喫茶店を出てからというものの――特にこれと言って目的があるわけでもなく、グランとクラリスは行商の街並みを同じ速度で歩いていた。肩が触れ合うくらいの距離で、視線はお互い違う方を向いたまま、けれどクラリスだけはぎくしゃくと。
幸せな気持ちから一転して、少しやりすぎちゃったかな。というほんの少しの後悔に苛まれながらも、直ぐに気負いしてしまう自分の心境をなんとか解そうとして、クラリスは近くの景色をぐるりと一瞥した。
翡翠色の双眸に映る街並みは白銀に包まれていて、しかし多彩に染まる家々では一色だけでは覆いつくせないほどの「感情」を描いていた。雪の到来を待ち侘びた子供たちの歓喜の声もあれば、雪害を心配する商人たちの嘆きの声も聞こえてくる。
言葉だけでは言い表せない感情の色たちは四季と共に移り変わっていくものだが――クラリスの胸中だけは、いつにも増してざわざわと色めき立っていた。
ちらり、とグランの横顔を盗み見る。寒さで頬と鼻頭を赤くさせた彼の顔は、何処か田舎臭い少年のそれが抜けきっていなかったが……それは彼の一つの顔でもあり、それが本当の姿ではないことはクラリス自身が良く分かっていた。
戦いの時に見せる切迫した様相は凛々しくもあり美しさがある。命を燃やして全力で渡り合う覚悟を決めた男の顔だ。実際、あの雄々しい表情を間近で見た時は底知れない怖さを覚えたが、それもほんの一瞬のこと。幾度も命を賭して自分を守ってくれた彼の横顔は、頼りがいがあり優しかった。
その両面性に惹かれてか、それはクラリスの中で眠っていた恋心を目覚めさせるきっかけになっていた。
優しく、けれど強く凛々しくカッコよく。この人になら自分のすべてを託しても問題ないような、そんな信頼さえも抱くようになってしまった。
――のだが。
「(なーんだかなぁ……)」
そんな自分の恋心に全く気が付かないのは如何なものか。
思わせぶりにデートへ誘って、こんな気合いの入ったお洒落をして、あまつさえ「あーん」なる行為すらやってのけた。確かに意識自体はしただろうけども、それでもグランの心までには届いてないのか、今でも平然とした顔でのんびりと歩いている。
少し不公平だ、とクラリスは憤る。こんなにも自分がグランに意識をしているというのに、グランは全くそういう気持ちを抱いていないのか。
それを考えると無性に悔しさがこみあげてきて――同時に、ちょっとした悪戯心も芽生えてきた。
グランに悟られないよう、にひひと小悪魔のような笑みを浮かべて、クラリスは――ぷらぷらと動いていたグランの手をそっと握った。大きな手だった。大きく、温かい。
「あ、えっ、クラリス?」
狼狽した様子のグランが上ずった声で訊ねてくる。
そんな彼に向けて、クラリスは平然とこう返した。
「寒いから手、つなご? こうするとあったかいし」
「う、うん」
「……へへ、グランの手、大きいね」
「そう? ……でも、クラリスの手は小さいな」
「そりゃそうですよー。クラリスちゃんは女の子ですからねー☆」
「あはは、それもそうか。……ありがとう。温かいよ、凄く」
「(……うぐっ)」
これだ。この笑顔だ。ずるい。本当にずるい。この嘘偽りない笑顔に何度落とされかけたか。
グランの心を揺さぶりかけようとしたのに、逆に自分が撒かれた罠に嵌ろうとしているのだ。勿論罠を仕掛けているつもりは当人にはないのだけれど、そういう天然気質な返しは駄目だと思う。
墓穴を掘ったような気がしないでもないクラリスはもう少し迫るアプローチを考え始めて――そして実行した。
握っていた手をふいに離し、空いていたグランの右腕に自分の腕をするりと通すと――
「く、ク、クラリス!?」
「あー、ごめん。やっぱ、手をつなぐより直接こうしたほうがあったかいかなー☆ なーんて……」
ぎゅっと。自分の身体を密着させるようにしてグランの腕に抱き着いた。硬く、がっちりとした筋肉を感じさせるグランの腕周りに自分の体重を預けて、もたれるようにクラリスは寄り添う。
傍から見ればそれはかなり恥ずかしい行為だろう。けれども仕方ない。グランを意識させるためには仕方のないことなのだ。
そう自分に言い聞かせ、へへへと口元をニヤつかせて笑うクラリスだったが――
「…………」
「…………あっ」
泣きそうなくらい顔を真っ赤にさせてこちらを見つめるグランを見た瞬間、クラリスは我に返った。
その刹那、自分が今何をしているのかを振り返って――心の中で大絶叫を放った。
さながらそれは瘴流域を超えて遥か彼方の空域に届かんばかりの勢いだった。
「(や、やりすぎたああああああああああああああああああっ!!?)」
いくら意識が向いていないとは言え、物事にも限度がある。
まして付き合ってもいない殿方にやるような行為とは到底思えない、完全に度が過ぎたそれである。
狼狽、緊張、興奮、そして後悔。
色めき立つ感情は波打ち際のさざ波からアウギュステのリヴァイアサン直伝ビッグウェーブへと変貌しクラリスに襲い掛かった。
「(うわ、うわっ、どどどどーしよどーしよっ!? ぐ、グランの顔近いし、からだっ、身体すっごい密着してるし! あ、でもグランいい匂いしてるし凄くあったかいし――ってそうじゃないっ!! な、ななな何やってんのさうちのばかぁ! こんなんガラじゃないじゃん! うち、こういうキャラじゃないじゃん~~!!)」
後悔先立たず。今更悔やんでも事態は収束どころか悪化の傾向さえあり得る。
けれども、混乱状態に陥った彼女に救いの手を差し伸べる人はおらず。当人たちの混乱をよそにして、まじまじと眺めてくる周囲にはさぞ恋人同士に見えたことだろう。
「(うううぅう……グランに引かれてなきゃいいんだけど……)」
さめざめと泣きそうな気持ちになりつつ、クラリスは爆発しそうになる心臓をどうにか抑え付けながらもグランとの散歩を続けたそうな。お互い顔を熟れた林檎のように赤く染め上げながら、ゆっくりとした足取りで街路樹の植えられた並木道を歩いてゆく。
◇
「さ、流石にもう恥ずかしいから普通に歩こっか!」と羞恥心に堪えられなくなったクラリスの一言で、再び肩を並べる距離で散歩を楽しむ二人。そんな折で、クラリスは何かないものかと周囲を見渡して――ふっと視界に入った露店に目を光らせた。
どうやら光物を取り扱う移動式の露店のようで、金銀様々な鉱石で加工されたアクセサリーが展示されていた。正直に言ってしまえば、何処にでもある装飾物が目白押しで少々物足りなさを感じていたクラリスだったが――そんな中、見つけた。自分の眼と同じ、翠色の鉱石を使った羽根模様のネックレスを。それを見てクラリスは歓喜の声をあげた。
「わぁ~! 見て見てグラン! これ、すっごくカワイイよ!」
「うん? ……へえ、良いデザインだね。お洒落な感じがするよ。……まあ、僕はそういうの疎いけどさ」
「はいはい自虐しないの! でもこれいいな~、カワイイし綺麗だし華やかだし……って、うげっ」
穴が開くくらいにそのネックレスを見て次に値段に目を落とすクラリスだが、その瞬間、女子としてどうかと疑うような低い声が出た。
法外な値段とまではいかないが、結構、いやかなり値が張る価格でそのネックレスは展示されていたのだ。慌てて財布でルピを確認するも、足りない。無計画にお金を使っていたわけではなかったが、翡翠色のネックレスは今回のデートで用意していたルピを余裕で超過していた。
さてどうすべきか。クラリスはその場で黙考する。確かに財布の中身は寂しいが、魔物退治でもして稼いでくれば何とか購入できるレベルだ。
しかしそれには問題も発生する。一つは折角のデートなのに魔物退治にグランを付き合わせるということ。折角遊びに出向いたのだ。それをしてしまうと、流石にムードも何もあったものではない。二つ目はこの露店が移動式なのもあって、無事に資金を集めたとしてもこの場から離れてしまう可能性があるということだ。取り置きという手段もあるにはあるが、他の買い手にこれより高い値段をつけられてしまったら意味がない。
さて、どうするか。と、難しい顔でネックレスを凝視していたクラリスだったが――
「――ラリス、クラリス?」
「うーん……うん? あっごめん! グラン、どうかした?」
「いや、さっきから難しい顔でそのネックレス眺めてたからさ。……それ、欲しいの?」
「えっ、えっとー……その」
「…………」
「……はい。欲しい、です。でも、今手持ちがですねー……」
「ああ、お金がないのか。仕方ないな……」
そう言ってグランは露天商を営むドラフ族の男性に声をかける。
翡翠色のネックレスを指さしたグランを見て、クラリスは驚嘆の声をあげた。嬉しさと同時に申し訳なさがこみあげてくる。
「え、ぐ、グラン!? そんな、悪いよ! だってそれ、高いし!」
「いいって。欲しいんだろ、このネックレス。この行商の街は何度も来れるところじゃないし……それに今日くらいは僕も男を見せないとな。ジータからも、こういう時くらいはお金使ってもいいって許されてるしさ」
そう告げてグランは爽やかにはにかんだ。
いつもなら「ラッキー☆ありがとー!」で済むのだが、今回ばかりは金額が大きすぎるのと、好きな人からのプレゼントという点が組み合わさって喜びと動揺が同時にクラリスへと襲い掛かる。
嬉しい、凄く嬉しい。けれどもその感情を上手く言葉に乗せることが出来なくて、
「あ、ありがと……」
わざとらしくしおらしく、そっけない感じでお礼を言ってしまう自分に頭を抱えた。
どうしてこうなんだろう。もっと、いつも通りに、むしろいつも以上に返すことだってできるのに。
どうしてこんな、好きな人の前だとこんなに臆病者に、逃げ腰になっちゃうんだろう。
そうこうしているうちに、ドラフのおじさんからネックレスがグランに手渡された。
そのネックレスを今度はクラリスに手渡そうとするグラン。
「はい、ネックレス。どうする? 早速つけてみる?」
「あ、うん。そうしよっか。えと、それじゃ……」
「?」
「その……グランがつけて、ネックレス。うち、後ろ向いてるからさ」
それだけ告げて、クラリスはくるりと背を向けた。ポニーテールに纏めた後ろ髪をそっと手で上げて、邪魔にならないように避ける。オレンジ色の髪に隠れていた白いうなじが見えて、グランが静かに息をのんだ。
ぴんと張った首筋の美しさがクラリスの女の子らしさを強調していて、油断しきっていたグランには少々刺激が強すぎる光景が映っていた。硬直していたグランにクラリスはちらりと後ろに視線を向け、
「……ね、早く」
妙に色香のある声でそう急かしてきた。慌ててグランはクラリスの後ろ首に手を回し、そのネックレスをつけようとした――のだが。焦るあまりクラリスの透き通る肌にグランの手が触れてしまった。
唐突なる指の感触にクラリスはびくん!と身体を跳ね上げる。
「ひゃんっ!?」
「ご、ごめん! 結構難しくってさ」
「う、うちこそ変な声だしてごめん。じ、じっとしてるね」
口元を押さえて「本当に変な声出ちゃった……」と恥じながらもグランの不慣れなネックレスの装身を待つ。
わたわたとしながらもようやく着け終え、冷や汗をかきながらグランが大きな息をついた。その間に目をつむっていたクラリスはふっとその眼を開け、自分の胸元に目を落とす。そこには翡翠色の羽根が装飾されたネックレスが確かにあった。
「(――グランにプレゼントしてもらって、グランに、着けてもらった……)」
その事実を鑑みるたび、胸の奥がじんと熱くなるのが分かった。熱いけれど、温かい。
胸いっぱいの幸せは先程の喫茶店での比ではない。寒冷が巡る外気を物ともしないくらいクラリスの体温は上がっていた。
とくとくと聞こえてくる拍動は珍しく変わらないリズムを律していて、落ち着いた心で今この時を迎えている。
あたふたしていたさっきまでとは打って変わって、自然な態度でいることが出来た。
きゅ、っとネックレスを掌で軽く触り、クラリスはくるりと振り返った。
そして――いつもとは少し違う、控えめではあれども、素直な気持ちを表した言葉を――その小さな口から静かに伝えた。
「ありがと。嬉しい、すっごく嬉しいよ。ずっと――ううん。一生、大切にするね」
◇
「――なんだ。あの恋愛クソザコ生娘、結構進展してんじゃねぇか。オレ様が出る幕もなかったか――と思ったけど、やっぱりダメだな。まだ勢いが足りん。むしろ、押し倒すくらいしないと話にならん」
「……あの」
「そうだな、押し倒してから今晩辺りに既成事実でも作ってもらわんとな。まあ、グランならオレ様が唯一、世界で唯一認めた男だし? 相手があの娘ってところを踏まえても優秀な遺伝子が形成されるだろうと信じている。そうなりゃ後はこっちのモンだ」
「あの」
「親子二代でオレ様が徹底的にシゴキ回せば祖先も安泰よ。オレ様以上は無理だろうが、常人以上超人未満レベルの高みに到達すれば、少しは名の知れた奴等だと後世にも伝えられるだろうしな。オレ様みたいに」
「あの」
「そのためには、やはりオレ様が助け舟を出してやる他しかないか。末裔の世話も楽じゃあねェな――って。さっきからしつこいし鬱陶しいんだよ!! 誰だか知らんがウロボロスの餌にされてェの、か……」
「探したよ、カリオストロ」
「さ、エリクシールを盗んだ言い訳を聞かせて。場合によっては――そのスペアボディを粉々にした後、血煙にしてやる」
――ジョブチェンジ:カオスルーダー。
ゆっくりペースですがもうちょっとだけ続きます。次回は五月中に投稿予定。