◇
上弦の月が、静まり返った闇夜にぽつんと浮かぶ。沈んでいく弦月がうっすらと光を放っているだけで、辺りは既に真っ暗闇と化し、人はおろか、草木も花も眠りについているような寂寞が広がっていた。
行商の街に停泊中のグランサイファーもその静けさの中でひっそりと帆を下ろしており、羽を休めた沈黙を見せている。
船内にいる団員もそのほとんどが床についている時間帯だ。一時の平穏に身を委ね、長い長い夜の始まりを見せる傍らで――騎空挺から覗く一室ではほのかに明かりが灯っていた。寒風がその一室を隠していたカーテンを揺らすと、とある団員の部屋が見える。今では毛布にくるまって、明くる朝に向けてその身を休ませていた……わけではなく。
深々と冷え込む外の気温と相反して、羽毛でできた布団はとても心地よい。
心地よいが、その中でくるまっている彼女――クラリスの心境はあまりにも冷え切っていて。
さながらそれは極寒の地で吹雪く嵐のようで。渦巻いていく悲哀の感情は、消滅どころか増殖の一途をたどっていた。
「あああああ……もうだめだぁー……おしまいだぁー……」
枕を涙で濡らしながら、屍人のような声色でおうおう唸る。最悪の結末を迎えたアプローチデートから数時間が過ぎていてもなお、彼女は立ち直ることなくさめざめと落ち込んでいたのである。
告白どころではない。完全に、完全に嫌われた。
自分の必殺技である≪アルケミック・フレア》を彼の眼前で放ったのだ。それも手加減なしで。
確実に殺す勢いで放たれたそれを思いっきり受けて「いやー死ぬかと思った」で済ませる男なんてこの世にいるだろうか。否、いるはずがない。いくらなんでも人が良すぎる以前に常軌を逸脱しているだろう、肉体的にも精神的にも。
現にグランがその一撃で骸と化していないのは不幸中の幸いだったが、それでも「看病中!団長ちゃん絶対安静!!(byナルメア)」と書かれたプレートがグランの部屋に張られている限り、かなりの重傷であったことは間違いない。その事実を知ってさらにクラリスは胸を痛ませていた。
自分のせいで、大好きな人を傷つけてしまった。
自分の手で、大好きな人を壊してしまうところだった。
そんな後悔を終わることなく続けながら、クラリスはなおも布団に潜って出てこないでいる。
これが夢の出来事ならどれだけ良かった事か。
悪夢でしかないこの思い出をなかったことに出来るなら、どんなことでも成し遂げてやるのに。
と、瞼を閉じて悶々と終わらない後悔を巡らせる彼女であったが――そんな矢先に、部屋をノックする音が耳に届いた。
こんな夜更けに誰だろう。疑問に思い、ふっと身体を起き上がらせたが――止めた。今は誰とも会話する気分じゃないし、くしゃくしゃにした顔を見られるのは恥ずかしいし癪だ。
来訪者には悪いが、居留守ならぬ居眠りを貫かせてもらおう。
——そう思っていたけれども。
「クラリス。まだ、起きてるかな? グランだけど」
「……ごめんなさーい……クラリスちゃんはー……もう寝てまーすぅ……」
「そっか。寝てるならしょうがないか。それじゃまた今度尋ねるよ。おやすみ」
「はぁーい……って。ぐ、ぐぐぐグラン!? 待って! ちょっと待って今開けるから! 開けるから帰らないで!!」
来訪者がグランならば話は違う。
極寒の地。吹雪いていた嵐の中で、激しい雄叫びをあげながら乾布摩擦をするソリッズたち(ふんどし)が現れた。そんな錯覚を覚えるような衝撃を受けつつも慌てて部屋のドアを開け、クラリスはグランを招き入れた。
明らかに疲弊した顔のグランが目先に居て、言葉を少しだけ失う。
痛々しい包帯の巻かれようを見て、罪悪感がこみあげてきた。危なっかしい動作で歩んできていたので、肩を貸して椅子に座らせると、グランは「ありがとう」と一言告げてきた。
こちらとしては「ごめんなさい」なのに。
唐突なる来訪に胃がキリキリする中、グランは椅子に座ったままこう言う。
「遅くにごめんな。ちょっと、クラリスと二人きりで話したいことがあってさ」
二人きりで話したいこと。その言葉を聞いてびくんと肩を跳ね上げる。
裏路地を焦土に変えた叱責か、それとも金輪際自分に近づくなという警告か。
悪い予想がクラリスの頭の中をぐるぐるめぐっていく。過ぎ去りし楽しかった記憶に思いを馳せながら、グランからの言葉を静かに待つ。
けれども――彼から出た言葉は、クラリスが想定していたものとは真逆のそれだった。
「あの……クラリス、ごめん! あの時、その……開けるなって言ったのに、カーテン、開けちゃってさ」
「……へ?」
「いや、その……すごく心配だったからさ、着替えてることなんて頭の片隅にもなくって。少し、パニックになってたんだと思う。クラリスの身に何かあったらと思ったらさ、居ても立っても居られなかった。……それが君を怒らせる結果になるなんて思ってもなかった。言い訳かもしれないけど、下心なんてなかったんだ。本当にごめん、クラリス」
そう告げ、グランが深々と頭を下げてくる。そんなグランに――クラリスはハトが豆鉄砲を食らったような顔で見つめていた。この人は一体何を言っているんだろう。自分は怒っているつもりなんて微塵もなかった。ただ、恥ずかしかったから。羞恥心が最高潮まで達したから。それで誤ってグランを傷つけてしまっただけなのに。
それでも目の前のグランは、とても罰の悪そうな顔でクラリスの相貌を覗き込んでいる。
悪さをして叱られる前の子供のような顔だ。あどけない純朴なその表情に気圧され、ついクラリスはぶんぶんと両手を振って否定する。
「う、うちは怒ってないよ! むしろうちこそ――ごめん! あの時は恥ずかしくって、つい――ほ、本来ならうちが怒られても仕方ないことだったよ。グランをこんなにボロボロにさせたの、うちのせいだし……ごめん、本当にごめん」
ハプニングはあったにせよ、最終的にデートをぶち壊しにしたのは自分だ。
グランにアプローチをかける魂胆はあったにせよ、彼を慰安する為に計画した街遊びだというのに、意味もなく傷つけてしまったのだ。罪悪感を覚えない方がおかしい。
けれども。
クラリスの静止を問わず、彼女の痴態を見てしまったのも事実であり、それがグランにとって感情の重荷となっていたのも確かだ。お互いが頭を下げ合っている奇妙な状況下ではあったが、それでも一応の謝罪が出来たことで気持ちの整理はできたようだ。お互いの顔をおずおずと見合わせながらだったので、急に恥ずかしさがこみあげてきたのか――話を変えるようにグランがこう語ってきた。
「そ、それにさ、あの街であったことも一緒に話しておきたくってね」
行商の街で起きた一連の出来事は複雑怪奇ではなく、至って単純な問題だった。
先ず服の受け取り先でもあるブティックでの出来事。シェロカルテを介して、有名老舗に仕立てをお願いしていたファスティバだったが――本来の場所は行商の街の「表通り」にその店は存在していた。
事実確認を急げば、注文の依頼書を郵送していた商人が送り先を間違え、裏通り――行商の街を裏で牛耳るマフィアたちが経営する店に届けてしまったとのこと。後ほどになって、表通りの有名老舗店から送金はされたが依頼書が届かない旨の連絡を受けて事実が発覚した。
先に貰った地図もマフィア側から送られてきた案内図だったが、それにファスティバが気づいた時には時既に遅し。グランがぐるぐるの包帯に巻かれてグランサイファーに戻ってきた頃であった。
「シェロカルテさんもファスティバも物凄い勢いで謝ってきてさ、クラリスも――と思ったんだけど部屋にずっと籠ってるしもう時間も遅いから、って理由でさ。ちょうど僕も色々話しておきたいこともあったから、こうして部屋に来たんだ」
「そう、だったんだ……」
そして次に起きた店外からの謎の攻撃。これは言うまでもなくカリオストロの仕業であった。
エリクシールを勝手に持ち出したのが発覚してジータにシバき回されそうになったところで――建物に向けてアルス・マグナを放つカリオストロ。かく乱するために放ったその一撃が、偶然にもグランたちのいるマフィアの住処に直撃した。
この事実はクラリスの一撃を受けて、遥か彼方に吹き飛ばされたカリオストロとジータに話を聞いて発覚した。
カリオストロとクラリスの一撃で行商の街の裏路地はほぼ壊滅的な状況に至り、相当な賠償を覚悟していたグランだったが――意外にも街の領主は平和的に話を解決に導いてくれた。
なんでも裏路地のマフィアには相当手を焼いていたらしく、近くに行われるスペシャルマッチでも暴動を起こす可能性を示唆されていた。街のイメージダウンにも繋がるとして何とかイベントが始まる前に根絶を唱えていただけあって、今回の掃討は願ってもない事案だった。
とはいえ街の裏地を壊滅させたのは事実。
グランはその話を聞いて、謝罪の意味を込めて街の復興作業を《とある団員たち》に任命した。
とある団員たちとは、もちろんジータとカリオストロである。二人の胸には「わたしはまちあなかであばれてめいわくをかけました」と書かれたプレート(ナルメア作)が掛けられており、グランにこれでもかと絞られた二人は、反省しながら復興に力を注いでいるのであった(カリオストロはぶつくさ文句を言っていたが)。
「イベントが始まる前には復興も終わっていると思うよ。むしろ、カリオストロの力があればあの汚い路地裏も綺麗に変わるんじゃないのかな」
そういってグランは闊達に笑う。ようやくすべての問題が解決された彼の顔は朗らかだった。
確かに身体は傷だらけではあったが、それに加えて心まで病んでしまってはしょうがない。服のこと、街のこと、クラリスのこと――総じてが重たくのしかかってきた彼の心労はとてつもなく大きかったと思う。
しかし。そんな一面を微塵にも見せず、グランは続ける。
「クラリス、今日は本当にありがとう」
「え? ありがとうって、何が?」
「ファスティバから聞いたよ。今回僕を誘ってくれたのは、労いの意味を込めてのものなんだって。そりゃあ、まあ……最後はあんなことになっちゃったけどさ、それはクラリスのせいじゃないし、僕もそうだとは思ってない。すごく充実した時間だったし、クラリスと一緒に遊べて、すごく楽しかった」
その横顔は充実感に満ちていて。憑き物が落ちたような顔に変わっていた。
突然のハプニングはあれども、彼は満足してくれていた。計画なんてない行き当たりばったりのアプローチデートだったが、自分のやっていたことは間違いではなく、グランを楽しませることが出来ていたのだ。
その事実を聞けて、クラリスの心は――大きく揺れ動いていた。
楽しんでいるのは、自分だけじゃなかった。どこかしら感じていた孤独の不安は全くの杞憂で。
彼と「楽しい」という感覚を共有出来ていたことが――とても嬉しかった。
「だからさ。そのお礼というか、クラリスがしたいことがあったらなんでも言ってよ。出来る限りなら、その期待に応えるつもりだよ」
ぎこちない動作ではあるが、彼女のベッドに腰を掛けて隣に座る。
ニコニコとほほ笑むグランの顔にとりたて不純な動機は見られない。見られないが――隣にグランがいるという事実にクラリスの感情は波立っていた。心拍数が上がり、ぐるぐると思考がめまぐるしく回転する。何をしてもらおう。何なら許してくれるのだろう。過度なスキンシップをしてしまうと後々の関係にヒビが入ってしまうから、もっと落ち着いた、グランが嫌がりそうにないことを――。
そう考えて、クラリスはふっと思い出した。
「じゃ、じゃあ――さ」
「うん」
「……うちにも」
あの時、自分が歯噛みしながら見つめていた光景。
羨ましい。してほしい。そんな感情を胸に、じっと眺めていた光景。
「うちにもしてよ、膝枕」
彼女――センが気持ちよさそうにしていたグランの膝枕を。
自分も、してほしかった。
「膝枕? ……う、うん。それくらいでいいのなら」
若干困惑しながらではあったが、グランもそれに了承した。
自分の膝を軽く手で払って、小さくたたく。その場所にクラリスは自分の頭をぽふん、と乗せた。
少し硬めの膝が男であることを強調していて、その事実を認めようものなら急に恥ずかしさもこみあげてくるわけで。誤魔化すように
「……い、いぇい☆」
真上にある彼の顔を眺めながら、ピースを作る。
しばしの間「かたーい」とか「ごつごつー」とか茶化すように言っていた彼女にグランは
「しかし珍しいね。こんなのがいいんだ?」
「そりゃあねー。男の子が女の子の膝枕にあこがれるように、その逆もあるんだよ。
……てかさ、前々から思ってたけど……グランって、誰にでも優しいよね」
「そうかな?」
「そだよ。そうじゃないと、こんなことしないよ。普通に考えて、女の子を膝枕させたり、乗せたりしないよ」
「あ、あはは……ごめん。ちょっと常識がなかったかな」
「あ、いや責めてるわけじゃないけど。ただ、不満なだけ。誰にでもこういうこと、してほしくないから」
「……クラリス?」
「あんまり優しすぎるのも駄目だよ。そうだと、女の子はいつだって勘違いしちゃうから、そういう男の子の一面に、女の子は惹かれちゃうんだよ」
顔を横に背けて、すこしだけぶすっとして。
ここまでして、どうして気づいてくれないのかなという不満を持ちながらも。
それでも気づいてほしい。振り向いてほしいという気持ちは無下にはできなくて。
煩わしい言い回しをしながらも、少しずつ自分の想いが固まっていくのを彼女は知る。
そういえば、彼と出会ったのはいつからだったか。
「……ねえ、グラン。覚えてる? 初めてうちと出会った時のこと」
「うん? ……ああ、覚えてるよ。びっくりしたなぁ。あの時はいきなり目を塞がれて『だーれだっ』って」
「あはは。そうだよね、そうだったね。
それからちょっと経って、クリスマスになって、一緒にはしゃいだよね」
「そうだなぁ……あの時も色んなハプニングが起きたけど、お祭り騒ぎで楽しかったな」
「……ふふっ、でもあの時のグラン、うちのこと全然見てくれなかったよね。なんでだろーかなー?」
「あ、当たり前だろ。あんな水着みたいな恰好、見れるわけないじゃないか」
「でも、またあの格好でスペシャルマッチは始まるよ。も、もちろん、今回のじゃない、前回の服でね」
「あ、あの時は……本当ゴメン」
「いいよ。……見られたの、グランでよかったし」
「え?」
「な、ななななんでもないよっ! じょーだん、じょーだんだって!」
またしても気まずくなり始めたので本音交じりの軽口をたたいたが、ただの墓穴であることに気づいて慌てて訂正した。しばし無言が続く。そんな中、遠くを見つめながらクラリスがぽつりとつぶやいた。
「それにしても、色々あったねぇ……」
「……そうだな。本当、色々あったなぁ」
馳せていく過去は、矢次に変わる時の中で色褪せることない「記憶」として残される。
逡巡するだけの世界をひっくり返せば、そこにはありふれた日常ではなく、刺激だらけの非日常が待ち構えていて、クラリスが望んでいた毎日が、確かにそこにあった。
毎日が楽しいと思える、魅力的な日々であり――こんな日々がずっと続けばいいと、そう思えるくらいの充実した時間だった。
そんな時間の中に居たのは、決まってグランやジータたちで。鳥かごの中で窮屈に暮らしていたクラリスにとってはどれだけ輝いて見えただろうか。あんな風に目的を掲げながら空を旅する姿に、どれだけ心惹かれただろうか。
そして――いつから。
「(いつから――うちは)」
目で追っていくたびに募っていた思いは、いつの間にか恋心へと発展して。
「(こんなにグランのこと、好きになっちゃったんだろ)」
溢れんばかりの気持ちは、その口から小さな欠片となり、やがて意味を成す「言葉」となって表れる。
なし崩しに同行していた空の旅だったけれども。死地を乗り越え、時には年相応にはしゃぎながら、苦楽を分かち合い、知らない一面を知ったりして――これまでが大切な思い出と変わっていった。
あと一歩踏み出せなかったのは、勇気が足りなかったから。
けらけらと茶化していたのは、自分の恋心を悟られなくなかったから。
好意を隠していたのは――見る目が変わるのを恐れていたから。
でも、それでも。立ち止まって足踏みしていただけでは何も変わらないし進まない。
進まなければ……きっと自分は死ぬほど後悔することになる。嘆いて、悲しんで――悲哀に満ち溢れて、ようやく失ったものが自分にとってどれだけ大切だったかを知る。
だから――うちはもう、逃げない。
このまま――実ることなく終わらせたくないんだ。
すっ、とグランの膝から頭を上げる。茶のポニーテイルが音なく靡き、グランの視線がクラリスの瞳と交差する。誰にも見せたことのない笑顔をグランにだけ見せて、クラリスは語った。
「うちにとってこの思い出は宝物だよ。グランと、騎空団のみんなと一緒にやってきたこれまでがあったから、今のうちが、クラリスちゃんがいるんだよ」
ぎゅ、っと。そばにあったグランの手を握る。唐突な行動に少しだけ驚くグランだったが、真剣な表情で言葉を紡ぐクラリスの意思の強さを感じて、口を噤んだ。逸る鼓動は滑らかに流れる彼女の言葉に調和して、そのまま静かに溶けてゆく。
もはや彼女に気恥ずかしさとか、否定の類はなかった。
ただ、ありのままの感情をグランに伝える。
自分の秘めた思いを伝える。その一心が彼女という存在を動かしていた。
「だからね。今この時も、うちの宝物にしたい。
グランと、こうやって一緒にいられる時間を、大切にしたい。
これからもずっと……グランの傍にいたい」
波のように押し寄せた想いは必死に抑え込んでいた意識を瓦解させて。
緊張で言葉を詰まらせながらもクラリスは――その真っ赤な様相を隠すことなく、ひたむきなほど真っ直ぐな想いをグランに告げた。
感情の奥底に押し殺していた恋心が、形となって現れた瞬間だった。
「うちね……グランのこと、好き。どうしようもないくらい、すごく、すっごくっ……大好き」
絡めた手にほんの少しの力を込めて、告げた言葉にたくさんの想いを込めて。
今まで伝えたくても伝えられなかった想いの丈は単純で、明快。
臆病風に吹かれながらも、遠回りをしながらも。
それでも最後には辿り着いた。偽りない心を一途に描いて。
少しの間、静寂が訪れる。手はしっかりと握りしめたままでクラリスはふっと顔を俯かせ、震える唇を小さく揺らしながらも言葉を続けた。
「だから……返事、欲しいな」
下を俯きながらそう告げるクラリスに、グランは――彼女をぎゅっと抱きしめようとして、止めた。
心の奥底で燻り、愛しさが募る感情を必死で抑え付けながら、ぎっと歯噛みする。
そして。辛く、重たい言葉を――静かに彼女へ届けた。
「クラリス、ごめん……今はまだ、その気持ちに応えられない」
俯く彼女に背くように。ひたすらに申し訳なさそうに。
今、その返事を出せない自分に情けなさを感じながら――グランは語る。
「僕は――団長だから。特定の誰かと親密な関係になるのは、星の島――イスタルシアについて、ルリアとの命のリンクを切って――全ての決着をつけてからじゃないといけないんだ。クラリスと親密になったら、どうしても君を優先してしまうような、そんな贔屓な感情が生まれてしまうんだ。それじゃいけない。この騎空団を纏める者として、今はみんなと広く平等に関わっていきたい。
僕は……僕は。曖昧な気持ちのまま、君と付き合いたくない。
生半可な気持ちで付き合って、クラリスを傷つけたくないんだ」
背く顔は顰めに満ちていて。苦汁の末に決断した言葉だとわかる。
声色もいつもとは違っていて。爽やかに発せられる彼の声とはまるで違う。
クラリスの想っての発言だった。傷つけたくないが故の言葉だった。
……でも。
頭では分かっていても、心では理解できなかった。
「……無理だよ」
そう、はっきりと彼女は言う。
「無理だよ。待てない。いつ辿り着くかもわからないのに――うち、待てないよ。そんなに強くない」
ぎゅっと握りしめた手に力がこもる。振られたわけじゃないのに無性に悲しくって、苦しくて。
グランの優しさが今では胸に強く突き刺さる。
ほろ苦い嗚咽が漏れそうになって、けれどそれを抑える手立てが思いつかなくて。
好きって言ってほしい。
抱きしめてほしい。
その願いがかなわない現実に、クラリスは耐えがたい胸の痛みに押しつぶされそうになるが――。
そんな折、大きな掌がクラリスの頭を撫でた。ゆっくり髪に触れる掌はとても温かくて、優しい。
ふっと顔を上げると、穏やかな笑みを浮かべたグランがこちらをしっかり見つめていた。
うっすらと目尻に溜まった涙が、つうとクラリスの頬に伝う。
「辿り着くさ。僕を信じてほしい。その時は必ず答えを出すから。
キミを悲しませない答えを――きっと出すから」
クラリスの涙を指で拭って、グランはあどけなさの残る微笑みを見せた。
それはまるで確証も根拠もない、その場しのぎの言葉にも聞こえるけれど。
朗らかに笑うグランの表情からは曇り一つ見られない。けれど、見られないからこそ納得できた。
辿り着けると信じているから、そして問題をただ先延ばしているわけではないと分かったから、クラリスも胸の奥に溜まっていた苦悩を取り除くことが出来た。
こんなに真っ直ぐで、芯の通った言葉が嘘だとは思えないから。
安心した。安心して、安堵して、そして――崩れかけていた恋慕の欠片が、クラリスの心を再び揺さぶり始めた。
(……ずるい。ずるいよ。そんなの反則だし、こんなの……)
撫でる手の包容が、彼の屈託なく笑うその表情が。
とてつもなく愛おしくて、けれどその先に進めば彼を困らせてしまうから。
様々なジレンマを抱えながらもクラリスは押し黙った。
彼の想いを尊重したい。だからこそ、ここは耐えて、耐えて――そしてもう一度、今度は彼の口から、その返事を聞かせてほしい。自分と同じ想いを、確かに伝えてほしい。
「……分かった。信じるよ、グランのこと。イスタルシアについたら、絶対、絶対に返事、ちょうだい」
「ああ、約束する。その時を迎えたら、一番最初に伝えに行くよ」
それだけ告げて。
しっかりクラリスの頭を撫で終えたと思えば、グランはぎこちない動作でベッドから腰を上げた。
そろそろ部屋に戻るね。そう伝えて部屋を出ようとする彼を、クラリスは呼び止める。
「――グラン」
「ん? どうした、クラリ――」
――振り向き様の出来事だった。いつの間にか自分の胸元に彼女の手があったと思えば、目の前には赤く染まった彼女の顔があって。言葉を発する余裕もなく、その口は塞がれてしまった。胸にあった両手は流れるようなしぐさで彼の頬に当てられる。彼女の艶のある小さな唇は柔らかくて、触れるだけで雪のように溶けてしまいそうな、そんな錯覚を感じてしまう。重ね合う時間は永劫とも呼べるくらい長くて、けれども必ず終わりはやってくる。名残惜しそうに彼のそれから唇を離すと
「……えへへ、これでわかったでしょ? うちがグランのこと、本気で好きだってこと」
悪びれもせず、舌をちょろっとだけ出して微笑んだ。一瞬何が起きたのか理解できなかったグランはと言うと――見たこともないくらい顔を真っ赤に蒸気させていた。
それと同じくらい朱色に染め上げた様子のクラリスは、いつもの調子でこう言うのであった。
(うちは――間違ってなかった)
「うちを選んでくれないと……ドカーン、だからね☆」
(この人を好きになって――本当に、良かった)
◇
次回、エピローグ。
次が本当の最終話です。