ついに来るべき瞬間が来てしまったか。
その女はそんな風に、すべてを諦めた。
数年前まで、ある教会で聖女と崇められていた彼女は、突如その場を追われ、逃げた先で悪魔に捕まった。すべてが悪魔の策略だったと知ったのは、悪魔に捕まった直後のことだ。悪魔の口から直接語られた。絶望する自分の顔を、悪魔はたまらないといった様子で見ていた。
そこからは凌辱の日々だった。犯され、奪われ、穢され、苦しめられ、嬲られ、痛めつけられ、壊され、また犯された。その繰り返しだった。
悪魔に従順な振りをして、大人しく彼の欲望に従った。その方が痛くなかったからだ。悔しかった。苦しかった。情けなかった。だが、それ以上に恨めしかった。なぜ、あれほど祈りを捧げた神様は自分を助けてくれないのか。
最悪なことに、自分は最初で、最後ではなかった。自分と同じように、聖女や聖騎士の少女が何人も悪魔に捕まり、犯された。彼女には何もできなかった。彼女には、自分と同じ苦しみを受けている者たちの痛みをほんの少しだけ肩代わりして、ほんの少しだけ優しく抱きしめることしかできなかった。神に祈る自由さえ奪われて、涙を流すことしかできなかった。それでも、死にたくなかった。生きていたかった――神の身許に行くことができなくても。
そんな日々も終わる。悪い意味でだ。
自分達の『ご主人様』である悪魔が、行方を捜していた標的が見つかった。教会で癒しの聖女として扱われていたが、悪魔の策略により教会を追放になった少女だ。堕天使に拾われた後の行方が不明になっていた。被害者が増えることは悲しかったが、何かできるわけもない。心も身体も、この悪魔への恐怖で抵抗を許さない。
彼女は悪魔に同行する形で目当ての少女を発見したのだが――少女の傍には赤い軍服を着た女がいた。
罠、というわけではなかったのだろう。少女が軍服の女と一緒にいたというよりは、少女が軍服の女に連れ回されていたという様子だった。
街外れで、二人きりになったところで接触したのだが、軍服の女は悪魔を確認するなり、こう叫んだ。
「殺菌!」
悪魔はすでにボロボロだ。教会の戦士が使用する光の剣や光の銃もなしに、手刀やピストルだけで上級悪魔をここまで追い詰めたのだから恐れ入る。さぞや高名な戦士に違いない。
地を這う悪魔は現状を否定する。
「う、嘘だ! ただの人間なんかにやられるはずがない! 悪魔祓いでもない人間が僕の相手になるはずがない! 僕はアスタロト家のディオドラなんだぞ!」
「そうですか。今後の予防のために、その名前は覚えておきます。消毒!」
銃声が鳴り響く。自分たちを犯してきた悪魔がようやく死んだ。だが、悪魔の被害者である元聖女にとってそれは救いではない。その証拠に、軍服の女は銃口を向けてくる。そして、一切の容赦を感じさせない声で、一切の妥協を許さない態度で、通告してきた。
「貴女は病気です」
悪魔を病原菌呼ばわりするところを見ると、おそらく悪魔祓いだろう。あそこまで悪魔を嫌悪しているのだから必然だ。はぐれ悪魔祓いかもしれないが、結果は同じだ。悪魔として殺されて終わりだ。せめて相手が男ではなかったことは幸いか。
だが、軍服の女は彼女の予想とは全く違う言葉を投げかけてきた。
「これから治療を開始します。しかし、ここでは不衛生です。近くに病院があるのでそちらの手術室で行います」
「……え?」
呆然とする彼女に、軍服の女は相変わらず銃口を向けたままだ。だが、まだ発砲する様子はない。引き金から手を放す様子もないが。
「聞こえませんでしたか? これから、貴女の体内にある異物、『悪魔の駒』を摘出します。大人しく治療されなさい。患者に抵抗されると治療は進みません」
「え、えっと?」
「お願いですから、先生の言うことを聞いてください。先生はやると決めたらやる人なんです」
悪魔の目当てだった少女が警告するように告げてくる。
写真で姿を見ていたが、随分と印象が違う。教会で聖女として大切に扱われた箱入り娘と聞いていたが、それには似つかわしくない狂気じみた精神の強さを感じる。間違いなく、この軍服の女の影響だろう。
「ある方々の協力の下、先ほどのような害獣が媒介している病原菌を駆除し、貴女たちのような病気を治す手段を確立させました。問題ありません。リハビリが必要ですが、この治療法には後遺症もありません」
その言葉を否定しようとした。『悪魔の駒』は体内から取り出せるようなものではないはずだ。取り出したなんて話は聞いたことがない。極々一部の例外を除いて、死んだ場合にも体内の駒は消滅するはずだ。自分達が人間に戻れるなんて都合のよい話はない。そうやって軍服の女を振り払おうとした。
「貴女たちは病気です」
軍服の女は淡々と繰り返す。
「人間は昼型の生物です。夜の方がコンディションが良いなど不自然です。祈りを捧げれば頭痛がするなど有り得ません。人間にそのような生理機能はありません。繰り返しますが、貴女たちは病気です。自覚はないでしょうが。病気の根源は、その身体にあるチェスの駒の形をした異物です。それを摘出する手段はすでに確立しています。治せるのならば、病気は治療しなければなりません」
軍服の女は断じる。『悪魔の駒』とは恐れるべき病原菌だと。
「以前駆除した害獣は死者を復活させる奇跡だと嘯いていましたが……強制的であっても延命行為であることは認めます。しかし、引き換えに発病してしまえば治療ではありません。まして、病人に過度な労働までさせる始末。死者の肉体を冒涜する病気に他なりません」
やはり、一切の妥協もなく一切の容赦もないが、そこには強い信念があった。人を救いたいという、救ってみせるという、聖女だった頃の自分よりも確かな信念が。
「その病気、迅速に治療すべきです」
もしも、軍服の女の言うように、『悪魔の駒』を摘出できるというのならば。転生悪魔が人間に戻れるというのならば。自分よりも先に救ってもらいたい子たちがいる。
「わ、私はどうでもいいんです……」
彼女は祈る。昔のように祈る。頭痛がしても祈る。神にではなく、目の前の女に祈る。手を合わせて、祈るしかなかった。
「だ、だから、助けられるなら、どうか、あの子たちを助けてください! あ、あの子たちは悪くないんです! お願いします! あの子たちを、助けてあげてください!」
泣きじゃくる元聖女に、軍服の女はやはり淡々と告げる。
「私が嫌いなものは、治せない病気と治ろうとしない患者です。治りたいという意志があるのなら、私たち医師は決して患者を見捨てません。貴女も治りたいという意志を偽るのは戴けません。治療しますから、本音を言いなさい」
彼女は軍服の女の目を見た。必然、目が合う。そこに偽りなどない。そこに弱さなどない。眩しいほどの意志が宿った瞳が、彼女を貫く。それでも、一抹の不安がある。また裏切られるのではないか、騙されているのではないかと。
「私たちを、助けてくれますか?」
「安心なさい。私は貴女たちを助けます」
この軍服の女こそは、あらゆる看護士の祖。すべて毒あるもの、害あるものを絶つ女。軍人さえ恐れた軍医、小陸軍省。鋼鉄の看護婦。クリミアの天使。近代看護教育の母。あの戦場の兵士たちは、ランプの貴婦人と呼ばれた彼女の影にキスをしたとさえ言われる。
フローレンス・ナイチンゲール。狂的なまでに、人を救い続けた女性。
「貴女たちを殺してでも、私は、必ずそうします」
優しさだけでどうにかなるほど、人を救うのは簡単ではない。本当に必要なのは強さだ。
■
俺――兵藤一誠の日常ではおかしなことばかり起こる。悪魔に転生してからそんなことばっかりだ。
まず、アーシアのことだ。あの道に迷っていたシスターさん。結局、あの教会のことは分からないままだ。元気かなぁ。あのレフって男が今となっては怪しい。もしかしたら、教会の関係者だって言っていたのも嘘なんじゃないか。敵らしき人間を見逃したってことで、部長から怒られた。悔しい。
次に、部長の婚約者についてだ。純血の上級悪魔だって言うけど、あんな種まき野郎の焼き鳥なんて、高貴な部長に相応しくない! 眷属でハーレムなんて作ってやがるし羨ましい……じゃなくて、結婚しても部長を蔑ろにするに決まっている! 部長の両親も、何で部長が嫌がっているのに結婚させようとするのか分からない。上級悪魔には上級悪魔のルールがあるんだろうけど、部長の気持ちを考えてくれてもいいのに。
でも、あの焼き鳥野郎との婚約については破棄できる可能性があるんだ。ちょっとした騒動で延期になっちゃったけど、部長と焼き鳥野郎でレーティングゲームをするんだ。勝ったら、部長はあの焼き鳥野郎と結婚しないでいい。学校に通いながら、眷属の皆でトレーニングもしている。
それから、俺の神器だけど、
でも、眷属の中だと俺は一番弱い。部長や朱乃さんは純粋に強い。子猫ちゃんみたいなパワーもなければ、木場みたいなスピードもない。
で、特訓もするために放課後の部室に来たんだけど、部長が不機嫌だった。同じ眷属の木場に理由を聞いたんだけど、こいつにも緊張感があった。
「この間の教会の拠点襲撃事件は知っているだろう?」
「ああ」
部長と焼き鳥のレーティングゲームが延期になった原因だ。
何でも、神サイドの大きな派閥であるカトリック、プロテスタント、正教会の重要な拠点が襲われたんだってさ。しかも、犯人は不明。なぜなら、襲撃してきたのが全部何らかの魔術で一時的に召喚されたモンスターだったからだ。倒したらすぐに霧みたいに消滅したそうだ。
モンスターの姿は、獣人や骸骨やゴーストみたいなメジャーなものから、ワイバーンやゴーレムみたいなレアなモンスターまでいたんだって。巨大なヒトデやヤドカリまでいたって話だ。一体一体は大したことがなかったみたいだけど、数が多かったんで教会側は大打撃。天使まで出撃する騒動になったんだ。
教会は犯人捜しに躍起になっているんだけど、犯人は悪魔か堕天使だって思っているみたいだ。まあ、神の敵だったらそのどっちかだから当然だよな。でも、悪魔じゃないと思う。もし悪魔の仕業なら、部長のお兄様である魔王サーゼクス・ルシファー様が許さないからだ。それに、数が少なくなってきた悪魔に戦争をする意味なんてないと思うんだ。だとしたら当然堕天使なんだけど、総督は関与を否定しているそうだ。でも、俺を殺したレイナーレがいるのが堕天使だったんだ。信用できないぜ。俺の勝手な印象なのかもしれないけどさ。
部長の話では教会側の自作自演の可能性があるって話だったけど進展があったんだろうか。
「七十二柱の跡継ぎが殺害されたんだ。おそらく、あの騒動の報復としてね」
「なっ! ど、どういうことだよ!」
犯人はまだ分かっていないって話だったのに。それとも、悪魔だっていう証拠が出たんだろうか。
「犯人はまだ分かっていないよ。でも、教会側の一部が悪魔の仕業だと判断したのは間違いないだろうね。殺害されたのは、現魔王アジュカ・ベルゼブブ様を輩出したアスタロト家のディオドラ・アスタロト氏。眷属も全員行方不明だそうだ」
七十二柱の跡取りってことは、部長やライザーくらい強い悪魔ってことだ。それも魔王の血縁者! それが殺されたってことは確かに大事だ。でも、何で部長が不機嫌なんだ? 木場の口ぶりからして親しい仲だったってわけじゃなさそうだけど。
「教会側は関与を否定しているそうだけど、この間の意趣返しという意味だろうね。それで、魔王様から部長に強制帰還の命が出るかもしれないんだよ」
「そ、それって部長が冥界に帰るってことなのか?」
「うん。人間界だと護衛もつけにくいからね。その場合、僕たちも冥界に行くことになるだろうね。場合によっては学校はやめて、冥界の学校に通うことになるかもしれない」
「そ、そんな!」
俺には難しいことは分からないけど、これだけは分かった。誰かの悪意が、俺たちの日常を壊そうとしているって。
■
「オリアスより報告。フローレンス・ナイチンゲールは想定以上の成果を出している。ただし、目立ちすぎだ。すでに魔王の血族さえ処分している。これでは我らの存在が聖書の勢力に露呈しかねない。管制塔は何をしていた。彼女の制御は管制塔の担当だったはずだ」
「プルソンより抗議。あの女の痕跡を消すのにどれだけ苦労していると思っている」
「レラジェより反論。我らとしても、あのバーサーカーの行動は予想外である」
「クロケルより提案。やはり英霊の力など借りるべきではない」
「グシオンより反論。我らは人間の動機を知っただけだ。人間になったわけではない。我らの計画に我らの想定外の欠損がある可能性を考えれば、英霊の視点は必要だ」
「ウァサゴより提案。ならば次の召喚は触媒を用い、確実に協力体制を築ける英霊を呼ぶべきだ」
「覗覚星九柱を代表してアモンより途中経過を報告。情報室および観測所からの情報を元に考察を重ねた結果、我らの計画に多大な影響を与える事象の可能性が浮上した。確証を得るためにも、より確実な証拠が欲しい」
「フォカロルより提案。やはり三大勢力の上層部に接触すべきだ」
「ビフロンスより反論。まだ時期ではない。最低限、覗覚星の証明が終了するまで待つべきだ」
「ゲーティアより決定。覗覚星の結論次第で、計画を次の段階に移行する」
「ウァプラより報告。極東、日本、京都にて我らの世界のキングゥの存在を確認した」
「ストラスより疑問。我ら以外にも、あの世界よりの来訪者があると解釈して良いのか」
「オセより解答。その可能性は高い。我らが復活した原因が不明である以上、そう考えるのが妥当だ」
「バアルより要請。万一の可能性を考慮した場合、私はこれ以上の恥辱と恐怖に耐えられない。統括局よ、戦闘許可を」
拙作では『そういうこと』でお願いします。何が『そういうこと』なのかは分かる人だけ分かってもらえれば。詳しい理由と一緒に次回あたりに投稿します。
アンケートを活動報告でしていますので良かったら見てください。