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冥い空だった。
それは現在の時刻が夜だからとか、そういった理由では無いのだろう。
月とも、太陽ともとれる煌々と輝く天体のような何が、咲き乱れる桜の海を優しく照らしている。
明るいのに、空は暗い。
不思議な感覚だった。
冥界に降り立った水蛭子は、霞むほどに長く続く石畳の上を歩きながら、そんな空を眺めていた。
朧げに光を宿らせた桜の花びらの群れが、まるで生きているかのように、海を泳ぐ魚たちのように、自在な動きで暗い空を舞っていた。
「……不思議な所」
普段の幻想郷ではまず見ない光景に、水蛭子はほぅと感動のため息を口の端から漏らす。
温暖な気候は、先程まで飛んでいた吹雪の中とは全く異なっており、まるで本物の春がこの世界に居座っているかのような、そんな感覚だった。
フランス人形を胸に抱き抱えた魔理沙が、初めて目にした冥界の光景を眺めながら楽しげに笑う。
「なんだ、死者が来る場所だっていうからどんなおどろおどろしい世界なんだと思ったら、結構良いところじゃないか」
「これが現世から奪った春じゃなかったら、のんびりお花見でもしたいんだけどね」
「まったくだわ」
お祓い棒を手の内で回す霊夢が水蛭子の言葉に頷く。
しかしその顔はわかりやすいしかめっ面で、魔理沙と対象的にこの光景を素直に受け入れることが出来ないといった様子だった。
先の紅霧異変の際、空に浮かんでいた紅い月と同じように、彼女にとって目の前の風景は『妖怪に造られた自然』であるのだろう。
一陣の風に吹かれ舞踊る桜の花弁を、霊夢は冷たい眼差しでぼぅっと眺める。
その目に宿る感情は、汚された春への憐憫のみだ。
「水蛭子、魔理沙。いつまでも見蕩れてる訳にはいかないわ。この景色を──いや、こんな瞑目した春じゃなく『生きている春』を、今度は現世で見るのよ。私たちはその為にここに来たんだから」
能面のごとし表情で紡がれた霊夢の言葉に、少々浮かれ気分だった他の二人は細かく瞬きする。
その後水蛭子は力強く、魔理沙は口角を上げてそれぞれ頷いた。
◆
少し時を遡り、場所は白玉楼の縁側。
そこから臨む庭には様々な形に剪定された庭木が立ち並んでいて、それぞれ馬や鳥などの動物を象った物、鏡餅やおでん串などの食べ物を象った物。
そしてその中でも異様なまでに精巧に剪定されている、女性の……自身の形をしたニオイヒバを眺めながら、白玉楼の主である西行寺幽々子は、一言。
「いや~、何度見てもぶっ飛んだ造形してるわね~あの木」
「い、言い方……頑張って剪定したんですよ……」
「だって毎日見てるのに毎日新鮮なんだもの。妖夢貴方、使用人より庭師の方が向いてるんじゃない?」
「元々庭師でもあるんですけど!?」
驚愕の表情で叫ぶ妖夢に「冗談よ冗談」と微笑みながら、幽々子は手に乗せた湯呑を傾ける。
「……あの、幽々子様。結局教えてくれなかったですけど」
「ん~?」
「私が集めた春の欠片。あれを与えることで西行妖はああやって蕾を付けましたけど……」
妖夢が見上げた先には、天を貫かんばかりに聳え立つ大桜・西行妖が無数の蕾を付けた状態でそこにあった。
彼女がこの屋敷に住み始めて此の方、死に木と思い違えるくらいに葉も花もつけなかった妖怪桜が、今目の前で咲き誇ろうとしている。
それは妖夢の心中に感動にも近しいものを抱かせたが、しかし。
「……あれを本当に、満開にしても良いんでしょうか」
「私が良いと言ってるのよ」
「しかし────」
「……妖夢」
妖夢の言葉を遮り、俯かせていた顔がゆらりと前を向き。
桃色の瞳と従者の瞳、お互いの視線が手の平を合わせるようにのっぺりと重なり合う。
刹那、妖夢はぶるりと身震いをした。
今まで、どんな時であろうとも、その柔らかい暖かさを絶やさなかった主人の瞳。それがまるで、氷の様に冷たいものだったから。
冥界の亡霊姫という二つ名に相応しい、まるで死人同然の凍て切った眼差しが、しかし妖夢の目にはこの上なく恐ろしいものに映ったのだ。
妖夢が彼女に仕え始めてから、かなりの時を共に過ごしてきた。
だけれど、こんな目をする主人を妖夢は一度だって見たことがなかった無かった。
この時初めて、半人半霊の少女は自身の主人に対して、純粋な恐怖の感情を抱いたのだ。
「私が良いと言っているの。貴方は何も聞かず、ただ私の言葉に従いなさい。だって貴方は、私の従者でしょう?」
「……はい。分かり、ました……」
気付かない間に何歩も後退りをしていたことを自覚し、額からたらりと流れる冷え切った汗を袖で強く拭う。
ぎこちなく緩慢な動きで頷きを返した彼女は、酷く揺れる心を落ち着かせようとして何度も深い呼吸を繰り返したが、しかしそれは叶わない。
目の前の女性が本当に自分の主人なのかという疑問を覚えると同時、妖夢は思い出す。
西行寺幽々子という亡霊は、死者が集うこの冥界の支配者だということを。
全ての生きとし生けるものを、暗く冷たい死へと誘える力を持った超常の大妖怪であるということを。
これが、本来の主人の姿。
そう考えた妖夢の双眸に滲んだ涙が零れ落ちる前に、彼女は幽々子から顔を背けた。
「……引き続き、春を集めてきます」
「ええ、お願いね」
主人の言葉に無言の肯定を返し、妖夢は白玉楼を後にする。
冥界への侵入者から春を奪い取る為に。
例えその先にあるのが悲劇だとしても。彼女は構わなかった。
自分は主の後を着いていくだけでいいのだ。ただ、愚直に。
◆◆◆
石畳の道に沿って飛行する三人は、進むにつれて強まる瘴気を肌で感じていた。
ピリとした空気は嫌でも彼女達の神経を摩耗してゆき、段々と鋭利なものにしていく。
この先に待つのは紛うことなき化け物。
それこそ、看過してしまえば幻想郷など容易く滅ぼしてしまうほどの存在がこの奥に居る。
怖いと、魔理沙はただ純粋にそう思った。
先の異変でパチュリー・ノーレッジから感じた死の恐怖。それと同等の、精神への圧迫感を絶え間なく感じながら、しかしその心は屈しない。
それは一重に、あの日の自分の不甲斐なさへの怒り。その心に据えられた純粋な正義の倫理観からだ。
もう誰も自分の目の前で死なせたくない。
もし仮に眼前の脅威を自分たちが食い止めることが出来なければ、幻想郷に住まう全ての人々は物言わぬ肉塊へと化してしまう。
それだけは絶対にさせるわけにはいかない。
私達が幻想郷を守るのだと、魔理沙は決意を新たにした。
その時。
眼前、自分たちの数歩先に立っていた一人の少女に気が付いた。
「……妖夢?」
「え、あれ。いつの間にそこに?」
瞑目の剣士は、ただそこに佇んでいた。
異様な程の長さの刀、腰に携えた脇差し、真剣であるその二つの重量はかなりのものである筈なのに。
それを全く感じさせないピンと伸びた背筋は彼女の武人としての体幹が非常に優れていることを伺わせる。
彼女の身を覆う薄い翠色の光。それが周囲を舞う花弁群を侵食するように、ポツポツと桜色の粒が消えていった。
緑の息吹が宙を流れ始める。
「本当に、妖夢なの?」
普段里で見かける彼女は喜怒哀楽が豊かな可愛らしい少女だった筈だ。
しかし、目の前の少女が放つ尋常ならざる覇気。それは水蛭子と魔理沙の全身を総毛立たせるには十分だった。
「御三方、遠路遥々ようこそおいでくださいました」
水蛭子の問いかけを無視し、妖夢は淡々とした口調で形だけの歓迎の言葉を三人へと送る。
「この先白玉楼では現在宴会準備の真っ只中です。つきましては、後日送付する招待状をお持ちになって再度お見えになっていただけると────」
「あー、ごめん。アホらしくて聞いてられないわ」
「ち、ちょっと霊夢」
仏頂面で妖夢の言葉を中断させた霊夢に、水蛭子がその肩を掴む。
しかしそれを意に介さず、霊夢は言葉を続けた。
「こんなとこで宴会?まさかこの嘘っぱちの春を肴にして酒を呑めって?────論外だわ」
「……引き返す気は無いと?」
「はっ、当たり前でしょ」
浮かべられた嘲笑に、妖夢の眉がピクリと僅かに動く。
それからすぅと短く息を吸ってから、彼女は口を開いた。
「分かりました。では、強制的に外界へ連行させていただきます。貴方達が集めた春を頂いた上でね。……少々手荒になってしまうかもしれませんが、どうかご容赦ください」
水蛭子と魔理沙が瞬きをした時には、彼女の両の手が既に背の大太刀を掴んでいた。
滑らかな動作で、しかし寸分の震えすら無く引き抜かれたその刀身が、姿を現す。
緑と桃色の花弁の光が柾目肌の刀身に反射し、キラリと鋭く光輝いた。
「我こそは白玉楼の庭師兼使用人、魂魄妖夢」
「知ってるわよ」
「……そしてこの妖怪が鍛えた楼観剣に、斬れぬものなど存在しない!」
瞬発。霊夢を目標に緑の閃光が一直線に走る。
横一線。刀の先端からやや下、物打と言われる刀身の部位が霊夢の本胴へと吸い込まれる。
しかし躱される。
その場で伏せる様に身を縮ませた霊夢の上を妖夢の刀が空凪ぐ。
それに即座に反応した妖夢が返し刀で再び霊夢を狙うが、しかし。
霊夢の攻撃の方が早い。
「フッ!!」
しゃがんだと同時に霊夢は左踵を妖夢へ繰り出していた。
躰道において卍蹴りと呼ばれるその一撃は的確に彼女の鳩尾を抉る。
人の形をしている存在ならば確実に幾つかの臓器が破裂する筈の打撃を喰らった妖夢は。
その場から大きく飛び退き、目を細め腹を擦るだけに留まっていた。
「……?」
「なるほど、私の太刀を躱しますか」
感心を口付さみつつ、再び太刀を正面に構える。
右足を前に出した右上段の構えだ。
そして妖夢が足に力を込めたその時、水蛭子が棍の石突を正面に構えて立ちはだかった。
「ちょ、ちょっとまってよ妖夢!!」
「……なんでしょう水蛭子さん」
水蛭子の呼びかけに妖夢の足に込められていた力が一旦抜けた。
どうやら話を聞いてくれそうな彼女に、水蛭子は少しだけホッとしてから言葉を続けた。
「私達はただ、この冬を終わらせたくてここに来たの。原因が何かをきちんと知って、それを止めなくちゃいけない。それを知ってるんなら教えて欲しいし、出来れば……その、刀をしまってくれないかなって」
「貴方達がもうこれ以上先に進まず、直ぐに引き返すと約束してくれればそうしましょう」
妖夢の眼差しは依然冷たく、それは今まで見たものとは全く異なった表情で。
どんなことがあってもこの先には進ませないという、確固たる意思を感じさせた。
話し合いで戦うことを避けれればベストだったけれど。
「えっと……ごめん。出来ない。もしこれ以上異変を見過ごしちゃったら、里の皆……ううん、幻想郷の皆に危険が及んじゃうから」
「なんですって……?」
水蛭子の言葉に、妖夢の表情が初めて崩れた。
丸くした目、瞳は僅かに揺れている。
それを見て魔理沙が不思議そうな顔をして彼女に訪ねた。
「もしかして妖夢。お前まさか分かってないのか?」
「何を、ですか?」
「おいおい、マジかよ……」
少しだけ震えた声の返答に、魔理沙は空を見上げて片手で顔を覆った。
妖夢の戦闘の意思が窄んたことで、霊夢は肩を竦めてから問いかける。
「アンタ達は幻想郷中から盗んだ春で西行妖を満開にさせようとしてる。この認識は合ってる?」
「はい、そうです」
「じゃあその化物桜が満開になった時、その魔力で幻想郷に住んでいる沢山の人妖が死んでしまうということは?」
「な、なんですか、それ? 私はただ皆でお花見をするために西行妖を満開にさせたいという幽々子様の……頼みを聞いて」
「じゃあアンタは騙されてるわ」
目を細めながら、霊夢は言葉を紡ぐ。
「西行妖が満開になったら、その一緒に花見をするって奴らも皆死ぬ。目の前の私達も、多分そうなるわ」
「な、何……それ……? わ、私はそんなの、聞いてない!それに、幽々子様がそんなことを望む筈無いじゃないですか!!」
「幽々子の奴が何を思ってるのかは知らない。だけど桜が咲いた場合、常人なら即死する程の魔力が幻想郷中に溢れるということは確かよ」
信頼する主人が行おうとしている凶行を聞き、それを受け入れることが出来ない妖夢の浅葱色の瞳が揺れ動く。
彼女が幽々子から聞いたのは、西行妖を満開にさせて皆と一緒にお花見をしたいという、ただそれだけのことだった。
白玉楼からかなり離れたここからでも薄っすらとその姿を確認することが出来るほどの巨大な桜だ。
それが満開になった暁には、それはそれは壮観な風景を生み出すことだろう。
幽々子様はただ、善意で。それをなそうとしているのだと。
妖夢はそう思っていた。
「……嘘」
否。
妖夢は気付いていたのだ。
幻想郷から春を奪い、長い冬に苦しめられている人々も、その春を吸い取っていきどんどんと妖力を増していく西行妖も。
幽々子が日常の端々で見せる影のある表情を見ても。
全部、全部。見て見ぬふりをして。
ただ主人の命令を全うしなければと、幼い頃に行方不明になった祖父の背中に縋りついて。
「そんな筈、無い。幽々子様が……そんな恐ろしいことを、考える訳が」
顔を俯かせる妖夢に、水蛭子が再び声をかける。
「幽々子さんがもう何度も同じことを繰り返しているということを知っても、そう言えるの?」
「……え?」
視線を上げた妖夢にゆっくりと近づきながら。
水蛭子は八雲紫から聞かされた話を頭に思い浮かべていた。
◆ ◆ ◆
「先代博霊の巫女の時代、それ以前。西行寺幽々子はかなり……幻想郷にとって不利益な存在だったの」
数刻前。スキマの空間に落とされた水蛭子は、紫からこんな言葉を受けた。
しかし、先の宴会で見た幽々子が幻想郷にとって不利益な存在と思えるような印象を抱かなかった水蛭子は、首を傾げながら言葉を返した。
「そう、なんですか? 宴会の時に会った時は、とてもそんな風には見えませんでしたけど」
「でしょうね。今の幽々子はかなり温和になった……いや、この言い方はちょっと違うわね」
手に持った優美な扇を弄びながら、紫は言葉を訂正する。
「性格は今も昔も変わらないわ。生前から、あの子はずっと優しい女の子のまま。だけれど、それ以上に好奇心の強い子だった」
「生前の幽々子さんをご存知なんですか?」
「ええ。貴方達が思っているより、私と幽々子の関係はずっと長いのよ?」
柔らかな笑みを浮かべた紫だったが、その笑顔は直ぐに憂いを孕んだものに変える。
「最も、幽々子には生前の記憶は残ってないんだけどね」
「それは……何故?」
「藍から西行妖については聞いたわね?」
「はい」
「あれを封印した人間についても?」
「はい。自分の命と引き換えに、西行妖を封印したと」
水蛭子の真剣な眼差しを少しの間見つめ返し。
逡巡の後、紫は言葉を続ける。
「あの子は覚えていないけど、その人間というのが西行寺幽々子なの」
「え、でもそれじゃあ自分で施した封印を、自分で解こうとしてるってことですか?」
「自覚は
「なんで、教えてあげないんですか? 西行妖が開花すると皆に危険が及ぶってことも」
「……それを説明する為に、一度話を戻すわね」
︎ 水蛭子が直ぐに頷くと、紫は微笑を浮かべながら言葉を続ける。
「生前の幽々子は今と似た能力……『死霊を操る能力』を持っていたわ。それは一人の人間が持つにはあまりに強大で、あまりに煩わしい力だった。そんな彼女の父親は、幽々子が4歳の頃に出家した歌人なのだけれど、彼は晩年、自身の死期を悟ってある桜の木のもとで永遠の眠りについた。その桜が────」
「西行妖」
「そう。父親が入滅の場に選んだ桜のもとで、彼を尊ぶ人々が後を追うようにして命をうずめて行ったわ。次第に大勢の人間の魂を糧に成長していった桜は、観る物を更に魅了する程に見事な花を咲かせるようになり、それと同等に危険な存在になっていった。それを知った幽々子は西行妖を封印しなければならないと思い立ったの」
「お父様が生み出した妖怪桜だからと、そう思ったんですかね……」
「かもしれないわね。今となっては真意は分からないけれど」
遠い目をして虚空を眺めていた紫だったが、直ぐに意識を戻して水蛭子へと視線を向ける。
「でも、その時既に大妖怪クラスの力を持っていた西行妖を止めることが出来る存在は、あまり多くは無かったの。恐らく土御門家(外の世界の陰陽師達のこと)が総力を尽くせば封印は成功したかもしれないけれど、幽々子はそれを良しとしなかった。その末に出る犠牲はかなりの数に上がると予想するのは容易いことだったから」
「それで一人で西行妖を封印したんですか? 自分の命と引き換えにしてまで?」
「やっぱり父親にも原因の一端があったも同然だったから、負い目は持っていたのかもね。独断で封印を決行した幽々子には以前から持っていた『死霊を操る能力』に加えて『死を誘う能力』も発現していたわ。それらの力を用いて、彼女は自ら人柱となり、西行妖を封印するに至った」
長い説明の後、息を整えるようにして目を瞑った紫は、ゆっくりと瞼を開ける。
「それが、西行寺幽々子という少女の生き様よ」
「……この言い方が正しいのか分からないですけど。可哀想、ですね」
「そうね、私もそう思うわ。行き過ぎた力、慈悲の無い運命、たった一人の女の子が背負うには、それはあまりに残酷過ぎた」
「紫さん、教えてください。西行妖の下に眠っている遺体が、幽々子さん自身のものだと教えない、その理由を」
真剣な眼差しでこちらを見つめる水蛭子に、紫は少しの間を持たせてから、言った。
「───彼女という存在が、あの世からもこの世からも消えてなくなるからよ」