翌日、一、二時限の講義を終わらせた僕は街に繰り出していた。耳にイヤホンを嵌めた儘、駅前や繁華街を出来るだけゆっくりとした
大して情報は入らないだろうと高を括っていたのだが、意外や意外、結構な数の噂話を耳にする事が出来た。
街中に現れる人食い虎、川を流れる男、車を片手で持ち上げる少年、良く当たる占い師、悪人を作り出す井戸、ポートマフィアの凄腕暗殺者、街中で忽然と姿を消す人達……
正直な所は何れも眉唾物なのだが、前述の通り、噂話や都市伝説と言った類いでは信憑性等よりも話題性や娯楽性の方が重要なのだ。更に、此れらの話は人と人との間を渡る伝言ゲームだ。其処には情報の齟齬や勘違い、聞き間違い、時には悪意や好奇心など意識的無意識的に関わらず尾鰭は鰭が付く。今日聞いた話もそうなのだろう。
そんな様々な情報の中、僕が気になったのは此の噂話だった。
『横浜連続暴徒事件』
僕達の住む此の横浜で起きている事件だ。今の今まで普通に生活していた人間一人が、
さて、ニュースでも流れている様な事件の何処に僕が気になる要素があったかと言うとだ。噂話ではこう語られていた。『此の事件には黒幕がいて、何れ横浜市民全員を暴徒とする計画の予兆である』との事だ。そう、所謂陰謀論である。将に典型的な都市伝説と言えるではないか。
然も、世間を揺るがす事件として最近では報道で見ない日は無い程の大きな事件だ。インターネット上でも噂されているに違いない。つまりは情報が得やすい。此れは楽な課題になりそうだ。勝ったなガハハと笑い声を上げそうになるのを堪え、小さくガッツポーズを取ると、近くに座っていた占い師の女性と眼が合った。
一言で言ってしまえば美人だった。強気そうな目付きも、白く澄んだ肌も、赤がかった長い茶髪も、全てが彼女を此の世界において確固たる存在として固定する為に神が指示したと言える様な美人だった。彼女と僕の間に強い風が吹く。春特有というよりは都会特有の高い建物から吹き返す風が、薄紅を伴う事無く只駆け抜けていった。其れは、端から見れば何かの一枚絵にも見えた事だろう。――まあ、僕が絵になる様な容姿をしていない事は認めよう。僕は普通で普遍で凡庸な、一般的な見た目をしている。だから、飽くまでも
暫く見つめ合っていた僕達だが、女性の視線が怪訝な物に変わるのを見て、僕の方からゆっくりと目を逸らし、小さく掲げていた拳も下ろした。
「何か良いことでもあったの?」
将か声を掛けられるとは思わなかったので、少し驚きつつも視線を彼女に戻す。しかし、其の台詞は何やら奇妙な感じがするな。金髪でアロハなオッサンが言いそうな台詞だ。若しくはツンデレ娘やツインテ娘、百合っ娘や前髪ちゃんなどの人達が其の台詞に
急に声を掛けられたので、上手く反応できずにいると、彼女は少し首を傾げて見せた。ぐるりと背面まで回るように傾げて見せる訳ではなく、普通に、小さく傾けた。何故だろう、今日は随分と声が出しにくいな、まるで昨日から全く声を出してないみたいだ。そんな事は無い筈なのだが……。
「占い師って、ちょっと見ただけで分かるものなんですか?」
「いやいや、ガッツポーズを取ってたら誰でも分かるでしょ」
確かに其の通りだ。
呆れた視線を受けながら、彼女に近付いてみる。白いブラウスに赤いネクタイ、
占い、卜占、命・朴・相。人の運勢や未来、心模様を見透し、助言を授け、より良い方向へ助け導く行為だ。古くは政治等にも大きく関わっていた物で、国や集落の中心に占い師がいたり、亦は、其の主導者自身が占い師である事もあった。一般的には女性が関心を持ちやすく、雑誌やテレビ等で簡単に其の時の指針を示す物もあれば、街頭や店舗で直接占って貰い相談する物まで様々である。僕自身は占いに強い興味を持っている訳では無いが、其れでも朝のテレビでやっている占いで良い結果であれば気分は良いし、悪い結果なら複雑な気分になる事は否めない。きっと此れは僕だけに当てはまる事では無いのだろう。其れだけ、占いという物が世間一般に浸透している証拠である。さて、暫く此の占いに関する考察を続けても良いのだが、此れ以上続けると僕の知識不足というか、底の浅さみたいな物が露呈してしまいそうなので此処らで締めさせてもらおう。気になる人は自分で調べてみる事を推奨する。
今日一日続けた所為で、すっかり癖になってしまっているゆっくりとした歩調で彼女の前に立つと、躊躇うことなく眼前にある椅子に腰掛けた。
別に占って貰う訳では無い。こうして街中で占いをしている位だから、件の噂について何か知っていないかと思ったのだ。けして、彼女の見かけにつられて話したくなったとかでは無い、けっして無い。
「占いかしら?」
「いや、少し話がしたくて」
「……ナンパ?」
彼女の訝しむ様な視線に慌てて首を振る。彼女位の見た目になると、ナンパ紛いの輩も少なく無いのだろう。紳士で真摯な僕としてはそう言った奴等と一緒にされるのは心外なのだが、彼女から見れば差異は無いのだろう。だから僕は、単刀直入に用件を伝える。
「『横浜連続暴徒事件』の噂について調べているんだが、何か知ってはいないか?」
此れで少しは警戒が解けるかと思われたが、彼女は訝しむ様に細めた目を鋭く光らせ、睨み付ける様な表情に変わった。
「調べて、どうするつもり?」
彼女の凛とした声が僕の耳朶に響く。冷たく、澄んでいて、其れでいて綺麗な其の声は繊細な硝子細工みたいだと思った。例えるならば、自分の胸の成長に悩む孤高の歌姫みたいな声だ。少し伝わり辛いだろうか、まあ良いか、先日も言ったが、僕は特別アイドルに詳しい訳ではないし。
「大学のゼミの課題なんだ。巷の噂や都市伝説なんかを調べて、考察を纏めるっていう」
「……そう」
僕の説明に、彼女は少しだけ表情と語調を和らげる。張り詰めていた空気が少し弛緩するのを感じながら、僕はさらに彼女に声を掛けた。
「で、貴女の名前は?」
「噂はどうしたのよ、関係ないじゃない。やっぱりナンパなの?」
「いやいや、地の文でずっと彼女彼女と代名詞ばかり使ってたら、何だかゲシュタルト崩壊を起こしそうでさ」
「……何の話?」
再び怪訝な表情になる彼女。前述の八割は当然冗談で、名前を教え合う事で少しでも
「そうだな、自分から名乗らないのは失礼だな。僕の名前は西緒維新だ。東南西北の西に内緒の緒、繊維を新しくするで西緒維新だ」
「……はあ、志蔵千代丸よ」
呆れた様な、若しくは諦めた様な声で名乗った彼女は志蔵千代丸というらしい。しかし、千代丸か……女性にしては少し珍しい名前だ。そう言えば志蔵には女性にとって必須と言えるもの、おっぱいが見当たらないな。若しかして男という可能性も……。
「……貴方、何かとてつもなく失礼な事を考えてない?」
「い、いや、けしてそんなことはない。女性にしては珍しい名前だと思っただけだよ」
嘘は言っていない筈だ。敢えて口にはして無い事はあるが。そんな僕を志蔵は、じっとりとした疑わしい物を見る様な目で見ていたが、やがて先程と同様の溜め息を吐いた。
「本名じゃないわ。仕事用の……源氏名みたいなものね」
源氏名。本来の意味としては源氏物語に因んで付けられた名前という意味で、現代では水商売や性風俗関係の職に就いている人の偽名として使われる言葉だ。更に其処から転じて、訳あって本名を名乗れない場合の偽名といった形で使われる事も多い。占い師という職に偽名が必要なのかどうかは分からないが、何か事情があるのだろう。僕が其処に踏み込む理由も権利も義務も無いので、深くは聞かない事にする。人間誰だって聞かれたく無い事はある物だしな。僕みたいに真面目に誠実に正直に生き続けるのも難しいものだ。
「それで、志蔵の歳は幾つなんだ?」
「え? 二十三だけど……」
「歳上かあ……呼び捨てやタメ口はまずいかな」
「いや、私はあまり気にならな……ちょっと! 本当にナンパじゃないのよね? さっきから関係ない話ばっかりじゃない!」
志蔵が声を上げるが、僕は気にしない。こうして関係なさそうな話をする事で話しやすくするのが目的だ。……さっきから僕は何故言い訳みたいな事を言っているんだろうか? まあ良い、気にしたら負けだ。誰に負けるのかは良く分からないが。
先程から通りすがる人達が、僕らのやり取りを奇妙な物を見るかの様な目で見ているが、僕は気にする事なく目の前の志蔵に話し掛け続けるのだった。