リヒテンラーデの孫   作:kuraisu

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黄昏の衝撃-我に一人の戦友ありて

「ジークフリードなんて、俗な名だ。でもキルヒアイスって姓はいいな。とても詩的だ。だからぼくはきみのこと、姓で呼ぶことにする」

 

 後のラインハルト・フォン・ローエングラムが、まだミューゼルの姓を名乗っていた少年時代に、生涯の盟友にして親友となるジークフリード・キルヒアイスと初めて出会った際に言ったとされる言葉であるが、どうしてジークフリードのことを俗な名前というのかが後世では不思議に思われることがしばしばある。しかし、当時ではごく普通な感覚であった。

 

 帝国のどこでもいい。どんなに人口希薄なド辺境の有人惑星であっても、まともな帝国領の星であれば住民の名前を調べ上げれば少なからず“ジークフリード”とか“シグルズ”とかいう名前を持っている男が絶対に何人かは見つかるはずだ、という言説は当然のこととして受け入れられていた。それは誇張表現ではあるが、当時の帝国の戸籍記録を調べてみると、北欧神話に登場する竜殺しの英雄に由来する名前を持つ帝国人は本当に多かったようである。

 

 どうしてありふれた俗な命名としてゴールデンバウム王朝の世では広く普及したのか。初代近衛兵総監として“皇帝の盾”の異名をとったシグルズ・フォン・ケッテラーの名声が為という説も存在するが、彼に並ぶ名声を持った帝国黎明期の傑物などいくらでもいたので、やはりどうしてそんなありふれた名前になってしまったのかは、当時の記録をどれだけ調べてもよくわからないとしかいえない。

 

 そんな当時の帝国では最低でも数千万人は存在したありふれた名前を持つ男の一人、ジークフリード・ラーンの出自は、ありふれた名前にふさわしいというべきか、特筆すべきところが特にない平凡極まりない出自であった。強いて言えば、当時カストロプ公爵家の領地だった有人惑星で、愛情で堅く結ばれたおしどり夫婦の下に生まれ、平民としては物質的にも精神的にも恵まれた環境で育ったという程度であろう。

 

 彼の人生も、やはりというべきか、平凡なものだった。特別優秀でもなければその逆でもない態度で学校生活を送り、高校卒業後は地元の製パン工場で働く予定であった。しかしちょうどその頃に帝国軍務省から兵役通知の手紙が届いたのである。ラーンは正規軍に行くことを嫌がった。彼の両親も息子を領外に出すのを嫌がった。そこでラーンはカストロプ公爵家の私設軍に志願することにした。

 

 これはラーンの一家が故郷への愛着が強かったからとか、そのような事情からくるものではなく、もっと俗なものであった。理由は主に二つ。第一に、貴族家の私設軍に勤務することは、その貴族家がよほど複雑な事情を抱えてもいない限りは正規軍で兵役につくよりは安全であることが多く、また私設軍も広義では帝国軍の一部と見なされており、私設軍に勤務することも兵役義務を果たしていることにされるからである。第二の理由は、カストロプ領民だからこその事情であった。

 

 当時のカストロプ公爵家の当主オイゲンは比較的堅実な統治体制を築いて管理していたので、領民からは素朴に敬慕されていたが、貴族社会がおいては不法貯蓄が過ぎると悪評が高く、ある意味では同類の門閥貴族たちからも“公人としての法則を守る気がない”と問題視されており、帝国中央政府の司法省に至っては“状況証拠ではない明確な物証さえあれば即刻逮捕状を出してやる”と憎悪されている人物でもあったのである。にもかかわらずオイゲンが自由の身でいられたのは、帝国における貴族向けの法の網の目が荒いためというのも無論あったが、それ以上に当人の奇術師染みた手腕に寄るところが大きかった。

 

 領主憎ければ領民までも憎い、というほどでもないのだが、領主の悪評が領民の帝国内での活動にいくらかの悪影響を及ぼしているのは事実であった。とりわけカストロプ公オイゲンが財務尚書の座を退き、宮廷派閥の領袖としてはともかく、政府においては無位無官の身になってからはそうした傾向が帝国全体で強まっており、正規軍内においてもカストロプ領民出の兵士への私刑が横行しているという噂も流れていて、ラーンはそれを警戒したのである。

 

 通常、貴族の私設軍への入隊は忠誠心やらコネやらが重視されるものであるが、カストロプ公爵家私設軍についてはそれはあまり問題とはならなかった。というのも、公爵家当主の子息マクシミリアンが私設軍司令官の地位にあり、実戦的な軍隊の育成に並々ならぬ関心を持っていた。それは次期公爵家当主たる責任感や使命感からきたものというよりは、マクシミリアン個人の趣味嗜好からくるものが大きかったようであるが、ともかくもそのお陰でラーンはほとんど無条件で私設軍に属することができた。もっとも、過酷で実戦的な訓練の日々に逃げ出したくなるのを必死に我慢する兵営生活を送る羽目にもなったわけであるが。

 

 とはいえ、本来ならば数年の我慢ですむはずであったが、ラーンが私設軍に属して二年目、帝国暦四八七年の初頭に公爵家当主であったオイゲン・フォン・カストロプが宇宙船事故で死亡したことを切欠に彼の平凡だったはずの人生の歯車は大きく狂った。この事故を受けて財務省と司法省は活気づいた。もとよりオイゲンの政治的保身術を前に煮え湯を飲まされ続けてきた彼らである。死者に鞭を打つことに躊躇いはなく、オイゲンが行なった不法貯蓄に対する徹底的な調査を行い、帝国貴族基準の常識でも不法に収奪された国富としか言いようがないカストロプ家の財産を合法的に接収せんとしたのである。

 

 そのような意図で帝国政府から派遣された調査官をマクシミリアンは感情的に追い返してしまい、それが宮廷で問題視されていると知ると、粛清に対する恐怖の感情に支配されて後先考えないまま軍事的防衛策をとることを決意してしまった。これを受けて帝国政府は討伐軍を差し向ける決断を下すことに些かの躊躇いもなくなり、カストロプ家は帝国に仇なす逆賊であると発表した。世にいうカストロプ動乱のはじまりである。

 

 ラーンたち末端の私設軍兵士は、自分たちが帝国に仇なす逆賊となってしまっていることに動揺したが、それでも多くの者はマクシミリアンの叛逆に付き合うことを選んだ。公爵位を正式な形で相続できてすらいないマクシミリアンに思うところはあっても、公爵領そのものに対しては先代の恩顧もあって愛着を持っている者も多くいたし、ここまで明白に帝国に対して弓引いた貴族領に対し、帝国政府が如何に寛容ならざるかを十分に知っていたからである。

 

 このように最初から辛うじて戦闘可能な程度の士気はあるカストロプの私設軍であったが……意外にもあっさりと最初の討伐軍を撃退できてしまった。帝国の正規軍が舐めてかかっていたというのもあるが、マクシミリアンが特に必要性もなく実戦的な軍隊が欲しいと育成に傾注していたカストロプ公爵家私設軍の練度は正規軍のそれと比しても見劣りしない程度には鍛えられ、装備も充実しており、また司令官を務めるマクシミリアンの戦術家としての才能も並みの帝国軍将官に引けを取らないものが信じ難いことにあったのである。

 

 その次に派遣された第二次討伐軍も地の利を生かして犠牲少なく撃退することに成功してしまうと、カストロプ軍の者たちの多くは皆浮足立った。もしかすると、なんとでもなるのかもしれない。そんな楽観的雰囲気が下士官兵の間に広がったのである。そしてあろうことか、本来そうした感情を叱りとばすべき立場にあるはずのマクシミリアンが一番調子に乗っていた。

 

 彼には戦術指揮官としての才能はあっても、戦略的視野も政治的手腕も持ち合わせてはいなかったし、仮に持ち合わせていたならば、これ以上戦い続ければ帝国の損害が甚大になるであろうと脅しでもかけて交渉による事態の終息をはかったであろう。いや、そもそもマクシミリアンにそんな現実的な感覚があれば、この動乱が起きなかった可能性が高い。

 

 冷静な判断をと進言する賢明な家臣団の言うことに耳を貸さず、マクシミリアンは近隣の貴族領を制圧・併合して、フェザーン自治領のように高度な自治権を持つ半独立地方王国を創出しようなどという無謀な野望を抱き、自ら戦線を拡大して根拠地たるカストロプ本星を兵力を空にしてしまう愚を犯し、その状況を巧みに利用したジークフリード・キルヒアイス少将の率いる第三次討伐軍にカストロプ公爵家私設軍は惨敗することになった。

 

 一度大敗するとマクシミリアンの人望は失墜した。カストロプ公爵家家臣団にとって、これまで忠誠心の対象としてきたのは先代のオイゲンであって、その子たるマクシミリアンは軍隊好きの放蕩息子に過ぎなかった。これまではマクシミリアンを取り囲んでいた私設軍首脳部への恐怖と、とにもかくにも勝っていることから従っていた家臣団だが、敗けたとあっては従ってやる理由を見いだせず、少しでも自分たちへの処罰が軽くするためにマクシミリアンを弑逆して殺すことになんら躊躇いはなかった。

 

 兵士だったラーンは多くの同僚が戦死したものの、運よくカストロプ動乱を生き抜いていた。しかし自分の未来に対しては悲観的にしかなれなかった。帝国の権威に泥を塗る行為である地方貴族の叛乱を鎮圧するに際し、民衆のガス抜きと他の貴族への見せしめの意味も込めて虐殺・略奪をある程度は暗黙の裡に認めるものだ。マクシミリアンの首を対価にしてそうした悲劇を回避することができるのか? 仮に回避できたとして、自分たち私設軍に属した兵士もその恩恵に預かれるものだろうか?

 

 マクシミリアンの叛乱はなによりも私設軍が協力していたからこそ、やれてしまったことというのは動かしがたい事実である。無論、マクシミリアンに忠実だったのは私設軍のお偉方のことであって、ラーン達兵士はただ命令に従っただけであるが、その差を相手方が峻別してくれるというのは望み薄だった。事実、公爵家の家臣団たちは私設軍に属する者たちを分け隔てなく平等に拘束しており、犠牲の羊(スケープ・ゴート)として、やってくる占領軍へのマクシミリアンの首と同じ手土産にしてしまう気を隠そうともしていなかった。

 

 だが、結果からいうとラーンの心配はほとんど杞憂だった。カストロプ本星に降り立ったキルヒアイス提督は麾下の将兵たちには乱暴狼藉を固く禁じ、共にやってきていた内務省・財務省・司法省の文官たちと共に戦後処理にかかった。彼らはカストロプ家の不正貯蓄の接収と旧公爵領の統治を円滑ならしめるために、マクシミリアンの首をとったことを名目によほどのことがない限り寛大な措置をとった。カストロプ私設軍に対しては内務省と司法省の役人は断罪を叫んだが、キルヒアイスはローエングラム元帥府が引き取ることを申し出た。

 

 形式上、各貴族家の私設軍は帝国軍の各軍管区に属する警備隊である、という建前がある。貴族家が承知し、軍務省か元帥府での手続きができるのであれば、正規軍に吸収合併するのも不可能なことではない。今回のようなケースで私設軍を吸収するのも前例がまったくないというわけではなく、文官たちも承服したので、旧カストロプ私設軍はローエングラム元帥府のキルヒアイス艦隊に吸収合併される形で処理された。ラーンが心配していた方向性とは、かなり異なる意味で手土産にされてしまったわけである。

 

 そうしてキルヒアイス艦隊に兵士となったラーンだったが、そんな彼の乏しい軍事知識を前提に見ても、自分と同名の艦隊司令官の力量はとんでもないものであるような気がした。所属替えしてすぐに辺境の叛乱勢力の大侵攻を撃退するべく出撃するなど言われた時は、どんな激戦の渦中に放り込まれるのかと不安になったものだが、特に危うげなく勝利してしまった気がする。少なくとも、カストロプ動乱の時よりは死の恐怖を身近に感じることはなかった。

 

 翌年のリップシュタット戦役に関しても似たようなものであった。敵方である貴族連合の軍隊との戦闘よりも、占領した貴族領の統治で苦労したことのほうが多かった。むろん、ラーンは当時は一等兵の階級であって、彼がかかわったことなど使い走りの警察官の代行染みた些細なことであって、そんな大層なことはしていないのだが、彼が紛いなりにもカストロプ領以外でそんなことをしたのは初めての経験で、またその占領地の貴族領主は領民から必ずしも慕われていなかったのか、民衆は枢軸陣営の軍人や文官に好意的であり、ラーンとしては悪い気はしなかった。

 

 そしてこれらの経験は、たいした政治思想などというものを持ち合わせていなかったラーンに、ある感慨を抱かせた。よくよく考えてみると、自分の人生は、伝統的な大貴族どものせいで、ややこしいことになってしまったのではないか? そんな考えは、内戦終結前後にリヒテンラーデ公の謀略で雲上人の上官であったジークフリード・キルヒアイスが死に、それに次ぐリヒテンラーデ閥の粛清とローエングラム独裁体制の成立による大改革の恩恵を直に受けて確信に至り、彼は兵役満了後にちょっとした反貴族主義団体の集会など顔を出すようになったのは自然な成り行きであったろう。

 

 もっともこの頃のラーンの反貴族の思想は、大貴族が嫌いという以上のものでは決してなかった。しかし新帝国暦一年一二月三日に近衛参謀長カリウス・フォン・ノイラートを首班とするクーデター、ヴァルプルギス事件の報道を聞いて一変した。彼らの目的が、旧体制下における貴族階級の復権であったというのは、ラーンには言語道断なことのように思えた。

 

 ラーンは自ら望んで過激な反貴族主義団体を渡り歩くようになり、反貴族の姿勢を先鋭化させていった。先日のノイラートが公開裁判にかけられ、処刑された報道に触れても、彼が最後まで責任と罪はすべて自分たちにあり、他の貴族たちにあるわけではないと言っていたのも、貴族同士の庇い合いとしか思えなかった程度には。

 

 彼がフェザーンでの“義挙”に参加したのも、そうした流れからであった。彼は今回の行為の正統性を確信していた。ヴァルプルギス事件で貴族がやらかしたことで、旧体制下の貴族官僚が復権しつつあることは、皇帝ラインハルトにとって大変不愉快なことであろうし、亡き上官であるキルヒアイスの遺志に添うことでもある。そんな風に考えて仲間たちと行動を起こしたのであったが……。

 

「ブレフーン中尉、ご苦労だった。流石、長年フェザーンで警備をしてきた専門家だ。実に手際が良い」

「いえ、エーベルハルト大佐が事前に適切な警告を下さったからで、私のみの実力によるものではありません」

「それはトゥルナイゼン副司令官の判断によるものだ」

 

 混乱に乗じて宮内省を襲撃し、貴族官僚どもを抹殺する手筈であったのに、動きに出た瞬間待ち構えていた首都警備軍の一部隊に、ラーンたちはたいした拘束されてしまっていた。腕を後ろ手にまわされて手錠をかけられ、後ろから兵士たちに銃をつきけられていた。しかしラーンの闘志は挫けず、会話している中年の参謀将校と帝国軍ではまだ珍しい女性将校を憎々しげに睨みつけていた。

 

 エーベルハルトはラーンたち捕虜たちの方に向き直って胸を張り、いかにもな自信に溢れ、それでいてどこか優しげな口調で語り始めた。

 

「さて諸君。卿らに残された選択はふたつだ。ひとつはこのまま裁判にかけられること。とはいえ、大胆不敵にも帝国の中央官庁を襲撃せんとした凶悪な犯罪者どもだ。まずもって極刑は免れまい。しかし今すぐ己が所業の罪深さを悔い、われわれの仕事に協力するのであれば、多少の慈悲があろう。罪一等を減じられ、生命だけはまっとうすることも叶うやもしれぬ。素直にわれわれの質問に答えてくれることを期待したいのだが」

 

 このような切り口をしたのは、旧王朝時代の、既に特権階級としての実態を失いつつある者たちを執拗に鞭打って悦にいっている輩など、意志薄弱で世間の空気に流されやすく、そして自己の責任感というものが欠如しているという認識をエーベルハルトは持っていたからである。

 

 なので威圧しながらも懐柔的な態度をとってやれば、転んで情報を提供する奴がでてくるのではないか。もちろんこれほど大それたことをしでかした以上、死ぬ覚悟らしきものをしているのかもしれぬ。だが、全員というわけでもあるまいと考えたのである。しかしそれがラーンの神経に触れ、叫んだ。

 

「ふざけるな! 俺たちに罪などない。かつてこの帝国を腐らせ、今も恥知らずにも巣食っている寄生虫な貴族どもを駆除しようとしただけだ! 貴族どもが大きな顔をできなくなる世界、それは亡きキルヒアイス元帥の悲願でもあったはずだ。この宮内省には尚書のベルンハイム以下、生き汚い連中がたくさん居残っている! そもそも――」

 

 エーベルハルトは呆れたように肩をすくめた。すべて、何処かで聞いたようなありきたりな文句だ。帝国で新体制が発足した後に再開ないしは創刊された、扇情的で大衆迎合主義的な雑誌、とりわけ自分の頭で考えるということを知らん愚民向けと思しきものを紐解けば、いくらでもでてきそうな文句の塊であった。薄っぺらすぎて、まともに聞く価値がない。

 

 だから涼しげに悠然と聞き流して余裕のある姿を見せようとしたのだが、()()()()をラーンが口に出した瞬間、そんな思惑は頭から吹き飛んだ。

 

「いま、なんと言った?」

 

 その声は決して大きいものではなかったが、その声を聞いた途端、ラーンはまったく無意識のうちに言葉の奔流をせき止めた。目の前の参謀将校の冷たく鋭利な殺気にあてられ、剣の腹で己の首筋を優しく撫でられたような怖気を感じたのである。

 

「なんだ。先ほどまでの饒舌さはどうした。黙っていては何もわからんぞ」

 

 他者を威圧する気迫をまといながらツカツカとエーベルハルトは歩み寄り、そして無言でラーンの喉元に右手を突っ込み、そのまま掴み上げた。片腕で持ち上げられるかっこうになったラーンは呼吸ができずに激しくもがくが、まったく気にせずに、なんの感情も察することができない虚ろな瞳をしながら、平坦な声で、続けた。

 

「何故、あの人のことを貴様が語るのだ? 貴様はあの人と一緒に戦場を共にしたことがあるのか? あの人の戦友だったとでもいうのか?」

 

 知らず右腕に力が入り、ラーンは新鮮な空気を求めて鼻息がうるさいほどになっていた。周囲の兵たちと同じくエーベルハルトの放つ他を圧する雰囲気に飲まれていた警備部隊長のブレフーン中尉は、その光景の意味を頭で理解する同時に血相を変えて叫んだ。

 

「ノルン・フォン・エーベルハルト大佐! すでに捕虜にした相手に、憲兵でもないのに、強度の尋問を行うのはどうかと!?」

「……ちぃッ!!」

 

 その静止の言葉でエーベルハルトは強く舌打ちし、ゴミでも捨てるようにラーンを宙に放り投げた。地面に強打した痛みと酸素不足で意識は朦朧としていたが、それでも自分をこのような目にあわせた存在に対する恐怖から反射的に距離をとろうとしたが、体がついてこず、まるで死にかけの虫が足をばたつかせているような格好になった。

 

 そんな蛇に睨まれた蛙のような怯懦ぶりを見て、「こんな奴が……!」とエーベルハルトは激しく憤った。

 

「答えろ、この臆病な卑怯者め! 貴様があの人の――クレメント少佐の、何を知っていたというのだッ?!」

 

 迂闊といえば迂闊であったろう。エーベルハルトは一部の過激な反貴族主義者たちが、ブルヴィッツの虐殺を起こしたクレメント元少佐が英雄視されていることを、知識としては知ってはいた。だが、こんなことをしでかしたクズどもの口から、その名前が出てくることを事前に想像できていなかったのだ。

 

 故キルヒアイス元帥については、いいだろう。現に内戦で多くの貴族の首をあげた男である。皇帝ラインハルトにとって最大の同志にして盟友であった男が、この手の連中が持ち上げるのはわからぬことではなかった。いや、かつては領地を持つ貴族の末席に名を連ねていたエーベルハルトも心の奥底では穏やかならざる感情を持っているからこそ、わかる。だが、クレメントは違った。

 

 エーベルハルトにとって、クレメントは世間でどう言われようが、なによりも第一に尊敬した上官であった。士官学校を出たばかりで、傲慢で現実の戦場を知らない新米少尉だった自分に、厳しくも優しく教育してくれた恩師であった。帝国軍将校として自分がここまでこられたのは、彼の指導あったればこそと思っていた。そんな彼がブルヴィッツの虐殺者として謗られるのは、辛いことだが、事実であるから仕方がない。だが、このような輩から英雄視されてよい人物では、断じてないはずだ。

 

「なにを、知っていたか、だと……?」

 

 いまだに呼吸が整っておらず、全身は痛みを訴えており、さらにはまだ目の前の存在に対する恐怖に体が震えていたが、ラーンの眼光に粘着質な熱が宿る。彼は、自分の無知を指摘されるのが苦手だった。自分に知恵があれば、もっと良い人生を送ることができたのかもしれないという感情が胸中にあるからこそ、激しく劣等感を刺激され、反射的に言い返さずにはいられなかった。

 

「知っているとも! 民衆から搾取し、肥え太っていた何百万匹ものブルヴィッツの豚ども、そいつらの罪を贖わせた英雄さ! 貴族とそれに阿っていた連中を一掃したんだからな。もし今も生きておいでなら、他の貴族どもを殺しまわっていただろう。あんたも貴族なら、その対象になったかもな!!」

「こ、このクソガキがァアアッッ!!!」

 

 そう叫ぶや否や、エーベルハルトはブラウターを引き抜き、照準をラーンに向けた。今更情けない悲鳴をあげて怯えるクズや動揺する兵のざわめき、金切り声で自重を促すブレフーンの声が耳には届いていたが、脳はそれをどうでもよいことと即断した。目の前の不愉快極まる存在の生命を消しさることに、なんら支障となるような要素ではない。

 

 激情の命じるままブラスターの引き金をひく――刹那。エーベルハルトの視界に、ここにいるはずのない二人の人間の幻覚が見えた。一人はお腹を膨らませた女であった。エーベルハルトの妻である。そうだ、もう妊娠して一〇ヶ月。そろそろ産まれても不思議はないので入院生活を送っている。医者はお腹の子は女の子だろうと言っていた。そしてもう一人は今なお尊敬する元上官の姿だった。彼は悲しそうな顔をしていた。「おまえまで、こちらに来ることはないだろうに」とでも言いたげに。

 

 それは激しい怒りに対抗する理性が起こした現象だったのか。それとも激しく荒れ狂っていた心が不意に見せた幻影だったのか。いずれにせよ、それを見たエーベルハルトは引き金を引く寸前だったブラスターを「畜生ォ!」と叫びながら地面に叩きつけたのであった。

 

「クソッ! なんでだ!? があああああッ!!」

 

 とどまることのない感情の荒波を沈められず、強すぎる奇声をあげながら、地団駄というには激しすぎるほど勢いよく何度も地面に向けて足を蹴りつけた。やがて地面に叩きつけたままだった自分のブラスターを拾い上げ、肩で息をしながら、近くにいたブレフーンに涙声で語りかけた。

 

「すまない、見苦しいところを見せてしまった……。すぐ復帰できるとは思うが、いまは、自分を抑えられる自信がない……。三〇分、いや、二〇分ほど休ませてくれ。その間、中尉に全部任せる……」

「え、ええ……」

 

 気圧されたブレフーンの返事を聞き、エーベルハルトはその場から少し離れて、ぼんやりと空を仰ぎ見た。沈みゆく太陽が、空を茜色に美しく染め上げていた。それを見つめながら「どうして」と弱々しい呟きが、意図せずしてこぼれ落ちた。

 

 昔はもっと単純な生き方をしていた。小なりとはいえ領主貴族の一族に生まれ、少しでも領地の為になろうと軍に奉職し、やがて退役して父の跡を継ぎ、領主として貧しいながらも領地を健気に経営していく。幼き頃に思い描いた自分の人生の未来図はそんなものだったし、その絵図どおりの人生を、二〇代の後半頃までは歩んでいたのだ。

 

 しかしある時からなにかがおかしくなってしまった。原因はハッキリしているのだが、それを公然と口に出すのは憚れる立場であった。なぜなら守るべき生活がある。家庭がある。昔を懐かしんでも、歴史の歯車は常に回転し続け、戻れぬ時を刻むもの。ヴァルプルギス事件を起こした連中みたいに駄々をこねても、どうにもならない。そのことを弁え、エーベルハルトは明晰な頭脳を働かせ、ローエングラム王朝黎明期の激動の時代をこれまで生き抜いてきた。

 

 だが、心が、どうにもならない。いつだってそうだ。頭ではわかっていることなのに、心が、感情がままならない。最近は特にそうだ。傷つき磨耗し、砕け散ったはずの帝国貴族としての矜持の残滓を、まだぬぐいされていないからなのか。だから、こんなにも苦しまねばならぬというのだろうか。元上官が味わっていたであろう懊悩呻吟(おうのうしんぎん)に比すれば、精神的なそれにとどまっているだけマシだとは思うのだが、理性で感情を抑え続けるのは、耐え難いものを耐えているような、背中に見えない重石がのしかかっているような、そんな疲労感に苛まれている。

 

 もしも世界が思い通りになるのならば。そんな風に考えてしまうのは、己の弱さゆえか。自分に力があったならば、己の心に素直な人生を歩むことできて、こんな息苦しさなど感じずにすむのだろうか。それとも……。どことなく不気味に輝きながら沈みゆく地平線上の夕陽になにかの姿を重ねて睨みつけて、エーベルハルトは当てどころのない虚しさと怒りと嘆きから、両の腕を静かに震わせていた。

 

「ひどい騒ぎでしたね、ブレフーン二等士」

 

 一方その頃、参謀将校の異様な狂騒のせいでいまだにぎこちないところがあった警備部隊に指示を捕虜たちを宮内省の一室に閉じ込めるように兵たちに指示を出したブレフーンに、古くから付き合いのある下士官が声をかけてきた。それに対し、ブレフーンは眉根をひそめた。

 

「もう自治領警備隊はなくなったのよ。昔の組織の階級じゃなくて、中尉と呼びなさい」

 

 彼女たちは元々帝国軍人ではなく、フェザーン自治領時代に存在した警備隊に所属していたスタッフであった。旧帝国暦四八九年の暮れにフェザーンの自治権が停止され、帝国領に組み込まれた際、警備隊も解体されたのである。警備隊の隊員たちは、大きく分けて二つの道を選んだ者が多い。ボルテックの代理総督府の自治領警察に移籍するか、帝国軍に移籍するかである。ブレフーンが帝国軍ではまだ珍しい女性将校なのは、生え抜きの帝国軍人ではないからなのである。

 

 一応、自治領の軍隊として扱われていたのが警備隊なのだが、かつてのフェザーンは同盟と帝国を商売相手として、あるいは魅力ある大きな市場として見ていた一方で、どちらも破壊と殺戮で国を守っている低脳どもの国だと密かに見下しているのが普遍的な価値観であった。したがって警備隊の任務もどちらかといえば警察の補助的組織としての顔が強く、エーベルハルトのように幾多の戦場を巡ってきた本物の勇者の狂気じみた殺気をあてられて、先ほどは居竦まってしまったのであった。

 

「そうでした。中尉。しかし、ああいうのを見るとやりきれませんね」

「ええ、なにかしら遺恨がありそうなのは察せられたけど、テロリストとはいえ拘束した捕虜に手をあげ、その上、銃撃しかけるなんて……それもお偉いさんがねぇ」

 

 一世紀以上も飽きずに戦争をしていたような正規軍の職業軍人なんて、それくらいの野蛮さや殺伐さがあって当然なのかもしれないけれど。そこまでは口には出さないのが、ブレフーンなりの良識であった。なにせ、今や彼女もその帝国軍の一員として、禄を食む身なのだから。




かなり前の話になりますが「復讐鬼として散った軍人の戦友たち」の回を読み直すと、新しい発見があるかもしれません。

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