リヒテンラーデの孫   作:kuraisu

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評価数50越えるとは……


巡礼者の日々

 地球教本部に巡礼者として潜入してからユリアンは信徒の義務である朝の礼拝をすませてから、“自発的奉仕”と称される取り組みに参加していた。簡単に言えば志願制の労働であり、広間を清掃したり、食糧倉庫を整理したり、技術者であれば施設内の機械を修理したりする。地球教によれば「共同作業を通じて兄弟同胞であると信徒間の連帯意識を育み、互いに慈しみあう関係をより強くするための取り組み」であるというが、むろん表向きのポーズであり、本音はせっかく信仰心が強い巡礼者を本部に引き入れたのだから、宗教的理由をこじつけて無償の労働力として利用しようところであろう。

 

 ユリアンがこの労働に参加したのは、予想以上に巡礼者に目を光らせている地球教団の監視員たちの数が多かったので、彼らの監視を欺くためには信用を買うにはこれに参加したほうが良いと思ったためであり、労働中に最下層までは無理だが一般信徒立ち入り禁止の場所に立ち入ることもあったので、地球本部の全体的な図面を把握・推測するのに有用だと思ったためである。

 

 しかし収穫はなかった。自分への監視が他の巡礼者とくらべてあまくなるような気配は微塵もなかったし、彼が探している地球教団の資料室やデータバンクらしき施設を目にできてもいない。だからわかったことといえば、おそらくそういう部屋は警備がより厳しくなっているもっと下層のほうにあるのだろうということだけである。

 

「ポプラン中佐やコーネフさんがやってられないと言ってましたよ」

 

 偶然ユリアンと一緒に施設の拡張工事の労働に割り当てられたマシュンゴにそう言われた。どういう理屈によるものか、教団本部に巡礼におとずれた信徒は外界での関わりにとらわれるべきではないとされており、教団によって無作為に宿泊する部屋が割り振られるのだ。この教団本部に潜入したのはユリアンと自分に付き合ってくれているルイ・マシュンゴとオリビエ・ポプラン、養父ヤンの旧友であり地球への案内人になってくれたフェザーンの独立商人ボリス・コーネフとその船員であるナポレオン・アントワーヌ・ド・オットテールの五名であるが、同室になったのはマシュンゴとオットテールだけであり、互いの連絡にすら苦労するありさまだった。

 

 あまり頻繁に接触していては地球教の疑念を買うかもしれない危険があったため、このように意図せず接触した時に互いの知っている情報を交換し合うのが、だれが言い出すのでもなく暗黙の了解となっていた。

 

「そうおっしゃるでしょうね」

 

 ユリアンは苦笑した。地球教の裏側を探るべくやってきたのだが、じつのところ、自分もしばしばこんなことをやっている意味があるのかと思い、バカバカしさを感じずにはいられないのだ。目的意識がないのに信徒として振舞うことを余儀なくされている二人の苦痛は尋常なものではないだろう。

 

 そんな時、聖職者から指示されたとおりにシャベルを振るって横穴を掘り進めていた中年信者が疲れたのか作業を一時中断し、ぐるりとまわりを見渡すと二人が小声で情報を交換しているのが目に入り、親切そうな声でマシュンゴに尋ねた。

 

「あんたはこの子の父親かね」

 

 予想外なことを聞かれて両方とも驚いた。マシュンゴは鍛え上げられたたくましく巨大な肉体に黒い髪に黒い肌を持つ黒人であり、ユリアンは亜麻髪に白い肌を持つ小柄な白人である。人種が違うこともあって、外見的には似通っている部分はなにひとつないと言って良い。

 

「違います」

「そうなんけ。なら親戚かい?」

 

 マシュンゴは軽く横に首を振った。

 

「いえ、巡礼中の彼の保護者のようなものです。でもどうして私を彼の父親だとお思いに?」

「ずいぶんと親しげに話ししてるもんだから年齢差からそう思ってしまってな。自分は帝国人だから馴染みがないんだけんど、フェザーンや同盟だと違う人種間で友人関係になるどころか、子どもを養子にとって親子になってることも珍しくないんだろ? 特に同盟だとトラ……なんだったけ? トラトラ法だったけな? とにかくそんな名前の法律の影響もあってそういう親子も多いと、地元の司祭様から聞いたことがあるもんでな」

 

 田舎口調で中年の信者はそう説明した。トラトラ法というのはトラバース法の間違いである。正式名称は軍事子女福祉戦時特例法といい、戦争で身寄りを失った戦災遺児を軍人家庭に預け養育する法律で一五歳までは国から養育費がでるが、それは貸与という形であり大人になってからの返済義務が生じる。しかし例外があって軍関連の仕事につけば返済義務が免除される。つまり戦争中に慢性的に発生する孤児の救済と軍の人的資源確保を目的として作られた法律である。トラバース法と通称されるのは、その法案の発案者がトラバースという名前の代議員であったからだ。

 

 ユリアンは物心つく前に母を亡くしており、父を帝国との戦争で失ってからは、疎遠だった母方の祖母の家で育てられたが、その祖母も寿命で亡くなって天涯孤独の身となり、トラバース法の適用対象となってヤン・ウェンリー大佐の養子になったのである。大佐だった頃のヤンは結婚していなかったので、トラバース法における養育者の資格である軍人家庭を持っていなかったのだが、ユリアンの父親の元上官であり士官学校の先輩でヤンが世話になったキャゼルヌが気を使って、なかば強引な法解釈で処理して押し通したのだそうである。ヤンは東洋系の特徴をもっている人物だから、ユリアンが人種的に異なる親子関係を有しているという点で中年信徒の推測はある意味ではあたっていた。

 

「フェザーンではこういうのは普通なんですが、帝国だとやっぱりこういうのに対する偏見が厳しいんですか」

 

 ユリアンたちはフェザーンからの巡礼者であると身元を偽っているのでそんな前置きをした後、素朴な疑問を呈した。

 

「そうだったんやけど最近はかなりマシになったな。何年か前に帝国宰相になった若い奴がおったろう。いや今はもう皇帝になんじゃっけ? 政治のことはよくわからんけぇ。とにかくそいつが農奴解放とかいうのをやってから、この聖地以外でも白人じゃないやつをよう見かけるようになったからなあ。もちろん偏見てのはそう簡単に消えるもんじゃねぇから色々問題がおこっとるらしいが、司祭様は人間はみんな地球という同じ母を持つ兄弟なんだからこれは正しいことやと言うておった。昔から今の帝国は平然とした理不尽が横行してて間違ってるって言うておった立派な方じゃったからのう。ああ、もちろん、おおっぴらに言ったら社会秩序維持局のろくでなしどもに難癖つけられてひでぇめにあわされるから、敬虔な信徒しかいないときしかそういう説教はせぇへんかったけど。近頃は自由化とやらでそれも民衆に対して説けるようになったちゅうて司祭様も喜んどったわ」

 

 不揃いな歯を口から覗かせてニッと笑顔を浮かべているのを見て、ユリアンは脱力感を感じずにはいられない。素朴な信徒からこういう話を聞くたびに、地球教も他の宗教と変わるところはなく、人類社会に陰謀の糸を張り巡らせる裏面など存在しないのではないかと思ってしまうのだ。しかしデグスビイ主教と話した経験と異常なまでに厳しい巡礼者に対する監視体制が敷かれている事実が、絶対になにか裏面があるはずであるとユリアンの感性に訴えかけているのだ。それが人類社会全体に影響を与えうるようなものであるかどうかまではわからないが。

 

「僕らは地球に巡礼しにくるのは初めてなんですが、何度も巡礼しているともっと下の院や別の院に行けたりするんでしょうか?」

 

 世間話を繰り返す最中にごく自然に下層部や別の施設が存在しないか探りの言葉をユリアンは入れた。マシュンゴがいざというときのためにほんの少しだけ警戒するのを感じたが、素朴で純粋な信徒はまったく気づかなかった。腕を組んで彼のあまり整理されていない乱雑な記憶の抽斗(ひきだし)をひっくり返して、いままで巡礼したときの記憶を拾い集める。

 

「……ここより下の院にはおらも行ったことねぇだな。ただオセアニアには行ったことあるでよ」

「オセアニア?」

 

 マシュンゴは首を傾げたが、ユリアンはその単語に聞き覚えがある気がした。

 

「こっから南の方にある諸島群の総称じゃけぇ。二年前に巡礼に来た時に、遺跡観光ツアーちゅうのをここでやってたんで、一五〇〇帝国マルク払って行ったんやわ。教団が設立されるはるか昔からあったっていう遺跡にいくつも見物して、あらためて地球の歴史深い神聖さに圧倒されて感動にうち震えたもんや」

 

 その遺跡が地球統一政府時代のものであるとしても八世紀近く昔のものであるはずである。人類が進出して三世紀程度しかたっていない同盟領内では絶対にお目にかかれない古い遺跡だ。そういう遺跡がまだ地球に残っていると聞けば、それ目当てでヤン提督が地球にやってこようとするかもしれない。いや、探索者より研究者気質の人だから資料だけ取り寄せて自分で足を運ぶのは面倒だからヤダとか言いそうだなとユリアンは想像して苦笑した。

 

「その観光ツアーに僕も行ってみたいです。次はいつなんですか」

「さあ、不定期にやっとるそうやからおらにはわからんねぇ。どうしても参加したいならここの司祭様か主教様に聞いた方がええで」

 

 その信徒はそう言ってから背筋を伸ばし、一休みも終わったと言って再び熱心にシャベルをふるいはじめた。それを見てマシュンゴもシャベルをとって労働に戻り、ユリアンは掻き出された土砂を袋につめて地上に運び出す作業に戻った。

 

 “自発的奉仕”が終わったらシャワー室で汗を流す。その次に夕食、というわけにはいかない。夕食前に礼拝堂に信徒が集まって高位聖職者による説法を聞く祭儀(ミサ)がとりおこなわれるのだ。いつも祭儀(ミサ)は『平和への希望』と呼ばれる讃美歌を全員で合唱することから始まるのだが、それは美しくも悲しげなメロディーの賛美歌であった。

 

「太陽なき夜には月が、月なき夜には無数の星々が、空より平和の光でこの地を照らす。

ああ洋々たる銀河の流れよ。その源流にて輝く、われらが母なる星よ。

希望が尽きることはない。平和への祈りが絶えることはない。人類の歩みが止まることはない。

久遠(くおん)の昔より忘れられることなく続いてきた人類の悲願は必ずや成就するだろう。

母なる地球の輝きとともに、自由なる民として、平和の中で永遠に暮らすことを!」

 

 バーラトの和約が結ばれるまで同盟において地球教は「地球を我が手に」というスローガンを掲げ、帝国との戦争を聖地である地球を奪還するための聖戦であると位置づけ、主戦派を強力に支援していた。そういった事実をユリアンは知っているため、信じがたいにもほどがあるのだが地球教の教義の中核に反戦平和思想があるのだ。

 

 約九世紀前、シリウスの独裁者タウンゼントが何者かによって暗殺された後、シリウスの権力体制が崩壊したことによってふたたび人類社会全体が動乱の時代を迎え、地球を占領統治していたシリウスの軍隊であるBFFの占領部隊も銀河規模の動乱に参加するために有名無実化した政府から与えられた任務を放り投げて去っていき、地球人たちに残されたのは荒れ果てた人類発祥の惑星のみであったという。彼らは自分たちの無力さやぶつけどころがない憎悪を同じ地球人にぶつけることで消化しようとした。地球統一政府誕生以前のようにいくつもの国家が一惑星上に群雄割拠し、数百年にもわたって血みどろの争いを繰り広げた。

 

 そんな時に生まれたのがジャムシードという人物である。彼は戦災孤児で暴力がものを言う貧民街で育った。そのために幼少期の頃から戦争というものを激しく憎んでいたという。彼は一二歳の頃には他を冠絶する才覚と格調高い弁舌を発揮して自国の反戦団体の重要人物となり、一九歳のときにそのトップになった。そして平和を実現するためには一国規模の反戦活動では焼け石に水であり、地球上の全国家の反戦団体が統一戦線を張る必要があると訴え、一〇年近い歳月をかけて各国の反戦団体と秘密裏に協力関係を構築・合併して全地球反戦連合を結成。同連合の主席に三一歳だったジャムシードが就任した。この時に主席の指示によって『平和への希望』が連合を象徴する反戦歌として作詞作曲された。全地球反戦連合による統一された反戦運動によって各国の継戦派の権力者を次々に失脚させていき、二年後には悲願であった地球の平和を達成した。

 

 群雄割拠期の地球における反戦運動は、同じ地球の民ではないかという謳い文句が多用されていたこともあり、反戦活動家は程度の差はあれどほとんどが地球崇拝者であったという。地球の平和を達成したジャムシードも御多分にもれず地球崇拝者であり、彼は各地の反戦運動の雑多な地球崇拝を体系づけて宗教化し、全地球反戦連合を地球教団という宗教組織に改組し、自らは初代総大主教の座についた。そのときでさえまだ四七歳という若さであったという。

 

 以上が、地球教団が発行している公式歴史書に書かれている地球教誕生の経緯である。自らの行動によって戦争を終結させ、地球に平和を齎したジャムシードは、地球人たちから神のごとくに崇敬され、地球教におけて別格の聖者として扱われ、絶世の英雄にして最初の母なる地球の意思の体現者、光輝き幸福に満ちた未来を謳う浄罪の天主として聖典に記されるのも、その偉業を思えばわからないことではない。

 

 むろん、宗教組織の開祖には現実離れした逸話が後付けされることが多いため鵜呑みにするのは禁物であるとユリアンは思う。しかしジャムシードに関する記述が概ねにおいて真実であるとしたら、自らの行動によって戦争を終結させ、地球に平和を齎したジャムシードは、当時の地球人たちにとって偉大な存在に映ったことであろう。最近、帝国や同盟で地球教の信者が急増していたのも、戦争に疲れた民衆が戦争を終わらせたジャムシードの逸話が銀河規模で再現されることを望んでいたからかもしれない。

 

 しかしもしそうなのだとしたら、ジャムシードの遺産である地球教団が長い時を経て戦争を激化するための扇動の道具として使われていたことに、そしてデグスビイの遺言を信じるのなら、地球教徒たちがなんらかの目的で人類社会を暗躍して歴史の歩みを停滞させようとしているを、もし死後の世界というものがあるならば、そこにいるであろうジャムシードは今の地球教のあり方をみてどう思うのだろうか。それとも死んだ後のことなんか知ったことかと割り切るのだろうか。

 

 そこまで考えてユリアンは苦笑した。ヤン提督でもあるまいし、などと思ったのである。彼の養父であるヤンが、帝国で奴隷として生まれながら、自由と民主主義を求めて長征一万光年を成し遂げた国父アーレ・ハイネセンは、その結果として誕生した口先だけで民主主義を唱えながら、実態は政治に無関心な民衆と権力欲にとりつかれた政治屋が支配的になってしまった自由惑星同盟の衆愚政治を見たらどう思うだろうと独り言のように呟いていたのである。

 

「――主席の威光で平和はおとずれた。これ以上、あなたは何を望むというのか。敵意も露わに問う同志ルフェスに対して主席はこう答えられた。二度とこの地上で兄弟同士の流血が繰り返されるようなことがあってはならぬ。この平和を永遠のものとするためにも、平和を尊び戦争を忌む、健やかな精神を未来を背負う若者たちに根付かせ続けねばならない。そのためにやるべきことをやらなくては、これまで血を流し倒れていった兄弟たちすべてへの裏切りとなろう。その答えにいまの主席は権力欲に憑りつかれているなどという巷の噂を信じてしまったことを恥じて涙を流し、おのれの過ちを述べて信徒ルフェスは罰を求めたが、慈悲ぶかく親愛なる主席は汝がそのような誤った考えを持ったのは他人の声に耳を貸す生来の真面目さ素直さゆえのことであり、それは創造主が汝に与えた宿痾(しゅくあ)である。その誤解を誤解と認識せず盲目的に暴走して平和を乱したというのならともかく、我に直接問うて自ら過ちを正した汝を罰しては母なる地球の御意思に背くと同じ事と諭して赦したもうた」

 

 地球教の聖典にある平和達成後、全地球反戦連合が宗教組織化していく過程で発生した主席ジャムシードと初期からジャムシードの反戦運動を献身的に支えてきたルフェスとの諍いのエピソードを、礼拝堂の演説台に立った年老いた大主教が感情たっぷりに読み上げ、佳境の部分では感極まって涙声になるほどであった。それに影響されたのか、聴衆の信徒たちもしずかにすすり泣くのだが、ユリアンとしてはそのあたりのことがよくわからない。

 

 というのもユリアンとしては、およそ泣くような要素が見当たらない記述が読み上げられている時でも信徒たちは泣くからである。まさか、聖職者自ら朗読しているから、というわけでもあるまいと思いたいが……。ユリアン個人の感覚でいうなら、これに比べると末期の同盟の式典でヨブ・トリューニヒトを筆頭とした演説家に扇動されて、聴衆が内面の感情的エネルギーを爆発させ、一丸となって同じスローガンをヒステリックに連呼している光景の方がまだ理解できる光景に思えるのだった。

 

 幾人か変わって長々と続いた説法をユリアンはまわりから不敬虔と指さされないように、説法を拝聴して感心している風を装うのに苦労した。自分でこれなのだから、他の皆はボロをだしていないだろうかと毎回不安になるのだが、みんな巧みに誤魔化しているようである。コーネフとオットテールは仕事柄愛想よく空気を読むことに慣れているし、マシュンゴはどこか達観した感が悟りの境地に達していると受け取られているらしい。そしてポプランは「年寄りの説教を聞いてるふりしてやり過ごす、ガキの時分に多用した技をまたやることになるとは」と前に会ったときにこぼしていた。

 

 三〇分ほどの説法が終わると祭儀(ミサ)は解散であり、夕食をとって就寝。そして朝にまた礼拝をして昼食を挟むだけで夕方まで労働、夜に祭儀(ミサ)して就寝、を、延々と繰り返す。これがユリアンたちが地球教本部に潜入してからずっと続いている一日のあり方であり、宗教的信仰心というものとはほぼ無縁であるユリアンたちにとっては馬鹿馬鹿しく思えてくるのも当然といえよう。

 

 その日、ユリアンはすぐに礼拝堂から出ることはなく、疲れた様子でため息をつき、ぼーっと太陽を模したと思わしき歪な聖像を眺めていた。他にも少なくない数の信徒が一緒に聖地巡礼に来た知り合いと会話しようと足を止めている。ユリアンが礼拝堂にとどまったのも何の収穫もないので皆と今後の予定について話あいたいと思ったからである。もっとも聖職者が多くいる礼拝堂で多くを話すことなどできないが、それでも簡単な意思確認くらいはできるのだ。

 

「おや、きみはいつかの」

 

 しかし声をかけてきたのは、彼の仲間ではなかった。

 

「あ、この前ここで迷子になった時にお世話になりました」

「いや、かまわないさ。前にも言ったが、この入り組んでる本部で迷うのは珍しいことではないのでな」

 

 ここに来てから迷子なんか何人も出て案内もしてるから、もう慣れたと笑う彼の声はかすかに擦れていた。目元が潤んでいることを考えると彼すらも先の説法に感動していたのだろうか。以前あった時に彼が穏やかな性格の持ち主であろうことが察せられているだけに、まるで自分と地球教徒との価値観の差異の大きさを見せつけられているかのように思え、ユリアンは口には出さねど少々不気味に思った。

 

 しばらく彼と雑談している内に、ユリアンはあることに気づいて質問した。

 

「そういえばまだお名前を聞いていませんでした」

「そうだったか。私はイザーク・フォン・ヴェッセルという。そういえば私もきみの名を聞いてないな」

 

 ユリアンはあらかじめ考えていた偽名を告げた。“ユリアン・ミンツ”という名は帝国軍占領下のフェザーンから脱する際に、なりゆきで帝国の巡航艦を強奪して帰還したことでちょっとした英雄扱いされたこともあって、多少名が知れてしまっているのだ。一応、フェザーンからの巡礼者ということになっているので、ユリアンという名前は使えないのである。

 

「それにしても“フォン”という名前がついているということは、あなたは貴族なのですか」

「……」

 

 ヴェッセルは虚をつかれたように驚いた後、感慨深げに頷いた。

 

「ああ、一応、名門貴族なんだ。いや、そうだったというべきかな? ローエングラムめに粛清された時に貴族籍抹消されてたはずだから」

「ということは数年前の内戦の時、あの貴族連合の一員だったんですか」

 

 ユリアンの声には若干の嫌悪がある。門閥貴族連合軍の蛮行は貴族特権を否定する大義名分にしたいローエングラム侯と貴族特権濫用を戒めるために利用したいリヒテンラーデ公の皇帝枢軸陣営が盛大に宣伝工作を実施したこともあって、同盟側にも伝わってきているのだ。特にリッテンハイム軍による退路上の味方の後方部隊への攻撃、ブラウンシュヴァイク公による叛乱が起きた自領惑星への熱核兵器使用などは象徴的なものである。

 

「いや、私はリヒテンラーデ派の警察官僚だった。自分で言うのもなんだが、けっこうな高官だったものだから、内戦終結後にローエングラム一派に家ごと処分されてな」

「そ、それはお気の毒に」

「気にせんでいい。家といっても、私はある一件のせいで実家からは勘当されて絶縁状態でな。ほとんどただの警官として生きてきたのだ。それに内戦時に親族全員連合側に属してしまっていたものだから、下手したら内戦が始まる前に自派から粛清されかねんかった。私を重用してくれていた人がリヒテンラーデ公にとりなししてくれたおかげで、一命を繋ぎ、ヴェッセル家の当主ということにはなったものの、家の領地などの財産は全部連合側に属した親族が実質的に全部握ってたからな。家自体は失ったところで惜しむものではないし、未練もない」

 

 とはいえ、書類上はヴェッセル家の当主であり、内戦が終結すれば、ヴェッセル家の財産のいくらかを国庫に返上することにはなるが、残りの莫大な財産は相続される予定であったから、常人ならそう簡単に割り切れる話ではない。しかし、名門貴族の出でありながら、家から勘当されてたせいで警察官僚としての俸給だけで暮らしてきたし、彼は贅沢することにさほど魅力を感じる感覚の持ち主でもなかったので、彼の主観的には大した問題ではなかった。

 

 しかしユリアンとしては赤面するような思いである。名門貴族の出というだけで、もしかしたらろくでもない人間なのではないかという疑念を、苦労を重ねてきたのに報われてない悲惨な人物に向けてしまったのだ。真面目で素直な彼は養父のヤンからいつも先入観にとらわれないように気をつけなさいと教えられていたのに、という恥ずかしさを感じずにはいられないのだった。

 

 しかし、その経歴を知るとユリアンの頭脳にある素朴な疑問が浮かんだ。

 

「でもあなたって司祭なんですよね? 数年前まで警察官として働いていたなら、異例の抜擢だと思うんですが……」

 

 地球教の聖職者は黒布の僧服を着るだけではなく、聖職者としての位階を示す豪華な首飾りをつけている。そしてヴェッセルは司祭の地位を示す首飾りをつけていた。地球教の聖職者の修行がどのようなものなのか想像すらできないが、それでも一、二年でなれるようなものではないだろう。

 

「……ああ、私は正式に司祭というわけではないんだ。ただ教団の客人として招かれている身なので、司祭相当の地位を保障されているというだけで。私は外様の人間なのだ」

 

 すこし言いにくそうにそう語るヴェッセルの姿に、ユリアンは鋭く反応した。もしかしてこれは、教団の暗部を調べるきっかけになるのではないだろうか。帝国の元警察高官をただの宗教団体が手厚く客人として遇するというのは普通では考えにくく、ともすれば地球教の裏面に直結しているのであるまいか。むろん、たんにヴェッセルの人の良さから地球教の団体によく献金してたとか、そんな単純な理由によるものである可能性もなくはないが、これまでなんら収穫を得ていないという事実がユリアンをはやらせた。

 

「話が長くなりそうですし、もしよかったら一緒に夕食を食べませんか」

 

 ヴェッセルは腕を組んでしばらく唸り考えた後、私も一信徒のようなものだからかまうまいと言ってユリアンの誘いに乗った。地球教本部の話題に関してはユリアンがすでに知っていることしかヴェッセルは言わないので落胆したが、代わりにヴェッセルが警察時代の話題をけっこう話したので望んでいたものとは違うけれどもユリアンにとっては非常に興味深い話をすることができた。そして夕食を食べ終わると、また明日いいですかと誘い、ヴェッセルは快く了承した。

 

 しかし、ヴェッセルは夕食を終えて、与えられている自室に帰ると何の感情の色もない無表情で、洗面台の鏡に向かい合い、ポツリとつぶやいた。

 

「私は、なにをしている……?」

 

 ヴェッセルは洗面所の抽斗(ひきだし)から、ある白い粉を取り出した。これはある薬の中和剤であり、ヴェッセルはそれを水道水に溶かして一緒に飲み込んだ。




地球そのものの在り方や、地球教の教義ついては原作でほっとんど触れられてない(あるいは自分が忘れてるので)ほぼ創作。
その結果、地球教が反戦平和思想の宗教になったぜ!(なお、実践面において倒錯的になる模様)

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