リヒテンラーデの孫   作:kuraisu

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暗闇の惑星

 年老いた古い惑星。すべてを焼き尽くさんとするシリウス率いるBFFの猛攻とその後の無秩序状態の中で延々と続いた統一政府誕生前さながらの群雄割拠の戦争を経て、この惑星はひどく荒れ果てた。中には人が住むことができなくなるほど汚染された地域すら存在する。最盛期、この荒廃した惑星には九〇億もの人々が住み、繁栄を謳歌していたとこの光景を見ただれが信じられよう?

 

 その惑星の名は太陽系第三惑星地球と言い、三〇世代前までは人類社会の中心として栄えていた。しかしそれも長い混乱の中で地球は荒廃し、人類社会に対する影響力は完全に失われたとされており、宇宙に旅立った多くの人々にとっては学校で歴史の授業を受ける時に微かに思い出す程度の存在にすぎない。

 

 だが、それは真実とは異なる。彼らはいまなお人類社会に一定の影響力を持っている。我らを忘れた者どもに報いを、我らが故郷を焼き尽くした者どもに復讐を! 幾百年、宇宙に進出した人類には届くことなく、地球の大気内で虚しく反響し続けた憎悪と怨念の声は、いつしか確かな実態を持つようになっていたのである。人知れずに。

 

「総大主教猊下……」

 

 そんな地球の政治的・宗教的中心地である地下神殿の奥で、ド・ヴィリエ大主教が地球の統治機構の頂点に立つ老人にうやうやしく呼びかけたが、相手は反応を示さなかった。

 

「ラインハルト・フォン・ローエングラムが自由惑星同盟を征服いたしましたのは間違いないようです」

 

 そこで初めて総大主教は反応を示した。同盟が帝国に降伏したという情報を入手してから、ド・ヴィリエにその情報を収集するように命じていたのである。ラインハルトが同盟を征服することは地球教とて望んでいたことであるが、フェザーンが一方的に利用される形になったのは予想外だったし、望んでいないことであった。今後の方針を決定する上でも詳細な情報が必要であった。

 

「それでその後はどうなっておる」

「どうやら帝国は同盟を完全に滅ぼすのは時期尚早と考え、回廊周辺の領土を割譲させて形だけの停戦条約を結び、レンネンカンプなる者に同盟駐在高等弁務官の職を与え、同盟政府を介しての統治をしくとしたようにございます」

「……レンネンカンプか、たしか新参者の帝国軍幹部であったな」

「はっ。四八八年の内乱において、貴族連合側に属した提督にございます」

 

 ローエングラム元帥府に属する提督の内、ヘルムート・レンネンカンプとエルンスト・フォン・アイゼナッハは元々貴族連合軍に所属していた。レンネンカンプは仲が良かった上官が貴族連合側に属したので付いていったのであり、アイゼナッハは本人も一応は貴族で、親戚の多くが当時の常識的にまっとうな判断をくだして貴族連合に参加してたから見捨てられず参加したのであって、互いにまわりに流される形で連合側に属したのである。

 

 それゆえ、リヒテンラーデ・ローエングラム枢軸の専横を打破して伝統ある帝国の秩序を回復するという貴族連合の大義にたいして共感していなかった。それでいてとても両者とも有能だったので、ラインハルトの貪欲な人材収集癖によって見いだされ、元帥府に名を連ねることになったのである。

 

「そのような者に同盟を任せるとは……愚かなことよ」

「レンネンカンプめはかつてローエングラムが、まだ帝国騎士ミューゼルであった頃に上官をしていたことがあると聞きます。それでいて元帥府に迎え入れたのですから信頼しておるのでは?」

 

 ラインハルトがローエングラム伯爵家の名跡を継ぐことが決まり、帝国社会全体にとって無視しえぬ巨大な存在となるまで、ラインハルトに対する評価は決して好ましいものではなかった。ラインハルトが軍事的才能と莫大な戦功を考慮するにしても、戦場から帰還するたびに昇進しているというのはどう考えてもおかしく、その嫉妬がラインハルトに対する感情的な反感となってその才能を隠す煙幕となり、ラインハルトの出世は能力によるものではなく皇帝の寵姫の弟ゆえの依怙贔屓であると見なし、悪意を向ける軍人が多数派であったのである。

 

 そんな時代にラインハルトの上官になったにも関わらず、レンネンカンプは後の覇者を他の将校と同じように扱った。ラインハルトを排除しようとする勢力の手先が帝都からやってきたときでも、宮廷のいざこざを持ちこまれてはたまったものではないと思いつつも、一緒になって部下のラインハルトを排除しようなどとは一度も考えすらせず、正攻法で宮廷の手先の行動を制限しようとするほどであった。そのあたりの経緯まで知っていたわけではないが、そうしたド・ヴィリエの所見に総大主教は冷笑するのみであった。

 

「主従間の信頼があったとしてもじゃ。新参ゆえの引け目というのは、巨大な功績によって克服しようとするもの。ラインハルト・フォン・ローエングラムとて、歩くトラブルなどとまわりから揶揄されるほど不文律を破りながら莫大な功績を立て、それによって多くの信奉者を生み出してきたのではないか。臣下が主君に倣おうとするのは当然なことじゃて。そうは思わんか、のう?」

「しかも立場が立場ですからな」

 

 ド・ヴィリエは意地悪く笑いながら追従した。新参ということもあるが、今回の同盟領侵攻に際してレンネンカンプは何度か失態を犯しているという情報を帝国軍内の信徒から入手している。同盟駐在高等弁務官の職をラインハルトが与えたのも、レンネンカンプに名誉挽回の機会を与えるためなのであろうが、与えられた本人はいろいろと焦っているのではあるまいか。

 

「レンネンカンプのことはひとまずおこう、肝心のローエングラムはどうしたのだ」

「併合した征服地にもとどまらず、シュタインメッツなる者に大軍を与えて残し、自分は帝国本土に帰還した由にございます。その際、例のトリューニヒトなる者をともないましたとか」

「あの者もけっこう役にたったようじゃな」

 

 自由惑星同盟の元国家元首であるヨブ・トリューニヒトと地球教の関係はいささか複雑である。フェザーン自治領の首脳部みたいに地球教と主従の関係にあったわけではない。ただトリューニヒトが政治家として成功を重ねていく過程で、地球教団に利用価値を見出し、なにかと地球教に便宜をはかってその力を選挙や政策遂行に利用したのである。完全にそれだけであって、トリューニヒトに忠誠心とか信仰心とかいうものがあるわけではなかった。

 

 ただトリューニヒトの権力闘争における政治手腕は凄まじいものがあって、そんな彼の好意を得ることは、同盟建国の父ハイネセンが唱えたという「自由・自主・自律・自尊」の価値観に染まっている影響で厭宗教的気風が蔓延している同盟で、帝国ほどの信徒を獲得することができず、その影響力を拡大できずにいた地球教にとってはなにかと好都合な存在であった。このように完全に利害で結ばれている仲であって、そこに精神的な紐帯はないし、未来図を共有しているわけでもない。互いが完全に同意できる事柄があるとすれば、可能な限り相手を利用してやるという思惑だけであったろう。

 

「それでそのまま帝国でも、あの者を籠の中の腐った林檎として使うのか」

 

 トリューニヒトはおぞましい俗物で国家を際限なく腐敗させておきながら、民衆にそうとは悟らせない政治手腕に長けていた。それどころか表面的・形式的には何の問題もないように見せつけ、自身を国家を強力に導くことができる素晴らしい政治家であると民衆に評価させ、熱狂させるほどであった。少数の貴族でなく、大多数の民衆の人気を根本的な基盤としているラインハルトにとってトリューニヒトは非常に面倒な相手であろう。総大主教はそう思ったが、ド・ヴィリエの答えは違った。

 

「いえ、帝国におきましてはハインリッヒ・フォン・キュンメルなる者を一年以上前から用意しております。いますこしの御猶予をいただきたく存じます」

「たしか重い病人と聞いたが、役にたつことはたしかであろうな」

「あと半年死なずにおれば、私どもの目的は達せられましょう。医師も派遣してございますし、もともとローエングラムの器量と健康に嫉妬しておりますれば、あやつるのは困難ではございません」

「ではよい、そなたに任せる。フェザーンのほうはどうなっておるか」

「はい、フェザーンにかんしましては、いささか不確定の要素が多すぎます」

 

 いままで自信満々に報告していた大主教の声が、やや小さくなった。それを見て総大主教はもしやと思い、かねてより懸念していることを口にした。

 

「ルビンスキーとの連絡はとれているのであろうな」

「いちおうは。ですが、あの男、どうにも心の底がしれませぬ……」

 

 ド・ヴィリエの声には疑念という胸中の感情がそのまま表れていた。もとよりド・ヴィリエはルビンスキーをライバル視していた。地球教の数世紀にわたる長期的な計画は最終段階にあり、地球を中心とした祭政一致体制が全人類社会に敷かれた際、その計画において多大な貢献をしたフェザーンの自治領主は厚く報われることが簡単に予測できるからであり、地球教内部においては総大主教に次ぐ立場を確立しつつあるド・ヴィリエにとっては将来の政敵となりかねない。警戒するのは当然と言えた。

 

 しかし今回はその程度ですむようなことではなかった。フェザーンにはその特性からして地球教から広範な行動の自由が与えられているが、皇帝を亡命させる計画の実施からフェザーンを占領されるまでのルビンスキーの行動を分析し、地球教のコントロール下から完全に離れているのではないかと疑わざるを得なかったのだ。なまじド・ヴィリエは狂信者たちの巣窟にあって、唯一自己の器量と才覚のみを信仰の対象にしている現実主義者であったので、自分がルビンスキーの立場ならばこれを機会に地球教と縁を切って行動するだろうと思えるだけに、ド・ヴィリエの疑念は深かった。

 

「たんに服従の精神が疑われるだけにとどまりません。おそろしく不逞な野心をいだいておるやに思われます。ご用心のほどを……」

「そんなことは承知のうえじゃ」

 

 不逞な野心の持ち主というのは、別の不逞な野心の持ち主を敏感に察知できるものなのやもしれぬな。ド・ヴィリエの不信心ぶりを理解していて、ルビンスキーの真意も薄々察していた総大主教であったが、それを見抜けたのはどちらかといえば一世紀近い人生経験によるものであって、ド・ヴィリエの年齢だった頃には見抜けたかどうかわからない。しかし不逞な野心家が同僚を不逞な野心家として告発するというのは、総大主教からするとどうにも滑稽な喜劇じみているように感じられる。

 

「われらの掌のうえで踊るかぎり、どんなかたちで舞おうと意に介するにおよばぬ。それより、あの不肖者のデグスビイについては、その後、なにかわかったかな」

 

 総大主教としてはフェザーンの支配権を失ったルビンスキーの野心より、ルビンスキーの監視役として派遣していたデグスビイのことのほうが懸念すべきことであった。

 

「デグスビイが死にましたのは確実でございますが、問題は、死ぬ前に秘密を洩らしたや否やでございます」

 

 地球教が人類社会に対して少なからぬ影響力を持っているのは、その秘密性に由来する。幾百年に渡る地道な活動の結果であるが、影響力があるだけなのだ。軍事力なんて持ってないし、フェザーンのような特殊な立地条件でもないので、帝国軍の怒りを買えば卵の殻を砕くように容易く教団本部は壊される。だからこそ教団首脳部は勢力を伸ばすに際して帝国当局の注目を集めないように細心の注意を払ってきた。その注意深さたるや、社会秩序維持局にすら無害なものだと誤認させるほどである。

 

 その地球教の秘密の多くを知っているデグスビイが行方不明になったとあっては、地球教としても平静ではいられない。ルビンスキーも地球の真の姿を知ってはいるが、その詳細までは知らないことを考えると彼らからすればそちらの方が懸念事項となるのは当然であった。ド・ヴィリエは優れた手腕を発揮して各惑星の支部から送られてきた情報を分析し、デグスビイの具体的な末路を把握することに成功していた。

 

「そなたがそのようにもうすということは、秘密が洩れた可能性があるということか」

「それがそうというわけでもございません。ルビンスキーと対立していた補佐官のケッセルリンクめに誘惑され、背教の罪を犯したのち、帝国軍のフェザーン占領の混乱に紛れ、独立商人の手引きで同盟方面に脱出し、その旅中で衰弱死したとのこと。その脱出に利用した独立商人の船には他の者たちも同乗していたそうでございます。背教の罪を犯した絶望から、死の間際に同乗者に秘密を洩らした可能性は皆無ではないとは言い切れません」

「フェザーンから同盟方面に脱出したということは、同乗者は敵国の同盟人か、もしくは反帝国意識の強いフェザーン人か」

「状況から推察するに、おそらくは……」

 

 総大主教は少し考え込んだ。仮にデグスビイが一切合切真相を周りに打ち明けていたとしても、常識的な人間は「世迷い言」と断ずるであろう。平凡な宗教団体に見えるように細心の注意を払ってきたのだから。仮に本気で信じたものがいたとしても、その者に社会的影響力がなければどうということはない。しかもバーラトの和約で同盟政府は形骸化しているから、帝国政府に対する大きな影響力でなくてはだめだ。ならば、問題あるまい。

 

「ならばかまわぬから捨ておけばよい。もう数ヶ月もせぬうちに新皇帝は死に、数年の混乱をへて地球教の教えの下に人類社会は統一される。帝国に対して影響力を持たぬものがどのように蠢めこうともどうしようもあるまい」

「では、そのように」

 

 総大主教は視線を逸らし、神殿に飾り付けられた聖具を見つめた。太陽を模った形をしたその聖具は非常に仰々しく、信仰心強き者は神々しさを感じ取れると言うが、いささかの信仰心もないド・ヴィリエには太陽の光を表す線が奇妙に長く捻じ曲がっているように見え、神聖さより恐怖に近い感情を見る者は呼び起こされるのではあるまいかと思っている聖具であった。

 

「まもなくだ……」

 

 ド・ヴィリエは珍しく純粋に驚いた。いつも感情を感じ取れないほど声に潤いがない総大主教の声に、はじめて陶酔の感情がのっているように感じたからであった。

 

「まもなく八〇〇年の長きに渡り、不当に貶められてきた地球の地位を回復することができる。聖女エルデナの無念を晴らすことができるのだ」

「――さようにございますな」

 

 かつての世界宗教のように、地球教にもかつてはさまざまな宗派があった。「あった」と過去形なのは、エルデナという歴史上の人物を聖人扱いするか否かを巡った神学論争という名目の権力闘争の結果、エルデナ派以外の宗派は約四〇〇年前に、すべて粛清されたからである。いまではエルデナ派の教義が地球教で唯一認められる教義であって、地球の正当な権利を回復しようと銀河規模の陰謀を数世紀にわたってを巡らせているのも、エルデナ派の教義が地球の復権を求めていると解釈できるからであり、いうなればひとつの宗派が教団内で支配的な地位を手に入れたがために壮大な謀略を巡らせることが可能となったのだ。

 

 ド・ヴィリエは遥かな過去の人物であるエルデナを別に聖人などとは思っていなかった。というか、むしろ、計算高い狡猾な人物であったという印象である。ただ運悪く保身に失敗し、結果的にその行為が後世の地球人から献身的で尊いものにみえたというだけの話であろう。とはいえ、それを素直に口に出すほどド・ヴィリエは愚かではない。

 

 愚かではないからこそ、ド・ヴィリエとしては総大主教ほど現状を楽観視はできない。大昔、偉大な地球教の先達たちが考え付いた壮大な計画の通りならば、今頃は帝国と同盟は戦争によって限界まで疲弊しており、フェザーンが人類社会を経済的に支配しており、少なからぬ人々が地球回帰の精神運動を起こしているはずであった。だが、現状はそこまでいってはいない。

 

 原因はハッキリとしている。ラインハルト・フォン・ローエングラムとかいう、人類数千年の歴史の中でも燦然と輝くであろう強烈な個性の持ち主が現れたせいだ。とりわけ、ラインハルトが元帥になってからの行動は、地球教の数百年に渡って描いてきた青写真をまったく違うものに変えてしまうには充分すぎた。ラインハルト派が自分と敵対する帝国内派閥を全滅させて独裁体制を敷き、抜本的な改革を行って帝国を再生させてからは当初の計画を放棄し、ルビンスキーが提案した帝国に人類社会を統一させてからしかる後に帝国そのものを乗っ取るという計画に移行したが、不意打ちでフェザーンが帝国に占領され、計画の要であるルビンスキーが権力の座を追われた以上、それも実現不可能である。

 

 だからフェザーンが占領されてから地球教首脳部では喧々諤々の議論を交わされたものである。そうして第三の計画が立案され、現在実施中なのであるが……その計画の実現性をド・ヴィリエは疑っている。群雄割拠の状態から地球教が母なる星の支配者となった経緯。それを宇宙的規模で再現しようという試みであるから、可能性が皆無であるとは言うまい。だが、当時の地球の状況に現在の宇宙を似せるためには、なんとしても排除しなくてはならない人間が存在するのだ。そしてド・ヴィリエが冷静に分析するところ、その人物を排除できる可能性は決して低くはないと判断していたが、同時に暗殺が地球教の手によるものであると露見しない可能性は非常に低いとみていた。そして露見してしまえば、第三の計画が成功する可能性は小さくなるし、排除そのものに失敗した場合は実に八〇〇年ぶりに地球の地表が業火によって焼き尽くされることとなろう。

 

 地球と命運を共にするつもりなどド・ヴィリエにはかけらもない。彼は人を支配し世界を動かすことに快感に憑りつかれたきわめて俗的な野心家である。地球教の大主教なんて地位についているのは、たんに彼が生まれた地球では祭政一致体制が敷かれていて、地球教にあらゆる権力が集中していたから、己が欲望を満足させるためには仕方なかったというきわめて消極的な理由である。でなくば現実主義的な彼が宗教組織に所属することなど、絶対にしなかっただろう。

 

 とはいえ、計画が失敗した時のリスクを知っているド・ヴィリエとしては、その対策をもとっておかなくてはならない。珍しく宗教的使命感に陶酔している誇大妄想の老人と適当に話をあわせつつ、現実的な計画の実務話もそこそこに、ド・ヴィリエは総大主教との謁見を終えた。

 

 一般信徒が入ることを許されない教団本部の区画の中には豪華な客間が数十室存在する。この客間は、地球教が取り込むことに成功した門閥貴族、もしくは稀にやってくるフェザーン政府の密使を宿泊させるために利用されていたが、ド・ヴィリエが会いに行こうとしているのはそのうちのどれでもなかった。というより、地球教が取り込んだ門閥貴族は幸か不幸か内乱で全滅していたし、フェザーンも帝国に占領されたので例外以外の宿泊客など存在しようもなかったとも言える。

 

 その客間にいた宿泊客は、生気というものが薄く、表情も虚ろであり、ド・ヴィリエが入ってきたことにも気づかなかったようで、高級そうなソファーに腰かけたまま宙に視線を泳がせていた。机の上には地球教の聖典が一冊ぽつんと置かれているだけで、それ以外の私物らしきものは一切なかった。

 

「ヴェッセル」

「…………これは、大主教猊下。座ったままで申し訳ありませんでした」

 

 名を呼ばれてようやく部屋に自分しかいなかったことが気づいたみたいにヴェッセルはゆっくりと立ち上がって、膝を折って高位聖職者への敬意を示そうとしたので、ド・ヴィリエは手をあげて止めた。

 

 彼、イザーク・フォン・ヴェッセルは元帝国内務省警察総局の官房長であり、警視総監であったゲオルグ・フォン・リヒテンラーデの側近の一人であった。そして敬虔な地球教の信徒でもあったのだが、あまりに残酷な現実に直面し続けた結果、精神を病んでいた。具体的には実際的なことのみに集中することで、それ以外のことは考えることを放棄しているのであった。

 

「ひとつ、そなたに頼んでおくことがあってな」

「なんでしょうか」

「この本部の警備体制についてだ」

 

 地球教団内において、ヴェッセルの立場は非常に複雑である。彼は聖職者ではなかったが、元警察高官としての経験を買われ、警備体制の一端を総大主教から任されていたのである。祭政一致体制にある地球において統治に携われるのは聖職者のみと不文律によって定められていたので、それに不満を抱く高位聖職者も多いのだが、ヴェッセルの世捨て人的な態度と発作的に聖具の前で猛烈に懺悔するほどの信仰心と確かな警備運営能力、なにより総大主教の庇護もあって表立って口には出せなかった。

 

「なにか問題があったでしょうか」

 

 そう言いつつもヴェッセルの視線はド・ヴィリエに向いていない。ここではないどこか遠くへを見ているようであった。

 

「警備体制そのものに問題はない。ただ近々、ここの人員ではとても守り切らないような事態が発生する危険性がでてきた。それゆえ、いざというときのための非常時の脱出経路について協議しておきたい」

 

 ヴェッセルの反応は劇的であった。ぎょろりと目をむき、興奮した様子で瞳をあちこちへと動かしながら、右手で自ら頬を殴りつけると、縋るように机の上に置いてある聖書を見て、徐々に落ち着きを取り戻していった。

 

 地球に訪れた当初からヴェッセルは既に現実逃避気味であったが、地球教の暗部を知っていく過程でさらに症状がひどくなった。地球教の暗部を理解しており、それに加担しているという自覚もあるようなのだが、地球教は素晴らしい宗教であると自分を誤魔化して現実逃避し、自分は間違っていないと言い聞かせているのである。

 

「――母なる星を見捨てる可能性があるというでのすか。大主教猊下」

 

 ゆえに口に出た疑問は、なぜそんな事態が発生する危険性が生じるのか、というものではなかった。世間一般的な合理的疑問など、地球教が積み重ねてきた邪悪な所業を知ってから数日にわたって苦悩した後、抱くことすらヴェッセルは忌避するようになっていた。その結果、宗教的観念のみ依存することとなったヴェッセルにはこの神聖なる地球を見捨てるのかという疑問しか口には出さない。

 

「口を慎めイザーク。人類はすべて母なる地球の子。見捨てるなどまっとうな人間ならありえぬこと。ましてや私は大主教なのだぞ。地球に対する恩義を忘れた忘恩の輩のごとき所業を、私がすると思うのか」

「……失礼しました。猊下」

 

 高圧的な断言に、ヴェッセルは申し訳なさそうに謝った。ド・ヴィリエはその態度を内心忌々しく思ったのだが、表情を制御することに慣れている大主教はその感情を表には出さず、穏やかに語りかけた。

 

「脱出経路について協議するのは、異教徒どもが大挙してこの聖なる惑星に襲撃してきた際、総大主教猊下をむざむざやつらの手にかけさせるわけにはいかぬ。そのために私の手の者を数人そちらに配置しておきたいのだが……」

 

 内心情けないと思っているのだが、ド・ヴィリエとしてはヴェッセルしか攻略すべき相手がいなかった。非常時の脱出経路上に配置されているそれ以外の警備責任者は筋金入りの狂信者で、地球を捨てるくらいなら地球と共に死ぬことを望んでいる。そんなやつらにいざという時に地球を逃げる話などできるわけがない。

 

 だが、ヴェッセルは違った。彼は狂信者ではなく、宗教を理由に現実逃避しているだけであったのだから。




レンネンカンプ、アイゼナッハが元貴族連合側ってのはオリ設定。
あとエルデナ云々は、地球教がどういう経緯で謀略一筋になったのか妄想してたらできた。

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