武田義信の野望   作:薔薇の踊り子

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第一話 太郎誕生

天正7(1579)年9月、遠江国二俣城

 

「信康さま、切腹の沙汰が参りました。ご覚悟を・・」

 

松平信康は思案していた。

 

(ついにこの時が来たか。聞いたところによると母上はすでに亡くなられたという。かくなる上は武家として恥ずかしくない最期を遂げることとしようか)

 

覚悟はしていた。思えば事の始まりはこの年の8月に父家康が信康の居城岡崎城を訪れこう述べたときだった。

 

「信康、近頃は顔色が優れぬようだな?」

「はっ、父上にまでご心配をおかけしてしまって申し訳ございませぬ」

「無理はするなよ?それにしても本当に顔色が優れないように見える。どうだ、ここらで静養してもよいのではないか?そなたは本当にここまでよくやってくれたのだからな。」

 

信康は父徳川家康の嫡男として永禄2(1559)年に生まれた。母は今川義元の養女の築山殿だ。

9歳の時に父家康と織田信長との清州同盟における婚姻で、信長の娘徳姫と結婚。同年元服し信長の「信」の字を諱としてもらい信康と名乗った。

14歳で初陣を果たし、その後長篠の戦いでも活躍、以後武田との主な戦いには相次いで参戦しそのたび武功を立てていた。

このままいけば間違いなく徳川家の跡取りとして問題なくいくであろうと思われていた。

 

「父上、もしかするとわたくしめになにか落ち度でも?」

「そんなことはない。単純に父親としての親心よ、そなたは本当によくやってくれている、なればこそ無理をしていないか本当に心配なのだ。」

 

この時、家康の表情に寂しさに似た何かを信康は感じ取った。

 

「それにこれは上総介さまのご意向なのだ。」

「上総介さまの?」

 

上総介、すなわち織田信長のことだ。信康にとっては舅に当たる。

 

「そなたの妻、徳とゆっくり休んでやってほしいとのことだ。そなたは近頃戦続きで家庭の時間も取れてはいまい?そこをゆっくり取れという上総介さまの計らいよ」

「そうでございますか、それは格別のお計らいでございますな」

「上総介さまといえども娘はかわいいのであろうな、この父からもぜひお願いをしたい、休んでくれ。」

 

家康は深々と頭を下げた。父親だけではなく舅の信長まで関わっているとなると受けないわけにはいかない。

 

「畏まりました。しばし静養することにしましょう。」

「よくぞいうた!大浜城に移るとよい。あそこはいいところぞ。」

 

今考えると準備が良すぎた。その後はあれやこれやと理由をつけられ遠江の堀江城、ついにはこの二俣城にうつされてきた。

 

そして父家康との岡崎城での会話から一か月たった今日、いよいよ切腹の沙汰が下された。

 

(聞けばそれがしと母上が武田に内通したとのこと、もちろんそんなことは一切ないがそれを述べたところで聞いてくださる舅殿ではござらん。そもそも武田と内通しているのであればあれほど武田との戦で武功を立てていたのはなんだったというのだ!)

 

信康は涙を流していた。

 

(無念・・・無念だ・・!このようなことで終わってしまうのか・・・)

 

「信康さま、恥ずかしくない最期を遂げてくだされ」

 

見れば切腹の用意がされていた。なるほど最初からこのつもりだったのか。

 

「それがしが介錯いたします」

 

事ここに至って信康は覚悟した。

 

「かくなる上は武士らしい最期を見せてくれようぞ・・・ぐっ!」

 

(父上・・母上・・・舅殿・・・!これは何かの間違いですぞ・・!)

 

「お見事!では!」

介錯の家臣の刀の振る音が聞こえ記憶は途絶えた。

 

 

 ̄ ̄ ̄ ̄

 

「晴信さま!お生まれになりましたぞ!元気な男の子でございます!」

 

ん…?

 

「おお、でかしたぞ三条!」

「あうあう…!?おぎゃああああああ」

 

そこで信康は気がついた。しゃべることができない!

 

「おうおうこのように元気に鳴いて… 名は慣習に従い太郎と名付けようぞ!」

「これで我が武田家も安泰ですな!」

 

そしてそんな信康を置いて盛り上がる大人たち。

自分の姿を見て驚いた。どう考えても赤ん坊そのままなのである。

だがしかし、どうしたことだろう、自分には先ほど自害をした記憶がはっきりとある。

 

「晴信さま…恐れながら申し上げますが、三条さまと太郎さまはご出産でかなりお疲れのご様子…しばし御自粛を…」

「おお、そうであったな、それでは私は父上へ報告に参ってくる、三条、誠に大義であった!」

「おぎゃああああ!!!おぎゃあ!!! 」

 

なんだこれはあああ!!!???

信康はこうして何もわからないまま、わけのわからない世界へ来てしまった。

 

 

 ̄ ̄ ̄ ̄

 

月日は流れ、天文19(1550)年ー

 

「父上、太郎も元服の儀を迎えました。」

 

平伏して言葉を述べる。

 

「うむ、これからは守役の兵部に頼りすぎることなく一層武田家の為に尽くせよ。」

「かしこまって候」

 

最初は戸惑いが隠しきれずに混乱していたが、信康は元服するまでに自分のおかれた状況を整理することに成功していた。

 

・自分は武田晴信(のち信玄)の長男である武田義信として生まれてきてしまったこと

・前の人生の記憶が確かにあること

 

そして同時に軽く絶望していた。

確か、武田義信って信玄と対立して自害させられたんじゃなかったっけ…?

信康の父家康は極度の武田信玄信者だった。ことあるごとに信玄の話をしていたので信康も武田の知識には多少明るい。

 

(これでは前の時と同じではないか、なんとかして生き抜かねば・・・)

 

信康はこの日から生き残るために生きようと決めた。

 

 

 ̄ ̄ ̄ ̄

 

晴信は目の前に平伏する息子の姿を見ていた。

 

「父上、太郎も元服の儀を迎えました。」

「うむ、これからは守役の兵部に頼りすぎることなく一層武田家の為に尽くせよ。」

 

こやつに武田家の後継者としての資質はあるのか。

 

晴信は値踏みをするように太郎を見た。晴信にとって、後継者問題に対する思いは常人とは一線を画するものであったからだ。

過去、晴信の父、信虎は何かと聡く口煩い晴信を幼少期から疎んじ、思慮深い弟の信繁の方を好み、何かとつけては弟信繁を厚遇した。

しかし、そんな中でもお家騒動とならなかったのは弟信繁が一貫として兄晴信が後継者となるべき、という立場を崩さなかったからである。

しかしながらそんな晴信にも危機が訪れた。信虎が晴信を廃嫡するという噂が流れたのだ。廃嫡されてしまえば晴信は幽閉されて自害させられるか、よくて出家させられてしまい寺に預けられてしまうのが関の山であり、どのみち武田家の後継者としての道はなくなってしまう。

さらに信虎は隣国の信濃国の諏訪氏や村上氏と同盟を組み、度重なる信濃への出兵を強行した結果、領国の甲斐国の民も土地も疲弊し限界を迎えつつあった。

こうした中で、晴信は重臣の甘利虎泰、板垣信方、飯富虎昌、さらには弟信繁らの協力を得てクーデターを起こす。

信虎が隣国駿河国へ向かった際に、甲斐国との国境に兵を置き封鎖してしまい、信虎を駿河へ追放してしまったのだ。太郎が2歳の時の話である。

こうして晴信は武田家の家督を継いだ。それだけに後継者問題に対する神経の尖らせようは半端ではない。

 

うつけでは、ないようだな。

 

晴信は守役の兵部こと飯富虎昌や母親である三条の方からの報告、さらには自分の目で見た素直な感想としてこう思っていた。

 

「太郎さまは大変利発な方で…この虎昌めにも手に余るほどでございまする」

「何を読み聞かしても太郎はこれはなあに?これは何て言うの?って質問攻めされて私も困っていますのよ」

 

実際、太郎はいろいろなことに興味を示し、そして自分が納得するまで質問攻めをしていた。実際には太郎は自分がおかれている状況を知るために必死だっただけなのではあるが。

 

「かしこまって候」

 

ふたたび晴信は太郎を見る。

 

「うむ…お前の名前なんだがな、将軍足利義輝さまから諱を頂いてな、義信という名前を頂けるように今交渉しているところだ。名前に負けないように励めよ。」

「は、ははっー!ありがたき幸せ!」

 

これは事実であった。太郎には武田家の中では始めて足利将軍家からの偏諱を受けられるように交渉していたのであった。

晴信は目をしばらくつむった。

 

「西曲輪に新しくお前の館を設けよう。そこで今度から暮らすといい。もちろん、守役の虎昌も一緒につける。…今日は以上、下がっていいぞ。」

 

ものすごい厚遇である。

 

「ははっー!」

 

わしは父上のようにはならん。

晴信は目の前にいる太郎を見ながらそう決意していた。

 

 

 ̄ ̄ ̄ ̄

 

「いやあ、めでたいことでございます!御館さまも太郎さまのことは大層気にかけてくださっていることがわかりまして、この虎昌も嬉しいかぎりでございます!」

 

この興奮して話す人物は、太郎(以下紛らわしいので太郎で統一します)の守役の飯富虎昌という人物である。

通称兵部と呼ばれるこの人物は、正式な名前を飯富兵部少輔虎昌といい、先祖をたどれば主家である武田家と同じ甲斐源氏であるとも言われる名家・飯富家の出身で、その武勇をもって信虎政権を支えていた。

しかし、信虎追放のクーデター時には晴信に味方し、それ以降は板垣信方、甘利虎泰といった重臣たちと共に若き晴信を支えていた。が、2年前に発生した、村上氏との上田原における合戦で板垣と甘利の双方が戦死してしまったため、現在武田軍団の中核を担っている。

その武勇は凄まじく、家臣団を赤一色で統一したことから呼ばれた井伊直政らで有名な赤備えを考案した人物ともいわれており、「甲山の猛虎」というあだ名をもつ武人である。

 

だが、この飯富虎昌、太郎の前ではー

 

「太郎さま、館を移されると決まったのであれば、何か足りないものはないでしょうか?この虎昌、なんだって用意してみせましょう!」

 

ただの親バカであった。

 

(それがしの守役の平岩親吉はこんなではなかったぞ?甲斐はゆるみきっているのか?とても父家康があれほど尊敬していた武田家の、それも筆頭家老とは思えぬ・・・)

 

「虎昌、今日はもうよい。今それがしは父上と話してきたところで疲れているんだ。」

 

正直、晴信との会談は神経を使う。恥ずかしいことにまだ太郎は晴信と公式の場以外で話したことは余りなかった。

 

「そうはいいましてもな、太郎さま。再来年には今川義元殿の姫君・於津禰さまを正室としてお迎えすることが決まっております以上、何もない館にお迎えするわけには参りますまい。」

 

え?

 

「…ちょ、ちょっと待って、そんな話聞いてないよ?」

 

まったくの初耳だった。

 

「…はて、たしかにお館さまは太郎さまにお伝えしたとおっしゃっていましたが…それがしの聞き違いだったのでしょうか?」

 

(結婚、か)

 

太郎は考えた。

 

(おそらくは甲相駿三国同盟の一環だろう。結局それがしは徳を幸せにしてやることができなかった・・それがしと徳がうまくいってさえいれば前世での不幸もなかったのであろうな)

 

松平信康と母築山殿の自害については信長の娘・徳姫と信康が不仲であったことが原因とされている。素直に太郎は結婚について喜べなかった。

 

(しかも今川の娘、ときたか)

 

正直言って太郎は今川についていい印象を持っていない。自分が生まれたときには家康は今川の人質時代であったので幼少期は今川家で人質として過ごしていた。そしてなにより母築山殿だ。

築山殿は自身に対する愛情は本物でありそれについてだけは好ましく思っていたものの、桶狭間の後はなにかと家康に強く当たり、また時折ヒステリックに騒ぐこともあってかなり苦手であったのだ。

 

(おおかた武田との内通というのも母上が勝手に進められたものなのだろう、それにそれがしが巻き込まれたというだけのこと・・・あの母上なら勝頼に対して本当に手紙を送っていても不思議ではない)

 

とはいってもそれはもう前世の話である。太郎はできるだけ平静を装いながら述べた。

 

「謹んでお受けいたします、とお伝えしてくれ。」

 

 ̄ ̄ ̄ ̄

 

「太郎さまは自らの婚儀についてたいそうお喜びの様子で…」

 

虎昌から太郎の様子について報告を受けた晴信は笑みを浮かべていた。

ほう、政略結婚とわかっていながらこの結婚を喜ぶか。さて、あやつはこの結婚の重要度を知って喜んでいるのか、それともただ単に婚儀というものが目新しくて興味を持っているのか。

晴信は思いを巡らせる。

そう、この婚儀の背景には、太郎の思っていた通り甲相駿三国同盟というとてつもなく大きな政略が存在していた。

甲斐の武田、相模の北条、駿府の今川は今まではそれぞれ時に争い、時に協力する仲であった。

しかしながら、信濃に集中したい武田、関東の支配を固めたい北条、そろそろ上洛を考え始めた今川にとって、互いに争うことは余り好ましいことではなかった。

今川義元の娘を、武田晴信の長男・義信へ。

武田晴信の娘を、北条氏康の長男・氏政へ。

北条氏康の娘を、今川義元の長男・氏真へ。

それぞれを婚姻させることで強固な婚姻同盟を成立させることを目論んでいた。

 

「兵部、ご苦労だった。婚儀に向けての準備を滞りなく進めよ。無論、こちらから北条への嫁入り準備もしっかりな。」

「ははっ」

 

ここで壮年の男が晴信の前へ歩み寄る。

 

「お館さま、いよいよですな。」

 

男の名は真田弾正忠幸隆といって、信濃の豪族である。現在は武田氏に帰属していた。

 

「うむ、これで父上が成し遂げられなんだ、信濃の攻略に集中できるというもの。」

「これで信濃の連中にも一泡吹かせられますな!」

 

こう意気込むのは原美濃守虎胤。こちらは信虎時代からの武田の武将である。鬼美濃と呼ばれた武名高い武将であった。

 

「弾正よ、時に信濃の情勢はどうだ?」

「はっ、林城主の信濃守護・小笠原長時はすでに昨年の塩尻での敗戦以後、士気は低く・・・」

 

軍議が始まっていた。

 

 

 ̄ ̄ ̄ ̄

 

「あにうえ!しろーにもせいじ、というものをおしえてほしいのです!」

「いやー、四郎にはまだ早いんじゃないのかな・・・」

 

そのころ、太郎は―――

 

「しろーもたけだのいちぞくなのです!ちちうえたちやあにうえたちをはやくおたすけしたいのです!」

「はっは、兄上、頼もしい限りではないですか。教えてあげればいかがですか?」

「読み書きもままならんようではな・・・」

 

弟たちと遊んでいた。

 

晴信には今、4人の男子がいた。

まず長男・太郎。のちの武田義信。

次に次男・次郎。義信の3歳年下だが、生まれつきの盲目で、信濃の豪族・海野氏の養子になることが決まっていた。

三男・三郎は義信の5つ下で、こちらはすでに武田の一族である西保氏の名称を継いで西保三郎と称していた。

そして現在4歳の四男・四郎。のちの武田勝頼に当たる人物で、四郎だけは生母が違っていた。

 

「太郎、お前もまだそんな偉そうなことを言える歳ではないではないか、いじわる言わずに教えてやれ」

「お、叔父上!」

 

笑いながら太郎たちの部屋に入ってきたこの優しそうな人物は武田典厩信繁といって、晴信の弟、太郎からすれば叔父にあたる人物である。

祖父である信虎からは晴信よりも寵愛されており、実際に晴信ではなく武田家の家督をこの信繁に継がせようと信虎は考えていたらしい。

こういう時、大抵の家であれば兄を排除して自分が家督を継ごうとして、御家騒動となるケースが多い。実際、尾張の織田信長も弟と家督争いになった末、弟を誅殺している。

しかし、この信繁は違っていた。

晴信を排除するどころか、武田の家督は兄上以外にはありえぬ、と断固として晴信を支持することを決め、実際に信虎を追放する際にも晴信に協力しており、それ以後は晴信をよく支えている。

その人柄の良さと教養の高さから、「武田の副将」との異名をとっていた。

 

「どれ、私が直接教えてやろう。どうだ、太郎、次郎、三郎。お前らも聞いていくか?」

「は、はいっ!」

「光栄です!」

「やったー!」

 

(これは僥倖。武田についての知識はある程度あったが甲斐という国についての知識はあんまりないので正直助かるな)

 

「まず、正直言って我が甲斐の国力は低い、これはどうしようもない事実だ。まず海がないこと。これはわかるな、太郎?」

「はい。まず海がないことは海運による貿易が見込めないことや海産物の恵みにありつけないことがあげられます」

 

うむ、と信繁がうなずく。

 

「さらに加えて、甲斐は山に囲まれている土地、主要な貿易路があるでもなく、交通の要所ともなりえてないので交易による繁盛は難しいでしょう」

 

これは三河と遠江で過ごした経験からの素直な感想だ。

 

「その通りだ。海がないことによる欠点はあまりにも多い。さらに加えて我が甲斐では」

「・・・米が獲れにくい」

 

次郎が続ける。

 

「なぜ、わがかいのくにではおこめがとれにくいのでしょうか?」

 

四郎が質問をする。

 

「それ、三郎も気になってましたぞー!」

 

三郎も四郎に続く。

うむ、と信繁は前置きをしつつ述べ始めた。

 

「・・・まず、稲作をするために必要な条件としては、豊かな水源があること、耕作に適した平らな土地が多いこと、日照時間が長い土地であること、などがあるが、四郎、どうだ?これを聞いて我が甲斐に稲作が適していると思うか?」

 

「たしかにかいのくにはやまばかりでたいらなとちはないでしょうが、みずはほうふにあるとおもいます。だから、そんなにこまることではないとおもうのですが」

 

これがのちの武田勝頼だと考えるといろいろと思うところはあるが気にしないようにしよう、と太郎は考えた。

 

「三郎はどう考えるか?」

「四郎の言っていることに加えて、山がちなここでは日の当たる時間が少なく、やや厳しいとは思いますが、それでも国力を逼迫するほど米が獲れにくいとは考えにくいのですが」

「・・次郎、教えてやれ。」

「・・はっ。確かに二人の言う通り、水は豊富にあるし、少ないとは言っても平らな土地もある。日照時間もやや厳しいでしょうが深刻な米不足に陥るほどではない。ただ・・・水が豊富すぎるのです。」

「・・そう、次郎が言った通りだ。国を流れる富士川は頻繁に洪水を招いていることはみんなも知っているだろう?特に御勅使川との合流地点である竜王あたりはそれがひどい。洪水になれば、稲が水につかってしまい、駄目になってしまう。数少ない平野である竜王付近も、このように稲作をするのには難しい土地なんだ。」

 

甲斐の荒れようには実際驚いた。平地もかなり少なくそのわずかな平地も洪水続きでまともな稲作ができない。生まれながらにして肥沃な地の三河や遠江で育った太郎からすればかなり衝撃的な事実だった。

 

「太郎が言った通りで、信虎殿の時代まではこの問題をほかの豊かな国を侵略したり、ほかの国から貿易で賄うことでなんとかしていた。しかし、お館さまが考えていることは・・・違う。」

 

祖父のことを信虎殿、晴信のことをお館さまと呼ぶあたりこの信繁の人柄がうかがえる。

 

「おっと、この話はここまでだな、あとは自分たちで考えてみろ。」

 

信繁は笑いだし、弟たちが議論に興じる中で太郎は考えていた。

(まずここまででわかったことがあるが甲斐・信濃国ともに国力が貧しい。金はまだなんとかなるかもしれないが米がとれないということは単純に軍の動員にかかわる問題だ。この環境でよくあんなに強い兵が育つな・・いや、それがよかったのか?)

(三河兵も精強で知られていたが甲斐兵はそれとは違う強さをもっている。死に物狂いで戦うのが甲斐兵の強みでそれは自国が貧しいからではないのか?戦に勝ち豊かな国を侵略することでしか豊かさを得られないと考えているからこそ死に物狂いで戦うのでないか?であれば・・)

 

「叔父上、少々申し出てもよろしいでしょうか。」

「太郎、なんだ?」

「それがしは甲斐国はそこまで豊かにならなくてもよいと考えております。」

 

この発言に信繁は驚いていた。

 

「・・・詳しく聞かせろ。」

「はっ・・わが甲斐国の強さは兵の精強さ。その根底にあるのはわが国の貧しさ故と考えます。これを失うのはあまりにも惜しいのではないでしょうか。」

 

信繁は言葉を失った。なんという観点だろうか。

 

「・・続けまする。もちろん現状のような軍の動員に影響するほどの水害は防がなくてはなりませぬ。しかしながら必要以上の豊かさをこの国にもたらすのはそれすなわちわが国の強みを失うことになります。そしていくら治水を頑張ったところで肥沃な地を持つ駿河・越後・相模には勝てませぬ。」

 

太郎はあえて今川、長尾、北条といった近隣の大名の領国を挙げて述べた。

 

「・・・その発言、また詳しく聞かせてくれ。」

 

武田の未来は明るい、と信繁は感じていた。

 

 

―――――

 

「・・・という話を太郎たちとしておりました。あやつらは底知れぬ可能性を秘めておりまする」

 

晴信は自室で信繁から報告を受けていた。

 

「ご苦労、しかし、国を豊かにしすぎるな・・・か。その発想は思いつかなんだな。」

「兄上、なにとぞ太郎たちを大事にめされい。彼らは聡く、何より仲が良い。」

 

なるほど、太郎だけではなかったか・・・

晴信は満足そうな笑みを見せた。

 

「信繁よ、わしの息子たちに対する待遇に何か不満でも?」

 

「いや、そういうわけではござりませんが、もっと会話を、するべきかと。太郎たちと話していると、なによりこちらも得るものも多いですぞ。」

 

会話、か・・・

 

「考えておこう。」

「いいえ、考える、では困りまする。」

 

信繁は珍しく強気であった。

 

「兄上、無礼を承知で申し上げます、信虎殿のことは不運なことであった・・・」

 

その話題は。

この兄弟はできる限りその話題には触れないように今日まで過ごしてきていた。

 

「しかし、不運であったのは兄上とそれがしで終わりでいい。なにとぞ・・・なにとぞ太郎たちには幸せに・・平等に近くに接してほしいのです。この信繁、この首をかけてのお願いでございます。」

 

晴信は信繁を見た。

昔から不思議なやつであった。武田家の跡取りは兄上以外差し置いていない。私などはその器ではない、とよく言っていた。

父信虎が信繁に家督を進める度に固辞してきた。

戦国の世、本来なら憎しみ合い、殺し合っていてもおかしくない、肉親。

実際に自分は実の父である信虎を駿河に追放するという親不孝を起こした。

 

「次郎」

 

あえて晴信は信繁を幼名で呼んだ。

 

「ははっ」

「わしは・・・わしは考えることがある。兄弟親子が憎しみ、殺し合うこともある戦国の世、しかしながら、お前とはそうはならなんだ。」

「・・それも、兄上の人柄がなしたことでございます。」

「いいや、違う。次郎。それはお前の人柄がなしたことだ。わしは・・・次郎。考えることがある。もし、わしが次郎の立場だったらどうしていたか・・を、な?もしわしが次郎の立場だったら、わしは躊躇なく兄を殺し、家督を奪っていただろう。実際わしは父上から家督を奪った。」

「兄上ほどの人物なれば、それも致し方なしかと」

「しかしながらわしは、お前という優れた弟を得た。そして、どうやら息子たちも優秀らしい。わしはな・・・恵まれておるのだろう。だからこそ、わしは怖い。いつの日か、父上のように息子たちをも手にかける日が来るのではないかと。わしはお前とは違う。目的のためなら手段を選ばない男だ。そういう日が来ない・・とも言い切れない。実際、家の方針と家族との絆、どっちを優先するかを聞かれたらわしは間違いなく家の方針をとる。だからこそ・・・息子たちと会話するのを避けていたのだ。」

 

晴信はいつの間にか心情を吐露していた。

 

「教えてくれ、次郎・・・わしにも家族と話すことは許されるのであろうか?父親を追放した人間に家族を愛する権利などあるのであろうか・・・?」

 

信繁は、しばらくしてから口を開いた。

 

「・・・当然でごさいます。兄上は天下を目指せる器のお方。それがしなどでは到底勤まりますまい。そのために、私情を捨てることも当然求められることもあるでしょう。しかし、それと家族を愛することは違うでしょう。ですから、まずはもっと会話をしてやってください。この信繁、兄上のためならいつだってこの首を差し出す所存、どうか、この信繁めを少しでも思いやる気持ちがおありならもっと話をしてやってください。」

 

晴信は涙していた。

太郎を確かに厚遇はしていた。新しい館を与えたり、将軍の諱を与えたり、今川義元の娘を嫁に迎えたり。

しかし、どこか後ろめたい気持ちがあって息子たちと会話するのを避けていた。

 

「・・・ご安心めされよ。太郎たちはまだ幼い。今からでも遅くはないでしょう。もしそれでも話しにくい、と感じられるならばそれがしをお使いくだされ。それがしが兄上と太郎たちとの架け橋となりましょう。どうか、兄上とそれがしの不幸を終わりにすると約束してくだされ。」

「・・・あい、わかった。」

 

晴信は決意していた。


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