「はぁ……はぁ……はぁ……」
薄汚れた廃墟ビルの屋上、マキオはビルのふちに立っている。
時々吹いてくる、冷たい風が体を揺らす。
目の前には、人のいない空虚な街が広がっている。
歩く人も、走る車もない。
ビルや家は、草やツタに覆われている。
30歳を過ぎても、定職につけず、未来への展望も抱けないマキオは、
ふいに心に沸いた衝動にかられ、万引きをしてしまったが、
すぐに店員に見つかり捕まってしまった。
警察へ連れていかれ、これから自分がどうなるかの説明もなく、眠らされ、
気がついたらこの世界にいた。
……逮捕されたらお終い……
子供の頃から、よく聞いた言葉だ。
どこに連れて行かれ、どうなるか、そんな事は教えてもらわなかった。
そして今、お終いになる。
それだけは分かった。
マキオは、もう何かを考える事から逃げたい、そう思ってこの場所に立ち、20分が過ぎていた。
ただ、体を少し前に傾ければ、全てが終わる。
両親とは、若いころに絶縁状態になっている。
恋人もできた事はない。
友達もいない。
派遣される仕事場所で、知らない人と軽作業を繰り返すだけの日々。
休日があってもする事などない。
空を見あげるたびに、
信号待ちをするたびに、
横になって、目を閉じるたびに、
何の為に生きているのか…
何度、自分に問いかけた事だろう…
何の取り柄もない、惨めな自分。
生きている意味など何もないのに……
誰にも求められていないのに……
そういう思いが、水に入れた黒い絵の具が広がっていくように、
どんよりと心を沈ませていき、気がついたら、俺はこの場所にいた。
それなのに、なぜ……どうして……
俺は、早くこの人生を終わらせられないんだろう?
ずっと心のどこかで、いつも消える機会を求めていた。
今がその時だ……なのに…
どうして、最後の一歩がふみだせないんだろう…?
俺は、まだこんな命に一体何かを求めてしまってるのか…?
こんな無意味な存在が、消えてなくなる事を恐れているのか…?
散々繰り返して来たはずの葛藤に、こんな場所に立ってまで、何度もリプレイしていると、
「ねぇ、飛ばないの?」
「!?」
マキオは、背後からの男の声に驚き、バランスを崩し、
止まっていたはずの視界は、動き出し、虚無な街が広がる地面に、
たちまち吸い込まれそうになった。
マキオは、慌てて錆びた手すりをつかむ。
「…はぁ…はぁ…、なんだ…?」
振り向くと、屋上には誰もいなかったはずなのに、男があぐらをかいていた。
声をかけたのは、こいつか…
飛び降りようとしている自分に、声をかけてくる男。
今のマキオには、邪魔な存在でしかない。
マキオは男を無視しようと思い、目を閉じて、飛び降りる事をイメージし直す。
「………」
自分の体を、ほんの少しだけ傾け、一瞬の恐怖を味わった瞬間には、
もうこの世界からサヨナラできる。
体は、地面に激突するのではなく、宙で体は細かいピクセルのような粒子となり、
ただ、消えていくだけなんだ。
そうするだけで、俺は……
「ねぇってば、飛ばないの?」
………しつこいな、なんだ、コイツ?
俺が無視しようとしている事がわからないのか?
いや、そんなはずない。
わかっていながら、邪魔をしてるんだ。
その「飛ばないの?」と、いう言葉からは、少しバカにした雰囲気が伝わる。
本当は、
「飛べないんじゃないの?……ショボい奴だなお前…」
と、言いたいんだろう。
失礼な奴だ。
マキオは男の方を見もせずに、言葉だけ吐き捨てた。
「…うるさいよ、どっか行け」
「あのさ…オレ、しばらく見てたんだけど……気づかなかった?」
なんなんだよ、マジで。
マキオは男に再び目をやる。
その時マキオは、初めて男の姿をしっかりと見た。
男は、マキオより若く、明るい色の髪が柔らかく風に揺れ、少し中性的で整った顔立ち、
背中には長い槍を挿している。
現在の日本で、普段から背中に槍を挿している者など、いない。
コスプレイヤーだけだろう。
奇妙な者である事は、明らかだ。
しかも男は、自殺をしようとしているマキオを見ても驚く様子もなく、平然と話している。
「ねぇ、飛ぶの怖いんならやめときなよ」
「あんたには、関係ないだろ……話しかけないでくれよ」
マキオは、もう一度ビルのへりに立とうとするが、なぜか手すりをつかんだ手が離れてくれない。
どうしてだよ?
こんな腐った人生なのに、俺は手すりに……この世界に…ナゼ、しがみついているんだ?
そう自分に問いかけても、マキオの手は手すりを強く握りしめるだけだった。
男が、軽い雰囲気で言う。
まるで、気心の知れた友達を、カラオケにでも誘うような感じで…
「あのさ、別に今むりやり死ななくても、いいんじゃない?
明日でも、明後日でも、死にたきゃいつでも死ねるよ、もっと楽な方法もあるし。
だからさ、今日はちょっと俺に付き合ってくれない?
俺、今すげー困ってて、助けが必要なんだよね」
助け……?
この男は、俺に助けを求めているのか?
今から死のうとしている、この俺に?
そりゃ、確かに死ぬ事は、あとでも出来る。
それに、自分が思っていたよりも、怖くて難しそうだったが……
それよりもこの男は、こんな俺に助けを求めてる。
もう誰一人として、自分を必要とするわけがない………そう思っていたのに。
マキオは、ビルの屋上にさっきまで強く吹いていた冷たい風がやみ、
不思議と、少し暖かく柔らかい風が吹いた気がした。
「………」
別に、この男の言う事に従おうと思ったわけではなかった。
ただ、今、目の前にある恐怖から逃げ出すことを選んだだけだ。
つかんでいた手すりを超え、柵の中にもどり座りこんだ。
男は立ち上がり、軽く口角を上げ、尻についた埃をはたきながら、
「おつかれさん、いやー…あんたがここにいてくれて助かったよ。
お礼は後でちゃんとするからな。
さぁ、行こっか」
マキオの肩をぽんとたたき、中央にある階段のドアにむかっていったが、
急に振り返り、マキオに声をかける。
「名前言ってなかったね、俺はカイト。
あんたは?」
「…マキオ」
また少し柔らかい風が吹いた気がした。