングラムに対しても陰では昔と変わらず“金髪の孺子”という蔑称を用いるくらいには嫌っていた。むろん、無用な敵意を買うだけなので発言する時と場は十分に選んでいるが。

 

 そんなクラーゼンが今まで生き残れたのは、ゴールデンバウム王朝の時代からある種の冷遇というか、敬して遠ざけられている立ち位置であったために独特な達観を持っていたからである。そして個人としては現役の帝国元帥であり続けること、貴族の当主としてはクラーゼン家が歴史ある名門貴族家として恥ずかしくないだけの地位を維持すること、この二点以外は究極的には妥協しても許容範囲だと素面で思っている感性ゆえであった。

 

 特に現役の帝国元帥であることは重要であった。現在でも大元帥たる皇帝や同階級のオーベルシュタイン、ロイエンタール、ミッターマイヤーの三者以外の高級軍人は内心はどうあれ自分に敬意を払わねばならぬのだ。これはクラーゼンの個人的な虚栄心を満足させるものであった。そうした感情面を抜いても、直に軍部の空気に触れることができるのは保身のための情報取集の観点で実益があった。

 

「予想があたっていれば、若い皇帝陛下のお手並拝見かのう」

 

 野心に乏しく寝ても起きても自己保身のことばかり考えていて、しかも少々の持ち出し程度は覚悟している大貴族というものは、改革志向者にとっては最高に面倒極まりない生き物である。

 

 ましてや自分だ。皇帝がそれを理解して使いこなせるのならばそれで良し。もし違うようなのであれば、非常にリスクが高いことをしなくてはならぬ羽目に陥る可能性が高いが、同時にあの華麗なる皇帝陛下の顔が醜く歪む光景を間近で見れるかもしれん。そんな想像をしてクラーゼンは微かに意地の悪い笑みを浮かべ、ついでそれをかき消すかのように大欠伸をした。

 

「……眠いの」

 

 こんな時間まで儂のような老人を働かせるなど帝国の敬老精神今何処、と、クラーゼンは胸の中で呟いた。

 


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