【陽菜荼・詩乃のマンション】
夢。
諸説があるが、人間は普段の生活で起きた出来事や脳に蓄積したあらゆる情報を整理するために"夢を見る"と言われているらしい。
そして、夢そのものは脳内に溜まった過去の記憶や直近の記憶が結びつき、それらが睡眠時に処理され、ストーリーとなって映像化したものがそう呼ばれているらしい。
ならば、今見ているこの光景は夢現ってやつだろう。
幼少期。
あたしは自分の手脚で歩き回れるのが嬉しくて、楽しくて、よく動き回っていたものだ。
ハイハイが出来るようになればテケテケと机の下、廊下などなどありとあらうる所に行った。
自分で這って、開ける世界が輝いていて、この先にどんなものが待っているのだろうと高揚感・好奇心で満たされていたように思える。
『こんな所に居たのね、陽菜ちゃん』
あたしが何処かに這う都度、マ……母はギョッとしたように辺りを探し回り、見つけた時は困ったように微笑みながら、あたしを抱き上げてくれたものだ。
当時のあたしはやっと出た未知の冒険を妨害され、ご立腹だったと思う。だが、母はよくしてくれたと思う、我が儘放題、動き回るじゃじゃ馬のあたしの世話を。
『陽菜ちゃん、おいしい?』
そう言えば、あたしがここまでのオムライス狂者になったのは、独創的な料理を生み出す天才の父が引き取って、初めて作ってくれた料理がそれだった事。
もう一つは、母の得意料理だったからだと思う。
得意料理というか、当時の母はそれしか作れなかったのだと思う。あたしを身籠ったのが16歳で、恐らく料理などは簡単なものしか作れなかったのだと思う。
あの男が逮捕されてから、暫く経ってからあたしは母と暮らし始めた。小さなマンションの一部屋で必死にあたしを育てくれた母には感謝しかない。そう……感謝しかないはずなのだ。
「ーーた!」
強く揺さぶられる。
もう少しこの微睡に身体を委ねていたい。本音を言うと、父のところにいるであろうあの人に会いたくない。こんな夢を見てしまったから余計に。
「いい加減に起きなさい!」
引き寄せていたものをひっぺがされる。朝の空気がはだけている胸元、素足に触れ、寒気を感じる。それだけで微睡が消え、意識がゆっくりと覚醒していく。
「……ぅっ?」
「おはよう、陽菜荼。もう朝よ」
「……あ……さ…」
上を向く。そこには部屋着姿の詩乃が居た。しかも不機嫌顔。
って事は、やっぱり朝になってしまったのか……来なくてもいいのに……。
「あさ……あさだ……ぁ……。しのう……」
「清々しい朝なのに物騒ね。それと人の名前で遊ばないでくれる?幾ら陽菜荼でも怒るわよ」
「……ごめんなさい。わざとじゃないんです。許してください。この通りです」
速攻ベッドの上で流れるように土下座するあたしに詩乃の声音が優しくなる。
「わざとじゃないならいいけど。それよりもそれで顔を拭いて。朝ごはん食べましょう」
そう言って、投げられる濡れタオルを無意識に受け取ったあたし。
だが、気だるさから瞬きを何度もして、コテッと首を倒しそうになったところで朝ごはんを運んでいる詩乃から怒声が上がる。
「二度寝しない!さっさ起きる!」
「……にどねしてない。おきてる」
「それ、絶対起きてないでしょ。ほら、一杯。お水飲んで」
なんだか倦怠感がある上半身を無理矢理起こす。そんなあたしの寝惚けた様子に心配そうな、呆れたような表情を浮かべる詩乃はキッチンで蛇口を捻り、コップに水道水を注ぐ。それを溢れない程度に入れた詩乃はペタペタと歩いてくるとコップを差し出す。それを受け取ったあたしはひんやりした水でぼんやりしていた意識を一気に覚醒する。
「今日、おじさんのところに帰るんでしょう?」
「んー、帰る予定なんだけどね……」
のろのろとパジャマにしてる橙の甚平を脱ぐあたしへと問いかける詩乃。
大きめの焦げ茶の双眸がチラチラとテレビ横の時計を確認している。
どうやら、ナマケモノと大差ない朝モードのあたしでは予定している新幹線に乗れないと危惧しているのだろう。
「そう思っているのなら、さっさとこれを着る!」
「はーい」
間延びの声を出しながらもやはりやる気が出ない。
考えないようにしていても考えてしまう。父のところにいる母にどんな顔をすればいいのか、どんな事を言われるのか、考えれば考える程にめんどくさくなる。
「なに?まだ寝起きなわけ?」
「…………行きたくない」
ボソリと呟くあたし。一瞬、ポカーンとした後に頭を抱える詩乃。
「はぁ……貴女って肝心な時いつもそうよね。昨日は行く気満々だったじゃない」
「昨日のあたしと今日のあたしは違うのだよ、詩乃くん」
「そんな急に変わらないわよ。全くーー」
あたしの前まで来た詩乃がパチンとあたしの頬を叩く。
小さな掌で頬をクニクニされ、詩乃は自分の手で変な顔になるあたしにご満悦なのか、口元がふにゃふにゃしている。
楽しくなっているところ笑いが、そろそろ離してくれまいか?
割と本気めに叩かれた頬がヒリヒリと痛いから。
だが、詩乃は手を離そうとしてくれない。そればかりか、顔を近づけてからあたしを奮起させようとしてくれる。
「ーーしっかりしなさい、香水陽菜荼。私が好きになった貴女はこんなやわじゃないはずよ」
「……やわだよ。カッコつけてただけだよ」
「それでもいいじゃない。カッコつけてても、私の目には貴女がカッコよく見えた。
お調子者で煽てられたらすぐ乗せられちゃう脳筋。その癖に、肝心な所ヘタレで、弱気で、でもそれを周りに悟られたくなくて、見栄ばかり張る強がり」
おお……すらすらとあたしを褒めながらも罵倒する高度な技をよくやってのけるね、詩乃。でも、そろそろ泣いてもいい?あたしの精神HPはもうズタボロよ。
「そんな陽菜荼が私は好きよ」
「!」
「矛盾ばっかりで正直困らさせる方が多いけど、私はそんな陽菜荼が好き、大好きよ。陽菜荼は違うの?」
「……す、好きに……決まってるじゃないか……」
恐らく、今のあたしは顔が真っ赤になってるのだろう。
ふにゃふにゃしていた詩乃の唇がしっかりと笑みを作っているのだから。
だが、正直言ってもらえるのは嬉しい。すごく嬉しい。あたしも口元がふにゃふにゃしてしまう。
してしまうが、やはり気持ちが実家に帰ると向かない。
「なら、こうしましょう」
今だに踏ん切りがつかないあたしに痺れを切らしたのか、詩乃がとある提案をする。
「陽菜荼が今日お母さんと仲直りしないと」
「ないと?」
「私と別れることになる」
「…………へ?」
へ?へ?なんで?どうして?どうして?
ベッドから滑り落ち、詩乃にしがみつくあたし。蒼い瞳に涙を溜めて、見上げるあたしに困ったような笑みを浮かべながら、詩乃が言う。
「こうでもしないと貴女、おじさんのところに行かないでしょ。それとこれは決定事項だから。覆せないから。そんな捨てられた子犬のような目をしても」
クスンクスン。これでもダメなのかい?詩乃。
「だ……ダメ。それよりも朝ごはん食べるわよ」
この前涙目で訴えれば、押し切れるのでは?
「もしそんなことしたら、すぐにでも絶交だから。私は陽菜荼の為に心を鬼にしているの。それにいつまでもおばさんのことでウジウジしてる陽菜荼は見たくないから」
「うゔ……詩乃ぉぉぉぉ!!!!」
ガシッと抱きつくあたしを鬱陶しそうにしながらも受け止める詩乃の感触を身体中に染み込ませる。たぶん、数週間帰ってこれないだろうから……。その間の詩乃成分を補給しとかないと。
「はいはい。家を出るまでは甘えててもいいから。早く着替えて、ご飯食べましょう?」
「着替えさせて」
「それくらいは自分でしなさい」
ピシャリと叱られ、あたしはしぶしぶ私服に着替えて、ご飯を食べてから、何度も忘れ物がない事を確認してから後ろ髪を引かれながら、住んでいるマンションを後にし、実家がある○○県行きの新幹線へと乗り込んだのだった。
036へと続く・・・・