膨大な数の書物を保管している紅魔館図書庫。
初めは紅魔館というチンケな館の小さな書庫だった。
それを世界中から秘蔵中の秘蔵とも言える魔導書や悪魔書、妖魔本等を掻き集めてここまでの規模の大図書館に創り上げたのは、パチュリーだ。
言わば、これまでの生涯の収束が此処にはある。
自分の人生を賭して創ったこの場所の床に、他でもない自分自身が
───パチュリー・ノーレッジは、負けたのだ。
「はぁ、はぁ……ッ!!」
「…………」
前方から荒い呼吸が聞こえる。
幻想を追い求めて自身に向かってきたこの少女は満身創痍の様子で、しかし膝を着く事はせず立っていた。
妖怪が倒れ、人間が立っている。
本来なら、有り得ない光景だ。
「私の、勝ちです……っ!!」
「……そうね」
心底辛そうではあるが、嬉しげに言った水蛭子に、パチュリーは身体を仰向けにさせながら適当に返した。
「約束……守ってくださいね……!」
「ええ、約束だもの。魔女のする契約は絶対だわ」
宙を浮かぶ魔導書達をボーッと眺めながら返す。
何故だろうか。
今まで感じた事の無いくらい、穏やかな気分だ。
なんとなく頬の辺りを触ってみると、己の口角が上がっている事に気が付く。
負けたのに、笑っていた。
「……あーあ、負けちゃったか……残念ね」
「あはは……パチュリーさんでも、残念って思うんですね……」
「ええ、本当に残念だわ」
息も絶え絶えにも関わらず、わざとらしく落胆してみせた自分を気遣うように反応を見せてくれる。
本当に、優しい少女だ。
勝ち負けには興味が無かったが、彼女を眷属に出来なかったのが至極残念である。
もうしばらくこのゆったりとした時間を過ごしていたいが、何時までも人間の魔法使い……魔理沙が蚊帳の外であるのは可哀想だ。
気怠い身体を起こし、宙に舞う魔導書達に元の収納場所に戻る様指示する。
次々と本棚に戻っていく魔導書達を物珍しげに眺める水蛭子に、穏やかな口調で話しかける。
「さぁ、博麗の巫女が来るわ。貴女は魔理沙を連れて奥の方に行きなさい」
「……あっ! そ、そう言えば今異変の真っ最中か……! ごめんなさい直ぐ戻ります〜!!」
パチュリーの言葉に焦り始めキョロキョロと周囲を見渡す水蛭子。
そして呆然とした様子の魔理沙を確認すると、それを肩に担ぎ上げてスタコラと小走りで部屋の奥へと向かった。
「……ありがとうございました」
戻る途中で振り返り、呟く様にそう言った。
そして言葉を返す前に、彼女は暗闇の中へと姿を溶かした。
水蛭子を見送り、少し沈黙した後、肩を竦めて首を振る。
「気付かれてたか。やっぱり」
他人とのコミュニケーションを疎かにしていたせいか、どうも自分は誤魔化すという事が下手らしい。
そうでなくとも、彼女くらいであればこちらが力を抜いていたことなんて容易に理解できたのかもしれない。
「……人間と妖怪が手を取り合う理想郷……か」
甘い考え、と言ってしまえばそれまでの事だ。
「でも、嫌いじゃないわ」
魔法使いは
人と妖怪が仲良く平等に過ごすなんておとぎ話の様な
これから彼女は沢山の壁にぶつかるだろう。
その度に彼女は傷付き、崩れ去る固定観念に戸惑っていくのだろう。
挫折し、立ち上がることを止めてしまう時も来るかもしれない。
そんな時、私が彼女を支えよう。
人と妖怪が共に支え合う幻想を、私が叶えよう。
そう、魔女との契約は絶対だ。
「……もう私達、離れる事は出来ないわ。八十禍津水蛭子」
その胸に秘めた幻想。
たとえこの身が滅びようとも、私が叶えよう。
◆
「……しんどい」
赤いカーペットが延々と続く廊下を、霊夢はかれこれ小一時間は飛行していた。
流石の霊夢も表情をゲッソリとさせて弱音を吐く。
「もー、何なのよこの屋敷は……」
己の勘でここまで来たのは良いが、玄関からここまで、扉という扉が全く見当たらない。
赤いカーペット、大きめの窓、たまに花瓶や絵画といったアクセントはあるが、しかしほぼ同じ光景がずーっと続いている為、霊夢はいい加減飽きてきていた。
そのまま飛行を続けていると、やっと今までに無かったモノが霊夢の視界に飛び込む。
「やっとか……!」
扉だ。
霊夢は感激にも近い感情を顔全面で表現し、飛行の勢いそのままにその扉を蹴破った。
ガゴンッという破壊音と共に扉は金具から吹っ飛び、一メートル程飛んだ後、木製的な音を立てて床へ倒れる。
その扉を踏みつけながら、霊夢が室内を睨むように見渡した。
本と暗闇に支配された室内で、紫色をした少女が一人、椅子に座ってティーカップを傾けていた。
紫色の少女……パチュリーは、霊夢の方へチラリと視線だけを投げると、意外そうに言葉を発した。
「随分と粗暴な巫女さんだこと」
「……ふん、生憎バカ妖怪の屋敷を大事にしてあげる程親切じゃないの」
パチュリーの言葉に鼻を鳴らして腕を組む霊夢。
どうやら予想外の遠路は霊夢を相当不機嫌にさせていたらしく、その表情は凡そ少女がしていい様なものでない輩的なモノだった。
そんな霊夢にパチュリーはちょっと笑いながら。
「ごめんなさい。ちょっとヤボ用があったから廊下を長くしてもらったの」
「 ……はーん、大層な超能力をお持ちで。ソイツが今回の異変の黒幕かしら」
確信めいた顔をする霊夢にパチュリーは真顔で口をすぼめる。
「ブッブー。ただの使用人よ」
「ただの使用人に空間弄りなんて出来るか!!」
「空間弄りというか、正しくは次元操作なんだけど」
「どっちでもいいわ!!」
真顔で指摘を飛ばすパチュリーを無視し、霊夢は懐から数枚の符を取り出して構えた。
よいしょとパチュリーも立ち上がり左手を上げると、何処からか飛来した本がその手にストンと収まる。
手にした黒い表紙の分厚い本を開いたパチュリーが「そういえば」と呟いた。
「今日は火曜日ね」
「は?」
「火属性が一番強くなる曜日」
「日によって変わるわけ?」
「別に。なんとなくそんな感じがするだけよ」
霊夢がなんじゃそりゃ、と何とも言えない表情になっていると、突然パチュリーの周囲に……ぼうぼうと燃え盛る火焔の塊が出現した。
動作という動作が無かった為、霊夢は驚愕から目を見開く。
「うわ」
「なによ」
「……本が燃えちゃうけど?」
「燃えないわ」
「いや燃えるでしょ」
「燃えない。ここの本達はそういう風に出来てるから」
淡泊にパチュリーが言うと、巨大な炎が風に吹かれたようにゆらりと動き始める。
霊夢は迫る炎に一歩後退ったが、数秒もしない間に目を細めて冷静な思考を取り戻す。
そう。
たかだか、炎だ。
「ふっ」
軽く息を吐き出すと共に、構えていた符を前方へ投擲する。
符は意思があるかの様に宙を動き、そこに壁があるかのように平面的に展開する。
それを基礎に、冷色系の薄い膜で構成された障壁が張り巡らされた。
轟々と燃える炎が障壁を殴り、そして霧散する。
「あぁ、結界」
消え去った炎と霊夢を守る半透明な壁を見て、パチュリーは目をぱちくりと瞬かせてから合点のいったように頷いた。
「博麗の巫女の得意分野ですものね」
「……随分勉強してるみたいね」
「勉強はしてないわ。ただ、前にも一度経験しただけ」
懐かしげに虚空を見るパチュリーに霊夢が目を細めた。
経験、とは一体なんなのか。
この魔法使いは以前にも博麗の巫女と対峙した事があるのか。
いくつかの疑問が霊夢の脳内に錯綜するが、今は関係の無い話だと思考を中断させた。
「じゃあ、目ェひん剥いてよーく見てなさい。私の結界は、先代のとは一味違うわよ」
「あらそう。それは楽しみだわ」
再び符を持って構えた霊夢にパチュリーが楽しそうに笑うと、彼女の持った本の頁が風に吹かれたように捲れる。
「私に見せて頂戴。どんな本にも記されていない、神降ろしの極地を」
ピタと、あるページを開いた所で黒い魔導書は止まる。
同時に、大きな魔法陣がパチュリーの背後に一つ、滲むように現れ、紫色に妖しく輝いた。
「未知を直に経験する事が、私大好きなの」
輝きを増していくその光に呼応して、ドロリとした瘴気が空間を蝕んでいく。
霊夢は肌を撫でる不快感に表情を歪めつつ、素早く符を投擲した。
前面のみ展開されていた結界が、追加された札によって継ぎ足されるように全面へと張り巡らされていく。
結界の『点』を増やし、結界を完全な円状に構成し直したのだ。
全方面を結界に守られた霊夢は絶たれた瘴気に一先ず安堵の溜め息を吐いてから、パチュリーを気だるげに睨みつけた。
「それは完全に防げてるの? それとも減殺してるだけかしら?」
「……ふぅ」
コテンと首を傾げたパチュリーを無視し、霊夢は眉間をグリグリと揉む。
「悪いけど、アンタのお勉強に付き合ってる暇は無いの。だから……」
「無愛想ね……ッ!?」
ゴリッと、石灰石同士を押し付けた様な鈍い音が図書館に鳴り響いた。
同時に、パチュリーの背後で光っていた魔法陣が砕けるように消滅する。
「う……ッ!? ……ぐぅぅッ!!」
「昔話ならまた今度聞いてあげるわ。おばあさん」
パチュリーの背中には、先程まで霊夢が携えていたお祓い棒が深々と突き立てられている。
信じられないものを見るような表情で霊夢を見たパチュリーの顔には、凡そ余裕というものが見えなかった。
彼女は自身の背に刺さったナニかを取ろうと手を伸ばすが、届きそうで届かない。
わなわなと唇を震わせ、パチュリーは明らかな恐怖を孕んだ声色で吐き出した。
「なに……これ……ッ!?」
「お祓い棒よ。
「ぐっ」
結界を解き、早歩きでパチュリーに近寄った霊夢が、パチュリーの背中に突き刺さったお祓い棒をズルリと引き抜く。
刺さっていた柄の方には、何故か血液が付着していない。
「多分、暫くはしんどいでしょ。魔法使いは不健康妖怪の筆頭なんだから、暖かい布団で安静にしていることね」
「……ふ、ふふ……なるほど……ね」
脱力したパチュリーがその場に倒れ伏す。
それを一瞥する事もせず、博麗の巫女はブーツの踵を軽快に鳴らして闇の中へと溶けていった。
「やっ……ぱり……」
歪んだ顔を無理やり微笑ませ、パチュリーは虚空を眺めながら声を捻り出す。
「貴女は、人間じゃない……」
そう言って、紫の魔女はこと切れた様に気絶した。
◆
魔理沙は未だに、自身の目の前で起こった数分前の光景を信じることが出来なかった。
自警団の一団員であり、人里に住む人間。
元気で明るく自信家だが、本人の中にある一線を超えると途端にナーバスになるとても人間らしい女の子。
それが、里の人間達から聞いた八十禍津水蛭子の評判である。魔理沙自身も実際に彼女と触れ合ってみて、評判に相違ないと感じていた。
しかし、しかし。
彼女は妖怪を打倒した。
『人間』が、妖怪を倒したのだ。
有り得ない事だった。
魔理沙が今まで体験してきた事象の中で、一番の衝撃であった。
タダの人間は妖怪には勝てない。
だから、博麗の巫女が妖怪を退治する。
そうやって、幻想郷は凹凸の均一な歯車を恙無く動かして来たのだ。
「どうしたの、魔理沙。まだ気分が悪い?」
「な、なんでもないぜ……」
目の前で優しく笑う少女は、均一な歯車に生じた一本の長い凸。言わば異端子。
魔理沙自身が憧れ、自身を魔道に落としてまで追い求めていたイレギュラーの力。魔法使いの弟子になった魔理沙が手に入れることの出来なかったその力を、水蛭子は人知れずその身に宿していたのだ。
「もう、何よ? さっきからジロジロ見て」
「……」
能ある鷹は爪を隠す。
彼女ほどその言葉を体現した存在が、他に居ただろうか。思わず、ゴクリと喉が鳴る。
尊敬、憧れ、興味、数々の感情が魔理沙の頭の中を過ぎって行く。
そして最後に残ったのは、畏怖。
「な、なぁ水蛭子」
「なに?」
その山吹色の目。
お前は一体、何を考えているんだ?
本当に、お前は、人間なのか?
「お前は……本当に……ッ」
言葉が引き攣る。
緊張から、喉が思う様に広がらない。
水蛭子が心配そうな表情を浮かべながら、魔理沙の背中を優しく撫でた。
「ちょっと、ホントに大丈夫? 汗、凄いわよ?」
「……」
言われてから気付く。まるで激しい運動した後の様な大量の汗が自身の肌に纏わりついていた。
同時に小刻みな震えが全身に生じ、綺麗に生え揃った歯がカチカチと音を鳴らし始める。
「パチュリーさんが怖かった? ……今は私がついてるから、安心して?」
「……ぁ、ぅ」
何かを言おうとして口を開き、そしてすぐに閉じる。
口を開く勇気が出なかった。
赤子をあやす母親の様に、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる水蛭子。あまりにも無邪気なその顔を見て、心が徐々に落ち着きを取り戻してくる。
……あまりにも優しい目の前の少女を、魔理沙は拒絶することが出来なかった。
「ぅ……くぅぅ……ッ!!」
「怖かったね。大丈夫だよ。……私が貴女を守るから」
魔理沙の背を、水蛭子はポン、ポンと優しく叩く。
緊張から解き放たれた魔理沙は、その優しさに縋り付く様に、水蛭子を抱きしめた。
「私が、守るから……」
嗚咽を吐き出す魔理沙を抱き返しながら、水蛭子は夢想する。
恐怖も、悲しみも、怒りも、全てが消え去った理想郷を。
誰もが笑って、幸せに暮らせる夢のような世界を。
「……私がいる限り、誰も殺させないから」
水蛭子は胸に抱いた魔理沙が苦しくない程度の力で、彼女を強く抱きしめた。
◆
「……アイツが好きそうな場所ね」
蝋燭やランタンのにぶい光で照らされた図書館を進みながら、意識半分に霊夢が呟く。
アイツとは、霧の湖に妖精と一緒に放置してきた親友、霧雨魔理沙の事だ。無類の本好きである彼女がこの本の山を見れば、一体どれ程眩しい笑顔を見せてくれるのだろう。
白い歯を覗かせてニカリと笑う魔理沙を思い浮かべて、霊夢は少しだけ微笑んだ。
暫く無言のまま進み、少し開けた場所へと出る。
木製の洋風な机と椅子。机の上に置かれた空のティーセット。
そして本の床に仰向けで倒れている、白黒の少女を視界に捉えると、霊夢はピタリと動きを止めた。
「魔理沙……?」
何故か自分より早くここに着いていた親友に小首を傾げながら、霊夢はピクリとも動かない金髪の少女へと歩み寄る。
「……おーい」
お祓い棒で彼女の右肩をチョンと突く。身じろぎもしない。もう一度首を傾げてから膝を屈ませ、グイグイと身体を揺すってやる。
「ちょっと、魔理沙。起きなさい」
動かない。もう一度、首を傾げる。
「起きなさいって」
今度はもう少し強く揺さぶってみるが、やはり魔理沙は動かない。
「……」
「魔理沙は起きないわよ」
無言で魔理沙を揺さぶる霊夢に暗闇から声がかかった。
霊夢がゆっくりとそちらへ振り返る。
コツコツとブーツの底を鳴らしながら現れたのは、随分と見知った顔だった。
「はぁい霊夢。随分遅かったわね」
「……ひるこ?」
肩まで伸びた灰色がかった黒髪に、ほんのりと小麦色をした肌。翠と白藍の生地で仕立てられた着流しに同色のウェストポーチ。軽快な音を立てる厚底のブーツは今日は茶色できめているらしい。
「魔理沙、さっきまでは起きてたんだけどね」
「なんで、どうして……水蛭子が……?」
「……えっ」
困惑しながら霊夢が尋ねると、水蛭子は素っ頓狂な声を上げた。
どうして、と言われたら、ちょっと水蛭子的には返答に困るからだ。
そんな様子の水蛭子ににじり寄りながら、霊夢は次々と言葉を紡いでいく。
「最近来てくれなかったのは此処に居たから?」
「いや、別にそういうわけじゃ」
「誰に命令されてこんな所に居るの?」
「誰……ん、ん〜?」
「何もされなかった? 怪我してない?」
「ちょ、ちょっと落ち着いて霊夢! 誰にも何もされてないし、怪我もしてないから!!」
「本当に? でもちょっと窶れてない? 疲れた目をしてるわよ? ご飯食べてる? ちゃんと寝れてる?」
「いやお母さんかアンタは! 大丈夫! 大丈夫だから! ごめんごめん最近会いに行けなかったのは謝るから許して!!」
遂には身体を引っ付け、上目遣いで責めてくる霊夢に変な感情を抱き始めた水蛭子は、苦笑いをしながらも嬉しげな声色で謝罪の言葉を口にする。
数日ぶりに霊夢と会えた事が、水蛭子はとても嬉しかった。
霊夢は心配の表情のまま、水蛭子の胸元にギュッとしがみついた。
「……えっと、霊夢?」
「良かった。無事で」
困惑気味の水蛭子に、霊夢は安堵混じりの柔らかい口調で言った。
霊夢が怒ってないことにホッと胸を撫で下ろした水蛭子は、同時に彼女に心配をかけていたという罪悪感から眉を下げる。
「ごめんね。心配かけちゃったんだ」
「ううん、私が勝手に不安に思っただけなの。水蛭子のお母さんも、里の人達も、水蛭子なら大丈夫だって言ってた」
「霊夢は、寂しかった?」
「うん」
「そっかー」
小動物の様に引っ付く霊夢を軽く抱きしめながら、水蛭子は本で埋め尽くされた天井を仰ぎ見た。
「ホントにごめん。次からはちゃんと言うから」
「バカ水蛭子」
「ふふ、バカと来ましたか……」
霊夢の口から初めて聞いた気がする自分への直接的な罵倒に、また一つ彼女の心の内を知れた気がして水蛭子は嬉しげに頬を緩ませた。
一応言っておくと、霊夢と水蛭子はそういう関係にはなりません