御年四五歳の家政婦グンテルは、よく気の利く女中であると雇用主のペクニッツ一家には評されていたが、彼女は元々ペクニッツ公爵家の家政婦ではなかった。旧帝国時代はとある門閥貴族家に仕えていたスパイであり、敵対する貴族家に潜り込んで情報収集を行い、本当の主に報告する仕事をしていた。
スパイなんて仕事をしてはいるのは、別に彼女自身が望んだわけではなかった。彼女は自主独立の意欲が強かったが、帝国は男尊女卑の気風が強く、旧帝国時代だと貴族ではなくあまり学もない女性のグンテルが一人で生きていけるような仕事など選択肢が限られていて、たまたま彼女が就職先を探している時期に、住んでいた惑星で条件に合致する仕事の求人がそれしかなかったというだけのことである。
それでも努力と経験によって彼女は家政婦としてもスパイとしても申し分のない能力を身に着けるようになっていたし、自分の仕事にもそれなりに満足するようになっていた。しかしリップシュタット戦役で雇用主の貴族家が滅亡し、新しい雇用先を探そうにも政治の主導権が官僚と軍人に移った今、家政婦としての能力はともかく、貴族相手専門スパイとしての能力を活かせるような職場がなく、しばらく途方に暮れることとなった。
しかし内国安全保障局を新設するにあたって人材探しに奔走していたハイドリッヒ・ラングの目にとまり、グンテルは保安大尉の階級を与えられ、ペクニッツ公爵家付き家政婦の地位を与えられた。これはラングが軍務尚書オーベルシュタインに提案し、許可を得てのことである。
オーベルシュタインとしてはゴールデンバウムの系譜であり、最後の女帝カザリン・ケートヘンの生家であるペクニッツ公爵家は常に最低限の監視をしておくべきと考えなのだが、四六時中憲兵に護衛という名の監視をされる恐怖に苛まれている当主ユルゲン・オファーの健康が精神医学的な意味で危ぶまれてきて、一部から非人道的な扱いなのではないかという声があがっており、それをどうにかしたいと思っていた。他方、ラングは内国安全保障局の有用性をアピールし、職分が重複する憲兵隊に対しても立場を確保したかった。その両者の思惑が合致した故のことである。
しかしそこまでの経緯をグンテルは知らなかったものだから、退位した元女帝とその一族の世話及び監視の任につけと命じられて緊張したものである。旧王朝最後の女帝などあきらかにローエングラム王朝にとっては目の上のたんこぶのような存在であり、場合によっては暗殺の指令が自分に下る可能性もあると考えたからである。旧帝国時代であれば権勢家の貴族がスパイの家政婦を殺して晒し者にしたりするようなことは稀にだがあったことだし、一度ではあるが、自分自身が暗殺の片棒を担いだことさえあった。そういった経験から、これは命がけの任務ではないかと思ってしまったのである。
しかし実際にペクニッツ公爵邸で家政婦で働き出して見ると、当主のユルゲン・オファーは芸術品収集趣味のために、月に平均五万帝国マルク相当を浪費するほど金銭感覚が破綻していることを除けば凡庸な人間で、妻は夫の趣味に不満をこぼしながらもそれを許容する。いわゆる典型的なダメ貴族だ。ただ自分の立場の微妙さは理解できているのか、たまに訪問してくる新王朝時代まで生き残った貴族にも、やけにきょどった口調で小心ぶりを発揮しながらも無難な対応に終始していつも追い返していた。
このような人畜無害な存在をわざわざ監視すべき理由がどこにあるというのだろうか? あえて、自分なりに理屈をつけるとすれば、まだ赤子の先代女帝カザリン・ケートヘンが才気ある人物に成長した際、それを自然な形で監視できる立場を確保できることくらいだろうが、両親がこれでは子がそんな才気ある人物になるとは思えない。一応、定期的に内国安全保障局本部に報告はあげているが、浮世離れした貴族夫婦漫才と赤子の成長物語以上でも以下でもない内容の代物を、本部のお偉いさん方がちゃんと確認しているとは思えなかった。
ペクニッツ公爵夫妻の信頼を得て、仕事内容のほとんどがカザリン・ケートヘンの世話に占められるようになってきて、いっそ裏工作員としての誇りを捨て、本格的に家政婦か乳母を本業とすべきではないかとグンテルが考えはじめ、数ヵ月した頃にクーデターが発生し、その工作員がペクニッツ公爵邸にもやってきたのである。邸のインターホンが鳴ったのは、グンテルの記憶によればたしか九時半から一〇時の間の出来事だったはずである。
訪問者は帝国軍の軍服を身に纏った一〇名前後の集団であり、グンテルが玄関先で対応した。唯一士官服を着ていた銀髪の人物が代表して一歩前に出た。その人物は軍人らしくない紳士的な雰囲気を放っており、柔和な笑みを浮かべる好青年であった。
「失礼します。近衛司令部の命令で参りました。ペクニッツ公爵夫妻は御在宅でしょうか」
「奥様ならお出かけ中です。公爵様ならおられますが、いったい何用でしょうか?」
「実は至急公爵閣下の身の安全を確保し、宰相府へとお連れせよとの命令がくだりまして。公爵閣下に直接事情を説明したいのです。よろしいでしょうか」
グンテルはかすかな違和感を感じた。もしペクニッツ公爵に対してなにかするというのなら、なにかしら事前連絡があるものではないか? 実際、公爵に女帝退位宣言書に署名させるために軍務省に呼び出した時は、内国安全保障局本部から事前に一報あったというのに……。
しかしすぐにグンテルは内心でため息を吐いた。こんな神輿になるかどうかすら怪しい人物を、今の帝国の権力者たちのだれかが利用価値で見出すなどありえないだろう。彼らはゴールデンバウム王朝の権威など必要としていないのだから。自分のところに事前連絡がないのは、たんに自分のことが忘れられていて、内国安全保障局の頭越しでなんかあったからだろう。自分の存在価値を低く見るようになっていたグンテルはそう判断し、軍服を着た一行を邸にいれた。
グンテルはペクニッツ公爵がこの時間帯にいるであろう広い書斎に一行を案内した。ペクニッツ公爵が椅子に座りながら芸術本を読んでる姿を確認した士官服の青年がやけに平坦な声でグンテルに問うた。
「……あの人が公爵かい?」
「? え、ええ。あの方がユルゲン・オファー・フォン・ペクニッツ公爵で――!?」
士官服の青年の姿が描き消え、ついで甲高い悲鳴が邸内に響き渡った。士官服の青年がペクニッツ公爵にとびかかり、椅子から蹴り落としたのである。グンテルは予想だにしていなかった事態に固まり、次に気が付いた時には帝国兵に後ろ手をつかまれて拘束された。
士官服の青年が片手をあげ、そのサインを見て兵士たちは邸内を制圧するべく散った。ペクニッツ公爵は悲鳴に呻きながらも、状況からして目の前の士官が自分に暴力を振るったということを理解して非難の声をあげた。
「ラ、ラインハルト陛下に、安全を保障されたこの私に、こ、こんなことをして、きさま、ただで済むと――」
「陛下、陛下だと?! それは今はヴァルハラにおられる三六人の皇帝と
士官服の青年は“ラインハルト陛下”という単語に鋭く反応し、怒り狂って絶叫した。その意味が理解できずにペクニッツ公爵は一瞬きょとんとしたが、今や不敬罪に値する“金髪の孺子”という文句を使ったことに気づき、青年の立ち位置をおおよそ把握して顔を真っ青にした。
ペクニッツ公爵が怯えて身を小さくしたことに士官服の青年は満足したのか、激情をおさめ、落ち着き払った調子で要求した。
「まあいい、国璽はどこにおさめてある?」
「こ、国璽? そ、それは今はフェザーンの大本営か、ラインハルトへい――殿がお持ちであるかだと思うが」
「金髪の孺子の似非王朝の猫模様の紛い物判子のことなどどうでもいい。この宇宙にあって国璽とされるに値するものはゴールデンバウム王家のもののみだ。孺子めが王朝を愚弄する数々の下劣な犯罪的行為のひとつに国璽を貴様に譲り渡したのは調べがついている。いったいどこに隠してある?」
真顔でそう問うてくる士官服の青年に、ペクニッツ公爵は深く困惑した。帝位から退いても、自分の娘はゴールデンバウム性を名乗り続けることを軍務省から要請された関係で、ゴールデンバウム家の家紋印鑑でもあった前王朝の玉璽をゴールデンバウム大公家当主カザリン・ケートヘンに譲り渡され、その父親にして保護者であるペクニッツ公爵が現在預かっている。
だが、ローエングラム王朝が開闢したのにあわせて
困惑による沈黙を、士官服の青年は国璽を護ろうと黙秘していると受け取ったようで、ペクニッツ公爵の鼻を殴りつけた。そしてふたたび痛みに呻くペクニッツ公爵を見下しながら、平坦な口調で告げた。
「貴様が国璽を渡す気がないというのなら、仕方ない。われらが母なる女神ヘルの館で学んだ尋問術を楽しんでいただこうか。あいにく、道具の持ち合わせがないが、素手でもやってやれないことではない」
「――女神ヘルだと? ま、まさかおまえはエーリューズニルの……」
芸術関係の知識に造詣の深いペクニッツ公爵は、北欧神話の神々に対する知識も持ち合わせていた。そして、死の女神の邸の名を冠する矯正区の噂についても、サロンで聞いたことがあった。その反応に士官服の青年は純粋に驚きの表情を浮かべた。
「ほう、我が家のことを御存知でありましたか。ま、それはどうでもよろしい。社会秩序維持局の保安少佐テオ・ラーセンです。エルウィン・ヨーゼフ陛下の行方が知れぬ以上、代わって玉座に就いているべき御方に仕えております。では――」
「は、話す! なんでも話す! 娘の――いや、ゴールデンバウム王朝の玉璽だな!? すぐに手渡す! 手渡すから、待て!!」
恐怖のあまりペクニッツ公爵は顔色が青くなるのを通り越して緑色に変色した。社会秩序維持局のエーリューズニル矯正区出身者。噂によれば、連中は人間の意識を奪うことなくこの世のありとあらゆる苦痛を味あわせ、口を割らせる技術に長けているという。ペクニッツ公爵の抱いた恐怖は迷信染みたものであったが、ラーセンに限って言えばそんなに間違ってはいなかった。
ペクニッツ公爵は這う這うの体で、邸の貴重品室に向かい、漆喰の物置の
すると唐突にラーセンは恐れ多い感情に襲われた。これは本来、下賤な自分風情が手に取っていいようなものではない。もっとふさわしき高貴な御方の手によってこそ管理されるべきものである。しかし、彼が現在忠を誓っている人物にここまでご足労いただくわけにはいかないし、ジーベックも作戦全体の指揮を執る必要があって、それどころではなかった。だから現実的に自分しかその役目を負う人物がいないわけだが、そんなことは本来あってはならぬことだから、この玉璽をしかるべき人物に手渡した後、このようなことは忘却してしまうべきだ。
そこまでラーセンは考えた後、部屋の端に飾ってあった大量の象牙細工の中の先端の鋭い作品に手で触れた。象牙の形を保ったまま職人の手で複雑な装飾が施されたそれは貴族たちがいかに民衆から搾り取ったもので、装飾華美なものを手に入れ愛好してきたのかという一種の例証であった。
「み、見事な品でしょう。よろしかったら差し上げますが」
ペクニッツ公爵は卑屈にそういった。強者にたいして配慮を求めるのに贈り物をするのは、旧王朝では常であった。しかしこのような状況においてそのような発想をするというのは、ペクニッツ公爵の感覚が世間とズレている以前に、非常時にどうすればいいのかわかっていないとしかいいようがなかった。
ラーセンはペクニッツ公爵の媚びに、しばらく何の反応も返さずに沈黙していたが、その象牙細工を手に取ると先ほどより険のない声で言った。
「そうだな。ではこれを戴こう」
「そ、そうですか! では――がばぁッ!」
「空前絶後の偉大なる大英雄ルドルフ大帝の血統を一番濃く受け継いだ者のみが名乗ることを赦される“人類の支配者にして全宇宙の統治者”の称号を、どこの馬の骨ともしれぬ金髪の孺子に投げ渡した大罪人を処すのにちょうど良い処刑道具だ」
ペクニッツ公爵はなにごとか言い返そうとしたが、胸を象牙細工で貫かれ、微細な装飾を深紅の色に染めながら倒れた。それでも即死はしなかったので、ラーセンは喉を踏み潰して絶命させた。
処刑を終えたラーセンは、部下たちが邸の中にいた人間を集めている部屋へと向かった。邸には二〇人程度しかいなかったようで、武装している工作員一人につき二人を見張ればいい計算だった。しかしラーセンは赤子の鳴き声が部屋の外から聞こえてきて、顔をしかめた。
「まだほかの部屋にだれかいるのか」
「だれかというか、カザリン・ケートヘンです。赤子なので別室のゆりかごに放置してきましたが」
「……だれかお付きになられている人がいるのか?」
ラーセンの問いに部下は怪訝な顔をした。
「いえ、だれもおりませんが」
「それはいかん。彼女の傍付きの人間はだれだ?」
ラーセンがジロリを使用人たちを見回すと、グンテルが恐る恐る手をあげた。
「きみか。カザリン・ケートヘン殿下は傍流とはいえ、帝室の血が流れる高貴な御方だ。もし万一のことがあったら責任がとれん。世話をしてきなさい」
かすかに軍服に付着している返り血から、ペクニッツ公爵が目の前の男に殺された事実をグンテルは洞察できていただけに、その娘の身の安全を気に病んでいるという状況がまったく理解できなかった。しかし、ここで逆らうのは愚の骨頂であるとは理解できたので、一礼してそそくさとその場を去った。
部下の一人が疑問を禁じえず、ラーセンに確認した。
「よろしいのですか?」
「べつに一人くらいかまうまい。無論、他は予定通りだ」
「了解しました」
その掛け合いが終わった直後、ラーセンは首をしゃくった。直後、使用人がいっせいにブラスターで射殺された。生き残っていた半数は状況を理解して悲鳴をあげたがすぐに二射目があって、部屋は静謐な空気で満たされた。
「行くぞ」
国璽を奪い、口封じもカザリン・ケートヘンのお付きの使用人を除いて完璧だ。もはや、ペクニッツ公爵邸でやるべきことがない。次の作戦行動に移るべく、ラーセンたちの部隊はペクニッツ公爵邸を後にした。
一方その頃
本来であればマリーンドルフ伯も他の官僚と同様、マールブルク政治犯収容所に移送されるはずだったのだが、移送前に国務省にやってきた近衛部隊に身柄を引き渡され、
レオはゴールデンバウム王朝を復興させるなら、国務尚書マリーンドルフ伯を排除するより、取り込むべきだと主張したのである。マリーンドルフ伯爵家がリップシュタット戦役においてラインハルトを援助し、ローエングラム王朝において確固たる地位を築いているのは確かだが、没落貴族に対する態度から推察するにそれは伯爵自身の本心とは言い切れないのではないか。彼に対して好感情をいだいている貴族が相当数いる以上、説得して味方につけるべきだと。
近衛参謀長のノイラート大佐はレオほど楽観的な推測をすることはしなかったが、かといってマリーンドルフ伯のことを温厚であることだけが取り柄の男であるとしか評価していなかったので、自分たちの手で秩序が再編されればマリーンドルフ伯がラインハルトに忠義立てをし続けて悪戯に混乱を長引かせることはしないだろうと考えた。であるならば、自分たちが権力を掌握するまでどこぞに軟禁しておいたほうが、後々役に立つだろうと判断し、レオの意見を採用したのである。
かくしてかつて高位貴族たちが非公式だが決定力がある密談の場としてよく利用した“
「第七近衛中隊長のヴェルンヘーア・レオ・フォン・モルト大尉であります。非常時とはいえ、このような無礼を行ったことをお詫び申し上げます。マリーンドルフ伯爵閣下」
心底申し訳なさそうにそう言って頭を下げてきたレオに、てっきりなにかしらの要求をされるものだろうと思っていたマリーンドルフ伯はおどろいた。
「非常時と大尉は言ったが、いったいなにが起こっているのだね? 国務省にやってきた軍人たちは開明派が
「はい、それは方便です。われわれ近衛が中心となり、国を憂いている者達が集ってクーデターを起こしました」
真っすぐな瞳でレオはそう言い切った。
「なぜそのような暴挙を――」
「失礼ながら暴挙とはローエングラムのなさりようです。帝国を二分内戦において敵方だった貴族達を粛清したのはルドルフ大帝が解き明かした宇宙の摂理である弱肉強食の掟に従ってのことであるからまだ良しであるとしても、それ以外の貴族へのなさりようはとても公正明大なものであるとは思えません」
「貴族特権の多くを廃止し、貴族階級からも税を徴収するようになったことを言っているのか」
「それだけなら、本当にそれだけならば、よほど無能な貴族でもない限り生きてゆけます! ですが、貴族に対して有形無形の圧力が加えられていることは閣下もご存じでしょう!」
レオの発言にマリーンドルフ伯は苦い顔をした。心当たりがない訳ではなかったからである。リップシュタット戦役時の門閥貴族連合の醜態ぶりから、とかくゴールデンバウム王朝末期の貴族は無能であると認識されがちであるが、決してそうではない。少なくとも、権勢があった門閥貴族は概ね優秀である。生まれが恵まれているといえども、方向性はともかくとして一定以上の能力を持たなくては魑魅魍魎の巣窟である宮廷を生き抜き、権力を掌中に収め続けることなど土台不可能なことであるからだ。
にもかかわらず、多くの貴族が特権を失ってからは職を見つけることができず路頭に迷っているという状況があるのはなぜか。その一因は帝国のジャーナリズムの体質的影響のせいである。フェザーンと同盟領の一部を併合し、新しい風を取り込んで多少改善されつつあるが、“記録が残ってしまう報道は須らく体制に追従するものではなくてはならない”という体質のせいである。
リップシュタット戦役において、門閥貴族連合盟主ブラウンシュヴァイク公が自領内のヴェスターラントで熱核兵器を用いて民間人を大量殺戮をおこなったことは、戦乱中にローエングラム陣営の政治宣伝で帝国中に知れ渡ったことであるが、戦後の帝国のジャーナリストたちはそれに追従し、いかに貴族たちが無能かつ邪悪で腐敗していたかという報道キャンペーンを大々的に実施したのである。
その結果、どういう事態が生じたかというと「貴族は無能で邪悪」という偏見が帝国一般民衆の間に根付いてしまい、多少優秀であっても貴族出身者だというだけで雇用を躊躇う企業が続出したのである。帝国政府は当初こそ言論・報道の自由を保障するという姿勢から放置していたのだが、毒舌家で性格が悪いという理由で開明派貴族であるブラッケ民政尚書すら批判する様になってくると流石に座視はできずに事態の沈静化に乗り出し、反貴族的報道ブームは終わりを告げたが、伝統ある貴族に対して根付いた偏見はそう簡単にはどうにもならない。
もちろんそんな偏見にとらわれなかった企業人もいなかったわけではないが、貴族に虐げられたために貴族を激しく憎んでいる報復的過激派組織に「悪しき貴族を庇った」という難癖じみた名目の無差別テロの対象になりかねないとなると旧王朝時代に高い地位にいた貴族など雇用したくないのが人情である。さらに最近では、ブルヴィッツの虐殺者であるクレメントの経歴が公表されてからというもの、社会的道徳のために口には出さないが、同情心から報復的過激派組織のことを見て見ぬふりをして、憲兵隊や内国安全保障局の調査に非協力的な態度をとる民衆が多いので、なおさら企業は貴族を雇用したがらなかった。
そうなると身分証明書も見せずに働けるような仕事といえば単純な肉体労働くらいしか残っていないのだが、軍人とかプロスポーツ選手にでも職にしていない限り、貴族が身につける能力というのは支配者・管理者・経営者としての能力であって、単純極まる肉体労働では幼い頃から肉体労働をしてきた平民や元農奴たちのパワーについていけるはずがなく、早々に役立たずの烙印が押されてしまう。結果として貴族たちは就職難に苦しみ、路頭に迷うこととなっているのであった。
別に貴族が苦しんでいること自体は良いとしても、出身故の偏見による差別がまかり通っている現状は現皇帝ラインハルトにとって好ましくないことではある。彼は実力主義と平等主義という理想を掲げて立ち上がり、それは表面上だけのことではなかったから、複雑な心境ながら現状を許容せざるところであった。そうした主君の意向をマリーンドルフ伯はよく理解していた。
「卿の言わんとすることはわからないでもない。だが、それは市井に蔓延っている悪しき偏見に囚われた差別感情によるものであって、陛下も憂慮していることなのだ。この偏見を解くために、当局はなにかと苦労している。にもかかわらず、このような行為に及んだとなれば民衆の貴族に対する偏見を解くどころか、かえって偏見が強まって貴族たちを苦しめることになるのではないか。そうは思わなかったのかね」
「……たしかに私も最初はそのように考えておりました。しかし、しかし! その偏見とやらが意図的につくりあげれたものであり、それをつくりあげたのが他ならぬラインハルト陛下だとすればどうでしょうか!? このままずっと貴族の立場が悪くなり続けるばかりなのではないでしょうか!!」
「卿はなにを言って……?」
マリーンドルフ伯の疑問に、レオは自分の父モルト中将を犠牲にしてのエルウィン・ヨーゼフ二世誘拐事件の陰謀説を語ってきかせ、続けざまに叫んだ。
「皇帝誘拐という大事、本来であれば部署ごと罰されてもおかしくないところが我が父に自決を促されるだけですんだのはなぜですか! ゴールデンバウム王朝において私の一族が名門貴族家だったからでしょう! だから、父のみが処されたに違いない! このような判断をするようなローエングラム王朝に従い続け、本当に現状が変わるのですか! 多くの貴族が職を得られず生活苦に追い込まれ、ひどい家では若い娘が身を売らねばどうにもならぬところまで追い込まれている悲惨な状態が変わると言うのですか! 私たちにはとても信じられない! 陛下は専制君主として振る舞っておられるが、その本質は古代の憎悪に凝り固まった革命指導者と一緒です。あれはかつてゴールデンバウム王朝を支えた血統を、遺伝子レベルで根絶させようとしているんです。ですから、いずれは閣下も――」
「ありえないことだ。今の貴族の生活苦が帝国政府の意図的なものでは絶対ない。陛下がゴールデンバウム王朝とそれを支えた貴族を憎んでおられぬとは言わぬが、かといって一度支配下に入った貴族の殺戮に興じられるような御方ではないのだから」
「――ですが、貴族というだけで陛下は我が父を死に追いやりました」
マリーンドルフ伯は肌寒さを感じた。レオの視線に凍える冷たさを感じたのである。
「陛下の陰謀で卿の父が死んだというのは本当なのか。仮に本当だったとして、その理由は貴族だったからというものなのか」
「間違いありません。何度も確かめました。あきらかに父より大きな失態を犯した人物に大した罰もくだっておりません。そしてその人物は貴族ではありませんでした」
その人物というのはウルリッヒ・ケスラーのことである。帝都にフェザーンの工作員が入り込んでいる情報を掴んでラインハルトに報告している事実をレオは士官学校の学友から知っている。もしラインハルトが貴族や平民という身分にこだわりがなかったのだとしたら、口封じの意味もかねて父と一緒にケスラーも死を賜っていなければおかしいはずである。
もっとも、真相は自分から実行する陰謀で悪戯に身内の犠牲者がでることをラインハルトが好まなかったので、現場責任者一人の死のみで終わらせたかったというだけの話なのだが、憎悪と怒りの感情に突き動かされているレオはそんなムシの良い解釈などできるはずがなく、それに現在の帝国に蔓延る偏見に囚われている者からすれば“
「それに陛下が意図していたにせよしなかったにせよ、そんなことは問題ではありません。結果として彼の為した改革とやらのためにおおくの貴族が差別され、餓死寸前の状態に追い込まれつつあるのは否定しようのない事実です。そしてその苦しみに喘いでいる貴族のほとんどがブラウンシュヴァイク公のような己が領民を熱核兵器で虐殺した愚者ではなく、ただの平凡な人間なのです! 以前の伯爵閣下となにひとつとして変わらぬ人たちなのです! そのことを心苦しく思っていたのは閣下とて同じでしょう? それなら、どうか、われわれに力添えを――」
「貴族たちが苦しんでいるのはわかっている。だが、そのために私の愛する娘を見捨てろと?」
「……遠征に同行している御息女のことについては、大神オーディンの采配に委ねるほかありますまい。ですが、このクーデターが成功し、御息女の身柄を確保しましたら、五〇〇年の歴史を誇る近衛の栄誉に賭けて、彼女の安全をわれわれが保障すると誓います。ですから、どうか、お願いします!」
己の頭を下げてまで懇願するレオの態度に、マリーンドルフ伯は胸に痛みを感じずにはいられなかった。開明的方針をとったローエングラム王朝の初代国務尚書を務めていたため、当時と後世から誤解をされることになったが、マリーンドルフ伯自身が特別な政治思想の所有者というわけではない。貴族社会でも善良で温和であり誠実な性格であると認識されていたことを除けば、ゴールデンバウム王朝末期の凡庸で平凡な領主貴族とほとんど変わらない価値観の持ち主なのである。
二年前、リップシュタット戦役が起ころうかとした時、マリーンドルフ伯は中立を望んだが、もしどちらかに与せなばならないほど状況が切迫したのならば、帝国貴族としてブラウンシュヴァイク公を盟主とする貴族連合に参加するつもりだったのである。だからマリーンドルフ伯も他の貴族達と同じ運命を辿った可能性がおおいにあったのだから、苦しむ貴族たちに同情するのはむしろ当然であった。
なぜマリーンドルフ伯がそのような運命を回避できたかというと、跡取り息子を立派な貴族家当主にしなくてはと使命感を燃やした彼の両親が押し付け気味な厳しい貴族教育を幼少期に経験した反動で「とても辛かったから、自分の子どもには好きな道を歩ませてやろう」という思いを抱き続けてきたこと。そして自分の娘が類稀なる政治的才能を持って生まれたという幸運に恵まれたこと。この二つの差でしかない。少なくとも、マリーンドルフ伯本人はそう認識していた。
「……モルト大尉の言いたいことはよくわかる。だが、私はもう若くはないのだからマリーンドルフ家の運命を含めて娘に決断を委ねると決めている。そしてローエングラム家の門地を受け継いだ若い覇者に協力すべきと娘は決断した。私はそれを尊重したい。たとえ、それでマリーンドルフ家がどうなろうともね」
もう一点、付け加えるとしたら、自分の価値観が古臭くなって現代についていけてないと理解しており、それがゆえに若い者の判断を尊ぼうと思考することができたという点であろうか。もっとも、そうした考えはリップシュタット戦役での一連の出来事を通じて思いはじめたことであり、ラインハルトが帝国の全権を掌握してようやく完全に受け入れたことではあったが。
娘への愛情にあふれた親の言葉で拒絶されては、子どもなんていない独身者であるレオとしては言い返しようがない。もちろん、身内可愛さに保身をはかるのかと糾弾することはできるだろうが、固い覚悟を決めてるように言い切られては逆効果でしかないだろう。不満は残るが、ここまで愛情があるなら、娘の身柄を陣営が確保さえできれば味方になってくれる可能性が高いとわかっただけ収穫ではあるだろう。
「伯爵閣下のお気持ちはよくわかりました。ですが、協力して頂けぬなら閣下を自由にするわけにはいきません。もうしわけありませんが、自邸にて軟禁させていただきます。ご容赦ください」
マリーンドルフ伯って自分の考えを押し付けるようなとこがないからわかりにくいけど、基本的な価値観はほとんど一般的な貴族と変わらないじゃないんじゃないだろうか。娘の自由意思尊重してるけど、あまりにも普通の貴族令嬢じゃないことに不安を感じてたみたいですし。