リヒテンラーデの孫   作:kuraisu

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廃墟と残骸の怨念

 ゲオルグがプルヴィッツから旅立った頃、銀河帝国の首都星オーディンから約八〇〇光年離れた辺境星域に存在する、太陽系第三惑星地球でひとつの動きがあった。人類発祥の地にしてかつての超大国であったが、現在ではほとんどの人の記憶から忘れ去られてしまっている惑星である。宗主国時代の横暴さによってラグラン・グループ率いる植民星連合軍によって完膚なきまでに破壊され、ラグラン・グループの最後の生き残りであったタウンゼントの死によって脱地球的新秩序が崩壊し、九〇年に渡る戦乱と混沌の時代の末、悪役としての存在感すら失ってしまったのである。どれほどかというと銀河連邦時代初期の頃に自治権を認める議決が議会でされたという程度の記録しか残っておらず、銀河帝国の創始者ルドルフにいたっては地球という辺境の惑星が、まだ人類社会を構成する一要素として存在していることを理解していたか不明といったありさま。それほどまで人類の歴史における存在感を失ってしまっていた。

 

 しかしながら地球教団とよばれる宗教団体がこの母なる惑星を信仰対象として扱い、地球教の信者たちの精神世界では“聖地”としていまだ光り輝く惑星として他を圧倒する存在感を放っていた。その地球教の総本山は母なる星のヒマラヤ山脈のカンチェンジュンガ山の地下に置かれ、そこに強大な神殿が築かれているが、妙に武骨なつくりをしているのだなと初めて巡礼に来た地球教徒には不思議がられたりもする。

 

 それもそのはずである。元々は地球統一政府が、シリウス戦役の際に植民星出身者からなる軍事組織BBFとの戦いを指揮する為の軍事施設――もっとも当時の地球統一政府の高官は腐敗しきっており、施設のすぐ外で凄惨な戦闘が繰り広げられていても、女や酒にうつつを抜かしてろくな指揮をとることがなかったので、高官専用の避難施設といったほうが正確であるかもしれないが――である核シェルターであり、地球教団はそれを神殿として改装し、利用しているのに過ぎないのである。

 

 そんな暗い神殿の一室で黒い僧服を身に纏った地球教の最高権力者である総大主教(グランド・ビショップ)が、弱々しく跪く一人の信徒の肩に手を置き、地球教の聖句を唱えていた。信徒は教団内において高い地位にあるわけではなく、一介の信徒に過ぎないのだが、普通の信徒が総大主教にこのような待遇をされるのは極めて異例であった。一般の信徒にとって、総大主教は一生の中で一度御尊顔を拝せることができるか否か、それほどまでに遠い存在なのである。そんな遠い存在である総大主教直々に身を清められるという栄誉に、信徒は感涙していた。

 

「敬虔なる信徒イザーク。汝の知るところを私に教えよ。さすれば母なる地球の加護が与えられるであろう」

「おお、総大主教猊下……」

 

 このような待遇をされる理由は、この信徒の信仰心や教団における貢献ではなく、世俗面における地位にあった。信徒の名はイザーク・フォン・ヴェッセルといい、かつて警察総局で官房長を務めた警視監であり、ゲオルグ・フォン・リヒテンラーデの五人の側近の中の一人であった。

 

 ある有力な門閥貴族家の次男坊として生まれたヴェッセルは、幼いころから懲悪勧善的な詩劇に嵌っていた影響で自身の正義感を育て、法を乱す悪人どもを退治したいという強い思いから自ら望んで警察官となった。彼は職務に精励し、犯罪の容疑者を幾人か検挙する功績もたてたが、ゴールデンバウム王朝末期の時代というのは、権力者が法律を捻じ曲げて自分たちの思惑を押し通すのが常態化していた時代であって、まともな警察であれば重宝されてしかるべきヴェッセルの情熱は、警察上層部に疎ましがられた。

 

 ある日、ヴェッセルは殺人の現行犯である青年を逮捕した。その青年は有力な門閥貴族の一員であり、殺したのも帝都オーディンの景観を損なう小汚い平民だから見逃せと主張したのだが、ヴェッセルは法律を破った罪悪感というものをまったく感じない犯罪者に嫌悪感を抱き、力ずくで黙らせて独房に放り込んだ。それに慌てたのはヴェッセルの直属の上司である。貧困層の平民を一人殺したという()()()()()()()()で力のある門閥貴族と敵対するなどバカげているにもほどがあると思ったのだ。彼は当時の警視総監に事情を報告し、司法省の有力者に軽い刑罰ですませるよう根回ししてほしいと頼み、自身は犯人の親である門閥貴族の当主の怒りをなんとかなだめて妥協を引きずり出した。

 

 その結果、犯人が最初から殺すつもりで殺人を犯したという証拠が大量にあったにも関わらず、警察の捜査資料はかなりいい加減なものに改竄され、法廷においては警視総監に説得された裁判官たちによって“被害者の方に自殺願望と体制への反抗心があり、刃物が持っていた被告に自ら突っ込んできて、貴族の権威に泥を塗ろうとした姑息な策謀”とみなされ、殺人犯は刃物をむき出しで持ち歩いていた不用心ぶりのみを咎められたのみで、その罰として一週間の服役刑に処されただけだった。

 

 これだけでも充分に悲劇なのだが、もっと後味の悪い後日譚がある。服役を終えた殺人犯は自分が仮にも犯罪者として扱われたことを理不尽に思い、父親の権力を使って被害者の遺族に対する八つ当たりに走ったのだ。法廷における「被害者には貴族への反抗心があった」という判決文を利用し、遺族も体制への反抗心を持つ思想犯であるとして告発した。社会秩序維持局はその告発に従い、被害者の遺族を政治犯収容所に送り込んでしまったのだ。

 

 ヴェッセル本人もただではすまなかった。また面倒事を起こされてはたまらないという警察上層部の判断により、捜査記録の管理をするだけの閑職に左遷させられ、社交界で肩身が狭くなった実家からは勘当されてしまった。だがこれでもヴェッセル自身もそれなりに有力な門閥貴族の一員であることを考慮した、かなり温情に満ちた処置であったといえた。もし彼が平民や普通の貴族の出であったなら辺境の支部に左遷されていただろうし、ひどい場合は被害者の遺族と同じようになんらかの罪を着せられて収容所送りになっていたであろうから。

 

 しかしこの一件は、ヴェッセルの矜持を強く傷つけた。自分は正しいことをやったはずなのにこの結果はなんなのだと激しく憤った。それでも閑職の仕事にも文句を言うことなく精励していたが、自分のやっていることに何か意味があるのだろうかという悩みが心の中でどんどんと大きくなってくるのは、どうしようもなかった。もしこの状況が続いていれば、ヴェッセルも圧倒的多数の門閥貴族同様に法というものをあまり重視しないようになったか、あるいは体制への反感のあまり反体制派に身を投じることになったかもしれない。

 

 だがその悩みはある日に出会ったある人物との会話によって解消されてしまったので、そうはならなかった。その日はとても良い天気だったので、帝都の公園まで足を運び、ベンチに腰を下ろして深いため息を吐き、今後の身の振り方について深い思考に耽っていた。

 

「なにかお悩みですかな」

 

 そんな時だった。奇妙な老人が話しかけてきたのは。ヴェッセルが胡乱気な目で老人を見つめかえした。清貧というより、みすぼらしいという印象を与える老人を物珍しく思った後、名を尋ねた。

 

「これは失礼しました。地球教団オーディン支部長のゴドウィン大主教と申します。わたくしでよければ、相談にのりますぞ。信徒ではないとはいえ、人は皆、母なる地球の子ですからな。その子らが迷っているなら助けてあげるのが我らの使命です」

 

 ヴェッセルはあまり聞きなれない身分を聞いて、記憶の海から地球教のワードを探しだすのに苦労した。たしか最近一部で流行っている新興宗教で、人類発祥のなんとかという惑星を信仰する団体であったはずだと思い出した。帝国では北欧神話をベースとした宗教が国教とされていたが、他の宗教の信者も多少は存在した。というのも五世紀前にルドルフが自論を認め、専制体制を支持する宗教に対しては寛大な姿勢を示したからである。むろん認めなかったら弾圧の対象になったし、ルドルフ没後の他宗教への態度は時の政権によって扱いが変わった。

 

 たとえば“痴愚帝”ジギスムント二世の治世下においては宗教団体が帝室に対して莫大な献金をしなければ信仰が認められなかったし、“流血帝”アウグスト二世の治世下では「大神オーディンを信じないなんてきっと叛逆者だ」という中世の異端審問官さながらの屁理屈で虐殺対象とされたし、“敗軍帝”フリードリヒ三世の時代では宗教叛乱がしばしば起きたので他宗教を全面禁止にされた時代もあった。一方で“晴眼帝”マクシミリアン・ヨーゼフ二世の改革によって「社会的混乱を招かざる限りにおいて、臣民の信仰の自由は保証される」と国法に明記され、コルネリアス二世の治世下では皇帝が妙に神秘主義に耽っていたこともあって、さまざまな宗教の聖職者と謁見していたという。

 

 そして当時の皇帝フリードリヒ四世の治世下ではどうだったのかというと、マクシミリアン・ヨーゼフ二世の方針を概ね受け継いでいた。それは皇帝自らが望んでそうしたというわけではなく、ブラウンシュヴァイク公やリッテンハイム侯といった外戚貴族の専横が強まる状況下において、宗教なんて()()()()を信じてる連中に関わってる暇がないという、即位当時から皇帝の側近の尚書であったリヒテンラーデ侯の判断によるものが大きかったのだが……。

 

 ヴェッセル自身は大した信仰心の持ち主ではなかった。帝国の文化の一部としてオーディン信仰を持っていたが、捨てなければならなくなった場合、特にためらうことなく捨てれるていどの信仰心しか持ち合わせていない。だから聖職者にしても素直な人間を騙す詐欺師の双生児的な存在という偏見を持っていたのだが、だれかと悩みを相談したい気持ちの方がはるかに大きかったので打ち明けて相談した。

 

「大切なのは結果ではなく、そう在り続けることなのではありませんか」

 

 ゴドウィンが何を言っているのか、ヴェッセルには理解しかねた。ゴドウィンはヴェッセルから視線を外し、どこか遠い場所を見通すように空に視線を向けた。

 

「オスヴァルト・フォン・ミュンツァーという人物が、なにゆえ“弾劾者”の異名で呼ばれたのか。その由来をご存知ですかな」

 

 ためらうことなく頷いた。マクシミリアン・ヨーゼフ二世の治世下において司法尚書を務め、乱れきっていた綱紀を粛正した傑物であり、ヴェッセルが尊敬する偉人の一人だ。知らぬはずがない。

 

 帝国歴三三一年に起きたタゴン星域の会戦で時の皇帝フリードリヒ三世の三男ヘルベルト大公率いる遠征軍が大敗した。その大敗の原因は敵軍を辺境の反乱分子と見做して舐めきっていた高級将校らとヘルベルト大公の気まぐれすぎる指揮にあったのだが、ゴールデンバウム王家の一員であるヘルベルト大公に敗戦の責任を問うわけにはいかず、参謀のゴットフリート・フォン・インゴルシュタット中将にすべての責任があるとして非公開の軍法会議にかけらることとなった。

 

 その時にインゴルシュタット中将の弁護人を担当したのが、帝都防衛司令部参事官の職にあったミュンツァー中将である。軍上層部としては彼ら二人が一〇年以上犬猿の仲にあることを承知しており、インゴルシュタットに対する憎悪からミュンツァーが弁護人としての義務を放棄することを期待しての弁護人指名であった。だがミュンツァーはその期待を裏切って、道理にあわぬとインゴルシュタットを全力で擁護し、彼に敗戦の全責任を押し付けようとする検察官たちと熾烈に言論を戦わせたのである。

 

 そして“一介の参謀”というフレーズが印象的なミュンツァーの最終弁論は、おこなわれたのが非公開の軍法会議であったにもかかわらず外部に流出し、誰もが彼を“弾劾者”ミュンツァーと呼ぶようになったのである。叛逆者ではなく弾劾者と呼ばれたのは、ミュンツァーの弁論における圧倒的正しさと法を絶対視する姿勢が、多くの者の共感を呼んだからに違いないであろう。

 

 そうしたミュンツァーの逸話をそらんじてみせたヴェッセルに、ゴドウィンは穏やかに頷いた。

 

「たしかにそれは正しい、良き行いと言えたでしょう。ですがそれに結果がついてきたわけではありません」

 

 その通りであった。結局、インゴルシュタット中将はタゴン星域会戦の大敗の全責任を負わされ、あらゆる名誉と地位を剥奪され、銃殺刑に処されたのだ。自分たちの期待を裏切ったミュンツァーも帝国上層部は赦さなかった。辺境の警備管区司令官に左遷させ、さらに予備役に編入させたのである。これは事実上の流刑であった。

 

「ですがその在り方は辺境の地でも腐ることなく、当時のままで在り続けた。だからこそ、マクシミリアン・ヨーゼフ二世陛下は辺境にいたミュンツァーを中央に呼び戻し、司法尚書に任じて帝国の立て直しに携わることができたのではないですか。望む結果を得られずともそう在り続けることこそ、最も尊く価値あることなのではないでしょうか」

 

 そうなのだろうか。たとえどれだけの障害が立ちふさがろうとも、おのれの正義を疑わず貫き通す信念の強さこそが、なによりも重要な事であるのだろうか。ヴェッセルにはわからなかったが、ゴドウィンの論理を多少は理解できた。ミュンツァーが辺境に左遷されても信念を貫き続け、だからこそマクシミリアン・ヨーゼフ二世の目にとまり、司法尚書となって国家再建に取り組めたのであるから。

 

 司法尚書となったミュンツァーは社会のあらゆる場所に蔓延っていた腐敗を一掃して綱紀を粛正し、帝国の繁栄を取り戻するために必要な改革に携わることができた。そしてその功績に比べるとささやかではあるが、異名の由来になったミュンツァーの弁護の正当性も公式に認められた。軍組織自体が腐敗の極に達していたので、罪は組織構造自体にあったとされ、ゴットフリート・フォン・インゴルシュタット中将の名誉が回復されたのである。もっとも、インゴルシュタットの係累はほとんどが連座で処刑されており、死者に対する弔いにしかならないであっただろうが。

 

「どんな逆境に陥ろうとも、決して諦めない者を母なる地球は決してお見捨てにはならないのです」

 

 そう確信している声でゴドウィンはそう断言した。それは宗教的信仰に基づいた確信にすぎず、現実的な根拠はなにひとつとして存在しなかったのだが、結果がともなわない徒労感に苛まれていたヴェッセルにとって大主教の言い切りは、とても頼もしく思えたのであった。

 

 そうしてゴドウィンと親交を持ったヴェッセルは、たびたび相談にのってもらうようになり、やがて地球教に入信した。たとえ今がどれだけ辛くとも、おのれの道を信じて貫けば、必ず報われるに違いない。そう信じて局内にある膨大な捜査資料の管理を能率的におこない、同僚からはこんな仕事にあれほど熱意を出すなんて狂ってると評されるほど熱心に職務に励んだ。

 

 地球教の信仰心の賜物か、それとも運命を司る何者かの気まぐれか、ヴェッセルの地球教入信から四年後に転機がおとずれた。刑事犯罪部長のオフィスに行くよう上官に命じられたのである。ヴェッセルがオフィスを訪れるとそこには当時の部長であったゲオルグ・フォン・リヒテンラーデ警視長と人事部長であるドロホフ警視監がいたので、思わず逃げ出したい気持ちになったのは無理からぬことであろう。リヒテンラーデ警視長だけでも充分なのに、ドロホフ警視監は警察総局を二分する派閥の盟主であると一般警官たちには認識されており、閑職で燻ってるヴェッセルからすると雲の上の人であった。

 

「おまえがヴェッセルだな? シュテンネスの奴から評判は聞いている」

 

 ドロホフの口から監察部課長のシュテンネス警視の名が出て、ヴェッセルは顔を蒼白にした。シュテンネスは讒言を武器として一巡査から出世してきた卑劣な成り上がりとして総局内では有名な存在であったので、自分を貶めるような噂を目の前の人たちが信じ、なんらかの処罰を自分に与えようとしているのではないかと思ったのである。

 

 おお、母なる地球よ。なぜですか。これほどまで努力し、入信してからは信仰を絶やしたことがなかったのに、なぜこのような仕打ちを受けねばならないのですか……。そのように運命を呪い始めたヴェッセルだったが、ゲオルグからの言葉で、早とちりであったことを悟った。

 

「三日前、この帝都オーディンで殺人事件が発生した。殺人犯は簡単に捕まえられたのだが、犯人の自供で別の疑惑が浮上した。内容を聞いている限り、どうも犯人はある企業に依頼されて対立した企業の優秀なビジネスマンを暗殺したらしいのだ。その会社の名前まではわからなかったが、殺人教唆をおこなう経営陣を擁する企業が帝都に存在するなど刑事犯罪部長として捨て置けぬ。綿密な捜査でいくつかに候補を絞ることができたのだが、ここである障害が発生した」

 

 刑事犯罪部長は忌々しそうに形の良い眉をしかめた。

 

「どの企業も経営陣に退役将校が参加している。しかも憲兵隊と深い関係にある者が多数だ」

 

 嫌悪感も露わにそう言って視線を投げてくるゲオルグに、ヴェッセルはこくりと頷いた。退役将校というだけで軍務省の妨害を警戒しなくてはならないのに、警察とは犬猿の中にある憲兵隊と深い関係にあるとくれば、捜査はかなり難しいものとならざるをえない。

 

「そこで本題に入るのだが、シュテンネスによるとリッテンハイム一門に連なる貴族の子弟との問題で刑事犯罪部から異動させられるまで、きみは優秀で不屈の精神を持つ警官として有名だったそうだね。なんでも相手がだれであろうとも容赦がなかったとか。そこを見込んできみに頼みがあるのだ」

「はい!」

 

 ヴェッセルは力強く断言した。彼はにわかに期待を抱いたのだ。これはまさか刑事犯罪部に戻ってこの捜査に協力しろということであろうかと。

 

「この疑惑に対する捜査本部を刑事犯罪部内に設置するので、そこの本部長をしてほしいのだ。引き受けてくれるだろうか?」

 

 ヴェッセルの予測は間違ってはいなかったが、ゲオルグの提案はヴェッセルの期待のはるか上をいっていた。捜査員の一人として協力しろと命じられるかもと期待はしたが、まさか捜査の全指揮を与えられるとは予想していなかった。

 

「は? ……え、あ。はい?」

「いやなのかね?」

「あ、いえ! そのようなことはありません!」

「そうか。あまりにも反応が悪かったから、いやなのかと思ったよ」

 

 予想外すぎる提案にしばし狼狽していたヴェッセルを、ゲオルグは人の悪い笑みを浮かべながら、あきらかにからかって遊んでいた。

 

「しかし自分は一介の警部です。捜査本部を任されるような階級では……」

「心配はいらん。既に俺が準備を整えてある。近日中に警視に昇進と刑事犯罪部に異動する辞令がおまえのとこに届く。規則上は何の問題もない」

 

 ドロホフによって語られたことは、すでに準備が整えられており、本部長を断ることは事実上不可能ということであった。もっともヴェッセルはこの提案を断るという選択肢が脳内に欠片もなかったので何の問題もなかった。この二日後にヴェッセルは警視に昇進し、殺人教唆疑惑捜査本部長となった。

 

 そしてこの殺人教唆疑惑が事実であったことをヴェッセルらが突き止めるまで、二か月ほどしかかからなかった。これはヴェッセルの優秀な捜査能力と指揮能力を証明するものであったが、副本部長としてヴェッセルを補佐したフランツ・フォン・ダンネマン警部のコネも大きなものだった。ダンネマンの父は戦艦の艦長を務める帝国軍大佐であり、憲兵隊の動きに軍内部から監視して情報を提供してくれたのである。さらにゲオルグ派――ヴェッセルは捜査途中でようやく気づいたのだが、かつてドロホフ派と呼ばれた派閥は、この時期には完全にゲオルグを盟主とする派閥に変貌してしまっていた――の全面的支援を受けられたことも疑惑の早期解明につながった。

 

 捜査によって殺人教唆グループが目障りな官吏の暗殺をも指示していた事実が判明したこともあって、大規模な褒賞人事が行われた。ヴェッセルは警視正に昇進した。つい最近までまわりからずっと退役までずっと警部だろうと陰口を叩かれていたのに、わずか数ヵ月で二階級も昇進してしまったのだ。副本部長だったダンネマンも警視に昇進して刑事犯罪部副部長代理の役職に就いた。ゲオルグも人材の適切な配置が評価されて警視監に昇進し、警視総監の補佐を行う官房長に就任した。官房長は次長に次ぐ警察総局ナンバー・スリーの役職であり、ドロホフが人事部長のままであることから、警察総局の次世代の主導権を握るべく争っている二大派閥はハルテンベルク派とドロホフ派ではなく、ハルテンベルク派とゲオルグ派となったことがだれの目にも明らかとなった。

 

 警視監に昇進したゲオルグが最初にとりかかった事業は、捜査中に散々妨害を行ってくれた憲兵隊への抗議であった。立場も権威もあり合理的にも貴族の感性的にも正しいゲオルグの抗議の声を軍務省は無視することができず、殺人教唆グループを庇った憲兵は全て不名誉除隊処分を受け、当時の憲兵総監を含む高級将校の管理責任も追及されて辞任に追い込まれた。この結果にゲオルグは歓喜し、これを祝って末端の警官まで屋敷に集めて宴会を催すほどであった。

 

 その後、ヴェッセルは数々の事件の捜査を行って結果を出し、ゲオルグ派の者達の信頼される存在へとなっていった。いつしかゲオルグの側近の一人としての立場を確立したが、ヴェッセルには不満なことがあった。ゲオルグは大貴族が犯している犯罪を追及していることに及び腰であったことである。むろん、取り立ててくれた恩があるので声に出して不満をぶちまけたりはしなかったが……。

 

 だがそうも言ってられなくなった。ある日、自分が左遷される原因になった例の貴族の殺人犯が、また殺人を犯して逮捕されたのである。ヴェッセルは過去の事例もあわせて馬鹿に重罰が加えられることを期待した。しかし事情を聞いたゲオルグはリッテンハイム侯爵の屋敷に赴くと言って内務省を後にした。ヴェッセルは左遷された時の状況が重なる部分が多いことに、暗い気分となった。

 

 ゲオルグとリッテンハイム侯の間でどのような密談が交わされたのかはわからない。ただ門閥貴族からの抗議が一切なかったので、殺人犯の罪状が法廷でちゃんと認められた。ここまではヴェッセルにとっては喜ばしいことであった。しかしながら殺人犯に下された刑は懲役三年という軽すぎるものであったことに不満と憤りを隠せず、ヴェッセルはゲオルグに直訴した。

 

「おまえの言うことはよくわかる。だがな、たかが内務省内の一部局の幹部に過ぎぬ私に、横暴な門閥貴族が幅を利かせている状況をどうにかできる力があるとでも思うのか」

「閣下ご自身だけでは無理かもしれません。ですがリヒテンラーデ家の影響力を使えば……」

「無理だな。いまの私ではリヒテンラーデ家を自分の意思で動かすことはできぬ。次期当主候補の一人に過ぎんからな。仮にリヒテンラーデ家が一丸になれたとしても、リヒテンラーデはブラウンシュヴァイクやリッテンハイムのように強大な私設軍を有してはいないから、勝算はかぎりなく薄い。だから祖父上も手をこまねいておられるのだ」

 

 ゲオルグの理路整然とした言い分に、ヴェッセルは返答に窮した。上官に対して破滅してもいいから門閥貴族を黙らせてくれとは言えない。だが、それでも理屈は理解できても感情は違った。

 

「では、閣下は現状を容認するというのですか。門閥貴族の横暴を認めると!」

「……試みに問うが、私は何歳かな」

 

 あまりにも脈略がない問いにヴェッセルは困惑した。この話題と上官の年齢に、いったい何の関係性があるというのだろうか。

 

「二〇歳ではありませんでしたか」

「そうだ二〇歳だ。まだまだ私の前途は豊かなのだ。今はハルテンベルク伯と次期警視総監の椅子をめぐって争っているが、警視総監の椅子に座ってそれで満足するつもりはない。さらに上を目指すつもりだ。そして貴族が法を逸脱するのが常態化してる状況をどうにかできるほどの力を持っていないが、一〇年後、二〇年後もその力がないままとは限るまい。……私の言いたいことがわかるな?」

 

 警察総局のような内務省の一部局の幹部ではなく帝国政府の主導的地位を得た時、自重という言葉を知らない大貴族どもに鉄槌を下してやる――そう暗に示唆するゲオルグの言葉を、ヴェッセルは信じた。そして祖国をよりよくするためにこれまでより一層強くゲオルグに忠誠を誓ったのだ。

 

 それから三年後の帝国歴四八八年に、ヴェッセルの願いは現実のものとなったように思われた。クラウス・フォン・リヒテンラーデ公爵とラインハルト・フォン・ローエングラム侯爵の皇帝派枢軸とオットー・フォン・ブラウンシュヴァイク公爵とウィルヘルム・フォン・リッテンハイムの貴族派連合に分かれて大規模な内戦に突入したのだ。この内戦で勝利した後、リヒテンラーデ派による政治改革が行われるのだと期待を胸に確信したのだ。

 

 だがその期待に満ちた確信は無残に裏切られた。貴族派との内乱に敗れたわけではない。内乱終結後、リヒテンラーデ派と同盟を組んでいたローエングラム派の軍隊が突如リヒテンラーデ派を粛清したのである。その日、ヴェッセルはゴドウィンから大事な話があると言われたので地球教オーディン支部にいたので助かったが、同じ志を抱いていた者達が多数公職から追放され、リヒテンラーデ公の係累――主君であるゲオルグはリヒテンラーデ公の孫なので当然含まれている――は女子供は辺境に流刑、まともな思考ができる一〇歳以上の男は全員死刑という処分が発表された。

 

 ヴェッセルは激しくローエングラム公を憎んだが、ローエングラム体制が確立されるやいなや、ヴェッセルが望んでやまなかった綱紀粛正が実施されているのを知ると凄まじい失調感に襲われてふさぎ込んだ。ゴドウィン大主教はなんとか元気づけようとしたがどうにもならなかった。年が明けた二月、地球教団本部から“イザーク・フォン・ヴェッセルを地球に導くように”という指令がオーディン支部に届いたので、ゴドウィンは各惑星支部を経由してひそかにヴェッセルを地球に送るルートを策定。信頼できる信徒を選んでヴェッセルを地球に送るよう命じた。

 

 そして今現在、ヴェッセルは地球教団の本部で総大主教と謁見する栄誉をあずかっているというわけであった。

 

「言えません……。閣下に言われてるからです……。信頼を裏切るわけには……」

「わしはなにも信頼を裏切れというておるのではない。母なる地球への信仰を持つ者は皆兄弟だ。だからわしはそなたが抱えている重荷を共有したいと思うておるだけじゃ」

「うぅぅ……」

 

 ヴェッセルは泣きじゃくった。神聖なる総大主教の深く巨大な慈悲に感激するばかりであった。そして数分の苦悩の末、絞り出すような声で告げた。

 

「オデッサ……」

「なに?」

「グミュント星系のオデッサ……。いざという時、そこにあるズーレンタール社の本社に身を隠すと閣下は仰っておりました……。側近として信じる者のみに教える情報であると……」

「…………そうか。絶望していたそなたが、だれにもいえぬ秘密を抱える辛さ。わしにもよくわかる」

「おお、猊下。総大主教猊下……」

「心が休まったじゃろう。今日はもう寝なさい。そして今後のことを共に考えようではないか」

 

 皺だらけの老人が優しい声でそう言って背中を叩くと、ヴェッセルは礼もそこそこに、フラフラの状態で暗がりに消えていった。残った総大主教はしばし思考すると一人の男の名を叫んだ。

 

「ド・ヴィリエ。ド・ヴィリエ大主教はおるか」

「はっ。ここに」

 

 暗がりから新しく出てきた人影はかなり若かった。まだ三〇代なかば程度であろう。聖職者というにはあまりに神聖さというものに欠ける雰囲気を持った男であり、事実彼は信仰心をあまり持ってはいなかった。

 

「さきほど男の情報。使えるとは思わぬか」

「ルビンスキーめが考案した策の一部として利用できるかと思われます。デグスビイを通してその情報をフェザーンに伝えるべきでありましょう」

 

 地球教はたんなる宗教団体ではなかった。西暦二七〇四年に滅び去った地球統一政府の残党の成れの果てであり、地球との決別を意味する宇宙歴が銀河連邦で施行されてから八〇〇年近くが経過しても、なお地球の復権を諦めない者達の組織なのである。彼らはその目的を達成するために数々の策謀を実施してきた。わけても同盟と帝国の間に浮遊する中立地帯フェザーンを産み落としたことは大きな成果である。

 

 当初の地球教の計画は帝国と同盟の共倒れを狙っての暗躍であり、両勢力の対立を煽り、和解の空気を叩き潰すのに多大な労力を払ってきた。しかし二年前のアムリッツァ会戦における同盟軍の壊滅的打撃。そして昨年両国で発生した内乱によって同盟は軍事力の多くを失い、帝国はローエングラム公に反対する勢力を一掃し、背後から撃たれる心配を消滅させて内政に力を注いでいる。これによって帝国は同盟との力関係で大きな差をつけている。共倒れ計画は帝国と同盟が対等な力関係で争い続け衰退していくことを前提とした計画であったため、事実上破たんしてしまった。

 

 それに変わる方針としてフェザーン自治領主ルビンスキーから提案されたのが、フェザーンは帝国に助力して同盟を併呑させ、しかる後に帝国の中枢を取り除き、地球が人類社会の太陽として復活させるという計画である。総大主教は地球との縁を捨てようかと考えてるルビンスキーの真意を薄々見抜いていたが、それをも利用できると踏み、この方針に切り替えた。

 

 新しい計画の第一段階として、同盟を帝国に滅ぼさせなければならない。これ自体はそれほど難しいことではない。いま同盟と帝国が正面から激突すれば、現在の実力差からして同盟はほぼ確実に滅ぶからだ。懸念すべき要素が一つだけ存在した。ローエングラム体制が同盟が敵視し続けてきたゴールデンバウム的な帝国の要素を劇的に改めつつあるということで、それを縁として帝国と同盟の間で和解が成立する可能性が否定できないということであった。

 

 そんなことは許されない。帝国と同盟は不倶戴天の敵同士であってもらわなくては困るのだ。そのための策謀がフェザーン自治領主府が中心となっておこなわれつつある。そのための材料にリヒテンラーデの生き残りもなってもらうとしよう。そう総大主教は考えた。

 

「ところで猊下。さきほどの信徒をどうなさいますか」

 

 始末しますかと言外に尋ねてくるド・ヴィリエに総大主教は首を振った。

 

「ただ面倒を見るだけでよい。あれはまだ使い道があろう」

「よろしいのですか。総大主教猊下に会いまみえるまで他の大主教がどれだけ語りかけてもなにひとつ反応を示さなかった男であります。われらが利用するには地球に対する信仰心に欠けているのではないかと思いますが」

 

 そなたが言うのかと総大主教は心中で皮肉な感想を呟いた。ド・ヴィリエに地球に対する信仰心など持ち合わせていないことなど総大主教は見抜いていたから、ド・ヴィリエの論理を用いるならばまず最初にこの若い大主教を背教者として始末しなくてはなるまい。ド・ヴィリエは見抜かれていないと思うからそう言うのであろうが、いささか滑稽であった。

 

「わしに真実を語ったということ自体が信仰心の証明よ。あの者が述べたことが嘘偽りであるなら別じゃがな。ド・ヴィリエの心配は度がすぎるというものじゃ」

「これはできすぎた真似を。失礼しました」

 

 ド・ヴィリエは恐縮した様子で頭を下げた。そう、別に良いのだ。たかが道具に地球に対する信仰心がなかろうとも。母なる地球が再び人類社会の中心とすることがなによりも重要なのだ。そのためとあればなんでも利用すべきである。そう思えばこそ総大主教は、ド・ヴィリエなどという信仰心の欠片もない俗物を自身の側近として取り立て、辣腕をふるわせているのだ。

 

 総大主教の思考法は、他の狂信者たちの自己陶酔と独善に満ちた思考法とは明らかに一線を画していた。彼が固執するのは地球が人類社会の頂点に再び君臨することのみであって、それが達成されるならば人類社会の大多数が地球教以外の教義を信奉しようともかまわなかった。そうした現実的思考こそが彼を総大主教の地位に就かせた最大の武器であり、他の狂信者よりタチの悪い狂信であったことだろう。




地球教陣営でデグスビイ主教以外の原作名ありキャラ全員登場!
いやあ、数ある銀英伝二次でもこんな序盤にこいつらでてくるのってなかなかないんじゃないでしょうか?

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