リヒテンラーデの孫   作:kuraisu

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内国安全保障局

 ハイドリッヒ・ラングという人間は、万物の創造主が人間が他者に抱く印象というものが、いかに役立たずな代物であることを証明するために創造したのではないのか、と疑いたくなるような様々な要素によって構成されている。とにかく、いろんな点での印象がまったく合致しないのである。

 

 まずは容姿である。まだ三〇代後半という若さなのに、頭髪の八割方が毛根まで死滅し、両耳の附近でわずかな残党が、まだ頭髪が絶滅したのではないとかすかに主張している。瞳は大きくてよく動き、唇は分厚いが口そのものは小さい。背は低いのだが、体は横に大きくてまん丸とした感じである。頭部も丸くて大きいので、どこか雪だるまを連想させる。しかし肌の色は白ではなく光沢豊かなピンクなので、健康的な赤ん坊が、そのままの体格で大きくなったという印象を多くの人間が抱くのである。

 

 しかしその印象は、彼が声を発した瞬間に木っ端微塵に粉砕されるのが常であった。こんな容姿なら、明るいソプラノではないかと想像するのだが、ラングの声音は古代宗教の聖歌隊が代わりに声を出していると言われてもまったく不思議ではないと思えるほどの、荘重を極めたバスなのである。実際、初対面の人間がラングの声を聴いた時、さっき喋ったのはだれだと現実逃避に走った者が少なからずいるほどで、赤ん坊のような容姿からはほとんど連想できないものであった。

 

 ここまで嚙み合わない身体的特徴を兼ね備えた人物が、難関帝立大学法務学部を優秀な成績で卒業し、帝国文官試験に合格して内務省に入省したエリートキャリアの持ち主で、民衆弾圧機関として悪名高い社会秩序維持局に配属されて優秀な能力を発揮して少なからぬ功績をたて、平民階級の出身でありながら三〇代前半の頃には既にその頂点の地位についていたという陰惨だが華々しい経歴を、よほど特異な想像力の持ち主でなければ外見から予想することは不可能であろう。

 

 ラインハルトが全権を握り、秘密警察という存在そのものが改革の精神にそぐわないものであるとされ、社会秩序維持局は廃止され、長官のラングも憲兵によって官舎の一室に軟禁されていた。軟禁中、ラングはラインハルトが全権を握る以前から、彼なりにラインハルトに対しては好意的に接していたつもりだったので、かるい失望を味わっていた。

 

 しかしそれでも自分の能力に自信を持っていたし、国家を運営していく以上、自分のような人材は絶対に必要だとも思っていたので、いつか必ず暗い海の底のような軟禁部屋から解放され、ふたたび秘密警察の指導者――もしかしたら政治的な理由で、幹部か顧問あたりに降格されるかもとは思ったが――として手腕を振るえる日が、またくるのだと確信していたので、いまは忍耐の時であるとおとなしく時期を待つことにしたのである。

 

 そんな彼の忍耐は、彼が想定していたよりはやくに報われた。不機嫌そうな憲兵たちがラングをオーベルシュタイン上級大将のオフィスへと連行したのである。旧貴族領を中心に地域メディアが反ラインハルト的扇動放送をしだしたことになにか謀略めいたものを感じていたオーベルシュタインは秘密警察の再設置を訴えていたのだが、開明派は改革の後退であると反対し、とうのラインハルトは没落貴族や不平貴族の負け惜しみに本気になる必要があるのかと興味がなかった。

 

 しかし銀河帝国正統政府を僭称する門閥貴族残党勢力によって皇帝エルウィン・ヨーゼフ二世の誘拐されたことによって、このような事態の再発を防ぐには秘密警察が有効的であるというオーベルシュタインの主張に多くの官僚の支持が集まるようになり、皇帝誘拐に激怒した一部の旧貴族領の民衆による暴動が発生してたこともあって、形勢の不利を悟った開明派は社会秩序維持局時代と比べての大幅な権限と規模の縮小を条件に、しぶしぶ秘密警察の復活を認めた。

 

 そして旧社会秩序維持局の指導者で、職権濫用で私腹を肥やした形跡が皆無で、私行上の弱点もなく、おまけにラインハルトに対しても相応の敬意も持っていた旧社会秩序維持局局長のラングを新体制の秘密警察長官の候補にあがったのである。オーベルシュタインはラングが新体制における秘密警察長官として使えるかどうか。使えた場合、どの程度まで権限を認めてやるべきか判断するべくこうして実際にオフィスで会話してその見識と能力、そして性格を品評することにしたのである。

 

 結果から言うと、ラングに対するオーベルシュタインの評価は悪くはなかった。追従やおべっかが多いのが欠点ではあるが、過去の社会秩序維持局において許されていた捜査方法や尋問方法の多くが新体制の秘密警察では認められなくなっているであろうことをほぼ完璧に洞察し、現状認識と自分に求められている役目を認識していることを示してみせたからであった。

 

「政治の実相が、少数による多数の支配である以上、私のような者の存在は不可欠であろうと考えます」

 

 長々とした政治理論を披歴した後、ラングは最後にそう言って締めくくった。

 

「秘密警察が、か?」

「治安維持のシステムを管理する者が、です」

 

 ラングは微妙な表現の修正を行った。彼の個人的な感覚からすると“秘密警察”という単語はどうも露悪的なものであるように思えるのである。彼はあくまで社会秩序のために職務に精励していたのであって、ゴールデンバウム王朝に対する忠誠心とか政治的信条から職務に精励したわけではないと思っていたからである。だからこそラインハルトが全権を掌握して新しい秩序を、それも旧体制と比べて明らかに良い秩序を建設しようとしているのであれば、そちらに協力するのが道理ではないか。そうラングは自然と思ったのである。

 

「秘密警察というものは、なるほど権力者にとっては便利なものなのかもしれんが、ただ存在するというだけで憎悪の対象になる。社会秩序維持局は先日解体されたが、その責任者であった卿を処罰するようもとめる者も多いのだ。開明派のカール・ブラッケのようにな」

 

 義眼の上級大将はラングの修正を無視して話を続けた。

 

「ブラッケ氏には氏のお考えがありましょうが、私はただ朝廷にたいして忠実たろうとしたのみで、私欲のために権限を行使したわけではありません」

 

 ラングは自分の修正が無視されたことになんの感慨も抱かず、話を合わせた。オーベルシュタインが自分の生殺与奪権を握っている存在であるという恐怖もあったが、それ以上にこんな風な扱いをされるのは旧体制下で慣れてしまっていた。

 

 それに開明派の官僚グループが自分を嫌っているのは、当然すぎることであったので特に驚く必要もなかった。開明派が提案する改革案は、解釈次第でゴールデンバウム王朝の伝統に背くほど過激なものがしばしばあったので、潜在的思想犯グループとしてラングは社会秩序維持局内に開明派を専門に監視する部署を設置して監視を徹底していたので、彼らから嫌われているのは当然であった。

 

「忠誠心を処罰の対象となさるとしたら、ローエングラム公ご自身にとっても、けっしてよい結果はもたらされますまい」

「ローエングラム公ご自身も、あまり卿らのごとき存在を好んではおられぬようだが……」

 

 万人から好まれるような仕事の専門家ではないという自覚はラングにもある。自分の仕事を例えるならば下水処理みたいなもので、だれもが必要性を認めながらも、そこで働きたいとは決して思わない類の仕事であることを、ラングは知悉していた。

 

 とはいえ、自分の職務内容に嫌悪を持たれるのは仕方ないとしても、こういった職務の必要性を認めてもらわなければならないし、矛盾するようだが自分という個人に対しては信頼してもらわなければならないとも思っていたので、必要性を訴えねばならなかった。

 

「ローエングラム公は生粋の武人。堂々たる戦いによって、宇宙を征服なさろうとの気概をお持ちなのは当然。しかしながら、ときとして一片の流言は、一万隻の艦隊に勝ります。ローエングラム公ならびに総参謀長閣下のご賢察とご寛容を期待するものであります」

「私などはともかく、ローエングラム公のご寛容にたいして、卿はなにをもってお応えするつもりだ? そこが肝要なところだぞ」

「それはむろん、絶対の忠誠と、すべての能力をあげて、公の覇道に微力ながら協力させていただきます」

「その言はよし。だが、その前にひとつ、卿に確認しておかねばならぬことがある」

 

 オーベルシュタインの無機質なコンピューター義眼が、より無機質になったようにラングは錯覚した。そしてオーベルシュタインが一枚の書類を引き出しから取り出し、その書類を確認してラングは頭から血が引いていく音が聞こえた気がした。

 

「三年前、卿がローエングラム公に思想犯の疑いがあるとして軍務省に資料の供出を要請した書類だ。これは卿がローエングラム公に対して好ましからざる感情を抱いていた、動かぬ証拠にはならぬか。そんな卿がローエングラム公に絶対の忠誠心を捧げると言っても、私には信じがたいのだが」

 

 やはりその件を追及してくるか。前もって覚悟していたこととはいえ、実際に追及されると凄まじい重圧を感じずにはいられないが、ラングはその動揺を決して表にはださずに堪え、弁明をはじめた。

 

「そのような疑いを持たれるのは心外でありますが、持たれて当然の疑惑だとも思っております。それについての弁明をさせていただけますか」

「よい。話せ」

「その当時、ローエングラム公がローエングラム伯爵家を――失礼。ややこしくなるので、当時の名前で説明します。ミューゼル閣下がルドルフ大帝以来の名門、ローエングラム伯爵家を継ぐことになるという情報が、既に宮廷内では流れておりました。それでミューゼル閣下に思想犯の疑いあるので調べろという要請がたくさん届くようになったのです。厳重に隠していましたが、ほとんどが嫉妬に駆られた大貴族たちが裏にいることは、わかっていました」

「その大貴族たちというのは?」

「ブラウンシュヴァイク公、リッテンハイム侯をはじめとした貴族派連合に参加していた者達、それに……フリードリヒ四世陛下の側室であられたベーネミュンデ侯爵夫人などです」

 

 全員ラインハルトの政敵だった者達の名前である。

 

「それで、その要請を受けて卿はローエングラム公に思想犯の疑いをかけ、捜査を行ったと?」

「いえ。それだけで捜査を行う気にはなれませんでした。なにせ公はまだ爵位を持たぬ身であったとはいえ、すでに中将の地位にある高級軍人であられましたし、フリードリヒ四世陛下の愛妾、グリューネワルト伯爵夫人の弟でありました。明確な疑惑というより、そうであってほしいという疑惑に基づいて捜査を実施するのは、危険すぎると思ったのです」

「では、なぜ捜査を実施することになったのだ?」

「それが、警察総局のゲオルグ殿に、ミューゼル中将が刑事犯の疑いが浮上したので、捜査に協力してほしいと頼まれたのです」

 

 ゲオルグの名が出てきて、オーベルシュタインの表情が少しだけ固くなった。リヒテンラーデ一族に連なる者でありながら、一〇歳以上の男子で今も生存している唯一の人間であり、行方をくらました後はたいした情報を掴めていなかったので、オーベルシュタインは漫然とした警戒心を抱いているのであった。

 

 もっとも表情を硬くしたのは一瞬であり、ラングはオーベルシュタインの表情の変化に気づかなかった。

 

「総参謀長閣下も御存知のことと思いますが、軍人が刑事事件を犯したという証拠を警察が揃えていたとしても、憲兵隊がそれを簡単には認めないものです。むろん、その点においては社会秩序維持局も内務省の部局なので同じような確執があるのですが、警察と比べて社会秩序維持局の権限は大きく、軍上層部とは比較的マシな関係を築けていたので、私の名前で軍務省にラインハルト・フォン・ミューゼルの記録の供出を要請してくれないかと。ミューゼル閣下に対する調査要請が多数届いていたことや、私とゲオルグ殿との信頼関係もあって捜査の開始を決断しました」

「卿は、ゲオルグ・フォン・リヒテンラーデと親しかったのか?」

「親しかったというより、信頼できる良き協力者であったというべきでしょう。ゲオルグ殿のライバルであったハルテンベルク伯の派閥は、軍と警察の協力関係構築を考え、私ども社会秩序維持局を敵視しておりました。一方、ゲオルグ殿は社会秩序維持局との関係強化を考える派閥の主でしたので、社会秩序維持局の未来を考えるとゲオルグ殿に協力すべきだと判断しました」

「なるほど……。ハルテンベルク伯は、ライバルであったゲオルグ・フォン・リヒテンラーデの謀略によって、妹に殺されたのだという噂があったが、それに卿が関わっているということはないだろうな」

「め、滅相もございません!」

 

 まったく身に覚えがないことを言われ、ラングはほとんど悲鳴のように叫んだ。

 

「ハルテンベルク伯爵の死が謀殺であるということ自体、根も葉もない噂でしょう。当時はゲオルグ殿も、ひどく困惑しておいででしたからな」

 

 叫んだ直後、いくぶん冷静さを取り戻したラングは、補足する様にそう付け加えた。

 

「話をそらしてすまなかった。それで捜査はどうなったのだ」

 

 ラングが説明を始めた。刑事犯の容疑者としての疑いはたんに人違いであったらしい。当時のゲオルグ曰く、金髪で美貌の高級軍人が犯人という証言が多数あったから、ラインハルトのことだと思っていたが、事件当時には、まったく違う場所にいたというアリバイが軍務省から提供された資料によって証明され、また一から捜査のやり直しだとぼやいていたとありのままに説明した。

 

 そして思想犯という疑いも事実無根のものであると簡単に証明された。たしかに出世意識の強さと上官や同僚の反感を恐れない剛直さが確認されたが、それは武人としてのものであって、政治的な行動をなにひとつしていないからであった。それに特権を行使することもほとんどなく、気になったことといえばジークフリード・キルヒアイスなる軍人が常にラインハルトと同じ配属になっていることくらいである。

 

「個人的にはミューゼル閣下があまり帝国の貴族社会に馴染んでいないことにも疑念を抱きましたが、もとよりゲオルグ殿の頼みを聞いて恩を売り、上からの圧力をかわすための方便として実施しただけの形式的な捜査でありましたので徹底的に調べあげる気にもなれず、表面的な捜査だけでシロと判断しました」

 

 付け加えるようにラングはそう言った。ラインハルトの野心をまったく見抜けなかったとあっては自分の能力に疑問符をつけられるのではないかと恐れたため、本気になって捜査をしていれば見抜けたんだと含みを持たせたのだ。続けていれば本当に見抜けたのかラングは断言できなかったが、可能性は少なくなかったろうとは思っていたので、まるっきり嘘というわけでもない。

 

「……事情は理解した。私が卿を秘密警察の長に任じるようローエングラム公に推薦しておこう」

「感謝を」

「だが、ひとたび解体した社会秩序維持局を復活させるわけにもいかん。開明政策の後退として非難されることにもなろうしな。名称も、なにかほかのものを考えねばなるまい」

 

 やはりそうかとラングは厳かな低音で提案した。

 

「それならすでに考えております。内国安全保障局――どうでしょう、この名は」

 

 とくに感興を呼びさまされたふうもなく、義眼の総参謀長は頷いた。

 

「古い酒を新しい革袋に、だな」

「酒のほうもなるべく新しくしたいと存じます」

「よかろう。せいぜいはげむことだ」

 

 この翌日、ハイドリッヒ・ラングは内務省に新設された内国安全保障局の局長に任命される。旧体制時代の要職についていた身でありながら、新体制においても要職の地位を得た稀有な例のひとつであった。

 

 秘密警察の長官に返り咲いたラングが最初に取り掛かったことは、人材の収集と組織の再建であった。末端局員は社会秩序維持局に所属していた局員を再登用すればよいが、中堅以上の人選は非常に苦労した。というのも社会秩序維持局は活動内容が秘匿されていたこともあって腐敗が凄まじく、しかもその腐敗度合いは高位の役職になるほど凄まじかったので、潔癖さで人気を博している新体制下で使うわけにはいかないということをラングもわかっていたので再登用などできなかったのである。

 

 だから数少ない腐敗しておらず、それでいて優秀だった社会秩序維持局の元高級局員は、なんとしても内国安全保障局に招きたいところであったのだが、そういった元高級局員は社会秩序維持局が廃止されると他の部署に移籍したか、民間企業の高職に再就職してしまっていたので、彼らを取り戻すのは容易なことではなかった。

 

 だがラングの努力の結果、腐敗していなくて優秀な元高職の人材を数人取り込むことに成功した。そのうちの一人、フェザーン駐在の弁務官事務所に所属していた元局員が現在の上司からその移動命令の辞令を拝領したのは、ラングが局長になってから三日後のことであった。

 

「てっきり自分は正式に国務省に移動することになるとばかり思っていたのですが……」

「私もそうなると思っておったのだがね」

 

 辞令を受け取ったクラウゼの独白に、上司の高等弁務官が優秀な人材を奪われた悔しさを滲ませて同意した。

 

 フリッツ・クラウゼは元社会秩序維持局調査部フェザーン課の課長であった保安准将で、フェザーン駐在弁務官事務所内にある専用オフィスでフェザーンや同盟に対して諜報・工作活動の中継指揮をとっていた人物であった。

 

 後世の人たちから見ると、なぜ内務省の人間が他国に対して諜報・工作活動をしていることを奇妙に感じられるかもしれないが、当時の銀河帝国の感覚ではそれほど奇異なことではなかった。内務省は国内治安を担当する省庁であり、銀河帝国は人類社会すべてが版図であると規定している以上、当然同盟も帝国の領土であって、同盟の国民は全員思想犯・反逆者であり、思想犯を取り締まる社会秩序維持局が彼らに対して執行権を持つのは当然であるとされていたからである。

 

 むろん、これは時の社会秩序維持局局長と内務尚書が内務省の勢力拡大を目論んで唱えた屁理屈であって、当時の閣議に参加していた尚書たちは内務省の主張をばかばかしく思っていたのだが、その屁理屈がゴールデンバウム朝銀河帝国の建前に則った主張であったので、否定しきることもできずに承認されてしまったのである。

 

 同盟に対して他にも諜報・工作活動をしている部署は存在し、軍務省諜報局、国務省秘密情報局、宮内省官房情報調査室、各有力貴族の情報機関等々、それぞれの勢力が建前を前面に押し出して同盟に対する情報収集行為を正当化させ、各部署同士で衝突を起こしている。

 

 しかも同盟と違ってそれぞれの部署が話し合う場も公的には設けられていないので、現地の判断で他部署との対立や協力が発生し、帝国の諜報・工作活動の全貌を知るのは神聖にして不可侵なる皇帝陛下ですら不可能と皮肉な連中には揶揄されるほどカオスなことになっており、弁務官事務所ひとつとっても、同盟側は序列が定められているのに対し、帝国側は国務省から派遣された高等弁務官、軍務省から派遣された首席駐在武官、内務省から派遣されたフェザーン課長の序列がハッキリしていないので、それぞれが独自の判断で勝手に動いていたほどであった。

 

「しかし、帝都オーディンに戻らずにしばらく現地にて待機せよというのは、どういうことなのでしょう?」

「……まだ社会秩序維持局の工作員のことをちゃんと把握していないから、卿にもう少し補佐してほしいということではないかな」

 

 ラインハルト軍によるリヒテンラーデ派粛清が明らかになった際、高等弁務官のレムシャイド伯以下多くのリヒテンラーデ派の弁務官事務者の役人が職務放棄してフェザーンに亡命したが、クラウゼは弁務官事務所にとどまって弁務官事務所の残存所員を統率し、弁務官事務所の全連絡網を使って、

 

「我が忠誠の対象はブランシュバイクでもリヒテンラーデでも、ましてやローエングラムでもない。我が皇帝と(マイン・カイザー・ウント・)我が故郷(マイン・ハイマート)こそ忠誠の対象である。志を同じくするものよ。いつも通りに職務を続行する旨、報告せよ。賛同できぬものは止めぬから去るがいい。社会秩序維持局調査部フェザーン課長、フリッツ・クラウゼ保安准将」

 

 各地の工作員にこのような通達を出して現状把握に努め、残存所員の総意によって高等弁務官と首席武官の職務も代行し、弁務官事務所の機能の低下を最小限におさえた。ラインハルト派による粛清が弁務官事務所にまで伸びてきた時、六割方リヒテンラーデ派に属しているとみられていたクラウゼも拘束されたが、私行上に問題がなかったことと混乱する弁務官事務所を纏めあげた功績もあって一切のお咎めがなかった。

 

 しかしクラウゼが所属した社会秩序維持局が廃止されたので、国務省に出向という形がとられ、高等弁務官補佐というのがクラウゼに与えられた職責であった。対外諜報・工作は政治的なものは国務省秘密情報局、軍事的なものは軍務省諜報局に統一することが帝国政府が決定していたこともあって、社会秩序維持局調査部フェザーン課に所属していた工作員たちは、クラウゼと新しく赴任してきた高等弁務官の采配によって順次国務省秘密情報局に秩序だった所属替えが実施され、社会秩序維持局の局員でありながら彼らは失職をまぬがれたのであった。

 

「とりあえず私の補佐の任を解く命令はまだ届いていないのだ。職務を継続するということでよいのではないかな」

「わかりました」

 

 そう返答して職務に戻ったクラウゼは内心でこれからどうするべきか悩んだ。クラウゼは秘密組織の一員であり、弁務官事務所内の情報を組織に提供し、フェザーン内の組織のネットワークを統括する立場にあったのである。対外情報機関は国務省と軍務省のみにするとこの前決定されたばかりなので、内務省内国安全保障局の活動は国内のみに限定されることは間違いなく、自分が帝都に戻った後、だれに自分の後任を任せるべきか考えなくてはならなかったのである。

 

 いやそれより先に上に報告すべきか。そうクラウゼは判断した。だがそれでも後任の推薦くらいはしておくべきであろうか。組織内において自分は中堅以上の立場にいるだろうと予想しているクラウゼである。予想している、というのは秘密組織の全体図を把握していないからであるが、自分がいつも報告をしている相手は大幹部、もしくはさらに上、組織の頂点に位置している人物ではないかと推測していたからであった。

 

 職務を終え、クラウゼは夜の街へと繰り出した。ラインハルトが全権を掌握して以来、劇的に改革によって国内の状況が改善しつつある現状においてもそうなのかは不明だが、旧体制時代、帝国の公務員にとってフェザーン駐在事務所勤務というのは一種の憧れであった。表向きの仕事であるフェザーンとの交渉とか、裏の仕事である同盟に対する諜報活動の指揮に気をやまねばならないが、豊かな環境が保障されたからである。

 

 なぜかというと、人類社会に存在する唯一の国家であると自称する銀河帝国の歴代統治者たちは、叛乱勢力の弁務官事務所より貧相な弁務官事務所を同じ地平に存在させることが許せなかったらしく、潤沢な資金を弁務官事務所に投下していた。おかげで末端でも中堅官僚クラスの給料が支給されたし、外に対する顔ということもあって、汚職が皆無とはいかないが本国とはくらべものにならないほど少なかったし、規則の九割はちゃんと遵守されていたので、身分を問わず働きが正当に評価される場でもあったからである。

 

 そしてなにより、フェザーンで暮らせるという事実! 内政・外交にかんする帝国からの完璧な自治権を勝ち取ったフェザーンには大量の娯楽施設が存在し、帝国の娯楽施設と比べて非常に質が高いのである。新任の弁務官事務所員は、フェザーンの豊かさに驚き、財布が空っぽになるまで時間を忘れて遊びまくり、翌日酔いが冷めた時に本国との差を思い、憮然とした顔をするというのがよくあるパターンだと古参所員や元所員が自虐ネタとして多用するほどであった。さらに親族が政治犯収容所に送り込まれたり、帝国の情報機関から命を狙われるリスクを容認できるなら、フェザーンや同盟に亡命することだって、できてしまうのである。弁務官事務所勤務が憧れの対象となるのも当然というものであった。

 

 そんなフェザーンで暮らせるというだけで、一種の特権ではあった。だから弁務官事務所に勤務している者は職務を終えると、決まったように夜のフェザーンの街に突撃する特権を行使するのは実に自然なことで、クラウゼが職務を終えてフェザーンの街並みに消えていくのも、ごく自然なことであるように思われた。旧体制時代は各情報機関が互いに妙なことをしていないか監視する、相互監視体制が敷かれていたものであったが、ローエングラム公が権力を握り、情報機関の統一と再編によって監視の目が粗くなったので、クラウゼとしてはかなり動きやすい環境になっていた。

 

 酒場でウォッカを数杯飲み、次に寄った売春宿で女を一人抱いた後、施設内の便所で携帯TV電話を取り出し、自分が生れ育った孤児院の責任者の電話番号をダイヤルした。

 

「院長先生、俺です。クラウゼです」

「クラウゼか。どうしたんだい?」

「聞いてください。今度新設される内国安全保障局に配置換えになったんですよ。しばらくはフェザーンで今まで通り仕事をしなきゃいけないみたいなんですけど、そう遠くないうちに内務省勤務に変わるみたいで、その報告を、と」

「栄転だねぇ。育ての親として嬉しいかぎりだよ。社会秩序維持局が廃止されたってニュースを聞いたときは、もうダメかと思ってもんだからね」

「俺もそう思ってた」

 

 クラウゼは苦笑した。

 

「しかし帝都勤務となると、もうフェザーンのものは簡単には手に入らなくなるね」

「それがフェザーンに良い友人ができたんだ。ベルンハルトっていうだけど、そいつに頼んでみたらたぶん送ってくれると思うよ」

「友人に恵まれてなによりだよ」

 

 日常会話にみせかけているが、これは秘密組織内のやりとりであった。クラウゼが自分が近くフェザーンを離れなければならなくなることと、秘密組織内における自分の後任としてベルンハルトなる人物を推薦しているのである。

 

「友人といえば、彼はどうしてるんだい? またおじさんが気にしてるんだけど」

「まったく変化なし。あいかわらず宵越しの銭は持たない生活してる」

「……彼にも困ったもんだよ」

 

 六月頃からよくされるこの問いかけを、クラウゼは疑問に思っていた。どうして元警察幹部のシュテンネスの動向に、ここまで神経を尖らせているのだろうか。

 

「ああそうだ。いちおう伝えておこう。じつは近々孤児院を別の場所に移す予定なんだ」

「そりゃまたなんで?」

「かなり良い立地の場所が見つかったんだよ。子どもたちの暮らしのことも考えると、広々とした空間の方がよいかと思ってね」

「ふーん。じゃあ、いまオデッサにある孤児院はどうなるんだ?」

「不動産屋に売りとばす。買い手がつくかはわからないがね」

「……生れ育った場所がなくなるのか、なんか悲しいな」

「それが人生ってもんさね」

 

 ずいぶん変なこと言うなとクラウゼは思った。

 

「引越しが済んだら、こっちからまた電話かけるよ」

「了解」

「あー。それとね。孤児院の経営が厳しいんだ。また寄付をお願いね」

「じゃあ、なんで移設なんて考えやがった!?」

「……うん、まあ、大目にみてくれよ。頼んだよ」

 

 クラウゼはため息を吐いて、疲れた声で聞いた。

 

「いくらぐらいなら嬉しいんだ?」

「そうさね。五万もあれば」

「けっこうな大金なんだが」

「官僚様なんだろう。それくらい頼むよ」

「はぁ、わかった。今度手紙と一緒に送るわ」

 

 クラウゼは通話を切ると、なにごともなかったかのように歓楽街を楽しみ、遊び疲れて泥のように眠り、翌日も同じように高等弁務官補佐としての仕事に従事した後、フェザーンの銀行に足を向けて個人的な貯金を引き出した後、リヒテンラーデ家の隠し口座から五〇〇万帝国マルクを分散して育ての親の隠し口座に送金した。 




クラウゼはゲオルグと会ったことはありますが、彼が秘密組織のボスとは知りません

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