暖かなそよ風を受けながら、此れが講義中に吹いていたら何人が寝落ちするだろうか、等と下らない事を思いながら志蔵の目を見る。睫毛の長い、大きな目を数回瞬かせると、軽く咳払いをしてから話を再開した。
「さて、右側に対して左側。此方は貴方に不都合な出来事や、敵対するモノを現しているわ」
左。不吉や不運、不浄を現し、時としては死や悪なども現す六合の一方。左前や左手の敬礼など良くない印象が多々あるものだ。そんな左側の
其の中でも割合具体的に描かれている荒野の紙札を指差して、僕は志蔵の目を見る。彼女の青みがかった灰色の瞳に、一瞬だけ僕の姿が映る。其の一瞬、水面の様に瞳が揺れたが、直ぐに真っ直ぐ僕を見つめ返してくる。
「……荒野の紙札ね。これは比較的説明が簡単で助かるわ」
そう言った彼女の手の中には、何時の間にか荒野の紙札があった。まるで、
「何か不愉快な視線を感じたのだけど……」
「気のせいじゃないか? それより紙札の説明をしてくれよ」
此れで良い。真実を語る事が常に正義とは限らないのだ。何故なら真実は時として残酷で、嘘の方こそ優しいのだから。僕は志蔵を傷付けたいとは思わない。だからこそ詭弁を振るおう。真実を語らず虚偽を騙ろうじゃないか。そうする事でしか彼女を護れないのだから。
「気のせいだとは思えないのだけど……まあ、いいわ。貴方の戯言に付き合っていたら日が暮れそうだし」
失敬な。今まで僕の名前を呼んだ人間は3人以上いるし、全員ちゃんと生きている。勿論、孤島で首なし死体に遭遇した事もない。ツッコミ所が違うって? 気にしない方が良い。戯言だからな。
僕の
「荒野というものは安全で愛らしい庭園と対概念となるもので、錯乱し広大で危険で畏怖すべきものとされていて、敵対し試練を与えるもの。貴方の行先の困難さを現していると思われるわ」
志蔵は一度言葉を区切ると、僕に荒野の紙札を見せてきた。成程、分かってはいたが、恐竜、アンデット、岩石の攻撃力と守備力を上げる物では無いらしい。因みにアンデッ
しかし、考えてはみたが、其処までして僕が事の真相を追うだろうか? 正直な話、僕が自ら進んで危険な事に首を突っ込む所は想像し難い物がある。僕は其処まで好奇心旺盛ではないと思うのだが。
僕は内心で首を傾げているのだが、志蔵は構わず話を続けた。
「次に、赤と白に塗られている紙札ね。色のイメージとしては
まあ、当たり前と言えば当たり前だろう。僕に敵対ないし、不利益を
「赤と白。日本人ならお
源氏と平家の話は僕でも知っているな、確かスポーツの紅白戦の由来だった筈だ。共産主義と資本主義は露西亜革命だったか? そう言われてみれば、戦争に関する色の組み合わせとも言える。
「
敵意、闘争、そんな普段の僕の生活からかけ離れた言葉に知らず知らず冷や汗をかく。波風立たぬ生き方をしてきた僕は、諍いになる程の敵意を向けられた覚えは殆ど無いし、闘争どころか喧嘩すら滅多にしない。その喧嘩ですら、妹達と小学生の頃に取っ組み合いの喧嘩をして以来である。
不安を隠しきれない僕の様子を、志蔵が窺うように見てきたが、僕は問題ない事を伝えて、続きを聞くために居住まいを正した。其れを見た志蔵は赤白の札を置き、紫と赤の札を手に取った。
「紫と赤の紙札、これは比較的単純ね。赤と紫の共通の心象は欲求不満よ」
「……欲求不満」
僕の呟くような一言に、志蔵が侮蔑的な視線を向けてくる。どうせ僕が下世話な想像をしていると思っているのだろう。まあ、否定は出来ないが。しかしだ、欲求不満という言葉を聞いて食欲、睡眠欲、物欲に対する不満よりも性的欲求に対する不満を想像してしまうのはうら若い男児としては一般的ではなかろうか? 此の飽食の時代に空腹に対する不満を慢性的に持っている人間はいないとは言わないが、一部だろう。睡眠も余程劣悪な環境にいなければ、最低限はとれるだろうし、物欲に関しては人
……と言葉にしても良かったのだが、今以上に冷たい視線を向けられる事は、火を見るよりも明らかだったので自重する事にした。こう言った話題においては、常に男性は女性と比べて弱者なのである。
「……まあ、赤も紫も性的な
そういって溜め息を吐く彼女の瞳からは、侮蔑の色は抜けていない。どうやら志蔵は下ネタが嫌いなようだ。しかし、下ネタが無いと退屈な世界になってしまうと思うのだが……まあ、其ればかりと言うのも問題があるし、要は
「この札からは抑圧された欲求、そして解決と現状維持に対する強い
「僕がその状態に陥るのか?」
「そうかも知れないし、他人がそうであるかもしれない。いずれにせよ、貴方が解決しないといけない問題に違いはないけれどね」
欲求不満と
其れが赤の他人であるならば、見捨てるという選択肢もとれるだろう。しかし、若し其れが友人ならば、家族ならば、見知った人間ならどうだろう。きっと僕は見捨てられない筈だ。其れが今日出逢ったばかりの志蔵であっても、僕は見捨てられないだろう。彼ら彼女らの力になれるのであれば良い。僕なんかが手を貸すことで事態が好転するならば、幾らでも手を貸そうではないか。偽善的と言われても構わない。寧ろ、偽善である事を肯定しよう。此れは僕が僕である為の利己的な行為なのだから。
まあ、今は考えても仕方がない事だろう。考えても仕方が無い事は考えない様にするとは渡の言であるが、此処は其の主張に乗っからせて頂こう。
「左側最後の紙札はこの黒の札ね」
僕が考え事をしている間に志蔵が赤と紫の札を置き、黒の札を手に取っていた。
「これが一番難しいわ。黒単色は意味が多すぎるもの。寂寥、底辺、虚無的、悪、暗闇、陰気、拒絶、恐怖、脅威、極限状態、孤独、死、絶望、沈黙、不安、不気味、不吉、冷酷……ただ漠然と
「単純に黒幕の存在を現していたりするかも知れないな」
「
……志蔵もあの漫画好きなのかな? 後で聞いてみよう。言いたい台詞が言えたからか、何処となく満足げな志倉の表情を見ながら僕は話の続きを促す。
「とにかく、危険なことには変わりがないから気を付けてね」
随分と
「これが、最後の紙札ね」
そういって志蔵が手に取った紙札。
「黒の紙札が黒幕を現すのだとしたら、その札は何を現すんだ?」
僕の疑問に、志蔵は直ぐには答えなかった。少女の紙札をじっと見つめ、気を落ち着かせる様に一つ息を吐いた。
「これは恐らく、
「到達点?」
「そう、
僕の進む道全てが紙札の少女へ続いている。左右進退全ての道が紙札の少女へ続いている。いや、
つまりは、先程の自ら関わる関わらないという疑念を抱いていたのは全くの無駄で、どう足掻いても関わる羽目になってしまうらしい。ならばと思い僕は立ち上がった。
「そうか、だったら僕は明日から動いてみるよ」
そう言った僕に対して、志蔵は目を丸くしてみせる。
「正気? 危険と言った筈だけど」
「正気も正気さ。むしろ逃げる事の方が危険だろう。逃げて心構えの無い内に巻き込まれるくらいなら、自分から腹を据えて向かって行った方がましだとは思わないか?」
「なによそれ……」
志蔵が呆れた様に溜め息を吐いた後で、柔らかく微笑んで見せた。所謂、『やれやれ、仕方ないな』の流れである。そんな主人公的仕種をした彼女は、足下から取り出した手帳の
「これ、私の連絡先。何か困った事があったら力になるから」
震える手で、笑顔の志蔵から手帳の切れ端を受けとる。此の気持ちを何と呼べば良いのだろうか? 愉悦、恐悦、享楽、狂喜、嬉々、歓喜、感謝、感激、感動……男児に産まれて苦節二十余年。僕は生まれて初めて、家族以外の女性の連絡先を手に入れたのだ。そう、僕は、志蔵から連絡先を貰って嬉しかったのだ。
「いっっっっっ…………よっっっっしゃあぁぁぁぁっっっっ!!」
女性から連絡先を貰っただけで、
気持ち悪い物を見る様な目で志蔵がドン引きしているが、些細な事だろう。何せ、今日初めて会った美人の連絡先が、僕の携帯電話に登録されるというのだ。此れ程の喜びが此の世界に何れだけあるというのだろうか? 恐らく片手で数える程であろう事は想像に難く無いと思われる。天に拳を突き上げ、直立で涙を流す僕。今にも「我が生涯に一片の悔いなし」と叫び出しそうだ。
「そんなに喜ばれると、女冥利に尽きるとかそれ以前に、普通に引くんだけど……」
普通に引かれてしまっていた。しかし、そんな些細な事を気にする僕ではない。気を取り直す為に咳払いを一つしてから、志蔵に向き直る。
「一つ、質問してもいいか?」
「……いやらしいことじゃなければ」
「しねえよ! 僕を何だと思っているんだ!」
全くもって遺憾である。真の紳士たるこの僕が、そんなセクハラ染みた事をする訳が無いじゃないか。
「……志蔵、君のその占いは『異能力』によるものか?」
志蔵が息を飲む気配が伝わる。どうやら正解のようだ。
――『異能力』。読んで字の如く、普通とは異なる
「…………そうね、そう呼ばれている能力よ」
やはりそうか。まあ、普通に考えれば白紙の紙札に絵が浮かぶというのは少々奇妙だ。志蔵は手先が器用だから
「面白い能力だな」
「……え?」
「いや、未来の情報が絵となって浮かび上がってくるというのは、中々に面白い能力だと思ってな。占い師としては最高の能力じゃないか?
僕の言葉に志蔵は、少しの間ポカンとした表情を浮かべていたが、急に可笑しそうに笑い始めた。
「貴方、変な人ね。普通は不気味に思うものじゃないの?」
「生憎と
そう、
僕の名前は西緒維新。始めに言った通り異能力者だ。僕の持つ
「志蔵、最後に一つだけいいか?」
「何かしら?」
「『カードがウチにそう告げるんや』って言ってくれないか?」
志蔵が僕に冷めた視線を向けるが、直ぐに打ち消して悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「だが断る」
……それは残念だ。
七話にして漸く『異能力』という言葉が出てくるこの小説は、間違いなく文スト二次創作としては異質だと思いました。(小並感)